似合うとらしさの考察
スーパーナチュラルハイテンションズ
ちょっと今から、似合う論っていうのをやろうかな。
似合うとは何か?
その人らしさ。
でも唐突に言わせてもらうけど、確かに水野さんにナンパっていうことって似合わないとは思います。
それを承知の上でナンパをしてるってことは、僕はすごく水野さんに肯定します。
それは水野さんらしさだと僕は思います。
見てないことに対してもあえてぶつかっている。
ぶつかっているってことは、僕は水野さんらしさで完結してますね。
それを水野さんが幼少の頃から知っている人間だと、確かにらしさじゃないと。
やっぱり幼少の頃から積み重ねてきた気質とか行為って、今の自分に全部凝縮されているわけですよ。
だから朝川さんがらしくないと思ったことも、やっぱりそれは僕の今までの過ごし方に影響していると思うんですよね。
朝川さんが感じ取っている。
でもね、そういうふうな話を振り返ってみると、自分の枠からはみ出るというか、コンフォートゾーンを取り出すっていうね。
それができているってことは何も大抵じゃないと思う。
だから水野さんの話をずっと聞いてきて、今この話をして、
僕は水野さんらしくない、ナンパをしている水野さんがらしく思って、すごいことだと思うの。
それを自分が納得できるかどうかじゃないかなと思うけどね。
少し目線を上げるっていうか、俯瞰するみたいな感じじゃないですかね。
らしくないことをやっている自分。
らしくないことをするのが自分らしさ。
それはありがたい。
でもそれが似合うかどうかって言われるとまたちょっと違うよね。
らしさっていう面で言うと、僕は水野さんがナンパしているのはすごい水野さんらしいなと思うのね。
中村新進のセリフ分析
似合うかどうかって言ったら、確かにぱっと見の印象っていうのは似合わないかもしれない。
もどもしとか、喋り方とか。そういった第一印象で見て、ナンパってちょっと似合わないかなって確かに思う。
なんか、らしさとか似合うってことを考えるときによく思い出すのが、前大豆田トワコとスタキナリオボットのドラマの話をしたじゃないですか。
そこの第7話か何かで岡田まさき演じる中村新進がトワコに言ったセリフがすごい印象的なんですよね。
中村新進がどういう人物かと前提として話すと、めちゃくちゃ理屈っぽくて、自分の感情、素直な感情を表現するやりがてな人。
挨拶って言いますかとか、お土産って言いますかとか、人が社交的にやっていることに対してもいちいちイチャモンつけてみたいな、結構めんどくさい人物として描かれるんですけど。
その中村新進が松田カコ演じる大豆田トワに屋上でワイン飲みながら。
ありましたね。
ありますよね。
神コップですね。
言った言葉なんですけど、やっぱり僕は君のことが好きなんだと思う。
僕は焼肉を好き、でも焼肉は僕のことを好きじゃない。そういう意味で。
片思いってこともめちゃくちゃ周り独特っていうセリフがあって、それに対して大豆田トワはどうしたのらしくないって言うんですよ。
確かにそれまでドラマを見ていた視聴者からしたら、あの中村新進がこんなことを言えるようになったんだ。
もちろんいろいろ経験を積んでて、6話までのいろんな出会いがあって、中村新進は変化してるわけですけど。
そのらしくないことをあえて言う。
らしくないよって言われた時に中村新進が、自分らしくて好きな人に好きって言えないんだったら、自分らしくないほうがいいみたいな。
自分らしくないことも続けてるうちに、自分らしくなっていく。みたいなことを言うんですよ。
僕そのセリフが一つそのらしさのある種の結論だなって思っていて。
要はそのらしくないって、それまでの積み重ねがないってことだと思うんですよね。
例えば僕がナンパをする。
それがなんで似合わないかっていうと、ナンパをするっていうことを人に納得させるような気質とか行動っていうのを今まで積み重ねでなかったから、人かららしくないと言われるんですよ。
これが例えば、ナンパをずっと続けていったら、それを見慣れた人にとってはいつも通りだねってなると思うんですよね。
だから結局時間の積み重ねの問題でしかないんじゃないかっていう部分もあるし、
ナンパの心理と社会的視点
時間積み重ね、これから積み重ねていけばそれもらしくなるみたいな話でもあると思うんです。
似合うって普通に考えると、人から見られる客観的に似合うかどうかって評価みたいなのがあって、
まず自分にとっての主観的な似合うかどうかってあると思う。
あともう一つ考えられるとすれば、そこに精神的に落ち着くかどうかだと思う。
しっくりくるっていう感覚。
しっくりくるっていう感覚だと思うの。
例えばさっきのシンシンの話でいくと、
自分がらしくないと言われたことが、人からとって魅力的に見えるか見えないかって言われると、
多分魅力的に、中村シンシンの場合は、らしくないことが魅力的に変わるわけじゃない。
その根底にあるのって、
例えばその人の本質に対して正直になれたかどうかだと思う。
それが精神的なところに僕は関わってくるのかなと思う。
ああ、そういうことか。
って僕は思うのね。
そうですね。
紳士の中にはトワコのことが今でも好きっていう偽らざる気持ちがあって、
それを抑えつけてたのが、その抑制がなくなって初めて素直に表現できるようになった。
そうそうそうそう。
紳士の中にはもともとあったわけですよね。
もともとあった。
それは、例えば相手がどう思うということではなく、
僕は本当にどう思われてもあなたが好きなんだっていう。
その分かんないけど、無意味なこと。
無意味で言葉に出してもしょうがないようなこと。
それでも伝えたい気持ちがある。
そこに、例えば自分がらしくなくても言葉を発したときに浄化するというか。
それはそうかもしれない。
ある行為とかある行動が他人から見てらしくないって思われるかもしれないけど、
それが、その行動が、その人が抑えつけてた感情を浄化するという場合は、
すごいいいことだと思うんですよね。
いや、いいことだと思いますよね。
素直に表現できるようになった。
そうそうそうそう。
だってやっぱり、人からの評価って多分いろいろあると思うから、
それこそ僕がみなさんをナンパしてるのはらしいと思うけど、
友達はそれをらしくないというわけじゃないですか。
それを言葉変えて似合う、似合わないというふうに考えると、
友達は似合わない。
僕はそういうスタイルはすごく似合うと思うので。
なので、そこは人によって評価は違う。
でもブレないのは、やっぱり自分がそれに対して似合ってるかどうかっていう。
そのやってる行為に対して、自分の精神が安定するかどうかだと思う。
似合わないと思ってナンパしてるんだったら、それはただの苦痛でしかないから。
彼氏は修行みたいな感覚で、実質苦痛なんですよね、ナンパしてるのに。
ただ、どう考えても、これは本当にいろいろ考えて、
自分に必要なんだなって。苦しいけど必要なんだなって。
一応根拠付けみたいなのは僕の中にはあるんです。
もともと街で見かけた自分のタイプの人に声かけれない。
例えば同じ街に暮らしてるのに、人と人とが無視しあってるみたいな風景に見えるんですよね、今って。
お互いに関わらないようにしてるみたいな。
そこに対してすごい疑問があって。
例えば恋愛の出会いにしても、人が出会うための場を作ってもらってそこで何とか見つけるみたいな。
マッチングアプリとか婚活とかする。
そこに違和感みたいなのもあって、やってる部分があるんですよ。
理由づけはあるけど苦手っていう部分ですかね。
だからより人から似合わないって言われた時にぶれやすくなってしまうのかもしれない。
ナンパっていうものって大前提として、
例えば似合わないよ、ナンパは似合わないよっていう、
友達がナンパは似合わないって言った時に、その人が思ってるナンパの前提が全然違うじゃないですか。
僕は水野さん、僕ナンパしてるんですよって言った時に、
水野さんの人柄を見て、ナンパもこういう風なナンパなんだろうなっていうのは分かるんですよ、なんとなく。
だから違和感があんまりないっていうか。
その人のナンパ。
だから水野さんがナンパをやってるってこと自身に、
自分のなぜナンパをやってるかっていうことがちゃんとナンパに現れてれば水野さんらしいと思うんですよ。
あーそういうことか。
行為そのものじゃなくて、そこに自分を注ぎ込んでる。
そうすると行為のかけ方と違うわけだって。
ナンパって言われても難しいけどね。
ファッションと自己表現の探求
一番誤解されやすいアクティビティーではある。
アクティビティー。
ヘイネーチャーみたいな感じに思われちゃう。
そういうわけじゃないじゃないですか。
全く違うと思うんですよ。
今納得したって話で。
終わり。
今はなんかすごい浄化されちゃったな。
なんかやっぱ本読んだんですよね。
ちぐはぐな体っていう。さっきお見せしました。
似合う似合わないね。
それはファッションについての話なんですけど。
服ってやっぱり似合うらしさと直結してるじゃないですか。
服はその人の生き方をバランスしてると思うんですよ。
その人のパーソナリティが全部出てると思うんですよね。
っていうところからファッションっていうことを考えていた。
ちぐはぐな体っていう本を読んでたんです。
今日最初話そうと思ってたのは、
なんでらしくないことを人はするのかっていうことを
ファッションに当てはめて考えられないかなって思ってたんです。
で、ちょっと本の中からそれに類することを話すと。
ファッションがいつから始まるのか。
人の一生で。
それはおそらく人から着せられた服。
例えば制服とか学生服を着崩すところから始まるんじゃないか。
っていうことをこの本では言ってる。
要は幼少期ももちろんいろんな服着てるけど、
それは親に着せられたものになる。
その後学校に入ったら、
学校が着せてくれる服を着てるだけになって。
ただその人から着せられる服っていうのは、
絶対に個人のイメージについて
ある種の社会的な規範を縫い付けられている。
制服だったらこの学校の所属である。
あるいはスカートとか。
女性らしさのサイズに。
それを着崩すことによって
押し着せられた社会的規範から脱出するのが
ある種のファッションの試みなんじゃないかな
というふうに聞かれています。
面白いね。
面白いね。
そこまで考えたことなかったね。
ただ着崩すと
それが必ずしもかっこいいとか
似合ってるというふうには見られない。
むしろ違和感に見えることがある。
それは何でかっていうと
着崩してる人は
どこまで着崩せば
自分のらしさっていうのを実感できるのかを
試してるみたいなことを書いてあるんです。
どこまで行けば人から気持ち悪いと思われないかとか
どこまで行けば自分が心地いいと思えるかとか
そういったことを右に左に行き来しながら
そのぶれの中で
自分らしさっていうものを捉えようとしている。
それがファッションなんだっていう
ことを書かれていて
そのファッションっていうのを
そのままある活動とか行為に
変換した時にも
同じことが言えるのかなってちょっと思ったんです。
似合うを巡る思索
要はらしくない行動。
人からこういうキャラクターはこうあるべきって
思われてる行為を
きくずすことで
別のことをあえてやってみるとか
らしくないことをあえてやってみることで
そのぶれの中で
自分らしさっていうのは
輪郭として
生まれてくるっていう
浮かび上がってくるっていう
部分がある。
でもそういったさ
自分らしさってさ
人にどう思われるかっていうところに
そんな執着しなくてもいいのかなって思うんだよね。
今の話聞いてると
常にその似合うって
第三者の視点のような風に聞こえたの?
そうですね。
それで本当にその人
証言しようとしているその人本人の
気持ちってそれで余るのかな?
もちろん人の評価で
例えば似合うね、かわいいね、おしゃれだねって言われれば
気分は上がると思うんですよ。
でもそれがずっと
その人の気分を上げ続けるものなのかな?
どこかでやっぱりそれに満足できなくなる
自分も言いますよ。
だからやっぱりマインドってすごく大切だと思うんだよね。
人から何言われようが自分はこれでいいんだ。
で、人はそれをかっこいいと思うことだってあるわけじゃないですか。
ある意味、らしさを巡る
悩みって
その人からどう思われるってことと
自分はこれがしっくりくるとか
等身大って思われている
自分から抜け出したいっていう
自分の欲求との
衝突っていうか
人は似合わないって思うけど
俺はどうしてもこれやってみたいっていう
そのせみぎ合い自体が
なんていうのかな
ファッションなのかなっていう風には
ちょっと思うんですね。
よくさ、あの人はかっこいいなとか
ブレないなって言われる人って
やっぱり自分がやろうと思っている
表現していることと
やっている行動が一致している
人だと思うんだよね。
心と体。
ファッションなんかそうだけど
自分の心、マインドを
ファッションという形で表現すれば
やっぱりかっこいい人だなって思われると思うの。
だから僕どこまで言っても
やっぱりその人のマインドなのかな。
やっぱりかっこよく見られたいっていう
マインドをそのまま
ファッションに落とそうとすると
雑誌を見たりとか
やっぱり美しいって何なんだろうっていうことを
やっぱり表現、体験していくと
それずっとやってたら
なんか疲れるような気もするしね。