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#25 他者貢献がステキな「利己」へと直結する3つの理由。残酷な世界に抗う、本気の綺麗事【共同体感覚⑤】
2026-09-19 25:12

#25 他者貢献がステキな「利己」へと直結する3つの理由。残酷な世界に抗う、本気の綺麗事【共同体感覚⑤】

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📝 今回のあらすじ・ハイライト

「利己的な個性」をバッサリ切り捨てるアドラー / 他者への貢献が「最高の利己」に直結する3つの理由 / フィジカル激弱な人類のガチ生存戦略 / 自分の能力を限界突破させる「利他」という起爆剤 / “やりがい搾取”の正体と、劣等感を鎮める究極のメンタルケア / ゴリマッチョな理想論の裏に隠された「圧倒的な優しさ」 / 完璧な人間などいない?アドラーがあっさり上げた白旗 / 科学が突きつける残酷な現実『共有地の悲劇』 / 底辺に沈むギバーと、トップに立つギバー / 幸せホルモン「オキシトシン」の厄介な裏の顔 / 生物学的な限界を押し広げる「美しきフィクション」の力 / 残酷な世界に抗う、本気の綺麗事 / 次回:人間の「目的」を解き明かす、目的論の幕開け


■ パーソナリティ:あつくてゆるい(あつゆる)

アドラーを実践して10年以上。教育現場に身を置きつつ、アカデミックな哲学研究とカウンセリングの修行を重ねてきました。

✔︎ X (旧Twitter):⁠⁠あつくて ゆるい|読書|アドラー心理学ラジオ⁠

✔︎ note: ⁠あつくてゆるい|アドラー心理学ラジオ⁠

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サマリー

アドラー心理学における、利己と他者貢献の両立が語られる。協力が人類の生存戦略であること、他者のために動くことが能力を伸ばすこと、貢献感が劣等感を鎮めることの3つの根拠が示される。さらに、アドラーの壮大な理想が弱い立場の人への優しさと人間への信頼に支えられていたことが、公開カウンセリングの例とともに説明される。後半では、共有地の悲劇、ギバーの成功と疲弊、オキシトシンの内集団びいきが取り上げられ、想像力や理念によって共同体の境界を広げる可能性が論じられる。最後に、共同体感覚を理念として捉え、人間の目的追求性と目的論へ次回つなげる。

利己と他者貢献を両立させる三つの根拠
アドラー心理学ラジオ。この番組では、お手軽な自己啓発として消費されがちなアドラー心理学を、
哲学、カウンセリング、そして科学の視点から深振りし、本物の知性として語り直していきます。
お相手のあつくてゆるいです。 前回は、自分の個性を発揮することと他者に貢献すること、
一見バラバラなこれら2つがどうやって両立するのか、その仕組みを見てきました。
ここまでの話を聞いて、なるほど、自分の個性が他者への貢献とストレートに繋がっていくなら、
確かにそれは素晴らしいことだよね、と思われたかもしれません。 でも同時にこんな疑問が湧いてきませんか?
じゃあ他者に一切貢献しない利己的な個性はダメなの? 他者とウィンウィンにならない。他者のことを全く気にしない。
ただただ自分の利益を突き詰めるような利己的な個性は、アドラー心理学では否定されるのでしょうか?
結論から言うと、自分の利益、つまり利己だけに基づいた自分らしさとか個性を、アドラーはこんなふうに辛辣に批判しています。
まず自分自身の利益を守ることや、自分自身の個性を強化することを学ぶべき人がいるのではないか。
私はこの考え方は偽りの問題であり、大きな間違いだと信じている。 もし私たちが貢献という目標を持たずに真空の中で個性を発達させようとするならば、
私たちは単に他者に対して支配的で不愉快な人間になるだけである。 個性と貢献は完全に一致するんだというアドラーの主張の裏側には、
自分の利益を追求する利己と他者へと貢献する利多は同時に達成できるはずだという人間に対する圧倒的な信頼感があったわけです。
でもちょっと待ってください。 利己と利多は両立するって聞こえはいいけど、さすがに脳内お花畑過ぎないでしょうか。
経済学の大前提には、人間は自分の利益を最大化するために合理的に行動する生き物だというホモエコノミクスという考え方があります。
人間はそんなに単純じゃないという批判はあるにせよ、一つの学問の土台になるくらい人は利己的だという見方は根強いわけです。
現実社会を見渡しても正直な人が割り送って、容量よくズル賢く立ち回る人がタワマンの最上階でバスローブ着て赤ワイン揺らしてるみたいな光景いくらでもありますよね。
本当に利己と利多は両立するのか。 この問いに対してアドラーは単なる精神論じゃなくて彼なりに根拠を持って答えています。
アドラーは手を変え品を変えいろんなことを言っているんですが、ここではざっくり3つの根拠に整理してお話しします。
一つ目の根拠はこれまでもお話してきた種として人間はフィジカルが激弱だったという話です。
牙もない足も遅いおまけに赤ん坊としては何年も自立できないくらい圧倒的に無力。
だから他者のために動く、つまり利多的に協力し合うことは道徳で習うような美しい話である前にそうしないと死ぬからというガチの生存戦略として合理的だった。
これがアドラーの出発点です。 確かに自己中心的なジャイアンみたいな人って短期的には美味しい思いをしても結局周りから人がさーっと引いていって孤立して長期的には積んでしまうことが多いので一理あるなとは思います。
ただ裏を返すと一期一会の短期的な関係ならサクッと裏切って相手のお財布だけ抜き取ってダッシュで逃げた方がコスパ最強ということもあり得ますよね。
もっと言うと生存戦略として人間は利多的に協力し合うのが合理的にできているのだとしたら、じゃあなんで歴史上戦争とか略奪、
ジェノサイドのような残酷な奪い合いが絶え間なく起きるのかというどでかい矛盾にもぶつかってしまう。
えっ、じゃあ人間のリコと利多の境界って本当のところどうなっているんだろうという面白そうな問いが浮かび上がってきます。
この深い問いにはまた後から戻ってくるとして、まずはアドラオリジナルの議論に集中したいと思います。
他者貢献が能力と自己効力感を高める仕組み
続いて、リコと利多は両立する根拠2つ目。
それはズバリ、誰かのために動くことが自分の能力を爆発させるための最強の起爆剤になるという話です。
ライフタスクの話をした時に軽く触れたんですが、アドラーはこんな言葉を残しています。
貢献という目標に全ての感情が向けられているならば、人は自然と自分自身を最高の状態に持っていかざるを得なくなる。
これをリコと利多という言葉を使って言い換えると、他者に貢献するという利多的な目的がある時にこそ、人は自分の能力をとことん鍛え上げていく。
利多を考えることが結果として自分の能力を限界突破させる究極のリコに繋がるという、まるで少年漫画のような激アツな話なんです。
これ、スポーツとかバンドやオーケストラみたいなチームプレイを想像してもらうとわかりやすいと思います。
チームのためにという利多が、大抵の場合そのまま自分のパフォーマンスをぶち上げること、つまり利好にも直結しますよね。
私自身、大学時代にケイオンサークルでギターを弾いていたんですが、めちゃくちゃ上手いドラマーの先輩と一緒にバンドを組んだ時、
その先輩のえげつないグルーヴになんとか合わせよう、バンドの音に貢献しようと必死に食らいついていったんです。
そうやって白目を向きながらもがいているうちに、あれ?俺なんか今めっちゃギター上手くない?って、
明らかに自分の実力以上の謎のゾーンに引き上げてもらった感覚がありました。 他者との共同の中で揉まれたり、他者のためにという利多のベクトルの上でこそ、
自分の能力という利好も最大化されていく。 これは以前お話した拡張された心の話とも繋がります。
自分と他者ってそんなに切っ張り切り離せるものじゃない。 自分が元気に仕事に行けるのも家族のサポートのおかげだし、逆に自分が家族を支えている部分もある。
もちろん世間にあまた存在するブラックなケースを除いてではありますが、 他者のために動いて、社会の中に自分の居場所を確保することは、
巡り巡って自分の能力をバチバチに伸ばすという最大の利好にも繋がる。 そういう理想的な瞬間は確かにあるわけです。
アドラーのいうライフタスクって今言ったようなチームプレイのイメージです。 広い意味で見れば家族も会社ももっと言えば社会全体もある種の巨大なチームプレイ。
その中で他者のために動き、時にぶつかって摩擦を起こす中で自分だけのバキバキの個性が仕上がっていくと考えるんですね。
さらにリコとリタは両立する根拠3つ目。 それは自分を満たす最強の方法は他者に貢献することだというメンタル面のお話です。
アドラーはこんな風に語ります。
絶えず私たちを駆り立てる劣等感から逃れる唯一の救済は共同体への貢献から生まれる自分には価値があるという感覚である。
私たちは誰もが自分はまだ足りないんじゃないかという劣等感を心のどこかで抱えています。 この劣等感から来る落ち着かなさを鎮めるために必死にお金持ちを目指してみたり
資格のコレクターになってみたり、謎の自己啓発セミナーに運10万課金してしまったりしがちです。
でもアドラーに言わせればそんなことをしても本当の救いにはなりません。 劣等感を鎮めてくれる唯一の道、それが自分は誰かの役に立っているという貢献感なんだというわけです。
よく企業の採用ページで若手社員のインタビューを見ると、やりがいを感じる瞬間は?という質問に対して高確率で、お客様からありがとうと言われた時です。
って書いてあります。もうあれ採用ページのテンプレ回答ですけど結構真理をついているんです。
人から感謝されて自分は役に立っていると感じた瞬間、人間は自己効力感が爆上がりして、
あ、自分はここにいてもいいんだと存在意義を強烈に実感できる。 これがあまりにも気持ち良すぎるせいで時に悪用されてやりがい搾取なんて恐ろしい言葉が出てくるくらいです。
でも裏を返せばそれくらい他社への貢献とか感謝されることって、人間の脳をバグらせて無限の原動力にしてしまうような、とんでもないパワーを秘めているわけです。
さてここまでリコとリタが両立する根拠を3つ見てきました。 協力しないと野生の世界で即死しちゃうからという生存戦略。
誰かのために動くことで自分の限界を突破できるという能力ブースト。 そして他社への貢献感こそが心をずっと咳き立てる劣等感を落ち着かせてくれるという究極のメンタルケア。
こうした切り口からドラは、自分だけが得をするようなリコ的な成功なんてそもそも成功とは呼べない。 他社を巻き込みながら共に前に進むこと自体が成功の定義なんだと結論づけます。
ただ他社への貢献ばかりを叫び続けると全体の中で個人が押し殺される全体主義に陥る危険が出てくる。
そこで貢献する先を会社とか国家みたいな境界線のある閉じた全体ではなくて、常に外側へと広がっていく開かれた全体性に設定する。
そうして自分が一番輝ける自分なりのリタをフルスイングで追求していく。 確かに理想的には聞こえますが、
アドラーは最大のリコを発揮して世界に関わることがそのまま最大のリタになっていくような世界をこうして目指したわけです。
アドラーの理想と弱い人への優しさ
さて、アドラーの考える個性と貢献、リコとリタをセットで考える理由、なんとなく納得いただけましたでしょうか?
とはいえここまでのアドラー哲学って聞こえようによっちゃめちゃくちゃマッチョですよね。 他社に貢献しろ。
でも社会に埋没するな。 嫌われる勇気を持って個性爆発だ。
ちょっと待ってくれと、コチトラ毎日満員電車に揺られてライフはもうゼロだというのに、そんなゴリゴリの体育会計みたいなことを言われたらプロテイン吐きそうになります。
でもここで絶対に忘れてはいけないそもそもの話があるんです。 アドラーの思想って確かにスケールがでかいです。
でも彼が実際に日々向き合っていたのはキラキラした起業家でもトップアスリートでもない、日々の生活すらギリギリの貧しい労働者とか、
学校で問題扱いされて居場所を失った子供たちみたいな社会の中で弱い立場に置かれた人たちだったんです。
つまり彼の心理学は弱さを抱えた人間のために作られた回復の心理学なんです。 その証拠にゴリマッチョに見えるアドラーがこんな拍子抜けするようなことを言っています。
この世の誰一人として完璧な協力や完璧な共同体感覚の模範として確立される存在はいない。
あんなに壮大な理想を語り散らかしておきながら、でもまあ誰一人完璧にはできないんだけどねってあっさり白旗を挙げちゃうアドラー。
でもこれ矛盾しているわけじゃないんです。 アドラーにとって共同体感覚とは平和とか正義と同じようなもの。
つまり人間のリアルな感覚であると同時に目指すべき理想であり理念なんです。 世の中には世界平和って大きな理念を叫びながら、目の前の意見が合わない人を
SNSでボコボコに叩いている人結構いますよね。 理念はでかいのに目の前の一人には冷たい。
でもアドラーは違いました。 完璧な共同体感覚というどうせたどり着けない遠い理想の星を指差しながら、同時に目の前の不器用な人たちにめちゃくちゃ優しかったんです。
高すぎる理想と不器用な人への優しさ、これらがなぜ両立すると思いますか?
それはアドラーが人間は誰一人例外なく共同体感覚の方向へと歩いていけるはずだと本気で信じていたからです。
世界平和を叫んで他人を叩く人は本当のところ人間のことを信じていません。 だから意見が合わないとこいつはダメだとすぐ見切りをつける。
でもアドラーは人間という生き物はいつか必ず分かり合えるし協力し合えるということをただの夢物語じゃなくてガチで信じていたんです。
目の前で学校に行けなくなっている子供とか飛行に走っている若者を見てもこいつにはもう無理だなんて見限りません。
お前の中にも絶対にその力が眠っているはずだと信じているからこそ目の前のたった一人にどこまでも根気よく寄り添い続けることができた。
つまりでかい理想と目の前の人への優しさをつないでいたのはアドラーの人間への圧倒的な信頼だったんです。
私アドラーが行った公開カウンセリングの記録を読書会で読んでいるんですがまさにこれを字で言っています。
例えば学習や行動にかなり強い特性がある子。今なら学習障害とかADHDみたいな診断名がついてこの子は普通に社会でやっていくのは難しいよねと周りの大人が見限ってしまいそうなケースです。
それでもアドラーはノータイムでいやいやこの子はものすごく賢い子だ。ただちょっとシャツのボタンを掛け違えているだけ。この子は自分の力で生きていけると言い切るんです。
あまりのポジティブさにさすがにそれはと苦笑いしちゃう時もあるんですがこれこそが彼の真骨頂なんです。
だからこそ皆さんにお伝えしたいのはアドラーの共同体感覚とかリコとリタを一致させる生き方みたいなスケールの大きなメッセージだけを聞いて
自分にはハードル高すぎる重すぎるなんてプレッシャーを感じてほしくはないということ。
彼は確かに理想を掲げはしますがでもそれを安全なタワマンの最上階からオラはもっと社会に貢献しろとトップダウンで正論を押し付けたりはしませんでした。
むしろ一番弱っている人の隣にドカーッと座り大丈夫君にも必ずできるよと背中をさすり続けた人だったんです。
科学から見る利己と利他の境界
リコとリタは一致するというアドラーの主張はある程度納得感はあるものの究極的にはアドラーの掲げたフィクション、平和とか正義と同じ理想的な状態なんだという話でした。
実際は人間にはリタ的なところもあればリコ的なところもあって社会にはめちゃくちゃリコ的な人も混ざっていて
リタとリコがバチッと一致する瞬間もあればリタを強調しすぎると損をしてしまう場面もあるというのが現実的な結論だと思います。
とした時にこのリコとリタの境界って本当のところどうなっているんだろうって気になりませんか?
実はこのリコとリタってずっと科学でも研究されているテーマなんです。
例えば1968年に生物学者のギャレットハーディンが発表した共有地の悲劇という有名なモデルがあります。
みんなで使う共有の牧草地で全員が自分の羊だけ腹いっぱい草を食べさせようとリコ的に振る舞うとあっという間に草が食いつくされてハゲ山になり結局全員が破滅するというお話です。
一人一人の自分だけ得したいという行動が結果的に全体をぶっ壊す。
これアドラの協力しないと詰むぞという主張を見事に裏打ちしているような話です。
あと読まれた方もいるかもしれませんが、組織心理学者アダム・グラントのギブアンドテイクという有名な本があります。
人間を奪う人テイカー。
孫徳のバランスを取る人マッチャー。
惜しみなく与える人ギバーの3タイプに分けて誰が一番成功するかを調べてみた。
するとダントツで一番成果を出すのはなんとギバーだった。
ほらやっぱりアドラの言う通り貢献が最強じゃんって思いますよね。
でも面白いのはここからで、実は成果が上がらず組織の中で割り送って疲弊している人たちの中にも圧倒的にギバーが多かったんです。
つまりテイカーやマッチャーは大抵真ん中に集まる。
でもギバーだけは成果が一番良いグループにも逆に一番悪いグループにも両方に偏って現れる。
見事なまでに両極端なんですね。
何が違うかというと他者を思いながらも自分自身も大切にするアダリッシュギバーは成功して自分を犠牲にしてまで与え続けてしまうセルフレスギバーは人に都合よく利用されてパシリーになってしまう。
貢献は大事かもしれないけど闇雲に貢献すればいいという話でもないというのがここでも見えてきます。
そして極めつけにこれめっちゃ面白いなと思ったのがオキシトシンの科学的知見なんです。
愛情や絆を深める幸せホルモンとして有名なオキシトシン。
子供を抱っこしたりペットを撫でたりした時にドバドバ出るあの愛のホルモンですね。
これ確かに身内への信頼や愛情を爆上げしてくれる素晴らしい働きがあるんですが、実はちょっと厄介な裏の顔もあるらしいんです。
ある実験で参加者に実際にオキシトシンを投与して身内の人間とよそ者の人間どちらかを選ばなきゃいけないみたいな特殊な状況に置いてみたそうです。
するとオキシトシンを投与された人ほど身内はめっちゃ大事、それに比べてよそ者はどうでもいいやと身内とよそ者を区別する線引きがよりくっきりと強まってしまったんです。
オキシトシンが身内への悲意気を強めるあまり、その裏返しとしてよそ者への評価がちょっと冷たく厳しくなってしまうことがある。
研究者の中にはこれが民族間の対立とか、内輪意識の強い集団同士の衝突の土台になっていると指摘する人もいるくらいなんです。
つまり私たちの人間の脳みそって生物学的には人類皆兄弟ラブ&ピースみたいに無条件で世界中の人を愛せるようにはそもそもデザインされていないんです。
じゃあ私たちは一生小さな村社会の中で身内だけで固まって他の村と争うしかないのか。
想像力で共同体の境界を広げる
ここで私シンプルに腑に落ちたんです。
本能のレベルでは境界線の内側にある小さな身内しか愛せないようにできている。
だからこそ開かれた全体性のフィクションが大事なんだと。
愛すべき対象が外へ外へと再現なく広がっていくイメージ。
仏教の慈悲の瞑想なんかもすごく似ています。
まずは自分自身、次に親しい人、そこから見知らぬ人、苦手な人、最終的には生きとし生けるものすべてが幸せでありますようにと願う。
あれもまさに思いやりを向ける範囲を段階的にじわじわと押し広げていく実践です。
私たちの本能は放っておくとすごく狭い範囲しか愛せないようにロックがかかっている。
でも私たち人間には想像力とか物語という強大なフィクションの力があります。
そのフィクションの力を借りることでどこまでが身内かという境界線を意識的に広げていく。
あるいはその境界線自体を取っ払っていくことでより平和な状態を目指していける。
実はこれ心理学の世界でもちゃんと実証されていて
共通ない集団アイデンティティモデルっていうちょっとダンディーな名前の理論なんですが
要はバチバチに対立している2つのグループに対して
いやいやもっと大きな枠組みで見たらあなたたち同じ一つのチームですよって身内の定義をガラッと描き直してあげるんです。
するとあんなにがみ合っていたのに途端に対立が和らぐそうなんですね。
どうでしょうか。リコとリタの境界って調べれば調べるほどめちゃくちゃ刺激的だし現代的なテーマじゃないでしょうか。
というわけで今回の哲学編で共同体感覚をしっかり掘り終わった後
科学編パート2としてこのテーマを科学の視点からさらにゴリゴリ深掘りしていきます。
ぜひそちらも楽しみにしておいてください。
アドラのリコとリタは両立するという主張も共同体感覚もそれなりに根拠はありそうなものの
彼が掲げた理想としての側面もあったということ。
なんだ所詮奇麗事なのかって幻滅する方もいるかもしれません。
でも平和だって正義だって全部奇麗事です。
そしてその奇麗事を本気で掲げる人がいなかったら世界って多分今よりずっと酷い場所になっていたはず。
哲学の世界ではこういう目指すべき理想の姿のことを理念と呼びます。
共同体感覚って現実的な感覚であると同時に私たちが目指すべき理念としても語られていたわけなんです。
こんなふうに人間は遠くにある理想とか目標に向かって進んでいく普遍的な性質目的追求性がある。
ここにアドラー心理学のこれまた重要な柱の一つ目的論の姿が見えてきました。
というわけで次回からはこの人間が持つ目的追求性目的論の話から改めて共同体感覚への道のりを歩んでいきましょう。
この番組では皆さんからのお便りを募集しております。
概要欄のリンクからご感想やご質問などどしどし送ってください。
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アドラー心理学ラジオ第25回お聞きいただきありがとうございました。
お相手は熱くてゆるいでした。
25:12

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