共感の概念について

かんたです。

じゅんぼくです。

ひなです。

村音、第何回かわかんないんですけど、収録開始します。
今日なんですけど、ティーチャーティーチャーのオンラインコミュニティ、通称ティーチャーティーチャー村のある掲示板で、ひなさんが共感についてのノートの記事を共有してくれたら、
そこから議論が大盛り上がりしたので、チャットだと話し足りないし話しきれないから、村音とりながらしゃべろうよ、みたいなのが今日のテーマになります。
そこで共有してくれた記事っていうのが、またリッスンとかの概要欄には貼っておこうと思うんですけど、
共感には2種類あって、共感力とメンタライジング、音声で聞くと余計にちょっと混乱をきたしそうなんですけど、
一つが人の気持ちを自分ごととして感じる力っていうのと、もう一つが他人の気持ちを押し量る力っていう2つのことを共感力とごっちゃにして呼ばれてますよ、みたいな記事に対して、
いろいろ共感って何だろうね、みたいな話をしてたら、みんな共感がよくわかんなくなったっていうのが起きてたことでしたね。
ちょっとそこで話した話と重複する部分も含めて、一旦多分自分は共感ってこういうもんだと思ってるよ、みたいな話をしながら、またチャットで話してたところよりもさらにちょっと違う方向で議論というか対話が進められていけたらなと思ってます。
っていう感じでいいですかね。
共感力の自己認識

せっかくなんでひなさん、この共有した経緯何だったかっていうのと、あとそこの面白かったポイントみたいなのを多分最初に聞かせてもらったらそこから話が盛り上がるんじゃないかなと思ってるんですけど、どうですか。

私はもともと自分にあまり共感力がないと思っていて、今思えばそれは共感力っていう言い方じゃない方がわかりやすいのかなっていうふうに思うんですけど、
人の感情に対して自分の感情をそこに乗っける力みたいなのが多分あまりないと自認してたんですね。
なんですけどすごく極少数の人からは気持ちをよくわかってくれるっていうふうに言ってもらったりすることもあって、それがどういうことなのかなっていうのがこのノートの記事を読んだときに、

自分はこっちはないけどこっちはある程度あるのかみたいな、これの力、こっちの方もメンタライジングと呼ばれてる方ですけど、そっちの方も共感って呼んでいいんだなみたいなことが自分の中でちょっと1回踏み落ちたんですね。またすぐ迷子になったんですけど。

実際自分が一人で読んだときはすごい踏み落ちたので、村の中のシェアしたらちょっと引っかかってくれる人がいるんじゃないかなと思って。シェアをしたら予想外に燃えたというか。

燃えてはないですけど、みんなを悩ませてしまったみたいな感じですね。
誰かが痛いって言ってるときに、そのままダイレクトに自分も痛いって感じるタイプの人と、確かに自分も怪我したときに痛かったから、今その痛いっていうのと同じ思いをしてるんだなみたいな感じで推論するみたいなタイプの人が、タイプの共感があるよねっていうこと。
で、僕も前者の共感が全く自分の中にないくて、ほぼ後者にパラメーター全部振ってるみたいな感じなんで、結構ヒナさんの話を聞いて、めっちゃそうだなって。

てかみんなそうなんてないの?ってむしろ思ってたみたいな感じだったんですよね。
なんか人は、なんて言うんですかね、人の気持ちがわからないって昔からよく言われてたんですけど、それはわからんやろみたいな感じだったんですよね。
わからんよね。

あれ、わからない人たちしかいないかもしれない。
本当に正しくわかるかは別として、なんていうんですか、少なくとも誰かが何か感情を示していたら、その感情を言語的処理を通さず、感覚的に理解するみたいなことが世の中で起きてるらしいなっていうのは観測してたりするっていう感じ。

反射ですよね。反射的に、よく言われるのはミラーニューロンっていうやつですか、とかのたぶんその働きで自動的に自分で意識しなくても起きるっていう人がたぶんある一定数、むしろそっちのほうがちょっと多いんじゃないかっていうくらいいるんですよね。

いるらしいです。

自分がわからないから、わからない感覚について喋るとよくわからないけど、世の中にたくさんいて、むしろわからない人がマイノリティらしいっていうところまで知識として知ってます。

僕もそのように自認している人がいるらしいぐらいの、すごく3回ぐらい間接的に捉えてようやく理解しようとしてる感じですよね。

じゅんぼくさんも今の話でいくと、あんまりピンとこない側ではあるんですよ。反射として何かその人相手の感情みたいなものを自分の感情のように感じる力、感じるみたいなことって。

そうですね、それもなんか全然わかんない。ひなさんが普段のURLを貼ってくれた日の朝に、僕は掲示板つぶやきのスレッドに、共感がわかんなくなってきたって朝7時台か8時台ぐらいに書いてたんですよ。
で、みんなはわかってそうなのに、俺は今共感が何なのかわからない、この星でたった一人の人間みたいな、そういう変な感じになったんだけど、その数時間後に全員で路頭に迷ってたから、それはすごく面白かったんですよ。
で、僕は自分が共感みたいな感覚がわかんないのかどうかもわかんないっていうところに来ていて、ただ基本、感覚とは別の思考のスタンスとしては、人の気持ちはわかんないよねっていうスタンスを能動的にとってるだろうなとは思う。
なんで、基本、期待ゼロで人と接してるから、なんか今ちょっと同じ感覚を、なんか指先触れた気がするってときは嬉しいとは思ってる。そういう感覚が訪れるときはあって、それは僕にとっては貴重なものだから、基本わかんないはずの宇宙で今指先触れ合いましたよねみたいなのに喜びはある。
そういう瞬間は僕の生活の中にはあるなと思っているが、コミュニティとかの皆さん見てても、多分今こういう皆さんがわーっとテキストで盛り上がってることに、多分今自分はそんなに心が動いてないから共感できてないんだろうな、心はあんまり動いてる感じはしないなっていう瞬間はちょくちょくありますね。
なんかその、一般的に人から見える共感って、例えばある人が何か感情を表明していたときに、同じ感情を持つよねっていうことが理解できて、その同じ感情を持ってる人のように振る舞うことみたいなのが、多分外から見たときの共感だと思うんですよね。
認知の前提

で、ただ本人の認知として本当にそういう感情が湧き上がってるみたいな人と、確かにその立場でそういう状況だったらそう感じるよねっていう理屈で理解したときして、自分も確かにその状況に置かれたときそうだったなとか、もし自分がそこに置かれているとこういう感情が喚起されるなみたいな、頭での理解から自分の感情を喚起させるみたいなことが、
なんか二つ違うんだろうなって思っていて、ただ出てくるアウトプットはある人が表明している感情と同じような感情を持っているという形で、振る舞うみたいなことが出てきているから、多分外から見るとあんま区別つかないみたいなことなのかなって思うんですよね。
そうですね。さっき、かんさん、痛みの話してくれたじゃないですか。だから、なんか今ぶつけちゃった人とか見たときに、「痛い!」それを外から見て、「痛い!」って思う人と、「痛そう!」って思う人で、なんかこう、ちょっと、なんか二分できるかもしれないな、みたいな感じがしました。

自分も痛みを思い出して、痛みが再現されていた相手の人と、「痛そう!自分は別に痛くないけど、あなたは今、とても痛そうな状況ですね。」っていう、なんか、とっさに出る言葉とかに、その個々人がどういう、自分のことと感じているか、相手のことと感じているかは、なんか差がありそうだなって感じています。

で、今、この収録、公開収録って形で、Discordのコミュニティの方にも音声を流しながらやっていて、コメント欄でちょっとコメントもあったりするんですけど、
さちえさんから、「エンパシーの反対がメンタライジングみたいなことですかね?」みたいなコメントもらっていて、英語で言うシンパシーとエンパシーの違いみたいなのは多分あるのかなと思っていて、シンパシーが、エンパシーがですね、相手の気持ちに寄り添うみたいな意味での共感というか。
そうですね。
シンパシーは感情的な。
自分ごと感ってことですかね。

同調っていう日本語訳を与えられることもありますよね。シンパシーのほうですね。
でもエンパシーとシンパシーは多分英語圏の中では結構明確に分類されてて、そこは分かりにくいよねっていうのも多分日本語と同じで、
そういう大前提のもとで、でもこの2つははっきり違うもので、エンパシーのほうが大事っていうような認識が多分すごい強く持たれていると思うんですけど、その中に多分メンタライジングは入るんですね。

エンパシーの中に。

それは多分01では普通の人はなくて、両方あるよねっていうことだと思うんですよね。
相手が感じていることを理屈の回路を通さず、感覚的に反射的に感じるみたいな力と、
あとそれを、相は反射的には感じないんだけど、想像出力を働かせて感情移入をすることで感じるっていう、両方のシンパシーとエンパシーの力っていうのは多分グラデーションというか両方みんな持っていて、どっちの力はより優位かみたいなところは個人差があるみたいなことだなと思ってるんですけど、
特にいわゆるASDの人たちに苦手だと言われているのはどちらかというとシンパシーの方だろうなと思っていて、自分も別にそういう診断があるわけじゃないんですけど、いろんな記事を読んでいると、確かにみんなそう思っているのがあるんだ。
知らなかったみたいなことはよくあるなっていうのはある。多分エンパシー、ここで言うとエンパシーにすごく寄って、その社会の中で共感力を発揮しているのかなみたいな感じはしてます。

ASDって括ると多分ちょっと語弊があると思うんですけど、うちの子も多分ASDですけど、多分私も自分でASD味があるなと思っている中で、その中でも性質が反対で、私は多分かんたさんと同じタイプなんですけど、多分うちの子は逆タイプなんじゃないかな。
ただそこの能力に偏りがある人がASDなのかなっていう印象です。どっちかが多いじゃなくて。

シンドロームで症候群だから、いろいろ混ざってますもんね。

この元々の記事を書かれた人もASDで、我々とは逆タイプっていうかもしれないので、そこの偏りですね。

それが極端に偏っていると何が起きるかっていうと、例えばそこで言う、一旦わかりやすくシンパシーとエンパシーで区別するとしたら、
シンパシーに全部振っていると、実際相手がどう感じているかはさておき、自分が相手がどう感じたかということで、相手の感情を決めつけてしまうみたいなことは多分起きて、

そこにギャップがあるときにトラブルになるみたいなことはありそうだなとは思いました。

相手は本当は悲しいと思っているのに、自分の脳は嬉しいというふうに感じちゃうから、
これやられて嬉しいことだと思って相手が嫌がってるみたいなことに気づきにくいみたいなことが、
シンパシーに全振りしていると起きそうな困りごとかなっていうふうに思っていて。
エンパシーに振っていて、自分が実際に困ることは、
自分がそのときそう思わないみたいなときに、なかなかそれを理解できないみたいなことがあって、
相手の立場だったときに、自分は全然気にしないけどなみたいなことに対してすごく気にするみたいなことが、

結構多分30代半ばぐらいまであんまりよくわかってなくて、

それは自分がその感情を理解できるかどうかはさておき、
相手がそう感じていることとして処理すればいいんだみたいなことに、
気づいて処理できないと、結構よく人の気持ちがわからない人って言われるみたいな、
多分そういうとこなんだろうなって思いました。

なるほど、わかってきた。
はい、僕収録中に今1個自分の中で発見があったので、すごく嬉しい気持ちになります。

ちょっと宗教に触っていいですか。

まず、人間の認知の前提に、自分と他人は同じであるって思ってるか、
それぞれ別々であると思ってるかっていう、2つの類型があると思います。
その上で、何だっけ、迷子になった。
共感の基本概念

その先に何か2種類の、外からどういう言動パターンに見えるかは2種類あるなと思って、
だから、何かのインプット、例えば話を聞かせてもらったっていうのがあったときに、
同じだって前提だと、自分も同じになるはずみたいな気持ちで、
わかる、わかるよ、みたいな感じとして出るし、
あとは前提として同じだと思ってて、
自分はこれつらくないんだから、相手もつらくないはずだ、みたいになって、
相手に自分と同じであることを求める、みたいな。
相手の気持ちに同じになるほうに近づいていくパターンと、
相手に自分と同じ気持ちであることを期待するっていう、2種類の矢印どっちもあるし、
でもそれは前提として、他者と自身が同じ感覚であるって思ってたら、
確かにそういう言動パターンは出るだろうなって思いました。

なんか前にコテンラジオで喋ってて、今のラジオとかやってる室越さんとお前話したときに、
他者っていうのを自分とよく似ているけど、自分と全く異なる主体として見なせるか、
みたいなことが大事だよね、みたいな話をしていて、
やっぱその他者っていうのがいろんな意味で存在していない人ってたくさんいるよねっていう話をしていて、
それがたぶん今、じゅうもくさんが言ってるような結構繋がってるかなって思うのが、
自分と同じようだけど違うの、違うの部分をちゃんと認識できなくて、
自分と同じようだっていう形で、自分の延長線上として捉えちゃう、みたいな形で他者が存在しないっていう人と、
あとなんか自分ではないっていうところで、違うのところだけフォーカスして、
自分ではないから、言ったらゲームのモブキャラみたいな形で他者を捉えている、みたいな。

なるほど、なるほど。

その両極端あって、多くの人はその中間地点でバランスをとっているんだけど、
自分と似てるけど違うの、似てると違うのを境界線の引き方が人によって結構違うんだろうなっていうのは今思いました。
共感とケアの関係

確かに。そこの認知が極端だと、
なんか思うように、自分と想像した通りに世界が共同しなくて戸惑うことは増えそうな気がしますね。極端だと。

それを聞くと、私たぶんその辺の自他協会は割と最近までおかしかったと思っていて、
今もどうかって言われると自信ないんですけど、

境界線の話と共感の話がすごい近しいなとは思うんですけど、

近しいんですけど、なんか、

だとしたらその境界線曖昧な人たちのその共感って全部おかしいのかなみたいな。

正しく共感する、正しいスタンスとして共感するためには境界線が正しく引けなければならないみたいな感じになってくると。
そこは相関関係はあると思うんですけど、そこを行くとまた。

たぶんあれなんですよね、そのティーチャーティーチャー村の中で話してるのを見ていても、ちょっと自分はやっぱりわかってないかもって思ったのが、
共感することはいいことで共感できた方がいいみたいな価値観が通想定義にありそうだな感覚を覚えた。
自分が全くそう思ってなかったんですけど、それはどう思います?そもそもそういう価値観って世の中一般にあるよね、みたいなことに対しては。

そうですね、でも自分が小学生だった頃の道徳の時間とかを思い出すと、
共感できた方がみなさんは素晴らしい、そこを目指しましょうって言われてたような、このかな、手触りが残っている。

私がその、はい、ぜひ。
共感っていう、共感にケアの役割が結構大きいなと思ってて、
共感されることによってケアされる、みたいな。
お互い共感し合うことでケアをし合う、みたいな関係性というか会話だったり、
っていうのが、特に女性にはすごい盛んに行われてて、この村の中でもすごく起きてることだと思うんですけど。

なるほど。

それがないと多分やっぱりつらいよなって思うんですよね。
共感できることがいいという、できないことが悪いみたいな上下の関係ではなく、
私たちは生きるために共感をし合うことは必要だな、みたいな感覚はあります。
コミュニティにおける共感の役割

それ近いかも。僕も栄養素の一つぐらいに思ってるかも。

そうそう、そんな感じですね。

僕は思ってたのは、協力関係を築く上で、さっきのメンタライジングとかエンパシーみたいな力を使うと、
理屈で考えて共感しているように振る舞うことができると。
シンパシーを感じているような振る舞いをして、協力関係を人と構築することができるなと思っていて、
そういう意味で、共感しているような振る舞いをすることに対する必要性は感じてたんですけど、
別にアウトプットとしてそうなっていれば、どう感じているかはあんまり関係ないかなとぐらいに思ってました。

それ面白い。

共感している振りをたぶんしようとしても、できてないときはめっちゃぎこちないんですよ、私。

それはみんなそうじゃない?そんなことないか。

子供に対してもそれやっちゃうんですよ。
共感してあげたいけど全然できないわみたいなときとか、

すごいひどいやつみたいになるんですけど、子供が痛がってるときとか。

絶対それ痛い目に合うかなみたいなときに思ってて、大丈夫って言いながらやって大泣きしてるときとかに、
全然痛みに共感してあげられなくて、棒読みで痛いね、痛いねって言っちゃうんですけど。

一緒ですよ。
好きだわ、ひなさんのそういうとこ好きだわ。

なんかそういうのを。

心はこもってないってよく言われます。
こもってないから。
こもってないわって思いながら。

こもってないからなんか下手しそうなんですよ。
そうするとちょっと、何か寄り添ってくれてないって絶対思うだろうなって思いつつ、寄り添ってるフリだけしてるみたいな。

僕そういうときに大悪感を感じたことがなくて、演技力が足りなかった、ごめん、もうちょっと集中するねっていうふうにしか思わなくて。
なんかそこが世の中一般によくないことだとされてるなっていうのは観測してました。

へー、おもしろ。
でも僕やっぱ栄養素的に捉えてるから、そういう成分が欲しかったらそういうものを選んで食べなっていう感じ。
だから、妻に、妻の周りに、僕らが妻にとっての分かり手って呼んでる妻の友達が何人かいて、
僕に話しても、僕にその栄養素含まれてないから、僕は鉄分とかはあるけどビタミンないからみたいなのは僕と妻の間でも認識が合ってるから、
分かるーって言ってもらいたかったら、分かり手たちがいるじゃんって言って、通話でもしたら、確かにとか言って連絡取って通話したりしてるから、栄養は作れないように思ってるんだな。
なるほど。

さっきヒナさんがケアには共感が必要だって言われて、確かにそうだなって思って振り返ってみると、
ケアされていないことは多分ないと思うんですよ、社会で生きていく上で。
自分がケアを必要としているという認識を持ったことがあまりないし、ケアされているとかケアしなければならないって思ったことがそういうのはあんまないなって思って。
それもあって、あんまり共感のそういう分かりやすい機能的価値、共感しているように振る舞うことで、社会の構成員としてちゃんと、
普通の人とかまともな人として扱ってもらえるみたいなところにすごく特化してたなっていうのをさっき思いました。

なるほど、面白い。

ケアとしての共感みたいなのって、日常の本当に些細なところにちょっとずつ含まれているので、
栄養素で言えばビタミンC何でも入ってるよねみたいな、そういう感じのものなのかなと思って、
いろんなところからちょっとずつ摂取して、でも時々すっごく足りなくなるからサプリメント取らなきゃみたいな感じで。

だから無意識に自分も共感したり共感されたりすることで、そういう栄養を取っているけど、
意識できていないだけなのか、本当にやっぱりよくわかってないのかも、なんか自分でよくわかんないですよね。

そうそう、いやそうだと思います。でも人生のある時点で、急に体が反応するかもしれないじゃないですか、アレルギーみたいに。
一定値まで共感を受け取ったことで、ある時急に涙がブワーッと出て、なんじゃこりゃってなって、
あ、花粉症になりましたみたいな、そういうことになるかもしれないじゃないですか。
確かに。
行き地を越えたら。

確かにな、それは全然あり得ますよね。
僕は特性かなと思って、そういうもんかなって思ってたけど、確かに変わる可能性がないとは誰も言ってないですもんね。

そうですね。で、多分その生物として、生まれた直後ってその経験値ボーナス2億倍とかになってるから、
だから言葉とかも覚えるし、どんどん知識も吸収するけど、まあ大人になるほど経験値ボーナスって減っていくじゃないですか。
だから子供の頃にたくさん浴びると、それがある一定値に達して、何かが発現するが、そこで発現しなかったら一生発現しないとも限らないと思っていて、
だからこれからかんたさんもすげー、なんか類戦カバー側になるかもしれない。
確かに。
めちゃくちゃ楽しみなことだと思ってます。

確かには。

映画見たら毎回泣くみたい。

もう冒頭5分で、あ、もう無理、ちょっと一旦止めてってなるかもしれない。

僕今年、今年度からPTAの役員やり始めて、で、もともと今はだいぶ丸くなったと周りからもよく言われるっていうか、
適応できるようになったっていう方が正しいんですけど、実際あんまり中身は変わってないんですけどね。
だから昔はどちらかというとゴリゴリ資本主義ナイズされているのをあんまり隠していなかったので、

無駄な会議とか無駄な時間とか無駄な効率の悪い話とかすごい嫌いだったんですよ。

で、そのPTAやってその地域の人とかと関わっていくと、そういう会議とかやっぱ多いじゃないですか。
打ち合わせ会合とか、何の会議なんだろうこれみたいなやつみたいな。
で、なんか多分5年前だったら全部やめましょうみたいな感じで、いきなり多分こうなんですかね。
なんだこいつみたいな挙動をしてたんだろうなって思うんですけど。
今はちょっと今年は全部監察しよう、セブティを受け入れようみたいな感じで、
あんまり何も反対はせず協力だけするみたいな形で意図的にやってみてるんですけど。
これやってて気づいたのが、そこで行われている会議としては無駄な時間っていうのも多分共感するとか、
お互いに何かを共有、情報を共有して一緒に過ごすみたいな、
同じ時間を過ごすことでの多分その栄養を自然に摂取してるみたいな時間を多分作っていて、
それが機能的な価値としては、例えば地域みたいな連帯感を作るみたいなこととか、
それによって例えば子供が変な見知らぬ人と話してたら大丈夫みたいなセンサーが立つみたいなセキュリティにつながってたりとか、
あと挨拶し合う関係みたいなことで、困ってる人がいたときに気がつくみたいなネットワークが張り巡らされるみたいな、
ケア関係を多分意図的にそういう会合とかで作ることによってケアネットワークみたいなものを作ってるみたいな見方をすると、
それは確かに同じ時間を過ごして効率よくやることじゃなくて時間を過ごすこと自体が目的であって、
あまりその会議の目的を効率よく達成するとかどうでもいいんだなっていうことに最近理屈的に気がついて、
あまり自分はそこにまだインツーっていうか、そうだな、もっとやろうとは思えてないんですけど、機能は最近すごい理解できました。

それ僕ちょっとモデル化が部分的に違って、僕が町内会とかで僕が何か思ってることがあって、
それを可決まで持っていこうと思ったら、正しそうなロジックポイントを100と、そこでの好感度50を集めるとそのクエストがクリアになるみたいなモデルで捉えていて、
共感とケアの重要性

なので好感度を最短で取りに行くっていうのは、そのために一緒に飯食ったりするのは、自分の中では最短ルートみたいな見方をしてる。

それがそれとすごい分かって、振る舞いの戦略としてはそうなんですよね。目的があるときは。

僕が興味があったのは、なんでそういう構造になってるのかっていう。

なんでみんなそんなに無駄な会議をしたいんだろうみたいなこと自体の、そこのモチベーションにすごい興味があって観察してたんですよね。
なるほど、これはケアネットワークを作るためには、多分時間を一緒に過ごす以外にあんまないんだろうなっていうのもすごい思って。
会議の目的というのは、集まる理由であって、発生すべきものでもないみたいな。

そこを錯覚させる作りになってるのは、単純に会議の立てつけがよくないんだろうなとは思うけど、
例えば会社だと割と会社の売上アップとか利益上げるとか上場とか、分かりやすい目的共有してるから、そこの前提の共有いらないんだけど、
地域の集まりとかって別にみんなで一個の何かを目指したりしてないから、
なんとなく一緒に過ごす中で、多分こっち、少なくとも東じゃなくて今俺たち西に向かおうとしてるよねみたいな、何かしらのアライメントが必要で、
アライメントを達成するために乾杯するとかはめちゃくちゃ効率のいいポイント稼ぎの手段だと思ってるから、
喜んで乾杯しに行って、よしよしこれで今回の決議通るなみたいな、そういう動きをしてます。
そうだね、めっちゃわかります。

面白いですね。
結局、ケアと共感みたいな、ひなさんがさっき言ったので、それを思い出して繋がったんですけど、
ケアとか共感の関係を作るために一緒に時間を過ごそうみたいなこと自体が、
特に目的がないじゃないですか、地域って別にそこ住んでるだけ、
でも何か強調しないといけないときに強調できることが大事で、
それが例えば日々のセキュリティだったり、災害時にちゃんと協力し合えるかだったりとかっていう、
達成する段を目指すっていうよりはビーングな関係性みたいなものっていうのが多分大事なときには、
確かに多分みんなが共感力を働かせ合いながら、ケア関係の相互扶助の環境を作っていくことが機能的に大事なんだなみたいなのは、
最近、自分の中では腹落ちしましたね。
コミュニティの定義

面白い。僕、いつだ、6月ぐらいに、とある場で、コミュニティとは何かとか、
コミュニティの歩き方みたいなテーマで研修するっていう依頼をもらってやったんですよ。
そのときに、コミュニティとは何かをまず明確にしないと、そっから先の話進めないなと思ったので、
いろんな辞書を引いたり、いろんなところで言われてる定義を引いて、そのときに採用した定義が、
コミュニティとは共通の何かしらの資産を共有している人たちの集まりであるって、その定義を置いたんですよ。
地域でいうと、たとえばこの川が汚くなったら嫌だよね、みたいな。
とか、この地域が子どもが安心して遊べない場所になったら嫌だよね、みたいなものを資産として捉えると、
自分たちが資産だと思ってる、大事にしたいと思ってるものの価値を高める行動は良いことだし、
価値を既存するような行動は悪いことだよねってことで、結構アラインが取れるなって思ったんですよ。
たしかに。
それでいくと、会社もそうだし、このティーチャー・ティーチャーのコミュニティも、
まだこれとバピッと一行で言えるところまで行ってないかもしれないけど、
みんなで共有してる、これが損なわれたら嫌だよね、これ大事にしたいよねって思ってるものは、
たぶん資産としてあって。
そう思うと、結構地域コミュニティの集まりとかも、
この行動によって資産価値がこう上がるんだなって思うと、
僕は結構納得できることが多いって気づいたんですよ。
理解と尊重の違い

なるほど。
だから、もしかしたら一緒に過ごすことで声かけやすくなって、
災害時のレジリエンスが上がるとか、
言ってることは結構かんたさんに近くて、
昨日のとき価値に変換して捉えられると急にわかるようになるっていう。
変換しないとわかんないのは大丈夫なのかとも思うんだけど、
一旦変換すると、一旦自分のロジックで理解したい欲求が満たされるから、

心が落ち着くっていうのがあります。
で、そのシンパシーとエンパシーみたいな話に戻ると、
僕は多分純木さんも今の話で似てるし、多分ひなさんも似てると思うんですけど、
そういうのを理屈で理解して、機能的価値だったりロジックで、
一回納得しないとわからないんだけど、
そこで多分話して、同じ時間を過ごしてケア関係を作っている人たちは、
多分全くそういうふうに意識はしていないと言語化して、
でもそこにちゃんと価値を感じているから多分その時間を過ごしているし、
その価値っていうのは多分楽しいとか心地よいっていう、
もう少し感覚的なものだと思うんですけど、
なんか、ということはこの人たちが感じている気持ちよさ、心地よさみたいなことに、
自分は単純に感じる力がなくって、
理屈の回路を通さないとわからないんだな、みたいなことを思うと、
わかる人とわからない人がいて、わからない人側なんだろうな、みたいなふうに推論しているって感じです。

なんか私、子供の時から大人になって別に診断を受けたわけじゃないんですけど、
なんかちょっと理人症に近い感覚を持っていて、

何症ですか?

離れる人に近い感覚がちょっとあって、
子供の時からちょっと自分を監視カメラで見てるみたいな感覚が結構あったんです。
なんかそのせいなのか、わりと多分、
その共感とか人の感情以外にもちょっと実感が弱いのか、
そういうものに限らず、
全体的に感情のセンサーみたいなものが鈍い傾向があるのかもしれないなと思います。

それって共感という文脈じゃなくて、
自分の直接的な感情っていうところでもそうですか?

それももしかしたらそうなのかもしれないです。
わかんない。
自分しかわかんないんだよね。

確かに。
誰かどうかって。
特にかんたさんと僕はわかんないと思うよ。
そうだ。

自分ではすごい感情をちゃんと感じ取ってるつもりでいたけど、
もしかしたらちょっとそれが、
他の人の6割ぐらいしか感じてないよみたいなことあるのかもしれない。
今うちの娘とかを見てると、
なんか私の倍ぐらい多分なんかセンサー敏感だなとか、
感情爆発させてるなみたいな部分を感じたりするし、
そのセンサーの敏感さ。

自分が感じてたその状況で、
自分が置かれていたらこう感じるだろうっていう感じ方をしているだろう、
みたいな前提で接すると、
すごく人出なし扱いをされるみたいなことは、
多分僕もすごい身に覚えがあるんで、
きっと多分人よりも感度が低いみたいなのがあるんだろうなっていうのは、
そこから推論をしてました。
自分の場合は。
なんかすごいムカついてて、
確かに不快だなって思うなっていう感じで、
それは嫌だよねみたいな感じのリアクションをすると、
お前分かってないみたいになるみたいなやつですね。

だって分かってないもんね。
正解って思うよね。
正しい現状を理解にする。

確かに。
ちょっと共感の話の先で、
じゅんぼくさんがチャットのところで、
共感できなくても、何でしたっけ?

理解はできて、
3層の図を書いてて、
共感できなくても理解できるパターンがあって、
理解もできないけど尊重はできるパターンはあるなっていうのを、
2019年に自分のメモにまとめてましたね。

それ僕はあんまりよく分からなかったのが、
共感はもともとあんまりできてないと思うから、

理解と共感の円がほぼ一致していて、

理解の外側に尊重があるのもよく分かっていなくて、
理解できていないものが尊重できている状態がピンとこなかったんですよね。

僕があそこで言ってる尊重って、
かなりハードルが低いことを言っていて、

例えば、具体的なトピックを上げすぎないほうがいいかな、

自分と同じような感じで言って、
自分もそういう考えでやってるよ、みたいなときは、
共感なり理解なりできてて、
なんでこの人はこういう主張をしてんだろうなって、
質問しながら進めてみたけど、結局分からなかったな。
ただ、別にこの世界からこの考えをなくしたいとは思ってません。
そういう行動を起こすつもりはありません。
僕が言ってる尊重っていうのは、
この世界にその自称が存在することを受け入れるというか、
そんぐらいのことですね。
で、よくあるそれに対するアプローチはゾーニングですね。
適切に距離を取る。
距離を取って離れたところで、
僕と僕の理解の及ばない人たちが楽しく幸せに暮らしていたらいいし、
逆に言うとそっちから見ると、
僕の考えが全然理解できない可能性も大いにあるから、
そのときに同じ空間で過ごそうと思うと、
それはコンフリックとして喧嘩になっちゃうかもしれないけど、
別に適切に距離を置けば、
それぞれで楽しく暮らすことはできるよねと思ってるので、
そういう状態を目指したいってことを尊重って言ってますね。

だから、理解できるできないと、
共存できるできないっていうのが多分またあるかなと思っていて、
今の話だから共存できるものは、
別に理解しなくても共存してればいいし、
共存できないものはゾーニングして、
自分と関係ないところで勝手にやってくれてればいいよね、
みたいな話が尊重されてる状態ってことですかね。

そうですね。広い意味でこの世界の中で共存できていさえすればいいじゃないか。
尊重しないってことは、
それを排除のための能動的なアクションを起こすことが、
逆側から見るとそれは尊重しないっていうこと。
もう考えを変えさせにいくとか、
そのそうであることを認めないっていうのが、
僕にとっての尊重しないっていう状態ですね。

なるほど。
だから、ゾーニング、排除っていうのは、
僕がその排除っていう言葉で思ったのは、

自分が見えないところに追いやる、追いやるって言うとあれですけど、
視界に入らないようにする。
視界に入らないようにする、みたいなことは排除なのかどうなのか。
どうですかね。
それはね、排除と思ってないんだよな。
世界を狭く捉えたら、自分の世界からを排除するって言えるかもしれないし、
ただ、この世界から何かを排除したいとは、
今のところ僕は積極的にそういう気持ちは持ってないって感じ。

みなさんどうですか?ピンときますか?

なんかそうですね。
この、やっぱりケアっていうのを繋げて考えちゃうんですけど、
この理解できない相手に対してもケアはできるかみたいな。

はいはい、おー面白い。

そういうふうに思ってて、
それが私は尊重するっていうことなのかなって思ってます。

それは僕の言ってるやつより、より尊重度合いの高い印象が受けました。

共感っていう意味のケアではなく、
もうちょっと物理的なケアだったりっていう感じですかね。

僕の思ってた尊重は、もうちょっとハードなやつで、
相手が自分と異なる思考を持っていて、
それを最大化したいと思っていたら、
それは極力最大化されるべきであるみたいな感覚を尊重っていうふうに、

僕は捉えていたんで。
共感と理解の関係

なるほど、こっちのエリアにも影響があるみたいなことですね。

影響があったとしても、可能な限りそれを受け入れるみたいな。
僕は理解できないものの中、
理解できる、理解できないとは別の軸で、
自分が快不快というか、受け入れたい、受け入れたくないみたいなことがあるわけだときの、
受け入れたくないものは、極力自分の視界から外側に行く。
それは自分が行くもそうだし、相手との間に壁を作るもそうだし、
自分が痛いところから出て行ってもらうもそうだし、みたいなことで、
極力自分が見える範囲の環境を整えたいみたいな方が強かったんで、
それは多分、共感もできない、理解もできないものを排除している、
尊重していないっていう振る舞いなのかっていうのを、
自分こそあれを見て思ったと思います。

確かに。
倫理のレイヤーでいうとそうなるんだけど、
例えば会社とかでいうと、
このメンバー構成だと会社のためのパフォーマンス最大化しないよねってなったら、
誰かが辞めるっていうのは建設的にあり得ると思うので、
それは多分、狭いスコープで目的関数があって、
目的関数に対する最大化のために誰かが出てくっていうのを、
僕はあんまり排除とは思ってないんだろうな。
それは会社の目的にあった人材配置をするぐらいの思ってるんだな。
だから僕が言ってる排除っていうのはもうちょっと倫理に近い領域の話なんでしょうね。
本当にこの世界から排除するっていうのは、
それは自分の中ではかなり強い確信を持って尊重していない状態と言えるんだと思います。

社会全体として迫害すべきだとか、商品差別対処にすべきだみたいなところまで行くのが排除ってことですね。

そうですね。なんで僕がそこに基準を引いてるかって思うと、
世の中の揉め事を見てると、
理解できないイコール排除っていうアクションを取ってるように見える人も多いからだと思います。
こんなこと言うやつは理解できないみたいな。
そっから先の積極的な考えを改めさせるべきだとか、
この国から出てってもらわなきゃいけないみたいまで踏み込んじゃってるケースもあるから、
そこの理解できないはいいとして、そっから先のどのぐらい強いアクションに出るかは、
もうちょっと選択肢があるよねって思ってたいんでしょうね。

なるほどね。
あと、あの図でもう一個僕がしっくりこなかったところが、
理解の内側に共感が入ってたじゃないですか。

はいはいはいはい。

共感できるけど理解できないことって存在しないんですか?

あんのかな、なんかどうなんだろう、例があったら。

共感と理解の縁が一致してるから、なんか、そもそも共感がよくわからない。
どっちがその外側の集合なのか、あるいはその集合として、

その内方喚起にあるのかっていうのが、よくピンときてないわと思ったんですよね。
理解と共感。
まあそうだね、今考えながら話すと、
自分もそう思うし、あなたもそう思うんだねを共感としたときに、
自分はそう思わないけど、あ、あなたはそう思うんだね、なるほどなるほど、
あ、そっかそっかっていうのが理解で、
自分はそう思わないし、あなたの説明聞いても何でそう思うのかがわかんないが、
なんか理解できてないっていう感じ。

なるほどなるほど。

なんかそんぐらいすごく育つに、セリフでまとめてみるとそんな感じ?

私は今、全然違うことを考えちゃったんですけど。

聞きたい。

言う前から笑ってる。
なんか理解して、共感、まず理解できたことって、
理解できて自分の感情が動いて共感するっていうのが多分私のパターンが、
共感するパターンとして多いんで。
理解の先に共感がある。
そうですね。
そうすると理解が先になって、
共感はしたふりができるから外にも行き、

アウトプットとしては図が逆転することもあり得るなって。
だからあの図が、同心円の図が現実をうまく表してない可能性ありますよね。

今のがあれですよね、たぶんじゅんぼくさんが言っているのが、
自分の中の世界の共感の話で、ひなさんが言っているのが、
外から見た共感の話だって気はしていて。

そうですね。
なるほど。

で、たぶん僕とひなさんが、もしかしたらじゅんぼくさんも、
そもそも中の共感がよくわかっていないから、
外から見た共感に当たらフォーカスしてしまうみたいなのが、

バイアスとしてありそうだなって思いました。
でもたぶん、自分一人の目線で暮らしているときは、
外からの共感って、たぶんあんまり意識することがないんですよ。

そうなんですね。

ただ、僕が今回ね、共感が何なのかわからなくなってきたって言ったきっかけも、
このTeacher's Visionのコミュニティの中にあって、
それは、なんかでも普通にいつものように雑談したときに、
私、共感力が高すぎて、あるとき相手が感じてないことまで感じてたんですっていう話を聞いたときに、
共感ってなんだっけってなったんですよね。

そう、だからさっきのあれ、共感しているけど、
理解していないみたいな状態があるみたいなことですよね、今のってたぶん。

相手が感じてないことをこっちが感じてるときに、
でも共感って共に感じるって書くから、
こっちが勝手に感じてることは、それも共感をはみ出してるんじゃない?みたいなことを初めて思って、
その日から迷子になってね、思えば遠くに来たもんだ。

遠くに来ましたね。だいぶ遠くに来ましたね、そういう意味ではね。

どうなんだ、わかんないけど。

そしてそろそろ1時間ぐらい経つんで、
締めていったほうがいいかなと思いつつ、
特に結論はないんで、締めようもないし、まとめようもないんですけど。

僕さっきお二人の話聞いたときに図を1個書いてみたんですよ。
ちょっともう流れちゃったけど、12時25分にチャット欄に貼りました。

ちょっと後であれですね、リストのところにも貼ってみましょう。

これはピンクと青で、
ちょっと四小言っぽく整理を試みた図です。
左から刺激がきますと、
共感のプロセス

刺激に対して最初に、頭で反応する、
頭が先に出て、この刺激自分処理しますねっていう人と、
心が前に出て、この刺激、心チームで処理しますねっていう。
これがどっちがどんぐらい前に出るかが、人によって違いそうだなと思って。

確かに、分かりやすい気がする。

今喋ってる3人は、刺激が外部から来たときに、
頭チームが、これ今処理しますねって言って、処理にピンポンってなったら、
頭チームが前に出てっていう感じがする。
これは普通に100、0じゃなくて、90、10とか50、50とかいろいろあると思います。
その後に受け取ったやつを、今度身体反応だったりで、出力すると思うんですよね。
出力行動が、こういうことですねって、論理の方で出力する文と、
感情で、そんなことあったの?みたいにする感情全開ボリュームでやるので、
これも100の中に50、50でやるときもあれば、淡々とやるっていう100、0みたいなときもあるし、
一緒になって泣くみたいな、5、95みたいなのもありそうで、
入力処理と出力の組み合わせで、いろいろなパターンがありそう。

確かに、分かりやすい。
僕は多分、インプットも頭99、出力も論理99で多分すごい寄ってるから、
人の気持ちがわからないみたいによく言われるってことですね。

で、世の中で怖いって言われるのは、多分、刺激を頭で完全に処理してるのに、
感情100みたいな応答もできる人が怖いって言われるんじゃないかなっていう。

騙そうとしてる人みたいなふうに見えたり、実際そうだったりする感じですよね、多分。

そうそう、多分、詐欺師とかはそれができるんだと思うんです。
結婚詐欺、ロマンス詐欺ですか、今の言い方と。
完全に頭で処理して、ここでこの人はこういうことをこういう調子で言われたいはずだって、
完全にロジックで理解した上で、感情がこもって聞こえるように言葉に出せるとかって人は、
なんかそのパターンだと思うんですよね。
だから、上下でルート通る人が、もしかしたらサイコパスとかソシオパスとか言われがちなのかなとか、
上上で行く人は、なんかこの人理性的な人だなみたいに思われがちで、
下下で行く人は、なんかこの人情緒豊かだなみたいな評価になってる気がする。

確かに。今のせいですごいすっきりしました、僕は。

なんか私でも、自分で最初に刺激を頭で受けてる感覚あんまりなくて。

心で受けてる。面白い。

だからそれを間に、頭が絶対入る。

ああいうふうにね。

面白い。
心が頭にパスするんですね。

そうですね。だから多分言語化に時間かかるんですよ。

ああ、なるほど。
言語化というか、主に出力全般、時間かかるんですよ。
だから瞬発力がないってすごいよく言うんですけど。

面白い。

かつここで大事なのは、刺激の種類によっては、
心の急所をつかれる刺激の種類とかが僕にはある。
だからこういう種類のときは、頭の前に心がもうバーンと反応しちゃって、
どうしようもなくなっちゃうとかがありますね。
だから、ひなさんの場合は、まず一流系が心で。

そうそう、一流。

伝う技術を。

そこを頭で整理して、出力するみたいな。

出力はさっきので言うと、感情を乗せるのが不得意なときもあるみたいな話してましたよね。
共感の哲学的考察

寄り添うのが。

そこで、たぶんすごい自分の経験とリンクする部分があったりだとか、
想像力で相手の巣を完璧に吐けるっていう状態に慣れたときは、

たぶん感情も引き出せるんですけど、

全然出てこないと思う。

心がパスして頭を受け取るときと、心のこぼれ玉を頭が受け取るときがありそうですね、それ。

ありそう。
あと二重系の頭が、過去事例調べますねって言って、
ありました、ありました、ありました、これです、ありがとう、これでバッチリいい反応するわっていうときと、
ちょっと過去事例ないんで、なんかちょっとうまいことやってもらえますかねって言って、

なんかぎこちなく対応したパターンがある。
結構面白い。
僕とヒナさんが割と似てるねみたいな話が結構多かったと思うんですけど、

最後なんか明確に違うところが見つかって面白かったですね。

でも結構女性と男性の傾向もやっぱり若干ありそう。

ありそう、ありそう。

生物学的な、なんかこの図で見てそれぞれ係数とかをつけると、
自分こんぐらいかなみたいなのが少し見えるかもしれなくて、
で、僕は、なんかわかんない、自分のもう心が収まらなくてどうしようもないってなったことが人生何回かあって、
それは、僕の弟がなんかよくわかんない理由で親に怒られてるときは、
もう心がその刺激に飛びついちゃって、
身体反応としても感情のまま、それがもうなんか体が震えたり出るっていう感じなんで、
やっぱり刺激の種類によるんですよね。
妻の話聞いてるときはだいたいうえうえで処理してますね。

白と円も竹縄ですが、あれですね。
たぶん無限に続くんでね、ここで一回締めましょうかね。

たぶんそう。何話したかも覚えてないし。

面白かったです。
なんかね、たまには確かにこういう哲学対話みたいなのを村の人同士でやる村音会があってもいいなって今日話してて思いました。
共感の重要性

確かに意外と反応良かったなと思いました。
お二人と楽しく話せれば満足して帰れるなと思ってきたんですけど、
もうちょっと皆さんが参加してくれたので、より大きな満足があります。

チャット欄もすごい盛り上がりましたね。ありがとうございます。

ありがとうございます。

じゃあ一旦締めますね。

はい。

じゃあありがとうございました。

ありがとうございました。

ありがとうございました。