日本イエスキリスト教団の諸教会の敬愛する先生方、 また愛する信徒の皆様方、おはようございます。
今日はこのように、小城久保栄光教会からの配信として、 教団の合同礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝しています。
教団の創立は、1951年の7月20日でしたから、 75年を数えることになりました。
多くの先生方、また諸生徒によって、 今日の恵みがあることを、心から感謝しております。
皆さん方、お一人ひとりの教会の歩みにも、 戦いや困難がありますけれども、
しかし私たちは、今、教団にあって一つであり、 この時代に主の十字架の師匠によって救いをいただいている私たちが一つにされて、
そして、主の戦いを進めていく。
そのことを覚えさせていただきながら、 この礼拝が神の愛と力と命に満ちたものとなりますように、 祈って備えてまいりました。
では短くお祈りをいたします。
あなた方もこのキリストにあって、共に築き上げられ、 御霊によって神の御住まいとなるのですと、
恵み深い天の父なる神様、皆をあがめて感謝をいたします。
今日は、教団の合同礼拝として、数えますと50近い教会でしょうか。
神様、主にこの礼拝に共に扱っています恵みをありがとうございます。
私たちはそれぞれ遠く離れておりますけれども、
しかし、主にあって一つであること、 精霊によって一つであること、
信仰によって一つであること、
いつも思いながら共に祈り合う群れであることを 心から感謝いたします。
神様どうぞ、今日もあなたの恵みを私たちのうちに 豊かに注いでくださって、
そして、あなたの御元からの新しい愛みを、
それぞれのところから進めていくことができますように 導いてください。
語りますものは、ともしい小さな器ですけれども、
あなたの御手の中にお隠しくださって、
そして、あなたの御心御胸を豊かに 表してくださいますようにお願いいたします。
感謝して、イエス様のお名前によって お祈りをお捧げいたします。
先週20日火曜日から23日金曜日まで、
岡山で教団の牧師研修会が開かれていました。
私が教団委員長の任命を受けて、4年目となりました。
残り半年を切っています。
第一声として皆様にお伝えしたことは、
それは、教団が30年以上、40年にわたって 教制・財政も低下してきていたこと、
教団全体が高齢化し、次世代への継承も 難しくなってきていること。
そのことは様々な形で示されてきてはいましたけれども、
皆さんに年次報告は常に送っておりましたので、
それをすぐさに見ていただくとわかることでありましたけれども、
しかし、公に語られたことはありませんでした。
まず、そのことを伝えし、また申し訳ありませんでしたとお詫びもし、
今の現状をお話しすることから始めました。
私たちはまず、今立っている場所から始めなければならないことを、
本当に改めて覚えます。
私たちの意識も、また教団の形も、
変えていかなければならないということを話し始めています。
具体的な改革、この3年半、4年目を迎えています。
改革の話は長くなりますから、やめておきますけれども、
様々な施策を講じてきました。
その中で、いつも思うことは、
私たちが変えていくべきものと、変えてはいけないもの、
それをしっかりと見極めていくこと、
それが何よりも大事であるということを、
いつも心に覚えてきました。
私たちが変えてならないものの代表は、私たちの信仰です。
私たちの信仰は、本当に今まで、
バックストンが1890年に日本にやってきていますから、
語られ始めて136年経ちますけれども、
語られてきた私たちの先祖の譲りを、
変えてはならないということ、
それはいつも私は深く覚えております。
私たちの信仰冷静が、どんな時代の中にあっても問われる、
逆気の時代だからこそ、私たちの信仰が問われている、
改めてそのことを考えさせられています。
今回の福祉研修会でも、3回メッセージが語られました。
説教者が申し合わせたわけではありませんけれども、
開会礼拝と続く夜の聖会では、
バックストンから学んだこと、教えられたこと、
そのことが説教者から語られました。
そして3回目の閉会礼拝では、
イエス様の十字架の贖いの血潮、
そのことが語られています。
私たちの信仰の土台の部分ですね。
イエス様の十字架の贖いの血潮が語られ、
和解ということが特にお話しくださっています。
和解ということが語られて、
その福祉研修会が閉じられていきましたけれども、
和解の第一番目の実が平和です。
神様にある和解の最初の実が平和です。
今日このところが開かれてきましたけれども、
エペソの手紙の2章の14節からが開かれてきましたけれども、
この最初のところで宣言されていることは、
実にキリストこそ私たちの平和です。
ですからその閉会メッセージを聞きながら、
改めて教団の合同礼拝につながる形で、
神様が導いてくださったということを、
私は改めて教えられています。
本当に不思議な導きを感じておりますが、
平和ということを共に聖書を通してさせていただきます。
私たちは人間の歴史にいき、
そしてまたこの人間の世界の中に暮らしています。
世界を見渡せば戦争は止みません。
紛争はあちらこちらで起こります。
テロも本当にたくさんの場所で起こっています。
争いやいさかいが絶えない。
戦争や隣人同士でも、人間関係でも、
さまざまな圧力だけではない、
そこには本当に時にはさまざまな恐ろしい事柄が
行われてしまうような、その時代の中に私たちは生きています。
人間とは平和からほど遠いと思う、嘆く思いがします。
しかし神様を見上げるなら、
実にキリストこそ私たちの平和ですと、
イエス様こそ私たちの平和の土台となってくださっているお方だと
聖書は語っています。
いや、聖書を通してみるならば、
既約聖書から、やがて来たるメシア、救い主は平和であると、
平和そのものであるお方であると、そのように予言されてきました。
イザヤの9章6節には、
一人の緑子が私たちのために生まれる、
一人の男の子が私たちに与えられる、
主権はその方にあり、
その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれると、
イエス様は平和の君として、
私たちの真ん中に来てくださいました。
イエス様がお生まれになった、あのクリスマスの夜、
ベテレヘムの野原に響いた天使の賛美を思い起こすことができます。
糸高きところで栄光が神にあるように、
地の上で平和が御心にかなう人々にあるようにと、
平和の君としてお出になったこのお方を心から祝い賛美する天使の歌声に、
土に地の上で平和が御心にかなう人々にあるようにと歌われています。
私たちは今の現状の中で平和という希望が遠くにあるかに思いますが、
しかしイエス様によってすでに平和はもたらされているということが、
この旧約の予言から、またクリスマスの出来事から教えられていきます。
イエス様はそのようにこの地上に来てくださいました。
平和ということは誰でも分かっていることですよね。
子供たちでも本当に喧嘩してはいけませんよとか、人とは仲良くしましょうとか教えられて、
本当に物心をついた時から教えられて育ってきました。
でもこの平和というものが床の間の掛け軸であれば何も力がないでしょう。
どんなに立派な書で書けられたとしても、書かれていたとしても、
床の間の掛け軸であれば力はありません。
あるいは世の中のように敵を滅ぼしてしまえと、
そうすれば平和が来ると思っている人も中にはあるということでしょう。
しかしそれらで平和が来るはずでもありません。
私たちは互いに憎しみや、あるいは傷つけ合うことを通して、
それはさらに増幅していく、増し加わっていく、
本当にそこに負の連鎖がある、循環があるということをいつも感じさせられます。
イエス様だけがこの世に誠の意味で平和をもたらしてくださるお方であると聖書は言っています。
それはイエス様は相手から何かを奪う方ではありません。
何かを壊す方でもありません。
相手にご自分を与えたお方、捧げてくださったお方、
だからこそ、このイエス・キリストを通して誠の平和はもたらされていきます。
イエス様だけが私たちの救いのために、ご自身を十字架につけて命を捧げてくださり、
血潮を流し尽くしてくださって、救いを成し遂げてくださいました。
16節に加わります。
16節の言葉には、私たちは二つのものを一つの体として、
15節から読みますと、半ばから読みます。
15節の半ばから。
こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に作り上げて平和を実現し、
二つのものを一つの体として、十字架によって神と和解させ、
敵を十字架によって滅ぼされました。
また、キリストは来て遠くにいたあなた方に平和を、
また近くにいた人々にも平和を、救いとして伝えられました。
このエパストの教会にあっては、これは、
日本人のクリシャンたちとユダヤ人のクリシャンたちという区別の中で語られているわけですけれども、
聖書はどの時代にも、すべての人にも語られています。
対立のあるところに、敵対があるところに、
二つのものが分かれているところに、
一つとしてくださるのがイエス様の働きだと、
イエス様はここで語ってくださっているわけです。
私たちはこのキリストによって、どんな敵対の深い敵対にあっても、
またどんなに圧力があったとしても、
そこに平和をもたらしてくださるお方であることを、聖書を通して教えられていくことができます。
そして、私たちはこの神様との和解をいただいて、
神様との平和をまずいただいているものであるということです。
この素晴らしい恵みを通して、私たちは和解の福音の使者となることができると、
第2コリントの5章の18節、19節で語られています。
第2コリントの5章の18節、19節のところに、聖書はこのように語っています。
これらのことはすべて神から出ています。
神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
さあ、神はキリストにあってこの世をご自分と和解させ、
その気の責任を人々に負わせず、和解の言葉を私たちに委ねられましたとあります。
今、私たちは皆様の救いを通して神様と和解をいただき、平和をいただき、
また私たちはこの神にある平和を告げ知らせる和解の福音の使者として使わされていくということを
聖書は私たちに語っています。
それはどんな場所にあったとしても和解をもたらすことのできる神様の平和です。
その神様の御心を私たちはここで知ることができます。
そして本当に今、私たちはさらにこの神との平和に生かされているものとして、
何がさらに神様の御心であるのかを見ていきますと、
エペサの手紙の2章の19節に帰っていきますが、
エペサの手紙の2章の19節。
こういうわけで、あなた方はもはや他国人でも既留者でもなく、
生徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
人たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、
キリストイエス御自身がその要の意思です。
このキリストにあって建物の全体が組み合わされて成長し、
主にある聖なる宮となります。
あなた方もこのキリストにあって共に築き上げられ、
御霊によって神の御住まいとなるのですと、このように語られています。
今、私たちは神の平和をいただいている。
それは私たちは救われた者として神の家族とされていくことを聖書は語っています。
そして神の家族としてキリストにあって私たちは一つである。
また私たちはキリストによってイエス様を土台として、
その建物を建て上げていく、神の宮を建て上げていく使命の中に生きるものだと、
さらに聖書は私たちに語っているわけです。
このイエス様が建たれたエルサレムの神殿も今はもうありません。
しかし今、私たちはお互いが一つとされて、主の救いによって一つとされて、
神の宮を建て上げていく使命が与えられているわけです。
私は今、荻窪栄光教会に使わされて、この教会にあって、この地にあって、
神の宮を建て上げていく使命が与えられています。
皆さんそれぞれの場所の教会に召されていて、その地にあって神の宮が建て上げられていく。
またその神の宮は決して分かれてバラバラに存在しているわけではなくして、
また命あるつながりの中に私たちは共に神の宮が建て上げられていく。
本当に不思議なことです。それは目に見えない神様の働きです。
目に見えるところで、私たちはもちろんこの教会にそれぞれに建物の中にあるわけですけれども、
しかし目に見えない形で私たちは今、兄弟姉妹方と一つにされている。
そしてまた体は離れていても、それぞれの今この教団の中にあって一つにされている。
そしてまたそれは今、主の救いに扱っている教団、教派を超えた全てのクリスチャンが一つにされて、
神の宮を建て上げていくというその共同の事業に当たらせていただいているということを改めて教えられていくことができます。
このところでさらにもう一箇所、聖書を開きますと、
コリントン寺院の手紙第1の12章の20から27節にはこうあります。
コリントン寺院の手紙の12章20節から27節です。
どうぞ聞いていただければ結構です。
少し長い箇所を引用しますけれども、しかし実際部分は多くあり、
身体は一つなのです。目が手に向かってあなたはいらないということはできないし、
足が頭に向かってあなた方はいらないということもできません。
それどころか身体の中で他より弱く見える部分が変えなくてはならないのです。
また私たちは身体の中で見栄えが他よりも劣っていると思う部分を見栄えを良くするもので覆います。
こうして見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。
神は劣ったところに見栄えを良くするものを与えて身体を組み合わせられました。
それは身体の中に分裂がなく、各部分が互いのために同じように配慮し合うためです。
一つの部分が苦しめば全ての部分が共に苦しむ。
一つの部分がたっとばれれば全ての部分が共に喜ばれるのです。
あなた方はキリストの身体であって一人一人はその部分です。
私たちは今キリストにあって結び合わされて一つの身体とされている。
その身体の中で弱い部分、劣っていると思える部分、それが大事なのですと聖書は私たちに語っています。
私たちの教団に今117の教会があります。
それぞれの戦いや痛みを覚えます。
僕死を遅れないでいる教会も20以上あります。
いつも痛みを覚えます。
本当に様々な戦いや困難があります。
経済的な困難もあれば、また本当に様々な戦いを耳にし、祈って祈らさせていただいております。
しかし、教団の中で大切なのは弱い部分、弱いと思える部分、劣っていると思える部分、
そこが大事であるということを聖書を照らして私たちは教えられていきます。
私も今この教会の僕死をさせていただいておりますが、28で卒業したときには開拓3年目の教会に使わされました。
教会員が5名です。私を入れて6名。
本当に教団で最も小さな教会に私は使わされました。
そこで本当に主の体を立て上げていくと、そのように思いながら働きを進めさせていただきました。
3年しかいることはできませんでしたけれども、3年目で教会員は10名を超えました。
礼拝も20名を超えていました。
本当にそんな中で主に使わせていただいて、開拓教会、本当に小さな教会の痛みを知っています。
そしてやがてその教会は閉鎖となりました。
閉鎖のように告げる使者として私はその教会に参りました。
そして地面にひれ伏してお祈りをしました。
私がかつて使えたその教会の場所で地面にひれ伏してお祈りをしました。
どうぞこの地にあるまた残された信徒たちをお守りください。
主の働きが前進しますようにと、そのことを祈って本当に私は帰ってきましたけれども、その痛みを知っています。
教団の歩みは本当に引きこももです。
4月には横田武之先生を県に送りました。
直近では八幡寺先生が当に投票されて県へと帰られました。
重篤なご病気の先生方は、現職の先生もインターンの先生方も本当に多くおられます。
しかしまた教会は、教団は進んでいきます。
高松新生教会は長く祈られてきましたが、新海道への移転がなされていきます。
串本教会もまた都に新しい場所へと移られることになりました。
串本教会は都に南海トラフ地震が来たら、一番最初に津波が押し寄せてくる。
もうそこは津波の都に飲み込まれてしまうような場所にありましたけれども、
次の場所は安全な場所に高台に設けられることになりました。
さまざまな教団の働きは進んでいます。
今年は新宿地区ではご教会の一方人化がなされています。
教師が少なくなっても、その働きが継続されていくように準備がなされています。
今年は教団の改革宣言も発行しました。
皆さんのお手元にこの改革宣言を配りましたけれども、
今回は信徒の皆さんが中心にこの文章を作っていただいています。
今までは教師が考えてきましたけれども、
信徒の皆さんに考えていただきながら、
この教団の中心とこれから改革の足掛かりとなる、土台となる改革宣言を作っていただきました。
細かなことは割愛しますけれども、
共にさまざまな働きを進めてきています。
どうぞ今私たちが立っているこの場所から、新しくまた始めていこうではないでしょうか。
私たちこそが神の平和をいただいているものとして、
和解の福音の使者として、
私たちは神の平和を、今この平和から遠い危機の時代の中で、
本当に私たちは使わされているわけです。
教団の117の教会が、本当にいつも共に祈り合いながら、
共に進んでいく、その働きがさらに前進していくことを心から願っております。
では以上で今日のお話をここまでといたします。
ではしばらくご一緒にお祈りをしましょう。