クリストファー・ノーランの『オデュッセイア』は原作があって、古代ギリシャの詩人ホメロスが作ったとされる長い物語詩なんですけども。
主人公のオデュッセウスをマット・デイモンが演じています。
妻のペネロペをアン・ハサウェイ、息子のテレマコスをトム・ホランドが演じていますと。
大画面での上映を想定したIMAXのフィルムカメラで、全編撮影されている。
なるほど。
物語の大まかなあらすじを言うとですね。イタケという島の王オデュッセウスが、
戦争を終えて家族の待つ故郷へ帰ろうとするっていう話ですね。
彼が参加していたのは、ギリシャ側の軍勢が海の向こうにあるトロイアという都市を攻めた、トロイア戦争ですね。
これ、伝承でしか伝わっていない戦争だから、実態があるかどうかはかなり怪しい戦争なんですけども、考古学的にはね。
この戦争でオデュッセウスは、巨大な木製の馬に兵士を隠す作戦を立てる。
はいはい。
木馬の計略っていう有名なやつですよね。
トロイの木馬っていうワードは聞いたことありますね。
そうです、それですね。ギリシャ軍が撤退したように見せかけて、木馬を残していくと。
トロイアの人々が贈り物だと思って、街を囲む城壁の内側へ運び込むと、中に隠れていた兵士たちが夜に木馬から出て、門を開いてしまう。
そこからギリシャ軍が攻め入り、トロイアを陥落させると。有名な木馬の計略ってやつですね。
戦争に勝ったオデュッセウスは、仲間たちと船で故郷を目指すんですけど、嵐に遭ったり、神々の妨害に遭ったり、
一つ目の巨人や魔女との遭遇によって、進路を妨げられてしまうっていう話なんですよね。故郷では妻ペネロペが夫の帰りを待っている。
その宮殿には、王の地位を狙う男たちが居座って、家族を脅かしていくっていう。
成り代わろうとしてるやつらがいるわけだ。
そうそう、みたいな感じが、大まかなあらすじですね。
ちなみに、この木馬の計略の話の、このトロイア戦争が描かれているのは、原作の『オデュッセイア』ではなくて、
『イリアス』っていう別の叙事詩なんですよ。
戦争そのものについてはそっちで描かれてて、これはその後の帰り道の話ってことなんだね。
そうなんですよ。その『イリアス』の方の主人公は別なんですよ。アキレウスって、別の主人公なんですよ。
確かに、そっちの方がイメージあるな。
その後の、戦争が終わった後帰ってくる話が『オデュッセイア』っていう形で、『イリアス』と『オデュッセイア』って。
ちなみにホメロスの叙事詩っていっぱいあって、その他にもいろいろあるんですけど。
原作の『オデュッセイア』のように、英雄や神々の登場する物語を長い詩の形で語る作品を、叙事詩と呼ぶということですね。
ホメロスの叙事詩は古代ギリシャの教育にも用いられていて、後世の文学や物語の作り方に大きな影響を与えている。
例えば、ジェームズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』っていうのがありまして、オデュッセウスの冒険を、
ダブリンという街で暮らす人々の一日の出来事に重ねている小説ですね。
古代の英雄が海を渡る旅を、普通の人が街を歩き、人と出会う生活として語り直した作品です。
映画では、コーエン兄弟の『オー・ブラザー!』っていうのが、一つの例になるかなと思いますね。
舞台は1930年代のアメリカ南部で、刑務所から逃げた男たちが旅をしていく。
主人公が妻のもとへ戻ろうとする筋立てに、オデュッセウスの帰郷が重ねられている。
なるほど。
みたいな形で、文学にしろ映画にしろ、さまざまなインスピレーションを与えているのが、
この『オデュッセイア』っていう叙事詩なんですよ。ここはすごく重要ですね。
このように『オデュッセイア』は旅と試練、そして故郷や家族との関係を描くために、時代ごとに読み直されてきた物語なんですね。
ノーランの映画も、その長い語り直しの歴史の中に位置づけられるものだと言っていいと思います。
ここからは原作の『オデュッセイア』と今回の映画を比較して、今回の語り直しの特徴がどこにあるのかっていうのを、
探っていきたいんですけども。
原作と映画の違いがよく現れるのは、故郷に戻ったオデュッセウスが、妻ペネロペと話す場面ですね。
彼はこの場面で、王の地位を狙う男たちに気づかれる前に宮殿の様子を確かめるため、物乞いに変装しているんですよ。
ペネロペは、目の前の人物が夫だとは知らずに話すの。
なるほど。
この対話自体は原作にもある。原作のオデュッセウスは、以前に夫を迎え入れたことのある人物だという作り話をして、
妻に夫の消息を伝えるんですよ。自分がその夫であるってことを隠したまま、別の人物として話す場面なんですけど。これ、原作で。
映画では、この対話にオデュッセウス自身の戦争への罪悪感が組み込まれている。
ペネロペは「夫が生きているなら帰ってきたはずだ」っていうふうに言うんですね。
それに対してオデュッセウスは、正体を明かさないまま、「夫が帰れない理由は、
トロイアで自分たちがしたことを恥じている可能性があるからだ」って話すの。
なるほど。
ここが、原作とちょっと変えてるんです。帰還兵の告白みたいなパートがあるんです。
なるほど。
ここで映画は、トロイアの陥落をもう一度見せるんですね。
先に描かれていたのは、木馬から兵士たちが抜け出して門を開くっていう作戦の成功が、冒頭で描かれてて。
ここのフラッシュバックのシーンでは、その門から押し寄せた兵士たちによる住民の殺害や神殿の破壊っていうのが描かれていく。
だから、門を開いたという同じ行為が、勝利をもたらした手柄と、殺戮を可能にした行為の両方として見えてくるってことなんですね。
なるほど、そこは映画の中でも対比させてるんだね。
オデュッセウスが問題にするのは、贈り物として迎え入れられた木馬を、相手を殺すために使ったってことなんですよ。
なるほど。その後悔の話として、『イリアス』におけるトロイア戦争っていうのが入ってるのが、今回の映画の特徴ですね。
映画では、見知らぬ客人を迎え、迎えられた側も相手の厚意を裏切らないっていう約束が、ゼウスの掟として、モチーフとして出てきてて。
ゼウスはギリシャ神話で客人を守る神でもあるんですよ。
この客人を保護する規範っていうのは原作にも描かれていますが、映画は木馬の計略を、
その規範への裏切りとして主人公自身に語らせているんです。
すごい倫理的にまずい作戦なんだね。
っていうふうに捉え直してるってことですね、今回の映画が。
原作でも戦争の悲しみ自体は描かれているんだけど、木馬の計略は英雄の功績として歌われてるんですよ。
ノーランはその功績を、本人が妻に語りづらい加害の記憶へと組み替えてるんです。
待ち望まれた夫が帰ってくる場面に、その夫が戦争で何をしてきたのかを語る場面を重ねてるってことですね。
なるほど。
ノーランは、北京での対談で、妻への告白と二人の間の誠実さや親密さを大切にしたっていうのを話す一方で、悔い改めても、
すでに生じた被害っていうものは取り消せないんだっていうことを言ってますね。
要するに、オデュッセウスが妻と再会できても、トロイアで殺された人々は戻らないってことを言ってるんですよ、インタビューの中で。
映画は、その家族との再会の喜びにその事実を重ねていく。こうした語り直しは、旅の途中の出来事や帰郷後の結末にも及んでいっている。
この部分が、かなりオリジナルな部分でしたね。
ここまでは原作との比較から、ノーランが物語をどう語り直しているのかっていうことを見てきたんですけども。
ここからはノーランのこれまでの作品と比較して、今回の映画に共通する主題やモチーフをちょっと見ていきたいんですけど。
注目したいのは、家族への帰還をめぐる時間の問題と、夫婦の関係に入り込む罪悪感の二点ですね。
この『オデュッセイア』では、ペネロペが別の男との結婚を迫られてるんですよ。
オデュッセウスの旅が長引くほど、妻と再び暮らせる可能性が失われていくっていう設定になってる。
要するに、原作にもあるこの設定が、「家族のもとへ戻るのに間に合うか」っていう緊張感を持たせてるのね。
つまり、タイムリミット・サスペンスの構造を持ってる。
帰りたいと願っている間にも、待つ側の人生が進んじゃってるっていう、この切迫感を持ち込んでるんですね。
このタイムリミット・サスペンスの構造を、ノーラン、すごくよく使いますね。例えば『インターステラー』はそういう話でしたね。
あとは『ダンケルク』とかもそうですね。時間までにある場所に戻ってこられるのかっていうことをめぐる話なんですよね、実は。
もう一つは、先ほど見たペネロペとの対話ね。オデュッセウスは家族のもとへ戻ったところで、自分が戦争で何をしてきたのかを妻に語ると。
自分の行為を認める過程と家族への帰還が重なる構成は、『インセプション』にもあるんです。
『インセプション』では主人公が向き合うのは亡き妻の記憶なんだけど、『オデュッセイア』では生きている妻が目の前にいる。
オデュッセウスには過去を語り、それを聞いた妻と再び暮らしていく可能性が残されているんですけど、映画は、この告白を、
過去を抱えたまま二人がこれから共に生きていくための対話として描いてますね。
ノーランは、彼のフィルモグラフィーを通じて、この夫婦っていうモチーフにこだわってるように、僕には思える。
簡単に言うと、とにかくノーランの映画っていうのは、いつも夫婦が出てきて、夫婦がテーマになってるんですよ。
なるほど、なるほど。
ノーラン本人も、インタビューで、家族への帰還を繰り返して描くことを、仕事で世界を移動し、
家族から離れる自身の経験と結びつけて話してますね。家族と離れて過ごした時間を、失われた貴重な時間と感じる。
その時間が、彼の映画で繰り返される「帰りたい」っていう願いに結びついてる感じがあるんですけど。
『オデュッセイア』では、その願いが戦争から帰る夫と、彼を待ち続ける妻の物語として描かれている。
これ、2026年のCNNで行われたインタビューのURLを概要欄に貼っておきますけど。はい、ということですね。
ここまで、ノーランが原作をどう語り直していて、何を描こうとしたのかっていうのを見てきたんですけど。
ここから、それを観客にどう見せているのかっていう、編集と音楽の使い方について、ちょっと話してみたい。
僕には、この映画、観客を盛り上げ続けようとする演出が非常に過剰に思います。
ほう。
短いカットバックを繰り返すっていうのが彼の作風なんですけど、音楽によって感情を押し上げて、
クライマックスのような感覚を長く持続させる。その方法が、個々の場面をじっくり見る時間を奪っているように思いますね。
なるほど。
つまり、さっき言った、妻に自分が犯してしまった罪を告白する、戦争について語るシーンがあるわけじゃないですか。
そのシーンでも、すごい音楽を使ってて。あと、フラッシュバックで、
罪を告白するシーンに実際に起きた戦争の出来事の映像を見せていくってことなわけだ。
そこで、異なる二つの時間軸を往復するんだけど、一つの音楽をずっと使い続けるわけで。
そうすると、彼が何を感じているのかっていうことを、観客に対して一義的な意味づけをしようとするんだよね。
なるほど、余地がないというか。
そうそう。つまり、ここで彼は何を語ってるんだろうかって観客に考えさせるんじゃなくて、
「ここでは彼は後悔してるんですよ」っていう分かりやすい音楽をつけて、かつ、残虐なシーンを見せる。
それを見ている本人の顔も見せる、みたいなことですね。だから、観客に考えさせる余地とかを、かなり奪ってるんですよ。
なるほど。
余白がないっていうのは言える。
こうした編集の傾向については研究がありまして、ジェームズ・カッティングっていう人の論文が、非常に参考になります。
1915年から2015年までの、英語圏の人気映画210作品を分析した研究で。
この研究では、新しい時期の作品ほど、クライマックスでショットが短くなり、画面内の動きが増えるっていう傾向が強く現れている。
ショットっていうのは、画面が切り替わるまでの一続きの映像のことですね。それが短くなると、観客は次々に別の映像を見ることになる。
物語が山場を迎えたことを、出来事の内容に加えて、画面の切り替わる速さや動きによって伝えるっていう手法ですね。
はいはい。
これが、最近の映画になればなるほど、ショットが短くなってくってことなんですよ。
ここに音楽が加わると、その映像が細かく切り替わっていても盛り上がりが途切れない。
例えば、ある人物が危機に陥ったところで、別の場所にいる人物へ画面が切り替わるじゃないですか。
その切り替えをまたいで同じ音楽が流れていると、前の場面で生まれた緊張感が次の場面にも引き継がれるよね。
さらに音楽が強まっていけば、二つの場面は一つの大きな危機が進行しているように感じられると。
編集が映像を分ける一方で、音楽がそれらを感情の流れとしてつないでるの。
ノーラン自身も、このような盛り上がりを持続させる方法を意識的に追求してますね。
『ダンケルク』についてのインタビューで、彼は音が上昇し続けるように聞こえる仕組みを、
物語の構成に応用したっていうことを説明してます。複数の物語を交互に見せて、常にどれかが危機を迎えるように組み立てていくと。
一つの出来事が落ち着く頃には、別の出来事が切迫しているので、映画全体としては緊張が解けないと。
観客に息をつく時間を与えないことを、脚本の段階から設計したっていうことを、インタビューで語ってます。
狙ってやってるってことなんですね。
そうですね。さっき示したカッティングの研究で示されていたのは、クライマックスに向けて編集や映像の動きが強まる傾向なんですけど、
ノーランの発言からは、そのクライマックスの切迫感を、映画の広い範囲に行き渡らせようとする考えが見えてくる。
場面を交互に見せ、その間を音楽でつなぐことで、観客を長い時間、その盛り上がりの中に置いていくと。
『オデュッセイア』で、僕、これミュージックビデオ風だなって感じたんですけど。
この音楽の流れに乗って映像が次々に切り替わって、その勢いで映画が進んでいくっていう演出が、
極めてミュージックビデオだなって思いましたね。
ただ、盛り上がりが続くことによって、場面ごとの違いが感じにくくなっていくっていうのがありますね、これ。
危機が迫る場面には、その危機を伝える速さが必要になってくる。
しかし、起きてしまったことを振り返る場面では、人物の表情を見たり、
言葉の意味を受け止めたりする時間が必要になってくるじゃないですか。
『オデュッセイア』では、その時間まで、次の場面へ進む勢いの中に組み込まれちゃってるんですよ。
映像の意味を考え始めたところで画面が切り替わって、音楽が次の感情へ観客を連れてってしまうんだよね。
だから、先ほど取り上げたオデュッセウスが、妻に戦争での行為を語る場面も、この問題に関わってくる。
映画は木馬の計略を、英雄の功績から加害の記憶へと捉え直してるんですよ。
その語り直しを受け止めるには、作戦の成功と、その結果として起きた殺戮の間に立ち止まる時間が必要じゃないですか。
けれども、僕にはこの映画の編集・音楽は、そうした時間を十分に与えるよりも、観客を次の盛り上がりへと急がせているように感じられる。
ノーランは、主人公が自分の行為を振り返る物語を作ってるのにもかかわらず、その物語を見せる演出は、
観客が一緒に振り返る時間を削ってるんですよ。そこに、この映画の編集の過剰さがあると思った。
つまり、ノーラン的な編集が生きる題材ってあるんだと思うんだよね。
だけど、ここにノーランが持ち込んでる主題って、戦争についての加害をいかに振り返るのかって、かなり、何ていうかな、
それって一つの意味に還元していいのかどうかっていうのが、怪しい話だよね。
でも、問いかけてるわけだもんね。ただの英雄的な行為で大成功を収めた方が帰ってくる、みたいな話じゃなくて。
そこには確かに、戦争で、しかも贈り物を使って市民を虐殺してしまったみたいな、王としての罪悪感みたいなものが、
その戦争の中で確かにあって。それを妻に正体を明かさずに語っている、みたいな、結構複雑な感情を。
そうだね。だから要するに、これ、自分がやってしまったことを捉え直すってことだよね。
そこでは、いろんなものがあるはずだよね、人間だとすると。でも、何か「反省」っていう記号があるって感じなんだよね。
そうだね。そこに、内面を推察するっていう余地はないんだよね。
っていう感じがすごいしますね。僕が気になるのは、こうした演出が、
昨今の大きな予算規模を持つ映画に共通する傾向なんじゃないのかって気がするってことですね。
去年の、例えばポール・トーマス・アンダーソンの『ワン・バトル・アフター・アナザー』でも、似たことを僕、感じました。
かつての大作映画を思い返すと、ここまで短いカットを重ねて、音楽で感情を押し上げて、
クライマックスのような感覚を持続させてはいなかったと思いますね。
同じ大作映画でも、観客を圧倒するための方法が変わってきてるんじゃないのか。
なぜ現在の大作映画では、観客を絶えず盛り上げ続ける方法へ向かっているのか。
『オデュッセイア』を見て、こうした演出が映画にもたらされている理由を、改めて考えてみたいと思った。
同時に、最近僕が映画館から足が遠のいている理由も、ここにあるって気がしますね。
こういう過剰な演出が、僕に合わないんですよね、正直言って。
他方で、最近見た映画で素直に絶賛できる映画もあって、例えば2018年公開のデブラ・グラニックの『足跡はかき消して』、
原題『Leave No Trace』って映画ですけど。あと、2022年公開のシャーロット・ウェルズが撮った『アフターサン』とか。
ここら辺は、僕すごい好きな映画で。むしろ、こういう絶賛できる映画については、本当は話したいんですけども。
今回はノーランの映画だし、一応見とくかと思って見たら、「ああ、そうそう、俺、こういう映画が苦手になったから、
もう映画館に行かなくなったんだよな」っていうのを、思い出したっていう回ですね。
はい。
というところでございました。
ちなみに、ポール・トーマス・アンダーソンにしても、クリストファー・ノーランにしても、かつての彼らの映画、
例えばノーランだったら『メメント』とか、ポール・トーマス・アンダーソンだと『ブギーナイツ』の頃の二人って、全然違うんですよ。
こんな過剰な編集してないんですよ。例えば、ノーランだったらデヴィッド・リーンの影響があるとか、
ポール・トーマス・アンダーソンだったらロバート・アルトマンとかの影響があるんですよね。
デヴィッド・リーンとかロバート・アルトマンは、どういう演出をしてたか、忘れてないか、君たち。
そもそも、そんなふうに映画撮る人たちだったっけ、っていうのをすごい思う。あの頃、そうじゃなかったじゃない。
あの頃、君たちそうじゃなかったよね。俺たち、デヴィッド・リーンとかロバート・アルトマンが好きだったじゃん。
そういう君たちが好きで、俺は映画を見てたんだよ。何でそれを忘れちゃったの。
何でこんな、ショート動画全盛の時代に乗っちゃってるわけ、映画が、という思いが、話しててだんだん込み上げてきました。
それを感じたんだね。
感じますね。
はい、というわけで、映画の話は終えて、ここから雑談なんですけども。どうですか。
でも、おおむねここ10年とか言っていいと思うけど、とにかく短く速い演出が続く、盛り上げ続けなきゃいけない、
みたいなのはよく聞くよね。音楽とかでも、最初のイントロが短くなってますね、みたいな。
これは最初からリスナーの気を引かないとダメだから、だんだんそういうふうになっていった、みたいな。
それは要は、配信とか、それこそYouTubeのミュージックビデオとかで再生数稼ぐには、最初の5秒が大事、みたいな。
多分、そういう技術とかインフラみたいなものが影響してるっていう話は、よく聞くんだけど。
確かに、このバグキャストのYouTubeのアナリティクスを見ると、どこで観客が離れているかっていうのは、
結構詳しく見えるわけですよ。そうすると、もう最初の10秒とか20秒で、80%ぐらいいなくなってるのね、みたいな。
だから、最初の、本当に10秒、20秒っていうのが、めっちゃ重要っていうのはあるよね。
ある。だからそれは、多分マーケティングとかでも、何か販売する時にも、例えばバーンって強い広告を出して、お客さんの気を引こうとか、
第一印象、最初の5秒で人の第一印象って決まるよねとか。
多分、そういう心理的なものはそもそもあって、それをうまく使おうってことが起きてるってことだよね。
でも、そう考えるとノーランっておかしくて、これ『オデュッセイア』、3時間ぐらいあるのよ。
それ、何をやってるのかなって気もするよね。
そういうことか。ゆっくり長く映画を楽しむってことだよね、3時間あるってことは。今時だったら、もっと短くなきゃいけない。
そう、3時間の映画を、盛り上がりをめっちゃたくさん作ってるって感じだね。
だから、3時間ショート動画を見てる感じだ。
昨今の、より刺激的で常にお客さんの気を引き続けなきゃいけない、メディア全体、コンテンツ全体の流れが、
そこに影響してるのかなって思うと。それは、映画館に行ったら見るじゃん、たとえ途中で中だるみしても。
最後までしっかり見て、ちゃんと受け取って帰るのが普通だけど、やっぱり配信とかを意識すると、そうなっていくのか。
あと、僕もやっぱ配信でよく映画見るんですよ。
そのおかげで逆に、サブスクだから、映画館行ったら今2000円とかかかっちゃうじゃないですか。
昔だったら、レンタルビデオ、新作借りるって言ったら500円とかかかってたけど、今もう、ただじゃん、言ってしまえば。
だから、いろんな映画を見るようになったんだよ、逆に。
細かくいろんな映画見てると、僕が中学生ぐらいの時の、つまんない映画の印象は、刺激が少なくて、だるい、
間延びした映画だなって思ってたんだけど。
最近は、それこそ刺激を与えられすぎてて、メリハリがない、いつ楽しんでいいか分かんないな、っていう映画が多い気がして。
だから、演出とかCGとかも、昔に比べたら全然すごいわけじゃん。
低予算映画とかでも、すごい派手なシーンいっぱいあるんだけど、どうもピンとこないなっていうのは、確かに感じるんだよね。
それを感じているわけだ、僕は。映画が好きな人は、そう感じるんじゃないの?と思うわけ。
なのに、何でそんな映画ばっかになるのかは、すごく不思議なんだよね。
映画を見ない人たちは、そういう映画で楽しんでるのかな、みたいなふうに思っちゃうんだけど。
それでいいのか、っていうふうに思う時はある。
いや、それ、大事な話で。例えば、ブログっていうのが出てきたじゃん。
だから、これでみんな、自分の意見っていうか、例えば創作、自分の好きな文学を書いて、別に売れることとか意識せずに、
自分の好き勝手にできるんだ、みたいなこと、思うじゃないですか。そういうテクノロジーが進歩して、自由が広がる、みたいな。
でも、そんなことなくて、むしろそのブログ時代に、ビューを取るために最適化した表現ばっかりになっちゃう。
つまり、表現の手段はすごく増えてるのにもかかわらず、それを使って出てくるものの多様性は、そんなにない、みたいな。
逆に、限定される可能性があるってことだよね。
そうそう。それはこのバグキャストでもたまに出てくるけど、新しい技術が、常に自由とか多様性だけを与えてくれるわけじゃない、
ということだよね。
そう。だから、映画とか表現もサブスクになって、表現しやすくなるわけじゃないですか。
表現する側も、表現する媒体っていうのも増えるわけじゃないですか。だから、好きなものやればいいじゃん。
そうだね。
でも、そうならないんだよ、っていうこと。
そうだね。だから、似たようなものが増えたっていう言い方は老害っぽくてあれだけど、でもそう感じることは、多い気がするんだよ。
でも思うんだけど、俺が一番映画見てた時ね、2010年代の前半のあたり、もうとにかく映画見てたんだけど。
その時はTSUTAYAに行って借りる、あと映画館に見に行ってたよね。だから、サブスクはまだなかった気がする、その時はね。
その時が映画見てて、サブスク時代はむしろ、あんまり見なくなっちゃってんだよね。
ウォッチリストに入れて、放っておいてるものがすごいある、みたいな。
そう、あるね。確かに、ウォッチリストに入れただけで満足しちゃう、みたいなね。
そうそう。例えばNetflixとかだと、日本公開してないような作品が見られたりするじゃないですか。
そういう良さがあるから、絶対サブスクがあるのはいいんだけど。
じゃあ、今の僕が20代の若い頃で、このサブスク全盛時代に生きてて、あの頃みたいにめっちゃたくさん映画見たかなって思うと、
どうなんだろうねと思う。実は結構、そのTSUTAYAに、
店に行ってレンタルするっていうシステムが良かったんじゃないかって気もする、たくさん映画見るには。
分かる、ジャケット見てね。
そう。5本借りちゃうから。
そうすると、見なきゃなとかね、あるよね。
そう、1週間だからさ。ほら、俺、言ってたじゃん。もう見るのが仕事になってる、みたいな。
あったね。
それは、別に抽象的な話じゃなくて、これ、あと1週間で見て返さないといけないっていうのが、普通にあったわけじゃん。
義務として。
義務っていうか、延滞料金とかかかっちゃうしね。
そう。返しに行って、また借りちゃうってことじゃん。このループがすごい良かったんだと思うんだよね。この期間までに見ないといけない。
行ったらまた、何か借りるかってなっちゃう、みたいな。
サブスクだったら、とりあえずチェックリストに入れといて、いつ見てもいいわけじゃん。
いつ見てもいいってなったら、ずっと見なくなっちゃうわけじゃん。
そういうことだよね、人間は。
そうだね。子供の頃思い返してみたら、まずテレビで「今度、劇場公開始まります」って宣伝が出てて、劇場公開に、
よっぽど見たい映画は行くけど。行くの大変だったり、お金かかったり、中学生の時とかだと、なかなか行けない時があって。
やっとレンタルになる、1年とかたってさ。
やっとレンタルになったら、「よし、見られるぞ」みたいな、我慢させられてた分、勢いで行けたとかあったけど。
今はもう、劇場公開して、もう本当に1カ月とか2カ月たったら、サブスク始まったりとか普通にしちゃうじゃないですか。
いつでも見られるし、いつでもできることはずっとやらない、みたいになっちゃってて。
これは自分が別に、その映画の内容が変わった、変わらないに関わらず、あらゆるコンテンツとの向き合い方として、
そういう節が自分自身にある気がするな。
そうね。だから、ノーランっぽい過剰な演出でやるんだとしたら、別にサブスクで1時間ぐらいのにしてくれればいいよ。
何かそう思うな。この過剰な演出でやるんだとしたら、それがいいと思うな。
家で好きな時間に、どこから見てもいい、みたいな。途中から見てもいい、みたいなっていうふうにしてくれたら、ちょうどいいんだと思う。
何か、それに最適化していっちゃってる気がする。
それで儲かるかどうかっていうのがあるじゃん。
いや、でも、ノーランの映画だと、今回の感じで行くなら、本当に1時間半とか2時間、せいぜい2時間ぐらいの映画にして、
まとめてくれた方がいいと思うよ。3時間って明らかに長すぎだと思う。その方がヒットもすると思う、結果は分かんないけどさ。
そういう刺激をずっと続けさせて、観客を飽きさせない演出なのに、3時間あるっていうミスマッチが、ミスっちゃってる可能性あるよね。
映画が好きな人は飽き飽きして来ないし、映画が苦手な人は3時間じゃ見ないし。
でも、『オデュッセイア』、世評自体は結構高いはず。
あ、そうなんだ。
もしかしたら、俺が間違ってるっていう可能性があるわけだよね。
そう、それは全然ある。現代の映画は、その方がいいっていうふうな。
でも、そこからが俺の仕事なわけじゃん。つまり、みんなが間違ってるっていう。
そういうことだよね。
そうそう。
ちょっと待ってね。今、『オデュッセイア』の世評を、僕、調べさせたんですよ。
『オデュッセイア』の世評、かなり好評ですね、やっぱりね。Rotten Tomatoesで94%、肯定・高評価。
批評家の評価も高め。
そうですね。日本の批評も総じて好意的で、シネマトゥデイのライター6人の平均は4.7。これ、5点満点中4.7ですね。
でも、高評価の中でも、やっぱり編集や配役への留保があるみたいな。
なるほど。でも、何か間違ってると思うな。
特に、昨今の過剰な演出とか、ずっと刺激を与え続ければいいだろう、とか、観客に考えさせる余地がない、みたいなのを感じたんだね。
感じますね。
映画館に行って見るっていう、それもパッケージとしてあるもんね。
俺、映画見てて、例えば、考えさせてほしいってことでもないんだよね。つまり、考えたかったら本とかでもいいじゃん。
それこそ原作を読んだりするのが、考えるのにいいじゃん。
自分の時間を持てる。
そうだね、余白っていう意味ではね。
そうそう。何か、俺が好きな映画って、浴びるものだったんだよね。
映画の光を。
映画の光を浴びてるのが気持ちいいっていう感覚、あれがない。
でも、情報を浴びせられてるわけじゃん。
そうだね。
それは過剰だなって感じてるわけだよね。
そうだね。すごい音楽とかをガンガン鳴らして、カットを細かくして、バシバシ刺激を与えるっていうことじゃなかったんじゃないの、
って思っちゃうんだよね。
今時で言うと、「ドパ」ですか。
ドパ的な。僕、割とドパ寄りの人間なんで、いろんな、いっぱい刺激とか欲しいタイプなんだけど。最近のドパに言いたい。
映画とかでも思ったことを思い出したけど、一番ドパるのは、納得した時とか、腑に落ちた時なんだよね。
だから、「あれ、これって何でこんな演出なの?」とか、「何でこのキャラクターってこんな行動してんの?何か合わなくない?
」って思った後に、「こうだったんだよ」って言われると、「うわ、気持ちいい」っていう。
そうだね。
それがあるんだよね。
そう。だから、例えば、サウナブームってあるじゃん。サウナって、快楽に行くまでの時間がすごく短いじゃん。
つまり、例えば6分とか7分ぐらい入って、水風呂に入るみたいな。これ、6分とかのペースなんだよね。
でも、例えば本読んで「ああ、これ面白かったな」って思うのって、2、3日ぐらい、よく分かんない時間を過ごさなきゃいけないわけ、
とかっていうのがあるよね。だから、快楽に至るまでの時間を短くするっていうのが、要するにドパなわけじゃん。
だから、映画とかも、その2時間の映画だったら、何回もドーパミンを出させるところを作るってことなわけじゃん。
でも、俺が思うのは、そのドパまでの短さみたいなのは、確かに感じていたわけだ、ここ数年、特にここ最近。「ドパが雑だな」って思うの。
もっとフリとかを丁寧にしてくんないと、ドパれないよ。そんな、でかい音楽かけただけでドパれると思わないで。
だから、ドパなりの[聞き取り不明]みたいなもの。
そうそう、ドパの質みたいなのがあって。解決してくれないとか、多少違和感あっても派手さで押せるだろうとか思ってられたら、
困るよっていう感じがあるんですよね。
雑なドパが増えてるなっていう印象もある。だから、良質なドパっていうのはあるとは思うんだよね。
それが短くなっちゃってて、ちょっと過剰な、この映画っていう、それなりの長いコンテンツの中に入れるには過剰なドパだとしても、
いいドパなら多分、俺はドパれる。
いいドパっていう。要するに、でも、やっぱり時間が大事なわけじゃん。
フリを大切にするって言ってたけど、フリを作るには時間が必要なわけじゃん。
要素だから、フリって、そのフリに耐えられるかどうかのラインなんだよね。長すぎたら「うわ、まだ来ないの?
」って言って、耐えきれずに離れちゃうってことがあって。短すぎると、「もっと振ってくんないとドパれないよ」っていうのがあって。
それは個々人ある気はするけど。今、サウナとかの話の流れで言う、ドパまでの時間が短くなってるっていうのは、多分、
我慢できる人が少なくなってるっていう。
でも、俺、多分、2時間っていうのが結構大事だと思うんだよな。
つまり、2時間ぐらいいないと、人は経験としてその体験を捉えられないんじゃないかって気がする。
つまり、ショート動画見ても、それ、経験にならない気がしない?
うん、見て楽しいな、だけではね。
そうそう。でも、1週間ぐらいかけて本読んだら、本読んだって経験になるじゃん、って気がするわけ。
俺も、経験の、多分最小単位って2時間とかなんだと思う。これ、多分時間に依存してるじゃん、経験と感じるかどうかって。
いいとか悪いとか関係なくて、つまんない授業を受けたっていうのも一つの経験じゃん。
でも、それは、つまんない授業が5分しかなかったら、つまんないとも思ってないわけじゃん。
これ、多分時間に依存してるんだよ、人間が何かを経験として捉える。
経験が大事なわけじゃん、全ては。だから、これ、もうコンテンツの面白い・良し悪しと関係なくて、
単純に時間に依存してるんだと思うんだよね。
だから、短くしていけばいくほど、人はドーパミンは出るけど、経験ではなくなっちゃうってことじゃないのかな。
経験だけが人間を変えることができるじゃん、何か考え方とか、価値観とか。だから、時間が大事なんじゃないの。
それで言うと、その3時間は、細かく区切られた、経験でないもので構成された3時間だから、その3時間、
経験じゃなくなっちゃうよっていう、そういう意味合いだよね。
そうそう。そこまでは、かなり批判しすぎてるんだけどね。
だって、最初でトロイの木馬の話を出してて、それが最後の妻に語るシーンで、実は罪悪感があったんだとは言ってるから、
それはいいんだけど。
そう。だから、スポーツとか見ると、2時間って結構重要な区切りだと思うな。例えばサッカーって2時間とかなんだよね。
野球って、めっちゃ短いやつで2時間とかなのよ。普通の試合の平均時間は3時間ぐらいで。
それを見ると、一試合、確かに見たなって感じがするんだよね。これより短いと、なかなかその感覚が得られない。
なるほど。
例えば、俺が好きな総合格闘技とかって、あれ、一試合が結構ハードだから、5分3ラウンドとかだから、一試合は15分とか、20分だね。
間も含めて。
間も含めて、なんですよ。だから、その一試合見ただけだと、本当に何かあんまないのね。
だから格闘技って、興行が結構大事で、その前後に、ちゃんと前座みたいな試合があるんですよ。
そうだね。
それを通して、2時間、どういう体験をしたかって、結構大事になったりとかする、みたいな。
その日の全体でってことね。
その日の全体で。でも、これがやっぱり、当然スポーツだから筋書きがないからさ、
めっちゃ期待してた試合が超つまんねえとかもあるわけよ。
なのにもかかわらず、その前座の試合がマジで面白かったっていうのがあったりして、それが良かったりもするのよ。
だから、やっぱり2時間っていうのは大事なんじゃないかな。
15分とか20分は短すぎて、ましてやサウナで6分とかっていうのは、経験のうちに入らないんじゃないか。
なるほどね。それこそ、みんなで集まってサウナに行って、帰りに飯食って帰るっていう、その日を経験とするってこと。
それはすごいいいよね。それは大事なわけじゃん。だから、ショート動画の話につなげてるのは、かなり無理やりっちゃ無理やりなんだけど。
最近の映画は、そういうところに影響を受けてるんじゃねえかな、みたいな。
それは、やっぱりサブスク全盛の時代とも、どこかで接点があるんじゃないのかな、みたいなことを思ったりもして。
そのノーランに対して、かなり批判してしまったわけでございます、というところですね。
そんな感じですかね。どうですか、今回話してみて、どんな感想ですか。
そうだね。僕も映画、昔はよく見てたけど見なくなっちゃったなっていうのもあって。
この手の話をする時に、その映画とか、好きだったものが変わっちまったよ、っていう思いと、いや、これ、
変わっちまったのは俺の方なんじゃないのか、っていう思いが、常にあるわけですよね。
それは、自分の周りのコンテンツっていうかテクノロジーが、どんどん変わっていったから、影響を受けないわけもなく。
いいか悪いかは別にして、何かを捉える時には、自分も変わっちゃってるのかも、っていう。
昔と今の自分って、変わっちゃってないかなっていうのを思いながら、こういう話をしないと。
「映画、最近つまんねえよ」みたいな言い方は、すごく良くないわけじゃん。
最近の映画はつまらん、って。面白い映画はあるからね。
面白い映画はこういうのあるよ、最近こういうの見て面白いよ、っていうのは僕も言ってるから、
映画自体がつまんなくなったってわけではないと思うんだよね。あと、自分の方が変わってるんじゃないかって話ね。
それ、自分も変わってるでしょ、間違いなく。映画も変わってるし、自分も変わってるっていうのが、多分結論なんだよ、これ。
そういう話だと思うよ。世の中は変わっていくし、需要も変わっていくっていうのが当たり前なんだけど、その当たり前を、
ちゃんと捉えられてるかなっていう、趣旨ですかね。
それ、また俺が引き取っちゃうけど、「世の中変わっちゃったよね」っていうのは、良くないんだよね。
じゃなくて、ちゃんと批判しないといけないんだよ。
「ここがこう変わってるのは、こういう視点から見ると良くない」って言わないといけないんだよ。
それができてるかどうかが大事だと思う。批判してもいいんだと思うよ、何かが変わったこと。
でも、その時に遠い目をしてぼんやり言うんじゃなくて、「これは良くないんじゃないの?
」っていうふうに、ちゃんと自分もまた批判されることが可能なように提示できるか、でしょう、って思う。
それをやってるんだとしたら、別にそれは老害じゃないし、いいんだと思うよ、そういうこと言って。
伊藤が今言ってたのは、「世の中変わってるっていうのは良くないんじゃないのか、それ老害みたいなんじゃないの」って話じゃん。
そうだね。気に入らないっていう言い方が、ってことかな。
そうそう。だから、気に入らないっていうのは、ぼんやりしてるじゃん。
何がダメなのかっていうのを言えてないのが、その表現の良くない、まずいところじゃん。
批判すること自体は、別に世界にあっていいわけじゃん。
なので、好きなものが変わっちまったな、とか、新しい好きなものに出会ったりした時の、そういう思い、感じたことみたいなのをさ。
例えば遠い目をして喋ったとしても、隣に誰かがいて、「でも、それってこういうことなのかな」とか、
「俺はこう思うんだけど」みたいな話が始まれば、結局そこは語り始めてるわけじゃん。
思いが出てきて、「じゃあ、それはあなたが違ったね」とか、「勘違いしてたね」とか、「なるほど、
そういう立場から言ってたんだ」みたいな話ができると。
だから、こういう場所で、大河の話を俺が聞くとか、これを聞いた人が何か考えて、それをお便りで送ってくれるとか。
そういうことが起きれば、その遠い目をした批判みたいなもの、批判ともつかない批判みたいなものはなくなって、
何かいいものが生まれるかな。だから、お便りくださいね、みたいな話になっていくというか。
なるほど、なるほど。そんな感じですかね。
そうですね。このバグキャストを聞いてくれる人たちは、趣味とか持ってる人とか、興味ある人、きっといっぱいいるんだろう。
ポッドキャスト自体も趣味だしね。あると思うので、もし、こんな映画、僕は好きですよ、最近おすすめの映画ありました、とか。
音楽とか、漫画でもアニメでもいいですけど、本でもいいですけど。何かあれば送ってくれれば、きっと大河は見てくれます。
俺も頑張って見ます。
ということで、お便り等ありましたら、概要欄のフォームからお願いします。番組のフォローもぜひお願いします。それではまた次回。
はい、また次回。