ところが皆さん聖書の中で一番禁じられる言葉があります。
これが心配、恐れ、騒がせる、これは聖書は禁じられています。
なぜなら、なぜ心配、恐れ、このことが入ってくるんでしょう。
この手どころはどこでしょう。 これは悪魔からです。
ローマ書8章15節に、恐れに陥れる霊と言います。 これは悪魔です。
悪魔は私たちを恐れに陥れる霊です。 神様は私たちに平安を与えてくださる神様です。
シャロームと平安、天国の安息と平安です。
しかし悪魔は何をするんだとしても恐れを入れます。 心配、不安を入れます。
ですから悪霊に取り憑かれたじゃなくても、世の中で悪霊の支配下にある人の独長は不安です。
心配、悩み、どうしよう、どうしよう。 また精神病に近い鬱病とか問題がある人は震えます。
見たことありますか。私はいろいろ見たことがあります。 体が震えて何にもできないようになります。
これは悪魔に捉えられた人の独長です。 何にもできません。
いくら頭が良いとしても精神的に不安症が入ってきたら何にもできなくなります。
私たちもたびたびそのことがあるでしょう。 病気にかかった、子供に問題が生じた、家にいろいろなトラブルが来た。
その時私たちも不安になるんじゃありませんか。 これが長引いてはいけません。
イエス様はそれを早くやめなさいと言います。
私たちが心配をやめるためにはどうすればいいのか。 これを今日一緒に皆さんと分かち合いたいと思います。
イエス様は弟子たちにあなた方は心を騒がせてはなりませんと言います。
なぜ心を騒がせたり心配したり悩んだりしてはいけないのか。
心配をそのまま置いておけばだんだん大きくなります。
不思議に心配が大きくなって、 皆さん心配を持っている人はいつも最悪の状態を想定します。
ああこれが生じたらどうするか、これが来たらどうするか。 だんだん膨らんでしまって、
あとは自分がもう勘になることはできないようになり、 ついにダービーたら鬱病になります。
ですから21世紀は鬱の時代だというのは当たり前。 最後の時になればもっともっと悪魔の働きが強くなる。
2番目、心配が長引いたら礼儀的にダメになります。 全てが塞いでしまいます。
だから心配を持っている人は神様も思い出しません。 使命も目に見えません。
ただただ今の目の前の問題、これ解決、これどうしようどうしよう、こればっかり考えます。 だから礼儀的に何にもできない人になります。
また心配は私たちに何の役にもなりません。 心配するんだって問題解決できますか。
むしろできることもできなくなります。 私たちは大抵罪とは戦わなきゃと思います。
しかし心配には心配するのは当たり前じゃないかと思います。 そうではありません。
罪と戦うように心配とも戦わなければなります。 イエス様心配するなと言います。
イエス様心配をしてはなりませんと言いながら2つ解決案を教えてください。
これがヨドハネ14章1節です。 心を騒がせるな、神を信じなさい、そして私を信じなさい。
心配を乗り越える、心配を勝ち抜く方法は何ですか。 神を信じることです。またイエス様を信じることです。
心配は神を信じイエス様を信じることじゃなければ心配を乗り越えることはできません。
永遠に心配ばかりする人になります。 では神様は私たちのために何をされたんでしょう。
神様の一人っ子も私たちのために惜しみなく与えてくれた。 じゃあ皆さん私に聞いてみてください。
私の息子を皆さんのために 渡してあげる。
難しいですね。私は牧師だとしても私の息子を皆さんのために犠牲してあげるということはなかなか難しいことではないでしょうか。
しかし神様は私たちのために 神に逆らう私たちのためにご自分の一人っ子を犠牲にしてください。
一人っ子まで犠牲してくださった神様が何をしてくださらないと思いますか。 神様は全てやってください。全てやってください。
だから神様を信じるなら神様は私たちを全てやってくださり最後まで守ってくださいます。
だから神を信じることによって心配はやめなさいということを始めます。 またイエス様を信じなさい。イエス様は私たちに何をしてくださったんですか。
私たちを愛して私たちの罪を全部背負って 十字架で代わりに死んでくださりました。
偽人ではなく罪人のためにイエス様が死んでくださったとするなら イエス様は私たちのために何をしてくださったんですか。
ああ神様イエス様は私を助けてくださるはずがない。 なぜなら私は神様に罪を犯したんだよ。
イエス様は罪を犯した。罪を犯した私のために何がしてくださるのか。 違います。罪人だと分かって私たちのために身代わりとして死んでくださったんです。
この神様イエス様が私たちの人生を責任を取ってくださらないと思いますか。 責任を取ってくださるんですよ。
それを信じなければ。 イエス様は赤ちゃんのような私たちを置いていてイエス様は離れてしまう。
イエス様はもうほったらかして無責任に離れてしまうと思いますか。 いいえ、私たちのために全てを面倒を見てくださいながら全てを整えてくださいながらイエス様はしばらく離れていらっしゃる。
イエス様がいなくなっても何の問題がないようにちゃんとしてくださる方がイエス様なんです。
ですからイエス様を信じなさいということです。 イエス様は私たちを最後までケアしてくださるお方です。
そうではどうすればいいんでしょう。 では私たちは神様とイエス様に祈りをもって
任せ助けを求めなければなりません。ですからタイニペーテル5章7節
思い患いは何もかも神にお任せしなさい。 神があなたたちのことを心にかけてくださるからです。
心にかけてくださるという英語で聖書ではケアしてください。 ケアフォー、ケアしてくださる。
皆さん、看護師さんが看護師さんをケアしてくださるように。 神様は私たちを全てをケアしてくださるんだということを信じてください。
私たちも過去、罪が多かった。 罪が多かった私たちを憐れんでくださって、恵みを与えてくださって、救ってくださり
今まで導いてくださったんじゃないですか。 今まで私たちを顧みてくださったんじゃないですか。
私の人生を振り返ってみますと、私が神様にやったことはもう罪しかありません。
この私たちを神様愛して恵みを施してくださり、今まで安全に全てを満たしてくださいながら、今まで導いてくれる。
今までやってくださった方がこれからはやってくださらないと思いますか。 これよりもっともっと私たちを安全に守ってくださるでしょう。
ですから私たちは神様とイエス・キリストに任せて祈らなければなりません。
結局私たちが委ねるお方は神様とイエス様しかいません。 これを信じなきゃいけません。
また2番目、心配を勝ち抜く2番目の方法は、私たちの究極的な目的である神の国、
父の家のことをよくよく毎日考えなければなりません。 2節3節です。
私の父の家には住む場所がたくさんある。 もしなければ私はあなた方のために場所を用意して行くと言っていただろうか。
行ってあなた方のために場所を用意したなら、戻ってきてイエス様は再臨なさってあなたたちを私のところに迎える。
こうして私がいるところにあなたたちもいつも共にいるのである。 イエス様が再び来られる理由は何ですか。
私たちは天国に導くために来られる。 イエス様の再臨がもう近づいたと言います。近づいたです。
だから私たちはもう後ほど天国に行く。 天国の素晴らしいところに行く私たちです。
だからあんまり騒がせるな、心配するな、悩むなと言われていることなんです。
もともと私たちは創世紀2章で人間はエデンの園で非常に良かったです。 その時には心配ありませんでした。
ところが、チェイアークの知識の木の実を食べて神様から離れるところからエデンの園が消えてしまい、
もう貧困ということが訪れ、その時から悲しみが始まりました。 しかしイエス様はこのエデンの園よりはるかに良い父の家を私たちのために備えるために
昇天されたんです。 またイエス様が私たちを連れに
再臨されるんです。ですから心配するな。 私がやるすべてはあなたのためだよ。あなたたちのためだよ。だから心配するなと言います。
皆さん父の家、天国はこの世よりはるかに良いところです。
神の家、父の家、神の国、天国はこの世と比べられのほど素晴らしい。
だけど私たちは神の家、父の家、神の国、天国を考えたらいつも嬉しくなる喜びが満ちあうれる。
ああ素晴らしい素晴らしいところ。 それでいつも考えるべきです。
今皆さん私は70歳です。 70歳から私はこれからどのぐらいもっと生きると思いますか。
大抵80何歳かわかりません。 今皆さんに私たちは今出会っているところですが、10年後私がここにいるかいないかはわかりません。
私は確信しています。私は神の国、 素晴らしい天国に行くことを私は確信しています。
皆さん、10年後は今私は賃貸で住んでいるんですけど、10年後は
天国の宝石で作ったマンションで インスタマトと共に豊かに豊かに財閥のように生きること
財閥と比べられないほど素晴らしいところで生きる私たちになります。 10年後かもしれません。
だから私は心配しません。後ほど私は財閥ですから。 今もうお金があるかないかそんな関係ありません。今日も一食食べればいいかなと。
これでいいです。 天国はどれほど素晴らしいところです。
皆さんこの世でいくら うまく過ごしたとしても100年はすぐ消えてしまいます。
その後私たちには2つ 天国か地獄か残っています。
地獄は何ですか。永遠な罰です。 ものすごい熱い火の池の中で
水一滴与えられるところで、これは悪魔のために備えられたところだから、悪魔と共に永遠に罰を受けるところです。
神様はそこには誰も行かないように、1000年を1日のように神様は待っておられる。悔いを改めることを待っておられると言います。
また天国は永遠な祝福です。愛するイエス様と共にパラダイスで永遠な祝福と幸せの中で永遠に豊かに生きるところが天国です。
地獄は永遠に罰されるところ、天国は永遠に祝福されるところです。
ですから私たちは100年もいけないこの世の中で私たちがやるべき一番大事な準備は
天国に行く準備です。 皆さん天国に行く準備できていますか。
この世でどのように過ごしても天国は行かなければいけません。
世の中でいくら苦労するんだとしても天国に行くならその人は成功した人生です。
もうこの世でいくら豊かに過ごしたり立派に過ごしたとしても地獄に行くならその人は完全にダメな人生、一番かわいそうな人生です。
また2番目、私が命である。これもDo Lifeと書いてあります。
イエス様はその命です。
私たちは罪によって礼儀的に死んでしまったので、エデンの祖の父の家で永遠に生きる永遠の命が失いました。
しかしイエス様が言わね3書15世、16世。
神はその一人子をお与えになったほどに、両愛された一人子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためであろう。
そのためにイエス様は十字架で、御自分の知性によって私たちの罪の代価、罪の問題を全部解決してくださいました。
ですからイエスキリストを受け入れ信じる人にはその罪が許され、永遠の命を得ることができます。
この永遠の命を持っている人が天国で永遠にイエス様と共に生きるんです。
この永遠の命はイエス様にです。
またイエス様は私はその道だと言います。
The Way
イエス様は真理と命によって父と私たちをつないでくださるこの唯一の道になります。
また神の国、天国、父の家に入る唯一の道になります。
先週私はこのメッセージを準備しながら、見言葉を読むときびっくりした見言葉があります。
皆さんご存知のものですけど、私はその時、今まで知っていたと思ったんですけど、私はその見言葉が改めて私にパンとぶつかってきました。
それが創世紀3章23節24節です。
主なる神は彼をエデンの園から追い出し、彼に自分がそこから取られた地を耕せることにされた。
こうしてアダムは追放され、命の木になる道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。
要するに天使たちによって天国にエデンの園に行く道が塞がれた。
守られた神様がちゃんと保管されていたということです。
アダムとエバがエデンの園から追い出された後、そのエデンの園は一体どこに行ったんでしょう。
神様が別に保管しておられるんです。
ではこの豊かなエデンの園、この祝福のエデンの園をどのように取り戻すことができ、
どのようにすればそこに行くことができるのか、その道がイエス・キリストなんです。
私は皆さんご存知の、これは当たり前だと思っているのに、なぜ先週私はこのメッセージを準備するときに、
なるほど、このエデンの園に行く、これが塞がれている、どこに行くかわからない。
しかしそこに行く道がイエス・キリストなんだ。
イエス・キリストを通して天国に行く、エデンの園に行く、神の家に行く、
それがバカのように私には照らされてしまいました。
そうだ、そうだ、皆さんイエス様はそこに行く唯一の道です。
イエス様以外、何によってもそこに行くことはできません。
ですから、使徒行伝2章から4章に、イエルサレムにペンテコスとリバイバルを聞いて、
それで、威厳を通して神の偉大な働きを述べ伝え、そして足が使えない人が癒やされ、
1日3千人、1日5千人が救われ、そして各家に人々が集まり、初代業界が始めようとするときに、
宗教使徒たちが大変だと思いながら、使徒たちを捕らえて、それで牢に入れていました。
この牢に入れたこの使徒たちに、あなたたちはこれからイエスという名前でこのようなことを伝えてはいけない。
殺すんだよと言って、そのとき使徒たちは何と言ったんですか。
使徒行伝4章中です。他の誰によっても救いは得られません。
私たちが救われるべき名は、天下にこの名の他、この名イエスキリストの他、人間に与えたことがありません。
イエスキリスト以外、私たちが救われる名前を与えたことはないということです。
これを使徒たちが、宗教使徒たちがイエルサレムでそれを明かしする。
イエルサレムはそのときどれほど怖かったでしょう。
明かしするんです。
そうしたら、この使徒たちの上に第二のリバイバル、第三のリバイバルが来て、彼たちが精霊に満たされて、
そして、イエルサレムだけじゃなくて、小アジア、ヨーロッパまで福音を伝えるようになるんです。
ところが、終わりの時になったら、教会が変質してしまう。堕落してしまいました。
そして、教会の信学者、牧師たちが何を言っているのか、宗教打言論を言っています。
これが、現代キリスト教の主流だと言います。
彼たちはこう言います。
山に登る道はいろいろあるけど、山の頂上に登ったら全部同じだ。
仏教は、シャカモニがキリスト、イスラム教はマオメトがキリスト、キリスト教はイエスがキリストだけだ。
頂上に登ってみなさい。全部同じじゃないか。
登る道が違うだけだ。
どんな宗教でも真理があり、どんな宗教でも救いがある。
だから、どんな宗教でも熱心にやればいいんだと言います。