しかもそんな中、運悪くケチャップのディスペンサー、ケチャップをピューって出すやつの目のところが詰まってしまったんです。
それを見た店長、完全にキャパオーバーで大噴火しまして、私に向かってこう叫んだんです。
お前!こんな59円のハンバーガー20個作ってもたった1000円ちょっとしかならんのになんでこんなことせないかんねん!
いや知らんがな。値段設定したのは俺ちゃうし、文句があるなら日本Mドナルドの社長に行ってくれよって話じゃないですか。
で私もカチンと来て、やってられるかとそのままエプロン叩きつけてバイトを辞めました。
いやー若気のいたりですよね。でも私のこの理不尽な目上の人とぶつかるという自爆パターン、高校生では終わりません。
さらに痛いのは大学時代に行ったフィリピン語学留学でのエピソードです。
その語学学校表向きは現地のフィリピン人講師たちを大切にしています。
お給料も相場より高いですよっていう絵に描いたようなホワイト企業アピールをしていました。
ところが滞在しているうちにひょんなことから、あれ実は先生たちの給料めちゃくちゃ安く買い叩かれてるんじゃないのかという疑惑を抱いてしまったんです。
いや今となってはそれが事実だったのかどうか全く定かじゃありません。
でも当時の私は若かった。私の中で謎の正義感に完全に火がついてしまったんです。
不誠実なオーナーに失望したと一人で勝手にブチ切れて、せっかく高いお金と時間をかけて英語を学びに行ったのに予定を大幅に切り上げて日本に帰国してしまったんです。
いや今振り返るとお前一体何様なんだよって話で思い出すだけで穴に入りたくなる黒歴史の一つです。
でもこれ笑い事では全くなくて理不尽を押し付けてくる相手を見つけると自分の身を削ってでも反旗を翻すという同じ運動パターンをその後もそれこそ社会人になっても何度も何度も再放送し続けるんです。
さて私のこの恥ずかしいエピソード皆さんはどう思いましたか?
不器用だなぁと笑っていただいたかもしれませんが、これ実は皆さんの日常にもお決まりのやらかしパターンがきっと潜んでいるはずです。
いつもダメな人に引っかかってお世話をしちゃう。期待されるとわざと失敗して逃げ出しちゃう。
うまくいかないことがあるともういい大人なはずなのにみんなの前でもつい涙がこぼれちゃう。
なぜ私たちは人生という舞台で役者やセットが変わっても同じようなパターンを繰り返し演じてしまうのでしょうか?
それは私たち一人一人の心の中に世界はこういうものだ、私はこう生きるべきだという自分専用の人生のルールブックがあるからだとアドラー心理学では考えます。
そしてその心の中のルールブックこそがライフスタイル。
そんなアドラー心理学の超重要概念ライフスタイルとは一体何なのかさらに詳しく見ていきましょう。
さてこのライフスタイルという言葉をこれから息を吐くように使っていきたいので皆さんにもしっかりと理解してほしいんですけれども
ライフスタイルと聞くと皆さんはきっと休日の朝は少し早起きしてバルコニーでアサイーボールを食べながらヨガをする
といった雑誌東京カレンダーに出てくる港区女子の休日みたいなおしゃれな生活の仕方を思い浮かべることでしょう。
でももちろんアドラー心理学におけるライフスタイルはこういう一般的な意味とは違います。
ライフスタイルを手っ取り早く説明するときにはよく性格のことですよなんて言われるんですが私としては安易に性格という言葉で片付けてほしくないんです。
なぜなら性格というとどうしても生まれつき決まっていて一生変えられないイメージがありませんか。
例えば他人のちょっと理解できない部分を見たときにまああの人はああいう性格だからねと勝手にレッテルを張ってそれ以上歩み寄るのを諦めてしまったり
あるいは自分自身に対しても私は昔からひっこみじやんな性格だからとその言葉を重しにして新しい一歩を踏み出すのをやめてしまったり
性格という言葉をミトコウモンの陰謀のようにバーンと出して
この生まれつきの性格が目に入らぬかと自分や他人の可能性をそこで強制終了させてしまう。
でもアドラは人間をそんな固定化されたものとは見ません。
国際個人心理学会の会長でありアドラーユニバーシティの教授でもあるマリーナ・ブルフシテイン博士の言葉を借りると
ライフスタイルは動詞である。
つまり人間を私はこういう性格だという固定された名詞として分類するのではなく
私は今こうやって生きている、こう動いているという現在進行形の動詞として捉えるんです。
だから私たちが性格と呼んで諦めているものも決して変えられないものではない。
例えるならあなたがこれまでの人生という荒波を何とか乗りこなすために
転びながら身につけた独自のサーフィンのフォームみたいなものです。
フォームなら後からいくらでも修正できますよね。
というわけでライフスタイルという抽象的な概念をあえて一般的な言葉に寄せるのならば
性格というより一人一人の個性の方が近いのかなと私は思っています。
私たちは日々の経験から物が動くときの物理法則を感覚的に知っていますよね。
例えばボールを投げるとき、重さ、角度、勢いがわかればそれがどんな軌道を描いてどこに落ちるのかだいたい予想がつきます。
人間の心もこれと全く同じです。
その人独自のライフスタイルという法則さえわかれば、過去から現在までの軌道はもちろん、この先の未来どこへ着地するのか。
極端な話、この先どう自爆していくかまでがまるで予言のように見通せてしまうんです。
これが運動法則の切り口から見たライフスタイルです。
そしてライフスタイルを読み解く二つ目の切り口が、自分や世界をどう見ているか、つまり認知の癖です。
ここで前回までお話してきたフィクショナリズムがバチッと繋がってきます。
私たちはよく客観的に見てって言いますよね。
でもアドラーに言わせれば客観的な事実なんてものはこの世に存在しません。
なぜなら私たちはありのままの現実を裸眼で見ているわけではないからです。
私たちは誰しも心の中に自分専用のフィクションという名の分厚い色眼鏡をかけています。
そしてその内なる色眼鏡を通して世界を見るからこそ、目の前に広がる現実もまた勝手に色付けされたフィクションになってしまうんです。
例えば気になる相手にLINEを送って丸一日既読スルーされたとします。
ここで起きたのは既読がついて返信がないというただの現象に過ぎません。
でも心の中の色眼鏡を通してみると頭の中で再生される物語は人によって全く違います。
ある人は仕事が忙しくて返す暇がないんだなという物語を再生するかもしれません。
またある人は私何か気にされることを送ったかなという悲劇の物語を。
そして別のある人は既読つけているのに返さないなんて私を舐めているのかと怒りの物語を作り上げる。
これ怖いのはこのフィクションの色眼鏡が眼球にへばりついたコンタクトレンズみたいになっていることです。
自分がそんな色のレンズを入れていることに自分自身が全く気づいていないんですね。
さてここまで運動法則と認知の癖2つの切り口からライフスタイルを見てきました。
でも実はこれ別々のものではなくてセットになって連動しているんです。
これ車の運転に例えるとすごく分かりやすいのですが、
例えば前の車が異常に遅いという事実があった時、
こいつ俺を舐めてるなという異界のフィクションを再生するからアクセルを踏み込んで煽り運転をするという運動が生まれます。
逆に全く同じ事実に対してきっと教習所を出たばかりで今助手席のお父さんにめちゃくちゃ怒られながら運転しているんだろうな。