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2026/10/18:呪いに代えて祝福を

2026/10/18 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第二 16:5-14


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サマリー

説教は、苦難の理由が見えないときにも天を仰ぐ信仰について、ヨブの苦しみとダビデの逃亡を通して語ります。アブサロムに国を追われたダビデは、シムイから呪いと石を受けながらも、「主は今日の彼の呪いに変えて私に良いことをもって報いて下さるだろう」と希望を抱きました。ダビデの祈りに対し、神はフシャイを用いてアヒトフェルの優れた助言を退け、ダビデが逃れる時間を与えました。祈りの答えは、本人の見えないところですでに始まっていることがあり、整った言葉にならないうめきも神は聞いてくださると説かれます。 逃亡中のダビデには、異邦人のイタイ、ショビ、マキル、バルジライら、思いもよらない助け手が現れました。敵対していた人々からも助けが来ることを通して、神の憐れみは人の想像を超えて豊かであり、「恵みは巡る」と示されます。後半では、末期がんの中でも天国の希望を語り続けた八幡世郎先生の歩みと、フィリピ書の「生きることはキリスト、死ぬことは益です」という言葉が紹介されます。病や死を前にしてもキリストにある希望は尽きず、信徒は「希望はなおもある」と確信して生きてよい、という励ましで締めくくられます。

見えない苦難の中で天を仰ぐ信仰
それでは一言お祈りをいたします。 恵み深い愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も主が私たち一人一人を呼んでくださり、あなたの御前へと招き、共にあなたを崇め礼拝ができる災害を感謝をいたします。
あなたは限りない愛をもって私たちを愛し抜いて下さいました。
御子イエスキリストを十字架に捧げて下さり、その流された父親によって私たちの罪を許し、そしてまた復活の命、永遠の命を私たちに与えて下さり、
永遠なる死と結ばれ、あなたは一人ではない、私がいつもあなたと共にいるというあなたのその現実を愛まして下さり、地を越えてまで永遠までもあなたは私から離れないとあなたの愛を約束して下さっていることを覚えて
心から感謝をいたします。
あなたは確かなその恵みの中に私たちは生かされています。
ただしよ、同時に私たちは本当に弱いもので、さまざまなものが覆いかぶさるときに私たちの目は見えなくなり、耳は聞こえなくなるという現実があることも確かであることを覚えます。
しよ、この礼拝のときにまたあなたが私たちの耳を開いて下さい、目を開いて下さい、聞くべき言葉を聞くことができ、見るべきお方を見ることができるように、
そして私たちの口を開き、勇気を持ってあなたに祈る勇気を得ることができますように。
あなたの言葉は我が足の灯火ですと、見言葉を通して今日も私たちが歩むべき道筋をあなたが示して下さいますように。
そして主が共におられるというその現実の確かさ、豊かさをまた知ることができますように、帰りに来て下さい、お願いいたします。
祈られているように世界では本当に様々なことが起きておりますし、
主はどうか、世界の王である主御自身がこの世界をなおも治めて下さり、知恵を与えて下さいますようお願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも思います。
主がどうか、その方々のところに御臨在下さり、慰め励まし、共に行くことができるようにまた導いて下さい。
会いに行くことができるように私たちの愛を増し加えて下さい。
お願いいたします。
これからの時を見てによだれます。どうか主よ、御言葉を開いて下さり、あなたを知ることができますように。
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
現在、蒼天祈祷会では順に聖書を見ていますが、今、蒼天では呼吸を読んでおります。
皆さん呼吸はよくご存知かもしれませんが、呼吸は偽人呼ぶの話です。
神の前に、人の前に、何一つ罪を犯さなかった人物呼ぶですね。
犯したとしても悔い改め続けた呼ぶ。
しかしその呼ぶのところに様々な苦難が襲いかかる。
いわばゆえなき苦難です。理由がわからない。
なぜこんな苦しみにあるのかがわからない。その苦難を呼ぶのところに襲われる。
友人がやってきて呼ぶをさげまそうとしますが、ご存知のように苦しみには何か理由があるとみんな考える。
だからお前の隠れた罪がお前を苦しめているんだということを責め立てる。
しかし呼ぶ気の大事なところは呼ぶは本当に偽人だということです。
ゆえがないということです。
だからそれゆえに呼ぶにとっては人の励ましも全て的外れになっていく。
次第に呼ぶは天を仰ぐようになります。
彼は言います。私をあがなう方は生きておられる。
苦しみの理由を考えるときに、なぜという問いに対して地上の人間には答えを見つけられない領域がある。
そして人がわかったように言葉を重ねれば重ねるほど真実から離れていくという事柄がある。
しかし呼ぶは神様をその中で仰ぐ。もう神しかこのことを説明することができない。
しかしそれは信仰であるわけです。
榎本先生はこのようにこのことを解説していました。
信仰とは地上を見つめて生まれるものではない。天を仰いでこそ与えられるものである。
私は明けの明星であると主は言われました。
暗闇の中にある友よ。あなたの上に輝く明星を仰げ。と本の中で語っておられました。
実に私は最後の言葉がとても好きでした。
あなたの上に輝く明星を仰げ。私たちはなぜという暗闇に出会います。なぜ。どうして。
しかしなおも仰ぐべきお方は心のどん天の先に輝いている。私たちはそこに黒雲しか見えないわけですが、しかしどん天の先に主は既に常に輝いておられる。
だからこそあなたの目に黒雲しか見えずともなおも神を仰ぎなさい。
信仰というのはここからしか始まらないのだと言われた平成の言葉は実に禁言だなと思って聞いておりました。
ダビデの呪いに変えられた希望
実は今朝の仮初でもザビデも同じように黒雲に覆われております。
彼はアブサロムに自分の国を追われました。我が子によってです。
そしてザビデに関して言うならばそれは言えなくではない。
彼自身が犯した罪がその一端になっているわけです。
しかし今日読んでいただいたこの十二節の言葉に注目をしてください。
16章の十二節
おそらく主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに変えて私に良いことをもって報いて下さるだろう。
この時のザビデはどん底です。国を追われそしてサウル一族のシムイという男から呪いと石を投げかけられます。
しかしそのような最中にあってザビデの中には僅かながらの予感があるんです。
それは主は私を呪いのままでは終わらせられない。主は良いことを私に備えて下さっているのではないか。
それは僅かな希望です。そこに光は見えていないけれども彼は予感するのです。
どん底の中でもなおも希望はある。私たちもこれを言い得るのかというのが今朝のテーマです。
私たちの心に暗闇が覆う時に、光が見えない時に、でもなお希望はあると私たちは言って良いのでしょうか。
それは自分の思い込みや盲信ではないのでしょうか。
そうではないと言い切れる。そのことが今朝の聖書の箇所が語っていることです。
ご一緒に今朝の箇所を見ながら、2つのポイントで、主が私たちに与えておられる希望の確かさをご一緒に覚えていきたいと願っております。
うめきの祈りに応える神
2つのポイントでちょっと見てまいりますが、1つ目のポイントは、
ウネク・ダビデの祈りに神様は応えておられるという事実です。ウネク・ダビデの祈りに主は応えておられる。
ダビデは国を追われ待つ。
そして15章の30節というところまで前回が見ましたが、涙ながらにオリーブ山を登りながら彼は逃亡するという事が描かれています。
その直後ですね、15章の31節をちょっとご覧いただきたいのですが、
15章の31節に、その時ダビデはアヒトフェルがアグサルムの無本に加担していると知らされた。
この時にダビデはアヒトフェルの裏切りを知ります。
アヒトフェルというのは実はこれはダビデの相談役でした。
聖書の他の箇所にはこのアヒトフェルの言葉は神の言葉のようであったという風に言われるほどに、知恵もまた影響力も抜きんでていたそのような人物でした。
ダビデはこのアヒトフェルに裏切られたというのは彼からした大打撃だったでしょう。
しかしそれを聞いて彼は祈ります。
31節に、主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。
これはもしかしたらほぼ祈りというか、うめきに近い言葉であったと思います。
そのようなうめきにも似たような声で彼は主に叫んだ。
しかし、うめきが如何であれ、それが主に対して叫ばれるならば祈りです。それは祈りです。
そして驚くことに神様はこのダビデのうめきのような祈りに即座に応えられるのです。
それが32節から始まります。
32節からダビデの元にアルキジン・フシャイという人物がやってまいります。
アルキジン・フシャイという人物が来たことに、ダビデは主の導きを覚えたことでしょう。
なぜならこの人物はどういう人かというと、37節を見ていただくと、1ページ目の37節にこのフシャイはダビデの友フシャイと書かれています。
ダビデの友フシャイ。
友という言葉は単に友達という意味だけではありません。
これはダビデに直接進言ができる宮廷の、失礼、宮廷古文の一人だったということを意味します。
ダビデの宮廷古文の一人のフシャイがやってきたのです。
それは、いわばアヒトフェルと同じ立場の人間がダビデの元にやってきたということを意味します。
当然力関係はあったかもしれませんが、しかし同じ立場の人物がやってきました。
ダビデはフシャイに対してそれを受けて即座に狙いでいます。
15章の33節からダビデはフシャイに対してこういうお願いをします。
15章の33節。
ダビデは彼に言った。
もしあなたが私と一緒に行くなら、あなたは私の重荷になる。
しかしもしあなたが都に戻ってアブサロムに。
王よ、私はあなたの下辺になります。
これまであなたの父上の下辺であったように、今私はあなたの下辺になりますと言うなら、あなたは私のためにアヒトフェルの助言を打ち破ることになる。
フシャイよ、あなたがアヒトフェルの助言を打ち破る騎馬になるとダビデはここで言うのです。
だからどうか私と一緒に来るんじゃなくて、アブサロムの元に帰ってくれということです。
フシャイはそのことを受けて都に帰り、見事アブサロムの懐に入り込みます。
15章の後半に書いてあることは、まさにこのアブサロムの相談役にアヒトフェルとフシャイが、この二人が相談役に任じられるということが描かれています。
見事です。
そしてこのフシャイがアヒトフェルの助言を打ち破る不責になる。
そのことが書いてあるのはトンデ17章です。
17章で描かれているのはアヒトフェルとフシャイの議論なんです。
この二人が論を戦わせるわけです。
17章で早々描かれますのは、この致死者アヒトフェルがダビデの命を狙おうと即刻するんです。
17章の1節から3節に書いてあります。
ちょっとだけ読みますが、17章の1節から3節。
アヒトフェルはアブサロムに言った。
私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜すぐにダビデの跡を追い始めます。
私は彼が疲れて気力を失っている間に彼を襲い彼を震え上がらせます。
彼と一緒にいる全ての民は逃げるでしょう。私は王だけを打ち殺します。
私は兵全員をあなたのもとに連れ戻します。
すべてのものが返ってくる時、民は皆穏やかになるでしょう。
あなたが求めているのはただ一人の人だけですから。
何を言っているのかと言いますと、今すぐ私に動ける手を預けてください。
私はすぐにダビデを追いかけて、ダビデだけを狙って打ってきます。
実にこのアヒトフェルの考え、助言は見事なものです。
合理的で軍事的にかなっている助言です。
そしておそらくアヒトフェルのこの助言が実行されたならば、ダビデの命はなかったと思います。
実はこの時にダビデの命運が左右されるような話し合いがここでされているわけですね。
しかし、このダビデをすぐに狙おうと言ったアヒトフェルに対して、ここにフシャイが言ってきます。
7節にフシャイはアビセサロムに言った、この度アヒトフェルの進言した助言は良くありません。
これは良くない。代わりに私の意見を聞いてください。
8節以下書いてますが、ちょっと長いのでまとめて言いますと、何を言っているのか。
8節以下で書かれているのは、今場、王様あなたの父上は歴戦の勇士ですよと言っているんです。
歴戦の勇士ですよ。
そして私たちが精鋭で追いかけていったとしても、王は傷を負った目ずまのような殺気だっている状態ですから、私たちの兵を向かわせたところで返り討ちに遭う可能性がありますよ。
攻めれば私たちが負けるかもしれない。それは士気にも関わります。
ですから、王様、彼の提案は11節、11節だけ読みます。
私の助言はこうです。
全イスラエルをダンからベールシェバに至るまで、海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることですぞ。
彼は提案をします。
ダビデを攻めるならば、一部の兵隊で迅速に攻めるよりかは、たくさんの兵力を集めて、数で攻めましょう。
その時、王様、あなたが戦闘に出て行ってくださいということをお願いをするのです。
この夫妻の提案はアブサルムに深く刺さります。いいね、となります。
なぜなら、このたくさんの国から兵力を集めるという人望、そして天上に真っ先に王が出て行って戦う勇姿を示すということ、これどちらもダビデがやってきたことだからです。
父親であり、前の王であるダビデの影を払拭したい。私こそが新しい王なんだということを誇示したい。
アブサルムの心にはドンキシャで刺さるような、そのようなものでした。
しかし、兵隊を集めるというのは時間がかかります。結果それは、ダビデが逃れる時間を稼ぐことができたということです。
このようにして、ダビデは逃亡に成功をします。
ただ、ここで大切なのは、十四節の後半です。十四節をお読みしますと、十七章の十四節。
アブサルムとイスラエルの人々は皆言った、アルキジンフシャイの助言はアヒトヘルの助言よりも良い。
これは、主がアブサルムに災いをもたらそうとして、主がアヒトヘルの優れた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。
人間の営み、そこに人間しか見えない中に、しかし聖書は、その全てアヒトヘルの助言、そしてそれに対して知恵を持って答えたフシャイの助言。
見えないところで始まる祈りの答え
それら全ては、神様が導いておられたんですよということを語る。
フシャイを用いて、アヒトヘルの神の言葉のような助言を、神ご自身が打ち砕かれます。
議論の場で、権威を持ってそれらを導いておられたのは、実は王アブサルムでも、使者アヒトヘルでもフシャイでもない。
まことの王である神ご自身が、それを導いておられたと聖書は明かしています。
ただ、これは一体何を言っているのか。
神様は、あのダビデのウメキに応えてくださっていたということです。
ダビデのウメキに応えてくださっていた。
先ほど読みました。
主よ、どうかアヒトヘルの助言を愚かなものにしてください。
ウメキですよ。
主よ、なぜですか。
主よ、あなたでなければ、そのウメキ。
それを、あの涙ながらのウメキを、神様は聞いておられて、そして即座に助け手を使わし、
ダビデの命運を分ける現場で、ダビデの命を救ったということがここに書かれていることです。
ここで面白いのは、その裏事情すべてをダビデは見ているわけではありませんということです。
アヒトヘルとフシャイがどういう議論をしたかなんて、ダビデは見てませんよ。
でも、私たちの祈りの答えというのは、そういうものなんじゃないかなと私は思います。
私たちが祈った祈りが答えられるというのは、私たちが目にするところ以外ですでに始まっていると言えるのではないでしょうか。
私たちは何か祈ったことが目の前で結果として現れなければ何か聞かれていないように思うかもしれませんが、果たしてそう単純なものなのか、いやそうではないと思います。
祈った結果はすでに私が見えないところで、私以外のところで始まっているということは、私たちはもっと思えるのではないか。
私はある先生が書いていた本の中で、主は聞き上手なのですという言葉が好きです。主は聞き上手なのです。
私たちは整った言葉で祈るということは大事です。厚く祈るということも大事です。ただ誤解がないように、整った祈りで祈るから、厚く祈るから祈りが聞かれるのではありません。主が聞き上手だから祈りは聞かれている
のです。
時に私たちの祈りは知り滅裂になります。何を祈っているかよくわからなくなります。時に祈り姿勢もとれずに、主よと埋めることしかできないことがあります。
それが祈りだと自分でも思えずに、無味乾燥な聞かれた実感のない祈りを私たちは重ねるかもしれません。けれども、神様はそういう私たちのつぶやき、私たちの埋めき、その介護にある言葉にすることもしんどいような祈
れない現実を主はご存知ですよ。
だから聴いてくださっているんです。主は聞き上手です。
人間ですらそういうことができるのであれば、神がそういうことができないわけがないでしょう。
私たちの言葉にならない埋めき、祈りと言っていいかわからない埋めきは、主は聞いておられます。
そして信じたいと思います。それは私たちのこの埋めきが見えないところで、主はそれに応えて御業を進めておられる。
そのことをぜひご一緒に受け止めたい。
主の御業は私たちの視界の外で既に始まっているのです。
そしてもう一つのポイントで見てまいりますが、そのことがよりわかるのが二つ目のポイントです。
逃亡するダビデを支えた思いがけない人々
埋めくダビデの道筋に主の助けは豊かであったということです。
実は神様はこの追われるダビデの道筋に思いもよらない助け手を散りばめておられました。
まず最初にダビデ王に伴って彼を救ったのは、ガセジンイタイという人物でした。
これは15章の19節から21節に書かれています。
15章の19節から21節。
ダビデが国を追われた直後のタイミングですね。
ちょっと読みいたします。15章の19節から。
王はガセジンイタイに言った。
どうしてあなたも我々と一緒に行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。
あなたは異国人で、自分の国からの亡命者なのだから。
あなたは昨日来たばかりなのに、きょうあなたを我々と一緒に彷徨わせるのは忍びない。
私はこれからあてどもなく旅を続けるのだから、あなたの兄弟を連れて戻りなさい。
恵みと誠があなたと共にあるように。
イタイは王に答えて言った。主は生きておられます。そして王様も生きておられます。
王様がおられるところに生きるためでも、死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。
イタイというのはガテジンと書かれています。ガテジンというのはガテというのはテリシテの人ですから、彼はテリシテ人です。
長くイスラエル人と戦っていた違法人、テリシテ人です。
しかし彼は違法人でありながら、
ダビデ自身が炎上するので、来てもらうな忍びないと言うぐらいに、しかしイタイは主は生きておられる。
王様あなたが死ぬまで私はあなたのところから離れないと言います。
それが国を追われたダビデからしたらどれほど心強かったでしょうか。
実はこの違法人でありながら、神様を信じ、王に対して忠誠を誓うイタイの姿は、かつてダビデが殺めたウリアの姿に重なります。
ガテジンウリア、神を愛し、王に忠誠を尽くしたあのウリアをダビデは自己保身のために殺しました。
しかしあのような部下が自分が一番苦しい時に助けになってくれるという事実を彼が目の当たりにした時に、
彼は心からウリアを撃ったことを後悔したのではないでしょうか。
でも彼を助けてくれたのは思いもよらないイタイという人物であった。
そしてこの思いもよらない助けというのはイタイだけでありませんで、
もう一つ、17章の27節から29節には、これは逃亡したダビデに対してこういう助け人がいましたよという事を書いているそのような節ですが、
27節からお読みしますと、
ダビデがマハナイムに来た時、
アンモンジンでラバ出身のナハシュの息子ショビと、ローデバル出身のアンミエルの息子マピルと、
ロゲニム出身のギルアデジンバルジライは、
シンダイハチ、ドキ、コムギ、オウムギ、コムギ、コイリムギ、ソラマメ、レンズマメ、イリマメ、ハチミツ、ギョウニュウ、ヒツジ、チーズをダビデと彼と共にいた民の食料として持ってきた。
彼らが民は荒ので飢えて疲れ渇いていますと言ったからである。
読み飛ばしがちな歌書ですが、結構味わい深いのです。
ここでダビデを助けた人間が3人います。
1人はアンモンジンのラバ出身のナハシュの息子ショビ。
ここで書かれているのはアンモンジンナハシュの息子です。
聖書はちゃんと全部繋がっているように描いていますが、
アンモンジンの王ナハシュというのは第2サメリキの10章に出てまいります。
10章の1節から5節のところには、
このアンモンジンの王ナハシュの子ハヌンという人物が、
ダビデが送った執筆団に侮辱を加えて返してくる。
結果、アンモンジンとイスラエルが戦争になるという記事が書かれてあります。
結果的にアンモンジンはイスラエルに負けて、
この時アンモンにはイスラエルの傀儡政権があったのではないかと思いますが、
しかしここでダビデを助けたのはそのハヌン、アンモンジンのナハシュの子ショビデ。
いわばかつてダビデを侮辱した王の兄弟だったかもしれません。
その人物がダビデを支援するのです。
いわばかつて敵対していた違法人の王族がダビデの助け手として現れたというのは、
これは何を言っているかというと、
ダビデが想定するところの一番遠くから助けが来たということです。
一番遠く終焉のところから助けがやってきたということを意味します。
巡る恵みと尽きない憐れみ
これは同じようにローデバルの出身のアンメールの息子マキルも同じです。
ローデバルと聞いて私たちが思い出すのは、第二サムエル記9章に出てくるメフィボシテ、
ヨナタンの息子メフィボシテがかくまわれていたのがローデバルのマキルの家です。
メフィボシテというのはヨナタン、いわばサウル家の王族ですから、
そのサウル家の派閥に属していた忠臣マキルであったでしょう。
しかしそのマキルがこの時にダビデを助ける。
なぜかおそらく、メフィボシテに対してダビデが恵み深く関わったという出来事に恩をきてかもしれません。
ダビデがかつてメフィボシテに恵み深く関わったあの恵みが恵み回って今ダビデを助けている。
恵みは巡る。
そのようにダビデの助けにマキルが立ち上がります。
そしてロゲリム出身のギレアデジュン・バルジライ、彼のことは詳しくわかりません。
ただ、19節に彼は非常に裕福な人物であったと聖書は書いています。非常に裕福な人物。
逃れたこのマハナイム地域のおそらく豪族であったのではないか。
後にダビデは現れて、改めてバルジライに感謝を言いに行きますけれども、
それほど手厚くダビデを支援してくれました。
しかし彼もイスラエル人ではありません。違法人です。
聖書はここで逆転が起きているということを強調するんです。
いわばダビデを王として立て、ダビデの一番今まで支えなきゃならなかったイスラエルの国民がアブサルムに寝返ってダビデの命を狙い、
ダビデに本来敵対するはずだと思いもよらない人たちがダビデを助けるということが起きている。
聖書は意図的にそう書きます。
しかしダビデからすれば、それは思いもよらない不思議なあなたが助けてくださるんですかということの繰り返しでした。
ダビデはだからこそここに主の憐れみの立ち方を思わずにはいられなかったのではないでしょうか。
ダビデが逃げていく間に主の憐れみ、主の助けというのは実に彼の想像を遥かに超えていました。
逃亡したダビデにとっては想像できない助けばかりでした。
しかし主の憐れみというのはそういうものです。
私たちが逃げているその先において主の助けはなおも豊かなんですよ。
そして見えないところですでに主の最善は始まっている。
それはまさにダビデが予感した通りです。
先ほど読みしました16節の言葉
主は今日彼の呪いに変えて私に良いことを持って報いてくださるであろうと
彼の中にわずかにあった希望の予感は確かでした。
主の憐れみは想像を遥かに超えて豊かなものであったということを彼は実体験していくんですよこの旅の中で。
私たちは先ほど冒頭の招きの言葉でも読んでいただきました愛かの言葉
あれはイスラエルが一番最悪の時です。
しかしそこで語られた言葉は主の憐れみは尽きなかったです。
主の憐れみは尽きなかった。
私たちがどれほど神様から離れていたとしても
私たちの上に鈍点が覆って何も希望が見えないと思う時であっても変わらない事実は何か
主の憐れみは尽きない。
祈りは聞かれず見えるところに主の御業を起きていないように見えるかもしれません。
しかし主の御業は既に私ではない誰かを通して祈りの答えとして動き始めている。
その事実を私たちはもっと認めて良いのではないでしょうか。
先に鈍点しか見えなくても大丈夫ということです。
大丈夫です。
明星は輝いています。変わらない憐れみがあります。
だから私たちはどんな時でも黒雲を抜けてそれを越えて去っている神様の約束と希望を仰ぎ続けて良い。
希望はなおあると言えるのです。
病と死を前にした八幡世郎先生の証し
一つの話をして終わりますが
司法に掲載をいたしました。
昨日八幡世郎先生が御焦点なさいました。
今年の3月に先生は癌が発見をされました。
発見された時は既に末期でありました。
しかし先生は動揺されなかったということを聞いております。
天国の希望を語ってきた以上語った希望に自分は生きなければならない。
そう決めて歩んでおられたということ。
ただ言うはやすし生きるはがたしでしょう。
ただ先生は本当にその通り生き抜かれました。
死を前にして天国の希望を失わない。
誰にもこの希望を失わせない。
そう明かしするかのように最後の歩みを私も断片的に聞いておりましたが
素晴らしい歩みをなさっていました。
7月8月に一回ずつ講壇に立たれて
そして9月にももう一度御用の予定があって説教を準備されていたそうですが
病台が変わって先生は病院の看護ケアに移られて
そして昨日滅されました。
9月に河原崎先生が病院に移られた後ですね
八幡寺先生も訪問に行かれたそうなんですが
その時部屋に入って河原崎先生を見て
開講一番おっしゃったことは
先生恵みや!っていうことです。
先生恵みや!
昨日私たちも聴聞にお伺いしましたが
生きることはキリスト、死ぬことは益
その時に先生がなさるはずだった作成途中の説教原稿が配布されておりました。
その一部を少し抜粋してご紹介させていただきますが
先生は9月の昇天日記念礼拝にお語りになる予定だった
その時にこういう言葉を用意されていました。
私は看護ケア中です。
それだけに生きるということ
死ぬということを考える機会が多くなりました。
司徒パウロは生と死についてどう考えているか
それは私の大きな支えとなりました。
フィリピス書の1章の21節
私にとって生きることはキリスト
死ぬことは益です。
ここに生きるということが記されています。
誰のために生きるのでしょうか
キリストに生きるということです。
それこそが幸いな生き方だと思うのです。
それは献身者でなくとも
全てのクリスタルの願いになってほしいと思わされます。
また死についても教えられています。
死ぬことは益です。
日本人は死についてあまり話をしません。
縁起でもないからでしょうか。
しかし、フィリピス書の2章、1章の22節
しかし、肉体において生きることが続くなら
私の働きが身を結ぶことになるので
どちらを選んだらよいか私には分かりません。
ここで絶筆です。
召される直前、最後に口談を立てる時まで
死ぬことは益ですと語らんとしている。
死ぬことは益ですと語らんとしている。
がんの病の中で
死を前にして
それでも
生きることはキリスト
死ぬことは益ですと
キリストが活発に生きることができる。
そのことを
最後まで明かしなさってくださった
そのようなことを
つくづく覚えて感謝をいたしました。
いかなる状況であったとしても
キリスト社は希望が尽きません。
こんなところで希望を抱いてもいいの?
どこにその根拠があるの?と私たちを
いろいろなことを言う言葉がありますが
しかし、希望は尽きません。
人生の存天の中でも
死と病を前にしても
私たちの主であるイエス・キリストは
死に勝利をなかり
悩みを切り開き
私はすでに世に勝利したと語り
その勝利の道筋に
私たちを捉えてくださっている。
どんな時でも
希望を持ちなさい。
大丈夫だ。
私があなたとともにいると言ってください。
私たちはそれぞれ生きることにも
死ぬことにも恐れがあります。
ただ、私たちはキリスト社である以上
しっかりとこのことを握りたい。
主にあって私たちは
希望は尚もある。
そう確信を持って
生きてよいのです。
一言の祈りをいたします。
39:31

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