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ゴヤの絵画と山姥の家|オデュッセイアが問う加害の構造と実存
2026-10-18 48:35

ゴヤの絵画と山姥の家|オデュッセイアが問う加害の構造と実存

クリストファー・ノーラン監督作品が描く「帰還」の旅路と、古代ギリシャの古典叙事詩『オデュッセイア』の物語構造を批評します。合理性や論理の限界に直面したとき、人間は何を求めて未知なる外部へ踏み出すのか。映画と神話の共通点から、現代を生きる私たちの実存と心理を読み解きます。

【目次 / チャプター】

オープニング

2秒ごとのスイッチング演出と没入感のレトリック

トロイの木馬:10年間で作られた造形美と「知性の残虐性」

ノーラン的男性像のフォーマット:自責の念と責任感の美学

ポリュペーモス(キュクロプス)の怪物性と「山姥の家」的普遍性

原作からの改変:「誰でもない者」の省略とリアリティ16:16 怪物の捕食シーンに見るゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』の影

絵画的フレームの否定:クローズアップと時間芸術としての映画

全編IMAXの衝撃と画面酔い

未知なる外部へ身を晒すこと:メリデメ思考を超えた体験の価値

巨人に追われる全力疾走の実存性

キルケーと豚に変えられる兵士たち:現代の潔癖症と因果応報

加害者としての歴史を背負い、どう誠意を示すか

なぜ古代の世界観・衣服・質感は美しく見えるのか39:38 好きか嫌いか:作り込まれたハリウッド的ドラマ性への賛否

ノーランの時間軸と構造はハリウッド的になりすぎたのか

エンディング

▼ 関連動画【美学】なぜクリストファー・ノーランは「弱さを持つ男」に惹かれるのか | オデュッセイアから読み解く帰還と回帰

https://youtu.be/yTHWeqbLMYk

【空中公演メンバー】

▼ 髙橋 良輔Instagram(Personal): https://www.instagram.com/takhs_works/

Instagram(Shop): https://www.instagram.com/chapter_1_gallery/Chapter1 Shop HP: https://chapter1-halfway.studio.site/

▼ 平野 竜次Instagram: https://www.instagram.com/ryouj_hirano?igsi=bXJjNDM2MTIxcTAx


感想

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00:00
- オデュッセイアですね。2回言いましたけども、どういう角度から見ようか、みたいな問題ね。が、まずあったよね。
- なかなかね、映画館で何か話すってなって見るみたいなのは、あんまなかったから、なんか、初見の映画をこう、なんていうか、最初からちょっと分析的にというか、見るっていうかね。
- なんか結構ノーランの映画って、のめり込んでなんぼ?みたいな世界観のとこあるから、なおさらっていうかね、そういうのもあったというか。
- 確かにね。
- なんかクリストファー・ノーランの映画って、結構さ、時間とかさ、これまでの作ってきたものっていうのがすごい言われるじゃん。特にね。
本当はそういうのを忘れてさ、のめり込みたいんだけど、なおさらこう分析的に見ようとすると、それがノイズになるからね。
ただ何も考えずに本当は見るのが良かったんだろうなって、後悔してる。
- いや、俺逆になんかそういう見方あんませんかったな。ただ、
- ああ、いいな。
- ノーランの手法、これは編集者はノーランなのか分からんけど、ノーランぽさみたいなところで感じたのは、
オデュースセイヤーってオデュースセイヤーが喋ってる時に、すごいスイッチング、めっちゃ画面をスイッチング2秒ぐらいでパンパンパンって毎回するんやけど、
その途中でナレーションみたいな、なんか象徴地みたいな、なんか燃えてる家とか、なんかそういうのを映像に出しながら、声だけが喋ってるみたいな、ナレーションしてるみたいな映像を、なんか割と入れてるのよね。
- あのニュアンスはすごいノーランぽさというか、その結末というか、象徴を先に見せることで、オデュースセイヤーが喋ってるというよりかは、そこに自分が見てる、没入してるみたいな感覚、認識を持たせるみたいな
技術というか、レトリックがあるなっていう風にまず思ったね、その表現のニュアンスとして。
- 最古の古典としてのオデュースセイヤーだから、いわゆる平和論みたいなところもあるやろうし、考えようによっては、このオメロスの時代に書かれたオデュースセイヤーみたいなことが、この時代でもまだ延々と
繰り返され続けてるっていう、
人間の普遍的な物語というか、それとしても見ることができるし、そこにその時代性とか関係なく、このオデュースセイヤーっていう物語を普通に見れるっていうことのすごさというか、技術というか、それをすごく感じ
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た。
- なんかこのいわゆるノーラン版オデュースセイヤーみたいな感じじゃん。
- まあそうだね、全然内容は違うよね。
- オメロスのオデュースセイヤーをジオラマ的に再現しましたではないというか、全くっていうのはすごい感じたから、なんかそういう視点から、今回は俺は話せれたらなみたいな感じで思うね。
- なるほどね、そうだね。
- コロイの木場とか、めっちゃかっこよかった、木のディティール。
- あー美しかったね。
- あれエグいよね。ていうかさ、10年砂浜でいてさ、どうやって作れんの、あれが。
- まず、その技術たるや。君たち戦士だよねっていう。
- どこから持ってきたんだよね。
- どうやって木曲げたのっていうのが結構思ったね、まず。
- そうね、何だっけな、名前忘れちゃったけど一応職人さんがいて、作ったとされてる人が一応いるんだよね、そのオメロスの方はね。
でも突然現れるから、まあその辺はかなり唐突だし、あとその美しくなければならなかったんだろうね、確実に。
- まあもちろんね。
- 本当に、なんかそこの部分がやっぱり作品内では強調されてたっていう感じよね。
- だって、戦争を終結させるための贈り物としては、トロイア人が認める範囲内じゃないとダメやから、それはもう大きくないといかんし、
ディティールも美しくないといけないし、みたいな世界はあるやろうね。
- そうだね。いろいろその作戦みたいな部分には突っ込みどころは現代から見たらあるけど、
いわゆる神様の捧げ物として作られたもの、それをもう花から踏みにじっているっていうことに、作戦の成功した後に本人は気づいていくみたいな流れが大きくあるじゃん。
- 見継ぎ物、それをさらに仲間にも、仲間すら騙しているっていうところ。知性がさ、もたらすものの残虐性?暴力性?というかさ、
それとあと、それこそ職人技の美しさみたいなものとが同時にさ、表現されてるっていうかさ、
これはちょっと自分的な語りだけど、現代アートのいわゆる暴力性と古典美術の純粋性みたいなものの同時にそれを見せられているような感じがちょっとしたね。
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- なるほどね。オデュッセイヤーってすごい英雄的な見られ方というかなんやけど、実際こうノーラン版オデュッセイヤーを見た着地としては、やっぱりこの人間が唯一つなぎ止めていた絆みたいなものを
オデュッセイヤーが壊したことによって、この人間の善良な心みたいなものがなくなりみたいな。っていうのが歌によって伝わりみたいな。それは一種の罪と罰的なものでもあるやろうし。
- そうだね。それをこう、いわゆる崇高な場でやってしまったっていうかさ、究極その第一次世界大戦みたいなさ、大量虐殺兵器バンバン導入みたいな結果が、僕らの視点からだともうそれを知っているから、そういう
ものと重なるし、
それこそ彼がクリストファー・ノーランの一個前のオッペンハイマーでやってたさ、核兵器作っちゃった人の人生を描く中でも同じようなフォーマットは使われてたと思うんだけど、それはすごい感じたかな。
- 確かにね。ノーランの書く主人公像って割と近しいタイプが多いなとは感じたね。イーター・ステラー・シカリ。
- 責任を感じてるよね。責任に対しての、ああやってしまったぜみたいな、なんていうかね、自責に押しつぶされそうになりながらも戦いをやめない、そこに対して反拒を自分を立たせてみたいなところとか。
- なんかそれがノーランの美学なんやろうね。一種その男性像を描く時の美しさ。苦痛を人間的にちゃんと感じるし、ユーモアもあるし、みたいな男性像みたいなね。のがノーラン的な主人公のフォーマットとしてある
ようには感じたね。
- なんかこのオデューセイヤー自体を読んでないからさ、本当に全くわかってない状態で初見見たのよ。そのポリュペーモス、キクプロスとかさ、あの怪物性の目の楽しさというか、怪物がやってきたぞみたいな。
- 僕ら世代だとサイクロプスだね。遊戯王カードとかで僕らは多分知っている。目が丸い。
- まあそんな感じだね。青いこれやろ。
- そうね、これ。
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- 攻撃力が1200とかのやつやろ。
- 1200やね。4つ星?3つ星かな?わかんないけど。
- まあそれの元ネタというか、そういうところに。それがやっぱりなんか、小さい頃の怪物が出てるっていう、なんかそれ気持ちにはなったけどね、普通に自分は。
- そのキクプロスって2種類あるらしくて、なんか1個がそのいわゆる神々の武具を作るための種族というか、いわゆる神に近い存在としているやつと、逆に今回のやつみたいな野に放たれてる野蛮な1つ目のもの
みたいな。
- 1つ目のマーク、神なのね一応ね、たぶん。
- いやこれは神じゃないの、たぶん。
- あ、神ではないのか。
- そう。たぶんね、確かなんやけど。
- そのポリペーモスとかは、もうあれ自体が1つ、本来オジュスセイヤ的世界観の中では、あれがポリペーモスたちの島やったらしくて。
- はいはいはいはい。
- まあいわゆる野蛮なものとしてあるんやけど、その洞窟とかがさ、いわゆる俺はなんか日本昔話的なさ、ヤマンバの家みたいな、あのニュアンスをすごい認識として最初に感じるというか。
- なるほどね。
- だからああいうところも、やっぱりその人間がもともと持ってる物語としての、全部がその西洋も東洋も繋がってるような認識の上での洞窟というか、なんかそういうものを感じたね、なんか。
- あーなるほどね。
- ヤマンバの家っていわゆる普遍的で普通の生活をしてるみたいなところにわざわざ入ってきてしまったがゆえに、その物語というかそれが始まっていくみたいな。
- あー確かにね。そのフォーマット確かにそうだね。
- すごい、もともとそのポリフェーモスは牧歌的な生活というか、もう触れなければ何もないような存在に、まあ触れてしまったがゆえにっていうところなんだけど、やっぱりなんかああいうのもすごい忍走学とかも入
れてるんやろうなーって思って、すごいなんか鼻がえらい曲がってたりとかさ。
- うん。一貫して。
- どう考えてもいわゆる隠し語的な存在としてのポリフェーモスなんやろうなっていう。
- そうね。
- 本来眉みたいなフォルムってある必要がないのにっていうのは、いわゆるその二つ目が欠損した状態で生み落とされてるっていうことへの意味性とかがあるやろうし、ただオジェスセイヤの元々原作とかではそういうの
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も書かれてなくて、確かなんかそういうホセイドンと海の精霊が洞窟で交わってできたのがポリフェーモスでみたいな感じだったけど。
- ギグブロスには2種類あるみたいな話と、ヤマンバ的な洞窟。
- 話と、なんか結構あそこさ、クリストファー・ノーラン本人もさ、なんか結構思考というか困ってる感じというか、扱いすごい考えたんかなってすごい俺は思って。
- いろいろインタビューとかでもさ、怪物自体を実際にモデルとして作ったりとか、あとその怪物が作ったチーズみたいなものを実際にその場に持ってきてみたいな、そのリアリティをどう出すかみたいなところとか
すごい工夫されてたみたいなのと、
- あともともとあのシーンってああいう話じゃ大きくないんだよね。洞窟の中に入って出れなくなるっていうフォーマットは一緒なんだけど、出方とかが違うんだよね。
- すごい有名な話で、オデッセイア自体が名乗るか名乗らないかみたいな部分をすごく強調するような話で、あえて自分の名前を伏せて、自分の名前を何者でもないものみたいな風に言って、それを聞いた怪物が仲間を呼
ぼうとするんだけど、
- その仲間を呼ぼうとしたときにその何者でもないものが来てるみたいな、襲われるみたいな仲間を呼ぶんだけど、それを聞いた周りの人たちはやっぱり何者でもないものが襲われるというのはなんかちょっとやばいの
かなっていうか、なんか違う意味で捉えて、本人助けを呼んでるっていう風に解釈されなくて仲間呼ばれずに済むみたいな、そういう話があるんだけど
- そういうので、オデッセイア自身の知性の一つの武勇として語られるシーンがあるんだよね、それはどういう問題か細かくは分からなかったけどできなかったみたいで、時間の尺とかも、あと映像とか音声とかの表現
の多分、取捨選択だったと思うんだけどね
- そこの部分でどうやってそのオリジナルを確立するかっていうところで、ものすごいこう言ってた、そのヤマンバ的なものにも見えなきゃいけないし、その普遍性っていうものをどうやって獲得していくかみたいなのは
すごい試行錯誤してたんだろうなって思うシーンだったね
- そうね、割と2回見たって言ったけど、2回目見てる時に割と物事が淡々と進んでいくなってすごい感じたのよ、この2時間50分って長いなって思ってたんやけど、フラットにすごい見てると、物語の進行が小気味
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いいなと
- なんかすごい感じたね
- だから映画的でやるがゆえにポリペーモスと酒飲むとか、誰でもないものみたいな感じでやるみたいなニュアンスにしてしまうと、逆にこのポリペーモス自体の怪物性とかそういうものが失われてしまうんじゃないか
みたいな、っていうのもわからなくはないし、全然
- そうよね、知性というか、どちらかというとそういう部分の強調よりも怪物感っていうのを強く出したかったのかなと思うなと、あとなんだろうな、あれ思わなかった、怪物が兵士を食べるシーン、ゴヤじゃね?
って思った
- めちゃくちゃ一致して自分の中では、ゴヤのね
- モチーフとしては
- 全然違うんやけど、我が子を喰らうサトゥルヌスだよね、こっちの方はローマ神話の方の絵だから、こっちどっちかというと、キリシャ神話だとクロノス、ゼウスのお父さん、お父さん?あれ?わかんない、お父さんで
いいかな
- お父さんが息子を食べてるっていうシーンなんだけど、そっちの話というよりはキーワード、印が一致するっていうか、この後父親であるポセイドンの話が出てくる、父っていう存在性も現れるのと、あと食べ方、頭と
左手食われてるんだけど
- 食べられてるシーンも頭と左手が食われてるんだよね、よく強調されてるところでは、そういう印とかで接続してるというか、そういう風に見えた、俺はちょっとこれは好きなだけかもしれない
- ゴヤも頭と左手やった?
- うん
- マジで?
- 右手をちょっと食われてるっていうのがあるけどね、最後に
- すごい発見やね
- 確かにね
- なんか俺逆にアリを見るときに喋ることなんてするかって言ったときみたいな、人間ではないもの、人間より上位にある存在が、人間を見たときには人間が、確かにそのニワトリとか、そういう風なとさつがある
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ように、その同様な無情さを持って人間も処せられるっていうところを強調したいがための
- 無惨な頭から頭食いを見せてるのかなみたいなのを感じたっていう感じではあったね
- いやでもそうだと思う、そうだと思うんだよね、表面的な部分というか、多分普通に作品的な部分はそうだと思うし、その物語の中のレイヤーと多分その美術的な部分というか社会的な部分が分かれてるっていう面白さ
の発見
- 少なからずそういうメタファーというか表現みたいなのはやるよね
- なんかさ、すごい2回目見てて思ったのがさ、俺が言うのもおこがましいけど、その絵画的じゃないなとはすごい思ったね、この映画自体が極めてスイッチングを多用するがゆえに、一人の対象がずっとスイッチング
していくとか、なんかもうそういう世界線じゃないんだなっていう風に
- なんか一枚の絵として見た時のつまらなさみたいなのはやっぱりその、まあ役者が立ってるからっていうのもあると思うけど、っていうのはやっぱり感じたね、なんか俺は
- そうだね、まあクローズアップのシーンも非常に多いというか、なんて言うんだろうな
- なんかじんわりズームしてたりするよね、すっごい微妙な匂わせ、じんわりペネロペにズームしていってるとか、ズームしながら切り替え切り替えまたペネロペに戻りみたいな感じだったね
- ペネロペが王座を狙いに来てるアンティノースか、作詞で、部屋に呼ばれて若干そのペネロペが心若干許しかけるっていうシーンがあるんやけど
- あれとかもね、あんまり意識しないけど、意識しずに見ると本当に綺麗なシーンで終わっちゃうんだけど、織物の繊維の後ろからカメラ向けて、その二人の心の距離感っていうのをさ、どんどん生地を挟んでさ、どんど
ん近づいていって離れるみたいなさ
- 心の動きとかも見せたりしてたんだけど、ああいう部分とかは絵画的っていうよりは、漫画的とかいうのが近いのか、いやでも漫画的でもないよな
- 映画的なのかな
- 映画的なんやろ
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- そうやな、非常に映画的だったよね
- いや本当その前後関係というかね、時間芸術的な側面がすごい多いんやなっていう風には感じたよね
- それこそフェリーニのサトゥリコンとかはさ、それとはもう対照的な作品というか、全部の絵が絵画的に見えるっていうのが
あるんやけど、そういう映画とはもう全く違うというか、すごいいわゆる商業映画としてというか、冒険劇としてというか
- その没入感みたいな、もうそういう次元から全くその作品の作り方っていうのは違うんやなっていう風に、何が言い悪いとかではなく、そこはすごい感じた部分ではしかね、今回のノーランのカットの見せ方というか、
そういう部分としては
- なんか没入感というキーワードで、やっぱりそのアイマックスで全編撮るみたいな異形がよくこの映画語られることが多いらしいんだけど
- アイマックスで見た?
- 1回目は引きで見たかったから普通ので見て、で2回目はアイマックスで見ました
- すごっ
- アイマックスどうやった?
- アイマックスで見たんやけど、アイマックスの比率違うんだよね
- ちょっと縦に長いみたいな感じ
- 縦に長いのと、本来アイマックスって部分的に必殺技みたいに使うんだよね、このシーンは見たら
画角が変わるのと、フルの画角使うと、そのアイマックスのシーンをね
それを全部でやると、全部そのフルの画角になるんだよね、アイマックスの
- はい、その字幕の時とアイマックスの時とで、画角違うのと
アイマックスをやっぱりノーランが今回無理やりでも採用してるのって
やっぱりその没入感っていうところに尽きるみたいで
- なるほどね
- 自分、そうそうそうそう
あのいわゆる絵画的フレームをなくすような行為というか
引きで見て、画角として見るんじゃなくて
もう没入して、いわゆるその眼鏡をかけないVRみたいな状態にしていくっていう
なんかインタビューがあったね
- なるほどね
- そう、だから一貫してると思う、その感覚っていうのはね
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作り方として今回は
- なるほどね、アイマックスね
- すごいやろ
- しかもアイマックスで結構前の方で見ちゃって、自分
- 自殺行為じゃない
- 自殺行為だったよ
ほんと偉いことがあった
- いやそりゃそうやろうね
- 画面酔いももうそりゃするし
いやなんか画面酔いしに行ったんだけど
ただそれでなんぼみたいな
飲まれてなんぼみたいなね
なんか俺このオデュース聖夜で一番感じたところが
割となんかそういう未知のものへの体験という部分で
やっぱりオデュース聖夜って
自分が招いた、自分がそれを引き込もうとしてやったわけではないにしろ
さまざまな冒険というか
怪物に追われ、ハーデスに行きみたいな
さまざまな部分に赴いて逃げて逃げてを繰り返すっていう
冒険というか映画なんやけど
この映画においての
自分が差し量れる世界だけじゃない場所に身を置かないと
やっぱり自分以外の未知なるものっていうのは見つからないし
出会えないんだなっていうのをすごい感じて
そこになんか俺はすごく感じたというか
やっぱりもっと自分もそういう未知なるものとか
そういう世界にやっぱり向かっていかないとなっていうのは
やっぱり今回のノーランのオデュース聖夜を見て感じたことやったね
だからなんかこのアイマックスを全席で見るっていう
無謀な行為とかもやっぱりそれも必要だろうって思ったりもするというか
安易にメリデメだけで語られるような人生を送っちゃダメなんだっていうのを
このオデュース聖夜とかオッペンハイマーとかノーランの映画を見てて
すごいなんかガチッとなんか自分の頭の中で整理できた部分ではあったねすごい
そうね確かにね
なんかやっぱり結構ねこの映画はその時代今の時代だから作ってるっていうのもあるけど
これがもし仮にもうちょっともうあと3年ぐらい前にこれができてたとすると
見られ方多分違うだよね
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なんていうんだろうなんかその合理的にさ物事進めるのがさ
いけいけ合理的みたいな時代にさやっぱりそのトロイの木馬的な部分
頭いいすげえみたいなそれでいいじゃんみたいな
っていう感覚で
あれって結局その戦いっていう中で冒険というか外に
外の相手と戦う中で見出されたさ一個の手法なわけじゃん外部に出ていって
それに対してこうやっぱりこう後ろめたさとか
それで自分が苦しむみたいな体験って
今の時代だからそれがこう戦争の隅というか
普遍的だけど見られ方がこうそっちに傾くっていうかさ
まあ隠遊的に見れるよね今でもやけど
現代社会に置いてみた時にこの今のオディスセイヤっていうのはとか
実際このトロイア人っていうのはとか
そういう見方も容易にできるけど実際
まあそういう見方をしたところでみたいなのもすごい俺は感じるというか
っていうのもなんかあったな
なんかもっとこのオディスセイヤの本質というか原始みたいなところに近づくためには
そういう建前をまず壊さないと
なんか見れるものも見えないなみたいな
そうだね
感じたね
そういうものも含めてなんかさっきしょうこが言ってくれた
外に出るというかさ
外部に突撃していくみたいな感覚っていうのはすごく大事だなと思うし
そうじゃないと時代と対面できない
本当そうやね
その行為がないと今のその時代に対して
自分がどう見られているのかどう見られ方が変わっていくのかっていうのがわからないっていうのがすごくよくわかる
作品だったなって思う
なんかそのさ
なんか食料が尽きてさ
なんか島があったから島に寄ってみたらさ
それもポリペーモスに追いかけられまくって大きな岩投げつけられた後よ
その後によ
着いた島
食料探そうとした島でさ
あんな巨人たちに追いかけられ
罠に仕掛けられ
斬殺されるなんて思ってもみないし
あの砂浜をさ
あんな全速力で走る行為なんてさ
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本来したくないわけで
命かながら走ってたよね
あの全力性ってすごい大事やなって思ったのよ
予期せぬハプニングに覆われて全力でそれから逃げるっていう
なんか行為なんかすごい
何気ない当たり前なその道理としての行為なんやけど
すごいそういう小さなセンテンスが刺さるというかね
そんな感じはあったね
そうだね
そのライスト流言の後に行ったのがキルケの
魔女の家みたいなね
魔女の家で
キルケのキャラクターがすごい良くて
やっぱキルケの最初の班の兵士たちがね
家にやってきて
その時にこう
飛び上がるように領典して逃げまとうんだけど
あの反応って
僕らの潔癖症的な部分とすごく
同一視できるなと思って
役立つみたいなものとか
人から奪うことはもうダメですっていう風に
道徳的に刷り込まれてるさ
我々世代だから民主主義的な部分でさ
あの反応はすごく
潜在的に共感するし
いくらそうじゃないと前提で我々が思ってても
共感せざるを得ないし
その反応を踏まえた上で
やっぱりその
時系列は反転するけど
一つ前の白い兵士たちが
他の兵士たちを虐殺するシーンを思い返すと
全然因果応報というかね
それはそうなるよというか
納得せざるを得ないというかね
確かになんか
豚になる前のさ
ご飯の食べ方とかもさ
あれはキルケーの目から見た
食べ方というか
豚に変えられるべき
者どもの
飲食の仕方みたいな見え方をしてたっていう感じをね
魔法で
ああいう風な食べ方を
させられてるっていう側面もあるけど
その見られ方のね
残酷さみたいな
キルケーは確かにね
すごいキャラクターとして良かったよね
すごいなんか
魔女やのに弱いし
33:01
でもすごい秘められた力を持ってて
いわゆる眼力があってみたいなね
ああいう存在性に憧れるよね
憧れる
戦士
なるほどね
ちょっとフェティッシュが入ってるね
入りまくってるよちょっとじゃない
ちょっとじゃないね
しかもあれって
ギリシャ神話的には
ヘルメスっていう
ヘルメスじゃなくて
太陽神だよね
太陽神の娘なんだよね
そうなんだよ
ヘリオスの娘
ヘリオス
そうそうそうそう
なるほどね
だから
そういう差がというかね
カラスが姉妹のね
お姉さんやったっけな
姉妹としか言ってなかったよね
言ってなかったよね
劇中では
そのオディッセウスが来てさ
助けに来るっていうか
状態をさ
知性で見抜くみたいな
シーンがあるんだけど
あのシーンでも
やっぱりこう
どうやって人に誠意を見せるかというか
もうそういう前提がある状態で
自分たちはそういったことをしないっていうのを
背負って
加害者としての
歴史を背負って
どう見せるかみたいなものは
なんか
オディッセウスを使って
今のその
なんていうんだろうな
加害者っていうものが
どうやってこう
訂正して
それを他の人に認知してもらって
世界っていうものを変えていくかっていうところに
やっぱりこう
普遍的に
通じるところがある
と思うんだよね
物語として普遍的で
一般教養なんだけど
なんかあれを改めて
この時代に見せられるっていうのは
今の自分の年代的にはやっぱり
すごく刺さったというか
なるほどね
なんかキルケーとか
シノンとかの話とかでもそうやけど
その字幕があってより
もう話してる内容があって
いうところなんやけど
急にその俺たちを裏切ったとか
キルケーが
あなたはそういうことをしない人間だと思っていたのにとか
いう字幕というか
シーンがあるんやけど
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その時系列的に物事を見ていくと
なんか急に置いてかれるというか
どういう意味みたいに思うんやけど
今ちょっと考えてみたら
キルケーとか
いわゆる魔女とか神々とかそういう存在やから
いわゆるこのオデュッセイヤが何をしてきたかみたいな
っていうのが全部見えてるからこそ
オデュッセイヤがやったこのトロイの木場とか
略奪行為とか
そういうものをキルケーは見てたから
あなたはそういうことをやらない人間だと思っていたのに
っていうことが出てくるんやね多分
なるほどね
今繋がったわ
うん
多分そうなんや
話が変わるけどさ
なんでこのオデュッセイヤの世界観って綺麗なんやろうな
なんか
建物とか
原始命だその火とか
衣服とか
いわゆるこの
古事記
というか招かれる人たちの
衣服すらかっこいいじゃん
うんそうね
かっこいい
絶対的にその匂いはかなりきつかったんやろうけど
うん
なんでかっこいいんやろう
とかやっぱり思うと
やっぱり
日本ならなおさらなんやけど
なんかファスト消費というか
うん
衛生的にとか
うん
なんかそういういろんなテーゼというか
そういうものに
がんじがらめになってるんやな
ってなんかすごいなんか俺は思ったね
あーなるほどね
なんかああいう衣服着ててもいいじゃん
というかさ
はいはいはいはいはい
なんかそこの自由さみたいなのが
すごいなんか
当たり前に抜け落ちてるなぁ
みたいなのはなんかすごい
感じたね
うんうんうん
そうね
ものすごいその
うん
なんか一個一個のさ洋服とかにさ
重みがあるよね
ああいうものを一個一個に
ある
全然違うよね今の
100均で買ってきた
うん
プラスチックのものと
ここの世界で
今存在しているもの
の実存性というか
うん
存在性とか
それはその存在してからの
時間経過とかもね
それは絡んでるだろうし
うん
それはやっぱりノーランが
実物のものとかね
本当に用意してとか
CGあんまり使いたくない部分とかの
効果でもあるんだろうな
ともちょっと今思うけど
そうね
39:00
うん
出てこないよね
なんか
これはね
映画ってね
見た次の日とかで喋らない
本当出てこないからね
そうね
本当にね
まあ割ともう
喋っちゃった感あるね
なるほどね
確かにね
自分たちの角度みたいなね
のは
出してたよね
そうだね
まあそんななんだろうな
でも単純にさやっぱさ思うんだけど
好きだったこの映画嫌いだった?
好きだったね
ああなるほどね
俺ね嫌いでしたね
逆に
これはなんて言うんだろうね
もちろんその
なんて言うんだろうかね
難しいんだけど
でもなんか
俺もその好きって思えたのは
自分なりのその
気づきを持てたから
好きって思える
っていう世界やな
俺はどちらかというと
なんていうか多分
俺はあの
やっぱり
ねえ
この映画よりも
えっと
インターセラー?
いやあのタクシードライバー
とかその
もっとこう
ああでもタクシードライバーは
すごい対照的な作品やね
そう考えると
とか
なんて言うんだろう
もっとこう
のめり込むんだけど
のめり込み方が
なんていうの
ハリウッド的なんだよね
すごいこの作品というか
やっぱりこう
わかる?
あのねすごい
その
音楽とか
そのペネロペに対する
オジュッセイヤの反応とか
なんかすごいね
なんか
そんな音楽いらんというかね
なんかパーンって
弾ける起承転結のやり方みたいな
のはすごい
俺も見て取れたから
うげーってなる瞬間は
ところどころありましたよ僕も
すごいあった
なんかやっぱりその
大古典って言われるものって
そういうの超えられるからさ
強いじゃん
だからそういう意味では
絶対見なきゃいけない映画みたいな
意味で
すごくいい体験で
体験自体はすごい良かったんだよね
良い体験だったけど
作品を例えば
自分がDVDを買って
自分の腹の中に入れて
これで何かをみたいな風には
逆にならないっていう
ところの
面白さ
42:01
そうね
それは胸だからゆえなのかもな
胸って何でもかんでも
自分の中に入れるものか
入れないものなのかみたいな
見方をするから
自分のその
ライクは自分に取り入れる
ものみたいなノリになってくる
わけやん
ってなるとねって
風には思うけど
そうそうそうそう
だからなんか
あえて嫌いだったっていうことを
言いたい
まあね
表現というか作品としての
あまりに
作られすぎた
ドラマ性
みたいなところに
何か感じる
みたいなところではあるのかな
そうだね
そうだね
そこの部分と
やっぱりその
大きな物語というか
そこからスタートしている
スタンスとかが
どうしてもやっぱり
自分にとってはなんか
鼻につくというか
なんかね
いいんだよいいし絶対社会的に役割として
クリストファー・ノーランがやるっていうことが
もう要請されているのは
非常にわかる
のよね
そのね
部分も含めて
なんていうかまあ陰と陽じゃないけどさ
これは多分その
この文脈だけだと陰の方に
絶対になるというか
なるほどね
っていうなんか違いをすごい感じた
この作品からは
なんかノーランの映画ってさ
その一番最初に言った
ムネのその時間軸っていう話やけどさ
映画的な
強度として
持たせるためのノーランの
ある種発明めいた部分
やと思うのよね
ノーランが発明したものではないけれども
多分もっと
あるけど
その時間軸を完全に逆にして
とかね
なんかそのインターステラーとかでもさ
最初にその
あの時はこうだったみたいな
インタビューみたいなのが
入ってから物語が
始まっていくみたいな
のとかも
あるしさ
なんかどっかそのテレビ的な
ニュアンスとか時代性みたいな
ところを組み込みながら
お互いがお互い
この中心に向かっていくっていう
ような流れを
こう作るがゆえに
みたいな
それは一種
ハリウッド的なものへの
カウンターパートとしてそれは存在してた
かもしれんし
当初は
それが
ノーランの手法が
逆にも
ハリウッド的になりすぎたがゆえに
45:00
今
胸みたいな反応が生まれてくる
っていう側面も
あるし
それはもう時代的なものですよね
ていうね
そうだね
なんかでもこれに対して
自分がちゃんと嫌いだ
っていう立場を取れたことに
なんか結構自分は
この映画から
学んだことを使ってる
っていうのもあるかな
さっきの外に出ていくっていう意味で
アイマックス
前席で見た?
前の席で
マジで吐きそうになった
すごいよね
巨人が巨人どころじゃない
みたいな世界
すごく
すごい世界だろうね
本当にやっぱり
全然そのザグリ
ぼやぼやしないからね
の前で見てもやっぱり
解像度が保たれる
字幕とか
見てられないっていう世界だろうね
うん正解だね
フラットに見ても字幕
終えない世界も
あったから
俺の中では
あんまこのスイッチングと
字幕が一致しないぞと
なんか
字幕見たらもう絵が変わってしまってるぞ
みたいな感じは
あったからね
その問題はあるよね
わかるわかるって感じでした
はい
というわけで
はい
10千夜
見てきました
それぞれの
視点角度で
他の
youtubeとは
ちょっと別角度から
話せるような
動画撮りたいね
みたいな共通認識の上で
やった
っていうのもあり
いわゆる
解説系というか
考察系というか
そういう風に着地しない
いわゆる
ね
批評と感想の中間に
あるような
ものをやりましたけれども
はい
またね
こういう映画界も
挟みつつ
やっていこうかなと
思います
思いますね
そうだね
ね
どれだけ映画
この映画以外の話ができるかみたいなね
ところでもありますので
やっぱり映画ってその作品で
映り込んでるところ以外のところが
やっぱりこう
人の想像力のね
一つの視点だったり
資材になると思うから
そういうものをなんか
みんなでワイワイ共有してね
コメントとかでももらえたりすると
すごい嬉しいので
ぜひぜひお待ちしております
ぜひぜひ感想でも何でも
オデュッセイヤのね
感想とかいただけるとね
48:00
そうだね
大古典大きな物語
これは
みんなが見てるものっていうものは
すごく大事だからね
という回でした
はい
それではまた
さよなら
また
バイバイ
48:35

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