ここでちょっとこの方の家族の風景を想像してみましょう。
母子家庭でお母さんと3歳上のお兄ちゃんと3人暮らし。
お母さんは女で一つで自分たちを育ててくれ。
休みの日には車で子供たちをあちこち連れて行ってくれる。
もしかしたらお兄ちゃんはちょっとお父さん代わりみたいにお母さんを支えつつ、妹か弟であるこの方の面倒をよく見てくれていたのかもしれません。
そう考えた時にこのリスナーさんは末っ子としてお母さんとお兄ちゃんの2人のことをよく観察しながら上手についていく。
そんな温かい家族の中での自分の立ち位置みたいなものが浮かんでくる気がします。
途方に暮れる時もいつも3人一緒だったというように危機の場面でも決して孤独じゃないところにもこの世界への信頼感が現れているようです。
ではいよいよ本題の早期回想。ある日軽トラに乗せてもらった場面です。
ここでまず注目したいのが動詞です。
この早期回想、実はご自身が主語になっている能動的な動詞がほとんど出てきません。
お母さんが乗せてくれる。見知らぬお兄さんが声をかけてくれる。
軽トラに乗せてくれて送ってくれる。
動いているのはいつも周りの大人たちなんですね。
ただ一箇所だけ最後に私は生まれて初めて軽トラに乗りましたという能動的な動詞が出てきますが、
それ以外は終始乗せてもらう側、してもらう側なんです。
これ決して否定的な意味で言ってるわけじゃなくてですね、
むしろこの方の世界への上手な乗っかり方がすごく素直に出ているなと思うんです。
お気づきかもしれませんが、この方も私と同じ乗り物の記憶です。
しかも面白いのが乗り物が乗り変わっていること。
お母さんの軽自動車から見知らぬお兄さんの軽トラへ。
だから生まれて初めて軽トラに乗ったのをはっきりと覚えている。
信頼できる相手が家族から世界そのものへと一歩広がった瞬間だったのかもしれません。
私のケースでは乗り物を人生のハンドルを自分で握れるかどうかのメタファーとして解釈しましたが、
それを今回も当てはめてみると、この方は終始乗せてもらう側です。
でも私のあの後部座席の恐怖とは質がまるで違うと感じていまして、
私のは無力に連れて行かれる怖さ。
対してこの方は身を委ねれば誰かがちゃんと安全な場所まで運んでくれるという安心感みたいな印象ですね。
ここから読み解くに、ライフスタイルのタイプ分類でいうと、
この方の場合、人を信じて頼ることができるベイビータイプに近いのかもしれません。
人に頼れる、上手についていけるってめちゃくちゃ立派な才能です。
この方、ちゃんと最後に感情の描写を送ってくださっています。
感情っていうのは早期回想でめちゃくちゃ重要なんですが、
記憶が危機管理マニュアルなのか、それともオアシスの地図なのかというのをひも解く上で、実はめっちゃ重要なんですね。
この方の場合、ほっとした気持ちと知らない人でちょっと不安。
これ、言うなればオアシスがほとんどだけど、危機管理の要素もちょっぴり混ざっているという感じでしょうか。
手放しで安心しきっているわけじゃなくて、心の中では知らない人でちょっと不安だなって感じている。
でもその不安を嫌だとか乗らないって外に言い出すことはなくって、
お母さんやお兄ちゃんと一緒にその場に身を委ねてスーッと流れに乗っかっていく。
能動的な動詞の少なさも含めると、どちらかというと自分でガツガツ行くより、
信頼できる流れに上手に身を委ねていく。
そういう運動法則というか生き方の型なのかなと思います。
この方にとって世界って温かい場所なので、大きく困ることはないんでしょうけれども、
時々周りのペースに振り回されたり、もやもやを言い出せないまま流れに合わせちゃうようなところもあるのかもしれませんね。
最後に冒頭の車の色の話をしておきたいのですが、この方の原風景に出てくる車、ネズミ色なんですよね。
ピカピカの新車でもなく派手な色でもなくネズミ色。
地味で素朴で目立たない色。豪華さじゃなくてすつましい温かさ。
この色の選び方一つにこの方が本当に大切にしているものが出ている気がするんです。
母子家庭でもしかしたら決して物質的に豊かじゃなかったのかもしれない。
でもその素朴な情景を宝物の原風景として握りしめている。それがすごく素敵だと感じました。
そしてこの素敵な記憶を踏まえた上でもう一つだけ知ってみたいなと思ったことがあります。
それはこの方が自分から動いた場面の記憶です。
先ほども言った通り人に身を委ねるというのは世界への深い信頼がある証拠で本当に素晴らしい才能です。
ただだからこそそんな安心できる世界の中で一体どんな能動的な動詞を選ばれるんだろうか。
人に委ねるという素敵な得意技を持つこの方がご自身の足で一歩を踏み出すときどんな風に世界と関わるのか。
そこが見えるとこの方のライフスタイルがさらに立体的になってきそうだと感じました。
続いて2人目の記憶。
田中さんからいただいた早期回想です。
私は幼稚園の頃都教操が得意でした。幼稚園の運動会では一番になった記憶があります。
そして小学校に上がって1年生の最初の体育の授業か何かで都教操があったのです。
先生がその都教操の説明で前の人を追い抜くときは外側から抜いてくださいと言いました。
私はその言葉を真面目に受け取りました。
そしてレースが始まると前の子を抜くために大きく外側へ膨らみました。
トラックの外側さらにその外側、校庭の脇の砂利道あたりまで回り込むような勢いで走ったのです。
当然ながらレース後に先生から優しく注意されました。
先生の言う外側は前にいる人のレーンの少し外側という意味ですね。
でも当時の私は足の速さに自信があったのか、外側ならもっと外側の方がいいと思ったのだと思います。
この出来事は60年近く経った今でも覚えています。
というかことあるごとに思い出すエピソードです。
もちろんそれはこのエピソードは私自身をよく表していると思っているからです。
この経験が自己高揚感が高い傾向の自分が社会に適応するために、
感情や行動を抑えることを始めたきっかけだと思っているんです。
なので私の中では皇帝の外側まで走ってしまった子供というのが自分の原風景の一つです。
はい、田中さんの記憶でした。
トラックを飛び出して砂利道まで回り込んで全力疾走する小学1年生。
めちゃくちゃ微笑ましい光景ですね。
場面設定を見ると自分の足でレースを走り抜くと競争ですね。
だから第一印象としては自らの足で道を切り開いていくドライバー的なライフスタイル。
さっきの乗せてもらう記憶の方とはこれだけでも手触りがまるで違います。
それでですね、まず注目したいのがこの一文です。
皇帝の外側まで走ってしまった子供というのが自分の原風景の一つです。
私ですね、この一文に田中さんの自分とはこういう人間だという自己概念がはっきり現れているなぁと感じたんです。
つまり自分は人とは同じレーンの上を走れない、レーンをはみ出しがちな人間であるというような
パッと聞いた感じだと少々ネガティブにも聞こえる自己概念をお持ちかもしれない。
そんな可能性を視野に入れつつもう少し詳しく見ていきます。
都教授が得意で幼稚園で一番になってまさに万能感MAXな田中少年。
小学生に上がってワクワクドキドキの最初の授業。
先生から前の人を抜くときは外側から抜きましょうと言われてその言葉を愚直に受け取った田中少年は
その期待に応えようと思ったのかガーッと勢いよく若干空回りしながら走っていっちゃう。
あとはご自身で自己高揚感つまり自分ならできるという前向きな気持ちが高いとおっしゃっていますが
これはすごい強みだという前提でただそれを出しすぎちゃうとつまりオーバードーズしちゃうと
自分の万能感の中で周りが見えなくなっちゃうというか
子供ってそういうマイワールドに入っちゃうことよくあると思うんです。
でも田中少年のすごく素敵なのが先生から優しく注意されたって言っているところからもわかるように素直に聞けるんですよね。
ああそれは違うんだみたいなことをちゃんと受け止めていく。
ただ暴走して走って自分を否定されて辛かったみたいな感じじゃなくて期待に応えたいとか素直に聞けるチャーミングなところがあるように感じました。
そして田中さんはこの記憶が自分を抑えるきっかけになったとおっしゃっています。
つまりやっぱりそれじゃいかんのやと。
人と競争する時にはちゃんとルールを守ってレーンの枠の中で走らなきゃいけないんだって。
それは頭でちゃんとわかっていらっしゃるしおそらく普段から上手にやられている。
だけどここがすごく面白いところで60年たった今でも握りしめているのはちゃんとレーンを走れた記憶じゃなくて外へ飛び出してしまった記憶の方なんですよ。
数え切れない過去の中からわざわざ枠に収まらない自分を原風景として選んでいる。
これ私なんとなくわかると感じていまして私自身にとっての完璧主義とか喧嘩のエピソードと多分似たところがある気がするんです。
人生経験を積んで普段はうまくバランスを取れるようになってきたのにふとした瞬間にまた極端にやりすぎちゃう自分とか
抑えきれない自分の根っこの衝動が顔を出すんじゃないかと私自身ちょっと恐れているところがありまして
棚さんももしかしたら心のどこかでまた枠をはみ出してやりすぎちゃうんじゃないかとご自身のその有り余るエネルギーを少し警戒していらっしゃるのかもしれません。
ただですねここで私が一番お伝えしたいのはその枠に収まらない自分をネガティブに捉える必要はないということです。
決められたレーンの内側をただお利口に走り続けることが正解とは限らないですよね。
世の中枠を飛び出した人が新しい道を切り開いてきたわけです。
しかもあの走り方を思い出してください。
内に縮まるんじゃなくてトラックの外さらに砂利道まで外へ外へと膨らんでいく拡張のエネルギー。
自分の世界をもっと広げたい枠の外にもっと面白いものがあるはずだという衝動。
あるいはエネルギーが豊かすぎて夢中で走るうちすい外まで行っちゃう。
これ立派な持ち味だと思うんです。
田中さんはちゃんとやらなきゃという理性とつい自分のペースで走ってしまう衝動との間でこれまで葛藤もあったのかもしれない。
でもこれからはその飛び出す力を恐れるんじゃなくて
ご自身の良さとして、時には思いっきりエネルギーの赴くままに走らせてみてほしいなと感じました。
ちなみに田中さんからはこんなご質問もいただいています。
早期回想というと親とのエピソードが多いイメージですが、私の両親は自営業、友働きで本人だったせいか、
親との思い出よりも学校や友人、自分一人の体験の方が記憶に残っています。
親に不満はないんですが、これってアドラ的にはどう解釈するんでしょうか。
まずですね思いつくのは、家庭の中に生き残りをかけた危機があまりなかったという可能性です。
親からの理不尽も兄弟との激しい競争も少なければ、そもそも家の中で必死に戦う必要がないわけですよね。
だから強烈な記憶が家の中には残りにくい。
棚さんの親の記憶がないのは欠けているんじゃなくて、むしろ安心して外の世界へと飛び出していけた証なのかもしれません。
そしてもう一つお伝えしたいことがあります。
実は早期回想にどんな登場人物を使うかは人それぞれ違うんですよ。
これですね当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、
要はみんな自分の使いやすい小道具を都合よく選んで、そこに自分のライフスタイルを象徴させているんです。
私の場合父親とか乗り物とかがやたら出てきたじゃないですか。
そんな感じである人は親を引っ張り出すし、ある人は学校の先生を持ってくるというわけなんです。
でもここが大事なところなんですけど、たとえ出てくるのが親だろうが先生だろうが、一段階抽象化してしまったらどちらも目上の人というメタファーとして、もしかしたら同じように読めるかもしれない。
だから登場人物が誰であるかそのものは実はそこまで重要じゃないです。
その人がどんな小道具を選ぶ癖があって、そこにどんな意味を込めているのか、
そこさえ読み解ければ登場人物が親だろうと先生だろうとライフスタイルはちゃんと見えてくるというわけなんですね。
新コーナーみんなの早期回想いかがだったでしょうか。
一人目の方の軽トラに乗せてもらうという他者に身を委ねる安心感の曲。
そして二人目Tanaさんの自分の足で砂利道まで爆走しちゃうというエネルギーに満ちた曲。
同じ幼少期の思い出でもそこに映っている世界の見え方も選び取る動詞もまるで違いましたよね。