季節と体調に配慮する
本当に暑い季節に火薬もなってしまいました。
非常に体調が崩れやすい季節ですので、
礼拝のときは本当に無理なさらず、
しんどかったら自由に動いていただいていいですし、
後ろに水分もありますので、
にゅらく飲みながらお体を大事になさってください。
神様はそれぞれの体、それぞれの命を大事にされる方ですから、
そのことを心がけていただけたらと思います。
一言お祈りをいたします。
恵み深い愛する天の父なる神様、
とうとういみなを心から賛美をいたします。
今日も私たち一人一人を主の御前へと招き、
あなたを仰いで賛美をし、
礼拝ができます幸いを感謝をいたします。
あなたは私たち一人一人を心から愛し抜いてくださいました。
私たちが滅びるぐらいならと身代わりとして、
ご自身の命をあの十字架へと捧げてくださいました。
主のその命によって私は生きるものになったと賛美をいたしました。
改めて私たちに永遠の命を与え、
あなたと共に生きる新たな命が、
あなたのその命によって与えられたことを覚えて心から感謝をいたします。
そして永遠なる主、永遠に共におられる主が、
私たちと共に歩んでくださることをありがとうございます。
それぞれこの季節の中、弱さを覚える時がありますが、
あなたはいつも共にいてくださり、
永遠の身腕を持って倒れきることのないように支えてくださいます。
どうか教会の方々、お一人ひとりまた弱さを抱えるお一人ひとりと共にいてくださり、
あなたの支えの身手を述べてくださって、
どうかあなたの命を与え力を与えてくださいますようにお願いいたします。
ここに来たくても来れない方、施設におられる方、
後着で礼拝を守らざるを得ない方、お一人ひとりを慰めてくださって、
あなたが共におられることの平安を与えてくださり、
支えを与えてくださいますようにお願いいたします。
世界において様々な争いが、分裂が起きています。
ただ主よ、教会はそのために祈り、
また本当に世界に平和が築かれるとはどういうことなのか、
復讐を超えた行動
また御言葉から聞いていきたいと思います。
御言葉を開いてくださって、
あなたが私たちに知恵を与え、悟りを与えてくださり、
それに生きる勇気と力を与えてくださいますようにお願いいたします。
あなたの身手に委ねます御言葉を主がお開きください。
イエス様のお名前によってお祈りをします。
アーメン
三畳の説教を続けて見てきております。
三畳の説教といいますのは、これまで話してきましたが、
神様の新しい身技の告知だということを話してきました。
簡単に言えば、神様はイエス・キリストを通し、
この世界に新しい身技、新しい働きを始められたのですね。
それはいい言葉を変えれば、恵みの支配と言われます。
神様の恵みが表される場所は、こういうふうに世界が作り変えられるんだよと。
それが様々な領域ではこういうふうになっていくんだよということを語って、
これまでの三畳の説教で語ってきていました。
イエス様はそのような、神様の恵みがあふれる世界はこういう場所だから、
あなたたちも入っておいで。
そしてそこで一緒にその世界を築く、
まさに平和を作る使命を共に担おうと群衆たちを招いてきました。
三畳の説教というのはそういう説教ですね。
ただ、平和を作るとイエス様は言われるんです。
平和は自然になりたっていくというふうに聖書は理解をいたしません。
平和は作られなければならないものです。
だからこそそこには積極性であったり、参加していくということが含まれるわけですけれども、
まさに世界には平和が崩れているところがたくさんあるとイエス様はよくご存知なのですね。
人が互いに傷つけ合い、報復の連鎖が終わらない、
いや終わらせ方がわからない、そのようなところがあります。
ただイエス様はそのようなところでも、
いや平和を作る一歩を私たちは築き始められるんだよということを言われる。
今の戦争を見ていても思いますが、報復といいますのは連鎖をしてまいります。
そして私たちが忘れてはならないのは、傷つける人と傷つけられる人がいるんですが、
傷つける人もまた誰かから傷つけられたという連鎖の中に生きているわけですよね。
ただそういうことが続くと、もはや互いに相手が悪人にしか見えないということも起きてしまうわけですが、
大事なことは神様はその報復の連鎖にいる全ての人を愛しておられます。
そのことは忘れないでいたいと思うのです。
さて、そのような中でじゃあどのように報復の連鎖ではなくて平和を作っていけるのか、
まさにその知恵が示されているのが今朝の38節から42節というところになります。
少しこの箇所に目を止めながら、私たちは平和を作るってどうするんだろうということを一緒に考えたいと思うのです。
3つのポイントでお話をいたします。
まず第一のポイントは、悪いものに手向かうなとイエス様は言われるのです。
悪いものに手向かうな。
今日読んでいただいた38節に目を向けますと、こういうことを言われています。
目には目を、歯には歯をと言われていたのをあなた方は聞いていますと。
目には目を、歯には歯をと。
これは旧約聖書のレビキ・シンメイキ両方に出てくる言葉ですが、
ちょっとレビキの言葉だけ少し確認をしておきます。
開ける方だけで結構ですが、レビキ24章の19節から20節というところにこの言葉が書いてあります。
レビキ24章の19節から20節。
お読みしますと、こういう言葉ですね。24章の19節から。
人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならない。
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。
人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならないという言葉が定められています。
これは読み方によると結構物騒な気がしますが、この教えが定められた目的は何かというと、
報復がエスカレートしないようにということです。
私たちも覚えがあるかもしれません。私たち一発殴られたら二発殴り返したくなるんですよ。
体を傷つけられた分と俺の心が傷つけられた分みたいなね。
二発やりたくなる。そういうふうに実は人間は復習をするときにエスカレートしていくんです。
それが自然な思いとして出てくる。
小さなところから始まったものが本当に取り返しのつかない分裂になってしまうということがよくあることですけれども、
でもそうではない。やり返すならばやられた分までしかやり返しちゃダメですよということを立法は定めたわけです。
そういうふうに社会が回ったらいいわけですが、大概そういうふうには回らないわけですね。
やられた分だけやり返すということもできるかできないかということもあるでしょうし、
もしくはイエス様の参上の説教に戻りますと、参上の説教を聞いている人たちというのは社会的に弱い立場に追いやられた人ばかりです。
そういう人たちを苦しめるのはローマの兵隊であったり、権力のある宗教指導者たちであったりが苦しめるわけです。
そういう人たちが傷つけてくると、通常は報復できないんですよね。やり返すことなどできない。
ですから、そういう群衆にとって何か悪い人に悪いことをされたら、とれる選択肢はおそらく二つです。
リスクを覚悟で命がけて復讐するか、もしくは我慢して泣き寝入りするかどっちかですね。
けれども、そのような群衆に対してイエス様は、いや、平和を作るというのは、報復をしたいという思いに駆られた時に、その二つのどっちでもないんだよということを言われるんです。
まずイエス様がこの箇所で言われるのは、39節にイエス様は言われるんです。
しかし私はあなた方に言います。悪いものに手向かってはいけません。
手向かってはいけないということは何かというと、復讐するなということです。
いわば暴力をせいで返しても、暴力によって報復をするなということですね。
これは調べますと、様々な賠償金を支払えという主張も、それは取りやめろということみたいです。
いわば全く報復をするな。
じゃあ、かと言って、じゃあ何もせずに我慢して泣き寝入りをしろということを言っているのか、そうではない。
イエス様は明らかにここで行動しろと言っているんです。39節から41節のこの三つの話では、
イエス様はあなた方を報復するのではないし、泣き寝入りするのではない。
じゃあどうするのか、こういうふうに行動することによって平和を作りなさい。
39節から41節に三つの話が挙げられています。
ちょっと順に見ていきたいと思いますが、二つ目のポイントです。
抵抗するならこうしなさいとイエス様は言われるのです。
抵抗するならこうしなさい。
一つ目は39節です。
あなたの右の方を打つ者には左の方も向けなさい。
私たちはこの言葉をよく、完全な無抵抗を意味する言葉として理解することが多いです。
やられたらこうやって、ただ我慢しろということを言われているように理解しがちですが、
ちょっと細かく見ますと、この時代に右の方を打つというのは明確な意味があります。
それは侮辱です。
想像してみてください。
侮辱と尊厳の意味
相対するお互いがいて、だいたい右利きなんです。
そしたら右の方を打つというのはどういうふうに打つかというと、こうは打ちませんね。
こう打つんですよ。
相手の人の手の甲でこう打たれるということです。
これは何を意味するかというと、実際の暴力なんですが、
それ以上に、相手に対するこれは侮辱を意味するんですよ。
あなたは私よりも下の人間だ。
あなたは奴隷のような価値しかない。
あなたは人間ではない。
そのような人の攻撃がある。
これは体を傷つける以上に、その人の尊厳を傷つけるんですよ。
心を傷つけるんです。
人間にとってつらいのは心が傷つけられることですよね。
侮辱というのは余談ですが、人の心に深く残ります。
下側はすぐ忘れるんですけれども、された側はいつまでも忘れないというのは侮辱です。
ただ、それがなかなかすすがれる機会というのも我慢していたら持てない。
その時にイエス様はそれを我慢して終わらせるなと言われるんです。
じゃあどうするのか。
あなたの左の方をこうやって差し出しなさいと言っているんです。
左の方を差し出せって何を意味するのか。
単純にお前にこう打てと言っているんです。
俺左の方をあなたは手のひらで打ちなさいと言っているんです。
でもそれは何を意味するのか。
暴力には変わりません。
ただ、手のひらで打つというのは相手と自分を対等の立場に認めさせるということです。
私はあなたに奴隷として扱われる筋合いはない。
あなたに見下される筋合いはない。
あなたに侮辱される筋合いはない。
私とあなたは対等な人間だ。
それを認めろということで左の方を差し出すということです。
それを認めなさい。
あなたは対等であると主張しなさいと左の方を向けることによってそうしなさい。
これは明らか抵抗ですね。
でも暴力は使わない。
するとどうなるでしょうか。
相手を手の甲で打って当然、相手を見下して当然と思っていた人はその時に気づかされるんです。
ああ、俺は相手を自分と対等の立場で認めなければならない。
その時に相手は恥いらされるのではないでしょうか。
腹が立って平手で打ち返したとしてもそれはもはや対等の関係になった印でもあるのです。
その時に恐らく侮辱された人はほっぺたは痛みますが侮辱はすすがれるのだと思います。
イエス様の教えと法の理解
イエス様の前に一人一人は尊厳のある一人ですね。
いかなる理由であれそれを奪わせてはなりませんね。
そしてそれを侮辱していい理由はないわけです。
そしてこのように実はイエス様はそういう抵抗の方法を40、41節でも示すのです。
40節もお読みしますとこういうことですね。
あなたを酷素して下着を取ろうとする者には上着も取らせなさいと言われる。
これもそういう内容です。
下着というのは私たちの意識するような肌着ではないんですね。
昔の映画をご覧になられた方はイエス様の時代の貧しい人が上から下まで一枚布の服を着ていて、
それに軽く羽織っているみたいな格好を見ると思います。
あれは一枚布の服が下着なんです。
上に羽織っているのが上着なんです。
当時大体貧しい人はこれを一枚ずつしか持っていないんです。
上着というのは当時寝るときの毛布代わりになりましたから、
立法では借金の方で上着を取ったとしても夜寒くなるまでには返してあげなきゃいけないと言われるように、
人から上着を取っちゃいけないということが定められていたんです。
それはその人が寒さで惨めで夜を過ごさないように、その人の尊厳を守るためにですね。
でも立法はですから、上着を取っちゃいけないんだったら、いわんや下着も取っちゃいけないんですよ。
でもイエス様の時代、いやいやと、上着を取っちゃいけないんだったら、
お前の下着を肩で渡せというような横暴なそういう人がいたのかもしれませんね。
相手の下着を取ってもほんの一銭にしかならないんですが、
それでもそれまでも奪おうとする人があなたの前に退治した場合、
そのような強欲にとらわれた人があなたに退治した場合、あなたは下着も渡し、上着も渡してしまいなさい。
するとどうなるでしょうか。
それを受け取った側は立法違反をさせられるわけですよ。
そしてそれを見ている周りの人たちはその人を見て批判しますね。
こんなものまでこの貧しい人から取ろうとする。
なんて横暴な人間なんだ。
一目散にその人は自分の不正を恥いらされるわけですね。
三つ目も一緒です。四十一節。
あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
これも何を言っているのかと言いますと、
当時ローマの兵隊、イエス様の地域を支配しているローマの兵隊が支配している民に対して、
自分の武器や荷物を無条件で一ミリオン、1.5キロメートル運ばせることができるというルールがあったんです。
荷物重たいな、よしお前一ミリオン運べって言ったら、運ばせることができたんです。
ただ、ローマのルールって厳格でして、一ミリオン運ばせてもいいけれども、それ以上運ばせちゃいけないというルールがはっきりと定められているんです。
ここでイエス様は言われる。
まさにローマの兵隊から一ミリオン荷物を運べって言われたら、それは家畜のごとく運ばされるわけですが、
そうじゃない。あなたは二ミリオンあえて歩きなさい。
するとどうなるか。一ミリオンは相手の家畜のごとく働かされるわけですが、二ミリオン目は自発的に運んでるんですよ。
まさに同じ人間として彼と対等に渡り合っていく。
ローマの兵隊がむしろそれを止めに入るでしょうね。頼むからこれ以上運ばないでくれ。
しかし同じ人間として扱わせるということです。暴力を使わずに。
この三つのパターンというものは様々なパターンなんですけれども、共通していることはいくつかあります。
まず暴力には訴えないんです。剣には剣で返さない。
でも泣き寝入りをするのでもないんです。泣き寝入りをしない。
じゃあどうするのか。ここでやっているのは何かというと、自分の左の方を差し出す。
自分の上着を差し出す。余分に一ミリオンを働く労力を差し出す。
いわばこれは神様の恵みですね。与える。差し出す。
それによって相手にあなたのやっていることは不正であり、私とあなたは対等ですということを認めさせるということです。
それが抵抗ですね。これは相手を倒すことだけを目的とはしていないことが大事です。
私たちは相手が自分に不当なことをしたら、相手を滅ぼすために何かするわけですよ。
けれども倒すことを目的とはしていない。むしろ毅然とした態度で暴力によらず、相手にその不正に向き合わせる。
あなたのやっていることに私は傷ついている。あなたがやっていることはおかしい。
そのことに向き合わせ、その相手が恥いらせる。でも恥いらせることは大事なんです。恥いることによって自分の過ちは気づかされるんです。
そのことによって悔い改めの機会になるかもしれない、忘れてはならないことは、神様を傷つける人も、傷つけられる人も悔い改め、死のもとへと招きたいということです。
イエス様の生き方と実践
まさに恵みの支配の中で、そういうことが起きるようにと願っておられる。
42節はまさに如実にそういうことです。
求める者には与えなさい。借りようとする者には背を向けてはいけない。与え与え与え。
私たちはこの歌詞をそういうふうに読むときに、イエス様そんな無茶なと思いますね。
ただ三つ目のポイントは、イエス様もそのように生きたということです。
39節から41節を今見てきましたが、これはお気づきでしょう。
これは十字架に進まれたイエス様がすべて体験されたことですね。
イエス様は捕らえられ、唾をかけられ、拳で殴られ、平手で打たれたということが、
マタイの福音書の26節、26章の67から68というところに書いてあります。十字架の場面です。
イエス様は十字架の下で兵隊たちに衣を奪われたということも書かれてあります。
イエス様は十字架の丸太を背負わされてゴロゴダへと進んで行かれた。
すべてイエス様が本来は受けるはずではなかったことを、全部イエス様はそれを受けられた。
イエス様ご自身が頬を打たれ、衣を奪われ、1ミリ音以上歩かされたのです。
しかし、イエス様はそれに暴力ではお答えにならなかった。
イエス様は無力だったのでしょうか。そうではありません。
一箇所だけちょっとご一緒に見たいのは、マタイの福音書の26章の52節から54節というところをちょっとお読みしたいと思います。
マタイの福音書の26章の52節から54節というところ。
これは兵隊たちがイエス様を捕らえに来て、イエス様を守ろうと弟子が剣を抜いて抵抗したその場面ですが、
マタイの福音書の26章の52節から54節というところをお読みいたします。
その時イエスは彼に言われた。
剣をもとに納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びます。
平和への道
それとも私が父にお願いして十二軍団よりも多くの御使いを今すぐ私の配下に置いていただくことができないと思うのですか。
しかし、それではこうならなければならないと書いてある聖書がどのようにして成就するのでしょう。
剣を取る者は皆剣で滅びます。
イエス様は力が終わりでした。
しかしそれを取ってしまったら聖書はどうやって成就するのか。
暴力による報復というのは終わりを知りません。
力というのは片方の正義を実現することは可能です。
しかしいくらそれを繰り返しても平和を作るところにはつながってはいかない。
そういう時に私たちは今の世界を見てもそう思うかもしれませんが、
まさにイエス・キリストの生き方を見て平和を作る知恵を学びなさいと招かれる。
そしてイエス様に習いなさいと招かれるのですね。
時に私たちの前には侮辱をする人が現れます。
何か腹立っているんだなぁと思いながら見る時がありますが、
そういう人が現れる時があります。
いろんなものを奪いながら、それは忘れて平気に生きている人はいるでしょう。
覆うべきでない思いに人に覆わせて平然としている人というのはいます。
私たちにはそういう人たちが悪い人にしか見えない。
そういうこともあるでしょう。
そして私たちはどちらかの道を考えがちなんです。
やり返すか我慢するか。
しかしそれはどちらも平和へとは繋がってはいないのではないでしょうか。
私たちは互いに神様に創造された尊い存在です。
そしてイエス様はこの二つの道ではない道を私たちに今朝迫られる。
あなたの右の方を打つ者には左の方を向けなさい。
やり返すでもない。私が我慢すればいいでもない。
左の方を差し出す勇気を持ちなさいと招かれる。
実に勇気がいることです。
けれども私たちは麻痺してしまってはならない。
あなたを傷つける人も傷つけられるあなたも、もしくはその逆もあるかもしれませんが、
相手と私は対等です。
その尊厳が何によっても傷つけられていいわけがない。
神の前に尊い一人を平然と傷つけられていいわけがない。
そのことをやるときにまさに相手は恥いらされる。
そして私も罪があったな、私も問題があったなということに気づかされるかもしれない。
そんな簡単じゃないことは従々承知ですが。
でもそのときに回復って始めて始まっていく。
主の前に互いに悔い改められるところから回復は始まっていくのです。
この争いの中で、まさに私たちはこれを自分で当てはめるときに、
私のこの争いの中で、私が今抱えている争いの中で、
左の方を向けるってどういうことなんだろう。
実に難しい問題ですよ。実に難しい問題です。
けれども私はそのために教会があると思っています。
祈り合うために、知恵を出し合うために、そして勇気を励まし合うために、
共に復讐ではない、我慢して終わるのでもない、
左の方を差し出す知恵を主の前に祈りながら探って支え合っていく。
それが私たち教会ができることではないでしょうか。
そして私たちが願うことは、相手が倒されたらいいなんて結論では終わらない。
その傷つけた人も主の前に帰ってくることができるように、
その人が自分の罪に気づいて、主の御前に帰ることができるように。
そしてそのところで、互いに共に悔い改めの祈りができるところから、
平和が始まっていくんです。
実に時間がかかる、邪魔な人間を阻害した方が早いです。
でもそういうめんどくさい手を取らなければ平和を作ることはできない。
私たちはそのめんどくさい歩みに、しかしイエス様が教えられた平和を作る道に、
祈りながら一歩ずつ歩んで行かせていただきたいと願っております。
教会の役割
一言お祈りをしてメッセージを終わります。