祈りの重要性
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちを主の御前へと招いて下さり、
共にあなたの御前に静まり、あなたの御声を聞こうとしています。
どうか私たちの心の目を開き、
あなた御自身の語られる言葉に、
心を開いて受け止めることができますように、
かえりみて下さい。
あなたは私たちを限りなく愛し抜いて下さり、
巫女イエス・キリストの十字架によって私たちの罪はあがない。
それだけではなく三日目に甦えられた命、復活の命を私たちに与え、
永遠なる人と共に生きる永遠の命を私たちに与え、
あなた方はもはや一人ではない。
私の恵みによって生きるのだと、
あなたがどんな時もいつも私たちとどこまでも共に歩んで下さる、
そのような恵みの世界へと招き入れて下さったことを感謝いたします。
どうか主よ、あなたの豊かさを知りたいと願います。
どうか御言葉を開いて下さって、
そしてまた本当にあなたは生きておられることを知ることができますよう、
かえりみて下さい。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、
ご病気の方や心に痛みのある方、
そしてまた心がここに向かない方もいらっしゃいます。
ご自宅で礼拝を守らざるを得ない方もいらっしゃいます。
神様がお一人一人を覚えて下さり、
その心に慰めを与えて下さい。
不良の痛みの中にある兄弟姉妹を、
なおも慰めて下さって、
あなたが癒して下さいますように、
お願いいたします。
これからの時をみてに委ねます。
御言葉を開き、私たちを導いて下さい。
イエス様の皆によって祈ります。
アーメン。
三畳の説教の主題
1週間休暇をいただきましてありがとうございました。
リフレッシュ、少しできたような気がいたします。
またよろしくお願いいたします。
先週告知しておりましたが、
今朝からはしばらく、
ご一緒に三畳の説教を見ていきたいと、
そう願っております。
三畳の説教といいますのは、
聖書の中でも特に人気のある箇所と言えるかもしれません。
それは美しい理想を描いている、
美しい言葉のように聞こえるからでしょう。
例えば皆さんよくご存知の通り、
あなたの右の頬を打つ者には、
左の頬も向けなさいという言葉であったり、
自分の敵を愛し、
迫害する者のために祈りなさいという言葉。
これ全て三畳の説教の言葉ですね。
この言葉の通りに私たちが生きれるならば、
戦争なんか即座に終わるはずです。
平和はすぐにでも築かれるでしょう。
しかしこの世界、いえ私たち自身を見ても、
こんな生き方果たして誰ができるだろうかと思うわけですね。
そのため三畳の説教といいますのは、
時に絵に描いた文字、
美しいのだけれども、
しかし現実離れしていて実用的ではない。
そのような教えにも取られてしまうことはあるでしょう。
ただですね、
これは美しい教えだなと見つめるために
イエス様はこれを語られたのでしょうか。
いやそうではないですね。
私たちはこれまで三畳の福音書を一通り読んでまいりました。
その中で知ることは、
この言葉を人々の前で、
いやあの十字架のその場所で生き抜かれたのはイエス様だということですね。
いわば三畳の説教といいますのは、
マタイの5章から7章に置かれますが、
これはこの後イエス様はこのように生きますよというような
イエス様の宣教の主題なんです。
このように私は生きるという、そのような主題でもあります。
そしてここでイエス様は実現不可能な努力目標を提示しているのではないです。
三畳の説教というのはこれは告知です。
これは告知なんです。
いわば聞いている人たちに、
神は新しいことを始められたという告知なんですね。
そのように聞かなければならない。
すなわち、頑張りましょうねと言っているわけではないんです。
頑張りましょうねではなくて、
聞きなさい、神様はあなた方に新しい身業を始められたんだという、
その告知として語られる。
それが三畳の説教です。
そのためにこの説教に対するあるべき応答というのは、
私はできませんとか、私はできてませんという自責ではないです。
そうではない。
神様の新しい身業に対する驚きと感謝を持って私たちはこの説教に応えていく。
主はそのようなことを始められたんですか。
そしてそれは私たちのためにと。
そしてこの三畳の説教は旧約聖書からのまた一連の流れにも立っています。
そのようなことも踏まえながら今朝は少しこの最初の五章の一節から
十二節に何が書いてあるかを覚えたいと思っております。
二つのポイントでお話をさせていただきます。
第一のポイント、三畳の説教で語られることそれは、
この世界を光とするために神は新しい業を始められたということです。
神はこの世界を光とするためにこの新しい身業を始められた。
少し最初なので相論的な話をしてしまいますけれども、
神の新しい業
三畳の説教といいますのは、これは五章から七章にわたって語られている言葉です。
ただ中心点が明確にあります。
三畳の説教の中心点はどこかといいますと、
それは六章にあります主の祈りです。
六章の九節から十五節に主の祈りが書かれてあります。
そしてその主の祈りをぎゅっと、どのように祈れとイエス様は言っているかといわれますと、
代表するのは六章の十節です。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように。
地でも行われますように。
私たちは先ほどもお祈りをいたしましたが、
イエス様はこのことを願って祈りなさいと言われたのです。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように。
地でも行われますように。
いわばそれは、天において完全に行き渡っている神様の愛の御支配ですね。
恵みの御支配です。
そして秩序立っている平和の御支配。
それがこの地上でも実現するようにあなたたちは祈りなさいということをイエス様は言われるわけですね。
これこそまさにイエス様の使命でした。
天において神様の完全な支配をこの地上において生きる。
だからイエス様が行かれるところでは神様の恵みが表されていくんですよ。
天における現実をイエス様は生きるんです。この地上において。
言うまでもなくこの世界には数え切れない痛みがあります。
そしてこの参上の説教でイエス様の前に集った群衆はまさにそのような痛みを代表するような人たちでした。
4章の24節にイエス様の前に集った群衆たちの姿が描かれていますけれども、
4章の24節にはこういうことが書いてありますね。
イエスの評判は知りや善意気に広まった。
それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊に疲れた人、天官の人、中部の人など病人たちを皆身元に連れてきた。
イエスは彼らを癒されたということが書いてありますが。
病気、悪霊つき、貧しさ。
世界は痛みを歪んでいるわけです。
しかしその闇が支配するその地においてまさに天国を生きる。
それがイエス様の姿です。
神の恵みの支配を生きる。
それがイエス様の使命でした。
そして先に結論的な話を申し上げてしまいますが、
参上の説教の目的というのは、この神様の恵みの支配が私を通して始まったんだから、
みんな入っておいでということがこの説教の目的です。
みんな入っておいでということです。
どうすればイエス様のように天国を生きることができるのでしょうか。
それはシンプルに一つです。
イエス様についていくことです。
イエス様についていくことですね。
神様がまさに新しい御業を始められたわけですけれども、
それは何かというと、
イエス様において、いやイエスキリストを通して、
この世界に神の国の現実をもたらした。
それが神様が始められたことです。
イエス様を通してこの世界に天国が見えるようになったんです。
天国というのはこういうところなんだと見えるようになったんです。
これらの目的はちょっと長くなって申し訳ないんですが、
旧約聖書のストーリーに遡ることができます。
私たちは創世記を知っていますが、
創世記というのはまさに罪に陥った人間によって、
この世界に暗闇が訪れるようになったということでしたね。
世界は闇に変わってしまいました。
しかし神様はこの世界に光を灯したいと願われるわけです。
どうされるのか。
イスラエルの民を選び、エジプトから脱出をさせて、
彼らに航海を渡らせて、
地内産で彼らに立法を与えて、
アラノの40年で彼らを訓練して、
そのことを通して彼らをこの世の光として生かそうとしたわけです。
暗闇を照らす光として。
出世エジプト記の19章あたりにはそういうことが書いてあります。
しかし私たちは史詩記も読んだから知っています。
そうはならなかったわけですね。
けれどもお気づきでしょうか。
マタイの福音書というのはイエス様をイスラエルの歩みと重ねて描きます。
幼少期のイエス様はエジプトに逃げた後、
エジプトから帰ってくるんですか、リライに。
イエス様の洗礼と試み
そして青年になったイエス様が通られたのは、
ヨルダン川での洗礼は高海を渡ったことです。
そしてそこにおいてイエス様は40日の試みに遭われる、
40年のイスラエルの試みです。
イスラエルは40年の試みでダウンしてしまいましたが、
しかしイエス様は40日の試みを通り抜かれ、
それはイスラエルが達成することのできなかった使命を、
このイエス・キリストは達成するということをマタイの福音書は語っている。
そしてマタイの五章が三章です。
これはシナイさんの三章で立法が授与された光景と重なります。
何を言いたいのか、
イスラエルはこの世の光として生きることができなかったけれども、
イエス様はまさに誠のこの世の光としてこの世界で生き抜かれるのだということをマタイの福音書は語る。
イエス・キリストから光が始まる。
まさに新たな立法、新たな神の言葉、
それが今群衆の前で語られ始める。
そのような光景を設置している。
マタイの福音書はそういうことを主張します。
暗闇の世界に光を灯すため、
地上に天国を実現するため、
そのために働かれるのは神様ご自身、
そしてイエス様が働かれる。
前置きが長くなりましたが、2つ目のポイントに見てまいります。
神の新しい業の告知
そのようにイエス様は動かれるわけですが、
イエス様はそういう私たちを何に招かれるのか、
主と共に使命が与えられるのだから使命を生きなさいということです。
使命を生きなさいということです。
今日お開きいただいたこの5章の1節から12節に改めて目を止めてまいりますと、
先ほども申し上げましたが、
イエス様の前にいたのは群衆たち。
しかし闇の中を生きている群衆たちでした。
悪霊に疲れ、病を持ち、貧しい人々。
しかしそのような彼らに、
イエス様は神の新しい業が始まったと告知をする。
3節から12節の言葉といいますのは、
3つぐらいに区分できるかなと思います。
1つ目は3節と4節ですね。
ここで言われているのは、
神はあなた方を見捨てず、あなた方を慰めるお方であるということです。
3節から4節を読みしますとこういう言葉です。
心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちの者だからです。
悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからですというのですね。
心の貧しい者は幸いですというのは、
神科学の下の注釈には、
霊において貧しい者という訳もあるということが書かれてあります。
まさにこれは彼らの現実です。
つまり貧しさというのは物質的に貧しいだけではなくて、
彼らは霊において貧しかった、
いわば自分の心の貧しさを知っている者というふうにもよく解釈されますが、
ただ具体的に言うならば、
彼らは神様の霊廃に行けなかったんです。
悪霊つき、貧しい者、病人というのは霊廃に集えません。
街道の霊廃にも行けなければましてや、
神殿の霊廃にも行けません。
そういう人たちは一般的に、
神様の愛からあなたたちは外れている。
あなた方は神様との関係は断ち切られている。
あなた方は呪われているんだというふうに一般的に思われていました。
貧困や病や抑圧や差別、
何より私は神に捨てられているという痛みは、
とてつもない悲しみであったと思います。
しかしそのような悲しみの中にある彼らに向かってイエス様は告知されるんです。
あなた方は幸いなのだ。霊において切れていると思っている。でもあなた方は幸いだ。
神はあなた方を決して見捨ててなどいないというんです。幸いである。
むしろ悲しみを抱えているあなた方こそ、
神は御国、神の支配、恵みの支配に招いているのだ。
入っておいで、神があなた方を慰めてくださるんだ。
そのことをイエス様はここで言われるんですよ。
それだけではありません。そのようにある種人々から見向きもされない、神から遠く離れていると思われている彼らに対して、
イエス様は使命を与えられます。
第2話5節から7節です。
入和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
憐み深い者は幸いです。その人たちは憐みを受けるからです。
入和な者は幸いですと言われます。
ただこの入和という言葉をヘリクダってだとか謙遜とも訳されますが、神様の目から見たらそれは美徳なんですが、
当時のローマの社会においてはこれは無別用語でして、名もないとか力がない、無力なという意味も持ちました。
いわば名もない、無力な。
人々は入和なんですが無力です。
しかし神様はそういう名もない無力なあなた方を地を受け継ぐ者として選ばれたと語るんですね。
地を受け継ぐ者としてあなた方は選ばれた。
神様がいわばあなた方一人一人にこの世界を正しく治めるための使命を与えているんですということを言われるんです。
そのような使命をあなた方は持っている。
だからそのために義に飢え渇くことが必要なんです。
憐みの心が必要です。この世界を共に治めるためにですね。
神様はあなた方に正に正義を教えてみたし、神様の憐みを体験する中であなた方の心に憐みを育んでいく。
そのようなことを語られる。
平和を築くための招き
第二コリントの1章の4節でパウロが似たようなことを語りますね。
私たちは慰められるから慰めることができる。
神の慰めを得ているから私たちは慰められる。
ただし、そのように私たちは選ばれ使命を与えられるんですが、しかし決して容易な道ではない。
三つ目にイエス様が言われるのは8節から11節です。
心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
私たちのために人々があなた方を罵り、迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、あなた方は幸いです。
あなた方は選ばれ使命が与えられた。しかしその使命は何か。
神と共に平和を築くために苦しもうという招きです。
平和を築くために苦しもう。
世界を治める者としてあなた方に使命を与えると言われる種は、
まず神様はご自身の前に対しては心が清くありなさいということを求められます。
心が清くありなさい。
心が清いという使われているこの言葉は純粋、ピュアという言葉です。
いわば混じり気がないということですね。
私たち人間は必ず罪を犯します。必ず失敗をします。
しかし心が清いということは何かというと、その過ちを放置しないということです。
過ちを放置せず悔い改めるということ。
詩編の中でダビデが歌いました。
神への生贄は砕かれた悔いた魂である。
それを神は何よりも喜ばれると歌いましたが、
神様の前に自分自身が砕かれ変えられていくという大切さを知っていること。
実はそれが心が清いということです。
これはなかなか容易ではないですね。
私自身も容易ではないなと思いながら日々取り組んでいます。
そして神の前に心が清くあるものは、人の前にはどうであるのか、
平和を作るものになりなさいということを言われる。平和を作るものになりなさい。
これは元の言葉はそのままです。平和を作る、その言葉の通りです。
英語で言うとピースメーカー、まんまその言葉です。
それこそが神の子であるということが語られる。
ただ平和を作るということは容易ではないわけです。
書かれていますが、義のために迫害され、罵られ、悪行を浴びせられるということが起こり得る。
私たちの現実でもあるでしょう。いじめを告発すればいじめられるということはよくある。
正しく生きるということはいつもリスクが伴います。
そしてまた平和を作るためには、喧嘩の仲裁に入るということかもしれません。
破れ口に立つということかもしれません。
面倒事が見えてなお、いや、無責任な責任転嫁がされることが見えてなお、
犠牲と努力と覚悟を持ってそこに一歩踏み込まなければならない。
そうしなければ平和を築くということはなかなかできないというのは事実ではないでしょうか。
誰かの平和を作るためには必ず痛みが伴います。
なぜなら痛んでいる世界を癒やそうとするならば、その痛みの中に帰っていかなければならないからです。
しかしイエス様は言われるのです。十二節。
喜びなさい。大いに喜びなさい。
天においてあなた方の報いは大きいのですから、
あなた方より前にもいた預言者たちを人々は同じように迫害したのですと言われる。
無茶だなぁと思いながらも、しかしイエス様はそう言われるのです。喜びなさい。大いに喜びなさい。
天においての報いがあるということも言われます。ただそれだけではなく、
平和を作るために犠牲を払い、痛みを負っているならば、それはあなたは一人ではない。
神の前に真摯に生き抜いた多くの預言者たちと共に、あなたは道を共にしているのだ。
いや、何よりも私たちは知っています。イエスキリストご自身がこの道を歩まれた。
平和を築くための招き
そして私たちはイースターを経て、もう一つのメッセージを受け止めなければなりません。
よみがえられたイエスキリストは、今もこの世界に痛みを伴いながらも、平和を作るために、
破れ口に立って働いておられるということです。今も主は生きて、破れ口に平和を築くために戦っておられる。
2000年前に始まった神様の新しい御業というのは、今なお及んでいます。
私たちはそう思いながら見るとがっかりするかもしれません。世界はなかなか変わりません。
しかし私たちは同時に、いやそれでもその中にあって、神の国を生きた生徒たちによって、ここに平和が築かれたという現実もまた目にしているはずですよね。
それは有名でなかろうとも、破れ口に立ってあの人がいたからそこが繋がれたという人はいるのではないでしょうか。
平和を作る神の御業は今なお終わっていないのですね。
そして参上の説教を読み始めていく私たちは今、この平和を作るために生きておられる主が、今なおそこで戦っておられるその現実にどう答えるかということが共に問われるわけです。
イエス様はなお働いていく。あなたはついていくかということです。あなたはついていくか。
イエス様と共に痛みながら平和を築き、イエス様と共に御国を生きるようにと私たちは招かれるのです。
努力目標であるならば。
努力目標というのは基準が私たちの中に置かれますね。私が努力できそうかどうかということが基準です。
しかし参上の説教は努力目標ではありません。私たちの努力には限界があります。
しかし参上の説教は神の福音の告知です。
その告知に応答するということは、イエス様についていくならばその力の軌軸は神の力です。神の力です。
イエス様の力です。私たちに何かができるできないの話ではない。
神様が私たちを慰め、選び、使命に立たせて用いてくださる。
神の力とその現実
イスラエルの旧約聖書の時代から変わらないことは一つです。力は主のものです。力は主のものです。
主の力によらなければ私たちはこんなこと何一つできないですね。
私たちはそれぞれどこに召されているかなということを考えることは大事だと思います。
平和を作るというと何か大行なことに聞こえますが、しかし敗れ口というのは私たちのそこどころにあるんです。
神様は不思議なようにそこにお前行くかという何かサインを示してくれたりするんですよね。
私たちはそのところで祈りながら私の現実にある敗れ口にそこに主が立っておられるならば私はどうするんだろう。
私はあなたについていきます。そこが戦いかなと思いますね。
参上の説教を最初に聞いた群衆たちというのは、イエス様の言葉に権威があることを驚きました。
7章の最後の方にはイエスの言葉に権威があることに驚いたと彼らは語ります。
この説教を最初に聞いた人たちは思ったかもしれません。そんな馬鹿なことあるはずがないだろうと。
私たちは現代風に言うならば、悪い例えかもしれませんが、ホームレスの方々を集めて、
あなた方こそ愛されていてこの世界を治める使命があるんだということを言っているようなものですよ。
かなり過激です。かなりラディカルです。まさに世界をひっくり返すような言葉です。
しかし福音書を通して語られたのは、イエス・キリストは世界をひっくり返したということです。
世界をひっくり返した。
私たちは敗れたままで当たり前とする世界に、そのひっくり返す種の技と共に使わされていく。
イエス様って穏やかでありながら過激なお方です。
私たちの現実の、既定の現実を価値観をお物の見方を根底からひっくり返すお方ですね。
でもおそらくイエス様は言われるのです。
いやいや、それこそが本来の世界の姿だからと。
それこそが本当の世界の姿だよと。
そのような幸い、それに加わり、その世界に幸いを作る道筋を私たちは招かれている。
参上の説教をこれから読んでいきますが、そのようなある種の衝撃をそれぞれ受けながら、
ああそうだと、そこに主が立っておられるんだということに目を開きながら、
ご一緒に主についていきたいなと思っております。
一言大におりをしてメッセージを終わります。