こんにちは、バグキャストです。この番組は音楽家とプログラマーが、社会や文化について気になったことを調べたり、
面白がったりしながら話すポッドキャストです。今回は第36回です。
いやいや、伊藤さん。
何でしょう。
今回は、変わりゆく東京について考えたい。なんか重い回ですね。
そうだね。
というのも、以前からこの番組では、コロナ禍以降、街を歩いていても街との一体感のようなものを感じにくくなった、みたいな話を僕、
してるんですよ。
よくしてますね。
極端に言うと、目に映る景色が絵はがきみたいに見える、みたいな。
ちょっと遠いものっていうか、非現実みたいな感じがするんだ。
そうなんですよ。自分もそこにいるはずなのに、何かどこか距離があるな、みたいな。
街の中にいる実感が、僕にはつかめなくなってるんですよね。
第29回では、近所の遊歩道をランニングすることで、ちょっと街との距離感を取り戻した、みたいな話もしてるんですけど。
そうした自分の感覚と合わせて、変わりゆく東京の街について、前からちょっと話してみたいと思っていた。
そこで今回は、ジェントリフィケーションっていう概念を手がかりに、東京の街の変化について問題提起していきたい、
みたいな感じの回になっております。
なるほど。その言葉もたまに出てきますね。
そうなんです。僕、好きな言葉なんですよ。
今回のテーマは、「変わりゆく東京について考える――ジェントリフィケーション、文化、街との距離」というテーマになっていきます。
はい、ということです。
まず今回は、東京の街の変化をジェントリフィケーションという概念から考えてみたいんですけど。
特に注目したいのは、街の文化が魅力として評価される一方で、その文化を担ってきた人たちが、そこで暮らし、
活動を続けにくくなるという問題についてですね。
ジェントリフィケーションという言葉は、1964年に社会学者のルース・グラスが、
ロンドンの変化を捉えるために使ったのが初出みたいです。
労働者階級が暮らす地区に中流階級が入り、住宅が改修され、もともとの住民が押し出されていく。
地区の階級構成や社会的な性格が変わる過程を指した言葉なんですね。
その後、文化と不動産の関係も重要な論点になっていって、社会学者のシャロン・ズーキンが、芸術活動や文化的な魅力が、
不動産市場と互いの価値を高め合う関係を分析しているんです。
例えば、音楽や小さな店が集まり、その街ならではの雰囲気が生まれる。
その魅力が人や投資を呼び、家賃や土地の価格が上がると、街の魅力を作ってきた人たち自身が、居続けにくくなるってことがある。
文化が生み出した価値が、その担い手の活動を支える形で戻ってくるとは限らないってことですね。
例えばライブハウスがある。ライブハウスで、その街の音楽シーンが盛り上がる。その結果として不動産価値が高まっていく。
人がたくさん来るようになるから。家賃が上がっていく。そうすると、そのライブハウスの入っている建物の家賃も上がるよね。
その家賃が払えなくなるから、ライブハウスは続けられなくなるよね。
じゃあ、割と経済的な地位の高い人たちが入り込んでくる、みたいなことが結構中心なんだ。
もともとはジェントリフィケーションというのは、そういう分析概念ですね。
なるほど。
ここで階級と文化の問題が重なっていて、払える家賃や使える場所によって、暮らせる人、店を開ける人、
音楽や演劇を続けられる人が選別されていってしまうということですね。
今回いう文化には、作品や店の個性に加えて、人が集まる習慣とか顔見知りの関係、その場所でできる過ごし方も含まれてくる。
こうした活動の条件が失われれば、街のイメージとして文化が残っていても、それを生み出す基盤は弱くなっていってしまう。
だから、街の価値が上がる過程で、誰が居場所を失っているのか、誰が新しく参加しにくくなっているのか、というのを、下北沢と宮下公園、
そして東京五輪に関連する都市の再編を通じて、今回見ていきたいなというところでございます。
まず最初の例として、下北沢について言及したいんですけど。
下北沢はライブハウスがあって、劇場があって、古着屋があって、個人経営の店などが集まる街として知られてるじゃないですか。
サブカルの聖地みたいなイメージですね。
そうですね。金珍淑という方、経済学者の方だと思うんですけれども、論文がありまして。
「下北沢商業集積の形成プロセス」っていうものですね。これがすごく参考になりました。概要欄にURLを貼っておきますね。
ここでは、都心へのアクセスの良さ、比較的安価な家賃、歩いて買い物をしやすい細い道などが、若者やアーティスト、
小さな店の集積を支えたということが説明されていました。
まだお客さんが少ない店や、収益になるか分からないお店でも、場所を借りて試してみることができる。
近くに似た感性を持つ人がいて、客として通っていた人が自分でも活動を始めていく。
そうした活動の始めやすさが、この街の文化を育ててきたということなんですね。
例えば、お店として「ジャズ喫茶マサコ」っていうのがあるんですよ。
これ、1953年に開業し、再開発を背景に2009年に閉店している。
2020年春に、かつてのスタッフが別の場所で再開し、レコードやスピーカー、家具の一部も引き継がれているんですけど。
ただ、再開までに11年くらい、このジャズ喫茶マサコは中断があって。
その間、以前の店に集まり、音楽を聴き、時間を過ごすことはできなくなってしまったんですよね。
受け継がれたものがあっても、失われた時間や元の場所が取り戻されたわけではない、みたいなところですね。
あと、日本茶専門店の「しもきた茶苑大山」っていうお店があって。これも場所を変えることになった店ですね。
以前の店舗は、補助54号線の道路工事に伴って建物が取り壊されることになり、
2021年10月に線路跡地の商業施設「reload」へ移転している。
営業は続いていても、元の場所で続ける選択肢が失われてしまったんですよね。
こうした場所の変化に加えて、活動を続けるための費用も問題になってきている。
小田急線の地下化によって生まれた線路跡地では開発が進み、下北線路街は2022年5月に全面開業しました。
「BONUS TRACK」や「reload」など、個人店や文化活動を含む施設が設けられている。
一方、BONUS TRACKの運営者は、2024年の説明で、
駅前の賃料上昇により個人事業主が出店しにくくなっているってことを指摘しています。
施設自体を作ったけど、入るのはそれなりに難しくなっていくってことか。
家賃が上がれば、店を維持するために必要な売り上げも増える。当たり前のことですけど。
資金の乏しい人や、まだ支持者の少ない活動には、参入障壁が高くなってしまうってことですね。
音楽や演劇でも、場所代を回収できる見込みが、どんな企画を行うかにすごく影響してくるということですよね。
ここでは「文化のある街」と「文化を始められる街」を分けて考える必要があるよね、ということなんですよね。
魅力的な店や施設が並んでいても、これから何かを始める人が場所を確保できなければ、
文化を更新する次の担い手は参加しにくくなっていってしまう。
下北沢の事例で指摘したいのは、文化が街の価値として評価される過程で、その活動場所が失われたり、
次の担い手の参入が難しくなったりするということですね。
街の文化を維持するには、それを生み出す人が活動できる条件も維持しなければいけないっていうことなんですよ。
これが下北沢におけるジェントリフィケーションの事例ですね。
文化に限らないかもしれないけど、何かが盛り上がって、そこに資本が集まり、いろんな人と物が集まった結果、
そこに居られない人たちが出てきて、その街の勢いっていうのは失われていく、みたいな大まかな流れは、
いろんなところで起きてる気がしてて。
文化が生まれた後も、発展した後も、生み出し続ける街っていう話を今してるってことだよね。
文化のある街が、さらに文化を生み出し続ける街で居続けることが必要だっていう話。
それができなくなっていくよねっていうのがジェントリフィケーション。
それ、かなり抽象的に今捉えてるけど、伊藤くん。
例えば、さっき言ったジャズ喫茶の運営者の視点に立って考えた時に、別のことが見えてくるんじゃない?
つまり経営とかができなくなるから、その人にとっては、もっと普通に生活レベルの死活問題だよね。
だからそれは、そういうことってあるよね、って思っちゃうんですよ。
その街が盛り上がると、そこに居続けるパワーがもっと必要になるから、居られない人が離れていく。
それはよくあることなんだけど、その街を盛り上げるのを担っていた、まさにその街の価値を生み出した人たちが、
その価値が高まることによって追い出されていっちゃうという。
「それってどうなの?」って思わせる、その視点がジェントリフィケーションっていう現象。それをうまく捉えた言葉みたいなことだよね。
それはその人たちの視点に立ってみれば困ったことだけど、もちろんその人たちが抜けた場所に、それなりに稼ぐ力があるやつとか、
金をもともと持ってたやつらが入ってきて、そこで何かしらの役割を担うわけじゃないですか。
だから、そこで起こる個人とか、追われていった居場所みたいなものと、街全体が良いこと、悪いことって言い方が良いのか分からないけど、
街全体が、それによってその人たちが居続けた方が良いのか、でもそこで頑張れるパワーのある、
もともと資本のあるやつが入ってきた方が良いのか、というところまでは今は語ってないって感じかな。
そうなんだけど、そこで伊藤くんが考えてみた方がいいのは、例えば、新しいお店が入ってきました。
ジャズ喫茶がなくなって入ってくるのは何かって言ったら、ファミレスとかなわけだよね。実際、続けられる。あと吉野家とかだよね。
実際にそうなってるよね。
街がそうなった時にどう思うかってことを、多分話した方がいいんだと思うな。
なるほど。
つまり、それはいろんな立場があり得ると思う。
「ジャズなんて聴かないんだから、俺は吉野家があってほしいんだ」っていうのは、確かにオピニオンとしてあり得るよね。
そこの視点で言うと、その街の価値はもともと、例えば芸術とかだったとして。
芸術がすごくて好きな人たちが集まり、だからその土地の価値が上がっていったのにもかかわらず、
もともとその街の価値を生み出してたものがはじかれていき、そうでないものが入っていくことで、その街の良さがなくなっていくじゃない。
そう思えば確かに、その視点からだと俺は問題意識が持てるな。
なるほどね。
一番最初に出てた、労働者階級のところに中流階級のやつらが入ってきて、街が変わっていっちゃうっていうことは、
基本的に世界ではあるあるだし、悲しい出来事もあるだろうけど、街が大きくなるには必要だなって思ったの。そういうこともあるよなって。
いや、それ単に階級の話、純粋な階級の話っていうのはあり得なくて。そこには労働者階級と結びついた文化があったはずだよね、実は。
労働者階級の人たちが生み出している。イギリスだとしたら、例えばサッカーとかだよね。
でも、そこが高級住宅地化していっちゃうとすると、そこにあった文化が同時に失われていっちゃうんだよね。
だから、単純に階級問題の話としてだけでは捉えられないんだと思うよ。
街自体が持ってる文化とかアイデンティティの問題と密接に関わってきていると。
そういう論点を出したのが、社会学者のシャロン・ズーキンですよね。
芸術とか文化的な魅力が不動産市場の価値を高めるんだけども、同時に家賃が高騰していくことで、
その場所に居続けることができなくなっちゃうっていう、この問題のことですよね。
多分俺が今気にしてて、今捉えられたなと思ったのは、その街の良さを生み出す力が失われるのは、悲しいことだな、
ぐらいにしか思えなかったんだけど。生み出された良さ自体が、その街の価値からずれていっちゃう?
人がいっぱい集まっていることとか、土地の値段が高いことだけに意味があって、その街にもともとあった良さがなくなるから、
その街の未来みたいなものも失われていきそうじゃない。
多分、伊藤くんは問題意識を結構限定して捉えてるんだね。
確かに。俺が今、具体的に捉えられるところがそこだった。
普通に考えたらいいんだと思うよ。例えば地元でよく通っていた個人商店がありました。そこが潰れてコンビニになりました。
その時にどう思うかってことだと思うな。でもそれは「家賃が上がってるからしょうがなくないですか」っていうふうに、
多分ならないんだと思うんだよね。
思い入れのあったお店がなくなっちゃったな、っていう悲しさっていうか。
それが、街との距離が変わるってことだよね、ってことなんだと思うんですよ。
なるほど。ちょっと続けますか。まだいろいろ例があるので。
次に、宮下公園と東京五輪。「都市の更新が誰の居場所を奪うのか」っていう視点から見ていきたいんですけど。
商売や創作の場所から、生活の場所そのものが失われる問題に、ちょっと話を広げたい。
渋谷の宮下公園は、2020年に公園・商業施設・ホテルが一体となった「MIYASHITA PARK」として再整備されていった。
この変化を考える時に見落とせないのが、それ以前にここを生活の拠点としていた人の存在ですね。
宮下公園は、野宿している人たちが寝泊まりしていて、共同炊事や支援活動を通じて生活を支え合う場所でもあったんですよ。
野宿者支援に携わった木村正人さんの記録には、こうした共同生活や自治活動が描かれています。
2010年には、スポーツ施設の整備に伴う野宿者の強制撤去があった。その後、2017年3月27日に公園が閉鎖されて。
木村の記録によると、園内に残った人たちは、交渉の末、公園外の代替の寝泊まり場所へ移動することになった。
現在の宮下公園は渋谷区立の公園になっていて、民間事業者が指定管理者として運営している。
開園時間は午前8時から午後11時までで、テントなどの設置は禁止され、長時間の占有を控えるように求められています。
このルールの下では、以前のような寝泊まりの場所として使うことは認められていません。
買い物や休憩のために訪れる利用と、他に行き場のない人が生活するための利用では、扱いが当然異なってきますよね。
公園の用途の変更によって、そこに居続けられる人や、認められる過ごし方が選別されていく。
失われるのは寝泊まりする場所だけではありません。そこにあった集まり方や支え合い方も影響を受けている。
その基礎には、生存や生活をどう保障するかっていう問題がありますね。
東京五輪に向けた国立競技場周辺の再編にも、同じ問題が現れている。
競技場の建て替えに伴って、都営霞ヶ丘アパートの住民は移転を求められたんです。
東京都が団地の撤去を決定したのは2012年で、東京での五輪開催が決まる前年ですね。
先行していた建て替え計画に、五輪の開催計画が接続されてきた。
都は移転先の都営住宅を確保しています。しかし、代わりの住居が用意されても、失われるものがあった。
石田智佳の研究では、高齢の住民たちの生活を支えていた日常的な助け合いの関係が、移転の過程で失われていったことが示されています。
移転を求められた住民は、新しい部屋に住むだけでなく、毎日会っていた人との関係や、
困った時に助け合う仕組みも作り直す必要が出てきたと。
また、2016年には、当時明治公園で野宿していた人たちが、行政代執行によって退去させられました。
競技場周辺の空間再編と立ち退きを、国家主導のジェントリフィケーションとして分析する研究がありますね。
これらの事例で問題になるのは、空間を組み替える過程で既存の生活や関係が失われ、その再建の負担が当事者に生じるということですね。
建物や施設の完成だけでなく、その場所を使っていた人たちが暮らしや活動を続けられたかどうかも、
都市の更新を評価する中心に置く必要があるということですね。
これは、さっき出した文化みたいな事例からちょっとそれてて、かなり生活の基盤を移動せざるを得なくなった人たちの事例ですよね。
この点で言えば、例えば「公園がきれいになります」とか、「再開発して新しい建物が建ちます」とか、
良いことの方面で語られがちなところに、でもそこにいた人っていたじゃないとか、そこにあったものってどこ行ったの、
っていう視点は必要だよね。考えなきゃいけないってことだよね。
ここまでジェントリフィケーションを巡る問題点みたいなものを列挙していったんですけど。
でも、この再開発っていうのが、何の必然性もなく行われているわけないじゃないですか。では、なぜこうした開発が進められていったのか。
その背景には、安全性、交通の利便性、施設の維持管理といった生活に関わる要請があります。
下北沢を含む小田急線の複々線化には、通勤時の混雑を緩和し、列車を増やし、所要時間を短くするって目的があった。
地下化を含む立体交差化には、踏切をなくし、道路の渋滞や鉄道による地域の分断を解消する目的もあります。
沿線で日々通勤・通学する人たちにとっては、重要な改善なんですよね。
道路や駅前広場の整備にも、別の要請がありました。
世田谷区は補助54号線について、災害時の避難経路、火炎の延焼を防ぐ空間、緊急車両が活動できる場所の確保などを目的に挙げています。
駅前広場には、乗り換えやバリアフリー化、駅の南北をつなぐ歩行者の動線の改善が求められました。
要するに、かなりごみごみとした空間っていうのはすごく魅力的で良いんだけど、同時に災害とかには明らかに弱いという問題ですよね。
小さな店が集まる路地には、文化が生まれる魅力があります。
同時に、避難や救急活動のしやすさ、車椅子やベビーカーで移動できる環境も、そこで暮らす人には必要になってくるよねと。
ただし、鉄道の輸送力を改善することと、道路を整備すること、周辺に商業施設を作ることは、それぞれ検討すべき課題、判断ですよね。
混雑緩和の必要性が、そのまま道路の規模や店舗の移転まで説明するわけではないはずですよ。
本当は、目的とそのために選ばれた方法を分けて考える必要はあるよね。
宮下公園にも施設を更新する課題がありました。
渋谷区は、公園とその下の駐車場の老朽化や耐震性の問題を、再整備の理由として説明しています。
また、渋谷から原宿方面へ歩いて巡りやすくし、交流や文化発信の拠点を作る目的も掲げています。
区が選んだのは、民間の資金とノウハウを使う官民連携の方式ですね。
この仕組みでは、公共施設の更新と、商業施設やホテル事業としての成立を、同じ計画の中で考えることになっている。
公共施設の安全性や維持管理を改善する要請と、民間事業の収益を確保する要請が結びついているってことですね。
国立競技場の整備にも、旧施設の老朽化への対応、大会の主会場としての機能、
障害の有無などにかかわらず利用できる環境が求められている。大会には開催期限がある。
一方で、周辺の人たちの生活や人間関係は、その日程に合わせて簡単に組み直せるものではない。
施設を整える側と暮らしを続ける側では、必要な時間が異なってきますよね。
こうした利益、要請を踏まえて問うてみたいのは、改善の利益と、そのための負担がどう分配されているかということだと思います。
便利な鉄道や安全な施設は、多くの人に利益をもたらす。一方、移転する店や住民には、生活や営業を立て直す負担が集中している。
その負担を減らせたのか、当事者が計画に関われたのか、別の方法は検討されたのか。
公共的な目的があるからこそ、そこまで問う必要があるってことですね。
街との距離の問題。ここから先は、ちょっと僕の問題意識を重ねていきたいんですけど。
街の安全性や利便性が高まる一方で、街にいる人との近さや、
「ここは自分たちの街だ」という感覚が[聞き取り不明]んじゃないかってことですね。
いつもの店で顔を覚えてもらう。道で知り合いと立ち話をする。店先の張り紙から近所のライブハウスや催しを知る。
そういう接点を通じて、街は自分の生活と結びついているわけですよね。街が整備されても、こうした関係は育つとは限らないですよね。
考える手がかりになるのが、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』。
これは文庫があるので読んでみてほしいんですけど。
セルトーは、歩くことや読むことなどのありふれた行為の中に、与えられた秩序を自分なりに使いこなし、
時にはその意図からずらしていく戦術を見いだしている。
この視点を街に重ねると、そのあり方は計画とか建物だけでは決まらないって考えられる。どの道を歩き、どこで足を止め、誰と話すのか。
私たちは日々の使い方を通じても、街に意味を与えてるんだよね。
いつもの道から少し外れて歩くとか、気になった店で話を聞く。公園で誰かと過ごす。街の音や変化を記録し、共有する。
小さなライブや読書会に参加するとか、自分でも何か企画する。こうした実践は、街との関係を作る入り口になるはずなんですよ。
だから文化にとって、観客として訪れることに加えて、自分も何かを始められるっていうことが本当はすごく大事。
顔見知りになって話をするとか、「今度どこかライブに行ってみようよ」って誘ったりとかする。
その関係の積み重ねが、街の文化を作ってるんですよね。
もちろん、家賃や立ち退きの問題は日々の工夫だけでは解決できないから、お金を使わずに居られる場所、小さな活動を始められる場所、
街の使い方について意見を交わせる機会も必要になってくる。
日常的な実践を考えることは、それを可能にする街の条件を考えるっていうことでもあるよねと。
そこでいう「自分たちの街」っていうのは、住民も、通う人も、新しく訪れた人も、
自分の関わり方を見つけられるっていうことなんだと思うんですよね。
では私たちは、どのような日常的な実践を通じて街や人との距離を縮め、自分もこの街を作る一人だと感じられるのか。
それはこの番組で、この先考えていきたいなっていうふうに思っている、というところで、社説部分はおしまいですね。
そうだね。すごく大枠で捉えると、街が発展、もしくは変化していく時に、より多くのリソースが集まり、
それによって街は発展しているように外から見ると見える。
だけど実は、その中ではそこにもともといた人たちが居づらくなったり、居られなくなるっていう、このふわっとした捉え方の、
より具体的な感覚として下北沢の話が出てたから。
文化っていうことで言えば、何でそれが良くないのかっていうのを、文化を生み出した人たちがいなくなる、
そしてその文化を続ける人もいなくなってしまう。
「じゃあその街って、もともと何だったんだ」っていう、街のアイデンティティが失われるっていうことに問題意識があるのかな、
というふうにそこでは捉えてて。
その次に、そこで生活してた人たちが、まさに住む場所を追われるとか、生きていたつながりを失うとか、みたいな話になってくると、
それはもっと直感的に、良くない、ちゃんと考えなきゃいけないって思わされた。
どうなの? 文化っていうのが失われるっていうのが、そこまで問題なのかっていう意見は、僕は全然あり得ると思うんですよ。そこはどう?
それは、例えば下北沢の劇場とかさ、すごく印象があるわけですよ。そこで育ってきたやつらもいる、みたいな、よく聞くわけじゃない。
そういうものが失われるっていうことは、記号としてはすごく悲しいなって思ったりもするんだけど。
でも、例えば演劇とかを見る人は減ってるよねとか、そもそも食っていくってことが難しい業界じゃない、とか思うと。
そういう文脈だと「少なくなってるんだよね」って聞いても、「ああ、そうなんだ。大変なんだね」ぐらいにしか思わなかったり。
場合にもよるけど。
俺は生活とかの方がピンときたっていうか、確かになって思ったし。
文化に関しても、自分が好きな、例えば中野ブロードウェイが今ほとんどお店が閉じちゃってて、
よく通ってたあそこがそうなっちゃったんだ、とか。それこそ秋葉原もちょっと、結構変わった部分があって、残ってる部分もあるんだけど。
でかいビルになっちゃって、「ここにあったあの店が良かったのに」って思わされる時はあるね。
当事者とか自分に近いものだと、確かに思うかもしれない。
そこにあったものが失われたな、これで便利になったかもしれないけどさ、とは思うかな。
なるほどね。「ラーメンとノスタルジー」の回っていうのがあったんですよ。第30回ですね。
「チェーン店は故郷になりうるか――ラーメンとノスタルジー」っていう回があって。
そこで言ってるのは、要するに僕たちの故郷って、実はチェーン店なんじゃないの、みたいなことを言ってるんだよね。
変わらなくそこに居続ける力、みたいな。
そうそう。変わらないっていうことを重視するんだとしたら、実はチェーン店、フランチャイズ系の方が強いんじゃないかってことを、
僕は言ってるんですよ。だから、俺たちの故郷は実はそっちにあるんじゃないのかってことを言ってるんだよね。
それを再開発の例に当てはめると、「個人商店がなくなっていくのはしょうがないのであって、
俺たちはファミレスとかを故郷にするべきだ」みたいな話になっちゃうんですよ。当然、僕はそれは良くないと思いますよ。
僕自身は、チェーン店みたいなものが持つ公共性ってやっぱりあるよね、とは一方で思いつつ。
しかし普通に東京の街で過ごしている自分は、街を歩いていて街との一体感を感じるとか、あるいは今自分が住んでいる街が、
自分の街だなって感じる感覚って、もうほとんどないんですよ。良くないなって思ってるのね。
だから、抽象的には「チェーン店が大事だ」とかっていうことも言ってみせることができるんだけど、本当はそう思ってないよね、実はね。
この話の流れで、チェーン店とか、便利になり、持続性があって、安定性があって、安全性があって、
というふうになっていった時に失われるもので、例として挙がってた、参加するっていう行為が容易にできづらくなる。
自分から何か発信するってことが、規格化されて、「もうこれで良いですよね。チェーン店がずっとここに建ってて便利ですよ。
コンビニがあるから何でも手に入りますよ」っていうと、じゃあそこで新しいお店をやるとか、
新しい活動をするみたいなのが難しくなってるんじゃないのか、っていう感覚は、確かにな、と刺さっていて。
それは結構、東京だから、みたいなのもあるのかもしれないけど。
その街との接続、街への参加、地域への参加がいらないっていう、必要じゃないって思う感覚も結構あるんだろうなって思う。
そう。その話をしたい。ここで僕たち、いろいろしゃべってるんだけど、結局のところ、街に参加したり、
自分たちの街だと思える方がいいよね、っていう前提があるじゃん、一応。
本当はそんなことを思えない人に、この感覚ってどう説明したらいいのかっていうのが、実はもっと重要な気がした。
僕たちよりも10個とか20個下の世代、10代とかの子たちは、
例えば「お祭り行こうよ」「お祭りとか行くの嫌なんだけど」ってなるよね。人が多くて面倒くさいし。
何なら「お祭りの手伝いしてみない」とか言われたら、「いや、そんなのやりたくないよ」ってなりそう。
絶対になるよね。これはどうしたらいいの?
「家でサブスク見てたいんですけど」みたいな。
そうだね。これ、僕の私事の実体験になるけど、自分もそう思ってた。
別にコンビニに行けば食い物はあるし、仕事は仕事でやってれば、別に完結してるわけじゃないですか、経済活動としては。
そう。だから、ジャズ喫茶がなくなる。「ジャズも家で聴けばいいじゃん。コーヒーも家で飲めばいいじゃん。
家でコーヒー飲んでジャズ聴けばいいじゃん」って言われた時に、「いやいや、そういうことじゃないでしょ」って、
どう説得したらいいのかって。
自分の体験としては、自治会っていうのがあって。
自治会を通して、例えば俺が一番感じたのは、市の危機管理室がいろんな自治会と連携して、いざって時のマニュアルみたいなのを、
みんなで共有するわけですよ。
そこで語られたのが、市の管理室の人が「災害が起きた時に、市の人が食料とか避難所とかを開けてくれると思わないでください。
市の職員も被災者ですから。その時に助けてもらえると思わないで」っていうのを、まずはっきり言われるわけ。
一番最初に、まず自分の命は自分で守れ。その次に、隣の家とかその地域の人たちで一回助け合って、
3日とか4日とか1週間とか経ったら公共がやってくれるけど、それまでは自分らでやらなきゃ駄目なんだよ、っていう話が、
確かになって思ったわけですよ。
だから、いざって時に、自分が自分の命を助けたり、自分が隣の家のおじいちゃん、
おばあちゃんを助けたりするっていうのを考えておかなきゃいけないな、っていうのが。
それは災害っていう喫緊というか、分かりやすいことであって。
ってことは、日頃から隣の人の顔を知っておかなきゃいけないし、自分も顔を知っておいてもらって、助けに来てもらわないと、という。
そのつながりのきっかけはそこにあったんだよね。「いざって時に大丈夫? その地域で自分一人だけでぽつんといて、本当に大丈夫なの?
」っていう感覚はあったね。
それ、俺、この間思ったことがあって。この間、とある政治家の人と話したことがあって、とある衆議院議員の人と話したことがあって。
その人が、僕が住んでいる街の地区から立候補して、衆議院議員になっている人なんだけど。
街のお祭りとか、そういう催し事に若い人たちに参加してほしい、これに人を集めるにはどうしたらいいか、
みたいなことを言ってたんですよ。俺、その時に無理だろうなと思ったのね。俺が若いやつだったら、祭りなんか行きたくねえよ。
年上の人とか長老とかに指図とかされるの嫌じゃん。
そうだね。
あと、礼儀とか叱られたりしそうじゃん。
イメージあると思う。
イメージあるじゃん。嫌だなって思ったの。
でも、その時に思って言えなかったのは、お祭りじゃなくて、災害の防災とかだったら行くかもなって思った。
なるほど。
俺が年下の人たちに強制性を発揮して、「お前来いよ、これ大事なんだから」って言うとしたら、お祭りじゃなくてそっちだと思うんだ、
ってことね。
いざって時の準備をしないとまずいぞ、って言えるっていう。
そう。お祭りって「楽しいから来て」って言うしかないじゃん。でも、楽しさは人それぞれなんだよね。何を楽しいと思うかは。
でも苦しみの方、何が嫌かは結構共有できるじゃん。災害とかが嫌だっていうのは、かなりみんな共有できると思うんですよ。
だから、そっちで人を集めていくってことなんだろうね。つまり、不幸を避けるためにみんなで集まる。
不幸の方が痛みを共有しやすいっていう。
それはそうかもしれないね。
だから、災害とかなんじゃないの? 防災とかを目的にみんなで集まるっていうのなら、
ある程度「やってきた方がいいよ」っていうふうに自分も言えるかなって思ったんだよね。
ここまでつなげるのは無理やりかもしれないけど、災害とかいざという時のためには、地域のつながりってマジで大事なんだ、
って思ったのが数年前なんですよ。
そこからじわじわと、って言い方するとあれだけど、今は地元のお祭りにがっつり参加して、お店とかをやったりしてるわけ。
それは、まず地域の人たち、隣に誰が住んでるとかって、結構大事かもって思って。
そういうつながりが増えていった結果、「お祭りって大事じゃん」ってなるんだよね。
結果的に今、お祭りのおかげで年に1回とか、みんながお互いの顔を合わせて、確かに仲間だったな、みたいなことをすると、
いざって時に意味がある、っていうところまで来られたんだけど。
それは結局、人とのつながりみたいなものを、機能として僕たちは捉えるしかないってことなんだよね、実は。
普通に感性のレベルで、お祭りに行くんだっていう気持ちってあるわけじゃん。
「お祭りが大事なんだ」「みんなで神輿を担いでるのが大事なんだ」、感性レベルの、人と人がつながるっていいよね、みたいな。
そんなことは俺たちは全然思えなくて、防災とかっていうことを考えた時に、人とのつながりが大事。
その時に、実は祭りって重要な機能を果たしてたんじゃないか、っていう、この機能のレベルで必要性を実感していくしかない、みたいな。
そういう感じだったね、個人的にはね。自分たちの街意識みたいなもの。
大事だっていう時に、だから「文化が大事だから」っていうのだと、人は説得できないって話だよね。
説得しづらいよね。強く言いづらいっていうか。
強く言えないよね。
だから、そこは文化が大事だっていうとか、例えば演劇が大事だとか、音楽が大事なんだっていうのは、
評論家とか批評家が担わなきゃいけない何かなんだよね。
僕は文芸評論みたいなものと、社会とか政治みたいなものっていうのが、本当はかなり接続してるはずだっていうのを言うじゃないですか。
それはここなんだよね、本当はね。
ただ単純に「音楽っていうのは人をつなげて良いものなんだ」みたいなことを言っても、
人は「別に俺はそれを良いと思わないですけど」ってなっちゃうから。
だから、ある種の変なストーリーラインを組み立てて、「音楽が大事なんだ」とかって言ったりしないといけないんだよね。
あるいは「アニメって大事なんだ」「この作家が大事なんだ」っていうのを、
ある種の公共性みたいなものをストーリーとして作らないといけないんですよ。
例えば、僕はアニメについて語った回で、浅香守生っていうクリエイターについて、この人が大事なんだっていうふうに言ったと。
それは、この人たちが僕たちの世代の、ある種の美意識みたいなものを作ってるからなんだってことなんだよね。
これ、嘘じゃん。
嘘?
嘘じゃん。つまりフィクションじゃん。
語られてることが。
そう、俺が言ってることってフィクションじゃん。美意識は人それぞれじゃん。
事実みたいなことではないってこと?
実証できることじゃなくて、ということ。でも、大事なんだってことを叫ぶしかない、みたいなことを、そこでは言ってるんだけど。
叫びってそういうことだよね。
そうそう。
でも確かにそうだな。
このクリエイターのこういう制作意識とか、この作品に描かれていることが、ある種の公共的な僕たちの常識になってるよね、
みたいなふうに思った人々がそうだって思ったら、そうなるって話なんだよね、これって。
これ、平和とか正義の問題と関係してて。正義ってないじゃん、世界には。「これが正義ですよ」みたいな。
つまり、正義は本当はあるんだよ。正義って、今俺は伊藤のことを殴ったりしないじゃん。だから、あるんだと思うんだよ。
でもそれは、正義があるっていう人がたくさんいるからあるんだよね、実は。
平和っていうのが大事だって思ってる人がたくさんいるから、平和が実現してるっていう話だ。
人間の外部に、平和とか正義っていう原理が、宇宙の法則としてあるわけじゃないし。
そういうふうに人が思うから存在してるものってあるんだと思うんですよ。それに近いんだと思うんだよね。
つまり、この文化が大事なんだっていうことも。
そういうことを言って、それを信じる人がいるから、それが成り立つっていう問題なんだと思うんですよ。
成り立つ人たちの中だけでは。
だから、生存の問題とジェントリフィケーションをつなげると分かりやすいよね。
そうだね。大事だってみんな分かるから。
そう。それはある程度、生命の問題とかと関わってるから。
でも「文化が大事なんだ」って言った時に、はて、っていうことになっちゃうわけだよね。
それは、そういうふうに思う人をどう増やしていくかってことでしかないから。
それは評論家とか批評家とか、哲学者とか、価値観を体現する人が担わないといけない仕事なんだけど。
伊藤が「自分たちの街だって意識を持つのが大変」って話があったじゃないですか。
じゃあ、それをどうやって持たせるかって言ったら、一個は防災みたいなことはみんなで合意しやすいよね。
共通したイメージが持ちやすい。
そこでジェントリフィケーションから守られるのって、やっぱりそこに住んでる人の生命とか生活活動が守られるっていうところだと、
そこは接続してくるじゃないですか。
でも、それだとライブハウスが街にある意味とか、本屋さんが街にある意味っていうのは守れないよね、実は。防災と関わってないから。
そこだけだとね。
だからそうすると今度は、評論家っていうのが担わなきゃいけなくて。評論家って、かぎ括弧付きのね。
例えばってことだけど、「この文化ってものが僕たちなんだ」っていうようなことを言う人、それを人々に信じさせることができる人。
そういう人が何か担わなきゃいけないんだけど、それは難しいよね、正直。
そうだね。
例えば、僕たち夏目漱石って国民的な作家だと思ってるじゃん。それは、国語の教科書で習ったりとかしてるからだよね。
みんな知ってるよ。
でもこれ、ある種の嘘だよね、やっぱり。そういうふうに信じてる人がたくさんいるから、
夏目漱石ってそういうものになってるだけであって。別に夏目漱石じゃなくても、本当はいいはずじゃん。
そのポジションにいたものがね。
そうそう。新海誠でも本当はいいはずだよね。
でも、やっぱり新海誠の作品より夏目漱石がやってることの方が俺はすげえと思うけど、公共的だと思っちゃうけど。
でもそれは本当は動くはずなんだよね。そういう感じで、
演劇が大事なんだっていうようなストーリーを作れるってことなんだと思うんだよね。
ちなみに前回は『オデュッセイア』の話をしてたじゃないですか。『オデュッセイア』って、詩なんですよね。
叙事詩として、口承で語られてきたものなんですよ、人々に。
あれが何で今の文学とか演劇とかにすごく影響を与えてるかというと、
古代ギリシャでは広場でみんなが集まって演劇を見るっていう習慣があった。
その広場で集まって、政治的なアジェンダとかスピーチをするっていうのと、並列して演劇とかがあるんですよ。
だから、古代ギリシャの民主制を支える一つの公共性を担う装置として、実は演劇ってあった。
その時に演劇の果たす役割っていうのは、「これがやっぱり人にとって良いことだよね」とか、
「こういうことは人の道から外れてるよね」っていうのを物語として示すってことだよね。
「だから俺たち、こいつに投票しよう」とか、「だからみんな俺たち兵隊になって戦争に行くんだ」とかっていうことを、
演劇を通じてやってるんですよ。だから演劇って本当はすごく大事なんですよ。つまり、演劇じゃないのかもしれない。物語だよね。
こういうふうに考えていくと、実は物語の問題と社会の問題と政治の問題ってつながってくるんですよ。
確かにね。
何が良いと思うかっていうのは、ストーリーでしか、本当はフィクションでしかないはずなんだよね。
それが公共的なものだっていうふうに、みんなに思わせられるかなんですよ。
物語単位であるとか、それを語る語り部、詩人みたいな人たちが、っていう話。
それだから、文化みたいなものが、いわゆる趣味みたいなものよりも、もっと強力に我々に影響してるってことだよね。
だから、俺は作品批評がすげえ大事だと思ってるんだけど、そこは伊藤とは違うんだって話があったじゃないですか。
俺は、それがすげえ大事だと思っちゃってるんですよ。アニメについて語るとか、映画について語るっていうのがすげえ大事なんだ。
「この物語よりもこっちが大事なんだ」とか、「これはあんまり良い物語じゃないんだ」ってことが、
社会とか政治を語ることと同じくらい大事だと思ってるんですよね。
なるほど。
っていうのは、ここから来てるんだよね。ここからというか、この伝統からなる文芸評論を読んできたから思ってるんだよね。
そこに強いつながりを感じているわけ。
そうそう。街の問題を考える時にも、それを思っちゃうんだよね。
そうだね。文化に関しての思い入れみたいなものとつながるか分からないけど。
結局、今俺は防災みたいなものから関わり始めて、お祭りをやってるわけですよ。
でも、お祭りっていうのは、ただ続けてきたってことなんだよね。何十年も続けてきたことを、来年もやります、みたいな。
みんなで集まろうっていうことなんだけど、結局お祭りに来た人は強くその自治会に参加して、防災の時とかに「俺やりますよ」とか、
「私がそれ頑張ります」みたいになっていくわけ。
それは、ただ「防災は必要なので自治会は存在し続けます」だけだとできなくて。
結局、その文化に触れて関わった、という人たちが強く地域に参加して、結果的に地域の安全とかを担保していく、みたいなものがあって。
そういう意味で言うと、文化とか、そこにあったつながりみたいなものは、確かに強力に影響するんだよね。
街に参加することで、結局その街の足りないものを補う力になるっていうのがあって。
それこそ、お祭りがめっちゃ面白いから参加したくなるくらい、めっちゃ面白いお祭り、
もしくはお祭りに参加するのが楽しいんだって思わせるパワーがあれば、そっちからでも行けるってことなんだよね。
でもその話で言うと、一個は強制性だと思うんですよ、僕は。それは最初には分からないと。事前にはお祭りの面白さは。
とにかく来る、ってことでしかないんだと思うんだよね。手を引っ張って、っていうことじゃない、一個は。
そうだね。それはあるかもね。親に言われてとかだからね。
そうそう。最初に参加した人もそのはずだよね。そんなに乗り気で行ってないんだと思うんだよね。
そうだね。
その時に強制性を自分が発揮するのも大変じゃん。パターナリズムだから。
だから僕は、お祭りだとそれはちょっと難しくて、防災ならできるって感じなんだよね。
こっち側としてね、誘う側としてね。
そうそう。
もう一つは、お祭りが楽しくあるべきっていう話があるじゃないですか。これ、盆踊りの問題なんですよ。
盆踊りの話もありましたね。
そう。盆踊りが大事なんだ、これがすごく公共的なんだっていうことだよね。
盆踊りは昔からアニソンみたいなものと結びついてきたりとか、ダンスミュージックみたいなものと結びついて、
その時々に流行ってる文化を取り入れてたんですよ。
そうすることで生き長らえてきたというか、公共性を保ってきてるんですよ。これ、すごく大事なんですよ、盆踊りは、音楽家にとって。
音楽家と社会が本当に、音楽と社会が本当に密接につながってるんだよね。
そのポイントがね。
今の、例えば若い人たちに楽しいと思ってもらうお祭りはどうしたらいいのか。
例えば、盆踊りで楽しく感じる音楽って何かって、本当に考えなきゃいけないんだよね、音楽家が、ってことなんですよ。
そうだね。あの回も、盆踊りがいかに大切か、特に音楽をやってる大河にとって、いかに盆踊りってすごいよねっていう話だったよね、
あの時はね。
そうなんですよ。
僕、これ本当に話が巻き戻っちゃってるけど、話もそれちゃってるけど。
文化っていう単位で考える時に、「日本の文化って何だろう」とか、「俺たちの文化って何だろう」っていうふうに考えると、
すごく狭くなっちゃうと思うんだよね。
だから、広げるってなった時に、どう広げればいいかっていうラインを東アジアに取ってるんだよね、俺は。
なるほど、感覚的に。
そうそう。
「俺たちの文化」っていうふうにすると、例えばナショナリズム的なものと結びつくじゃん。
それは、ある種の排他性とか攻撃性も伴うじゃん。「俺たちの街、よそ者は来るな」みたいな。
それはやっぱり、僕は駄目だと思うんだよね。それは文化を最終的には弱らせていっちゃうんですよ。
だから、ある種の流動性とか多様性みたいなものを確保しようと思った時に、「俺たちの」みたいなことじゃなくするっていうのが大事。
広がりのあるイメージを持たなきゃいけないんだよね。
それを東アジアっていう枠組みで、俺は取ってるんだよね。例えば、「天竺に行こう」みたいな回もあったけど、『西遊記』とか。
『西遊記』っていうのは、東アジアで広く読まれてる物語じゃん。みんな面白いと思ってるわけだよね。
そういう文化ってあるんだと思うんですよ。この語りの単位を見ていくと。『三国志』とかね。
確かにね。あれは日本の物語ではないからね。でも、ちゃんと知ってるよ。
そう、ちゃんと知ってて、漫画にもなってるし、二次創作みたいなものも無限に生まれてる。
あとは、日本のゲームとかアニメとかっていうのも、東アジアで広く共有されてるもののはずだよね。
みたいなふうに見ていくと、この単位の感性って、何かあるはずなんだよね。
そんな話だったわけですね。どうですかね、伊藤くん。今日の回はまた変な回に。
今回、話したいこととか思うところがいっぱいあって。
とっ散らかったっちゃとっ散らかったし、広がったっちゃ広がったっていうことだと思うけど。
今回の回はジェントリフィケーションがテーマなわけだよね。
つまり、その街が一面では安全になったり、より人が集まって、土地の値段が上がるってことは、みんなが魅力に思ってるから、
ってことじゃないですか。その街が発展していくというのに伴って、失われていくものがあるという視点のことだよね。
それをちゃんと分かってないと、いけいけどんどんではまずいんじゃないのか、ということを感じさせてくれると。
そうだね。それはそうだね。
今回の話で俺がすごくピンときてたところは、安全性みたいなものは確かに確保したいとか、混雑を解消した方がいい、
みたいなものを解決する手段が、果たして再開発なのか。
道を広くして店舗をずらして、住みやすいとされている形に改造するのがいいのか、ちょっと考えてみないか、っていうところに、
地域の自治会とか人のつながりとかで、もっと別のルートでやり口があるんじゃないか、っていうふうに思わされたね。
確かにそうかも。
再開発っていうのは、しょうがねえよな、時代が進むにつれて起きることだよな、とは思わずに、何とかできる方法があるんじゃないの、
っていう視点に立てたのが、俺が今回感じた部分。
だから、それの具体的な実践例みたいなものを見つけられたらいいね。
それがちょっと課題で、その観点からいろいろ見てみますね。
このポッドキャストは30代以上の方たちに向けているから、それこそ地域の大切さとか、
人とのつながりの大切さみたいなものを感じてる人も多くて、聴く人の中では。
「確かにつながりが減ってるな」って寂しさを覚えたりとか、そういう人もいっぱいいるだろうから。
ただ、ここで他の人を地域に参加させるとか、自分が何かを新しく始めるところまで行くのは大変だよね。
それは大変だなと思うけど、でも、あったらいいなと思うぐらいのこの感じを、確かにね、って思ってくれる人たちがいたら、
お便りを概要欄のフォームからいただけたら、というところだと思います。
感想やお便りは概要欄のフォームからお願いします。また番組のフォローもお願いします。それではまた次回。
はい、また次回。