祈りと平和への願い
お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
熱い日が続きます。
この世の中でしかし、主が私たちといつもともにいてくださり、
私たちが倒れきることはないように、どんなに弱ろうとも、
永遠の身腕は常に下にあると約束されるように、
あなたが支えていてくださり、今日また共に集うことができたことを感謝をいたします。
主よ、今年で戦後81年を迎えました。
今朝は少し先の戦争のことを覚えるそのひとときをお持ちます。
主よ、何と愚かなことを私たちはしたのかと毎年振り返りますが、
しかし同時に、同じようなことを今なお続けている人間であり、私たちであることを覚えます。
だからこそ、イエス様、あなたの道が必要であることを今朝もまた覚えます。
どうか主が御言葉を開いてください。
そして私たち、道揺れやすいものでありますけれども、
今一度、あなた御自身が十字架の血を持って私たちを贖い取ってくださり、
あなたの命によって罪が許され、永遠の命が与えられ、
永遠なる死と今は共に歩んでいるというその事実を覚えさせてくださり、
これが道だ、これに歩めと呼ばれるあなたの御声に、
聖母部はここにおります主をお語りくださいと、沈まってあなたに聞くことができますように、
このひとときをあなたが導き、どうか御言葉を語ってください。
お願いいたします。
特に、あなたが祝福のうちに先週のキャンプも守ってくださいました。
多くの中高生があなたによって恵まれ、あなたに応答をしました。
どうか主が中高生をなおも救い続けてくださいますように。
東京会からはイセリトワ君が行きましたが、
彼の魂を主がなおも導き握ってくださいますようお願いいたします。
また祈られたように、熊本の地では今朝も揺れがありましたけれども、
この時間同じように熊本の地では主を仰ぎ礼拝をしている兄弟姉妹がいます。
あなたを愛ぎ求めているお一人一人がいます。
どうか主がその地に憐れみと祝福の御手をもって臨んでくださいますように。
お願いいたします。
私たちが見るだけではなく、できる愛の手を差し伸べることができるように愛を働かせてください。
お願いいたします。
全世界においても本当に混乱がなおも続きますが、
あなたが世界の王です。
一斉者たちのうちになおもあなたが御手をおのべ、あるべき方向へと導いてくださいますように。
あなたへの最中にある地域をなおも主が憐れんでください。
命を失う方々がなおも起きていますが、
片わりにいてくださり、平和を築いてくださいますようお願いいたします。
これからのひとときを見てによだれます。
御言葉を開いてくださいますように。
あなたに期待をして、イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
キリストの道と戦争の乖離
毎年8月には一度、戦争のことを覚える礼拝を捧げたいと願っております。
今年で戦後81年を私たちは迎えました。
おそらく戦争を実際に体験した方々は、年々天に召されていくそのような状況の中で、
今なお世界には戦争が続いています。
特に最近では、アメリカと中東の戦争の中で、
そのアメリカの背景にはキリスト教保守、福音派の存在があるということが一時期取り立たされました。
はっきり申し上げます。私たちも福音派です。
であるならば、キリスト社は戦争を肯定するのか、
その背後に戦争を扇動するような思想が聖書にあるのか、
いろいろと心を揺さぶられ、お考えになられた方も多いかもしれません。
ただ、今朝最初にはっきりと申し上げたいのは、
戦争を推し進める歩みとイエス・キリストの歩みは異なるということです。
はっきり最初にこれを申し上げておきます。
戦争を推し進める歩みとイエス・キリストの歩みは異なります。
聖書の中には、よく二通りの戦争に関する考え方があると言われます。
旧約聖書を見れば、神様が神様の御心のために戦争をしなさい、
いわば聖絶、聖戦の思想が聖書の中にはある。
だから、正義のための戦争は肯定されるんだ、
そういう論調で言う人たちもいますが、
私個人の理解では、キリスト社はイエス・キリストを軸にして聖書を解釈するんです。
そうであるならば、イエス様は争いについて、戦争についてどう語っているのか、
ということに私たちは目を向けなければならないのです。
それが今朝、御一緒に確認をしたい、御言葉から御一緒に聞きたいことなのですね。
今朝は一つの御言葉に注目をさせていただきます。
先ほど二回読んでいただきましたが、
有名な言葉です。
イエスは彼に言われた、
私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通してでなければ、誰も父の身元に行くことはできません。
私が道であり、真理であり、命である。
では、このイエス様の道とはどのような道なのか、そのことを覚えつつ、
私は毎年できたら、夏場には一冊、戦争関連の本を読もうと努めておりまして、
今年はちょっと薄いのですが、
平和を受け継ぐ者に、戦争証言、使命と祈りという本が、昨年出された本です。
編集しているのは、奥田智子先生という、九州の方でNPO法人法木という法律支援をしている先生ですが、
その先生が戦争証言を編集している本です。
この本にも少し触れながら、共に御言葉を分かち合っていきたいと思っております。
説教用紙に、二つのポイントで今朝のお話を書きましたが、
二つのポイント、イエス様の道とは何なのか。
一つ目それは、イエス・キリストの道は、命の道であるということです。
命の道であるということです。
私は道であり、真理であり、命であると、イエス様はおっしゃられました。
このようなイエス様の言葉は、福音書の中で至る所で出てまいりますが、
私は命である、もしくは、私は命の丹であるということを、イエス様はおっしゃいます。
イエス様は、人々の命を奪うのではなく、
むしろ命を支える、いや命を与える丹である、その命そのものであると、イエス様ご自身が言います。
実は私たちは昨年、ヨハネの福音書を順に見てまいりましたが、
ヨハネの福音書の中には一つ特徴的なのは、このようなイエス様の、私は何々である、
ギリシャ語で言えば、エゴ・エイミー、私は何々であるという言葉が繰り返し出てきますが、
その証拠に注目をしても、イエス様は命であるということは明確なのですね。
この私は何々であるというのは、出会いに行く時の神様が、私はあってあるものだと言った、
あの言葉とイエス様を重ねて言っているわけで、
私は神であり、神である私はあなた方にとってこういうものだよということを言っている言葉ですが、
例えばイエス様はどういうことを言われたのか。
私は世の光であると言われました。
私は世の光である。
イエス様は人間が抱えるあらゆる暗闇に光を灯すために来られました。
イエス様は光そのものなのです。
イエス様は言われました。
私は命のパンである。
もしくは私は命の水である。
私から飲みなさい。
イエス様は人々のあらゆる飢えや渇きに対して、
その満足、そこに満足を与えるお方である。
そしてイエス様は言われました。
私は良い羊飼いである。
これは以前申し上げました。
良い羊飼いというのは、良い王様ですよという意味です。
それはまさに迷いやすい人間。
しかしその迷いやすい私たちを危険から
羊である私たちの安全を守ってくださる、
命を守ってくださる。
これはイエス様のことについて書いていますが、
実は旧約聖書を読んだら旧約聖書の神様も一緒です。
神様は命を奪うよりも与え支えるお方、守るお方ですね。
このようにイエス様の生き方というのは
人々の命を尊び、守り、生かすものである。
それがイエスキリストの生き様であり、
道であるということは、
聖書を読めば私たちは対外反対はしないのではないでしょうか。
共に同意できることだと思う。
そして戦争というのはその真逆の方向へと人間を巻き込んでいくわけです。
命を守るのではなく死へと追いやります。
光あふれていた日常を暗闇へと落とし込んでいきます。
そして戦争が始まれば、
命を奪われる恐怖と何よりも空腹に苦しみます。
食べ物がない。何よりも苦しいですね。
それはイエス様が願う、イエス様が築こうとした世界と真逆なんです。
ですから私たちキリスト社はこう思うかもしれません。
いや、イエス様がそのことを願っているのは明白なことではないか。
だから、そんなことをイエス様は望んでいないし、
教会もそういうことをしないのは当たり前じゃないか。
私たちは今そう思うことができれば幸いですが、
しかし毎年この場で確認をしますことは、
教会と戦争協力の歴史
そういうはずのキリスト教会もまた当時戦争を肯定し、
それに加担していったという歴史があるということです。
8月6日は広島の原爆の投下日でした。
その被爆地に立っている教会、
広島流れ川教会という教会が、日本キリスト教団の教会ですがあります。
有名なのは被爆十字架を掲げている十字架なんです。
戦前からあった教会が原爆にあって被爆した、でも十字架は残っていた。
その十字架を今もこういう形で教会に掲げているのが、
広島流れ川教会。
僕自身は向井丸夫先生といいまして、
大学院生の時にチャペルに来てくださってお話を聞いたことがありますが、
その先生がこの本の中で少しこのように書いております。
いわば戦争に加担した歴史についてこのように先生がまとめております。
ちょっとだけお読みするので聞いていただけたらと思いますが、
広島は原爆被害を受けた地ではありますが、
教会が戦争に対し否を唱えなかった事実も避けて通ることはできません。
残されている戦争中の修法を整理しデータ化していますが、
その中に教会が戦争に協力していた記録があるのです。
1943年1月31日の日曜礼拝式次第を見ると、
総額いわば全総ですね。
全総の次に国民儀礼があります。
球場用杯でしょうね。
報告欄には次のような記述があります。
金属改修運動に協力しましょう。
ご覧の通り、当教会は教出し得る全ての金属を教出いたしました。
栄光の日を迎えるまで一切のことを忍びましょう。
また同年11月7日には、聖戦必勝祈祷報告会、
報告というのは国に報えるですね。
報告会は市内の教会が集まって1週間開催したそうですが、
この報告会の目的として、
国土防衛公文の必勝、
全戦将兵の武運長給、
十五生産の増強熱願し、
もって我が聖戦の完遂を祈り抜こうと書いてあります。
戦争協力していた様子がよくわかる。
修法のその記録に残っていると先生は言っています。
当時、日本のキリスト教会というのはほとんどが国によって
立場を超えて日本キリスト教団というのにガンとまとめられました。
その大南支部に私たちの教団も所属しました。
そのような中で代表の富田光という人が
日本キリスト教団の代表にいましたが、
富田光は韓国に渡って、
いや日本の掲げている大東亜共栄圏こそが神の国である。
だからそこに加担し、
共に神の国を築こうと韓国の教会に迫りました。
韓国の教会の牧師は、
いや明らかにそれは偶像崇拝だろうと言って拒絶をしました。
拒絶した牧師は迫害し監禁され、中には命を奪われた方もいます。
そして日本の教会も礼拝の中で
九条要拝、卑弥迦要聖書を礼拝の中で行いました。
それは私たちの教団も無関係ではありません。
私たちの教団、教会も当時あった教会はそのことをしました。
なんと愚かな。
そういうことを81年経って言うことは簡単ですが、
ただ今東京でもまだ教えている山口陽一先生という
日本キリスト教師の専門の先生がいますが、
先生がある講演の中でこうおっしゃっていました。
富田光鶴の説教を見たことがあるか。
原稿残っているんですよ。
富田光鶴の説教は素晴らしいですよ。
霊的に誠実に神様を信じて語っている説教です。
戦時中もそのような説教を彼はしていたでしょう。
しかしその同じ人物がそのことをするのです。
戦時中の教会員や牧師がいい加減な人たちではなかったのです。
むしろ私たちの時代よりも気骨があって熱心に祈るような
しっかりしたキリスト者たちであった。
しかし恐ろしいことは、そのようなキリスト者が揃って
気づかぬうちに戦争を肩に進んだことこそが
戦争の恐ろしさである。
戦争が始まれば常識が変わります。
戦争が始まる前までは人殺しは局形ですよ。
しかし始まれば人殺しが仕事になるのです。
だから山口先生も言っていました。
戦争が始まったら今の私たちが信仰を守るということは
いかに困難なことか。
だからまず戦争はいかなる理由があっても始めてはいけない。
始めてはいけない。
ということをおっしゃっていたことをよく覚えています。
イエス・キリストの道:命の道、剣を捨てる道
先ほど読んだ向井先生の文章の続きに
こういう言葉があってと思いました。
この教会にはよく様々な教会やキリスト教学校の
関連の人たちが来て見学をするのですが
その見学者の方々に先生が必ず話す話に
こういうことがある。
原爆を投下した爆撃機エノラゲイは
従軍牧師の祈りによって飛び立ちました。
一方で広島の教会では
聖戦必勝の祈りがされていました。
祈りとは何なんでしょう。
戦争が始まると互いに命を奪うことを祈るのです。
そこには様々な理由があるでしょう。
大事な家族を守りたい。
みんなそうです。
その正しい動機をぶつけ合いながら人は命を奪い合っていく。
祈りとは何なんでしょう。
祈りとは私たちが敵がいて
敵を滅ぼしてくれという私の願いを
神様が聞いてくれることが祈りなんでしょうか。
そうではないでしょう。
祈りとは私の願いではなく
神様の御心がイエス・キリストの御心が
なることを願うことです。
最たる祈りはマルコの福音書の14章36節
ゲステマネの祈り
その歌詞をみなさんご一緒に読みましょう。
マルコの福音書の14章
マルコの福音書14章の36節
これは他の福音書にも書いていますが
ちょっとお読みしますとこういう言葉ですね。
マルコの福音書14章の36節
ご存知の通り十字架にかかる直前の
イエス様の祈りですが
イエス様はここでこう祈られました。
そしてこう言われた。
あば父よ、あなたは何でもお出来になります。
どうかこの杯を私から取り去ってください。
しかし私の望むことではなく
あなたがお望みになることが行われますように。
イエス様の道が最も示されているのは
十字架での歩みですね。
十字架に進まれるイエス様は
ご自身の望みがあるわけです。
本当は十字架なんか受けたくない。
苦しみたくない。
それを苦しみを避けれるならば避けていきたい。
しかしイエス様は十字架に進まれるその覚悟は
私の願いではなく
あなたの御心を成してくださいますように。
神様の御心はこの時何か
それは杯を飲めということでした。
杯というのはまさにここからイエス様に
立ち向かっていく人々の憎悪、怒り、憎しみ、罪。
人間の間に争いを生み出す様々な
このドロドロとした人間の罪の現実。
しかしそれを
杯を飲み干していく。
杯を飲み干す戦いに加わっていく。
それによって平和を築くというのが
イエス様の覚悟であり戦いであったのです。
私たちは思います
罪、呪い、怒り
そんなものを自分にぶつけられたら
飲み干すことなど容易ではない
いや私には不可能なのではないか。
しかしでは
じゃあいざ私たちは思うがままに
復讐に手を染めるならば
その復讐に心を預けるならば
自分の切除を進むため
進むために私たちは簡単に銃を握りますよ。
大事な人が撃たれたら
自分の体のどこかを欠損されたら
簡単に銃を向けますよ。
そして始まる降伏の連鎖は
どちらかが疲弊してボロボロになるまで
終結がつかない。
今世界で起きている現実ではないでしょうか。
その連鎖に加担をすることは
イエス・キリストの道ではないのです。
イエス・キリストのとった戦いの仕方ではないのです。
では私たちはそれではない道
どのように選べるか
もうちょっと進んで考えていきましょう。
二つ目のポイントです。
イエス様の道それは
剣を捨てる道であるということも覚えたいと思います。
このゲステマネの園でイエス様が祈られた後
よくご存知でしょう
ローマ兵たちがやってきて
イエス様を捕らえようとします。
その時にペテロが剣を抜いて
ローマ兵に斬りかかったという記事は
マタイの福音書に書いてあります。
ちょっとだけそこも開きいただけたらうれしいですが
マタイの26章の52節というところ
マタイの福音書の56章の52節
ローマ兵を連れてやってきたユダが
イエス様に口づけをして
そのローマ兵に対してペテロが斬りかかった
しかしイエス様はそのローマ兵の耳を癒されて
ペテロに言った言葉は
こういう言葉です52節
その時イエスは彼に言われた
剣をおもとにおさめなさい
剣を取る者はみな剣で滅びます
剣を取る者はみな剣で滅びます
剣を取るに正当な理由はいくらでもあげれます
しかし剣を取る者は剣で滅びる
そのあなたが一度握った剣の危険性を
イエス様は誰よりもご存知である
だからこの十字架のこの後
呪難の出来事が始まっていきますが
その時に皆さんに一つ注目していただきたいのは
イエス様の戦いはどういう戦いであったか
それは剣を握らないという戦いなんです
この箇所でもイエス様は
もしもここで私に襲ってくるならば
私は天の軍勢を呼んできて
彼らにぶつけることもできただろう
と他の勲章では言います
しかしイエス様はそうはなさらない
剣を握らない
イエス様はそのまま
人々の罪と呪いと怒りに囚われてまいります
その中で侮辱され暴力を受け
十字架に張り付けにされます
しかしその中でイエス様は戦うのです
剣を握らないという戦い
その戦いは人々の悪意にあってなお
最後まで剣
暴力を握らない
その戦いです
そして十字架に進む道で
主はその戦いを抜かれたのですね
象徴的なのは
平和への誓いと許しの重要性
あなたが神の子ならば自分を救ってみろ
一番最後に言われますね
違う 神の子だからこそ自分を救わなかった
剣を握らず 杯を飲め 愛を握れと
イエス様は十字架の姿で語りかけてくる
それは人々にとっては敗北者の姿に見えたかもしれません
しかし聖書はこのイエス・キリストの戦いこそ
真のキリスト社の戦いであり
勝利の姿であると描いている
実にラディカルで理想論です
しかし事実イエス様はそう戦い勝利をなさったのです
今朝は皆さんよくご存知の通り
8月9日は長崎に原爆が投下された日です
行かれた方もいるかもしれません
長崎の平和公園の中に
長崎の平和の母子像という像があるそうです
私は実際に行っていないので分かりませんが
ただそこでは毎年8月の1日
その平和公園の中で
長崎平和の母子像の集いというものが
毎年開かれるそうです
そこでその像に刻まれている秘文が
毎年生まれるそうです
この像は1987年私が生まれた年にできあがった
今から39年前にできた像ですが
その時の人たちが書いた秘文が
このようなものですので
ちょっとお聞きいただけたらと思いますが
長崎平和母子像の秘文です
男たちが戦場に向かった時
女たちもまた勝利を祈った
しかし広大な大陸や遥かな海の島々では
数知れない人々の血が流されていった
そしてついに1945年
沖縄での惨劇についで
8月6日広島
9日長崎への
非道な原子爆弾攻撃に至った
あああの閃光の下で
幾万もの男女
無数の母と子が焼かれ
引き裂かれ生き絶えた
あれから40年余り
今第2の核戦争へとシグナルは点滅し
地球は破滅の淵にある
戦争も核兵器も許してはならない
命あるすべての者が生きる
この緑の大地よ
地球を守ろう
それぞれのあの日を生き続ける女たちの
たぎる思いを一つに合わせ
再びあの惨禍を繰り返さぬ誓いを込めて
ここにこの像を建てる
戦後40年であれば
戦争経験の方々が
これを書かれたのだと思います
血を滲ませて平和を築くことを願った方々の言葉です
あの時私も戦争の勝利を祈った
しかし
その中で失われた多くの命を前に
そしてあの原子爆弾の惨劇を前に
誰が敵とか味方とか関係ない
明らかにこれは間違っている
人間に対して起きている所業として
これは間違っている
どんな理由があっても
戦争を繰り返してはならない
どんな理由があっても
核兵器を人間に対して使うべきではない
報復を手放し
二度と戦争を繰り返さないために祈ろうという言葉は
独特の重みがあります
剣を握らない
握らせない
それはまさに私たちも覚えなければならない
キリスト社の歩みであり生き様でしょう
最後にもう一つだけエピソードを紹介して終わります
皆さんもう説明は不要かと思います
香川豊彦先生のお話です
香川先生は戦後
日本中を走り回って大衆伝道に従事なさいました
その中でこの本の中に
北海道に香川先生の大衆伝道が来た時に
一緒に行使をした女性の方の証が書いてありまして
そのことをご紹介します
こういうことが書いてあります
当時北海道には国内外から何人もの宣教師が来ており
そのうちの一人に香川豊彦牧師がいました
私は香川伝道を豊かにしたいと強く思って
教会の青年たちと露坊伝道を始めました
銀行や消防署の近くや
人通りの多い町辻に立って
丸めた新聞をメガホン代わりに聖書を朗読し
賛美歌を歌いました
賛美歌
主我を愛すの第二節に入ろうかという時になって
そこにいた人たちから小石を投げつけられました
キリストは石をパンに変えたんだろう
パンをよこせ
と怒号を浴びてられました
周りにいた人々も
そうだそうだパンをよこせ
と叫び出しました
私は恐ろしくなって
思わず青年の後ろに隠れてしまいました
その日の露坊伝道を終えて
町で一番大きな劇場
仁王座というところに向かうと
そこには先ほどどなり声を上げた人たちなどで
あふれ返っていました
やがて劇場のどん調が上がり
香川先生が舞台の袖に出てきました
ちっちゃな体を折りたたみながら
先生は最初に大声でこう祈り始めた
おう神よ
彼らを許したまえ
彼らが怒るのは当たり前なのです
まったく私たちの罪でした
そのように先生は大声で祈り始めた
おう神よ
彼らを許したまえ
彼らが怒るのは当たり前なのです
まったく私たちの罪でした
辺りはにわかに静かになり
その後の香川博士の話を一生懸命聞いていた
私にはまったく
まったく私たちの罪でしたの意味が
つい最近までわかりませんでした
しかし香川博士はきっと
命からがら戦地から帰ってきた人々の苦しみが
痛いほどわかっていたのだと思います
そして戦争で振り回された人々に
平和にどのように関わっていけるのかを問うていたのでしょう
戦争の悲惨さを伝えていくことはとても大切なことです
ただそれだけでは平和は訪れません
日本は戦争加害者でもあることを
忘れてはならないと思うのです
平和を祈る私たちには
神と人、人と人との間に
許しが必要なのだと思っています
私たちの間に許すとの声が聞かれないうちは
この世の真の平和は来ないのだと感じています
私はこの言葉を読みながら
同じ牧師として身につまされる思いでした
自分がここに立ったから何を言うかと思いました
ただこれは全く私たちの罪でしたという
香川先生の言葉は
私はイエス様の悲しみ
イエス様の生きどおり
イエス様のやるせなさを
共に心に抱きながら
叫んだ祈りかなということを思いました
戦争の現実を前に
イエス様はどう見ておられるのでしょうか
あなた方は何と愚かなことをしたのか
何と道を踏み外してしまったのか
踏み外せばこうなることも容易に分かりながら
その現実に目を向けようともせず
沈黙のうちに流されるままに
共に争いを選んでいったのか
私がこの世界を
あなた方のことをこんなにも愛しているのに
イエス様の涙が
戦争には流れているなと思いますが
ただそのイエス様にまた涙を流させるような
キリスト者の覚悟とイエス・キリストの道
機運が今ないわけではありません
再び自覚的に争いを選ぶ道が
見えてきているように思います
しかし私は一人のキリスト者として
そして私たちはと言いましょう
私たちはキリスト者として
今朝の御言葉にとどまる覚悟が
必要なのではないでしょうか
覚悟です
私は道であり
真理であり
命である
私はイエスキリストです
イエスキリストこそ
この争いのために剣を最後まで握らずに
十字架でその戦いを戦い抜かれた
人々の命を奪うのではなく命を与えた
そのイエスキリストこそが真実の道である
それは私の道である
そうだ
この道を見失ってはならない
いやこの道を見失うな
私を見失うなとイエス様は私たちに語られる
私を見失うな
イエス様が十字架につかれたのは
罪人である人間がはじめ
時代を追って収集のつかなくなった
争いの連鎖を断ち切るために
イエス様は十字架へと進まれたのです
一人の国民として
一人のキリスト者として
報復の誘惑
怒りを今一度イエス様の十字架の前で見つめ
死の憐れみを祈るものでありたいと
そう願います
私たちの戦争は日常であふれています
その戦争をはじめ
戦争を続けるのも私たちの意思です
しかし私たちは覚悟を持つ
このイエスキリストの道が私の道だとするならば
私たちはいつまでそれを続けるのか
死の見舞いに私自身も憐れみが必要なものとして
食い砕かれながら
この方の道に最後まで歩み抜きたい
そのようなことを願うのです
そういうことを祈りをいたします