9月14日、“くいしんぼうの日”に食の神様に愛されすぎて爆誕した私が、ただただ食への愛とおさまらない食い意地を発散させてます。
変でごめんー!だけどみんなと食欲わかちあいたい!ほんとポッドキャスト感謝!これなかったら私の食欲の発散場所なかったよ!!!!!ありがた祭り!
音声とか聞きにくめなところ多いですがまだ成長段階なので🤱やさしくみまもってね🦷
食べ物に愛を伝え、食への情熱を仕事に、、、という野望をこめてお届けします。職業食いしん坊として生きてくぞ〜。ちなみに本業はわーいでのんきなクリエイター「もしもし五島列島」です。よろしくね(圧)
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番組の魅力・推薦
人気店に行くなら、節分の次の日が一番狙い目(みんな喉からからなので)
2/4、この日にみんなレストランとか予約したり、外食の予定入れたらいいよ!!!!!!計画に計画を重ね、半年ぶりに足を踏み入れた聖域「ミッキーハウス」。そこで私を待っていたのは、ランチプレートという名の、もはや狂気を感じるほどのサービス精神だった。王道デミグラスハンバーグ、生姜焼き、自立するタイプのクリームコロッケ、そしてナポリタン、ちゃんと色が濃いインゲン。値上げという名の「適正な進化」を遂げてもなお、1,000円を切るその価格設定に、私は拝まずにはいられない。【皿オンナプキンオンスープ皿!愛してる】スープの皿の下にさらにもう一枚皿を重ね、その間に紙ナプキンを一枚噛ませる。この、洗い物を増やすことを厭わない「無駄な豊かさ」こそが、洋食屋のプライドだ。しかし、そこで私は一つの異変に気づく。コーンポタージュに浮かぶクルトンが、かつてないほど巨大に見えるのだ。普通、大人になれば世界は小さく見えるものだ。それなのに、クルトンが大きく見える。これは老化による背骨の湾曲のせいか、それとも私の食い意地が視神経をバグらせているのか。洋食屋ならではの、粒立ったご飯をポタージュに浸し、粉チーズを振りかけて勝手な「リゾット」を構築しながら、私は思う。この巨大化した(ように見える)クルトンを、どのタイミングで救出するか。カリカリのままか、しっとり染み込ませるか・・・・・この一瞬の迷いこそが、洋食という名の遊園地における最大の難問!結局いつも悩んでる間にどっか行っちゃう。大好きな店ほど、フラれるのが怖い。満席で断られたときの絶望感は、他に愛する人がいるのに結婚式を挙げてしまうドラマの主人公のような虚無感に近い。だからこそ、私は2月4日、節分の翌日という日付を選んだ。“私の完璧な考察”→前日に恵方巻きという「米の暴力」に晒された人々は、翌日は必然的にパスタやラーメンといった「米以外」を欲する。さらに、節分豆をボリボリと食べ尽くした彼らの喉は砂漠のように枯れ果て、こぞって汁物を求めて彷徨うはずだ。彼らは家で「マルちゃん正麺」の袋を破り、汁を啜ることに必死で、洋食屋という贅沢な選択肢からは脱落していく。思った通り、ミッキーハウスは珍しく静かだった。テーブル席が一つ、私を待つように開いている。計画通りの勝利だ。鉄板の上では、生姜焼きのタレとナポリタンのケチャップが、しなしなの玉ねぎを介して手を取り合っている。分厚い生姜焼きには「メイン」としての権威を求めないが、このプレートの中での「薄切りプラ版」のような生姜焼きの佇まいは、ナポリタンとの最強のデュオを組んでいる。生姜焼きはとんてきの肉じゃなくて、薄切りで、雑であって欲しいの!!タルタルソースがかかっているとても嬉しいクリームコロッケの両端を落とし、中心の「密集地帯」を最後に食べる。そのクリームで汚れたナイフでハンバーグを切り、デミグラスとクリームを共犯関係にさせる。満腹という名の「何をしていても楽しい」多幸感の中で、私は昨日の節分な〜んにもしなかった反省を忘れていた。世の中の残った節分豆たちよ、私の喉はタルタルが添えてある贅沢クリームコロッケと、濃密なコーンスープ、そしてサービスが細かすぎるが故に一口ごとに水を入れてくれるおばちゃんのおかげで喉潤いまくってるので私が救ってやる!!!!!!!!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に食べるのではなくて大切絶頂期に食べよう
大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に無理やり食べてきた。もちろん、好きなものも最後に食べる。トイレも済ませて、手洗いして、色々片付けた後、そのくらい、本当に最後の最後の最後。一食の物語のフィナーレを優雅に飾りたいと願ってきた。大好きなガストの「チーズインハンバーグ」の食べ方ルーティンは、まず外側の楕円を少しずつ削ぎ落とし、中心の「チーズ密度の最も高い四角形」を聖域として最後まで守り抜く。しかし、いざその聖域に箸を入れる頃、私の大好きなチーズは、時の流れと共に冷え固まり、もはや「これってチーズだったっけな」と首を傾げるほどの無機質な塊へと変貌している。私の「家」と呼んでいるほど愛している「しゃぶ葉」でも、同じ過ちを繰り返す。せっかくのしゃぶしゃぶ食べ放題でも、ケチを発揮し、お肉3皿限定というストイックなプランを選び、その貴重な3枚を最後のフィナーレにとっておくのだ。しかし、肉を温存している間に野菜やカレーで胃袋はパンパンに膨れ上がる。結局、最後には「いかに肉を小さくするか」という、もはやしゃぶしゃぶへの冒涜とも言えるほど湯がきまくったボロボロの肉片を、苦し紛れに胃へ押し込む。最初にお肉をしゃぶしゃぶすれば、そのエキスが鍋全体に広がり、後から入れる野菜たちをもっと美味しくしてくれたはずなのだ。チーズも、とろけているうちに食べれば、それは間違いなく「チーズ」として生を全うできたはずなのだ。大切だからって大切にしすぎるのが正しいってわけじゃないことを子育て本にも書いてありそう(知らんけど)「大切にしよう」という決意は、時に食べ物を「泣き散らかした後の肌」のようなパサパサの状態へと追いやってしまう。冬の間、撫でるだけで決して剥かなかったみかん。救急救命のつもりで慌てて剥いたときには、水分は逃げ出し、口に残る皮だけが「遅すぎたよ」と私を責める。イチゴにしてもそうだ。真っ赤な肌に白い綿(カビ)が生えたとき、YouTubeの知識は「根っこまで腐っているから捨てろ」と警告する。けれど、イチゴという尊い存在を前にすると、私の脳は「そこだけ切り取れば大丈夫」という都合のいい嘘を信じ込んでしまう。追熟しない彼らにとって、「今この瞬間」こそが全盛期なのに、私は目が慣れるまで眺めていたいというエゴで、彼らの命を枯らしてしまうのだ。そんな、結局あらゆる色を無駄にしてしまう悲しい私に、「シャインマスカットを真っ先に食べていいんだよ」と言ってくれた人がいた。「自分を喜ばせれば、また新しいマスカットがやってくる。それ以上の喜びが舞い降りてくるから、遠慮せずに食べていい」その言葉は、私にとっての「許可証」だった。自分には忍者めしの硬いグミがお似合いだと思い込んでいた私に、宝石のような果実を真っ先に味わう資格があるのだと教えてくれた。食後、満腹になれば人は誰しも少しだけ頭がおかしくなり、紙飛行機を折るだけで楽しくなれる。だからこそ、最後のフィナーレを豪華にする必要なんてないのかもしれない。最初に最高の記憶を刻みつけ、最後はどうでもいい…?からこそ、満腹という幸せな「ぼんやり」の中で終わればそれでいいのだ。確かに最初の方が味覚も冴えてる気がするよ。好きなものを、好きなときに。大切に思うからこそ、その命が輝いているうちに私の血肉にする。それが、大切フードへの一番の報いなのだと、今は強く信じている。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
煮込みを煮込むだけと思うな!!!!ジャムは買おう!アヲハタを!90歳おばあが謎にインド料理サモサを作れる不思議
私は激怒している。一番好きな和食店の大将に対して。値段以上すぎる食材とサービスと個室という素晴らしいお店、人柄も常に謙虚で素敵な方なんだけど、私は怒ってるよ。3日間。キッチンに立ちながら、焦げたジャムを見て、ずっと怒ってるよ。ことの始まりは、大好きな和食店の大将が放った「煮るだけですよ」という甘い罠。皮を剥いて砂糖で煮る、ただそれだけ。その言葉を信じた私は、ルフィが海賊王を夢見るような純粋さで柑橘と向き合った。しかし、いざ包丁を握れば、本来一分で済むはずの皮剥きに二十分を費やし、鍋に火をかければ焦げ付き防止センサーが「お前、ずっと見てろよ」と言わんばかりにピーピーと私を叱りつける。スマホ片手に漫画を読もうにも、意識のすべてが鍋に吸い取られ、赤ちゃんを世話しているような義務感で頭が回らない。結局、出来上がったのは「カラスが漁った後のゴミ袋の皮」のようなパサパサの成れの果てだった。大将の言う「だけ」は、初心者の私には決して到達できない神の領域だったのだ。煮込みを、ただ煮込むだけと思うな。それが私の血の滲むような教訓となった。そして、こういう手間暇フードは全て市販の恩恵を授かろう。この激闘!ジャム作り体験のおかげで私はより一層和食店に行った時の感謝を増大することができるだろう。怒りが感謝に変わる。やっぱり消費者さいこ〜〜〜〜〜〜!!!!!!この激動は私がよき消費者になるために必要な経験だったんだろうね!!話は変わり、私のホーム、デパ地下。隙あらばデパ地下話がしたい。そして願わくばデパ地下に住みたいよ〜。デパ地下の地下とか。パラサイトしたい〜。デパ地下で最後まで残った惣菜たちどーなってんのよ!!!!見せて見なさい!!!私が食べ尽くすから!!!!!!!!!今日はおこわの話。デパ地下には映画館のポップコーンのように私を誘惑する「おこわ」のショーケースがある。しかし、デパ地下は貴族の遊び場だ。スペアリブを頼めば、骨の重さまで金に換算され、葉っぱ一枚のサラダがデジタル計量器の上で驚異的な数字を叩き出す。「このゼロの単位、間違ってないか?」と腰を抜かしつつも、私は炊き立てのおこわを手に取る。冬のライフハックとして、私は温かいおこわをお腹にあて、カイロ代わりにすることにしている。ポットのお湯を膝の上で我が子のように抱きしめる喜び(ついには服を濡らして極寒を味わうリスクを孕んでいても)と同じで、温もりは抱きしめるものなのだ。デパ地下のおこわは一口で消える。しかし、私の実家には、食べても食べても地下から湧き出してくる「デッッッッッカイ魔法のおこわ」を授けてくれる、90歳の祖母がいる。彼女には不思議な能力がある。インドにルーツがあるわけでもないのに、なぜか「サモサ」を皮から完璧に作り上げるのだ。他のインド料理は何も知らないのに、サモサだけは手が覚えている。我が家のファミリーヒストリーを遡れば、一瞬だけ現れては消えたインド人がサモサの製法だけを刻み込んでいったのでは。彼女のサモサはとても美しく、美味しい。彼女の料理は、すべてが「無限」だ。食い意地が止まらない私に常に夢を与えてくれる。お正月、三段重のおせちを当日朝の数時間で作り上げるその手際は、伝説のバイトリーダーのよう。重箱の中のレンコンを褒めれば背後から巨大タッパーが、エビを愛でれば追加の援軍が現れる。お祝いの席はいつの間にか、重箱を包囲するタッパーの要塞と化す。そうそう、何が言いたかったのかというと、おこわでもサモサでもなく、このおばあがかつて作ってくれた「リンゴジャム」のこと。素晴らしかったの。とろとろで、この世のものとは思えないほど優しかった。りんごは風邪の時に食べるイメージのものだったけどこの優しさが所以するのだろう・・・!優しさフード。りんごの笑顔が見えたよ。これの作り方を聞いた時も、「ストーブの上に置いてただけだよ」といっていた。この時も私は安易に「だけ」を信じて呑気にジャムを作ったが失敗したよ。その「だけ」には、90年という歳月をかけて手から染み出したエキスと、煮込み料理を見守り続けてきた慈愛の結晶が詰まっている。私が自宅で焦がした「パサパサの皮」を見つめながら思う。専門家や、ベテランの言う「だけ」は信じてはいけない。けれど、その「だけ」を愛おしみ、制作過程ごと味わうことこそが、食を愛するということなのかもしれない。いつか私も、あのおこわを無限に湧き出させ、サモサを魔法のように包めるようになるだろうか。それまでは、デパ地下の無慈悲な計りに怯えながら、しばらくは、デパ地下のことを「見る専」させてもらい、実家に帰ったときにおばあたちの夢幻の教授に浸っていたい。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
料理人が言う「だけ」は、美人が言う「なんもしてない」より信用できない。ジャム作りに3日囚われた話
大好きなお店で最後に出された、苦みのない完璧な柚子皮の砂糖煮。サーフボードのような形をしたトゥルトゥルの皮。苦味など微塵もなく、温かいお茶と口の中で手を取り合う完璧な調和。思わず「美味しいです」と伝えた私に、大将は事も無げに言った。大将の「剥いて煮るだけですよ」という軽やかな言葉に、私はルフィが海賊王を夢見るような純粋さで踊らされた。いや、けどそうは言っても、多少はめんどくさそうなこともわかってたよ。ルフィより大人なので。そうはいっても、難しいんでしょ〜と思いながらも、大将から頂いた言葉を素直に受け取ってしまった。美人が「肌断食(肌に何も塗らないこと)」をしてると聞けば、私も肌断食をしてきた。しかし、普段スキンケアを怠っている私は「肌断食」にはならない。ただの日常なので、断食でもなんでもなかった。いつも頑張ってる人が言う言葉でありやる行為なんだよ。料理人が言う「だけ」もそうである。慣れすぎて、やりすぎて「だけ」になっているので、やったこともない私がやると、それはそれはもう引越しレベルの重労働。しかし。。。お店ではたった一つしか食べれないものを家でたらふく食べれたらどれほど楽しいだろうと思ったのと、この時の幸せに頭の中のシュミレーションでは一瞬でいけたので、対象の言葉を信じて、砂糖煮込みを作ることにした。柑橘を手にもっただけで正直めんどくさかったし、包丁を入れるたびに諦めようと何度も思った。私が今、ゴールを「砂糖煮込みを作ること」ではなく「柑橘をそのまま食べること」にしたらどれだけ楽か。だけどやると決めた以上、手が止まらずに、剥く作業の大変さを「これが終わればあとは煮るだけだし」とポジティブに乗り越えた昨日の自分を、今の私は全力で止めたい。鍋に火を入れた瞬間、煮るだけだからと目を離した隙に、コンロが「ピーピー」と冷酷な警告音を鳴らす。焦げつきアラーム。それは、私の甘い見通しを嘲笑う叱責だった。焦げを「これが正解だ」と自分に言い聞かせ、分散させ、誤魔化す絶望。その間にも、砂糖まみれの洗い物は増え、コンロは強敵・ベタベタに占領されていく。スマホを持って立って、ひたすら砂糖煮込み・・・と言う名のジャムを見守る時間は、もはやリラックスタイムではなく「監視」という名の重労働だ。保母さん。プロの「だけ」は、何万回という反復の上に成り立つ「呼吸」のようなものであって、初心者の「だけ」には、迷いと義務感と後悔がぎっしり詰まっている。味見をした瞬間の「全然できてない」という絶望。あの大将の柚子皮には、ポン酢から余った皮だけでなく、私の想像もつかないほどの「見守りの時間」が凝縮されていたのだ。出来上がったのは、ドロドロの塊と、砂糖でベッタベタになったキッチン、そして信じられない量の洗い物だった。ふと我に返り、私はアヲハタのジャムを思い浮かべる。果肉がゴロッと入り、あの完璧な透明感を保ったジャムが、わずか四百円ほどで売られている。イチゴ一パックを自分で買うより、はるかに安くて確実だ。私たちは一体、何を求めてコンロの前で数時間を無駄にしているのだろうか。かつて私は、安さだけを求めてドラッグストアで九十九円の紙パックジャムを買っていた時期があった。ギンガムチェックのパッケージは可愛い。しかし、あのゼラチンだかペクチンだか分からない嘘の塊で固められたジャムを、パンは決して受け入れなかった。パンの気泡が「こんな嘘のジャム、馴染みたくねえぞ」と反骨精神を剥き出しにし、互いに反発し合っていた。あのとき、プラス三百円をケチったばかりに、私のパンは悲しい思いをしていたのだ。ジャムだけではない。のりたまの代わりに安すぎるふりかけを選んだとき、ご飯だって悲しんでいる。今回、料理人の「だけ」を信じて痛感した。専門家の「だけ」は、何千回という反復に裏打ちされた特権的な言葉なのだ。素人が専門家と同じ土俵に上がろうとしてはいけない。素人は、専門家が作り上げた素晴らしい「成果物」の、良き利用者であればそれでいい。瓶詰め作業を前に、アヲハタのロゴが頭をよぎる。このベタベタの思い出は、二度とジャムを作らないという誓いとともに、ゆっくりと味わうことにしよう。と思ったけどゆっくり味わっていたら後悔ばかり生まれそうな味なので、カモフラージュしつつ無理やり食べ続けよう。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
風邪は立ち食いカツカレーと丸齧りりんごで治るけど、病人のうちにおかゆ作っとこ!というか、おかゆってのりたまのために作るもんだよね
これだけ栄養をとっているはずなのに、私は定期的に風邪をひく。だいたい喉から始まって、鼻に抜けていくタイプの風邪だ。多分、喋りすぎの罰なんだと思う。そう思って一応反省はするんだけど、そういう時に限って、ものすごく喋りたくなる。結果、風邪はだいたい1ヶ月くらい居座る。もう友だち。さすがにこれは今日は無理だな、という日がある。熱もあって、体も重くて、「今日はこの私でも、おかゆしか食べられない日だな」と思う。正確には、おかゆというより、熟々に溶かした豆腐とか、茶碗蒸しとか、そういう“病人メニュー”しか無理な日。でも、食い意地の性質はいくら風邪ひいていても無くならないので、おかゆを作ろうと思って立ち上がり、何かを口に入れると、その瞬間から、急に元気になる。気づいたら、あんかけ焼きそばを食べている。カレーもいける。わざわざレトルトをチンしてまで食べている。「あれ、起きて口に入れさえすれば、何でも食べられるじゃん」そうなると不思議になる。なんで病人って、すりおろしリンゴとか、ゼリーとか、アクエリアスだけで生きれるんだろう。って思ってたけど、寝ながら食べるからだろうね。立とうぜ!!!!!!!それだけでげんきになる!!!!!風邪を治すには立ち食いカツカレー。りんごはすりおろさず、丸齧りしよう。昔ちょっとだけ留学していたとき、ランチバッグに必ず入っていたのが、サンドイッチとバナナと、リンゴ丸ごと一個だった。そのサンドイッチがまた、日本のとは全然違う。具がどうこうじゃなくて、「パンとパンを挟んだだけ」の、潔すぎるサンドイッチ。リンゴも、皮付きで丸ごと。歩きながら普通に食べている。ああ、海外だな、と思った。私はこれをしに貯金を全て使い果たしてカナダに来たんだな。と街を歩きながら浸っていた。当時の私は、リンゴの芯や種をどこまで残していいのかわからなかった。しかも、ゴミを出したくないし、一回口に入れた芯をランチバッグに戻すのも嫌で、結局、全部食べきっていた。そのうち気づいた。「あれ、リンゴって全部食べられるじゃん」そこから私は、リンゴを丸かじりする人になった。だから今も、風邪をひいていても、すりおろす暇なんてない。それでも、せっかくだから病人らしくおかゆを一応作る。おかゆって、思った倍の水を必要としてくる。「え、まだ吸うの?」「まだいけるの?」未知との遭遇みたいな顔で、米がどんどん増えていく。米不足が色々問題になる世の中だけど、おかゆで全て解決なのでは。ぜんざいも同じだ。「まだ増えていいの?」「まだ私にこの贅沢くれるの?」ってくらい、どんどん増える。だいたい作りすぎて、飽きる。でも飽きても、ジップロックに入れて冷凍すればいい。解凍する必要すらない。ぜんざいは、そのまま『あずきバー』になる。普通、冷凍した食べ物って、“解凍”という工程が追加されるのに、ぜんざいだけは商品形態が変わる。さらに煮詰めれば、あんこになるし、餅と食べてもいいし、いちご大福にしてもいい。しかも「ぜんざい」という名前。あんなに濁点ついてるのに、なんであんなにやさしいんだろう。おかゆも同じで、芋を入れてもいいし、小豆を入れてもいい。あと、おかゆは塩。「こんなに入れて大丈夫?」ってくらい入れたほうが美味しい。そして、ここで本題。おかゆに一番合うのは、のりたま。これは断言できる。のりたまは、ご飯にかけるために存在しているんじゃない。おかゆにかけられるために存在している。水分を少し吸ったあの粒たちが、ここで本領発揮する。海苔の存在感も異常だ。絶対いい海苔使ってる。京都のなんとか園とかだと思う。だから私は、のりたまを食べるために、おかゆを作る日がある。梅干しとか、昆布とか、おかゆにつきものみたいに言われてるけど、今日はもう一旦忘れてほしい。おかゆは、のりたまだ。海苔といえば、、、お土産で海苔をくれる人、本当にありがたい。お菓子よりも、食卓にずっといてくれるもの。軽いし。潰れないし。漬物は好みが分かれるけど、海苔は強い。昔、お菓子コーナーにあった、付箋サイズの梅味の海苔のお菓子、あれどこいった。パウチに入ってて、狂ったように食べていた時期がある。最近見ない。令和の子たちは、黒い食べ物を食べてる場合じゃないのかもしれない。歯にもつくし。でも、あれは本当に美味しかった。今日も、おかゆとのりたまがある。ありがとう。そして最後に、混ぜ込みわかめは、混ぜ込んでこそ100%というみんなわかってる、というか、タイトルにそう書いてある。知恵【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
鯖の味噌煮を水道で洗ってから食べる祖母の意地&チェーン店でもシェフに大声感謝申し上げていておもろい
ちょっと続かせて、焼きそば話。台湾の「焼きそばロール」という名の焼きそばを米粉で包む食べ物ゆえの胃袋拡張体験。台湾の漢方で相殺!わーい。台湾の夜市は、食い意地の極限を試される場所だ。屋台の熱気に浮かされ、あれこれ食べ歩いた末の「締め」に選んだのは、米粉で作った分厚いクレープ生地で焼きそばを巻いた「炒麺餅(チャオミェンビン)」だった。太巻きほどのサイズにカットされたそれは、一見軽そうに見えて、実は恐ろしい密度を誇っている。一口食べれば、もっちもちの皮とソースを吸った麺が、おにぎり一個分、いや焼きそばパン一個分の満足感で胃を蹂躙してくる。すでに満腹だったはずの私の胃は、その圧倒的な炭水化物の物量に、自らの限界を超えて新たな「余白」を拡張させられた。不思議なことに、その直後にはもう餅を食べていた。台湾という場所は、薬膳茶ですべてのカロリーを相殺し、プラマイゼロにしてくれる魔法の地なのだ。もし胃の小ささに悩んでいる人がいるなら、私は迷わず台湾を勧めたい。そこには、自分の限界の向こう側へと連れていってくれる、力強い「餅」と「麺」の抱擁が待っているから。おばあちゃんの意地!サバ味噌を洗う儀式私の祖母は、カップラーメンもレトルト食品も、「今のこういうのは凄いんだよ」という私の説得も、彼女の鉄壁のプライドの前には無力である。おばあちゃんにとって、レンジでチンするパスタは「嬉しい食べ物」ではなく、どこか得体の知れない「手抜き・衰え」の象徴。そんな祖母との冷戦に終止符を打ったのは、意外にも「生協(ララコープ)」だった。祖母が「サバの味噌煮を頼んでいる」と聞いた瞬間、私は歓喜した。生協のサバ味噌は、日本の定食界の頂点に君臨する、企業努力の結晶だ。確かに、概念としてのレトルトデビューは生協がピッタリ!!!!ニコニコ笑顔の私の口角を祖母は一気に下げまくった。やっぱり、おばあちゃんは変わらない。「味が濃すぎるから、一度洗ってから食べている」と言っていた。洗う。あの完成された味噌だれを、水で流す。絶叫しそうになったが、それが彼女なりの「ひと手間」であり、市販のものは全て味が濃いと仮定している。企業に屈服しないための最後の抵抗なのだ。生協様でもダメですか・・。祖母は、ポムの木に行けば「メニューが多すぎる」とブチ切れながらも、結局は私の頼んだ変わり種オムライスを「アボカドいいね」と横取りし、最後には厨房の奥へ「美味しかったです!」とプロ同士の挨拶のように叫びに行く。紙コップのスープさえも「勉強になるね」とプラスに変える、その小学生男子のような負けず嫌いさと好奇心。祖母が「もう面倒くさいから作りたくない」と言いながら作ってくれたロールキャベツは、生協の既製品を一度洗い、改めて生協のトマト缶とコンソメで煮直したものだった。その余計な、けれど愛おしい手間の分だけ、スープは深い味がした。むしろ濃すぎたのでパスタソースと化した。祖母がサバ味噌を洗わずに食べる日は来るのだろうか。いやこないだろうな。『薄味!』の鯖の味噌煮がたとえ新商品で出たとしても・・・。祖母にとって『薄味』はどんな色でも全ての褒め言葉であり、オムライスの時もそう言っていた。ケチャップビシャがけなのに。でも、それまでは彼女の「薄味こそが正義」という、世界で一番頑固な美食家としての矜持を、私は隣で味わい続けていたいと思し、食体験は自由でいいし『美味しい』はある意味思い込みでもある。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
焼きそばパンの焼きそばはゴムでラップは極薄で鬼臭でお願い!&コロッケよりコロッケぱんの方が安い謎
麺が(いい意味で)輪ゴムで、安さを追求したあまり薄すぎる(いい意味で)ラップに包まれた焼きそばパンの話焼きそばパンって、ホットドッグ型のコッペパンに焼きそばが挟まっている、あの完成形。あれはもう「焼くなよ」と言いたくなるコッペパンの意思を、こちらが勝手に尊重している食べ物です。ふかふかで、ちょっとパサついていて、私たちを「どうぞ」と迎えてくれる。そして何より、あの安いラップ。原価のことしか考えていない、薄くて、すぐ破れそうな、ぴったり密着するラップ。あれで包まれた焼きそばパンには、独特の匂いがある。パンにしみ込んだ、ラップの匂い。あれが、最高にいい。コロッケパンも、ナポリタンパンも同じだ。お惣菜がコッペパンに挟まれ、安いラップでみちみちに包まれ、隣のパンのうまいエキスまで吸い合っている。もしこれをクレラップで包んでいたら、絶対にこんな味にはならない。このラップの薄さは美味しさをシェアしたいがゆえである。この世の不思議なんだけど、コロッケ単体より、コロッケパンの方が安い時がある。ほとんど。中のコロッケの大きさ、そんなに変わらないのに。むしろ、コロッケパンの方が2個も入ってる時あるよ。ナポリタンだって、焼きそばだって、おかずとして売られるより、パンに挟まれた途端、価値が下がる。パンの価値、どこ行った。パサパサだから、「ないもの以下」にされてるんだろうな。だからその分私が強い愛で噛み締めて食べるね。最近、デパ地下が閉店5分前になると異世界転生する、というライフハックを知ってしまった。だから私は、19時55分には必ずデパ地下にいる。普段は1400円くらいするパスタが、拳ひとつ分の量なのに、3個で何円、実質70%オフみたいな勢いで並び出す。見た目は完全にナポリタン。味も多分ナポリタン。でもデパ地下では絶対に「ナポリタン」とは呼ばれない。なんとかセレブなんとか、みたいな名前がついて、それだけで価値が上がる。冷静に考えたら、元から500円だったら絶対買わないのに、デパ地下だと私は手に取ってしまう。デパ地下に行くと、頭がおかしくなる。それでも大好きだ。「2人前入ってます」と言われて、どう見てもシルバニアファミリーの2人前でもない量でも、私は怒りながらも通ってしまう。無料で入れるテーマパーク。ディズニーランドより飽きない。怒りながら帰っていて、怒っていても買わなきゃいけないと強く脳裏に住み着くのが「トイレットペーパー」という存在でして、それを買うためにドラッグストアに行ったおかげで、私はナポリタンの正解を見つけた。それが、ヤマザキのナポリタン。パック入りの。チルドの。まさかのドラッグストアに正解ありました。何より安くて(178円)、麺は細麺でも中麺でもない、絶妙な間。麺全体が赤くて、その周りに「赤かす」がまとわりついている。私はこれを「嘘のナポリタン」と呼んでいる。トマトケチャップの味だけじゃないけど、何かはわからない。これは何味なんだろう、と考えながら食べる。でも、なぜか美味しい。この嘘のナポリタンが、ロケ弁の副菜として、よく入っている。潰れた弁当の底で、ご飯に侵食して、白米を赤く染めている。ある日それを一緒に食べて、気づいた。ナポリタンは、ご飯に合う。ケチャップでも、具材でもない。この「麺」が必要だった。潰れた弁当をラップにまとめて、後でおにぎりみたいに食べた時、ナポリタンとご飯の一体感に驚いた。安いパスタはご飯のおかずになるんだ!焼きそばも同じだ。焼きそば単体を、ちゃんとお店で、座って食べる機会は意外と少ない。だけど常にそばにいてくれる焼きそば。焼きそばパンのことも適当にしか食べたことないのに、ここまで私を強く支えてくれている。私は焼きそばを作るのが得意だ。焼きそばは「焼きすぎ」が正解。自分が思ってる5倍は焼く。なのに、カップ麺のUFOは焼いてないのに美味しい。あのしなびた、命のないキャベツは何なんだろう。私は野菜嫌いの弟が残したUFOのキャベツを、一枚一枚、大切に食べて育った。小指くらいのキャベツに、冬キャベツ一玉分の旨みと栄養が詰まっていると、本気で信じている。だからUFOは、栄養食品!!!焼きそばパンが好きなので、たとえば全部高級素材にしてみたらどうなるかなって妄想してみた。でも、私が本当に好きなのは、高級な焼きそばパンじゃない。生食パンに、出来たての焼きそば。それはきっと美味しすぎる。飲んじゃう。私が好きなのは、パサついたコッペパンに、原価最低限の焼きそばが挟まって、安いラップで水分が抜けきった、あの感じ。輪ゴムと焼きそばを目隠しで食べたら、分からないかもしれない、あの麺。そして、真ん中にだけ乗っている青のり。そこに辿り着くまでの道のり。一口で青のりを迎えていいのかという葛藤。最後はパサパサのパンで、歯と唇についた青のりを掃除して終わる。順番通りに食べなさい、という教えなのかもしれない。冷静に考えたら、コロッケパンは、パンの中にパンが入っている。パン粉をまとったパンを、パンに挟む。すごすぎる。もしかしたら、この世で一番すごい食べ物は、コロッケなのかもしれない。安い。毎日食べても飽きない。アレンジが無限。肉じゃがも、おでんも、ポテサラも、全部コロッケになれる。世の中で『結局一番美味しいもの選手権〜』があったとしたら、あらゆる審査項目を戦わせた結果、残るのはコロッケ。焼きそばパンの話をしていたはずなのに、気づいたらコロッケに辿り着いていた。でも、それでいい気がする。だって、この世の中が、結局コロッケに恋焦がれちゃうのはしょうがないようになってる。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
練り物トランポリンランドの構想を練って考える・・!なんつって☆彡
大人になってからあらためてキャラかまぼこに向き合って「自炊の正解」を見つけた私はムチムチしたかまぼこが苦手で、タイヤの皮を食べているようなある種の不信感を抱いてきた。それでも食べ続けてきた。特に安いかまぼこしか食べたことないかもだけど、魚のDNAが薄まりすぎて、大正時代から令和に至るまでの家系図の果てにたどり着いた残像のような存在だと思っていた。しかし、そんなかまぼこ嫌いの私を救ってくれたのは「キャラかまぼこ」!!パステルカラーの魔法、存在自体がプリキュア。都会のスーパーを巡ってもなかなか見つからないその希少性は、購入する際、二十歳以上かを確認される酒やタバコと同等の「身分」を問われているような気がしてくる。友達の子供のために必死に探し、全く見つからなくて、結局ナルトで妥協した私に、その子はちょっと忖度も入ってそうな笑顔で「可愛い!」と喜んでくれた。その優しさは、私の荒んだ練り物観を浄化した。そして私は最近、自炊の最終的なゴールを見つけてしまった。それは「キャラかまぼこのふりかけ」である。半額の弁当やカップ麺の上に、ピカチュウやちいかわの薄いかまぼこを空中浮遊または密着させる。5分ほど放置し、ご飯の湿気で目をうるうるさせた彼らと見つめ合いながら食べる時間は、もはや鍋も包丁も必要としない「究極の自炊」だ。ケアの自炊・・・!!一つ一つのおかずたちと真摯に向き合いたいので、私は人生で「三角食べ」をいくら推進されてきても、給食中の校内放送で言われまくっても、ポスターで見たとしても、この行為を絶対にしてこなかった。そのおかげで、白米を最後まで残す習慣が身についている。最後に残った白米の上で輝くキャラクターと対峙する。これこそが、食に対する誠実な向き合い方であり、自炊のゴールである。独裁者はんぺん、伊達巻という名の免罪符おでんという過酷な煮込み現場において、はんぺんの立ち振る舞いはあまりにも堂々としすぎている。他の具材が「すみません」と身を寄せ合い、出汁に染まって小さくなっていく中で、はんぺんだけは誰よりも上に陣取り、鍋全体を支配する。その図々しさ。しかし、それだけの自己主張をしなければ、おでんの迷宮の中で「そういえば入ってたね」と忘れ去られてしまう。確かに、煮込み料理はどれだけ主張したかが勝負の決め手でありそうだね。謙虚であることが必ずしも正解ではないと、はんぺんはその白い巨体で教えてくれる。一方、伊達巻。私はこの存在がスイーツではなく、堂々と「食品(おかず)」として君臨しているこの国の制度に、心から感謝したい。冷静に考えれば、伊達巻はロールケーキよりも甘く、カステラよりもぎっしりと密度が高い、完全なるデザートだ。それなのに、「魚の栄養が入っている」という免罪符一枚で、夕食の食卓に紛れ込む。正月という多幸感に包まれた日、私は伊達巻の上に生クリームとイチゴを乗せて食べる。それは、コンビニのロールケーキを凌駕する背徳の味!魚さえ入っていれば、こんなドスイーツも栄養である。かまぼこがムチムチの筋肉質で社会の厳しさを語り、キャラかまぼこで妄想のあわい世界を実現してくれる。はんぺんはふわふわの虚無で自由を説き、自己主張の大切さを教えてくれて、伊達巻は、砂糖は毒だとか言われて脱砂糖が推進されるこの時代に、ちょっとの魚の栄養だけでおかずとして君臨してくれる。練り物コーナーに並ぶ彼らは、単なる加工品ではない。私たちの「食い意地」を肯定してくれる、最高にファンタジーな仲間たちなのだ〜。練り物トランポリンランドをいつか開業したいよ〜!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
【バレンタインのチョコ話】ごまさえあればいいと思ってるアスパラガス(人気のなさゆえにシェアできないお菓子)をヤンヤンつけぼーのパンダは絶対見下してる
最近調子に乗ってることの代表エピソード。夜のコンビニでヤンヤンつけボーを買い、パソコンの前に座る。無職はドラックストアでプライベートブランドのスナック菓子買っとけって話なのに。ヤンヤンつけボーは、絶妙な「労働」だ。労働を体験ありがとう!と思わせてくれる絶妙バランスのお菓子。ねるねるねるねや知育菓子のような過剰な作業ではない。これは労働。特にハンバーガーとか寿司作るやつ。過労。ただ、ディップして、カラースプレーを纏わせる。その計算された分量配分に、私たちは知らず知らずのうちに計画性を学んできた。ヤンヤンつけボー子そ真の知育菓子。しかし、その影で泣いている存在を忘れてはならない。「アスパラガス」という名の棒ビスケットだ。スティック状で湿気ず、黒ごまという、一粒でも入れたら健康フードにしてくれる魔法の免罪符ーど(メンザイフード)まで持っているのに、お菓子会では誰の手も伸びない。私は今までに合計1,000人の前で「アスパラガス好き」を公言してきたが、共感を得たことは一度もない。一袋を一人で消化するために、唾液でふやかして離乳食のように食べるという悲しい消費の仕方に辿り着いた。夏は特に辛いの。アスパラガスが私のことを一気に砂漠に連れて行く。最近のアスパラガスの「mini」展開は、そんな孤独な愛好家たちが、シェアを諦めたことへの敗北宣言のようにも見える。ゴミ袋の中から、ヤンヤンつけボーのパッケージに大きく描かれているやんちゃ系パンダがこちらを覗いている。絶対にアスパラガスのことを馬鹿にしてるな・・・という顔で。一人で食べ終えた後に残る、潰せないカップの嵩張り。じゃがりこはあんなに簡単なのに。カップの高さと厚みからやっぱり、パッケージのパンダの世間を舐めてる感が否めない。そりゃパンダはいいよね。生まれてくるだけで愛され確定人生なんだから。ヤンヤンつけボーを調子に乗って一人で食べた私に「これは本来、誰かと分かち合うべきものだったのではないか」という、小さな後悔を突きつけてくるパンダ。パックンチョコという名の「世界代表パティシエ」最近、お菓子とぜーんぜん真剣に向き合ってない。個包装のお菓子を、袋しか見ずに、パソコンに視線を当てたまま、口に入れている。そんな慢心した私を震えさせるのが、パックンチョコだ。あの小さな一粒に描かれたアートを、無視せずにはいられない。美術館の鑑賞。もしあれがディズニーランドの中で売られていたなら、間違いなく10倍の値段がついているはずだ。本当に。プリンセスの複雑な髪の毛のうねり、ツヤまで・・・。ドレスの網目、スティッチの毛並み……。プリント技術だと分かっていても、そこには「世界代表パティシエ選手権」の決勝戦のような、緻密な執念が宿っている。多くのキャラクター菓子が、見た目だけで満足して味を疎かにする中、パックンチョコは味のクオリティすら一切の妥協を許さない。パティシエが宿ってる。一粒一粒を美術館の絵画のように鑑賞し、技術に想いを馳せる。ヤンヤンつけボーのフィーバータイム(最後にチョコをたっぷりと贅沢に乗せる瞬間)が、幼少期よりそこまで興奮しなくなったけど、パックンチョコの芸術への感動はいまだに変わりない大きな感動だ。お菓子の袋ばかりを見て、中身と対話することを忘れた大人たちへ。今こそ、パックンチョコの緻密なアートを凝視し、ヤンヤンつけボーのカラースプレーを一粒も零さないよう集中するべきだ。そこには、効率化された現代が忘れてしまった「一瞬への情熱と熱狂」が詰まっているのだから。ワールドカップですね。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
コーンスープを食べたら必然と朝になっちゃうので情報消さなきゃ(+富の象徴、パイ包みスープ +青春の象徴、ケンタのバーベル)
テレビで「コーンスープの世界」が始まった瞬間、私は反射的にスイッチを切った。今これを観てしまえば、私の脳は夜を朝だと勘違いし、眠れなくなる。メディアの奴隷にはなりたくない。そう抗いながらも、結局はコーンスープへの愛を語らずにはいられない!!!黄色といえば、コーンスープの黄色を思い浮かべちゃうのが日本人。クノールの洗脳!!私にとって、コーンスープの頂点は「クノール」である。安価なプライベートブランドでは決して到達できない、あの絶対的な安心感。そして、その進化系として君臨するのが「パイ包みスープ」という、気軽に「好き」とは呼べない皇族のような存在だ。子どもの頃、ご機嫌な日曜日にイオンで買ってもらう伊藤ハムから出てるチルド惣菜のパイ包みスープは、豊かさの象徴だった。弟はパイの部分しか食べないという、底辺庶民にあるまじき貴族的な暴挙に出ていたが、私はそれを友人に話せばスナイパーに狙われるのではないかと本気で怯えていた。かつての私は、パイのサクサクを壊さぬよう別々に食べていた。しかし、ある時出会った「パイ包みの師匠」が教えてくれたのだ。パイは一目散に、地獄に落とすかのごとくスープの深淵へと沈めるべきだと。バターたっぷりのパイがスープを吸って、災害用おしぼりのように膨れ上がった瞬間、手間と原価が口の中で最大化される。それは、効率やマナーを超えた、食い意地という名の「実利」にたどり着いた瞬間だった。世の中には、どうしても解せない「色のバグ」がある。お気に入りで買ってる豆腐のパッケージについて。木綿が「青」で絹が「緑」。絶対的に逆でしょ!!!!!!スーパーという「文字の読めない戦場」では、色感覚だけで手を伸ばし、何度目かの敗北を喫する。これはもはや、企業へのお問い合わせを出すレベルのミステリーだ。絶対に逆だからねー。すみません、こんなことにケチつけてるから、私は友達と家でケンタッキーを食べるという青春を逃してしまったんだろうなと思っています。ケンタッキーの「バーレル」という、青春を形にしたバスケットに憧れ続けている。ネイルサロンのお姉さんが語る「スタッフでケンタのバーレルを予約している」というキラキラした予定。私はその輪に入り、彼女たちが食べ残すであろう骨付きチキン(おしゃれな人たちは手羽先とか骨付き肉とか、焼き魚食べるの下手そうという偏見)を、骨まで噛み砕いて平らげる「骨折職人」になりたかった。いつか、クリスマスにコーンスープを飲みながら、チキンを予約する。そして当日、スキップしながらチキンのバケツをとりに行って、パイ包みスープをチンしながら、ピザはウーバーに運んでもらうような豊かで贅沢なクリスマスが訪れますように。とサンタに願おう。そして再来年あたり叶えてもらおう。と思いながら、パイ包みスープのホームページを眺める。大きなヨーグルト。ブルーベリージャムの。公式はこれを朝に食べて欲しかったのか・・・。やっぱり、公式というものは世間とずれがある。いつも。シャウエッセンも公式がいくら「ボイルがいいよ」といっても私たちは切れ目入れて永遠カリカリに焼き続けるからね。そして結局、夜にコーンスープの映像を見て、食べたくならないように必死に我慢した。視界を狭く、しかし、お湯を少なめにしたコーンスープペーストをパンに塗り、周りをマヨで囲ってチーズのっける映像の衝撃は忘れられない。天気がいい真夏のひまわり畑やん。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
底こそ魂!雪国ブーツのような餃子とカステラの底
日本の夜は、王将の煙によって守られてるし、見えなくぼんやり、不景気も忘れさせてくれる。疲れ果てた仕事帰りの人々が、隣の店がスカスカであろうとも我先にと列をなすのは、あの赤いテーブルとニンニクの匂いにしか救えない「脳の飢え」と餃子の王将でしか満たされない不思議な栄養分と、赤の机の刺激を目に入れたいからだ。ディズニーの行列設計すら超える王将の凄みは、並んでいる間に強制的に「仕事の話」をさせることにある。お酒が入る前のシラフの会議、これこそが日本経済を回す隠れた原動力なのだ。そして、その頂点に君臨するのが、あの「底」である。王将の餃子の底は、分厚さや焼き加減の問題ではない。あれは、北海道の雪道を歩くための重厚なスノーブーツのような、肉だねのすべてを受け止める「覚悟」の現れだ。数時間経っても、テイクアウトの箱の中でも、決して中身を裏切らない。ちなみに、そもそも、お持ち帰りのパックではなく「箱」ってところもこだわりで素晴らしい。結婚式の引き出物のような立派な箱、これに餃子入れていいの?といつも思う。もし私が王将の偉い人と結婚できたなら、まず真っ先に、あのスノーブーツのような「底面インソール」だけをくり抜いて、水を並々と注いだピッチャーを横に、バリバリと食べ続けたい。「底」のかすかなジャリジャリに歯を喜ばせる、食教授としての最高の贅沢なのだ。【カステラ執刀医の密かな報酬!ざらめ団子!!】長崎県民にとって、『底フード』といえば、カステラ。カステラは単なる菓子ではない。それは「ザラメ」という宝石をいかにして掠め取るかという、静かなるオーディション会場だ。小学校の時のプールの宝探し。私は子どもの頃から、スポンジ部分はあくまで「ザラメ」という本体を輝かせるための前座、あるいは言い訳に過ぎないと考えていた。大人になった今、私は「カステラを切る」という重労働を買って出る。牛乳パックほどもある巨大な塊を、手がベタベタになるのも厭わず切り分けるのは、ひとえに執刀医だけに与えられる「紙フィルムの利権」のためだ。スプーンではなく、フォークの一直線のエッジを使い、紙フィルムに残ったザラメの残像と茶色のカスを執念深くこそげ取る。それをラップでギュッと固めたとき、手元には「遊びすぎて乾いた泥団子」のような、醜くも愛おしい至宝が現れる。食べ物の魂は、すべてその「底」に沈殿している。ザラメを奥歯の溝(十字架の真ん中)で粉砕し、忠誠を誓う^^牛乳で流し込む瞬間の全能感。この「底」に詰まった権威と覚悟を研究し続けることこそが、肉まん顔から脱却し、いつか「王将の偉い人」へと近づく唯一の道なのかもしれない。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
焼肉の締めには、ケチャップすぎるオムライスでさっぱりしよう
私はずっと、焼肉に対して怒ってきた。「なぜ高い金を払って、客である私が肉を焼くという重労働を担わなければならないのか」と。ホールスタッフの大学生活エンジョイ一軍!!みたいなバイトたちの暇そうな手つきとだるそうな顔を睨み、アルバイト代を請求したい気分でトングを握る。それが私の焼肉観だった。しかし、島にあるディープな焼肉屋は、そんな私の「怒り製造機」としての牙を、いとも容易く抜いてしまった。そこは、花びらの枚数が異常に多い謎の昭和食器や、絶対灰皿だろっていう器、サーフボードを握りつぶしたような形の皿が並ぶ昭和から時が止まった不思議な空間。焼肉屋なのに、注文を受けてから皮を包む餃子があり、注文を受けてから野菜を切り始める野菜炒めもあって、みじん切りから始まるケチャップべちょべちょのオムライスがある。このサイドメニューの本気の手間暇を昭和のスケスケレースカーテンから、厨房の中が丸見えなので、実際に目に見ることができる。この姿を見ているから、「むしろ私に焼肉を妬かせてくだせえ!!!」という気持ちになる。というか、肉をキッチンにまで取りにすらいってしまう。肉は生に下すだけだからこの時間があるんだろ・・?と思わせない肉の旨さ。これね、昭和ばーちゃんフィルターかかってなくても、全力で上手いと思える美味しさ。東京で食べたら1500円の肉が2万とれるはず。本当に。大袈裟じゃなく。美味しいと、柔らかい、旨みがあるが全て崩されず両立されている。最近の肉はとろける=美味しいという評価軸になってるでしょ。それだとわたあめでいいじゃん。もっと肉の旨み感じたい!!!肉の繊維が挟まってもいいんだよ!フロス使おう!それだけ丁寧に歯を磨いていったとしても歯医者さんに毎回言われるでしょ。「フロス使ってくださいね」って。だから、フロス使おう。肉を食べよう。繊維を歯の隙間に入れよう。作業が落ち着くと、厨房から出てきてカウンターに立って、店のおばあちゃんがみかんを「皮ごとバキッと割って」食べながらテレビ見たり、調理したり。その姿を見て、私はハッとした。忙しい合間にみかんがカピカピにならないよう、食べる分だけ都度剥く。それは、かつての「生きることに必死だった時代」の合理的な知恵だ。のんきに白い筋を取っている現代の私たちの豊かさを、そのみかんの剥き方が教えてくれる。当たり前のように、みかんをズルむき状態にしてから食べてる豊かさ。令和だ。私は生きるのが遅い。大学生になれば自然にバーベキューをして彼氏ができると思っていたけれど、そんなのは自分で動かなければ手に入らないものだと今更気づく。でも、いいのだ。その分遅れて青春がやってくる。老後の楽しみわっしょい。80歳になったとき、私は海でバーベキューをしているだろう。バチェラーに出てくるようなプールサイドでスイカジュース飲んでるだろう。人よりだいぶ遅足の私の人生は、きっと老後に一番のピークがくる。パンチを繰り返す焼肉のお供に、おでんの優しさが欲しい。タンパク質を食べてるというのに、タンパク質が欲しくなるのでゆで卵はマスト。おでんの時だけは半熟が許されない、古風な卵スタイル。焼肉の脂をおでんの出汁で流し込み、古風な薄黄身が溶け出し少し濁った汁を啜る。その後に焼肉のタレご飯。結局濃い味で蓋をする。焼肉は、店を出てからも終わらなすぎるのがいいところであり、悪いところ。服に染み付いた煙の匂いを嗅ぎながら「洗濯物が増えたな」と呟くお風呂上がりに、その真のクライマックスはやってくる。焼肉を食べた後のおならは、焼肉のタレの匂いがするのは純粋にハッピー。おならをしてむしろ深呼吸するのは焼肉の後だけ。しゃぶしゃぶのごまポンや、居酒屋の刺身醤油では決してこうはいかない。焼肉のタレだけが、体内の「特別な裏口」を通る権利を得ているのではないか。やっぱり、焼肉のたれは調味料の王者なんだろうね。まるで甲子園のシード権を手に入れたエリート選手のように、焼肉のタレは消化という過酷なトーナメントを悠々と勝ち抜き、純粋な香りを保ったまま「お土産」として外の世界へ放たれる。おならをするたびに「今日のタレは甘かったな」と今日という日をリフレクションできる。こんなに幸せな排出物が他にあるだろうか。焼肉のダクトと焼肉後のオナラのタレの香りは同じ。食後、血糖値が上がって頭が働かなくなる私は、ただのゲップのお披露目会のようなラジオを恐れていた。でも、幸せなときに幸せだと言うことが、参列者を無視した結婚式のようだとしても、この「タレの匂い」という豊かさと、大好きな焼肉屋のおばあちゃんのみかんの剥き方は脳裏に刻まなきゃ。ケチャップが濃すぎるオムライスのケチャップは口に含んで溜めておいて、帰りのカラオケで頼んだポテトにつけたらいい。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
1500円だけど、5000円の朝食に挑む。気合いゆえ、初めから汗だく喉カラカラ
寝れなかった。そりゃ寝れないだろう。寝ない方が正しい。5000円の朝食をいただける貴重な機会をいただいた。私は「5,000円の朝食」に挑む前夜、5000円とは、朝食を100円のドデカデニッシュで済ませていた私にとって、1ヶ月のランチ代より高い。これを1食の食事と捉えられず、大きな体験のような感じで、テーマパークに行くわくわくというより、5000円を堪能しなければという試合前のような緊張感。朝5時、いや4時。前夜からの焦燥感を引きずりまくったまま、私は「5,000円の朝食」という未知の戦場へ向かっていた。普段の朝食が100円のデニッシュで完結する私にとって、それは一食の食事というより、もはや一種の「儀式」だった。寝不足と緊張で胃は縮み上がり、都会の迷路でフルマラソン並みの猛ダッシュを強いられた私の顔は、会場に着く頃にはホカホカの「肉まん」と化していた。そんな私を一瞬で察知し、下駄で颯爽と案内してくれた着物のお姉様のプロフェッショナリズム。そして、目の前に現れた「永遠に飲めない水」。巨大な氷が鼻を塞ぎ、水が「すいません、通ります」と遠慮がちに隙間を縫ってくる。この不自由さこそが、一流の証なのか。メインが選べる朝食。メニューについてはテスト前夜の如く深く読み込んできたので、ノールックで注文できる。メインが、「鮭の漬け焼き」、「だし巻き卵」、「納豆・豆腐」の3種類から選べる。ここで納豆・豆腐を選べる人に足を向けて眠れないだろう。多くの人が選ぶであろう鮭の麹漬け焼きをメインに選ぶ。魚の焼き汁一滴たりとも落とさない勢いで食べる。一口目はコブダイのような頭からCMのように贅沢に!一口目にしかできない特権。二口目は皮をピラーっと剥がし、パリパリの食感をポッピングシャワーのように楽しむ。そして最後は、クリオネのごとき脂の乗った尻尾のジュルジュルをボーナスとしていただく。周りの「身分の違う」人々が、和紙に包まれた極上の梅干しを平然と残していく中で、私はその「老人と新生児のほっぺたを合わせたような」美しさに、島に住む家族の顔を重ねていた。こんなにうるうるな梅干しは見たことない。このうるうる感のまま、丁寧に、和紙を汚さないようにポケットに入れて持ち帰りたい衝動を、かろうじて「今のこの贅沢を味わい尽くすことが次への一歩だ」という、成長した食い意地魂で抑え込む。結局、緊張で肩肘はって食事をしたため、食べたものが全て消費されて、食後なはずなのに、お腹が空きすぎた私は、帰りに160円の菓子パンを買い食いするしてしまい、情けないなと思ったものの、多分口も脳も体も、この5000円の大きな衝撃について行けなかったから、この延伸感が欲しくて私は菓子パンを食べたんだと思う。私は人生において、温泉卵は「丸飲み」してきた。黄身を1滴たりとも無駄にしたくない、その一心だった。しかし、5,000円の朝食という静謐な空間で、私は初めて温泉卵を「割る」という贅沢を知った。黄身の中に箸を入れて、とろっととろける美しいオレンジ色。今までは半透明のフィルムに覆われた姿しか見えてなかった黄身との初対面。ヤッホー!お前、そんなにトロッとしていたのか〜出てきてくれてありがとうね。そうだ。こうやって、口に入る瞬間に割ってあげなければ、この美しい太陽は見えなかった。私の胃の中に爪楊枝を持って待っている人はいないのだ。私がわたしの箸で割ってあげなきゃ行けない。定食の中の小鉢にある、牛すきのタレをハンモックのように肉で受け止め、口の中で「自家製温玉牛丼」を完成させる。5000円の定食となれば、普段表に出まくって存在の主張が激しい「牛肉」ですら、深くて、しかも底面より上の面の方が丸の半径が狭い隠れん坊スタイルの器。牛肉を隠すのか。しかも、ミニトマト入りの牛肉。最近ミニトマトもイチゴレベルで高級なのに。そのほかにも、昆布、筍、煮物2種、そして温泉卵に、パリパリの海苔、うるうるの梅干し、ご飯のお供が多すぎて、ご飯が全く足りないという朝食のバグ。そもそもお櫃ご飯なんだから、ご飯のお供はいらない。キッラキラのご飯は汚さずそのままのツヤで口の中に入れてあげたい。お櫃から掬い上げる白飯の輝き。それらを目の端に焼き付けながら、私は「場所代」や「サービス代」に込められた、目に見えない価値を噛み締めていた。TVのショップチャンネルで宝石が映される時、キラキラ〜の加工が入るけど、それが実際にこのご飯に見えた。夏の豪華花火の付属品にある3Dメガネのよう。この体験をして気づいたのは、値段が上がるほど、お腹も心も満足するものと思っていたけど、そうじゃない。むしろ、余白をくれるのが、この値段がゆえなのかも!だから、私が食後お腹を満たすために菓子パンを食べたのは正常である。朝は忙しくて空を見上げる時間や、息を吸う時間はないと思っていたが、こんな高い場所で景色を見ながら、豊かなサービスを受ける。わちゃわちゃしない「朝」ってあるんだ!もちろん、スタッフの方のゆとりと余裕もすごい。締めのカフェタイムの時、8人中6人がカフェオレを頼んだ。カフェオレ担当の人がカフェオレを持ってきてすぐに全部こぼしてしまった。スタッフの人はそれでも落ち着いていた。まるで自分がこぼしていないように。私の方が飛び跳ねて、なんか悪いことしたなと思ってドキドキしちゃったよ。しかも、カフェオレだよ。牛乳大変じゃん。こぼして、「申し訳ありません」をとっても落ち着いていい、その後近辺の人に汚れてないかの確認。私だったらすぐに隠蔽工作を始めるだろう。まずしなければいけない優先順位をしっかり把握している。朝の落ち着きと、ゆとりこそがお金持ちの余裕なんだと思った。お金持ちとは余白のある人・・・・!!!そういや私はなかった。ドデカデニッシュばかり食べた結果かもしれない。デニッシュというのはパンの中で珍しく発酵とかじゃなくて層を重ねていくもの。密度が高い。もっとここでふんわりしたパンを食べてた方がよかったのかもしれない。確かに、中学生のころは「ハイジの白パン」しか食べなかった時があったけど、この時の方が豊かだったな。心も白で澄んでたし、ふわふわ軽くて、肌も綺麗だった。なかなかない体験で、刺激が多く、自分との違いがゆえ、色々反省してしまい、落ち込んでしまった。かなり落ち込んだ。歩くスピードも遅すぎる。動けない。落ち込みが止まらないので、こういう日はカキフライに救ってもらおう。私のお守り。カキフライ!!!そう決めた途端、小躍り。やっぱり、どれだけ落ち込んでも、一日の終わりをカキフライで締めることで最高の一日になる!私のゆとりはカキフライが作ってくれる。タルタルやソースを最初からかけず、まずはそのまま。後からソースを追いかけさせる、それがカキフライへの礼儀。情けない私カキフライの茶色い衣の中にカニ味噌のようなボーナス!やっぱりついてる。カキフライは私を見守ってくれている。お腹も心もいっぱいということは何にも入る隙間がないのと同じ。せっかくのサービスも感じられない。だからたくさん吸収しよう!満たそう!ではなくて、常にゆとりを持っておこう。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
日曜のスーパーがRPGすぎてゲーム系弱いので困る
この世で一番好きな言葉は、「本日ご来店のお客様だけの特別価格。チラシには載ってません」絶対にこの商品をどんなものよりもすごい勢いで買うし、たとえチラシに載ってたとしても、許せる自信がある。この言葉だけは無条件で信じる。手に取る。カゴに入れる。帰ってから「本当にチラシに載ってなかったかな?」と確認することは、絶対にしない。なんか載ってそうな気がするからかも。とりあえず、見て得することは何にもないので、やらなくていいことは徹底的にやらない。人の荒探しが得意な私が、これをしない。つまりこれはもう、価格の話ではなく気分の話。セールのことは、振り返らない。疑った瞬間に、負ける。こういう売り文句は日曜日に多い。で、本題。日曜日のスーパーが疲れすぎる。通せんぼ祭り。悪い方は100%私なこと、わかってる。無職の私が平日のガラガラな時間に行けばいい。なのに日曜日に行ってしまい、勝手に疲れ、勝手にイライラしている。日曜日のスーパーには家族連れがいる。子どもはいい。むしろ可愛い。お菓子コーナーで大の字になって「これが欲しい!!!!」と泣き叫ぶ姿を見ると、羨ましくなる。私はもう、できない。年齢的にも、サイズ的にも。でも私は、やってきた。ゲーセンでも、カード売り場でも、お菓子コーナーでも。公共の場で許される迷惑は、だいたいフルコンプリートしている。だから今は、ただ「いいな」と思うだけで済んでいる。子どものうちにしかできないことは、ちゃんとやっておいた方がいい。大声で泣くことも、床に寝転がることも、大人になったら一生できないのだから。日曜日のスーパーには、もう一つの名物がある。世の中のお父さんである。なぜか分からないが、お父さんは必ず邪魔な場所に立つ。道のど真ん中。値札が見えない位置。私が進みたい進路の、ちょうど正面。おそらく理由はこうだ。お母さんは夕飯のことを考えていて、スーパーの地図が頭に入っている。お父さんは、ついてきているだけ。結果、私は通れない。私はスーパーを、スケートリンクだと思っている。シュッ、シュッ、と滑るように買い物をしたいのに、RPGでしか見たことのない「ぶつからないと通してくれない生物」が出現する。そんな私が日曜に行ってしまう、心から愛しているスーパーがある。フードパワーセンター ダイキョービッグバリュー。名前が強い。そして毎回、「本当にビッグだな、バリューだな」と思わせてくる。店員さんは感じがよく、恵方巻きの前には「私のおすすめ:卵巻き(限定30本だから気をつけて)」と大きなメモ。最高。クリスマスにはチキンを推し、季節ごとに被り物をし、日曜朝一には振る舞いまである。しかも振る舞いが本気。全ざいには豆がちゃんと入っている。豚汁には肉がある。ネギは後入れ。今日は、鶏そばだった。そばだけでもいいのに、なぜ鶏まで入れてくれるの。本当ビッグバリューなんだね。ありがとう。しかし、私にとって日曜の朝は12時から始まるので、起きた頃には何故か朝一が終わっている。しかも、日曜日は世の中のお父さんたちがスーパーに来るせいで、来客が増えすぎて早く振る舞いがなくなる。余計に私が起きる頃にはすっからかん。このイライラをおさめてくれるのが、出口にある、麦茶。庶民のために。庶民という存在は麦茶が大好きだからね。昔は100円うどん屋があり、今は釜焼きピザがある。いびつな形で、ちゃんと美味しい。綺麗な丸の形のピザは信用しないぞ〜!!!!!お惣菜は受賞しまくりなのに、ハズレがない。それが一番すごい。ビッグバリューみたいに、生きたい名前の重さを背負って、油断せず、ちゃんと人に向き合って商売をする。私は、ビッグバリューみたいな人になりたい。だから今日も文句を言いながら昼過ぎに日曜に行き、たくさんの敵と戦い、買い物をする。そして、振る舞い分の大きな空っぽ鍋を見て歯を食いしばる。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
カレーパンマンのカレー黄色すぎない?そんなことよりバタコさんの労働問題
アンパンマンを観るたびに、ずっと思っていたことがある。カレーパンマンのカレー、黄色すぎない?子どもの頃は給食のカレーが基準だったから、なんとなく受け入れていたし、甘口だから黄色いんだろうな、くらいに思っていた。星の王子さまカレーとか、アンパンマンのパウチのカレーとか、あの常温で持ち運べるやつ。おにぎりと一緒に持っていけば、レンジなしでカレーが食べられるあれの色だから。というか、これら本当に革命すぎ。「子供用」という製品で軽視されてるけど、だいぶ助かりまくってる。レトルトカレーたちも見習って!!!これのおかげで豊かで身軽な弁当生活送れました。感謝。でも大人になって、改めて考えるとやっぱり黄色い。というか、服黄色だもんね。顔はさ、カレーパンだとしたら茶色すぎるよね。焦げすぎてる。そしてパン粉どこいった。カレーパンマンだから、カレーパンってパン粉ついてないとカレーパンって名乗っちゃいけないんだけど。カレーパンマンが口から出すカレーについて。茶色の概念がない。黄土色ですらなく、ほぼ黄色。大人になったからこその結論。ターメリックを多く使ってるんだろうなって思った。あとさ、カレーパンマンは口からカレーを噴射するけど、ドロドロの日本式カレーだったら、あんなに勢いよく飛ばない。つまり、あれはサラサラ系。もしかするとカレーですらなくて、南インドのダルスープ(インドでいう味噌汁みたいな存在のやつ。カレーの一種でもあるんだけど)なのではないか。しかも不思議なのは、カレーパンマンがカレーをアニメの中で提供する時、だいたいご飯の方が分量が多い!!!!なんでー!と思ったけどやっぱり自分は普段パンだから、ご飯に飢えててついご飯多くなっちゃうし、そもそもアンパンマンの世界の人たち、パン食だからこういう時に米多くしてあげよ〜の優しさなのか、自分のカレーに自信がないのか、米が物価高だけど優しいから大盛りにしてくれてるとか。だけど、カレーパンに置いて、ルーってパンに比べて少ないじゃん、そもそも包まれているし。私は、カレーが、カレーライスの方を見慣れすぎて、カレールウとご飯の割合は7:3でカレーが多い方が当たり前と思っていたけど、これは自分の中の決めつけであって、カレーパンにおけるルウをご飯にのせるとなると控えめでいいのか〜。カレーライスにおけるカレーと、カレーパンのために作ったカレーは粘度が違うもんね!!けどさ、それにしても、カレーパンマンならもっとカレーを前面に押し出してアピールしたらいいのに、マジでご飯の方をメインに差し出してるし、スプーンも雑に添えてる。カレーに浸っててめっちゃ嫌。おもてなしかけてる。カレーパンマンってデリカシーなさそうだもんね(偏見)だけど、考えていくうちに気づいた。カレーパンマンはカレーが好きなんじゃない。カレーを“背負ってる”。カレーが好きすぎて、脱サラしてカレー屋始めたというタイプではなく、家業引き継ぎパターンだと思う。彼は自分の中から無限にカレーが湧くわけじゃない。バタコさんが補充してくれる。つまりカレーは仕事で、宿命で、役割だ。私はお菓子屋をやっていたからわかる。元々、お菓子は食べる方はそんなに好きではなく、作るのだけが好きで始めたから、特に作りすぎると余計に全くケーキなどを食べたくなくなる。カレーパンマンもそうだと思う。元々好きでもない料理ジャンルに毎日触れすぎて、あんまりもうカレーみたくないんだろうね。私は作ってない時間とか、お風呂の時間とかはお菓子から離れられるけど、カレーパンマンは常にカレーと一緒だし、吹き出すから、常にカレーを口に含んでるんだよね?そりゃ嫌だわ〜。そしてさ、食べてるどころか、自分から吐き出してるんだから、その感覚でカレーと向き合ってたらそりゃ嫌になる。というかさ、カレーパンマンのカレー、ばたこさんが作っとるやん。掘り下げていくと、アンパンマン世界の真の料理担当は完全にバタコさんだった。パン生地以外の全て作らされてる。アンパンマンのあんこを炊いたのも、カレーパンマンのカレーを作ったのも彼女。(かき混ぜたりするのが多いから、チーズも結構混ぜるの手伝ってくれてる。)(自動で混ぜる機械買ってあげよう。パン捏ねの機会はあるっぽいから、それの先っぽ変えて、鍋も自動でかき混ぜようよ。特にあんことかほんと大変だよ。)ジャムおじさんはパンしか作らない。パン屋の手をしすぎてるからもうこれだけで十分なんだけどね。パンダのシャンシャンがいるだけで十分〜みたいな感覚。パン屋の手を持って生まれて、パン屋になってくれてマジ感謝〜美味しいパンを焼く人の手って、本当にわかるよね。実生活でも。手だけ見てわかる。パン屋さんの手図鑑あったら欲しい。作りたい。そもそも、アンパンマンがここまで気軽にパンをいろんな人にあげれる豊かさがあるのは完全にジャムおじさんとバタコさんのおかげなんだよ。それなのに、称えられるのはいつもアンパンマン。でも、見えないところで支える人がいなければ、あの世界は回らない。そういう存在に気づける人間になりたいと、最近よく思う。というか、アンパンマンの住人たちは結構みんな感謝述べてる「いつも」ありがとう。と、ジャムおじさんやバタコさんに言ってるのを聞いたことある。何回も。だからみんな陰の立役者のことを知っていて目立つ部分や形式的な感謝で終わらず、深い感謝で繋がってるからあんなお気楽世界が続いて、毎日天気も晴れてるんだろうな〜。太陽のグラデーションが素晴らしいんだよね。アンパンマンの世界。とにかくアンパンマン大好きなので、チャーハン王子の回を観て、追加で思ったこと言いたい。お調子者っぽい声色のチャーハン王子。みんなにチャーハン振る舞う時に盛大に失敗。正直、自分で王子って名乗っちゃうやつは失敗してくれーと思ってたけど。王子っていうのは人から呼ばれるものであって、自分では言わないからね。人に振る舞う時ほど、料理はうまくいかないのは痛くわかる。気合を入れすぎると、失敗する。どうでもいい日の夕飯ほど、なぜか美味しくできる。本気で評価してほしい相手に出す一皿ほど、空回りする。だから私は、店も人も、一回で判断したくない。でも、食べられる回数も、胃袋も、人生も限られている。結局、一回で判断せざるを得ない現実がある。気合を入れすぎると失敗する現象。料理だけじゃなく、人生全部そうなのかもしれない。でも、じゃあ「適当」が正解かというと、それも違う。見栄を張らずに、落ち着いて日常を生きて目の前に人に提供する優しい気持ちが料理やあらゆるサービスに必要なことなんだと思う。やっぱりいい世界。アンパンマン。アンパンマンがあんぱんちぎるのもいつも適当だから、絶対大きさの差とか、中心部分の人あんこ多くていいなあとかここまで配るなら薄皮あんぱんスタイルにしたらいいのにーとかなるはずなのに、誰も言わない。自分が持ってるものを惜しみなく与えることとそこへの感謝で世界が回ってて、バタコさんみたいに本当に忙しい人が、忙しいアピールや、慰めてアピールを一切せずに基本は呑気キャラでみんなを支えてるのが本当に素晴らしい。バタバタしちゃうのはお前らのせいだぞ!って思っちゃいそうなのに、それをキャラとして演じ切ってくれてるし、チーズも、忠犬ハチ公みたいなスタンスなのがいい。犬だから可愛がられるのあたり前〜と思ってるシェアハウスにいるタイプの犬とは全く違う。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://lit.link/kuiizi
お願いだから肉じゃがは煮崩れまくっててほしい
肉じゃがは、崩れれていれば崩れているほどいい。じゃがいもは形を失い、煮汁と一体化し、もはや粕汁、濁り酒みたいになってるくらいが理想。玉ねぎは箸ですくえないほどトロトロで、人参は流石に煮崩れは外部の力がないと難しいので、縁がふわふわしている感じ、肉はトロトロまたはカチカチ、肉かすも煮汁に溶けまくる(日高屋の野菜炒めみたいに)。糸こんにゃくをすくえば、まわりにじゃがいもの粒と玉ねぎの残骸がまとわりついてくる。あれがいい。だから私は、人生で唯一行った料理教室の初回体験を、いまだに忘れられない。体験メニューは体験オブ体験の肉じゃがだった。そこでは「煮崩れないこと」が美徳とされ、じゃがいもは角切り、油でコーティングされ、ピッシリと形を保っていた。丁寧に作られた、あまりにも整った肉じゃが。火は通っているはずなのに、口に入れるとシャーっと音がする。包丁を食べているような錯覚。飲み込むと痛ささえ感じる。煮汁も、醤油・みりん・砂糖がそれぞれ別行動をしていて、全然手をつないでいない。馴染んでない。とても気まずい飲み会みたいになってる。現場も実際にそうだったから、この空気感を感じて調味料たちがこんな風になってたんだろうね。「これは肉じゃがじゃない」と泣きそうになりながらも、エプロンを着ること、手を洗うこと、計量すること、みんなで作って一息つきながら食べること、その空間自体はとても素敵だとも思っていた。料理って素敵!愛おしい!めんどくさいものじゃないし、手際良くする必要もない!でも、私が再び料理教室に行くことはなかった。今日、祖母が持ってきてくれた肉じゃがは、最高だった。煮崩れまくり、じゃがいもは煮汁に溶け、家だから視線気にせず、汁を冷めたご飯にかけてジュルジュル言わせながらスプーンで味噌汁ご飯のように食べる。料理教室日はみんなの視線が逸れたタイミングで急いでツヤツヤのご飯にかけて煮汁を飲み干したことを思い出していた。肉じゃがの肉は、関東は豚、関西は牛だと言う。「ケンミンショー」はすぐ県民性で分けたがるけれど、私の家にはその前に「選択肢が豚しかない」という現実があった。牛か豚かで語れるのは、それだけで豊かなことだ。ぎゅうもあるんだ・・・!と知った時の絶望と現実。漫画ならトーンだいぶつけられてる。牛肉の肉じゃがは、きっとすき焼きみたいで、ちょっとリッチで、卵を落としても美味しいんだろう。でも私にとって肉じゃがは、ぐちゃぐちゃで、混ざり合っていて、豚の白い油があって、境界線が溶けているものだ。きれいに作られた料理が、美味しくて、必ずしも正解じゃない!煮崩れは褒め言葉である。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓ ↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS
デパ地下閉店5分前に異世界転生その後の電車宴会
要約↓昨日、電車に乗っていたら、優先席で宴会を始めている人たちがいた。女性二人と男性一人。縦長の大きな缶ビールを手に、仕事の雑談をしている。周りの視線なんてお構いなしで、完全に下町居酒屋モード。私はそれを見ながら、「どう考えても家で飲んだ方がいいのに」とずっと思っていた。だって、家まで我慢して走って帰れば、カロリーも消費できるし、歩きやすいし、何より家でプシュッと開けた方が絶対おいしい。電車で見られながら飲むビールより、帰ってからの一杯の方が気持ちいいに決まっている。とはいえ、走ったせいで泡が大爆発したらどうするんだろう、とも思う。年末に、スパークリングの濁り日本酒を開けた瞬間に大噴火した事件を見たことがある。床も服もベトベト、掃除も大変。でもあれはあれでちょっと楽しかった。掃除のために年末年始始めてこたつから出るし。動けるし、年末のいい運動にもなる。だから結局、家で飲めばいいのに、とやっぱり思う。……と、そんなことを考えながら、私もそのとき手にコロッケを持っていた。神戸コロッケのレンコンコロッケ。デパ地下の中で唯一、庶民に優しい心を開いてくれているあのコロッケ屋さんである。私はデパ地下の攻略法を知っている。閉店5分前になると、どこからともなく「半額ポップ」が異世界転生みたいに現れるのだ。あれはきっと、5分前まではこの世に存在していない。その戦場で私は、新発売のレンコンコロッケを手に入れた。普通のコロッケの倍の値段だけど、段をつけて生まれたての赤ちゃんみたいに奉られて飾られていたら、買ってしまうに決まっている。本当は電車の中ですぐ食べたかった。でも宴会している人たちを見てしまった手前、なんとなく我慢した。幸い乗り換え後は人も少なくなり、そこでひっそり食べた。(というか、マナー違反すみません)疲れた顔の人たちの中で食べる冷たいコロッケは、「生きてるなあ」という実感をくれた。でも終盤になると気づく。これ、普通のコロッケの中に角切りレンコンが少し入っているだけじゃないか。それだけで私は倍の値段を払っている。なのに全然怒っていない。コロッケという食べ物は不思議だ。明太子ロッケ、梅大葉コロッケ、ジャガバターコロッケ――“何かひとつ入った瞬間に値段が倍になる”のに、誰も文句を言わない。牛丼だったら、キムチが入っただけで倍になったら絶対に許さないのに、コロッケだけはなぜか許されている。さらにそのレンコンコロッケには、粉チーズとパセリがふりかけられていた。この二つは本当にすごい。粉チーズとパセリがかかるだけで、食べ物は三倍おしゃれに見える。私はそれに完全に騙されて買った。一生懸命チーズとパセリの部分だけ味わおうとしたけれど、結局よくわからなかった。コロッケといえば、私は北海道物産展が大好きだ。人生の半分くらいは北海道物産展に支えられて生きてきたと言ってもいい。ただ、ひとつだけ言いたい。北海道のコロッケは、すぐジャガイモを信じなくなる。北海道なのに!!!!!北海道が信じなくてどーする。バター味だの、カレー味だの、海苔味だの。「いやいや、北海道こそジャガイモそのままで勝負してよ」といつも思う。ジャガイモはそれだけで十分おいしいのに、すぐ何かを足したがる。……と思いつつ、結局それらも全部おいしいから悔しい。そう考えると、コロッケという食べ物は本当に罪深い。ちょっと具を足すだけで価値を倍にし、粉チーズとパセリでさらに格上げし、電車の中で食べても幸せをくれる。そして私は今日もまた、半額ポップに誘われて、新しいコロッケに騙されに行くのだと思う。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS
アメリカンドッグがフランクフルトで、フランクフルトがアメリカンドッグっぽいよね
たぶん要約↓小学生の頃、お祭りのメニュー表が雑すぎてアメリカンドッグとフランクフルトの違いが分からず、本当は衣つきのアメリカンドッグが食べたいのに間違えてフランクフルトを頼んでしまうことが多かった。フランクフルトを持ってる同世代を見ると「この子も間違えたんだ…」と勝手に共感していた。大人になった今は、ソーセージ系への愛(シャウエッセンはボイルよりカリカリ焼き派)を語りつつ、アメリカンドッグの“店による差”は工場差じゃなく揚げ具合・放置時間・設備の差だろうと思っている。アメリカンドッグは日本全国一社提供なはずなので(多分&確実)あとアメリカン『ドック』と『ドッグ』どっちだったけ〜〜〜と、と毎回思って調べるときに「犬と同じだよ!」ということは覚えているものの、だから!!!犬がカタカナでドックだっけ、ドッグたっけってなって結局どっちか分からずじまい。低学歴おつ。そして一時期流行った「アメリカンドッグの下のカリカリが一番うまい」論には反発。あれは本当は“好き”というのはただの言い訳で、貧困の意地で食べてる部分で、それを正当化したいだけの言い訳である。カリカリ部分だけを商品化したドンキは“全て間違ってる”と感じた。いつかカリカリ部分を捨てられるくらい余裕のある大人になりたい、あそこの部分に目も向けず、ポイっと捨てれる人になりてえ。さらに、食べ物は串に刺さってるだけでうまそうに見える(焼き鳥・唐揚げ串など)それは、鶏肉系はとにかく自己主張させてあげよう!という子育て論がゆえに!串刺しがおいしく見えるんだろうね〜〜〜冷たいカップデリ唐揚げを買ってしまうのは、透明容器が唐揚げの“自己主張”を保っていて魅力的に見えるからだと気づいた。最後に、コンビニのアメリカンドッグでもらえるパウチのケチャップが全然足りない&食べ歩きで扱いづらいので、もっと使いやすい仕組みにしてほしいです。ケチャップ持参でコンビニ行かせてください。そして店員さん、ケチャップ乗っけるの手伝ってください。ここから世界平和生まれると思う!ああ!!!!アメリカンドッグに砂糖まぶすの最高においしいよね!というのと、アメリカンドッグにマスタード必須になったら大人になった証拠っていうの忘れてたのでお見知り置きください!!!【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS
安くておいしいもの または、 素朴でシンプルでおいしいもの を食べて「こういうのでいいんだよ」ってさえいえばいいと思ってる人にならないぞ!って思ってたけどなっちゃった。悲しい
要約になってない要約↓私はずっと「孤独のグルメ」が大好きだけれど、あえて聖地巡礼はしないようにしている。行ったら絶対に“五郎さんごっこ”をしてしまう自分が想像できて、恥ずかしいから。そうなってる痛い人たちをたくさん見てきたし。安くておいしいもの または、 素朴でシンプルでおいしいもの を食べて「こういうのでいいんだよ」ってさえいえばいいと思ってる人。むしろ、この言葉を言いたいからそういうものを食べにいく人。レビューや口コミに頼らず、自分の直感と運だけでお店を選べる人になりたい。でも実際は、食べログやGoogleマップを血まなこで見てしまい、知り合いのおすすめよりも見知らぬ人のレビューを信じてしまう自分が本当に情けない。だから永遠飲み会やお茶会などにも誘われにくい人種のままなんだと思う。永遠一人語り人生。結局痛い孤独のグルメ像は自分が一番なってる。理想は「気になった店にパッと入れる人」になること。そのためには“比較しないこと”が大事だと気づいた。これは人生においてもそうですよね。最近たどり着いたのは、「お腹に聞くのではなく、気分でごはんを選ぶ」という方法。そして、一旦口の中に漬物か梅干しを入れながら考える方法。お腹は空いていると何でも食べたくなるから判断が鈍る。そして疲れていても鈍る。焼肉のたれしか飲みたくなくなる。でも気分に合わせて選ぶと失敗しにくい。その象徴が「大戸屋」と「松屋」の体験。・背伸びしたインターン説明会でボロボロに疲れた日は、大戸屋の温かい定食が心に染みた。・ひどく怒られた日は、松屋の牛丼がいちばん正解だった。 丼ものは情報量が少なくて、心が疲れているときにちょうどいい。逆に落ち込んだ日にデパ地下のキラキラ惣菜を食べると、情報量が多すぎて余計にしんどくなる。というか、いくと疲れる。だから元気な日は華やかな食事、落ち込んだ日はシンプルな丼もの。これが自分なりの食選びの正解だとわかった。最後にNetflixで陸上アニメ「100M」を観て、漫画「アシガール」を読んだあと、ネパール料理のスパイスを大量摂取したら、なぜか自分の足が速くなった気がした。今回は、スパイスを食べると猛烈に足が速くなるという話でした。【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS
成城石井のポテサラは成城石井アピが強かったです。
【食い意地ラジオについて】9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓せているラジオです。自我強くてごめん。食い意地ラジオみてね↓https://l.instagram.com/?u=https%3A%2F%2Flit.link%2Fkuiizi&e=AT3XSFafeOvCYz-Qrs2YZVSzaeTnwEMBOgkeC95oI-CnVLmvnk71aqxhJDN4sl3o0BcDpUnJIM0b_GCLR3YqBToaVq13H6ahdt7eI7Bd_MXgSsHMnZQg-nhRT2SJ_rgRR4_KKBBPBsrS要約になってない要約↓成城石井のポテトサラダは、一口食べてみて、成城石井を感じすぎた。あまりにも世の中が「成城石井のポテトサラダ」を褒めちぎるので、ちゃんと向き合ってみることにした。しかも、自由が丘の成城石井という強い4文字の組み合わせ!!!!!!イートインスペースで、ポテトサラダだけを大量に食べる。真摯に向き合うよ。そもそも成城石井にイートインなんてあるのか、という話なのだけれど、自由が丘店にはちゃんとある。しかも結構広い。仕切りもあって、外から見えにくい。「自由が丘の成城石井で夜に一人ポテサラをむさぼる人」として世間に晒されない優しい設計になっていて、そこはとてもよかった。壁にはワインの写真が飾られていて、なんとなく上品な空気。私は成城石井のカタログを読みながら、成城石井の割り箸で、成城石井のポテトサラダを食べる。成城石井に包囲された時間だった。成城石井バー!そして、肝心のポテトサラダ。ひと口食べて思った。おしゃれすぎる。これはもう、ポテトサラダというより「成城石井」だった。ポテトサラダにおいて一番大切なのは、素朴さだと思っている。主張しないこと。家庭料理としての控えめさ。けれどこのポテサラは、「私は成城石井発の洗練されたポテトサラダです」と名刺を配り歩いているような味だった。原因はたぶん、セロリと薄いマヨネーズ。セロリと粒マスタードという存在は、食べ物を一瞬で海外旅行させてしまう力を持っている。おしゃれサラダなら大歓迎だけれど、シンプルを売りにするポテサラに入ると、どうしても出しゃばりすぎる。昔のレビューを調べてみたら、以前はもっと家庭的で、きゅうり・にんじん・玉ねぎ中心の、ほくほく系だったらしい。今はなめらかで洗練された路線に変わっていて、なんだか少し遠い存在になってしまっていた。とはいえ、成城石井そのものはやっぱり好きだ。おしゃれで楽しくて、つい寄りたくなるお店なのは間違いない。ただ、このポテトサラダは私の中の“ポテサラ像”とは少し違っただけで。それで改めて思った。ポテトサラダにはいろんな世界がある。家庭で作る素朴なポテサラ。お弁当にちょこんと入っている業務用の“嘘ポテサラ”。居酒屋でこだわって作られている本気のポテサラ。そして成城石井みたいに、どこまでもおしゃれに走るポテサラ。その違いをまとめた「ポテトサラダの家系図」みたいな本を、いつか本気で作りたいと思っている。ちなみに最近の発見は、ポテトサラダは春巻きにするとめちゃくちゃおいしいということ。けどやっぱり、成城石井は全ての惣菜において成城石井アピ強くいてくれ!!!!そのほうが消費しがいがあるー!!!!!
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