そうした科学的な裏付けのある深い心の傷を、「それ、今の自分の目的のために言い訳的に使っているだけですよ?」で片付けてしまうのは、
いくらなんでもちょっと乱暴というか、冷たすぎるんじゃないかと。
あるいは、悩みは全て対人関係という言葉、これについてもずっと引っかかっていることがありました。
例えば受験のプレッシャーで無意識に自分の髪の毛を抜く癖が出ちゃったり、爪をボロボロになるまで噛んでしまう子がいたとします。
で、その子は受験が終わった途端にピタッとその癖をやめたりするんです。
これって冷静に観察すると、誰かに何かを訴えかけているというより、自分のキャパシティを超えた抱えきれないストレスを体が勝手に外へ逃がそうとしている。
いわばガス抜きや自己沈静に近い身体反応である場合が多いんですよね。
でも、これをアドラー心理学のセオリーにのっとって、あらゆる行動には目的があり、必ず相手役がいるはずだ、と気真面目に考えるとどうなるか。
まるで取り調べ室のベテラン刑事のように、
問い詰めることになってしまう。
もちろん親をはじめとした周囲との関係性を整えることで、そうした行為が落ち着くケースもあるとは思います。
でも、何でもかんでもアドラー警察のように取り締まるのはあまり意味がないのでは?
私自身アドラーを学んでいると、本当に100%全ての現実に当てはまるの?という疑問がどうしても拭えなかったんです。
それは私たちが無意識に学問というものに対して絶対的な真理を求めてしまうからだと思うのですが、
実はアドラーは最初からそんな重たいものは目指していないんです。
じゃあ何なのか?その答えが今回の本題である虚構主義・フィクショナリズムという考え方です。
なおここから先は、虚構主義・フィクショナリズムと毎回両方を言うと私が舌を噛みそうなので、
フィクショナリズムという呼び方で統一していきます。
フィクショナリズムとは、アドラーと同時代を生きた哲学者ハンス・ファイヒンガーが提唱した思想です。
一言で言えば、私たちが生きているこの世界は物理的な真実ではなく、
人間が頭の中で作り出した実体のない嘘、フィクションによって回っているという考え方です。
例えば、世界地図の真ん中にある赤道、あれは真実でしょうか?
というのは、もし船に乗ってその赤道の位置まで行ったとして、
海の上にここから南半球と書かれた紅白の極太ロープがぷかぷか浮いているでしょうか?
もし浮いていたら、間違いなくタンカーのスクリューに絡まって大惨事です。
物理的に言えば、赤道なんてこの世のどこにも存在しません。
宇宙から見ても地球に線なんて一本も引かれていない。
あれは人間が広すぎる海や空で迷子にならないために勝手に引いた補助船、つまりフィクションに過ぎないんです。
でも私たちがあたかもそこに赤道があるかのように振る舞うことで、
船は迷わず進み、飛行機は安全に目的地に着くことができる。
実際に存在するわけではない架空のものだけど、私たちの現実生活にめちゃくちゃ役立っているわけです。
他にも教育現場やスポーツでよく使われる、やればできるという言葉があります。
これ厳密な科学的事実として見れば嘘ですよね。
人間には明確に遺伝的な能力の差があるし、環境の差もある。
どれだけ頑張っても限界があることなんて大人ならみんなうすうす気づいています。
でもだからといって目の前の子供に、
君には才能がないし、実家の太さも違うからやっても無駄だよ、
という冷酷な事実を突きつけたらどうなるでしょう。
私たちは絶望して一歩も動けなくなってしまうかもしれません。
やればできるという言葉は客観的な真実ではないかもしれないけれど、
そのフィクションを信じることで人は励まされ、
本来持っている以上のパワーを引き出すことができるんです。
歴史学者のユヴァルノア・ハラリがサピエンス前史で指摘したのもまさにこの点です。
お金、国家、人権、これらは物理的にはどこにも存在しない虚構に過ぎません。
ですが、この虚構を共有する力を身に付けたからこそ、
ホモサピエンス、つまり我々人類は赤の他人とも大規模に協力することができ、これだけ発展できた。
これもまさにフィクショナリズムの底力です。
ファイヒンガーは自身の思想をアズイフ、あたかもの哲学と呼びました。
それが客観的な真実かどうかに執着するのではなく、
あたかもそうであるかのように振る舞うことで現実をよりよく動かしていく。
その便利な嘘こそが私たちが迷わず生きていくための羅針盤なんだと。
そしてこのあたかもの哲学、フィクショナリズムこそがアドラー心理学の大前提にもなっているんです。
アドラーは1912年の著作の中でこう書き残しています。
ファイヒンガーのあたかもの哲学を知ることができたのは幸運だった。
アドラーは私が臨床の現場からすでに知っていた考え方が科学的な思考としても妥当なものとして提示されているのを見出した。
現場で積み上げてきた臨床の勘が確固たる知性として一本の芯が通った瞬間だったんでしょうね。
そこからアドラーはこのフィクショナリズムという土台に持ち前の鋭い観察眼を掛け合わせ、
人間をどう捉え、世界をどう解釈すれば人はより幸せに力強く生きられるかをとことん追求したんです。
そうやって組み上げられた極めて実用的なフィクションの体系、それこそが私たちが学んでいるアドラー心理学の正体です。
トラウマは存在しない。これもまた100%正しい宇宙の真理を語っているわけではありません。
過去という変えられない原因に固執するより、人はいつだって自分が選んだ目的に向かって進めるんだというフィクションを採用した方が遥かに生きる力が湧いてくる。
これだって人生を動かすための極めて実用的なものの見方に過ぎないんです。
また全ての悩みや対人関係であるというレンズも同じです。
これを通すと驚くほど世界がクリアに見えることが多い。
例えば子供が不適切な行動を取ったとき、相手役は誰か、目的は何か、そんな問いを立てるだけでいかにその子に対応すべきか、その解決の糸口が見えてきたり、
あるいは大人同士のドロドロとした争いも、これは相手を屈服させたい権力争いだな、相手役はあの人だ、と捉えることで複雑に見えた状況がすっきり整理される。
人間の不可解な行動や心理を読み解く分析ツールとして最強の部類に属していると私は思っています。
でも、だからといって全ての現象に無理やり相手役を設定する必要はありません。
アドラー心理学のセオリーを全方位に適用して、銃箱の隅を突いては論破してみたり、逆に当てはまらないケースを見つけて、
なんだ使えないじゃないかと幻滅したり、そんな風に自分を理論で縛り付ける必要はどこにもないんです。
大事なのはこのレンズで捉えてみたら解決の糸口が見えてくるかもな、というあくまで有用なツールの一つとして使いこなすこと。
自分が幸せに力強く生きていくための最高の嘘を自ら選び取っていく。
嘘に騙されるのではなく、自らの意思で嘘を使いこなす。
それがフィクショナリズムという思想の一番の凄みです。
アドラー心理学のノリ、それは厳密で正確かどうかという科学のノリではなく、人生を豊かにしてくれるならOKというフィクションのノリです。
これ、冒頭でお話ししたバンドメイドのお球児とカラクリは完全に共通しています。
大の大人がメイド服を着て、鳩になりきって来るぽーと言い、屈強なおじさまたちが満面の笑みで、萌え萌えキュンキュンと絶叫する。