9月14日、“くいしんぼうの日”に食の神様に愛されすぎて爆誕した私が、ただただ食への愛とおさまらない食い意地を発散させてます。
変でごめんー!だけどみんなと食欲わかちあいたい!ほんとポッドキャスト感謝!これなかったら私の食欲の発散場所なかったよ!!!!!ありがた祭り!
音声とか聞きにくめなところ多いですがまだ成長段階なので🤱やさしくみまもってね🦷
食べ物に愛を伝え、食への情熱を仕事に、、、という野望をこめてお届けします。職業食いしん坊として生きてくぞ〜。ちなみに本業はわーいでのんきなクリエイター「もしもし五島列島」です。よろしくね(圧)
Instagram https://www.instagram.com/illustwaai?igsh=MXU1ZGdiaWFxdnVnbA%3D%3D&utm_source=qr
食い意地ラジオみてね↓
https://lit.link/kuiizi
番組の魅力・推薦
生のエビ寿司は18禁だから、サラダエビが本物のエビ寿司だと錯覚させられてたのか〜
「生エビは18禁のパンティーということと、朝の固形石鹸贅沢」 本当は納豆と魚のあらが大好物なのに、本心を「ハンバーグ」でカモフラージュしています。ぴえん。 📌 今回のトピックス • 「好きな食べ物ランキング」の偽装工作本当は納豆と魚のアラを愛しているのに、世間体と口臭とイメージ通りになりすぎた「自身」を気にして「ハンバーグ」や「焼き芋」を差し出しています。。。 • 魚食べコンテスト・日本代表の自信評価基準が「食べた後の骨の少なさ」なら絶対優勝。コラーゲンたっぷりのブリブリした部位を愛し、骨までしゃぶり尽くすその特技は、もはや食育センターか水産庁とのコラボ案件お願いしたい。 • エビの正体は「18禁のパンティー」であるサラダエビという「緩衝材」の安全地帯を抜け、生のエビの透明なプリプリ感に出会ってしまった衝撃。その美しさと官能性は、子供にはまだ早い。18禁コーナーに置かれるべき、魅惑の「赤エビ」論。 • 中華料理屋の「記憶消去」卵スープとろみで口の中を火傷させ、その後の味の記憶をすべて奪い去る中華屋の戦略。でも安さとアラジンのように広がる卵の不思議な魔力に、私たちは今日も屈してしまう。 • 固形石鹸(フリーズドライ)と春雨の贅沢な出会い朝から最高級のフリーズドライ卵スープに、春雨を投入する「成功者の朝食」。しかし、スープのキャパシティを超えた春雨が水分を吸い尽くし、ただの「増えすぎた物体」と化す、幸せな計算違い。
愛とおもてなしをかたちにしたスーパー、ビッグバリューからのラブレター(勝手な解釈)と、振る舞いの精神
地方創生を語る前にバリューへ行って、地方で圧倒的に愛されること、必要な存在になることを学んでほしい」スーパーから届いた、名前入りの手書きの手紙。2倍パスポートという名の「尊いお守り」。ビジネスの正解は、効率の良さではなく、この「読みにくいほどの熱量」にあるのかもしれない。スーパーから届いた「手書きという名のラブレター」生産者各位への、びっしりと綴られた16行の感謝。タイパ重視の現代で、手書きで、ペンを握るスタッフ一同の「意地」に、打ち合わせ前の全細胞が震えた。「ご機栄」を音読する朝の儀式肝心の1行目が読めなくても、その太いペンの跡から「おめでとう」の熱気だけは伝わってくる。立春の候、ますますご機栄。この読解不能なまでの想いを、私は毎朝の教典として音読することに決めた。「18周年」という、絶妙に愛おしい数字20年でも30年でもない、18周年を全力で祝うバリューファーム。地元の食材で温かいものを「振る舞う」という、見返りを求めないパーティーの形。これこそが、私が目指すべき「一生懸命」の到達点だ。確かに、毎日が記念日ってよく恋愛ドラマとかでも言ってるもんね〜名前入りパスポートは「お守り」であるクーポン大好きな私を悩ませる、名前入りの2倍パスポート。使えば手元から消えてしまう。でも、使わないのも失礼……。この葛藤こそが、バリューと私の「相思相愛」の証。最初の2行は、今の私にはまだ解読できない。でも、それでいいのだと思う。文字が読めることよりも、その文字を書こうとした人の「指の疲れ」や「インクの匂い」を感じることの方が、ずっと豊かだ。東京に「バリュー愛」を直送したい還元できることが何もないと嘆くより、東京で「バリュー直送お惣菜パーティー」を開きたい。投げ銭でもチップでもなく、ただただ「このスーパー、やばくない?」と色紙を埋め尽くすほどの愛を語る場所を。「生産者あってこその、地域密着」その自覚をゴシック体で堂々と掲げ、18年という月日を「一重に皆様のおかげ」と言い切る。ローカルに根付いて愛されまくるバリューの姿勢は重く、鋭く、そしてどこまでも優しい。私はこの手紙を毎朝音読する。この手紙をいただけた感謝を表現したい。私がバリューに返せるのは、きっと「成功して恩返しする」ことよりも、バリューのようなマインドで、目の前の一人ひとりに「温かい何か」を振る舞い続けること。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
ざっくりサトちゃんちゃんといるよ(さっくりはしてないけど)&塩おにぎりをこのむゼット世代なんなのー、オムライスおにぎりだろ🟡🟥
• オムライスおにぎり、絶滅の危機?ハッピーな社会の指標だった「オムライスおにぎり」が消えつつある恐怖。世はチャーハンおにぎり一色に。パラパラであるべきチャーハンを無理やり固める不条理。私はオムライスの、あのポップなオレンジ色を求めている!• Z世代の「塩おにぎり」ミニマリズム色のついたおにぎりを選ぶ私を横目に、同世代が選ぶのは真っ白な「塩」。それは諦めか、それとも「引き算の美学」に早くも気づいた賢者の選択か。海苔さえも「歯への執着」を恐れて排除する、ストイックな食卓。• おにぎり「おしとやか」・パン「ポップ」期の到来おにぎりがシンプルへ向かう一方で、菓子パン界隈はコーティングに詰め物、シュガーまぶしとデコラティブの極みへ。この「炭水化物のバランス調整」こそが現代の歴史なのかもしれない。• 昭和の魂を持つ、4頭身の私金八先生を愛し、思想が完全に昭和。おにぎりはカラフルな「ポップ」を求め、パンには顎が疲れるほどの「素朴な硬さ」を求める。時代の流れと逆行する私の味覚は、生まれ落ちる時代を間違えた証拠かもしれない。最近もトレンディドラマみてる、さいこー• 「さっくりさとちゃん」伏線回収の散歩道お墓の前で思い出す、あのデニッシュパン。まさかの母との「聖地」共有。さっくりしてないのに「さっくり」、フランソワなのに「さとちゃん」。矛盾だらけのあのパンが、今もスーパーにあるという奇跡。『真っ白なキャンバスに、ケチャップの夢を。』最近のコンビニおにぎりの棚を見ていると、なんだか経済まで暗くなっている気がしてならない。かつて、そこには「オムライス」という名の小さな祝祭が並んでいた。雑穀米やもち麦という「正しさ」もいいけれど、私はもっと、不健康なほどにポップなオレンジ色の塊に救われたいのだ。周りのみんなが「塩おにぎり」という最小限の価値に気づき、ミニマリストとして完成されていく中で、私だけが取り残された昭和の子供のように、色のついたご飯を欲しがっている。海苔が歯に付くことさえ、食べ物が自分に執着してくれているようで愛おしいのに、今の世の中はあまりに「清潔で、静か」すぎる。母と歩いた散歩道で見つけた、さっくりさとちゃんの記憶。名前と食感の不一致、ネーミングの強引さ。それこそが、今のスマートな社会が忘れてしまった「人間味」ではないか。さっくりしていない「さとちゃん」を、しっとり、ねっとりと噛み締めながら、私は思う。時代がどれだけ「塩」へ向かっても、私はこれからもケチャップの色と、顎が疲れるほどの硬いパンを愛しつづけるし、ざっくりさとちゃんがさっくりしてないことも見逃し続けて手に砂糖まぶし続けるよ。
好きな食べ物ってコソコソ言わなきゃいけない話なんだね& 枝豆の殻の数は、理性の数である
好きな食べ物を聞くだけで、なぜこれほどまでに心が洗われ、そして自分の「汚なさ」に悶絶することになるのか。レジン作家(小4女子)と枝豆の賢者(中1男子)に教わった、真の「愛」の形をお届けします。 好きな食べ物は「秘密の告白」お母さんに耳打ちしないと言えない、小4女子の好きな食べ物。それは今の食卓への配慮か、それとも自分を形作る「核」を明かす照れくささか。安易に答えていた自分を恥じるほど、そのコソコソ声は尊かった。 枝豆を「3粒」で止める中1の聖人「好きな食べ物は黄緑色」。その答えが目の前の枝豆だと分かった瞬間、大声で正解を奪った私の「つまらない大人」感。しかし、彼は好きだからこそ、独占せず、みんなに分け、たった3粒を慈しんで食べた。脳なしで食い尽くしてきた私への、静かなる説教。 白ご飯の概念を問う、アバウトな三択「ご飯、唐揚げ、ラーメン」。三択の一番目に「ご飯」を持ってくる哲学的なセンス。白ご飯のこと?と聞かれて「うーん」と悩む彼女の姿に、私は安易な二択にできなかった自分の想像力の乏しさを反省した。 人類の義務教育「唐揚げ→ラーメン」の法則小4で唐揚げからラーメンへ推しが変わる。この遍歴は、もはや人類の勤め。やがて高校でセットになり、大人になって「しっとり感」や「酢豚のフルーツ」という掛け合わせの深淵にたどり着く。私たちはみんな、この道を歩んできた。 レジンの透明感に、汚れた心を洗浄してクイズに正解して(奪って)もらった、子供たちの手作りレジン。この透明な塊を持ち歩くことで、私はかろうじて「汚い大人」の暴走を制御できている。レジンブームの生みの親に、最大級の感謝を。『三粒の枝豆と、透明な御守り。』私はいつから、好きな食べ物を「即答」するような、つまらない大人になってしまったのだろう。枝豆を目の前にして、殻の山を築くことしか考えていなかった私に、あの中1の男の子は教えてくれた。本当に大切にするということは、無限に扱わないこと。みんなで分け合い、一粒一粒を「形跡」として愛でることなのだと。小4の女の子が、お母さんの耳元で囁いた「唐揚げ」と「ラーメン」その移ろいゆく季節のような好みの変化を、彼女は一生懸命に自分の心に問いかけていた。白ご飯というアバウトな選択肢の中に、彼女が何を見ていたのか、私はもっと丁寧に想像すべきだった。子供たちが作るレジンのキーホルダーは、私の汚れた自意識を浄化してくれる御守りだ。これを持っている間だけは、クイズの答えを先に叫ばない、枝豆を無心で貪らない、そんな「少しだけ綺麗な大人」でいられる気がする。唐揚げからラーメン、そしてその先の多様な味覚の旅へ。私も彼女たちのように、一口の幸せを耳打ちしたくなるような純粋さで、もう一度「食」と向き合いたい。まずは、次に会うときのお土産のカップラーメンを、彼女がキラキラした笑顔で受け取ってくれるように、全力で予習して選ぶことから始めよう。
世の中にもっとおかあさんコミュニケーションが増えますように!残ったものは全部持って帰らせて⭐︎
【「会食前の牛丼ルーティン」を卒業させてくれた日への感謝】ワークショップの講師として行ったはずが、気づけばお母さんのような温かな愛に包まれ、煮豚の卵に「大人の階段」を見出した中村の幸せ報告です。• 「おばさん」ではなく「お母さん」政策呼び方に迷う関係性への終止符。たとえ、相手から「おばさん」と自ら名乗られても、お母さんと呼びたい。そして、人類みんなお母さんだと思えば、世界は愛で満たされるし、みんなのことをこどもだとおもっていただけたら最高です。世界平和ですという提言。• 食欲という名の野生 ―― 理性と煮汁の境界線大皿料理を前に、くいいじがとまらねえわたしは、1週間ぶりの食事かのような勢いで食べたくなる衝動。理性を保って「適量」で止めたはずなのに、目は「煮汁まで飲みたい」と叫んでいた。言葉よりも雄弁な「私の目」への深い反省。• 心を満たす「本物の塩おにぎり」と高級海苔の余裕会食前のいつもの虚しい牛丼ルーティンを救ったのは、手作りの塩おにぎりだった。常に焼き海苔がある家、子供が馬刺しを嗜む家庭のリッチな愛情。ワックスペーパーを敷き、紙袋にまで入れてくれる丁寧な「持たせ方」に、ホームパーティーの極意を学ぶ。• 煮豚における「味玉」という名の頂点肉にしか目がいかない子供たちを尻目に、味の染みた卵を尊ぶ。わさびを覚えた寿司と同じく、煮卵の「縁取りのある濃厚さ」に感動したとき、私は自分が大人になったことを確信した。• 土日の正解 ―― アリを愛で、キメの細かいカステラを想う仕事をせず、ただゆっくり歩き、花やアリに挨拶する。それこそが土日の作戦。赤ちゃん肌のようなキメの細かいカステラを手土産にする、そんな「キメの細やかな人」に私はなりたい。私の言葉は、いつも軽すぎて本心に追いつかない。「ありがとうございます」と言う私の声が、あのおにぎりの塩加減や、煮豚の卵の完璧な染み具合に対する感動を、1ミリも表現できていない気がして最悪な気分になる。可愛い柄のビニール袋をさらに、スタバの紙袋に入れられた、クラフトボックスのお弁当。その下に敷かれたワックスペーパー一枚の余裕に、私は本当の「リッチさ」を見た。将来、私も人を招くときには、こんな風に相手の心をおにぎりでパンパンに満たせるような、キメの細かい「お母さん」になりたい。会食という名の「食べてはいけない場所」向かう前に、手作りの愛を胃袋に詰めて挑む幸せ。
成城石井への怒り
• 成城石井への宣戦布告 ―― 150円の正体手にした12品目のサラダ。マイバスケットなら290円、成城石井なら450円。中身は同じ工場、同じ具材。この差額への怒りがどうしても収まらないけどまた同じことしそう。成城石井怖いよ。• 5%・10%割引の「微かな幸せ」レジで気づく「意外と安くなってない」という現実。でも、割引シールは節約のためじゃない。それを理由に「これ、買っちゃおう」と自分を甘やかすための、免罪符という名のエンターテインメントなのだ。• 人生を支えた「ボルシチ」の衝撃ロシア料理店で出会った、ボルドー色のスープ。成城石井は、そのマイナーな「血の色」のスープを、お惣菜として用意してくれている。水(スープ)にお金を払うという壁を越えさせる、ブランドの凄み。• 「もしもし成城石井」への改名案?ラベル一枚で人を狂わせ、高くても「やっぱり成城石井がいい」と思わせる圧倒的な存在感。イラストレーター「もしもし五島列島」を捨て、いっそこの強靭なブランド名に改名したいほどの敗北感と憧憬。• ソクラテスも驚く「無知のハッピー」知らない方が幸せだった。マイバスケットの正体を知らなければ、私は成城石井のサラダを最高のご馳走として立ち食いできていたのに。解像度が低いからこそ、駅の階段を登るだけで「F4の世界」のように楽しめる私の人生。成城石井の惣菜は、味や見た目だけではなく「成城石井で買っている自分」という物語を食べているのだと思う。工場が同じだと知ってしまった今、私の心はマイバスケットの冷たい現実に引き戻された。290円のサラダと、ラベルが貼られた450円のサラダ。160円あれば、美味しい牛乳がもう一本買えたはずなのに。けれど、ボルシチという「庶民には遠い異国の味」を身近に置いてくれる成城石井の優しさは、やっぱり捨てがたい。スープは水だ。けれど、あのボルドー色の水に150円余計に払うことで、私は日常の少し先にある「リッチな時間」を予習しているのかもしれない。知らないことは、最高にハッピーだ。バラのお風呂を知らなければ、銭湯の薬湯で王族の気分になれる。成城石井の「正体」を知ってしまった私は、もう無邪気な立ち食い客には戻れない。けれど、騙されていると分かっていてもなお、あのラベルが放つ「威厳」に抗えない自分も、また愛おしいと思うのだ。これからは、成城石井で買うときは「私は今、150円の夢をトッピングしている」と自覚しながら、背筋を伸ばしてレジに向かおう。
めんどくさいことは、「めんどくさい」とおもったときがいちばんめんどくさくないからそこのタイミングで
小籠包の「底」にある意地チュルチュルした蒸し小籠包への不信感を払拭したのは、ガリガリの「底」を持つ 焼き小籠包だった。それはまさに北海道の雪底ブーツ。食べ物を食べ物として守るための、丈夫な意志がそこ(底)にはあった。 「スープを先に飲む」という矛盾への提言「先に穴を開けて汁を吸え」という公式ルールへの違和感。スープこそが本体なのに、なぜ先に解体しなければならないのか。だけど酢好きとしては、小籠包をお酢を大量に摂取するための「器」にしてくれてるのはありがたぴ。 肉汁ビッシャー! 軸ブレ人間の悲劇他人の食べ方に気を取られた一瞬の隙。閉じるタイミングを失った口から放たれた肉汁の弾丸。お気に入りのジャンパーは犠牲になったけれど、それは「紙エプロン」という予習をサボった自分への報いだった。 「めんどくさい」は、今この瞬間が最小値自転車カバーと同じ。後回しにすればするほど、めんどくさいは成長し、巨大化する。「めんどくさい」と思ったその時こそが、人生のやり時。小籠包の汁を浴びる前に、私たちはエプロンを着けなければならない。 北九州の激渋居酒屋と「自分への酔い」知らない土地で一人、居酒屋の暖簾を潜るカッコつけ。中身が謎すぎる「10種類入り洋風お好み焼き」に困惑しながらも、テレビと喋る店員さんの余裕に救われる。カッコつける勇気が、新しい景色を見せてくれる。お客さんより店員の数が多くてそれゆえ、お茶を一口飲むと一口注いでくれるお店はいい店だ。めんどくさい、という感情には鮮度がある。その場でエプロンを借りれば一瞬で終わったはずのことが、断ったばかりに、ジャンパーの洗濯という巨大な「めんどくさい」へと膨れ上がる。自転車のカバーも、後片付けも、今やるのがいちばん!
ハンバーグの本質は、「肉のハナマサハンバーグ」に学び、準備の大切さは「キューピー3分クッキングに学ぶ」
エッセイ①:キューピーの三分間と、私の不時着人生私はこれまで、予習という言葉を辞書から消し去って生きてきた。教科書を先に読むくらいなら、現場で盛大に転んで膝をすりむく方が、よっぽど情報の入りが良いと信じていたからだ。しかし、この歳になってようやく「予習」という名のカンニングペーパーの重要性に気づき始めている。その代表格が『キユーピー3分クッキング』だ。大人はあの番組を「本当に3分で終わるか」なんていう、小学生の「うんこ」並みの低レベルな視点で見たりはしない。私たちが圧倒されるのは、あの3分のために費やされた狂気じみた事前準備の凄みだ。オープンキッチンでありながら、調味料一つどんぐらがしゃん(転倒)させず、汚れた姿を一切見せない。調理技術以前に、あの「散らかっていない」という一点にこそ、プロの腕が凝縮されている。Netflixの『白と黒のスプーン』に出てくる一流シェフたちもそうだ。キッチンが綺麗であればあるほど、料理は美味くなる。私は今、明日のハンバーグという不時着予定のフライトを前に、生まれて初めて「散らかさない予習」をしようとしている。しかし、15分かけて歩いて聞きに行った祖母の助言は「玉ねぎが好きなら生、嫌いなら炒める」という、味の真理をどこかへ置き去りにした「好き嫌いの二択」だった。おばあちゃん、私は美味しいか否かを聞いているのに。エッセイ②:肉のハナマサという名の衝撃と、繋がれたい愛私の自炊能力が壊滅的だった高校時代、お弁当という名の戦場を救ってくれたのは、コンビニの121円のチルドハンバーグだった。ひじき煮やきんぴらごぼうがその奥ゆかしい量で同じ値段をとる中、ハンバーグだけは圧倒的なボリュームでメインを張り、ご飯の上に虹(ふりかけ)を降らせてくれた。しかし、レトルトハンバーグへの概念を根底から覆したのは、肉のハナマサだった。2個入り298円という、この世のものとは思えない安さ。パッケージを突き破らんばかりの、大人の手のひらサイズ。一口食べれば、そこにあるのはレトルト特有の練り物感ではなく、脳内メーカーが「肉・肉・肉」で埋め尽くされるほどの圧倒的な肉感だ。島へのお土産にしたいと願うほど、それは私にとっての福音だった。世のグリルレストランはこぞって「牛100%・つなぎなし」を謳い、目の前で半分に切るパフォーマンスを披露する。しかし、私は声を大にして言いたい。ハンバーグは、繋がれていてほしいのだ。肉感だけを追求するならステーキでいい。ハンバーグに求めているのは、つなぎという名の優しさと、手ごねという名のカモフラージュされた愛だ。ふわふわとしていて、どこか霧がかかったような「モヤフード」であってほしい。結局、祖母のみかんジュースを飲んで帰るだけの予習になったけれど、私は知っている。明日のハンバーグが成功するかどうかは、玉ねぎの炒め具合でも肉の配合でもなく、最後にすべてを包み込む「ソース」が美味しいかどうか、ただ一点にかかっているのだということを。
ランチミーティングって何!?!二つもある耳ですら同時に同じことしか聞けないのに、話すと聞くは両立できません。口は一つしかないよ。飴のなめどきも難しくて舌をコインランドリーにさせる。
ランチミーティングなのに、ランチの食べどきがわからんくてパニックになる。私は要領が悪い。その代表格が「ランチミーティング」という、人類が生み出した最も残酷なシステムだ。ミーティングというからには話すべき大事なことがある。しかし、目の前には美味しそうなランチが並んでいる。私は一体、いつ噛んで、いつ飲み込めばいいというのか。「話す」と「食べる」を両立するのは難しい。口は一つしかないのに。そもそも、二つもある耳ですら、違うことを一度に聞けないのに、口がそんなに器用なことできるはずがない。もし、その日のランチのメインの一番デカい欠片を口に放り込んだ瞬間に、相手から難しい質問を投げかけられたら?せっかくのメインを急いで胃にウォータースライダーしなければいけなくなる。私は獲物を加えたまま巣に戻る親鳥、あるいは頬袋をパンパンにしたリスのような顔を晒しながら、白目を剥いて咀嚼を急ぐしかない。リスの顔でビジネスの核心を突くことなど、果たして可能なのだろうか。口の中を見せるといけないと思って片手を犠牲にすると、ナイフとフォークを使う食べ物だったらその作業をしてる暇もなく、口に入れる前準備もできずに余計にパニック。スープとて油断はできない。相手がよそ見をした隙に、器から直接ダイレクトに流し込めば時短にはなる。しかし、それがポタージュだった場合、器の縁に残る「流域の残像」が、私のガサツさを雄弁に語ってしまう。「噛む」という行為は、時に思考を妨害する。らっきょうをボリボリと噛み砕く音は、相手の大事な話をかき消すロードサイドの「バ〜ニラバニラ高収入〜〜」のような広告トラックのようなものだ。舌だけで粉砕できるほど柔らかい、「歯いらずフード」の高級肉だけが供されるミーティングに呼ばれる身分にならなければと、血眼に決意。あるいは、舌だけでヒレカツを粉砕できるほど舌の筋肉を鍛え上げ、フェイスリフトアップと効率的な咀嚼を同時に手に入れる。後者の方が現実味があるので、舌トレしよう。それこそが、ランチミーティングという荒野を生き抜く唯一のサバイバル術なのかもしれない。失われたチュッパチャップスと、コインランドリーと化すの打ち合わせ前の舌私は、飴という存在の魅力に、おそらく人類最高齢で気づいた女である。私の高校時代、世の中は「片手にチュッパチャップスを持って帰宅する」のが女子高生のステータスであり、全盛期だった。制服を着て、飴を舐めながらタピオカ屋に寄る。そんなキラキラした計画は、ベッドの上で過ごした私の暗黒の青春によって霧散した。私はチュッパチャップスを経験せぬまま大人になり、飴の食べ方を知らないまま社会に放り出された。先日、オンライン会議の5分前に、計画性を持って、さすがに会議前には舐め終わってると思い、飴を口に入れた。3分もあれば溶けるだろう。そう高を括っていた私は、形が丸ではない飴のタイプの執念を甘く見ていた。会議開始1分前、口の中にはまだ八割の飴が鎮座している。私は焦った。舌をコインランドリーの脱水機のように激しく回転させ、摩擦熱で飴を溶かそうと試みたが、飴は微動だにしない。結局、会議開始のチャイムと共に、私は涙ながらに飴を「ペッ」と吐き出した。飴デビューが遅すぎた私は、その造形によって溶ける速度が異なることすら知らなかった。予定の前に飴を舐めるなら、絶対に「まん丸」を選びなさい。これは、失われた青春の空白を埋めるために、必死で舌を回転させた女が辿り着いた、人生の教訓である。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
飲めない割り勘の不条理〜私は記憶と体力がある〜&兄弟そろっての天かす探り
📌 今回のトピックス 祝・飲み会卒業宣言!「行けば成長につながるかも」というファンタジーはもういらない。嫌いな人、よく分からない人に自分を削る時間は終了。これからは「好きな人と、騙さない系の本気ご飯やで」が新基準! ラブおばあちゃんと展示会の温度差「大学卒業」に号泣し、「渾身の作品展示」には薄いリアクション。そのあとのおばあちゃん待望の丸亀製麺。打ち立てマイスターの看板も虚しく、炸裂する「出汁へのダメ出し」をききながらおばあの分も丸亀啜る。天かすの山から「イカの端切れ」や「でかい塊」を発掘する快感。それは小さな欲張りだけど、人間の価値を左右する(?)瀬戸際の行為。これを兄弟揃ってガツガツやってることが判明し反省。ネギとワカメを山盛りにする自分と、どう向き合うか。 法整備求む!「割り勘の不条理」390円のソフトドリンク一択の私が、なぜビール5杯の彼らと同じ金額を払うのか。一滴も飲まないアルコール代を肩代わりすることへの「南無阿弥陀仏」は自分の機嫌を自分で取るための「賢い選択」なのだ。記憶が鮮明な朝に、昨夜の支払いへの後悔ではなく、食べたものの「美味しさ」だけを思い出せる贅沢を、私は噛み締めていきたい。
命削ってでもたべたいネオバタロールとリースサラダといういろんな意味でお花畑。けど幸せ
① ネオバターロールの沈黙 ―― アリも寄せ付けない楽園私たちは、時に知らんぷりをする天才になる。トイレットペーパーの芯が尽きそうなとき、ゴミ出しの袋をまとめるのが面倒なとき。そして、マーガリンという名の「トランス脂肪酸」が体に悪いと知ったときだ。アメリカでは禁止されている。アリすら見向きもしない。そんな物騒な噂を耳にしてもなお、私はネオバターロールの袋を開ける。あのヤドカリのような愛嬌のある形。その中心に鎮座する「生バター(実質はマーガリンだとしても、その響きは尊い)」が口の中でとろける瞬間、私の脳は一時的に麻痺する。休日の朝、このバターで頭をおかしくしてから見るプリキュアや仮面ライダーは、最高に面白い。彼らが戦う理由も、バターの背徳感の前では「美味しければそれでいいじゃない」という全能感にすり替わってしまう。母の「ネオバターソフト廃止宣言」という、わが家の健康革命に抗うために、かつての私は占いサイトに救いを求めた。スマホも図書館に行く知恵もなかった私は、ただ祈るように画面を見つめ、ネオソフトの安全を信じようとした。今はもう、命を削ってまで食べたいという切迫感はない。けれど、黒糖パンのあの深い茶色を見るたびに、私の家の愛犬を思い出し、あの禁断の「生バター」が喉を滑り落ちる快感を、密かに、かつ強烈に求めている自分に気づくのだ。② リースサラダのお花摘みと、蛍の墓の芋天ぷらかつて日比谷の地下にあるお洒落な店で、私は「リースサラダ」という名の虚像を注文した。お友達のパスタが確実な満腹を約束する一方で、私の前に現れたのは、中央に広大な余白を持つ「穴の開いたサラダ」だった。私はそれをお花摘みのように、葉っぱ一枚一枚を大切に摘み取って食べた。そうでもしなければ、その華やかなランチはわずか四口で終わってしまうからだ。添えられたパンを食べる際、私はこれ見よがしに提供された瓶入りのジャムとマーガリンを、限界まで塗りたくった。1,650円という高額なサラダへの、せめてもの抵抗である。店員さんが「全部食べきるわけがない」と思って用意した量を、私はケチくさく、かつ執念深く消費していった。その卑屈な食い意地の根源は、おそらく幼少期の「イモ天ぷら」にある。母が衣を食べ、私は中身の芋だけを与えられるという、まるで『火垂るの墓』の一場面のような食事風景。その切なさが、私を「芋だけならいくらでも食べられる体」へと作り替えたのかもしれない。今では母に芋を好きなだけ食べさせてあげられる大人になった。けれど、6枚切りの食パンを買えば一週間持て余し、冷凍庫で霜が降りるのを眺める日々。この「命削りフード」を街の人と分け合えるような、そんな優しいシステムがあればいい。ネオソフトとアヲハタのジャムを厚塗りしたトーストを、誰かと笑って分け合えるような、そんな穏やかな朝を私は今も夢見ている。
錦糸卵と、スカートのひだは、綺麗に、細かければ細かいほどいい。(タイトルキモ回ごめんだけど内容真剣です)
あんぱんの美味しさは、あの白ごまに100%込められていると、私は本気で思っている。薄皮粒あんぱんは別の話だ。あれはもう完成された球体なので議論の余地はない。私が言っているのは、昔ながらの、ちょっと乾いた表面のあんぱんの話だ。上に、白ごまが、ポン、ポン、ポン、と10粒くらい。多すぎない。少なすぎない。絶妙に「責任を負わされている数」だけ乗っている。あれを、最後まで残しておく。絶対に先に食べない。あんぱんを食べ進めていくと、最後に、ごまの地層(あんぱんの中心部分)に到達する。そこだけ、あんこのおいしさが明らかに違う。同じあんこなのに、同じパンなのに、なぜか、そこだけ、信じられないくらい美味しい。きっと、あそこに全部込めているんだと思う。パン職人の気合とか、人生とか、祈りとか。ざるそばの刻み海苔もそう。中心で、湿気を吸って、世界一居心地が悪そうに固まっている。(パセリも)あの、黒い密集地帯。あそこを、最後に、そばと一緒に流し込む。ラーメンの海苔もそうだ。最後の一口の麺を、海苔で巻いて食べる。あの瞬間のために、ラーメンを食べていると言ってもいい。のり系を最後に食べるせいで、結果、私は、いつも歯に何かついている。人生の大事な部分を最後に回収しようとする人間は、だいたい歯に何かついている。【私を救ってくれた錦糸卵の話】北海道の朝食バイキング。2700円。震えながら会場に行った。前日の夜ご飯の誘いを断って、抜いて、スクワットまでして、胃を空にして、完璧な状態で臨んだ。なのに、刺身は、冷凍だった。少しシャリッとしていた。しょっぱかった。世界が、静かに終わった。そのとき、錦糸卵だけが、味を持っていなかった。味を持っていないことが、救いだった。しょっぱくない。主張しない。ただ、うつくしいぴしっとしたひだで、そこにいる。錦糸卵が、私の絶望を中和してくれた。あれ以来、錦糸卵は、私の中で、主役になった。⸻多分、私は、少ないものを信じている。量が少ないもの。上に、少しだけ乗っているもの。最後まで残ってしまうもの。それらはきっと、「本当の部分」なんじゃないかと思っている。そして今日も私は、歯に海苔をつけたままずっとしゃべってる。
三つ葉なめちゃいかん!あんぱんも、あのごまが主役だから。ランチパックは縁が主役。
【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。【三ツ葉をなめていた話について】かいわれ大根とかよりなめてた。三つ葉のこと。親子丼の上にちょこんと乗っている、あの緑。茶碗蒸しの上に一応いる存在としか思ってなかった。大葉みたいに「俺が主役だ」みたいな顔も匂いもしないし、ネギみたいに「万能です」みたいな態度も取らない。三ツ葉はいつも、「別にいなくても成立しますけどね」みたいな顔をしている。だから完全に油断していた。だから、三ツ葉だけを食べた日の衝撃わすれられない!!味が立体だった。平面じゃない。立体。もっともっとみんな三つ葉褒めたほうがいいし、親子丼のうえにも茶碗蒸しにもあと50ばいくらいのっけなきゃいけないと思う。⸻こういう存在は他にもいる。あんぱんの上のゴマ。あの小さな点々の一粒一粒に、あんぱんの「完成」が委ねられている。ゴマがなかったら、あれはただの茶色い丸だ。ゴマがあるから、あんぱんは「あんぱん」になる!ゴマこそあんぱん!⸻パセリもそうだ。パセリを散らした瞬間、料理は「家のご飯」から「カフェ」になる。カフェ風ごはんというのは、パセリが乗ってるかどうかってだけ。味はほとんど変わらないのに世界観だけが変わる。パセリは、すばらしい演出家。⸻粉チーズも同じ。揚げ物に粉チーズをかけると、急に「イタリア」になる。さっきまで日本にいたはずなのに、粉チーズをかけた瞬間、地中海の風が吹き始める。粉チーズは、国境を越えさせてくれる。⸻そして、パン粉。私は気づいてしまった。カツ丼を食べている時、私たちは肉でご飯を食べているんじゃない。パン粉で食べている。あのふやけたパン粉こそが、ご飯を進ませている。パン粉は、もはやパンではない。調味料だ。⸻そして、ランチパック。あの縁。あの細い縁は、何のためにあるのか。これすごいよ。技術見せられてる。この細〜〜いティッシュちねったやつみたいな部分がご褒美。正直、中身がピーナッツなら、あそこまで閉じる必要はない。こぼれないのだから。なのに閉じている。あれは機能ではない。美意識だ。ランチパックは、パン界の製本なのだ。本を閉じるように、パンを閉じている。だからあれは、食べ物である前に、アートであり、「必要のなさそうなところまでちゃんとすること」を教えてくれる教科書である。⸻そして私は最近、理解した。本当に重要なものは、いつも少ない。三ツ葉は一枚。ゴマは数粒。銀杏は一個。パセリは少し。少ないからこそ、私たちは油断する。軽視する。なめる。でも、世界は、その「少し」によって完成している。⸻だから私は決めた。これからは、最初に三ツ葉を食べない。最後まで取っておく。世界を完成させる瞬間を、最後に残しておく。ちゃんと噛みしめてかみくだく。それが、具材への礼儀だからだ。
栄養ドリンクは「飲み物」として捉えてもポテンシャル高すぎる。おいしい牛乳戦法でみずから名乗っていきていきたいよね。
① 「美味しい牛乳」の自己暗示と、白に染まれない自意識世の中には「美味しい牛乳」という、あまりにも堂々とした商品名がある。あれはもはや食品ではなく、威厳に満ちた「洗脳」だ。自分から「私は美味しい」と名乗ることで、飲む側の味覚を強引に正解へと導いていく。その潔さに倣い、私も「賢い中村です」と名乗り続ければ、いつか美味しい牛乳現象が起きて、脳の語彙力不足も解決されるのではないかと夢想している。けれど、そんな強気な私にも、朝食バイキングという名の「牛乳の結界」がある。五島列島で育った私は、牛のミルク感を全身で受け止める「後藤牛乳」という野生の味を知っている。牛乳への愛は人一倍なのに、なぜか人前で牛乳を手に取るのは恥ずかしい。それは私が「牛乳を飲みそうなキャラ」すぎて、その期待を裏切ることも、全うすることもできない、中途半端な自意識の現れなのかもしれない。他の誰が飲んでいても気にならないのに、私が白い液体を飲むときだけ、世界が私のキャラを見定めているような気がして、結局コーヒーを手に取ってしまうのだ。② コーヒーの「頑張りメーター」と、茶色い不穏な予感最近、あんなに好きだったコーヒーが飲めなくなった。一口で「うぇっ」となってしまうのだ。かつて大学の課題に追われ、パソコンをパチパチと叩いていた「パチパチ族」の頃は、1日4杯は平気だったのに。今の私は、いい意味で人生を諦め、頑張る体力を使い果たしてしまった。すると体の中の「コーヒー受容体」がこう告げてくるのだ。「お前、最近頑張ってないだろ? コーヒーを飲む資格はないぞ」と。コーヒーからカフェオレ、そしてココアまでもが喉を通らなくなりつつある今、私は恐怖に震えている。もしこの「茶色いもの拒否」が食の方へ侵食してきたら、私の愛するハンバーグや唐揚げはどうなってしまうのか。巷では「油っぽくない」「使い回していない油」が高級とされるけれど、私は断固として「使い回しの油」派だ。スーパーのしなびた惣菜に宿る、あらゆるエキスが溶け込んだ複雑な旨味こそ、揚げ物の真髄ではないか。もし茶色いものが食べられなくなったら、私はカキフライの衣を剥いで、その中のブルブルした身の部分だけをスプーンですくって食べる、孤独な富豪になるしかない。③ 栄養ドリンクは「複雑怪奇なカクテル」である最後に、栄養ドリンクという名の「甘すぎる聖域」について提言したい。あれを薬コーナーに置くのは、もはや欺瞞ではないか。あの瓶の、戦時中の防空壕のような頑丈さは何なんだ。喉が乾き、栄養を欲している人間に、あんな硬い蓋を強いるのは拷問に近い。鞄の中でカンカンと音を立てるあの重み。けれど、冷静に味わってみると、栄養ドリンクはこの世で最も「複雑でミステリアスな味わい」を持っている。裏ラベルを見ても呪文のような言葉しか書いていないのに、柑橘、バニラ、スパイスが絡み合ったあの濃厚なスイーティーさは、もはや「スペシャル・ブレンド・ドリンク」だ。いつか、シャンパングラスに注ぎ、氷を浮かべて香りを愛でながら飲んでみたい。流し込むのではなく、舌の上の全細胞でその複雑な幸せを受け止めたいのだ。栄養ドリンクを「元気が出るおまじない」としてではなく、純粋な「嗜好品」として楽しむ。それが、頑張ることをやめた私が辿り着いた、新しい食の境地なのかもしれない。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。
お子様ランチ品評会②と理想のお子様ランチ計画
「お子様ランチ」という、大人が足を踏み入れることを許されない聖域。歴史を振り返り、さらに学びを広げていくと、そこには、旅館のホスピタリティから、90年前の開発者の登山への情熱、そして「砂鉄のようなのりたま」という怪現象も見つけました。あとやっぱり、自分の記憶の中のお子様ランチが一番美味しいんだって話。① 砂鉄のふりかけと、映らない飛騨牛 ―― 旅館に眠る「だけ」ではない迷宮〜やっぱり旅館で事件はつきもの〜お子様ランチの正解は、お子様がいる料理人にしか作れないのかもしれない。旅館のお子様ランチは、その情熱が桁違いである。旅館という場所は、みんなの癒しの場所できていて、そのためにはお子様ランチが「いかに子供を黙らせ、楽しませるか」という手段にならなきゃいけないので必死の知略があり見るだけで楽しい。下呂温泉のとある旅館で見つけた「お子様定食プラン」。低学年向けのお子様ランチと、高学年向けのお子様定食の2種類分けられている設定が、恐ろしいドラマを生んでいた。飛騨牛のサイコロステーキにお造りという豪華なラインナップを誇りながら、なぜかホームページの写真ではそれらが一切写っていないのだ。全く写っていないわけではなく、わさびだけ垣間見えてて「刺身匂わせ」はされてあるところが余計に怖いよ。ステーキは微塵も写ってない、代わりに中央に陣取るのは、うさぎの形をしたポテトサラダと、高学年でなければ直視できないほどリアルな顔が描かれた「たこさんウインナー」と言った安物たち。さらに驚くべきは、ご飯の上に鎮座する「のりたま」だ。その海苔は、まるで理科の実験で磁石に吸い寄せられた砂鉄のように毛羽立ち、見る者を威嚇している。豪華食材を映さず、砂鉄のような海苔と顔のあるタコを強調する。一方で、低学年向けプランにはうさぎの顔はあれど、タコの顔がない!!!!そして、低学年プランは全体像をハッピーに写してくれているのに、高学年プランは切り取り画像しかないぞ。なんだこれ。この「喧嘩」とも取れる不条理な構図に、私は旅館という名のテーマパークの深淵を見た気がした。裏で代表と料理人が揉めてるはず。お子様にステーキとお造りは早いとか、日によってばらつき出せるように写さんどこうとか。箸袋が高学年の方が幼くなってるのも事件性を感じる。島原のホテルでは、お子様ランチにラーメンがついていました。しかもチャーシューでかい。骨付き肉もある。時間稼ぎにいいよね。プリンとアイスの上にはあのビュッフェにいるシマウマ柄のロールがちゃんといるあたりも、動物園気分かつ、パティスリーでケーキを買った時の興奮を味合わせてくれる。オレンジジュースはホテル用のグラスに子ども用だから半分しか入れてない。優しいけど、ホテル用グラスなのはちょっと緊張する。やっぱり、お子様ランチはプラスチックのコップで持ち手付きでお願いします。② 富士山の頂と、私の生きる道 ―― お子様ランチの旗専門イラストレーターになりてえお子様ランチの歴史を紐解けば、1930年、世界不況の暗雲を払うべく「子供たちに夢を」という願いから生まれたという。開発者は登山好きで、ケチャップライスの山頂に白いご飯を載せ、富士山の雪に見立てたらしい。登山への情熱を隠しきれないその設計に、私は「ケチャップライスを白飯で隠すなんて、もったいないし、子供に希望与えたい割には自我強めだな」と思ったけど、そんなことよりまず感謝。白いご飯で隠すことはむしろ余白を楽しませてくれる白をご覧あれ〜という感じなのかも!!!!そんな歴史を学び、膨大な画像をパトロールした結果、私は一つの答えに辿り着いた。私のこれからの生きる道、それは「お子様ランチの旗専門イラストレーター」である。お子様ランチにおいて、旗、大事だけど、考えもなく世界の国旗を刺すのは危険。昔バイトしていた寿司屋で、外国人のお子様にどの国旗を刺すかでキッチンではみんながわざわざ手を止めて、会議が開かれていた。世界情勢も絡む。旗一本で外交問題。大幅なタイムロス。世界情勢に配慮して国旗を選ぶことに神経を尖らせるバイト時代のロスをなくし、イラストレーターとして、子供たちが純粋に笑顔になれる、それぞれの店舗に合わせたお子様ランチの旗を描く。それこそが、私の使命だ。最後に、私が理想とする「トリプル3(スリー)ランチ」のを提案したい。3つのご飯(チキンライス・のりたま・カレー)、3つのアンパンマンポテト(食パンまんとカレーパンマンを両脇に)、そしてエビフライという強すぎる個性に忖度しない3種のコロッケ(野菜コロッケ、クリームコロッケカレーコロッケ)そしてカキフライも乗っけていいですか。それらすべてに、私の描いた旗を立てたい。コーンスープの海は旗が立つくらいドロドロでコーンたっぷり!旗のイラストご依頼お待ちしております。
お子様ランチ品評会①
私はもう、お子様ランチを頼めない年齢になった。でも思い返してみると、子どもの頃に情熱をもって「お子様ランチが食べたい!」と言った記憶はない。気づいたら、目の前にあった。あれは自分で選ぶものではなく、「与えられるもの」だった。ファミレスでコインがもらえて、外のガチャガチャが回せるから頼む、ということはあった。でもそれは、お子様ランチそのものを欲していたわけではない。だから今、頼めないとなった瞬間に、猛烈に食べたくなる。人は、失ってから気づく生き物らしい。最近の「大人のお子様ランチ」は豪華すぎる。艶々の肉汁ハンバーグ。とろとろたまごのオムライス。しっかり自立するプリン。バジルをやたらとかける。白いソースもやたらとかける。自立するエビフライへの激しい忖度と多すぎるタルタルソース。私たちが求めているのは、洋食のフルコースではない。「大人のお子様ランチ」という言葉を聞くたびに、私は言いようのない違和感に襲われる。洋食屋が自信満々に差し出すそれは、陶器の皿に盛られ、エモいって言葉で全てを解決させる世の中の象徴のような気品を漂わせ、そして何より高すぎる。私たちが求めているのは、そんな「本気」ではないし、豪華で完成されたものじゃない。お子様という身分を生かしていつの間にか与えられていたお子様ランチとは違い、自分で選択しなければいけない『大人のお子様ランチ』がここまで豪華である必要はない。大人に媚びていないこと。格上げされていないこと。「どうせ子どもだからこれでいいでしょ」という雑さの中にある、妙な誠実さを受け入れる練習が必要。私が焦がれているのは、プラスチックの仕切り皿という名のチープな宇宙だ。周りに描かれたキャラクターがデカすぎて皿のイラストを見る方がもはやメイン。そこに「旗」という立体の名の主権と、果汁飛び出してベタベタになるミニゼリーとニコニコポテトとコーン入りの短い麺べっちょりナポリタン、安そうで薄そうなハンバーグをもってしてお子様ランチというのは成立する。1週間、私は貪るようにネットの画像を眺め続けた。白い恋人パークの「お子様ランチなのにパセリをかけてしまう」という、隠しきれない人気高級ブランドの矜持。デニーズの「ナポリタンのコーン」という、正解すぎる彩り。そして、何より私を熱狂させるのは「ニコニコポテト」の存在だ。普通のポテトなら、他のメニューの付け合わせを流用できる。しかし、わざわざ「ニコニコ」を仕入れているということは、その店がお子様ランチに対して「これは特別な一皿だ」という敬意を払っている証拠なのだ。品評会は深淵へ向かう。やよい軒のミッフィー皿に見る「タルタルソースのポテサラ擬態」。ほっともっとが資本なやよい軒。ほっともっとの弁当といえば個人的に『ポテサラ』と思っているので、だからこそ、タルタルソースすらポテサラの形にして出したいプライドがあるんだろうね。どこかの魚センターの「舟盛りプレートの上にハンバーグが鎮座する」という、お子様ランチのプレート以外で、ちゃんと居酒屋でも流用できるいい土台を発見しましたね!!!!舟盛りの上にお子様ランチを乗っけるって!そうじゃんそうじゃん。車の皿の上と同じだよね。そして海鮮の店なのに肉類多くてありがとう。貝の皿に入った3つのミートボールが真珠のように輝く。豊洲市場のお子様ランチは包丁の技術を見せたいのかなんと、ミニトマトが半分に切られていた。ちなみにお子様ランチはミニトマトであって欲しい。くし切りやめて〜とは言ったものの、ここまで求めてないよ。イチゴも半分。市場のプライドが見える。さらに、ミニゼリーをわざわざひっくり返して出している。各ファミレスへ、ケチャップはかけて出せ!!!!パウチのケチャップをドンと置かないで!子どもはちぎれない。親が結局やる。それだとお子様ランチの意味がない。親に手の自由を!ふりかけは卵であれ!お子様だからと言って、安いプライベートブランドの卵じゃなくて!ちゃんと美味しいやつ。鰹節は違う。のりたま。卵系。あの黄色い粉。そして、上だけにかけるな。全面にかけろ。ふりかけが白おにぎりに上だけしかかかってなかったトラウマは永遠刻み込まれているからね。3,245円という「大人のお子様ランチ」の頂点、キッチン大宮。そこには「人参グラッセ」を「キャロットグラッセ」と呼ばせる、新たな世界。いいものは、なんでも英語で呼んでいこうね。一食1,000円以下のランチしか知らない私には到底届かない、黒いデミグラスソースの壁があった。黒さは高級。高級とは黒光り。流石の三越伊勢丹の気品あふれる旗付き御膳はアワビとローストビーフだぞ。『大人のお子様ランチ』って言ってるけどこれだともはやおばあさんランチじゃないか。もっと柄で誤魔化そう。余白たっぷり。盛り付けは雑でいい。立体アートは禁止。陶器、出てくるな。中でも私の胸を打ったのは、鹿児島の「ひよこテーブル」だ。ブロッコリーをただ添えるのではなく、半分に切り、その半分をさらに細かく分類させ、チキンライスの上にタンポポの綿毛のように散らす。そのあまりにも過剰な愛に、私は食べてもいないのに泣きそうになった。型抜きの星や音符に、『お子様ランチへの愛』が伝わるし、卵焼きの焼印、ハンバーグに刺さる側も素晴らしき。ナポリタンの上のタコさんウインナー!子供用のものにバジルをかけるなと怒っていた私だけど、この弁当においてはバジル見えてないよ。エビフライという主張激しい割にか弱くて自立できない存在を二つのしっかり系唐揚げが支えてるの、いい!ブルゾンちえみwithBみたいな感じ。女の特権は使えるうちに使っとけってことはお子様の年から知っておいた方がいいことだもんね〜。けどね、これだけ食べたいと言っておいて本当はお子様ランチなんて絶対に頼まないので安心してください。普通に大人用のパスタか、唐揚げ定食食べます。大人になって子供の時のワクワクを振り返る必要はなくて子供の時の記憶はそのまま、丁寧に真空保存するのが正しいと色々学んできています。ひよこテーブルお子様ランチ|鹿児島で宅配、配達弁当ならひよこテーブル【お子様ランチ】小さいお子様用のお弁当のリクエストが多いのでご用意いたしました。チキンライスを可愛く彩り、ハンバーグやエビhiyokotable.com780円ひよこテーブルで購入するオキナワお子様ランチの記事オキナワお子様ランチワールドお子様ランチ、そこに沖縄要素はあるのだろうか。沖縄県内の食堂のお子様ランチをちょこちょこ(息子が)食べ歩いたのでそのコレクwww.dee-okinawa.com
天丼のタレは黒蜜より甘い。たぬきうどんは化けの皮はいだら、ただの天かすうどんなんで。丸亀製麺のおにぎりのフィルムをボンタン飴のように食べたい。
天ぷらは汚れているほうがうまいし、たぬきうどんを頼むのは「バカ」と言いたかったけど、必ずわかめうどんを頼む私もバカになったので結局はバカこそ王者という話〜〜〜天ぷらの話をしたい。大海老天の話もしたいし、衣がわしゃわしゃしている緩衝材みたいなのがいっぱいついてるみたいなゴツゴツ天ぷらが好きだ!という話もしたいし、天ぷらの油はたぶん綺麗すぎないほうが美味しいんじゃないかという疑惑もある。透き通ってない方がいい。天ぷらの衣にくせえ匂いを染み込ませてくれ〜〜〜〜〜それから、天ぷら職人が素手で油を触っているのを見るたびに「人間ってここまでいけるんだ」と思う話もあるし、衣を油に入れるときに箸でこそぎ落とすあの動作は、もう法律で禁止にしてほしい。たっぷりつけたままでいいんだよ!何を落としてるんだ。だけど、私は常に欲張りだし、デザイナーとしてお世話になっている会社の人から毎回「中村さんのデザインは盛り込みすぎ。引き算して」と言われるので結局引き算・・・・大切なのか・・・胃もたれデザインは世の中には必要ないっぽいもんね。確かにみんな時間なさそうだし。特に東京の人たち。歩くスピード早すぎるよ。だけど言いたい、お弁当のしなしな天丼は異常に美味しい。他の揚げ物の匂いも入ってて、天ぷら衣がブワアっとふ焼けまくってるもの。天ぷら衣をそぎ落としてないからこその報酬。天丼のタレはビッシャーがけでお願いしたいし、天丼の美味しさの9.9割はあの甘すぎるタレが担っていると思っている。黒蜜より甘い。世界一甘い液体だ。天丼屋に行くと「天丼」と「上天丼」が並んでいて、その差がほぼ「エビが乗るかどうか」だけなのがちょっと許せない。みんなエビにヘコヘコしすぎてない?結局みんな、エビがいちばん偉いと思っている。確かに私も思っている。エビはいい。すごい。生エビ食べてえ。昔、お金持ちの人に蕎麦屋さんに連れて行ってもらったとき、大海老天が一本500円で、「お腹に余裕があるなら2本にしていいよ」と言われたことがある。あのときの感謝は一生忘れない。どうやって恩返しすればいいのか、いまだにわからない。そして本当の本当に「大」海老天だった!すごい!プリップリカレンダーが1日を指すと、私の心の中では密かに「丸亀製麺の釜揚げうどん半額わっしょい祭り」の幕が開く。丸亀製麺が釜揚げうどんを半額で提供するその日、先月も何もしなかったな〜と、やりたいことだけ溜まったカレンダーをめくって一応取っておくけど結局一年分溜まりまくっている絶望感さえ、うどんの湯気の向こう側へと消えていく。不思議なのは、並んでいる人々だ。前日から「明日は丸亀だ、わっしょい」と魂を震わせていたはずなのに、いざ列に並ぶと、皆一様に「たまたま今日、うどんの気分だったんです」という涼しい「おすまし顔」を決め込んでいる。もちろん私もその一人だ。おすまし顔でトレイを滑らせ、半額で浮いたお金を軍資金に、普段はケチる天ぷらコーナーへと突撃する。そこで私を待っているのは、胃もたれという概念を人生で初めて教えてくれた存在の巨大なかき揚げ。そして、丸亀界の最安値、50円で我々を支え続けてくれる「ごぼう天」だ。ごぼうは、もはや天ぷらという名の「ガム」である。噛めば噛むほど土の旨味が広がり、骨身に染みる。ありがとう。そして、おにぎり。あのシャカシャカしたフィルムに包まれたおにぎりは、まるでカメラのキタムラで現像したばかりの大切な思い出を入れる袋のよう。これに包まれているから、完璧な湿度で守られて異様に美味しいおにぎりになってるんだな。通常、「うどん定食」など、白ごはんと白うどんの組み合わせを許していない私が、丸亀の時は、うどんと米を同時に食う。かつて友人の母から貰った二重ラップのおにぎりを、一回しか剥がずに、もう一つは残したままおにぎりを食べてラップごと飲み込み、数日間便秘に苦しんだ私にとって、あの剥がしやすいフィルムは「文明の優しさ」そのものであるけど、むしろ食べたくなってるし、一度食べ切った経験が謎の自信を生み出してくれている。かかってこい。「たぬきうどん頼む人はバカ」なぜなら、「たぬき」という可愛いひらがな3文字でわたしたちを騙しにきてるから。化けの皮はいだら、ただの天かすうどんなんで。私はかつて、家のひらがな表の中でも「ぬ」をじっと眺めていたことがある。便秘がちなので、トイレによくこもるからとにかく見ていたよ。50音表の中で、最も丸みを帯び、最も「造形」としての完成度が高い文字。ひらがなキーホルダーを作るなら、迷わず「ぬ」の一文字だ。二文字の名前を授けてくれた親に、一文字分のカスタム料金を節約させてくれた感謝を捧げつつ、私は「たぬきうどん」という不条理について考えを巡らせる。たぬきうどんを頼む人はバカなぜなら、天かすは多くの店では無料で提供されている「揚げ物の残像」だから。それにお金を払うのは、まるで空気を買うようなものではないか。しかし、京都で言われてるの「たぬき」を知って、私の偏狭な正義感は打ち砕かれた。刻み油揚げをあんかけにし、おろし生姜を添える。化かされているのは、天かすではなく、私の固定観念。さすが京都様。デパ地下の祭事で京都のだし巻き卵に釣られて立ち止まった店で、「鴨肉でごわす」と試食を差し出してきたお姉様の、あの一歩踏み込みまくった接客のような衝撃だ。京都はいつだって「かまし」を重ねてくる。天ぷらの衣を揚げ油に削ぎ落とす職人の仕草を法律で禁止したいと願うほど、私は「衣の余白」にうるさい人間だが、お弁当のしなしなになった天丼の、あの黒蜜より甘いタレには、無条件で降伏してしまう。1本500円の大海老天を「二本いっていいよ」と言ってくれたあの人の恩恵を、私は一生、胃袋に刻んで生きていく。エビこそが「上」であり、幸せの指標。天ぷらでも洋食でも常にエビをトッピングできる人生でありたいよね。私はこの「ぬ」のような丸みのある幸福を、うどんの出汁と共に啜り続けたいと思う。だけど、まだたぬきうどんに怒りたい。一瞬京都のおかげで騙されたけど、ただただ、天かすうどん。それなのに、だいたいきつねうどんとか、とろろうどんと同じ値段をしている。だったらとろろを頼めばいい。絶対に手がかゆくなるし、手間もかかってそうだし、原価も高そうだから。きつねも、お店でちゃんと炊いてるなら全然ありだ。しかも多くの店では、天かすって無料で置いてある。自分で入れればいいじゃないか。たぬきうどんは、最初から厨房で天かすが入れられていて、届いたころにはもうブヨブヨしている。あの感じ、テレビショッピングで羽毛布団をぶん殴ってるときのモワモワに似ていて、ちょっと怖い。ただし、どん兵衛のたぬきだけは別格だ。あれはもう別の宗教。150円であの世界を出されると、蕎麦屋に行くたびに脳内で緑のたぬきが点滅してしまう。ちなみに私は、うどん屋さんではよく「わかめうどん」を頼む。でも丸亀製麺が、ついにわかめまで無料にしてしまった。つまり私は、バカ側に回った。丸亀製麺はすごい。毎月1日、釜揚げうどんを誰にでも半額にしてくれる。なのにその日に、普通のかけうどんを頼む人が一定数いる。しかもそういう人は、だいたい変な時間に来る。半額の日、みんな心の中では「わっしょい祭り」なのに、全員すまして並んでいるのも愛おしい。私ももちろんすまして、「たまたま今日、釜揚げうどんの気分でした」みたいな顔で半額を享受する。その浮いた分で、天ぷらを取る。ごぼう天。50円で、噛めば噛むほど旨い。ガムみたいな天ぷら。ありがとう。丸亀製麺のおにぎりのフィルムも最高だ。あのフィルム、写真屋さんで現像した写真を包んでくれるやつと同じ気がする。ボンタンアメにおけるオブラートのように、あれごと食べられたらいいのにと本気で思っている。丸亀製麺ではいつも、後ろの人に急かされて、いちばん食べたくない天ぷらを取ってしまう。夢の中でもよく出てくるのが丸亀製麺だけど、いつも一番いらない天ぷらとってしまっている。だけど、後ろの人に急かされて落ち込んだ日は無料トッピングの天かすの中にちょっと具材が入ってたりして、欲より規律を守った私にご褒美をくれる。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
人気店に行くなら、節分の次の日が一番狙い目(みんな喉からからなので)
2/4、この日にみんなレストランとか予約したり、外食の予定入れたらいいよ!!!!!!計画に計画を重ね、半年ぶりに足を踏み入れた聖域「ミッキーハウス」。そこで私を待っていたのは、ランチプレートという名の、もはや狂気を感じるほどのサービス精神だった。王道デミグラスハンバーグ、生姜焼き、自立するタイプのクリームコロッケ、そしてナポリタン、ちゃんと色が濃いインゲン。値上げという名の「適正な進化」を遂げてもなお、1,000円を切るその価格設定に、私は拝まずにはいられない。【皿オンナプキンオンスープ皿!愛してる】スープの皿の下にさらにもう一枚皿を重ね、その間に紙ナプキンを一枚噛ませる。この、洗い物を増やすことを厭わない「無駄な豊かさ」こそが、洋食屋のプライドだ。しかし、そこで私は一つの異変に気づく。コーンポタージュに浮かぶクルトンが、かつてないほど巨大に見えるのだ。普通、大人になれば世界は小さく見えるものだ。それなのに、クルトンが大きく見える。これは老化による背骨の湾曲のせいか、それとも私の食い意地が視神経をバグらせているのか。洋食屋ならではの、粒立ったご飯をポタージュに浸し、粉チーズを振りかけて勝手な「リゾット」を構築しながら、私は思う。この巨大化した(ように見える)クルトンを、どのタイミングで救出するか。カリカリのままか、しっとり染み込ませるか・・・・・この一瞬の迷いこそが、洋食という名の遊園地における最大の難問!結局いつも悩んでる間にどっか行っちゃう。大好きな店ほど、フラれるのが怖い。満席で断られたときの絶望感は、他に愛する人がいるのに結婚式を挙げてしまうドラマの主人公のような虚無感に近い。だからこそ、私は2月4日、節分の翌日という日付を選んだ。“私の完璧な考察”→前日に恵方巻きという「米の暴力」に晒された人々は、翌日は必然的にパスタやラーメンといった「米以外」を欲する。さらに、節分豆をボリボリと食べ尽くした彼らの喉は砂漠のように枯れ果て、こぞって汁物を求めて彷徨うはずだ。彼らは家で「マルちゃん正麺」の袋を破り、汁を啜ることに必死で、洋食屋という贅沢な選択肢からは脱落していく。思った通り、ミッキーハウスは珍しく静かだった。テーブル席が一つ、私を待つように開いている。計画通りの勝利だ。鉄板の上では、生姜焼きのタレとナポリタンのケチャップが、しなしなの玉ねぎを介して手を取り合っている。分厚い生姜焼きには「メイン」としての権威を求めないが、このプレートの中での「薄切りプラ版」のような生姜焼きの佇まいは、ナポリタンとの最強のデュオを組んでいる。生姜焼きはとんてきの肉じゃなくて、薄切りで、雑であって欲しいの!!タルタルソースがかかっているとても嬉しいクリームコロッケの両端を落とし、中心の「密集地帯」を最後に食べる。そのクリームで汚れたナイフでハンバーグを切り、デミグラスとクリームを共犯関係にさせる。満腹という名の「何をしていても楽しい」多幸感の中で、私は昨日の節分な〜んにもしなかった反省を忘れていた。世の中の残った節分豆たちよ、私の喉はタルタルが添えてある贅沢クリームコロッケと、濃密なコーンスープ、そしてサービスが細かすぎるが故に一口ごとに水を入れてくれるおばちゃんのおかげで喉潤いまくってるので私が救ってやる!!!!!!!!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に食べるのではなくて大切絶頂期に食べよう
大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に無理やり食べてきた。もちろん、好きなものも最後に食べる。トイレも済ませて、手洗いして、色々片付けた後、そのくらい、本当に最後の最後の最後。一食の物語のフィナーレを優雅に飾りたいと願ってきた。大好きなガストの「チーズインハンバーグ」の食べ方ルーティンは、まず外側の楕円を少しずつ削ぎ落とし、中心の「チーズ密度の最も高い四角形」を聖域として最後まで守り抜く。しかし、いざその聖域に箸を入れる頃、私の大好きなチーズは、時の流れと共に冷え固まり、もはや「これってチーズだったっけな」と首を傾げるほどの無機質な塊へと変貌している。私の「家」と呼んでいるほど愛している「しゃぶ葉」でも、同じ過ちを繰り返す。せっかくのしゃぶしゃぶ食べ放題でも、ケチを発揮し、お肉3皿限定というストイックなプランを選び、その貴重な3枚を最後のフィナーレにとっておくのだ。しかし、肉を温存している間に野菜やカレーで胃袋はパンパンに膨れ上がる。結局、最後には「いかに肉を小さくするか」という、もはやしゃぶしゃぶへの冒涜とも言えるほど湯がきまくったボロボロの肉片を、苦し紛れに胃へ押し込む。最初にお肉をしゃぶしゃぶすれば、そのエキスが鍋全体に広がり、後から入れる野菜たちをもっと美味しくしてくれたはずなのだ。チーズも、とろけているうちに食べれば、それは間違いなく「チーズ」として生を全うできたはずなのだ。大切だからって大切にしすぎるのが正しいってわけじゃないことを子育て本にも書いてありそう(知らんけど)「大切にしよう」という決意は、時に食べ物を「泣き散らかした後の肌」のようなパサパサの状態へと追いやってしまう。冬の間、撫でるだけで決して剥かなかったみかん。救急救命のつもりで慌てて剥いたときには、水分は逃げ出し、口に残る皮だけが「遅すぎたよ」と私を責める。イチゴにしてもそうだ。真っ赤な肌に白い綿(カビ)が生えたとき、YouTubeの知識は「根っこまで腐っているから捨てろ」と警告する。けれど、イチゴという尊い存在を前にすると、私の脳は「そこだけ切り取れば大丈夫」という都合のいい嘘を信じ込んでしまう。追熟しない彼らにとって、「今この瞬間」こそが全盛期なのに、私は目が慣れるまで眺めていたいというエゴで、彼らの命を枯らしてしまうのだ。そんな、結局あらゆる色を無駄にしてしまう悲しい私に、「シャインマスカットを真っ先に食べていいんだよ」と言ってくれた人がいた。「自分を喜ばせれば、また新しいマスカットがやってくる。それ以上の喜びが舞い降りてくるから、遠慮せずに食べていい」その言葉は、私にとっての「許可証」だった。自分には忍者めしの硬いグミがお似合いだと思い込んでいた私に、宝石のような果実を真っ先に味わう資格があるのだと教えてくれた。食後、満腹になれば人は誰しも少しだけ頭がおかしくなり、紙飛行機を折るだけで楽しくなれる。だからこそ、最後のフィナーレを豪華にする必要なんてないのかもしれない。最初に最高の記憶を刻みつけ、最後はどうでもいい…?からこそ、満腹という幸せな「ぼんやり」の中で終わればそれでいいのだ。確かに最初の方が味覚も冴えてる気がするよ。好きなものを、好きなときに。大切に思うからこそ、その命が輝いているうちに私の血肉にする。それが、大切フードへの一番の報いなのだと、今は強く信じている。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
煮込みを煮込むだけと思うな!!!!ジャムは買おう!アヲハタを!90歳おばあが謎にインド料理サモサを作れる不思議
私は激怒している。一番好きな和食店の大将に対して。値段以上すぎる食材とサービスと個室という素晴らしいお店、人柄も常に謙虚で素敵な方なんだけど、私は怒ってるよ。3日間。キッチンに立ちながら、焦げたジャムを見て、ずっと怒ってるよ。ことの始まりは、大好きな和食店の大将が放った「煮るだけですよ」という甘い罠。皮を剥いて砂糖で煮る、ただそれだけ。その言葉を信じた私は、ルフィが海賊王を夢見るような純粋さで柑橘と向き合った。しかし、いざ包丁を握れば、本来一分で済むはずの皮剥きに二十分を費やし、鍋に火をかければ焦げ付き防止センサーが「お前、ずっと見てろよ」と言わんばかりにピーピーと私を叱りつける。スマホ片手に漫画を読もうにも、意識のすべてが鍋に吸い取られ、赤ちゃんを世話しているような義務感で頭が回らない。結局、出来上がったのは「カラスが漁った後のゴミ袋の皮」のようなパサパサの成れの果てだった。大将の言う「だけ」は、初心者の私には決して到達できない神の領域だったのだ。煮込みを、ただ煮込むだけと思うな。それが私の血の滲むような教訓となった。そして、こういう手間暇フードは全て市販の恩恵を授かろう。この激闘!ジャム作り体験のおかげで私はより一層和食店に行った時の感謝を増大することができるだろう。怒りが感謝に変わる。やっぱり消費者さいこ〜〜〜〜〜〜!!!!!!この激動は私がよき消費者になるために必要な経験だったんだろうね!!話は変わり、私のホーム、デパ地下。隙あらばデパ地下話がしたい。そして願わくばデパ地下に住みたいよ〜。デパ地下の地下とか。パラサイトしたい〜。デパ地下で最後まで残った惣菜たちどーなってんのよ!!!!見せて見なさい!!!私が食べ尽くすから!!!!!!!!!今日はおこわの話。デパ地下には映画館のポップコーンのように私を誘惑する「おこわ」のショーケースがある。しかし、デパ地下は貴族の遊び場だ。スペアリブを頼めば、骨の重さまで金に換算され、葉っぱ一枚のサラダがデジタル計量器の上で驚異的な数字を叩き出す。「このゼロの単位、間違ってないか?」と腰を抜かしつつも、私は炊き立てのおこわを手に取る。冬のライフハックとして、私は温かいおこわをお腹にあて、カイロ代わりにすることにしている。ポットのお湯を膝の上で我が子のように抱きしめる喜び(ついには服を濡らして極寒を味わうリスクを孕んでいても)と同じで、温もりは抱きしめるものなのだ。デパ地下のおこわは一口で消える。しかし、私の実家には、食べても食べても地下から湧き出してくる「デッッッッッカイ魔法のおこわ」を授けてくれる、90歳の祖母がいる。彼女には不思議な能力がある。インドにルーツがあるわけでもないのに、なぜか「サモサ」を皮から完璧に作り上げるのだ。他のインド料理は何も知らないのに、サモサだけは手が覚えている。我が家のファミリーヒストリーを遡れば、一瞬だけ現れては消えたインド人がサモサの製法だけを刻み込んでいったのでは。彼女のサモサはとても美しく、美味しい。彼女の料理は、すべてが「無限」だ。食い意地が止まらない私に常に夢を与えてくれる。お正月、三段重のおせちを当日朝の数時間で作り上げるその手際は、伝説のバイトリーダーのよう。重箱の中のレンコンを褒めれば背後から巨大タッパーが、エビを愛でれば追加の援軍が現れる。お祝いの席はいつの間にか、重箱を包囲するタッパーの要塞と化す。そうそう、何が言いたかったのかというと、おこわでもサモサでもなく、このおばあがかつて作ってくれた「リンゴジャム」のこと。素晴らしかったの。とろとろで、この世のものとは思えないほど優しかった。りんごは風邪の時に食べるイメージのものだったけどこの優しさが所以するのだろう・・・!優しさフード。りんごの笑顔が見えたよ。これの作り方を聞いた時も、「ストーブの上に置いてただけだよ」といっていた。この時も私は安易に「だけ」を信じて呑気にジャムを作ったが失敗したよ。その「だけ」には、90年という歳月をかけて手から染み出したエキスと、煮込み料理を見守り続けてきた慈愛の結晶が詰まっている。私が自宅で焦がした「パサパサの皮」を見つめながら思う。専門家や、ベテランの言う「だけ」は信じてはいけない。けれど、その「だけ」を愛おしみ、制作過程ごと味わうことこそが、食を愛するということなのかもしれない。いつか私も、あのおこわを無限に湧き出させ、サモサを魔法のように包めるようになるだろうか。それまでは、デパ地下の無慈悲な計りに怯えながら、しばらくは、デパ地下のことを「見る専」させてもらい、実家に帰ったときにおばあたちの夢幻の教授に浸っていたい。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
こちらもおすすめ
近藤淳也のアンノウンラジオ
株式会社はてな創業者であり現在もITの第一線で働く近藤淳也が、京都の宿UNKNOWN KYOTOにやって来る「好きなことを仕事にしている人」を深堀りすることで、世の中の多様な仕事やキャリア、生き方・働き方を「リアルな実例」として紐解いていきます。 . 【ホスト:近藤淳也】 株式会社OND代表取締役社長、株式会社はてな取締役、UNKNOWN KYOTO支配人、NPO法人滋賀一周トレイル代表理事、トレイルランナー。 2001年に「はてなブログ」「はてなブックマーク」などを運営する株式会社はてなを創業、2011年にマザーズにて上場。その後2017年に株式会社ONDを設立し、現在もITの第一線で働く。 株式会社OND: https://ond-inc.com/ . 【UNKNOWN KYOTO】 築100年を超える元遊郭建築を改装し、仕事もできて暮らせる宿に。コワーキングやオフィスを併設することで、宿泊として来られる方と京都を拠点に働く方が交わる場所になっています。 1泊の観光目的の利用だけではなく、中長期滞在される方にも好評いただいています。 web: https://unknown.kyoto/ . こちらから本文を読んだりコメントが書けます! https://listen.style/p/unknownradio
LISTEN NEWS
LISTENは、AI文字起こしとコミュニティで、ポッドキャストを「聴く・配信する・つながる」ためのプラットフォームです。 公式番組「LISTEN NEWS」では、開発の裏話や近況も交えつつ、最新情報をお届けします。 LISTENはこちら→ https://listen.style/
楽しいラジオ「ドングリFM」
都内IT系の2人が話すポッドキャスト番組です。最近話題のニュース、日常に役立つ面白ネタなどを話します。国内・海外のIT事情に興味ある人にオススメの内容になっています。 ・お便りは https://goo.gl/p38JVb まで ・詳しいリンクはこちら https://linktr.ee/dongurifm ・リスナーコミュニティ「裏ドングリ」は以下からどうぞ https://community.camp-fire.jp/projects/view/206637 https://donguri.fm/membership/join BGMと最後の締めの曲はフリーBGM・音楽素材「 http://musmus.main.jp 」より。
桃山商事
コミュニケーション、男性性、恋愛、人間関係、ジェンダー、ケア、孤独、性欲、会社、友情、老い……メンバーがその時々で気になったテーマを1つ設定して、モヤモヤを言語化していくNEOな座談Podcastです。2011〜2016年「二軍ラジオ」(ApplePodcast)、2017〜2024年「恋愛よももやまばなし」(ニコ生→Podcast)を配信していました。清田隆之(文筆業)、森田(会社員)、ワッコ(会社員)、さとう(会社員)の4人でお届けします。
jkondoの朝の散歩
ポッドキャストプラットフォーム「LISTEN」や、GPSトラッキングサービス「IBUKI」、物件メディア「物件ファン」、京都の宿とコワーキング施設「UNKNOWN KYOTO」を運営する近藤淳也(jkondo)が、朝の散歩をしたりしながら、日々の出来事や考えたことを語ります。
IBUKI STATION
ここはアウトドア向けGPSトラッキング「IBUKI」にまつわる人々が集まる場所。 トレイルラン、登山、冒険、ランニング、自転車、ロゲイニング、、 スタイルは数あれど、共通しているのは自然を楽しみ、そして人とのつながりも楽しむ姿勢。 自然を目一杯楽しみ、苦しみながら、人と接する喜びにも気付く。 アウトドアを満喫するみなさんが、ほっとできるIBUKI STATIONです。 IBUKI https://ibuki.run/ 近藤淳也 IBUKIを提供する株式会社OND代表。ポッドキャストプラットフォーム「LISTEN」も展開 桑原佑輔 OND所属。IBUKI事業担当営業・テクニカルディレクター