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掟をひきうけるオデュッセウス、掟の外にいるモモンガ
2026-10-03 24:20

掟をひきうけるオデュッセウス、掟の外にいるモモンガ

クリストファー・ノーランの「オデュッセイア」と、ちいかわ劇場版の4DX上映を観てきたので、2本立てで話しました。掟を破った男が裁かれる話と、掟をハックしても続く世界の話。2本を並べて考えたことを、日記のようにしゃべっています。全編ネタバレありです。

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サマリー

クリストファー・ノーランの映画『オデュッセイア』と、劇場版『ちいかわ』の4DX上映について、ネタバレを含めて感想を話す。『オデュッセイア』では、クセニアという掟を破ったオデュッセウスが罪悪感を抱え、最終的に追放と裁きを引き受ける展開に注目する。『ちいかわ』では、「小さくて可愛いままでいる」という暗黙の掟と、セイレーンや島民の争い、4DXの揺れや水しぶきについて語る。両作を並べ、掟を破っても裁かれる者と、掟をハックしたり外れたりしながら生き続ける者の違いを考察する。

『オデュッセイア』の迫力とクセニアの掟
この間、オデュッセイアを見てきました。面白かったので、面白かったなって思っています。 それとあと、チーカーのimax 4DX上映という風なのも見てきたので、合わせて2本立てでちょっと話をしてみようかと思います。
こちらのポッドキャスト番組は、ぞっ記というタイトルのポッドキャスト番組。 普段、夫と父親を本業としている私が、いろいろと人にわざわざ話すようなことでもないようなことを日記に綴るかのように、音声収録をしているポッドキャスト番組となっております。よろしかったらお付き合いをいただけるとありがたいです。
最初に、クリストファー・ノーランが撮ったオデュッセイっていう風な映画を見てきたんですけども、これについての感想をさっくりと話をしておこうと思います。
ちなみにこれから、チーカワとオデュッセイヤに関しては、どちらもネタバレをしようと思っております。 映画を見てない方も、見る気がない方も、とりあえず話が通じるように話はしていくんですけれども、前編にわたってネタバレが含まれるという風なことだけ、ご念頭の上お聞きいただけると嬉しいです。
このオデュッセイヤという風な映画、私はアイマックス上映で見て、すっげー迫力があって面白いなーっていう風に思いながら見てきた映画です。
出来もすごくいいし、やっぱり映像の迫力がある。それであるので、話としては本当に話すことがないような話だったりするので、感想としては面白かったので面白かったですぐらいなことしか言いようがないような映画なんじゃないかなって思っています。
そういう風になってしまって、それで映画批評のされている方とかいろんな人の話とか聞いてても思うんだけども、周りの話をするしかなくなっているような話なんですよ。
だからこの映画は前編アイマックスで撮影されていて、そしてあと今回の話になるのはクセニアと呼ばれている、古代ローマで一般的に広く伝わっていたという風に言われている、物語上の守らなくてはならない制約。
実際に古代ローマの方では信仰されていたというか、使われていたという風に言われている客帯、客人艦隊の風習みたいなものがあって、それを破ることから話が伝わっていくよねみたいな本当にオーソドックスなベースラインの話をなぞって、
あとはせいぜいそれが実際のローマ世界においてどのように使われてたのかとか、そういうふうなことを歴史的に解釈して話すぐらいのことしか言いようがなくて、内容について皆さんあんまり何も言えなかったりするという。
で、このお話がそういうふうに喋りづらいのは、本当に一つのワンイッシュワンテーマの映画だからっていうふうなのがとても大きいかなと思っております。
だからこの映画の中で何を語られているのかというと、びっくりするぐらい偶意的なお話だよなあというふうに思っております。
言ってしまうと、一人の男がそのもともとあった世界において信じられていた風習を破ってしまったがために世界がめちゃめちゃになってしまう。
その後悔を抱えていたために10年間近く家に帰ることができなかった。
というか、トラウマとかそういうふうなものを乗り越えることができなかったっていうふうな現代映画感覚をしたような、そんなようなお話になっています。
で、こういうようなお話になっていて、もともと原点のオデュッセイヤーの方では、どうだろう、原点の方は多分私読んでもいないんだけれども、
ただ聞いてる雰囲気とかそういうふうな感じで言うと、俺10年間近くルールをしてたんだけどこんなことがあってさ、みたいなおっさんの武勇伝みたいに話になってるっていうふうなのを聞いてたりします。
それをクリストファー・ノーランが大幅に脚色した点といえば、オデュッセイウス自身がトロイヤ戦争と呼ばれている戦争を解決してしまったその手段であるところのトロイの木馬。
これが当時の国際法違反をしてしまって、その国際法違反をした行為によって、その当時のローマ社会とかその辺の部分で信じられていたルールがどんどんどんどんなしくし的にめちゃくちゃになってしまうよねっていうふうなところが話として描かれている。
で、当のオデュッセイウス自身はそのトラウマを乗り越えて、じゃあどうなるかというと、置き手によって裁かれるというか、追放されるというふうなことを意図して選んでいくというふうな形で、映画としては終わっていくという。だから、追放されて終わりエンドなんだけれども、その追放のされ方もそれなりにハッピーエンドに見えるようにというふうなところがすごいですねっていうふうな部分があったりします。
で、このすっごく単純なお話を見せるために、このIMAXでずっと撮っているという、あのIMAXっていうバカデカフィルムを積んだバカデカカメラがあるんだけれども、このバカデカグッズをいかにして撮るかというふうなところでやっているおかげで、その画面の迫力とかそういうふうなものでを担保にして、すっごく単純な話をやっているというふうな、まあそんなような映画になっているかなというふうに思っております。
掟と規範、歴史が繰り返す理由
で、この起きて、えーと、まあその、なんていうの、えーと、そういうふうな社会通念上で信じられている起きてとかっていうふうなもの。結構あのいろいろと今回クセニアをあの映画の中では描かれてはいたんだけれども、どこの場所、どこの時代、どこの場所においてもこういうふうな起きてって存在するようなっていうふうに思っております。
で、法律とか条約とか、その人が人と約束として課している起きてっていうふうなのも当然のことながらあるんだけれども、これって一応あのその起きての上位概念って言っていいのかどうか、あの得とかそういうふうなものってあるかなとは思うんです。
で、そういうようなものの上において、こういうふうな起きてが制定されていて、それを破るっていうふうなことは自分がその得の高い人間から落ちるというか、あとはやってはいけないことをしてしまったっていうふうな罪悪感を持つようになる厳選でもあったりするのかなと思っています。
一応、原点の方というか、この映画の方ではオディウス・セウス自身はこうやって起きてを破ってしまったことをずっと後悔をし続けていて、最終的にあの起きてによって自身を生産するというふうな形にとって納得していたっていうふうな部分もあって、私はこういうふうな描き方が好きだなぁとか面白いなぁとは思ってたりしておりました。
この映画を見ながら思っていたことなんですけども、歴史は繰り返すって言うじゃないですか。一応、劇中の中でもオディウス・セウス自身は、今回こういうふうにあった私の出来事っていうのは歌にして残そうと思うっていうふうな話をしました。
文字や言葉は伝えていってもどうせ忘れてしまうけど、歌だったら伝わっていくだろうっていう。歌っていうふうなものに込められている部分というのは何かというと、こういう道徳的な観念とか普通考えたらわかるよね、ではなくて
その人個人が持っている、例えば人を殺してはいけませんとかそういうわかりやすいところというか、なんかの人間として犯してはいけならない一線みたいなもの、こういうふうなものって多分誰しもそれなりにはあるんじゃないかなと思います。
生活環境によってこういうふうなものが著しく違っている人間とかも多々いたりするのはわかってはいるんだけども、でもそういうふうなものとかなんかその人が持っている心情みたいなものとかっていうふうなものっていうのは
割と時代を越えて普遍的に受け継がれていくようなものだろうなっていうふうなのは思っているんです。
なんだけど、こういうふうなものから発した掟とかルールとか条約とかそういうふうなものが多々あるんだけども、どこの時代においても発掘するやつが出てくるっていうのが厄介なところだなというふうに思っております。
で、歴史は繰り返すっていうふうなところで、私は長らく歴史が繰り返すのは人類がバカでいろいろと忘れてしまうからっていうふうなところだと思ってたんですけども、
実際には歴史は陰を踏むなんていうふうなことを言われてたりします。
で、この陰を踏むっていうふうなのは似たようなことを違う形で繰り返してしまうからっていうふうなことだと思います。
で、私は人間は忘却するからだ、そういうふうになるんじゃないかっていうふうに思ってたんだけど、今回の映画を見てちょっと思っていたのは単純に
いろいろと良きこととして思われていたことを発掘するやつが出てきて、その発掘するやつをどうにかするためにまた別のルール、また別の慣習みたいなことっていうふうなのが
破壊と再生を繰り返していくうちに結果的にいろんな形になっていって、似たようなことが再び起こったりもするんだけども、でも大体
就職を収束させる方法とかそういうふうなものとかっていうふうなのは残り続けていくっていうふうなことが描かれたりなんだりするというか
そういうふうな形になってんじゃないかなっていうふうなのを映画を見ながら思っていたところなんですよ。
劇場版『ちいかわ』と4DX体験
で、こういうような形の掟を描いていくようなお話っていうふうなので、今回はもう一つの方の映画、ちいかわの話についても話をしていこうと思います。
で、ちいかわの中にはですね、ちいかわがどういうふうなものなのかを説明するところからやるという親切な
ポッドキャスト番組をやってるので、やりますけども、長野さんという風な方が描かれているインターネット上で
評判になっている1ページの漫画なんだけれども、この漫画自体は今現在連載されていて、そろそろ休館が出るかなというふうなぐらいまで続いているような漫画だったりしております。
で、YouTubeとかそういうふうなところで各種短編アニメを見られるし、今現在は劇場公開がすっげーロングランでやられていて、ここ最近は4DX上映なんてものされているぐらいの
メガヒット巨大なキャラクターコンテンツとかしている、そんなようなやつだったりしております。
で、私は今回この劇場版のちいかはですね、原作の8巻がベースになっていて、これが丸々1冊のエピソードが
劇場版に丸々なっているという、もともと映画にするつもりで描いてくださいと言われて、原作者がそのように描いたというふうな、そんなような話だったりしております。
で、私はですね、このちいかは、あの風切りの時に1回見て、IMAX4DX上映という、椅子が動いたり、なんかあの、
なんか匂いが漂ってきたり、シャボン玉が降ってきたりとか、そんなような演出がすごい型になっている映画館で見てくるというふうなのもやってたりしておりました。
あの4DXの感想だけ話をしておくと、うるさい。
あの、例えばキャラクターの中にあのウサギとかモモンガとかいたりするんですけども、そういうのが走り回ったりドタドタするたびに座席が揺れたり、椅子がずれたりとか、背中を押されたりとかっていうふうなことがありまして、
俺は今誰の立場でこの映画を見ているんだろうかっていうのが、わかんなくなるような経験になってたりします。
それで、キャラクターがトタトタドタトタ歩いているような様も、椅子が動いたりするので、結構静かに見るっていうか、干渉するっていうふうな気分にはなれねえなっていうふうになってたりしました。
なんだけど、セイレーンちゃんと呼ばれている、この映画の中に出てくる通称デカツヨ族と呼ばれている、怪物的なんだけれども比較的かわいい見た目で言葉が通じるという怪物が出てくるんですけども、
このセイレーンちゃんが歌を歌うシーンとかでは、あぶくの代わりに上からシャボン玉が降ってきたりとか、風の演出があったりとか、あとはセイレーンちゃんがバシャって飛んだ後の水しぶきが飛んでくるという。
ちなみに4DX、水がちょっと飛んできて体に当たるというふうなことがありますんでね、どっかのなんかウォータースライダー的なアトラクション的にビッシャビシャになることはないんだけど、それなりに濡れるっていうふうなことがある。
まあそんなような映画体験だったりしておりました。
で、すっごくこの映画としては、出来はすごく後味が悪いような感じもするなっていうふうな感じの映画となっておりまして、
私は結構、映画としてはすごく面白いというか、いい部類の映画だなというふうに思っております。
ただ、得点目当てで、私は妻とか子供たちに連れられて2回目見てるんですけども、妻と子供たちは4回見てたりするんですよね。
そんなに見るほど面白いもんかなと思うんですけど、まあまあいいかなというふうに思っております。
そんな感じですね。うちに4回見てるんですけども、得点全部で第5弾まで出てて、唯一プルバックカーっていうドラえもんとかのおまけでよくついていた、後ろに引っかかったらチョルキューみたいに前に進んでいく車。
あれだけちょっと手に入ってないような状態なんですけども、まあまあそんな感じで、我が家ではめちゃめちゃチーカーばっかり見ているような状況になってたりしております。
「小さくて可愛いまま」という世界の掟
で、それがオデュセイアの起きての話とか、そういうふうなものとどういうふうに関わってくるのかというふうな話をしていくんですけども、この辺の部分は私の考察がいる部分だったりしておりますんでね。
だから、簡単にすっごく公式通りの見解というふうなのではないというふうなのを念頭に置いて聞いてもらいたいなと思うんですけども、この映画の始めとしてチーカーというふうな作品の中にはですね、
一種の不問率、絶対的な不問率みたいなものがあると私は考えています。それは何かというと、小さくて可愛いままでいるっていう、これがすっごく大事な不問率として劇中の中では話されてたり歌われてたりするようなもんかなと思っております。
歌われてはいないな。名文化もされてないし、言われてはいないんだけれども、でも漫画とか原作とかそういうふうなものを読んでいると絶対にそうだろうなというふうに感じるようなのがこのルールかなと思っております。
で、このルールを破るとどうなるかというと、小さくて可愛いままでいる、チーカーの世界にはチーカワ族とチーカワが何かのストレスを受けた際に怪物化して巨大化したデカツヨウと呼ばれている怪物みたいな見た目の種族がいるのと、
あとはそのチーカワ族と一緒にいる鎧さんと呼ばれている人型で全身フルプレートアーマーみたいなものを着ている生き物がいるんですけども、これがチーカワたちの面倒を見ている存在として、まあそれが劇中の中には出てきてたりしております。
で、この3社で構成されている世界の中において、主人公になっているのはチーカワ族と呼ばれている2頭身サイズの可愛いキャラクター群だったりしております。
彼らにとっての不紋立っていうのは小さくて可愛いままでいることだったりします。で、これを逸脱してしまうと彼らはいつでもデカツヨウと呼ばれている巨大な怪物のような見た目になってしまう。
で、その怪物のような見た目になってしまうとどうなるかというと、チーカワたちを襲うこともあるんだけども逆にチーカワたちによって討伐されるというふうな、そういうふうな宿命を負ってたりします。
それもあるので、チーカワたちの種族のみんなは基本的にはこうやって小さくて可愛いままでいるために懸命に毎日を過ごしているというふうな、そんな描かれ方をしているような漫画だったりしております。
で、このチーカワの漫画を読んでいてすごくすごく作者の意地の悪さを感じる部分というふうなのは、このチーカワ族っていうふうなのは常日頃から死の危険と隣り合わせだったりするし、
あと、いつでも出活用化してもおかしくもないようなストレスを感じるような環境とか状況とかっていうふうなのを作者は設定して、それの中にチーカワたちを追い込んでいくというふうなのを意図してやってたりするんですよね。
で、劇中の中に出てくる主人公画のチーカワたちっていうふうなのは主に3体で、まず主人公になるのがチーカワというふうな名前の白くてクマみたいな見た目のやつと、
あとはハチワレという猫みたいなやつと、あとはウサギと呼ばれている寄生しかあげないウサギのような見た目のキャラクターがいて、この3体が基本的にこういうふうな中で生活をしているんだけども、実際にこの劇中の中ではストレスを受けて、ハチワレというふうなキャラクターは一時期怪物化しようとしたっていうか、怪物化してしまった描かれ方をしているところもあったりするという。
一応、公式が出している別のスピンオフ作品ではウサギも怪物化した姿が入ってたりすることもあるので、どこかで怪物化する可能性があるんだな、こいつらはっていうふうなのが。すごく劇中の中にも匂わせられるようなものになってます。
で、主人公のチーカワっていうふうなのも常にこういうふうなものを試され続けています。
だから、そうやってこのチーカワたちっていうふうなのは、たくさん試され続けていながらも小さくて可愛いままでいることを選択し、そして小さくて可愛いままでいられるからこそ、あの生活を享受できているっていうふうな、そんなような結構シビアでハードボイルな世界観の中で小さくて可愛い者たちっていうふうなのが蠢いているよっていうふうな話になってたりするんですよ。
で、こういうようなルールの中で生きているチーカワたちなんですけれども、彼らにとってのこの掟っていうのは別に不問率でもなんでもなかったりするし、あと、これからちょこちょこ説明はしていくんだけれども、出活用になったからといって全てが悪いわけではないというふうなのも厄介なところだなっていうふうなのもあったりするんだけどね。
ちょっと順番に話をすると、こういうふうな掟に縛られて、たぶんチーカワたちのふうなのは普段生活をしているんだと思います。
セイレーンと島民、掟を破った者同士の争い
で、劇場版の話に戻すんだけども、劇場版というふうな話っていうふうなのは、掟を破った者同士の争いの話だったりするんです。
劇場版のチーカワの方では、とある島に行って簡単な討伐をするだけで何倍もの収入が得られるよっていうふうな怪しすぎる呼び込みチラシにチーカワの一行たちが引っかかってしまって、それでとある島に移動していきます。
で、この島ではセイレーンと呼ばれている人魚の怪物がいて、それが島民を一人一人食べているというふうな状態になっています。
なんでそういうふうな形で島民を食べているのかというと、セイレーンの取り巻きにいた人魚、もともとは3匹いたんだけども、これが1匹島民によって食べられてしまったがために、その犯人を捕まえて食べるために一人一人島民を差し出してくるまで食べ続けるというふうなのをセイレーンがやっているという。
で、人魚が食べられてしまった原因というふうなのも、どうも人魚を食べると不老不死になるというふうなのが伝えとして伝えられていて、人魚の側も島民に人魚のことは食べないでねっていうふうなお願いをしていたそうだっていうふうなのが実は描かれてたりするという。
この辺の設定に関してはですね、第5弾の特典の秘密ブックというふうな本に記載されているものなので、劇中ではなかったりするので、うーんとは思うんだけど、まあまあちょっとそんなような形で描かれてたりします。
そういうふうな形で、掟を破った者同士が相互に制裁を与え合っているような状況で、島民はセイレーンを討伐するために外部から協力な討伐をやってたりするようなお仕事の地域家たちを呼ばざるを得ないような状態になってしまっているというふうな、そんなようなもんだったりしています。
なんだけど、この島民たちは自助努力でどうにかしようとしないのかっていうふうな部分なんだけど、島民たち戦闘力がないっていうふうなのもあると思うんだけども、地域家世界におけるこの小さくて可愛いままでルールでいるというふうなルールを、おそらくこの討伐を普段していない奴が討伐とかをしようとしようとすると、おそらくそれに抵触してしまうんだろうなって思っております。
それもあって、外部から本業として討伐をやっているような地域家たちを呼び寄せるほうがなかったんだろうなって思っています。
ちなみに、この地域家が討伐をしている理由というふうなのも、たぶんこの小さくて可愛いままでいながらも、討伐というふうなお仕事、基本的にこの危険で過酷な仕事ではあるんだけど、それが許されているのはなぜかというと、
たぶん、子供が何かこういうふうな小さいものとかそういうふうなものが脅かされるような存在を撃退するとか対決するとか、この辺の部分に関しては小さくて可愛いままでいることから逸脱しないで済むような行為なんだろうなって思っています。
だから、実際、戦い方も結構、明らかに剣とか斧とかでぶっ刺して止めを刺してるよねっていうふうな感じがするんだけど、でも、たぶん倒し方とかそういうふうなものを見てたりすると、そこまでちなむがうさい殺し方をしてないんじゃないかなっていうような気がしてます。
もしかしたら概念の戦いみたいなもので倒してるのかもしれないと思うんだけどね。それにしたら、らっこ先生はずいぶん切れる剣でブサブサやってたりするからなぁと思いますからね。
まあまあちょっとその辺は置いといて。それで、討伐をチーカーたちはやっていくことになるんだけれども、チーカーたちは外部からやってきたアウトサイダーの立場なので、一応この問題の中に立ち入ることはできるんだけども、小さくて可愛いままこれを解決しなければならないという結構な無理難題があるという。
だからチーカーたちはこの辺でこのセイレーンを対決するためにかなりいろんなことをやってたりするんだけども、でも実際にただ戦うだけではこの問題を解決ができないというふうになって。
で、チーカーはこの作品の中に出てくる島次郎というこれまた奇妙な存在に頼ることによってどうにかしていくというふうな、まあそんなような映画だったりするかなと思ってます。
で、映画の方はこうやって色々あってセイレーンを結構可愛い手段でどうにかし、そしてセイレーン自身は結局のところセイレーンと島民の、というか島民の中の人魚を食べた犯人との間だけで解決をしてしまうという。
セイレーン自身が犯人を見つけてしまったので、それで島民を襲う必要がなくなってしまったという。
そして犯人はチーカー自身がそれを見つけてっていうふうなことをやってたりするという。
ああ違う、犯人は見つけられたことにチーカー自身が気づくんだけどチーカーはこの犯人を見逃すっていうふうなことをやったりするという。
掟を外れても続いていく人生
この辺の部分が私はすごく描かれている部分として面白いなぁと思って見ておりました。
私自身はこの映画そういうふうな感じですごく楽しんではいるんだけども、この小さくて可愛いままでいるっていうふうな掟を守ることによって、チーカーたちの話は物語としても生活しているし、
そしてそのルールを守っているからこそ生きていけるっていうふうなものもあると思うんだけども、でもこのチーカーの世界においても結構ルールを逸脱してたりとかルールのハックをやってたりするようなやつらが出てくるという。
劇中に味方のフリをして存在しているモモンガというふうなキャラクターがいます。彼に関しては基本的にはどうもはっきりとは描かれてはいないけれども、
もともとデカツヨというふうな怪物になっているチーカーでもあるはずなのに、チーカーの肉体を奪ってチーカーのフリをし続けているというふうな、そんなような怪物的なキャラクターだったりしています。
彼がそうやって存在できるというふうなことを考えると、割とこの辺の世界ではチーカーからデカツヨになり、デカツヨからチーカーに戻ることもどうもできそうだっていうのもあるし、
あと劇中の中にはデカツヨになったからといって不幸になっているわけではないという、何しも討伐されなくて逃げ続けている劇中の中ではあの子と呼ばれている存在がいます。
これはもともとチーカーとしてはすごく無駄つながらない生活をしてたんだけれども、ある日怪物化したことによってその怪物化した己自身に満足してしまっているというふうなキャラクターが出てきてたりもする。
だからそのルールを逸脱したところでもそれなりにうまくやっていったり幸せにやってきているものもどうもいるっていうふうなところが描かれてたりするのも面白いところだなとか現代的なところだなとは思ってたりするんですよ。
オディスエイヤーの方もそうだしチーカーの方もそうなんだけども、起きてというふうなものとそれの上位概念である規範みたいなもの、この辺の部分って規範の方とかっていうふうなのは、
人類ちょっとずつこの辺の部分を良くしていきましょうねっていうふうなところでアップデートを繰り返していっているんだけども、
でも基本ベースとなるような部分というふうなのは多分人類全体で共通しているかなと思っているし、チーカーもおそらく割とその規範みたいなものとかというふうなのも、多分我々に近しいような感情で作られているなって思っています。
それを元にして起きてのようなものというふうなのもオディスエイヤーの方でははっきりとクセニアがあるし、チーカーの方では小さくて可愛いままでいるというふうなファン考察の起きてみたいなものはあるんだけれども、
でもそういうふうなものは容易に発掘し得るようなものでもあったりするので、だからなかなかチーカーの方を考えるとオディスエイヤーの方では起きて破りをした結果、それを引き受けてその起きての中で自分が裁かれることを描いていくような物語であったりするんだけど、
チーカーの方は起きてを発掘してもなお人生は続くものもいるし、そしてあの罰されずにそのまま話が終わっていくというふうなところで、より現代的な解釈をしているような、そんなような映画だったりするのかなぁなってちょっと両方のやつを見ながら思っていたところです。
私が法学者かなんかだったらもうちょっといい加減いいこととか言えたりするんだろうなと思うんだけれども、地方の中年のおじさんにはこの辺が限界だなというふうに思ったところで、今回の話はおしまいとさせてもらいます。ではまた。
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