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2026/04/05:傷跡が拓く平和
2026-04-05 32:48

2026/04/05:傷跡が拓く平和

2026/04/05 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 -31


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サマリー

この礼拝では、加藤満牧師がヨハネの福音書20章19-31節に基づき、「傷跡が拓く平和」というテーマでメッセージを語りました。イエス・キリストの復活は、単なる歴史的事実ではなく、死に対する勝利であり、この世の支配者を打ち破り、新たな王としての支配を開始した出来事であると強調されました。弟子たちが恐れの中にいた中で、イエスは傷跡を示し、「平安があるように」と語りかけました。この傷跡は、イエスが十字架で受けた苦しみと、それにもかかわらず愛し続けた証であり、平和を築くための戦い方を示唆しています。 牧師は、イエスが剣ではなく、敵意に対して愛で応えるという、傷つけられてなお愛し続ける力によって勝利したことを説明しました。ペテロが剣で耳を斬り落としたのとは対照的に、イエスは「剣を鞘に収めなさい」と言い、十字架の杯を飲むことを選択しました。このイエスの姿は、平和を築くためには、相手を屈服させるのではなく、自らが傷つけられてもなお手を差し伸べ、許す勇気が必要であることを示しています。 現代社会における情報錯綜や陰謀論の中で、目に見えるものしか信じないという態度は理解できるとしつつも、イエスは私たちの信じる力の限界を超えて、聖霊を通して信じさせてくださると語りました。トマスがイエスの傷跡を見て「私の主、私の神」と告白したように、私たちも目に見えなくても、聖書の言葉と聖霊の働きによって復活の主を信じることができます。最終的に、キリスト教会は、イエスが示した傷跡を見て平和を築くという、損な役回りを引き受けることによって、この世に平和をもたらす使命を負っていると結ばれました。

祈りとイースターの挨拶
一言お祈りをいたします。
恵みと憐れみに富んでおられる、私たちの主であり、地から甦らされた主イエス様、心から貴方の皆を賛美をいたします。
貴方の復活を祝う、このイースターの朝を迎えております。
今一度、私たちは、貴方が私たちの罪のために十字架に死んでくださったこと、そして三日目に確かに産み返り、死に勝利をされ、そしてこの世界の支配者を追い出し、誠の王としてこの世界に君臨してくださった、貴方の皆を褒めたたえて感謝をいたします。
そして私たちは互いに、貴方こそ私の主、私の神であると告白する神となされました。
聖霊様が、私たちに信仰を与えてくださり、今一度この平和の主、復活し今も生きておられる主を私たちの王と仰ぎながら、私たちが生きることを許してくださっていることをありがとうございます。
復活、私たちの死の発報としてよみがえられた主がおられるからこそ、私たちは死に対してもはや恐れる必要はなく、死に対する勝利を握りながら歩むことができます。
それだけではなく、この争いの尽きない世界の中においても、私たちは平和の主が一体どのように戦われたのかを知っているからこそ、平和を作り出すものとして、この世界に使わされることができます。
どうか主よ、今朝も御言葉を通し、あなた御自身のことを示してくださり、復活の主こそが私たちの王であり主であると告白をすることのできる、その生き様を知りながら、あなたに従っていくことができますように、この一時を祝してください。
お願いをいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいらっしゃることも覚えています。
御自宅におられる方、心が痛んでおられる方、そしてまた施設におられる方、主よお一人一人のこともあなたを覚えていて下さりますから、どうか主よ、共にいて下さり、あなたの恵みをなおも注いでいて下さい。
お願いをいたします。
これからの一時を見てによだれます。御言葉を主が開いて下さいますように。
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
復活の事実とその意味
改めましてイースターおめでとうございます。
幸いな生活体の惨事とともに、死よりよみがえらされた復活の主イエス様を心からおめたたえます。
昨日はジュランビ礼拝を教会で祝いました。
改めて私たちはその時に、2000年前にあのエルサレムのゴルゴダの丘でイエス様が十字架にかかり死なれたという事実を思い起こしました。
それは歴史が認める事実です。フィクションではありません。イエス・キリストは2000年前に十字架で死んだ。
そして今朝の箇所は、そこからその日の週の始めの夕方と今日十九節にありましたが、まさにそこから三日目の朝、いや三日目の朝が過ぎてそして夕方を迎えるその時です。
一読されてお分かりの通り、弟子たちは恐れていました。
おそらく自分たちもイエス様のように捕らえられて処刑されるのではないかと恐れ、そして扉に鍵を閉めていました。
しかしこの彼らが数日後、いや数ヶ月後はっきりと、十字架で死んだイエス・キリストは三日目によみがえられた。
いやそれだけではない。私たちはその復活の証人であると命がけで述べ伝え始めました。異常な事でした。
当時のユダヤ教においても復活信仰というものはありました。しかしそれは、いわば世の終わりの時に、神に正しいと認められた者が一斉によみがえるという信仰がユダヤ教にはあった。
そこからしても、集団ではなくて、いやイエス・キリストただ一人が私たちの初歩としてよみがえったという証言は、当時の信仰のあり方からしても異常でした。突発的なものでした。
しかしその復活の主張を彼らは覆すことをせずに、むしろそれを中心に宣教をしていくわけです。そしてユダヤ教から分離して、独自の信仰告白、いやイエス・キリストこそが主であるという告白を形成し、キリスト教会は生まれてきました。
現代の信約学者、M.T.ライトという人がこういうことを言いました。
イエス・キリストの神体的復活という事態を想定しない限り、初期キリスト教の発生とその得意な変容を歴史的に説明することは不可能である。私たちは復活というものがフィクションではない、もしくは曖昧に語られているものではない事実、よみがえりがあったのだということを信じるものです。
そしてその復活というのは、あまりにも大きな主の御業でした。聖書は語ります復活は、それは死に対する勝利であり、それだけではない。主は十字架の復活によってこの世の支配者を追い出された。
よみがえられた主は、その時から世界の王となられた。神の右につかれた。つまり復活のその朝から、このイースターの朝から、世界の王は変わった。
2000年前のその時から、イエス・キリストがこの世界の王となられて、新たな王の新たな支配が2000年前から始まった。それは言葉を変えるならば、新しい創造がこの世界に始まったということを聖書は語ります。
そして今朝の歌書を見るならば、ヨハネの勲章が語るのは、でもそのような新しい王が立ち、新しい支配が始まったという出来事は、どこに伝えられていったのか。それは死の象徴である墓で伝えられたものであり、そして今朝の歌書を見るならば、それは弟子たちの心の恐れの真ん中に伝えられたのです。
恐れの中の平和と傷跡
今日読んでいただきましたが、19節にありますが、イレーシンを恐れて塔に鍵をかけてあげていた。するとイエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。提案があなた方にあるように。
私たちも人生のあらゆる局面において恐れを覚えます。病を恐れますし、自分の将来のこと、もしくは祈っていただきましたがその通りだとつくづく思います。内面的な私たちの戦いはこれからも続く恐れです。
そして私たちは互いに恐れから自分を守るために剣を取り争いを生み出してしまいます。世界の戦争はまさにそういうものでしょう。根源をたどればそれぞれが恐れているのです。怖い。しかし主はその恐れのただ中で平安があるようにと宣言をなされ、そしてそれだけではないのです。
今朝の箇所を見るならば、平安があるようにと私たちに安心を与えるだけではない。平安をつくるものとしてこの世界に私たちを使わせていかれるということがここでは語られます。そしてそのために示された一つのシンボルがありました。それは十字架で傷ついたイエス・キリストの傷跡です。
そのことを覚えながら、今朝は二つのポイントからこの箇所から聞いていきたいと思っております。
第一のポイント:傷跡を見て信じなさい
第一のポイント。今日から説教用紙を手本に載せましたので、何かの資料の参考にしていただけたらと思いますが、それに準じてポイントで話しますが、一つ目のポイントは何か。それは、傷跡を見て信じなさいということです。
傷跡を見て信じなさいと招かれます。先ほども申し上げました復活の主は、恐れ惑う弟子たちのその真ん中に立って、平安があなた方にあるようにと言われました。そして続けて二十節を読みすると、こういうことが書かれています。
こういって、イエスは手と脇腹を彼らに示された弟子たちは主を見て喜んだというのです。
手と脇腹を見てというのは一体何を見たのか。それは数日前にイエス様が十字架にかかられた時につけられた傷跡です。十字架において打ち抜かれた手のひらであり、そしてまたその後死を確認するために刺された槍の傷跡ですね。
その傷跡を見て喜んだということは、そこにまさに傷跡があったわけですよね。イエス様のその手と脇腹には傷跡があった。弟子たちはこれを見てすぐにイエス様だと彼らは喜びました。
そしてそのような傷を持つのは間違いなく十字架で死んだあの方だけでした。でもここで私たちは少し不思議に思っていいと思うのです。なぜ傷跡があるのでしょうか。
そうは思いませんか。聖書が語るのは復活というのは以前の身体よりも優れた完全な身体ですよ。
しかしイエス様のその身体には十字架の傷跡は消えていなかった。言葉を変えるならば、あえてその傷跡を残したまま、傷跡を負ったまま弟子たちの前にご自身は現された。そう言っていいと思います。
なぜこんなことをするのでしょうか。それは弟子たちがそうであるように、彼らが主を見て喜び、信じるためでした。
それは後にこのあと24節からトマスの話が出てきますが、このトマスのエピソードでも同じです。
読んでいただいたらわかるように、24節を見ますと、その復活の主が現れたときにトマスというのが間が悪くその場所にいなかったわけですけれども、
帰ってきたトマスに対して弟子たちは興奮気味に言いました。私たちは主を見たと、主は蘇られたんだと。
しかしトマスはこのように言いました。25節。
しかしトマスは彼らに、私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じません、決して信じないと言いました。
ここからよくトマスは疑い深いトマスだと言われますけれども、私は改めてこの歌詞を読みながら、彼のことを笑えないなあと自分で思います。
私がおそらくトマスと同じ場所で同じ状況にいたら、たぶん同じことを言っています。
いやいや、復活なんかあるわけないじゃない。何でそんな危異なことをあなたたちは信じているのか。
そんなものを見ない限り、触れない限り、信じないに決まっているじゃないか。
世の中の復活という事柄に対する理解はおそらくそれでしょう。
いやいや、見てませんやん。
そして、後の時代の人間がそれを作り出したんでしょうという話は、枚挙にいとまがありません。
いくらでもそういう話が出てきます。
そしてトマスも同じでした。
それはまさに、理性を持っている人間の正直な姿です。
見ないと信じれない。
それは真っ当な姿でしょう。
信じる力の限界と聖霊の働き
特に現在のように、情報が錯綜しています。
陰謀論があふれています。
憶測が飛び交っています。
そういう偽りの情報がこの世界にあふれる中で、
いやいや私は目に見るものしか信じませんという態度はむしろ立派で賢い反応であると言えるかもしれません。
しかし、だからこそ、イエス様はご自身の姿を弟子たちに見せられたと言えるのではないでしょうか。
イエス様は人間の信じる力の限界をご存知です。
目に見えないものを私たちは信じれません。なかなか。
復活をなかなか信じれません。
人間です。
理性にはしかし限界があります。
そのような私たちの中にある、ある種どう言ったらいいでしょうね。
不信のうめきと言ってもいいんでしょうか。
目に見ないと信じられません。
いや、なんかみんな神様信じろ信じろと言うから。
信じたいんだけれども、いやイエスが十字架で私のために死んだ。
三日目によみがえった。
そんなこと心からどうして信じられるか。
不信のうめきですよ。
しかしイエス様はそのトマスの不信のうめきをよくご存知でした。
27節を見ますと、その後8日後にイエス様が弟子たちの間に現れます。
同じように平安があるようにと弟子たちの間に現れます。
それから27節を見ますと、それからトマスに言われた復活の主が現れてトマスに言われるのです。
あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。
手を伸ばして私の脇腹に入れなさい。
信じないものではなく信じるものになりなさいと言われる。
主はトマスの前に現れて全くトマスが言ったことを言いました。
あなたはこうしないと信じられないんだろう。さあやってごらんなさいよ。
そして彼が信じられるように適切にご自身を表してくださった。
トマスは即座に言いました。私の主、私の神よと。
主は私たちが信じられるように身技をなしてくださる。
そういうお方であると言えると思います。
これは今の私たちも同じです。
正直申し上げて私は復活されたイエス様を肉眼で見たことがありません。
ないですよね。皆さん誰か見たことありますか。
見たことがあったら教えていただきたいんですが、私は見たことないです。
しかしイエス様が死者の中から蘇られたことは確かな事実であると心から信じています。
信じちゃってるんですよね。
なんでなのか。
それはまさに聖書の言葉と聖霊様が私たちに今も同じこの信仰を与えてくださるからです。
まさに指を指して信じるかのごとく、目の前に復活の主が現れるかのごとく、
私たちははっきりと信じることができる。
それは聖霊様があの私が去った後に使わされて私について証をすると約束された聖霊様が私たちにそれをはっきりと信じさせてくださるのですね。
聖書の言葉の力と見ないで信じる幸い
皆さんそうではないでしょうか。
そして大事なのは見言葉でしょう。
今日のこの箇所の30節、31節を見ますとね、こういうことが書いてある。
イエスは弟子たちの前では他に多くの印を行われたが、それはこの書には書かれていない。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなた方が信じるためであり、また信じてイエスの名によって命を得るためである。
ヨハネの福音書が大体書かれたのは紀元の80年頃とよく学際的には言われます。
その頃には第一世代はほぼほぼ年老いていたでしょうし、その後はイエス様を見たという人たちはほとんどいない。
この言葉だけが残っていく。
しかし2000年の歴史を通して、この言葉を通して多くの人々がイエスキリストを信じていくんですよ。
それはまさに聖書の言葉というのは力がある。
そして、聖霊様は私たちにその言葉を通して、今もあの頃と変わらない確信を持って、ああそうだ、主は甦えられたという信仰を与えてくださるのです。
なので、今日この箇所で書いてあるのはイエス様が言われた言葉は、「見ないで信じる人たちは幸いです。」と29節でトマスに言われました。
見ないで信じる人たちは幸いです。
イエス様は私たちの不信仰を突き放されません。
それを覚えておいてください。イエス様は私たちの不信仰を突き放されません。
私たちが信じたいけれども、いや信じられへんね。ほんまにこんなこと信じられるの?というような、その不信の運命を突き放されません。
そうではない。むしろ、あなたは見ずとも、実際にイエスを見れずとも信じることはできるんだよというように、ああイエス様は私たちを招いてくださる。見ずに信じれるんです。
そして私たちはそのような信仰を互いに持っているのではないでしょうか。
イエス様は私たちの信じる限界をご存知です。しかし、限界を超えて信じさせるから神の業です。
そのことを私たちは信じながら、うめいているのであればそれを信じていただきたいし、この人が信じて欲しいとうめいているならば、主はそれを成してくださるお方であることを今朝もう一度覚えたいと思うのです。
そしてもう一つ、二つ目のポイントを見たいと思いますが、この箇所が語ることは、傷跡を見て平和を作るようにと私たちを主は招いておられるということです。
第二のポイント:傷跡を見て平和を作るように
平和を、傷跡を見て平和を作りなさい。
今日の19節から31節を読んでいただいておきつかったと思います。
復活の主が何度も何度も繰り返し語られる言葉それは、平安があなた方にあるようにです。
この箇所では3回繰り返されます。平安があなた方にあるように。
そして平安があなた方にあるようにだけではない。21節を見ていただきますとこういうことが書いてあります。
イエスは再び彼らに言われた、平安があなた方にあるように。
父が私を使わされたように、私もあなた方を使わしますと言われる。使わしますと。
父なる神様がこの世界に使わされた。それによって神の国を語り、平和を築いていかれた。
それと同じように、今度は私たち主は平和を述べ伝え、平和を形作るものとして使わすとここで言われる。
私たちはつくづく平和が築かれるという言葉を本当に信じれなくなってますね。
争いが簡単に起きています。
しかし、実は聖書はイエス・キリストが平和を築くために戦われたと語ります。
しかしそれはこの世の戦い方とは全く違うと語ります。
じゃあイエス・キリストの平和を築くための戦い方とは一体どこを見ればわかるのか。
十字架を見ればわかる。十字架を見ればわかるのです。
そのことを象徴的に表している一箇所を見ますと、
イエスの平和の戦い方:ゲッセマネの出来事
ヨカネの福音書の18章の1節から11節というところをちょっとお開きいただけるでしょうか。
これは受難の最初の場面です。
受難の最初の場面でイエス様はまさに
これから起きる全体像はこういうことを私はしていきますよというような
一つの説明があるようなそういう箇所なんですけども。
中八書の1節からあるのはまさにゲッセマネのその出来事です。
イエスと弟子たちがそこで祈っているときに
ユダの手引きによってローマ兵がやってきてイエス様を捕らえようとするわけですね。
そしてヨカネの福音書で特徴的なのはここでイエス様は三度
私がそれだと宣言をなさる。
これはエゴエイミーという言葉です。
まさに私はある、私は神であるという宣言を三度されながら
イエス様はここで受難へと入っていかれるわけですけれども
その時にペテロが動き始めるのです。
中八書の10節をご覧いただくとこういうことがありました。
ローマ兵が取り囲む中ですが
シモン・ペテロは剣を持っていたので
それを抜いて大祭司の下辺に斬りかかり
右の耳を斬り落とした
その下辺の名はマルコスであったというのです。
今にもイエス様と自分たちが捕らえられようとする
ペテロは恐れたのでしょう
彼は剣を持っていた
そして剣を抜いて
このマルコスという人物の耳を斬り落としてしまう
もしかしたら人間の自然な反応と言っていいかもしれません
自分が今から攻撃をされる
あるいは今から大切なものが奪われるかもしれないという恐れに直面する時に
剣ではなく愛による戦い
人間はだいたい二通りの方法かなと思います
抵抗する術がなかったらただただ
今の弟子たちのように隠れるということをするかもしれません
しかし抵抗する武器を持っているならば
相手に斬りかかる
やられる前にやるんです
しかし剣では平和は築けません
なぜなら斬られた方はその痛みと屈辱を根に持っています
そして必ず報復するからです
そこから始まるのは報復の連鎖です
そして争いは始まるのは簡単ですが
終わらせる方が何倍も労力が必要です
今の世界を見たら本当にそうですね
より強い武器
より圧倒的な力を持てば
世界に平和を築くことができると幻想を抱きます
しかしそれは力を持っている人たちにとっては平和であって
弱者にとっては暴力でしかありません
平和というのはそう簡単に築けるものではない
では平和はどうすれば築くことができるのでしょうか
イエス・キリストの十字架はそのことを示している
18章の11節をご覧ください
イエス様は剣を持ちませんでした
イエス様はこう言われます
イエスはテテロに言われた
剣を鞘に収めなさい
父が私に下さった杯を飲まずにいられるだろうか
実に象徴的な言葉です
剣を鞘に収めなさい
主の下さった杯を私は飲むという選択をする
主イエス様がここで選ばれたこれからの戦いのマニフェストのようなものです
それは私は剣を握らない
ローマの兵隊に撃たれても
誰に侮辱をされても
私は剣を握らない
そして私は十字架の杯を飲む
それは言葉を言い換えるならば
敵意に対して敵意を介さず
むしろ敵意によって傷つけられてもなお
愛し続けるという力によって戦う
そう言えるのではないでしょうか
傷つけられてなお
愛し続けるという力で戦う
そのような戦いですね
傷跡は戦い抜いた証
その結果イエス様はまさに十字架の場面では
渦巻く人々の恐れや憎しみや罪を一心に引き受けます
討たれ罵られるままに
ご自身を差し出していかれました
十字架の上で掲げられた
ユデイ人の王という看板があります
それは明らかに侮辱の内容でありました
当時の人々にとっては嘲笑の対象です
ユデイ人の王と辞任しながらあいつは敗北者だ
十字架に掲げられて死んだ愚か者だ
しかし聖書は皮肉なことに
それは嘲笑されたけれども
いや、あの十字架こそが事実である
敵によって傷つけられてなおも
愛し続ける力によって
主は勝利をされたその姿こそが
あの十字架である
最後まで剣を握らなかった
あの姿こそが王としての着座である
戦いは傷つけられてなおも
剣を握らず哀する戦いでした
そして今朝の箇所に戻るならば
弟子たちの前に主が手の平を示されたときに
その傷跡を隠さなかったのは
直さなかったのはなぜか
それは私はその戦いを戦い抜いたという証拠なんですよ
私は剣をこの手に握らなかった
私は撃たれるがままに撃たれた
でも彼らを愛し抜いた
私はそれで勝利をした
その傷跡
私はこのようにして平和を築いた
だからあなた方もこれに習いなさいなんですよ
平和を作るとはどういうことでしょうか
それは何度も申し上げますが
剣を手に取り他者を屈服させることではありません
それはあなたにとっての平和ですが
周りにとっては暴力です
平和を作るために必要なことは
むしろイエス様がなされたように
私たち自身も傷つけられてなおも
手のひらを開く勇気です
それを持って生きることへと招かれる
自分の傷跡のある手のひらを相手に開きながら
私はあなたによって傷つけられた
でも私は剣は握らない
私は今もあなたに手を開き続ける
その戦いではないでしょうか
罪と許しの関係
実は受難日礼拝を木曜日にしました
金曜日に新学校の用事があったからです
でも晩に奈良の教会に
彩奈先生の母教会に行って
実は受難日礼拝に私たちだけ参加してきました
そのところで私は本当にその教会の礼拝で
いつも礼拝者として感謝しながら
礼拝を受けているんですが
その教会の先生のメッセージと
そしてまたその教会の方の証のね
というか祈りの中で
こういう言葉を言われたんです
それは
私の罪がイエス・キリストを十字架に掛けました
という祈りでした
そういうメッセージでした
私はそのフレーズを聞いた時に
なんかすごく心が揺さぶられました
ああそうだそうだそうだった
私の罪がイエス・キリストを十字架に付けた
イエス・キリストの手のひらの傷に
私の罪は無関係ではなかった
ああ私こそがあのイエスに
あの罪の傷を付けた
しかし
ああイエス様が私に成してくださったことは
俺をよくごと傷つけたなと
剣を握って私に反抗をしたかつ
そうじゃない
あなたに傷つけられたこの手のひらを開いて
私はあなたと共に歩もう
手を開かれた
人を許すというのは
大変ですね
しかし
今日の22節を見ますと
こう言われました
イエス様はこう言われます
かわすと言われた後に
こう言ってから彼らに息を引きかけて言われた
聖霊を受けなさい
あなた方が誰かの罪を許すなら
その人の罪は許されます
許さずに残すなら
そのまま残ります
まさにこれは
平和を築いていくのはあなた達次第だよ
みたいなこの言葉ですが
許すことの損得とキリスト教会の使命
許すことですよ
でも
許すというのは
実に損を引き受けることです
許さない方が得です
相手を許しません
私はあなたを憎み続けるという方が得です
その方が相手に対してマウント取れますから
そして
相手に対して
あんたがあの時やったこのことのせいで
私はこうなったんだみたいなことを
言い続けられますから
許さない方が得ですよ
しかし許さなければ
平和は築けないのです
であるならば
私達は
互いに許すという損な役回りを
引き受けるように招かれています
しかし
そんな損な役回りを
なんで私達はできるんでしょうか
世の中そんなことしたくありません
誰もそうしたくないから
戦争は終わらないんです
でも
キリスト社がなぜその損な役回りを
引き受けて
相手をそれでも許すと
手を開くことができるとするならば
それは私達の主が
十字架に架かられた主だからです
そのお方を私達は
王である主と告白しているから
そして
私達もそのお方によって
許されたと信じているから
その理由だけですよ
それだけが
私達に損を引き受け
手を開かせる勇気を持たせる
そうではないでしょうか
だからキリスト社にしか平和は築けない
キリスト社が平和を築くことを
負っているところは
多いのではないでしょうか
主は言われます
傷跡を見て平和を築く
私の傷跡を見て平和を築くように
主はこの世界の王となられました
十字架の傷を負ったままの主が
手のひらを開いて
この世界の王となり主となられました
そのことの意味を深く覚えたいと思います
私達はそのお方を
トマスのように
私の神
私の主と告白をしているならば
私達は主がなされたように
平和を築くものへとめされている
つくづく思います
それは復活を信じるよりも
実現することが難しい奇跡のようなものです
しかし私達は今朝
信じないものではなく
信じるようになりなさいと招かれる
何を招かれているのか
復活を信じろということだけではない
このイエスを主と告白するあなた達は
このイエスが十字架において戦われた
その戦い方のように
あなた方も手を開いて
許しの技をなすことができると信じなさい
神の技はあなたを通してなされるということを
信じなさいと招かれているのではないでしょうか
勇気を持って私達は手を開き
許しによって平和を築くお互いで
一言お祈りをいたします
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