アドラー心理学ラジオ。この番組では、お手軽な自己啓発として消費されがちなアドラー心理学を、
哲学、カウンセリング、そして、科学の視点から深掘りし、本物の知性として語り直していきます。
お相手のあつくてゆるいです。皆さん、人の話を聞くのって得意でしょうか?
私は聞き上手になりたいと常々思っているんですが、いざやってみると本当に難しい。
つい自分の話に持っていきたくなったり、余計なアドバイスをしたくなったりして日々反省しています。
で、実はこの人の話を聞くことのベースにある共感が、アドラー哲学の中心概念、共同体感覚とめちゃくちゃ深くつながっているんです。
スケールの大きくなりがちな共同体感覚を、私たちの日常にグッと引き寄せるために、
共同体感覚と密接にリングしたアドラー流の共感とは一体どんなものなのか、じっくり見ていきましょう。
皆さん、ミハイル・エンデのモモって読んだことがありますか?
子供向けに書かれた有名なファンタジー小説でして、時間泥棒である灰色の男たちに奪われた人々の時間を取り戻すために不思議な少女モモが立ち上がるというお話です。
先日私、このモモの読書会に参加したんです。
この自動章、大人になって読み返してみると、えーこれこんなに深い話だったんだっていろんなテーマが隠されている恐ろしい本だと気づかされます。
私が一番強く感じたのは文明論的な切り口です。
物語の中で時間を盗み取ってくる灰色の男たち。
彼らは人々の行動を細かくチェックしてエビデンスを示しながら、ここの無駄を省けばもっと時間が節約できますよ、もっと最適ができますよと超ドライなコンサルタント張りに淡々と提案してくるんです。
彼らが言うには、節約した時間は時間貯蓄銀行に貯められて利子が付く。
今我慢して時間を貯蓄すれば将来豊かになれるというお金のメタファーです。
いやーそれ絶対後で運営が飛んでネットニュースになるやつって突っ込みたくなるんですが、それを聞いた人々は、なるほどそれはお得だとまんまと丸め込まれて、1秒でも節約しようとせかせか働き始めます。
でも時間を切り詰めようとするあまり、人との何気ない無駄話とか、子供と一緒に遊ぶ時間、犬の肉球の匂いを嗅ぐ時間、意味もなく冷蔵庫を開け閉めする時間、そういう一円の利益も生まないけど心を潤していた時間が真っ先にリストラされていくんです。
味噌汁と聞いて、要はお湯に味噌溶かしときゃいいんでしょみたいな、出汁も取らなければ具も入っていない、コクがなくなって全く美味しくない、そんな風に気づけば人生の経験がどんどん味気なくなっていく。
桃が描かれたのは50年以上前の1973年でして、当時の急速な工業化なんかを背景に描かれた部分もあると思うんですが、個人的にはいやこれ当時以上に今の時代にドンピシャすぎないかって感じました。
灰色の男たちって人々の行動を四六時中監視して記録しているんですが、これとかスマホのアプリやら検索履歴からデータを吸い上げられてピンポイントでターゲティング広告を打たれる今の私たちの日常と重なるなぁとか、
あと灰色の男たちって名前を持たずにコード番号で呼ばれていて、これも私たちがユーザーIDに紐づけられて30代、男性、コレステロールと脂肪肝にお悩み中と匿名化されたデータとして処理されているのと同じです。
効率化とか最適化をひたすら追い求めた先に、私たちが一体どんな世界に行き着くのか、エンディはそれを50年も前に自動書の中で見事に予言していたわけです。
他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じるというアドラー流共感の定義。
ここには後でもう一度戻ってくるとして、その前にまずは私たちが他者に共感している風で、ついぶつかりがちな壁を先に一つ取っ払っておこうと思います。
というか、今日お話しする共感って、究極的にはこの一つ目の壁を取っ払うことに尽きるんです。
その壁とは、自分自身に向けられるベクトルです。
例えば、人の話を聞いているときに、「うんうん、わかるよ。」なんて神妙な顔でうなずいているようで、脳内では、「今日の晩御飯何にしよう。」って考えてたり、
相手が、「昨日こんな辛いことがあって。」とこぼした瞬間に、「ああ、わかるわかる。実は私もさあ。」って光の速さでマイクを強奪してソロライブを始めちゃったり、
あるいは、職場の愚痴に対して急に腕組みして、「あのさあ。」って謎の敏腕プロデューサー気取りで解決策をご利用ししたり、
もっと言ったら、昔の自分の古傷と勝手に重ね合わせて怒り狂ってシャドーボクシングを始めちゃうとか、もうあるあるすぎて耳が痛いですよね。
特に最後の一緒になって戦うとか、相手に寄り添っているように見えるんですけど、でも実は全部ベクトルが自分に向いているんです。
自分がスッキリしたい、自分が正しいと言いたいという個人的な欲望のために、相手を自分のアバターにして乗っ取っちゃっている。
実はアドラ、この共感しているようで自分にベクトルが向いてしまっている状態を、フロイトを引き合いに出してバッサリ切り捨てているんです。
心理学には同一化という概念があります。
これ、他者を自分の中に取り込んで、無意識のうちに自分と重ね合わせてしまう心の働きのことで、元々はフロイトが使い始めた言葉なんです。
例えば、自分と似た境遇の芸能人とか経営者、あるいはもっと身近な誰かに自分を重ねてすごく応援するようになることってありますよね。
これ、最初は純粋な応援として始まります。
でも、だんだん距離感がバグっていくんですよね。
ファンのつもりがいつの間にかこうした方がいいのにって勝手にアドバイスや指図をし始めちゃったり、
この瞬間、実はもう相手の人生の舵取りを自分がやっているつもりになっている。
フロイトの言う、相手の役割を自分の利益のために乗っ取るって、まさにこの状態のことです。
で、その人が有名になったり、自分の思っていたイメージと違う一面を見せたりした瞬間、今まで応援していたはずの人が、
見損なった!昔はこんなんじゃなかったのに!と急に手のひら返しで叩き始める。
本当にその人のことを思っていたなら、その人が成長したり変化したりすることを喜べるはずです。
でも、そうならずに裏切られたって感じてしまう。
要はこれ、応援していたのが相手じゃなくて、実は相手に重ねていた自分自身だったわけですね。
こんな風に一般的に共感したという時、私たちは無意識に自分自身を重ねがち。
でも、そんな自分にベクトルが向いた同一化をアドラーは共感とは呼びません。
じゃあアドラーの言う共感とは何なのか?
それは、自分に向いてしまっているベクトルを相手に完全に向けるところから始まります。
自分への関心、内なる声のつまみのボリュームを下げて相手に全集中する。
アドラーは共感をこんな風にも表現しています。
正しく聞き、見て、話すということは、もう一人の人の中にあるいはその状況の中に自分自身を完全に没入させることを意味する。
ここでのキーワードは没入です。
アドラーは共感と没入をつなげて説明しています。
ここでもう一度モモに戻ると、この物語の中で主人公のモモも含めて子供ってすごく重要な特別な存在として描かれているんです。
どう特別なのかというと、まさにこの没入する天才なんですね。
皆さんもちょっと想像してみてほしいんですが、子供って道端で団子虫を見つけては時間を忘れてじーっと観察したり、おままごとで人形の世界にすっかり入り込んだりしますよね。
あの瞬間彼らの頭の中には自分をよく見せたいとか相手をコントロールしたいみたいな大人のようなエゴは1ミリもありません。
そこにあるのは目の前の対象に向けられた純度100%の興味関心だけ。完全に我を忘れてすっとその世界に溶け込んでいる状態です。
自分の都合やエゴは一旦お休みさせて、モモに出てくる子供たちのような純粋な関心を持って相手の世界にすっぽりと没入してみる。
それが自分に向けられたベクトルという一つ目の壁を取っ払うということなんだと思います。
ただここで疑問が湧いてきます。
じゃあそうやって相手にベクトルを全振りして完全に没入しさえすればそれだけで共感マスターになれるのかと。
共に泣き、共に怒り、共に喜ぶ。
ワニマか西のカナの歌詞に出てきそうな感じの相手と同じ感情になってシンクロすること。
アドラー自身も使っている言葉なんですけど英語で言うシンパシーですね。
残念ながらアドラーに言わせるとシンパシーはまだ部分的なもの。
惜しいけどまだ本物の共感じゃないということなんです。
そうここで私たちは二つ目の壁を突破しないといけません。
その二つ目の壁こそが知らず知らず欠けている自分の色眼鏡。
もうね、このラジオにずっとお付き合いいただいた皆さんならこれで伝わると思うのですが、
要は自分自身のライフスタイルの壁です。
これ私自身がカウンセラー養成講座で修行していた時の失敗談があるんですが、
講座ではあるハードな特訓がありまして、
5人くらいのグループになって一人がクライアント役になって苦労話を打ち明け、
残りはカウンセラー役としてその話を聞く。
聞いたと順番にとっさに気の利いた返しをする。
最後にクライアントが誰の言葉が一番刺さったかをガチで選ぶという公開オーディションみたいなトレーニングでした。
これなんて返せばいいんだろうとあたふたすると、
1つ目の壁、つまり自分自身にベクトルが向きすぎて積みます。
漏れなく私も1回目はこの壁に阻まれてあえなく撃沈したんですが、
2回目は修正して、
MOEO DRAGONのDon't Think Feel 考えるな感じろの精神で、
相手にベクトルを全集中させて真剣に聞きました。
1回目とは全然違う感触で、自分へのベクトルなんてなかったですし、
それこそクライアントに没入できている感覚はあったんです。
その時直感的に浮かんできた言葉をドヤ顔で返したんですが、
またしても選ばれたのは他の人の言葉でした。
しかもその優勝した言葉っていうのが、私が感じたものとは全然違う、
え?それ?みたいな言葉だったんですよね。
その時、はっと気づいたんです。
完全に相手にベクトルを向けて同じ気持ちになっているつもりだった。
でも実は無意識のうちに、もし私がこの人だったらこう感じるだろうなっていう、
自分の経験とか感情のフィルターをやっぱり相手に重ねていたに過ぎなかったんだと。
ここ、難しいんですが伝わりますでしょうか。
要はですね、相手にベクトルは向いているんだけど、
自分の色眼鏡に留まったまま、相手の色眼鏡はかけられていないんです。
これ、相手に一番刺さった言葉が私自身からは到底出てこなかったようなものだったという事実が全てを物語っていてですね、
もし私がその人だったら、の先には相手の本当の気持ちは見えてこないんです。
ここでようやく、あのアドラー流共感の定義。
他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じることに繋がってきます。
これ私の解釈も含みますが、一言で言うと、自分のライフスタイルを外して相手のライフスタイルで世界を見てみようってことだと思っています。
まあもちろん、自分のライフスタイルから完全に抜け出すのは不可能なんですけど、でもその努力はする。
自分が相手ならどう思うかではなく、相手は今どんなロジックで動いて、どういう思考回路を走らせていて、どう感じているんだろうと、相手の物差しにまるっと乗り換える必要がある。
でも難しいのが、相手のライフスタイルはどうなっているんだと、眉間にシワ寄せて分析しすぎちゃうと、また自分にベクトルが向いちゃうんですよね。
いや私自身全然この領域には達していないので、本当にそんな魔法みたいなことあるって思ってはいますが、
つい自分に向いてしまうベクトルを相手に前振りする。
子供のような純粋なソーシャルインタレストを持って相手にスッと没入する。
これが一つ目の壁を越えるということ。
そして次に自分だったらこう感じるなという自己投影の色眼鏡を外す。
相手のライフスタイルにそっとチューニングを合わせていく。
これが二つ目の壁を越えるということ。
これら二つの壁を越えた先にアドラーの言う他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じるという本物の共感があるんじゃないでしょうか。
ミハエルエンデのモモを補助戦にして今回はアドラー流共感の正体についてお話ししてきました。
共同体感覚って一体どんな感覚?という問いに対するアドラーのアンサーの一つがこの共感です。
つまりアドラーにとって他者に共感するというのはただの優しさなんかじゃなくて、
人類が長い進化のプロセスの中で身につけてきた生きていく上で絶対に欠かせない能力なんです。
このアドラー流共感の考え方、私たちの日常でもすぐに役立ちます。
生きていれば、え?なんで?マジで理解できないんだけど?って言いたくなるような他者と出会うことってめちゃくちゃありますよね。
そんな時、自分のライフスタイルという色眼鏡を通しているだけだと、どうしてもそれは絶対におかしい、許せないって血圧が上がりがちです。
でも相手には相手のライフスタイルがあって、私にとっては意味不明だけど、この人のライフスタイルの上ではこの行動が大正解なんだなってメタな視点で択感してみてみるんです。
この人は今どんなライフスタイルで世界を見ているんだろう?っていう問いを持つことで冷静さを保つ。
そして冷静になれれば、真っ向から対立したり距離を置いたりするんじゃなくて、対話するという新たな可能性が開けてくる。
そういう意味で、このアドラー流の共感は私たちが他者と共に生きること、つまり共同体感覚へとしっかりとつながっていくわけです。
ところで前回のライフタスク、それから今回の共感の話を聞いていて、アドラーって他者のことを考えよう、協力しようってめっちゃ言うじゃん。なんかちょっと重いな。
こっちは一度きりのかけがえのない人生なんだから、もっと自由に伸び伸び生きたいのに、なんだか重たい義務を背負わされている気がする、みたいに思いませんでしたか?
でも先に言っておきます。心配しなくて大丈夫です。アドラーはめちゃくちゃ個人を大事にした思想家であり、臨床家であり、なんならあなただけの個性を爆発させろと誰よりも熱く語っているおっちゃんなんです。
ただここで疑問が湧きますよね。その個性の爆発とアドラーが口すっぱくして言う他者との共同って矛盾しそうじゃないですか。というわけで次回からは私たちが日々葛藤しているこの個と共同という永遠のテーマに対してアドラーがどんなアンサーを出しているのかじっくり見ていきます。
アドラー心理学ラジオ第23回お聞きいただきありがとうございました。お相手は熱くてゆるいでした。