2020-08-16 31:17

#19 20/8/16 ともにある平安

第2テサロニケ-18からの礼拝メッセージ。2020年8月16日録音。どんな時にも、どんな状況でも平安を体験するために。
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新簡訳聖書2017年度版を読みます。第2テサロニケ3章16節から18節。
どうか、平和の主御自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなた方に平和を与えて下さいますように。
どうか主が、あなた方すべてと共にいて下さいますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これは、私のどの手紙にもある記しです。
このように私は書くのです。 私たちの主イエスキリストの恵みが、あなた方すべてと共にありますように。
以上です。 今日はこのところから
共にある平安と題して御言葉を取り継ぎます。 皆さんおはようございます。
暑い日が続いておりますけれども、皆さんとこうやって礼拝できることを感謝しています。
近くから遠方から様々な方法で、本当に集まって神様を礼拝できる幸いを感謝します。
今日の聖書を読んだ部分は、今までずっと読んできた第二テサロニケの手紙の最後の部分です。
ここは締めくくりで、その挨拶から学んでいきます。 手紙を閉じるにあたってパウロは、
主イエス様の御手にテサロニケ教会の兄弟姉妹を委ねている、そういう祈りです。
例えて言うならば、私たちが離れて暮らしている家族、
そういう家族のことを思って、 神様にそれを委ねる、
助けることができない気持ちを委ねて、 お祈りする、そんな気持ちです。
こちら見てください。 この手紙が届いたテサロニケはここですね。
そしてパウロがおそらく手紙を書いたと言われる場所は、 同じギリシャのコリントというこの場所だったと言われています。
西暦48年とか50年頃ですね。 自分がかつて
布教して救われたクリスチャンが集まっているこの イホウジン教会にずっと続いている困難や問題があって、パウロは2回手紙を書いたわけです。
今日そのいよいよ締めくくりです。
この迫害がずっと冷めやらない、それどころかどんどん強くなっていく。 また先週話したように少数ですが働かないで、家族にも頼らないで、
教会の全員の人たちにたかっていた人たちがくすぶっていた。 そういう直接助けることができないという状況の中でパウロが
もどかしさを覚えていたかもしれません。 この平和という言葉は平安という言葉にも訳せます。
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ギリシャ語でエイレーネという平安。 ヘブライ語ではシャロームと言ってよく挨拶で使われるような言葉です。
パウロは自分が直接助けることができない兄弟姉妹に対して
平安をイエス様が与えてくださいますようにと委ねて祈っています。 そして
この平安というのは今の私たちもどれほど必要としているかということですね。 毎日の生活の中で、
人生を送る中でいろいろな困難や危機的な状況に直面します。 その時に種の平安が必要です。そしてそればかりか今は生活の根底に
新型コロナウイルスに関わる心配というか患いがずっと横たわっている。
そういう不安がベースにある中でまさに種の平安を私たちは必要としているのではないでしょうか。
今日はこの種の平安について3つのことを学びます。 実は今日詳しく見ませんが、このパウロの
委ねる祈りというのはテサンリケ人の手紙に何度も出てきます。 ここのレジュメにもありますが
7月12日とかですね7月26日の説教でも別のパウロの祈りを取り扱っていますから、参考までにレジュメを見たり
音源を遡って聞いてみてください。また今日取り上げませんが一番最後の18節の言葉
イエス様の恵みがあなた方すべてともにありますようにというイエス様の恵みという言葉もとても大事な言葉です。
これについては5月17日の説教だったと思いますけれども、詳しく
解説してますのでまた見てみてください。 それで本題に入りますがちょっと暑いようでしたら
温度を下げていただいて
後ろですね
どんどん下げていただいて、寒くなったらまた上げてください。
本当に暑い中
どうぞ自由に水分を取ったりしてください。 さて最初のポイントは
このパウロの祈りのこちらに掲示しました。見てください。 どうか平和の主御自身がどんな時にもどんな場合にもあなた方に平和を与えてくださいますように
ちょっとこの赤印間違えましたけど最初はどんな時にも 平和を与えてくださいますようにということです
その前に少し 平和の主御自身という言葉について説明します
パウロはイエス様御自身が平和の神であると宣言しています。 つまり人間やこの世の何者も与えることができない
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類の平安をイエス様を与えてくださると信じているわけです あのここに掲示しませんが言語のギリシャ語を見ると
主御自身の御自身という言葉が入っているんですね 英語でいうところの火という漢詩
彼こそがというそういう言葉がわざわざ入っていますアウトスという イエス様こそが平和の神です
そのイエス様があなた方に平安を与えてくださいますようにと祈っています そしてイエス様はこういう平安の約束をかつてしてくださいました
弟子と別れる前の言葉ですヨハネ1427 読んでいますね私はあなた方に平安を残します
私はあなた方に私の平安を与えます 私があなた方に与えるのは与が与えるのとは違います
あなた方は心を騒がしてはなりません恐れではなりません このようが与えるのとは違うイエス様の平安ということですね
その上でまずどんな時にも平安を与えてくださいますように どんな時もってね歌を思い出しますけどね
どんな時もどんな時もイエス様が平安を与えてくださるそれは時間的な制約がない 平安です
このキリスト社であった新しくなった哲学への兄弟姉妹にとって 迫害や信仰への反対がいつ起こるかわかりませんでした
ちょっと絵を引っ張ってきましたけども あとで機会があれば使徒の働き17書を読んでください
この教会が誕生した時の物語 誕生してすぐにですね
町のまあ ユダヤ人がユダヤ人をこれは差別する効率使ってはいけませんけども当時のユダヤ人が
神の民として妬みを起こしてパウロたちに襲いかかってきた パウロがたぜ滞在していたヤソンという
家主のところに街のならずものを集めて 押しかけてきた
それが人の柔軟性あります文字通りですね パウロは命からがらそこから脱出しました
テサロニケのクリスチャンがパウロを夜だったでしょうか 命をに狙われていた彼らを脱出させたわけです
もうイエス様信じてすぐにこういう命の危機に預かってきた 教会の人たちしかもそれがずっと続いてもっと酷くなっていたわけです
そんな一番大事な時に彼はパウロは彼らを離れていかなきゃいけなかった そういうジレンマがありました
彼らはとにかくずっと信仰者ゆえの危機に瀕していたわけです 私たちは今ですね幸いながら表面上平和があって信仰者ゆえの危機に預かること
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直面することはほとんどないでしょう しかしですね私たちが生活の中で心揺さぶられる事態というのは
マイキョに行き場がないわけですよね 人生の危機はいつ訪れるかわかりませんし生活の日々の生活の中で動揺する機会は
いくらでもあるわけです そして助けが必要な時にいつでも助けてくれる人が側にいるとは限りません
パウロがまさにそうでした 最近で言えば先週の水曜と木曜日夕方4時頃ですね
雷に出し4時頃雷ですねが訪れました 皆さんどうしてましたその時は部屋にいました家にいました
私は外で仕事していました で
そういう時にですね雨が急に降って雷の音が鳴ってですね 稲光もこう遠くに見えるわけです
雨音も激しくなるそういう中で 心に不安を覚えることがないでしょうか
していたことが途中でおぼつかないことは やろうとしていたことができないとこないでしょうか私ですねその時ちょうど心聖書の言葉
勉強したのでイエス様今私に平安を与えてくださいと祈ったんですね そのように私たちがどんな時でも心に不安を覚える時にイエス様に
私の心に平安を与えてくださいと祈ることができます 心に平安が与えられると危機的な状況の中でも落ち着いて
物事を処理することができるわけです 先ほど見たこの3章16節でパウロは
イエス様のことを平和の主と言っています この主というのは旧約聖書の主なる神様のことを表しています
ここで詳しく言いませんけど旧約聖書の主なる神様というのをパウロは イエス様と同列においているイエス様こそ旧約聖書の主なる神様だ
ヤハウェという神様だと言っていることも大きなことです だから何が言えるかというと旧約聖書にある主なる神様の平安の約束を
イエス様が私たちに授けてくださるとそうやって信じることができるんですね そしてその旧約聖書詞編なんかでは
時間的制約がない主なる神様の助けがたくさん記されています 例えば
ここに掲載しました詞編の121編1節2節4節こう書いてあります 私は山に向かって目を上げる
私の助けはどこから来るのだろうか 私の助けは天地を作られた主から来る
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みよ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない
この主はイエス様と私たち信じていいわけです イスラエルというのは神の民ですから今のクリスチャンである私たちと考えていいわけです
実はこの詩編はですね門番を 門番になぞらえて詩編作者は歌っているわけです
当時の町は敵からの侵入を防ぐために城壁になっていたわけです そして夜になるとこの門にですね文字通り門番が立つわけです
敵が入ってこないか でもその門番でさえ夜居眠りをしてしまったり
打とうとしてしまうことがあると それに比べてこのですね
イスラエルを守る主なる神様イエス様はたとい夜でもまどろむことも眠ることもなく 私たちを守ってくださると
歌っているわけです そのような主イエス様のことを例えて言うならばイエス様は
24時間365日私たちを守るガードマンのようなお方です
1234アルソックなんてありますけどねそれに マサルトも劣らない
まさにそれ以上の 私たちを守るお方がイエス様です
ですから私たちは昼でも夜でも 心に恐れを覚えてイエス様の平安を必要とするときに祈ることができます
起きていても寝ていてもイエス様私に平安を授けてくださいと どこでもいつでも祈ることができます
あるいはパウロとテンサルニケの教会の人たちのように 離れている誰かのために
気をもんでいた場合離れている家族や友人のために祈ることができるわけです 家族や友達
教会の兄弟姉妹離れた場所にいる人たちのことを覚えてですねイエス様 誰々さんに平安を与えてください
そのように祈る祈り私たちは平安のイエス様に 愛する兄弟姉妹を委ねることができるわけです
2番目のポイント どんな場合でも
平安を与えてくださいますようにとの祈りです パウロは3章16節でこう祈っていますねどうか平和の主ご自身が
どんな場合にもあなた方に平安を与えてくださいますように このどんな場合にもというのは
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別の言い方をするとある学者に言わせればですね 経験を通してイエス様の平安を知るということです
経験を通してイエス様を知る 英語ではですね
in all times そんな風になっています
in all situations という風になっています とにかく経験を通して
experientially と言葉を使ってますけれども 経験を通してイエス様の平安を知るそれは
日常の生活を通してイエス様の平安を体験するということです 例えばというかですね
この日曜の礼拝ここで私たちはイエス様と会っています しかし日曜の礼拝に限らず仕事中でも家庭にいても
外出先でも それぞれの皆さんが置かれている状況状況の中で
不安を覚えるときにイエス様平安を与えてくださいと その場その場で祈ることができるんです
先ほどのテサロニケ教会の兄弟姉妹に当てはめて考えてみましょう この絵もありましたけどテサロニケ教会の兄弟姉妹はですね
今の私たち以上に日常生活の中で宗教との関わりを持っていたんです 仕事の時に釈放場において折りあるごとにですね彼らは
ローマの皇帝に忠誠を誓う ローマの皇帝というのは主なる神様と言われていました
そういうイエス様以外の神に忠誠と礼拝するようにと迫られることがしょっちゅうありました そしてギリシャローマは様々な神々の地域でしたから
そのような仕事や釈放日常生活の中でたびたびですね そういう神々に対する信仰を告白を迫られるような機会があったわけです
しかし今の私たちはそのようなたびたびですね 信仰の危機に陥ることはありません
でも私たちはですね 先ほども言いましたが職場や学校人々との社会的な交流の場面で
様々な困難に直面して その場その場で主の平安を必要とする時が起こるわけです
この迫害の中における平安だけではなくて 人間関係における平安もパウロは念頭に置いていました
先週話しましたが 三章の
10節から12、3節のところで 先ほどこの教会の兄弟姉妹を善意にたかっていた兄弟姉妹がいて
その人との関係を正しく取り扱うようにと パウロから指導を受けていましたよね
だからそのような人間関係における平安もパウロは祈っていました そのように私たちも日々の生活の中で関わりのある
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人間関係の中で不安を覚えるときにやはり 平和の主イエス様ご自身が私たちの間に平和を与えてくださり
私たちの心に平安を与えてくださいますようにと祈ることができるわけです このように私たちが
日々の生活や人生において様々な問題に直面して不安に苛まれるときは どんな状況であっても
イエス様に平安を与えてくださるように祈ることができます 今日ここに掲示しませんけど例えばエレミア書の33章3節
そこにこうあるんですね私を呼べ そうすれば
あなたの知らない大いなることを私は告げようと言っています 神様への電話番号は333だと言った外国人の人いますけど
エレミア33章3節に いつでも私を呼びなさい神様が言っているんですね
ですからとにかく いつでもどんな状況の時でも心のピンチの時にイエス様どうか私の心に平安を与えて
くださいと 祈ることができるわけです
そしてその度その度にですね少しずつイエス様の平安を実感する 日常生活の体験を通してイエス様の平安を
知ることが私たちはできるわけです そして最後の点実はこれらの
どんな時でも どんな状況でも
私たちに与えられる主の平安という言葉 パウロの祈りの後半部分に関わってくるわけです
3章16節の後半部分ですね 平安の祈りの後にパウロは続けてこう祈っています
どうか主があなた方すべてと共にいてくださいますように この主が
共にいるというのは 皆さんに覚えてほしい言葉なんですが専門用語で臨在というんです
臨在 どこにでもいると言うのは偏在と言います臨在偏在
で この
臨在という信仰と平安という信仰は切っても消えない関係にあるんです 今までずっと見てきたようにですね
鉄山明家の違法人クリスチャンの彼らもそして今の私たちも 神の旅の旧約聖書の伝統に連なるものとされました
その旧約聖書の神の旅の伝統の一つに主なる神様が共におられる そして平安を与えてくださるという信仰があるんです
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臨在の信仰英語でインマネールの信仰と言いますね そして
この主が共におられるいつもどこでも主が共におられるという信仰が旧約の民の 平安の拠り所となっていたわけです
そしてさっきも言いましたようにこの旧約聖書の主なる神様は 今の私たちにとってはイエス様なわけです
だから この先後でも紹介しますが共におられる主なる神様の約束は共におられるイエス様の約束
として私たちは信じて受け入れることができます 例えば旧約聖書のイザヤ書にこんな言葉があるんですね
イザヤ書41章10節 これは主なる神様の直接の言葉として書かれています
恐れるな 私はあなたと共にいる
たじろぐな 私があなたの神だから
私はあなたを強めあなたを助け私の義の右の手であなたを守る このように主なる神様が神のために約束しています
義の右の手というのは 刀を持って戦っている右手と理解できるようです
そうするとこういうことです イエス様は
左側に私たちを置いて左手で私たちの手を握って右手で私たちを恐れさせる
様々な敵と剣を持って戦ってくださる いつも共にいてイエス様は義の右の手で
私たちを脅かす敵と戦ってくださる 不安と戦ってくださる
そのようにいつも共にいるというそういう信仰です また
有名な詩編の23編4節 あのちなみに何か言いますけどね昔昭和80
1980年代にあったエレファントマンというね映画があったんですけど そのエレファントマンでね
あの獣のように嫌われていたエレファントマンが夜一人ですね 牢牢とこの詩編の23編を暗唱する場面が出てくるんです
この彼の外見とは裏腹にですね 清い心経験な心がその映画で映し出されていましたがその主は私の羊飼いという有名な
詩編の23編の4節でこういう言葉があるんですね たとえ死の影の谷を歩くことがあっても私は災いを恐れません
あなたが私と共におられますから あなたの鞭とあなたの杖それが私の慰めです
この詩編の23編の1篇では1節ではですね 主は私の羊飼い私には乏しいことがありませんとあってそしてこの言葉が続くわけ
です たとえ死の影の谷があることがあっても私を恐れないと
なぜなら主なる神様が共におられるからだ あなたが共にいることが私の慰めだ
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無知と杖というのが敵から守り私を 導いてくださる
無知と杖と言うんですねこのように 詩編の作書によれば
たとえ彼がですね命の危機に瀕しても 主なるイエス様を共にいるから私は災いを恐れないと言ってるわけです
その他詩編の46編とかですね支援にはたくさん共におられるイエス様 臨済信仰から得られる平安の恵みが記されていますのでどうぞ皆さん機会があれば
ぜひ読んで祈ってみてください 実はですね
イエス様を信じる歩みというのは このような臨済と平安の約束を思い出し続ける
そういう歩みなんですね 歩きなさいというのは一歩一歩足を出すように
機会のある旅ごとに一回一回ですね臨済のイエス様 平安のイエス様の約束を思い出すというのが私たちクリスチャン生活の歩みです
不安や恐れを抱くとき 寂しさを抱くとき私たちの目には見えませんけど
よみがえたイエス様は私たちの信じる私たちの心の中に住んでおられ そして私たちの傍らにですね
ご精霊としてともにおられて私たちを共にいて導き平安を与えてくださるんですね その祈り助けを求めるたびにイエス様の平安を体験を通して知るわけです
先日こんな機会を見にしたんですね生後3ヶ月ぐらいになる赤ちゃん 泣くんですねそしてその赤ちゃんをですね
いろんな人が抱っこしても泣き止まない 母親が抱っこするとですね泣き止むんです
生後3ヶ月の赤ちゃんです 生後3ヶ月の赤ちゃんがですね自分の母親を他人独別してその母親の手に抱かれる
時に安らいで泣き止む 同じようにですね私たちもこの確かなイエス様の臨在が
神の子供である私たちにこの平安をもたらすわけです 私たちはたとえですねものが豊かになっても
心配事から 逃れることができない心を満たすことができません
そして聖書はそんな私たちにこんな約束を告げています 主が共に言われると約束ですヘブル13の5
こちらに書いてあります金銭を愛する生活をしてはいけません今持っているもので満足しなさい 主ご自身がこう言われるのです
私は決してあなたを離れずまたあなたを捨てない そしてイエス様を復活した後いよいよ弟子たちに別れを告げるとき
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天に登られる直前にこのような約束を告げられたんですね 見よ私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます
また28章20節です パウロはてさに家の教会の兄弟姉妹のために離れたところから祈りました
実は牧師もですね教会につながる方々のために乗っています 離れた人たちのために御言葉を教え
彼ら彼女らのために祈りそして彼ら彼女たちに祈ることを進めるのは いつも兄弟姉妹と一緒にいることが不可能だった
そういうパウロの思いがありまた牧師としてもその同じ思いがあるから 御言葉を教え兄弟姉妹のために祈りまた祈ることを進めるわけです
そのように 教え導く理由はですね
それぞれの兄弟姉妹がその生活のただ中で 臨在のイエス様の恵みを知る
そしてそのイエス様の平安を自ら祈ることによって体験する そしてそのようなイエス様の臨在の平安を日々の生活の中で知るためにですね
パウロもまた牧師も兄弟姉妹に御言葉を教え 祈りまた祈ることを教えるわけですそのようにしてですね
イエス様の臨在に 兄弟姉妹を委ねていたパウロ
今の教会の牧師もそういう 役目を負っているわけなんですね
どうぞ皆さんも今日から始まる新しい週間 明日から使わされていく職場や家庭において人間関係の中で平安のイエス様からイエス様の平安を与えられて
歩んでいくお互いでありたいと思います 最後にこのパウロの最後の言葉を読んで
終わりにしたいと思います どうか
平和の主御自身がどんな時にもどんな場合にも あなた方に平安を与えてくださいますように
どうか主があなた方すべてと共にいてくださいますように 私たちの主イエスキリストの恵みがあなた方すべてと共にありますように
お祈りしましょう 天の神様皆を賛美いたします
テサルニケの兄弟姉妹の手紙を通して私たちは学んできました 信仰の危機に直面する兄弟姉妹と共にいることができない
30:01
そのようなジレンマの中でパウロは手紙を書き また祈り
全能の父なる神様救い主なるイエス様の御手に 兄弟姉妹を委ねました
私たちも教会に募っていますがそれぞれの地域に使わせられていきます その中で私たちも
主なるイエス様御自身に 委ねられていることを感謝いたします
どうか使わせられたそれぞれの場所において 不満を覚えるとき
危機的状況に直面するときにイエス様に平和を求めることを思い起こさせてください
そしてどうかその多田中でイエス様の平安を知ることができますように また同じく
離れて手の届かないところにいる兄弟姉妹や家族のために私たちが取り成すことができます ように
そして離れたところにいる家族や兄弟姉妹がイエス様の復活を知りまた 復活のイエス様の平安を知ることができるようにどうか導いてください
この願いと感謝を私たちの主イエス様の名前によってお祈りします アーメン
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