ようこそ、自己理解を深める心理学ラジオへ。このポッドキャストは、株式会社自己理解で自己理解コーチとして活動する配信者が、自身やクライアントの自己理解を深めるために探求し始めた心理学をテーマにお話をする番組です。
テーマに興味のある方や、同じく対人支援をされている方、自己理解を深めたいと感じている方の参考になれば幸いです。
はい、今日も聞いていただいてありがとうございます。
今日のテーマは、アドラー心理学から学ぶべき目的論、課題の分離、共同体感覚というところで、皆さん一度は聞いたことがあるんじゃないでしょうか、アドラー心理学という言葉。
岸見一郎さんと小川文武さんの著書、嫌われる勇気、ダイヤモンド社のこの一冊で知った方も多いんじゃないでしょうかね。私もこの一冊で知りました。
この本も今日の特別参考書籍として使っていきながら、メインの参考書籍は、いつも通り、図解心理学用語大全、こちらを片手にお話をしていきたいなと思います。
大分類が変わりまして、5番、臨床心理学というところの一つ目として、アドラー心理学が取り上げられています。
今日はテーマを3つに絞って自己理解を深める視点につなげてご紹介していきたいなと思います。
まず一つ目ですね、目的論です。アドラー心理学の骨格となる考え方ですね。
この目的論、どういったものかというと、経験や感情が原因となって行動という結果を引き起こすと考えるのが原因論。
一般的な考え方ですが、目的論は目的を遂行するために経験や感情を利用するというふうに考えるんですね。
もうちょっと具体例を出しながらお話していくと、一般的な考えの原因論の方は、
例えば悲しいという感情になると、それが原因となって泣くという、これが原因論ですよね。
赤ん坊が何か起こって、それによって悲しいという感情になって、そうして泣く、これが一般的な考え方なんですけれども、
アドラーさんの考えた目的論というのは、同情してもらいたいと、例えば子どもが思ったとして、
この同情を抱いたいという目的を達成するために、悲しいという感情を使っていって、
そうするとアウトプット、行動としては泣くということ、悲しい気持ちを使って泣くと、
どうしたの?という形で親が同情してくれるという、そんな考え方ですね。
確かに私、4歳の息子がいるんですけれども、しばしばですね、涙が出ていない、泣き声だけ出す、みたいなことはやっぱりあって、
親に構ってもらいたい時とか、甘えたい時とかに声だけ泣いて、注目を集める、みたいなことは普通にやっていることだなと思います。
嫌われる勇気でもですね、父親との関係が良くないから何々ができないというふうに考えている方がいるんですけれども、
それを目的論的に捉えると、父親と関係を修復しないのはなぜなんだと、
どんな目的で関係が悪い状態を使っているのかなというところで考えると、
じゃあその目的を変えてしまえば、父親との関係は修復していけるというふうに捉えて、目から鱗だよねという話がありました。
カードを自分で握るような感覚になれるんですね、目的論を用いると。
出来事自体はさすがに変えれないんですけれども、自分の感情の使い方とか認識の仕方というのは目的によって変えていいんだよ、
変えられるんだよというのがアドラー心理学の骨格にあるというところかなと思います。
あとはですね、よくアドラー心理学の中で使われる考え方が、
人間が抱える問題は全て対人関係上の問題であるというふうに捉えるのがアドラー心理学の考え方です。
一般的な考えでは問題とか課題というのは私の内面、自分の中にあると考えるんですけれども、
アドラー心理学では全て問題は自分と誰かの間にあって、
それを私が抱えているときに私の問題、私の課題であるというふうに捉えるというそんな発想をします。
こういう発想をするからこそ出てくるのが次の課題の分離という考え方ですね。
まず課題の分離を扱っていく前に、課題ってそもそも何かというところを、
ちょっと抽象度の高い言葉でビジネスとかでもよく使われますけれども、
課題っていうのは問題を解決するために取り組むべきことを指すのが課題です。
問題っていうのはじゃあ何なのかというと、一般的に言われるのは理想と現状のギャップを生んでいるものが問題だと、
その問題を解決するために取り組むべきことが課題であると、
そういう立て付けになっているのが一般的だと思うんですけれども、
この課題を分離していきましょうねっていうのがアドラさんの考え方です。
意味としては他人が克服するべき課題と自分が克服するべき課題を分けて考えることになります。
例えばですけれども、アドラさんが挙げているのは承認欲求っていうのは、
自分が他人の課題に介入し合っているから起こることだということで、
自分の自由を奪っちゃうよということを言っているんですね。
嫌われる勇気のタイトルの由来にもなっている考え方がここにあるかなと思っていて、
自由とは他者から嫌われることだっていうそんな短い名言があるんですけれども、
まさにこの嫌われる勇気っていうタイトルの大元になっている考え方かなと思います。
他者から承認されるそういった欲求を捨てることで初めて自分の自由が手に入る。
だから嫌われる勇気を求めっていうのがこの嫌われる勇気の伝えたいことなのかなと思います。
じゃあ向け合うべき課題とそうじゃない課題の具体例なんですけれども、
例えばこの人を助けたいなって自分自身が思った時にこれは自分の課題です。
なぜなら自分が自分の意思で誰かに関わっていく。これは自分の課題なんですね。
自分側の問題を解決するために取り組むという発想だから向き合うべき自分の課題である。
一方でこの人に告白したいなって他人が自分に思っていたり、他人から他人に悩んでいたりするとします。
そこに介入していくのはエアドラー心理学的には違うよねと。
なぜなら自分自身は告白されたいとか別に思ってないけども、
相手が思っていることに対して介入していくというのは課題の分離ができていないということなんじゃないかなと思います。
例えば好きでもない人に愛を告白された場合、
例えば相手が傷ついたとしても自分自身としては受け入れる必要がない。
なぜなら心の傷を克服するとか、この好きだという気持ちを持ってそれが虐待することで傷ついてしまうというのは
相手の課題だからですね。
だけどもそこである意味人に気を遣ってしまって告白を断れなかったり、
好かれているというある意味の承認欲求が満たされるからお付き合いをするってことをしてしまうと
相手の課題に対して自分がアクションしてしまっているということになるので
これだと自由が奪われてしまう。
なぜなら相手の感情はコントロールできないからですね。
自分を評価するということは相手の課題なので
それをコントロールすることができないからそれに振り回されてしまって疲れてしまう。
そういうことを嫌われてもいいからやめましょうねって言っているのが
アドラさんの考え方の一つです。