アドラー心理学ラジオ。この番組では、お手軽な自己啓発として消費されがちなアドラー心理学を、
哲学、カウンセリング、そして科学の視点から深掘りし、本物の知性として語り直していきます。
お相手の熱くてゆるいです。
ここまでアドラー哲学の要、共同体感覚を探求してきましたが、
逃れられないライフタスクに協力する、相手にベクトルを向けて共感する、とかそんな話ばかり、
他者への関心、協力、共感、いや大事なのはわかるけどさ、なんかそればっかり言われると息苦しくない?
自分はどうなるの?一度きりの人生を自分らしく自由にいきたいんだけどって思いませんか?
アドラーは一度きりの自分の人生とか個性をどのように捉えていたのか?
集団の中で個人が埋没してすり減っていく危うさを彼はどう乗り越えようとしたのか?
こと共同という永遠のテーマについてアドラーのアンサーを見ていきましょう。
私この番組で特に深い意味もなくアドラーの言葉を関西弁で喋ってきました。
特にここ数回は、協力性、他者にベクトル無限界、みたいな厚苦しい言葉ばかり連呼してきたせいか、
もはや私の中でアドラー先生は偉大な心理学者というより、
完全にお盆の親戚の集まりでビール片手に絡んでくる関西のおっちゃんになりつつあります。
例えるなら、アリサンマークの引っ越し者のCMの赤井秀一さんか、南の帝王の万田銀次郎のイメージ。
今にも画面から飛び出してきて、「我共同体感覚もだんかい!」って借金取り立てられそうな勢いです。
でもね、このおっちゃん、協力とか共同体感覚のような令和の若者に
ちょっと重たいんでパスで、と即劣されそうな昭和スポコンライクな話をする一方で、
お前だけの個性を大爆発させんかい!ってことも、メガホン片手にめちゃくちゃ厚く語っているんです。
というわけで今回は、小訳関西弁アドラーの言葉と題しまして、
アドラーが個人や個性についてどんなことを語っているのかを厚く紹介していきます。
まずはアドラーが好きな言葉、個人の一回性とかユニークネスについて。
我らが人間をみんな同じ肩にはみようとしとるやて?
アホ抜かせ!真逆やがな。人生は一回こっきりや。
一人一人抱えとる目標も人生の悩みも全部オンリーワンやね。
もう一発いきます。
聞いてみ?全く同じ葉っぱなんか2枚とないやろ?
人間も一緒や。育った環境も感じる刺激もやらかす失敗も数え切れへんほどあるんやから。
全く同じ人間なんか絶対に、絶対にありえへんのや。
素人の私が見たら葉っぱに例えられてもほぼ一緒じゃんって全く共感できませんが、
でもアドラーはとにかく一人一人唯一無二の存在だと捉えていた。
だから最近流行りの某診断のようにサクッと16個の箱に仕分けして満足することは絶対にしません。
診断編で私自身をケースにライフスタイル診断を実演しましたが、
あれも子供の頃の家族構成とか印象に残っている記憶なんかを丁寧に紐解いていきました。
これめちゃくちゃ時間かかりますし、全くお手軽じゃないからなかなか流行らないと思うんですが、
これも人をテンプレには押し込まず、その人の超オリジナルな人生の脚本にどこまでも変態的に深く向き合おうとするからなんです。
そんな子を大事にするアドラが強調するのが創造性、クリエイティビティです。
アドラには、個人が生まれた瞬間からクリエイターなんだという人間感があります。
絵か、人間中のは描かれた絵であると同時にそれを描いとる画家そのものやね。
親とか環境に勝手に色を塗られとるんとちゃうぞ。
自分という作品はな、自分自身で筆握って描いとんねん。
人間は描かれた絵であると同時にそれを自分で描いている画家なんだというめっちゃいいメタファーです。
親がちゃんに失敗したから真っ黒に塗られましたじゃないんです。
過去に描いてきた絵が今のあなたであり、今この瞬間もああでもない、こうでもないと筆を動かし続けている。
ただアドラはこの直後に照れ隠しみたいにこんな風に付け加えています。
せやけどな、その画家は別に天才でも達人でもないんや。
自分の心も体のこともわかりきってん。むしろ弱っちくてしょっちゅう線はみ出したり色間違えたりするめっちゃ不完全な人間なんやで。
小さい頃から必死に人生という名のキャンバスを描いてきたわけですが、当然子供の未熟な視点とスキルですから、
あ、ここユセマッキーで極太に描いちゃった、とか変な色混ぜて沼みたいな色になった、なんてミスだって当然ある。
それが今の生きづらさとか苦しさにつながっているというのがライフスタイルの話。
でもだからこそ自分で描いた絵なんだからいつだって自分の手で描き直せるというおっちゃんからの愛のこもったエールなんです。
続いてそんな一度きりのクリエイティブな私たちはそれぞれ独自の目標とか目的を持って生きているんだよというメッセージ。
生きとし生けるもんはな、みーんな成功に向かって走っとるんや。生きることを敗北に向けさせることなんかできへん。
せやけどな、何が成功なんか、その具体的な目標の意味は一人一人完全にユニークや。
これがいわゆる目的論の話。次の次くらいから詳しくやってきますが、何を持って成功とするかは完全に自由。
目標は多様であるべきで誰かに決められるものではありません。
そして最後アドラー自身が作った個人心理学に対してもこんな風に釘を刺しています。
ワイはルールなんかに縛られへんで、全部全然ちゃう可能性もあるチューノがワイの原則や。
個人の一回こっきりの人生、短い公式なんかで表せるかい。
だからな、一般的な法則チューノはワイが作ったこの個人心理学の法則もやで、たった一人のアンタを見つけるための補助戦でしかないんや。
これめっちゃロックじゃないですか。自ら人生かけて作った理論ですら、これはあくまで補助戦だ。
相手の姿が見えにくくなるくらいならそんなもん消しゴムで消してまえ、と平気で言っちゃう。
これがアドラー心理学が有用なフィクションの一つに過ぎないというあの話です。
アドラー信者になって全てをその物差しで測ろうとしなくていい、いやむしろ測っちゃダメなんです。
これ、前回の共感の話とまさに繋がります。
相手にレッテルを貼ったり自分の色眼鏡で見たりするんじゃない。
そうじゃなくて相手の目で見て、相手の耳で聞き、相手の心で感じる。
そもそもアドラーが創設した心理学は社会心理学でも集団心理学でもありません。
インディビジュアルサイコロジー、個人心理学です。
実際アドラーの書いた本を読んでも、社会がどうあるべきかなんて話はほとんどなくて、
それよりもずっと多くのページが目の前のたった一人のクライアントにどう向き合うかに裂かれています。
共同体とか人類の幸福とかやたらスケールのでかい宇宙規模の言葉を連発する人なのに、
実際にやっていることはとことん目の前のあなたへの息がかかるほどの憎白。
アドラーは自分を押し殺してみんなで仲良く手をつないでお遊戯しましょう。
なんていう道徳の教科書みたいな息苦しい話をしているわけじゃないとちょっと安心していただけましたか。
とはいえその個性を大爆発させろってやつと協力や貢献をしろって、
実際問題アクセルとブレーキ同時に踏んでるようなものじゃないですか。
両方言うのは簡単だけど、それをどうやって共存させようとしたんですかって話です。
実はこのこと集団のデスマッチ、アドラーの1000倍特許じゃありません。
人類がウホウホ言いながら集団生活を始めて以来何千年も擦られ続けているテーマなんです。
例えば2500年くらい前、古代中国でもこの対立はバッチリ起きていました。
皆さんも歴史の授業で儒教とか老僧思想って聞いたことがないでしょうか。
儒教っていうのは神とか霊を重んじる教え。
超ざっくり言うと思いやりとかマナーを極めて社会の立派な一員になろうぜというゴリゴリの体育会系思想です。
対する老僧思想は無意自然を説く教え。
社会のルールとかマジ息苦しいんで、ワイラは森の中でチルっぽく自然体で生きるわっていうヒッピーみたいなノリです。
この体育会系vsヒッピーの構図もまさに社会のルールと個人の自由、つまりこと集団の葛藤がバチバチに火花を散らした結果なんです。
もはや皆さん記憶の彼方かもしれませんが、この番組の第一回ラストに狭き尾根道っていうマルティンブーバーの渋いメタファーを紹介しました。
プロの登山家が登るような山の頂上に続く道って両端がスパッと切り立った崖になっている細い尾根道になっていることがあります。
右か左かどちらかに踏み外した瞬間真っ逆さまに転落してしまう。
葛藤の言うこと共同もまさにこの綱渡り。
どっちかに極端に振り切った瞬間、鈴木正幸バリに違うそうじゃないって突っ込まれる仕様になっています。
実際さっきまで個性を爆発させんかいと熱く語っていた葛藤、平気な顔でこんなことを言っているんです。
人生を生きるということの意味、それは仲間の人たちに関心を持ち、
全体の一部となり、そして人類の幸福のために自らの持ち分を貢献することにほかならない。
個性爆発からの突然の全体の一部、もはやおっちゃん、ちょうちょ不安定すぎて二重人格疑うレベルです。
しかも、全体の部分として生きるというこの言葉、聞いた瞬間にちょっと身構えませんか?
個人が集団に飲み込まれていくようなすごく危うい響きです。
でも、今日持ち帰ってもらいたいのはこの全体って言葉のトリックなんです。
アドラーはこの全体を英語でthe wholeと書いていますが、
哲学界隈ではこの全体が閉じた全体なのか、それとも開かれた全体性なのかという地雷チェックのような区別があるんです。
まずはわかりやすい閉じた全体からいきましょう。
閉じた全体って要するにバリケードがある全体のことです。
国境船とか株式会社〇〇みたいな一つの組織。
うちはずっとまだから。
と、内輪とよそ者をはっきりぶった切っている集団とか枠組み、これが閉じた全体です。
でも、アドラーが全体の一部になれや、という時、このバリケードの中って意味では1ミリも使っていません。
壁もなければゴールテープもない。
常に外へ外へと広がり続けていくもの。
これが開かれた全体性です。
その証拠にアドラーは共同体感覚がどう育っていくかをこのように説明しています。
共同体感覚は生まれてすぐ、周りの大人たちとの関わりから始まる。
自分の家族だけでなく、一族、国家、そしてついには全人類にまで及んでいく。
さらにこの境界を越えて、動物、植物、無生物、そして最終的には宇宙全体にまで関心が向かうこともあり得る。
相変わらず急にSF映画みたいなスケールになって、「おっちゃん大丈夫?」と心配になりますが、
要は自分の推しの対象が外へ外へと再現なく広がっていくイメージを持ってもらえたら十分です。
最初はママ推しから始まって、パパ、ジージ、バーバ、お友達、ご近所さんと推しが増えていく。
そのうち会ったこともない被災地の人たちとか、遠い国の木が、「なんなら絶滅危惧種のパンダを守れ!」と動物にまで愛の対象が広がっていく。
そうやって果ては宇宙にまでたどり着くわけですが、宇宙って今この瞬間も膨張し続けているじゃないですか。
つまり、「はいここから先は立ち入り禁止ね!」っていうフェンスがない。
よっしゃ全部愛したぜ!と思った瞬間にさらに愛すべき外側が現れる。
これがアドラの言う開かれた全体性という果てしない沼の感覚です。
さてここでみんな大嫌いな貢献という言葉にリターンします。
この閉じた全体と開かれた全体性の違いが負に落ちると、ブラック企業の社長が叫ぶ、「我が社に貢献しろ!」とアドラの、「全体性へと貢献せよ!」が、月とすっぽんくらい違うことに気付くはずです。
閉じた全体への貢献って、一歩間違えるとすでにあるマニュアルとか社訓に黙って従えっていう、ただの服従になりがちなんです。
会社への貢献とか国への貢献とか、そういう枠の中だと、「上司のグラスが空いたらぴょうで注ぐのが正解!」みたいなテンプレ化された謎ルールが生まれやすくなります。
そうやって空気を読んでいるうちに、個人の尖った個性は金太郎雨のように同じ顔になるまでカンナで削られていってしまう、なんて悲劇が起きがち。
貢献って息苦しいわ、と私たちが白目になる原因は、100%この閉じた全体をイメージさせられているからです。
でも、開かれた全体性への貢献はルールが全く違います。
アドラは私たちが目指すべき共同体を、人類が完全なる目標へと到達したときに考えることができるような、永遠に適用できるものとみなさなければならないと表現しています。
要するに、現時点ではこの世に影も形もない、まだ見ぬ理想郷のこと、完成図面なんて誰も持っていません。
一人一人が、これが私の理想だとオリジナルの目標を掲げて、自分だけの獣道を切り開いていくしかないんです。
で、マニュアルがない以上、そこでの貢献は必然的に個性むき出しにならざるを得ません。
個性を殺して反抗を押すだけの機会になるどころか、むしろあなただけの強烈な個性こそが道なきジャングルをバッサバッサと切り開いていく最強のサバイバルナイフになるわけです。
裏を返せば、閉じた全体はレールに乗っていればいい分、ぬるま湯みたいに快適です。
でもその代償に私たちは自分で考える力も個性の爆発もまとめて手荷物検査で没収されるんですね。
一方開かれた全体性はその真逆です。正解もレールもなくて毎日ハゲそうになりますが、さらちだからこそ個性を遠慮なくぶちまけられる。
だからおっちゃんの個性大爆発と全体への貢献という一見情緒不安定な二つのセリフは実は見事に繋がっているわけです。
アドラーが求めていたのは既存の歯車になることなんかじゃない、誰も見たことのない未来への癖が強すぎる貢献だったということ。