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あの、癌っていう病気で、最も命に関わるのは、転移なんです。
癌が最初にできた場所から、癌細胞が移動して、肺や肝臓など、別の場所で新たに増殖を始める、
この現象を転移と呼びます。 癌による死亡の約9割は、この転移によって引き起こされます。
つまり、癌では転移こそが最大の脅威なんです。 転移する前の、最初に体の一箇所でできた癌っていうのは、それなりに治療しやすいんですが、
それが早期に治療された場合でも、数ヶ月あるいは数年経ってから、体の中に潜んでいた癌細胞が再び動き出し、
転移として現れることがあります。 だから、癌の転移を理解し、それを抑えることが、
癌治療の大きな目標になっています。 私たちの体には、
癌細胞を排除する免疫の仕組みっていうのが、もともと備わっています。 特にT細胞っていう免疫細胞は、体内を巡回しながら、
癌細胞のような異常な細胞を見つけ出し、攻撃してくれています。 しかし、一旦大きく育ってしまった癌は、免疫細胞の働きを封じる環境を、
自分の周りに作ってしまうんです。 このため、免疫細胞による作用が効きにくくなって、
癌を排除できなくなります。 ですが、癌細胞が転移する途中で、別の組織に移ってきた直後は、まだそのような免疫抑制環境ができていません。
このタイミングこそが、T細胞によって、癌細胞を排除するチャンスだと考えることができます。
それでも、T細胞によって排除しきれないことがあって、その結果、新しい場所で癌が育ち、それが転移として現れます。
そんな中、興味深い観察結果が報告されています。
毎日アスピリンを飲んでいる人は、癌の転移が少ないということなんです。 アスピリンは頭痛薬として知っている人も多いと思います。
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体の中で痛みや炎症の元になるプロスタグランジンという物質が作られるんですが、 アスピリンはその酸性を抑えることで、
鎮痛作用と抗炎症作用を発揮します。 しかし、ここで言っているのは低容量アスピリンなんですね。
これは頭痛薬として使われるよりもずっと少ない量を毎日飲み続けるという使い方で、 心筋梗塞や脳梗塞などの再発予防のために処方されます。
この低容量アスピリンはプロスタグランジンを抑えるほどの量ではないんですが、 血液の中のトロンボキ酸A2という物質の合成を抑える作用があります。
トロンボキ酸は血液を固めて血栓を作るという役割があるんですが、 アスピリンはこれを抑えることができるんです。
それで心筋梗塞や脳梗塞など血栓による病気の予防のために、 この薬を毎日飲んでいる人が非常にたくさんいるんですね。
このような人ではがんの転移が少なかったということが報告されたんです。 ですから、低容量アスピリンはがんの転移を抑える可能性があります。
そしてもしその通りなら、転移のリスクがある人にアスピリンを飲んでもらうことによって、 転移を予防して多くの人の命を救えるのかもしれません。
実際にそう考えて現在臨床試験も進められています。
でもなぜアスピリンががんの転移を抑えるのかについては、 まだわかっていませんでした。
今日はこのメカニズムに迫った研究を紹介します。 ホットサイエンティストへようこそ。
サトシです。 今日紹介するのはケンブリッジ大学のジエ・ヤンラによる研究で、
2025年3月にネイチャーに発表されたものです。 この研究の前提には2017年に発表された重要な研究があります。
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ルイーズ・バンデン・ワイデンらによるもので、 がんの転移に関わる遺伝子を明らかにするために大規模なスクリーニング実験を行ったものです。
この研究では異なった遺伝子に変異のある810種類のマウスを使って、 それぞれにがん細胞を注入して、どの遺伝子の異常ががんの転移に影響するかを調べたんです。
つまりがん細胞の中で働く遺伝子ではなくて、 転移される側の体で働く遺伝子を探したんですね。
そしてその結果、遺伝子の働きに異常があると転移が抑えられる遺伝子を15個見つけました。
今回の論文ではその中の一つ、ARHGEF1に注目しています。
まず研究チームはこのARHGEF1という遺伝子を働かなくしたマウスで、 がんの転移が起きるかどうかを調べました。
がん細胞を注射する実験や乳がんが自然に発生する乳がんモデルマウスなどを使って調べた結果、
肺や肝臓への転移が普通のマウスに比べて明らかに減っていることがわかりました。
つまりARHGEF1が働かなくなるとがんの転移が抑えられる。
だからARHGEF1は転移を起こす働きがあるということがまず確認されたわけです。
次にこのARHGEF1が体のどの細胞で働いているのかを調べるために、特定の細胞だけでこの遺伝子を破壊するという実験を行いました。
その結果、免疫細胞の中でも特にT細胞でARHGEF1を破壊したマウスではがんの転移が抑えられることがわかりました。
つまりARHGEF1はT細胞で働いてがんの転移に関与しているということが明らかになったんです。
ではT細胞に何が起きているんでしょうか。
詳しく調べてみると、ARHGEF1がないマウスでも普通のマウスでもT細胞の数自体は変わらないということがわかりました。
でもT細胞の状態が変わっていたんです。 T細胞には元気な状態でがん細胞を攻撃できるものと疲れ果てて力を失ったものがあります。
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元気なT細胞はサイトカインという分子を複数種類同時に放出することで他の免疫細胞に指令を出したり攻撃力を高めたりします。
でも力を失ったT細胞はこのサイトカインがほとんど出せなくなってしまいます。
そのがんの転移を行う実験で、がん細胞を注入してから最初の1週間はARHGEF1があるマウスでもないマウスでもT細胞の状態に違いは見られませんでした。
ところが2週間目になると状況が変わります。 普通のマウスではT細胞が力を失った状態になっていて、がんの転移も進んでいました。
一方でARHGEF1がないマウスではT細胞は元気なまま活動を続けていて転移も抑えられていたんです。
つまりARHGEF1があるとT細胞は徐々に弱まり、がん細胞に対する免疫力が落ちて転移が進む。
逆にARHGEF1がなければT細胞は長く元気なままで転移を防げる。 このような可能性が示されたんです。
ではARHGEF1はどういう仕組みでT細胞の働きを失わせているんでしょうか。
ARHGEF1は細胞の中で情報を中継する分子です。
外から刺激が来ると細胞の中で情報をリレーするっていう役割をしているんですね。
研究チームは次にこの外からの刺激の実態を探します。 大変なスクリーニングをした結果たどり着いたのが先ほども話に出てきた
トロンボキ酸A2です。 このトロンボキ酸と同じ働きをする化合物をT細胞に与えると
T細胞のサイト下位酸性が減ってガンの転移が進むことがわかりました。
しかしARHGEF1がないT細胞では同じ刺激を与えてもT細胞は抑制されず転移も増えなかったんです。
つまりトロンボキ酸A2がT細胞に働きかけて、ARHGEF1を通じてT細胞の活動を抑える。
これが転移を助けてしまう仕組みであるということがわかってきたわけです。 トロンボキ酸A2は血小板が作り出す物質です。
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血液を固めて血栓を作るという作用があって、それ自体は出血を止めるという体を守る役割を持っています。
ですが血栓によって心筋梗塞とか脳梗塞が起きるので、その予防のためにこのトロンボキ酸の酸性を抑制する
アスピリンを毎日飲んでいる人がたくさんいるっていう話でした。 でここまでの研究でトロンボキ酸A2がT細胞の働きを抑制するっていうことでした。
ということはアスピリン投与でトロンボキ酸A2を減らせば、T細胞は元気なままになってガンの転移を防げるはずです。
この研究では実際にこれを検証するためにマウスにアスピリンを投与した時にガンの転移がどうなっているかを調べる実験を行っています。
そしてその結果マウスにアスピリンを投与するとトロンボキ酸の量が減ってガンの転移も抑えられることが示されました。
さらにRF-1の変異マウスにアスピリンを投与するっていうこともやっています。
すでに話したようにRF-1を持たないマウスは転移が少ないわけですが、この変異マウスではアスピリンを投与してもそれ以上は転移が減らなかったっていう結果も示しています。
これはつまりアスピリンの効果はトロンボキ酸を介したRF-1経路をブロックすることで発揮されているということを裏付ける証拠になります。
さて今回の研究から血小板が放出するトロンボキ酸A2はT細胞の働きを抑制することがわかりました。
そしてアスピリンを使えばトロンボキ酸の量が減るのでT細胞はこの抑制から解放されます。
それでアスピリンを投与すればT細胞はガン転移を防ぐ力を発揮できるようになるっていうことが示されたわけです。
この結果はなぜアスピリンを飲んでいる人はガンの転移が少ないのかっていう疑問に対して明確な説明を与える初めての証拠になります。
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そのガン細胞の転移を抑制するっていう重要な働きがトロンボキ酸によってオフになってしまうっていう仕組みが体の中にもともと備わっているのが少し不思議な気がします。
ガン細胞があるときはT細胞が働き続けてくれたらいいのにと思うわけです。この論文ではあまり触れられてなかったんですが、他の研究ではガン細胞が血小板に作用するっていう話があります。
だからガン細胞が血小板に働きかけてトロンボキ酸の酸性を促して、それでT細胞を調節することでガン細胞自身への攻撃を回避している。そんな可能性が考えられます。
アスピリンは安価で手軽な薬ですが、出血や胃の障害といった副作用のリスクもあります。なので誰でも今すぐ飲めばいいっていうわけではないんですが、すでに実際に低容量アスピリンは多くの人に使われているわけで、比較的安全に使える薬とも言えます。
今後の臨床試験の結果次第ではありますが、アスピリンがガンの転移の予防に使えるのであれば、とても有用なわけです。また、アスピリンがガンを対象にした免疫を活性化するというのであれば、他の抗ガン薬と組み合わせて、より効果的なガン治療を行うことができる可能性もあります。
よく使われていて身近な薬であるアスピリンが、ガンの転移という深刻な問題に使える可能性があるということに驚かされると同時に、既存の薬で新しい治療戦略が生まれるという医学研究の可能性を改めて感じさせる研究でした。
今回はシーズン3の最初のエピソードになります。改めて簡単に番組説明をすると、この番組ポッドサイエンティストは、大学教員である私佐藤氏が人に話したくなった科学研究を紹介していくという番組です。専門的な知識は前提としない形で、論文を物語のように伝えることを目標としています。
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他に番組作成には青井さん、なあちゃんの2人が参加していて、今回とは違う形式のエピソードも時々公開しています。今シーズンも今まで以上に面白いエピソードを作っていくつもりですので、今後もお聞きいただければ嬉しいです。
じゃあ今日はこの辺で終わりにしたいと思います。最後までお付き合いありがとうございました。