アドラー心理学ラジオ。この番組では、お手軽な自己啓発として視聴をしたりがちなアドラー心理学を、
哲学、カウンセリング、そして、科学の視点から深掘りし、本物の知性として語り直していきます。
お相手のあつくてゆるいです。ふとよみがえる幼少期のワンシーン。
あんなに昔の出来事を今でも強烈に覚えているのは、きっと意味がある。
アドラー心理学が早期階層と呼ぶその記憶は、ただの過去の記録ではありません。
今の自分が何を恐れ、何に喜びを感じるのか、早期階層にはそれらがぎゅっと結晶化されていると考えます。
記憶には、世界は危険だから気をつけろと警告する危機管理マニュアルが刻まれたものもあれば、
この世界には純粋な喜びやつながりがあると教えてくれるオアシスの場所を刻んだものもあります。
今回は私のオアシスにあたる明るい記憶をケースとして読み解いていきます。
皆さんもご自身の胸の奥に大切にしまってある、ちょっと心が温かくなる思い出を振り返るきっかけにしてみてください。
本日一つ目の早期階層は、六七歳の頃の記憶です。
小学校でタケノコ山って呼ばれる遊具があって、まあそこにみんなで登って遊んでいたときに、
自分が頭から落下をして、頭をすごく切って血まみれになって、
小学校五年生か六年生ぐらいの男の子が僕をおぶって保健室まで運んでくれたという記憶がある。
その後おそらく病院に行って何針か縫ったという記憶もある。
一番印象に残っている場面は運んでもらっているシーン。
これは僕が見れるわけじゃないんだけど、なんとなくそのお兄さんが僕を背負って運動場を横切ってバーっと走ってるっていうそういう場面が何か残っている。
その時の感情は安心。
はい、いきなりテキストから入りましたがいかがでしょうか。
さてこの記憶パッと聞いた感じだと、お前明るい記憶って言ってたのに全然明るくないじゃんって思いましたよね。
頭から落ちて血まみれになって病院で何針も縫っている。
表面だけ見たら完全に大怪我のトラウマエピソードです。
でもここで注目してほしいのが、私が一番印象に残っている場面にどこを選んでいるかなんです。
幼少期の記憶ってどうしても強烈なハプニングが多くなりがちなんですが、その出来事のどこにフォーカスするかで記憶の印象はガラッと変わってきます。
今回の記憶、普通なら病院で縫われている痛いシーンとか、血まみれで泣き叫んでいる恐怖の場面にフォーカスしそうじゃないですか。
でも私がズームインしたのは、高学年のお兄さんの広い背中だったんです。
客観的に見たら医療ドラマの緊急搬送シーンなのに、私の脳内ではハートフルなBGMが流れている。
これ、前回扱った理不尽な親父の前で無力に固まるしかないという記憶とは明らかに手触りが違いますよね。
前回までは救いがない世界でしたが、今回はちゃんと救いがあります。
いや、だからといって私がお花畑のような世界を生きているかというと、全くそういうわけではありません。
前回の暗い記憶もありますし、今回だって頭から落ちて血まみれになってますからね。
私の世界像はやっぱり理不尽だし危険な場所だ、というベースなんです。
でも、今回の記憶で私が心に刻み込んでいるのは、そんな危ない世界でも助けてくれる人はちゃんといるんだということ、他者への信頼感です。
もちろんこういう分析ができるのは、この記憶だけをポツンと見ているからではありません。
思い出していただきたいんですが、おまけ回で読み取った私と母親との関係。
父親は完全に魔王みたいでしたけど、母親とは温かくて良好な関係がありました。
そういう背景も加味すると、私が世界全体に絶望しているわけじゃなくて、周りは危険だし理不尽だとは思っているんだけれども、落ちた時には助けてくれる人がいる、という世界像が浮かび上がってくるんです。
そして動詞に注目すると、ここでもやっぱり遊ぶって言葉が出ています。
さらにさらにここまで来ると、いろいろと意味深に思えてきちゃうんですが、竹の子山に登るという高いところを目指す行動。
私、子供の頃登り坊とかも好きだったんですが、こうして上へ上へと登っていこうとするのも、私のドライバー気質のメタファーのようにも思えてきます。
いや、高いところに登る子供なんていくらでもいるじゃん。こじつけすぎでしょ。って感じますよね。
でも、当時そういう事実があったことと、今あえてその小道具をチョイスして語っていることは別の話です。
例えば大自然の中で育っても、みんなが自然の思い出を語るわけではなくて、あえて週末家族で出かけたショッピングモールの思い出を選ぶ人もいます。
私の場合も、無限にある過去の中からわざわざ高いところに登るシーンを切り取っている。
それはただのランダムなんかじゃなくて、やっぱりなんか意味があるんじゃないのか?というわけです。
さて、この危機が起きても助けてくれる人がいるというパターン、実は続いて紹介する記憶でも見事に繰り返されているんです。
一言で言うと、超ビビリです。世界を全然楽観視していない。
うかうかすると足をすくわれてドブに落ちるぞと石橋をぶったたきながら生きている。
この慎重さ、この危機感が何気ない言葉の癖にはっきり出ているわけです。
で、それだけ警戒しておきながらかわいそうに私はドブに吸い込まれていきます。
その後どうなるか。まずはドライな運転手さんにサクッと見捨てられます。
この冷たくてドライな大人の存在をちゃんと記憶しているあたりも実に私らしいんですが、そこに救世主が現れます。
それが事故現場の近所に住むおばあちゃんです。
お庭に連れて行ってもらって、薄汚れた野良犬のごとくホースでジャーっと現れる。
これも一個前の竹の子山でお兄さんがおぶってくれたのと同じ救いのパターンですよね。
世界は危険だし冷たい人もいるが、いざという時助けてくれる温かい他者もいる。
私の根っこにはそういう世界像が広がっているんです。
そしてここで見逃せないポイントがもう一つ。
後日母と一緒にお礼に行くという場面。
さらっと語っていますが、この早期回想、母が登場する唯一の記憶なんです。
これすごく象徴的だと思っていまして、
車から降りろと理不尽に切れてくる親父が恐怖と危険の象徴だとしたら、
一緒にお礼に行ってくれる母親は他者への信頼や安心感の象徴として、
このオアシスの記憶にだけひょっこり顔を出している。
父と母とのコントラストが記憶のキャスティングにも見事に反映されています。
そしてもう一つここから先の展開を握る超重要アイテムが登場しました。
そう、自転車です。
乗り物シリーズですね。
父親とのエピソードでは私が後部座席でただ震えているだけの車が出てきました。
それが今回は自転車に変わっている。
この乗り物の変化が私の人生の何を表しているのか。
いよいよ早期回想のフィナーレ。
次にご紹介する記憶も自転車の話なんです。
ということで最後の早期回想、7歳ぐらいの記憶です。
ヤマハ音楽教室に通っていてその当時だけ。
で、なんかまあ僕自転車かなんかで多分そこに行っていたんだけど平日は基本おじいちゃん。
うちの両親は友働きだから母方の祖父母の家に預かってもらっていてそこからそのヤマハに行っていた。
で、なんかその時系列ちょっとわかんないんだけどおじいちゃんが迎えに来てくれたのかなと思うんだけど
すごい雨がバーって降っていてこのままだと傘もなかったから帰れないとなって
そのヤマハの受付の人に黒いゴミ袋をもらってそれをハサミでちょきちょき切って即席のレインコートを作って
それを着ておじいちゃんと一緒に雨の中帰った記憶がある。
一番印象に残っている場面はおじいちゃんと一緒に自転車に乗って帰っているところ。
その時の感情は楽しい。
はい最後にしてようやくオアシスっぽい話が出てきました。
実はこれ私自身がすごく好きな宝物みたいな早期回想です。
状況を整理しますと雨が降って困っているところにおじいちゃんが迎えに来てくれる。
受付のお姉さんもゴミ袋をくれる。
周りの大人がちゃんと自分を助けてくれる。
これまでの2つと同じ救いのある世界観の確認です。
ここまではすでに見てきたパターンなんですがこの記憶が特別なのはここから。
私ただ助けてもらって終わってはいません。
ゴミ袋をもらってそれをハサミでちょきちょき切って即席のレインコートを作っている。
つまり自分で手を動かして工夫しているんです。
これまさに以前お伝えした使用の心理学そのまんまですよね。
持って生まれたものや目の前にある環境をどう使うかっていうあの話のわかりやすい実演です。
私ピンチはチャンスという言葉が好きなのですがこういう制限のある状況で燃えるというか
この限られた条件の中でどうやったら面白いことができるんだろうって考えて工夫して実現していくのが楽しいんです。
今回の場面でも雨が降って帰れないというのは完全にピンチなんですが
そんな中でただの黒いゴミ袋をハサミ一本で即席のレインコートに変えて
それで大好きなおじいちゃんと笑い合いながら田舎道を帰っていく。
もちろんそんな即席のレインコートじゃ結局びしょびしょに濡れていたと思うんですけれども
でもその濡れてしまったことすらなんだかすごくいい思い出になっています。
そして私がここでも乗っているのが、そう自転車です。
皆さんは私の記憶に出てくる乗り物がどんなメタファーになっているか考察できましたでしょうか。
私自身はこれ自分の人生のハンドルを自分で握れるかどうかのメタファーだと思っているんです。
前回の車降りろ事件。
あの時運転席にいたのは父親で私は後部座席に乗せられていました。
暗い車内でただ受け身的に運ばれていく。
少しでも自己主張しようものなら降りろと脅される。
完全に無力で息の詰まる空間でしたよね。
一方でこの記憶で出てきた自転車は違います。
自分の足でペダルを漕いで自分の手でハンドルを握って自分の意思で進んでいける。