保育のとなり
2026-10-07 16:17

保育のとなり

おたよりを送る

子どもと向き合う時間が保育士をどう揺らし、どう育ててきたかを、静かな専門性として届けます。

【ほいくプラスについて】

ほいくプラスは、保育に関わる人が、自分らしい保育を続け、互いに学び合えるつながりを広げるための場です。

このポッドキャストでは、保育士の等身大の声を届けることで、保育者同士の縁を育み、保育に関心を持つ人との新しい接点をつくります。現場で頑張る保育士の魅力と、実践に込められた思いを、より多くの方へ届けていきます。


全国の保育士が運営するこの番組を聴いて共感したこと、考えたこと、もっと聴いてみたいテーマがあれば、ぜひほいくプラス公式LINEへお寄せください。

配信のお知らせ、最新の活動情報、保育に役立つ情報も公式LINEでご案内します。


▼ほいくプラス公式LINE https://utage-system.com/line/open/aRJZDaNGgpeM?mtid=fqKzB9YnhJTP

保育士の経験は、誰かの明日を支える言葉になる 。ほいくプラスのポッドキャストとともに、一人ひとりの保育の物語に耳を傾けてみませんか。

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:00
こんばんは。保育のとなりです。 この時間は、保育の出来事をきれいな結末に並べ直すための時間ではありません。
子どもと過ごす中で、大人の側に残った小さな引っかかりや、言葉になりきらない迷いに少しだけ座ってみる時間です。
今日お話しするのは、ある保育士の創作上の記録です。 ここに出てくる子どもも、大人も、場所も、実在の誰かではありません。
けれど、もし似たような夕方や、似たような迷いを知っている方がいたら、 その記憶を無理に結論へ運ばず、隣に置くように聞いていただけたらと思います。
語り手の私は、仮に私とだけ名乗ります。
夕方の保育室。外の景色が次第に薄紫色に染まり、一日の終わりが近づいてくる時間帯。
子どもたちを見送り、誰もいなくなった静かな部屋で片付けをしている時や、帰り道。
ふと、ある瞬間が、胸の奥にポツンと残っている。 そんな経験、皆さんにはありませんか?
それは、何か大きな事件だったわけではないかもしれない。
表面上は、うまく収まったように見える出来事かもしれない。
けれど、自分の手元や胸の中に、消化しきれない小さなざらつきや問いとして、 残り続けているものではないのでしょうか。
今日は、こうすれば解決します、というノウハウや答えをお話しすることはありません。
また、もっと頑張ろうといった一方向的な励ましをお届けするわけでもありません。
胸に残ったその小さな問いをうやむやにせず、
あの子のあの沈黙には何があったんだろう、私の焦りはどこから来たんだろう、と静かに抱え直した日がありました。
その迷いこそが、一人の子供をどこまでも大切に見ようとする保育の探求の始まりなのだと私は思っています。
答えを急がずに問いを抱えることと、子供という存在から新しい視点をもらう感覚を皆さんと分かち合っていけたら嬉しいです。
今日皆さんにお話ししたいのは、ある秋の日の夕方、年長さんの保育士で起きたことです。
幼稚園の教育時間が終わり、預かり保育の室内でそれぞれが好きな遊びを楽しんでいる時間帯でした。
部屋の一角のおままごとコーナーで、普段から仲のいい年長児のAちゃんとTちゃんが遊んでいました。
二人は自分たちでイメージを膨らませて、ごっか遊びの世界を深く作っていくのが得意な子たちです。
でも、その時は使いたいお道具をめぐってお互いの主張がぶつかっていました。
03:00
「まだ私が使ってるの。でもさっきあっち行ってたじゃない。」
言葉で一生懸命に自分の思いを主張し合う声、私は少し離れた場所から二人のやり取りを見守っていました。
やがてAちゃんの目からポロポロと大きな涙がこぼれ落ちました。
言葉が詰まり、胸をひっくひっくと波打たせて、声にならない泣き声が広がっていったんです。
その涙を見た瞬間、私の中で、この場を早く収めなきゃ、という思いが動きました。
夕方という時間帯、お迎えの時間が近づいていることや、一日の疲れや気持ちが揺れやすくなっているかもしれないという思い。
そうした様々な背景から、私の中に、早くお互いの気持ちを言葉にしてあげて穏やかな状態に戻さなければ、という焦りが生まれたんです。
私は二人の間にしゃがみ込み、Aちゃんの背中にそっと手を当てて言いました。
Aちゃん、悲しかったんだね。Tちゃんに使いたかったって言いたかったのかな。
Tちゃんも使いたかったんだよね。順番で使おうか。
私が間に入って状況を整理し、気持ちを代弁し、折り合いをつけるための言葉をきました。
Aちゃんは涙をふき、Tちゃんも小さくうなずいて、道具を順番で使う形になりました。
出来事としてはそこで整然と収まったんです。
でも、子供たちが去った後、私の胸の中に何とも言えない静かな手触りが残りました。
涙をふいたAちゃんが一瞬見せた遠くを見るような眼差し、言葉を飲み込んだTちゃんの少し固くなった肩のライン。
その場を無事に収めたはずの私の手元に残っていたのは、達成感ではなく、私は一体何を背負いでいたんだろうというポツンとした違和感でした。
その日の帰り道、車に乗り、私はずっとその胸に残っていたものと対話していました。
あの時、私の内側で何が起きていたんだろう。
自分の内面を静かに見つめていくと、Aちゃんの涙を見た瞬間に生まれた焦りの正体が少しずつ見えてきたように思いました。
トラブルを長引かせたくない。泣いている子をそのままにしておきたくない。
それは一見、子供を思う気持ちのように見えて、実は場をコントロールしたい、早く安心な状態を作りたいという大人側の都合や不安から来ていたのかもしれない。
そう気づかされたんです。
そして何より、私が焦った言葉を挟んだことで、AちゃんやTちゃんが本来つむごうとしていたかもしれない大切な時間を止めてしまったのではないかという問いが行き来しました。
06:08
Aちゃんのあのポロポロと流れた涙や固まった沈黙。
当時の私はそれを悲しみや悔しさという単一の感情として受け止め、早く解決すべきトラブルとして扱ってしまいました。
でも慎重に思い返してみると、あの子の行動や沈黙にはもっと豊かな可能性が含まれていたのではないかと思うのです。
怒りや悲しみだけだった大好きな友達とぶつかってしまったという戸惑いをかみしめていたのかもしれない。
自分の複雑な気持ちにぴったり合う言葉を幼い心の中で厳密に探していたのかもしれない。
あるいはTちゃんの表情を見ながら相手がどう出るか自分はどうしたいかを確かめるための間だったのかもしれない。
Tちゃんにとっても泣いている友達の姿を目の当たりにして自分はどうすればいいんだろうと自分の内側と深く引き合っていた瞬間だったのかもしれない。
子供たちは自分たちの関係性の中で心と頭をフル回転させて葛藤という尊い時間を生きていたはずでした。
そこに私が急いで割り込み、悲しかったね、順番ねと大人にとってわかりやすい正解のラベルを貼ってしまった。
それは彼女たちが自らの力で感情を味わい言葉を見つけ出そうとする目を摘み取ってしまったのかもしれない。
私のあの関わりは失敗だったんだろうかという思いが一瞬頭をよぎりました。
でも車の中で深呼吸をしながら思い直したんです。
失敗したと自分を責めて終わってしまったら、そこで思考は止まってしまう。
この後悔や迷いは私がダメな保育士だから生まれたのではなく、目の前の子供の本当の姿をもっと大切に見たいと強く願っているからこそ生まれた問いなのだと思います。
子供の思いに寄り添うとは代わりに答えを出してあげることではないと思います。
子供自身が自分の感情と出会い、言葉を見つけるまでの静かな時間を焦らずに一緒に待つことなのではないか。
胸の中に残ったざらつきは私にそのことを教えてくれるかけがえのない道標に変わっていたように思います。
それからの日々、私は子供たちの葛藤や沈黙に対する眼差しを少しずつ重ね直していきました。
すぐに介入してきれいに解決する人になろうとするのをやめ、まずは子供たちの間で起きていることを慎重に観察し、その場に佇む存在であろうとしたんです。
09:06
もちろん、安全が脅かされるときや子供だけで抱えきらない負荷がかかっていると判断したときは手を差し伸べます。
でもそうでない限り、自分の口を挟みたい衝動を一度体の真ん中で受け止め、深く息を吐いて、
まず数秒間、子供たちの表情や指先の動き、空気感をじっと観察することにしました。
子供の言葉や行動を、きっとこう思っているはずだ、と一義的に決めつけないようにして、
悲しいのかもしれないし、考えているのかもしれない、相手を見ているのかもしれない、と複数の可能性を開いたまま静かに見守る練習です。
数日後の夕方、また似たような場面がありました。
積み木で遊んでいる二人の子が使いたいパーツをめぐって口論になり、片方の子がきゅっと口を結んでうつむいて黙り込んでしまったんです。
以前の私なら、その沈黙に耐えかねて、
「しーちゃん、悔しかったのかな?」とすぐに言葉を拝み合っていたかもしれません。
でもその日は、二人の邪魔にならない少し離れた場所にそっとしゃがみ込み、何も言わずにその場に身を置きました。
部屋の中に長い数秒間の静寂が流れます。
うつむいている子の胸が深く上下している。
手元で積み木をぎゅっと握りしめ、何かを考えている目線の動き。
向かい側の子も肩図を飲んで相手の顔をじっと見つめている。
大人にとっては焦りを感じるような沈黙ですが、子供たちにとっては自分の心と相手の存在を必死に行き来しているとても濃密で大切な時間のようでした。
やがてうつむいている子がゆっくりと顔を上げ、静かにでも自分の声で言いました。
これ、崩れるからまだ動かさないで欲しかったの。
自分の内側から掘り起こしてきた本当の理由でした。
向かいにいた子もその言葉をじっくりと受け止め、
あ、そうなんだ、じゃあここ押さえてるね、と自分たちで次のステップを選び取ったんです。
私は最後まで介入のための言葉を言いませんでした。
ただ、二人が自分たちの力でその時間を通り抜けた姿を静かに見守っていました。
解決を急がず子供が自分の感情を味わい、言葉を紡ぐための余白として大人の存在をそこに置くこと、
子供を安易に決めつけず慎重に観察を重ねていく中で、
12:02
私の中にある言葉の置き方や立ち振る舞いのグラデーションが少しずつ変わっていったように思います。
保育の現場にいるとその場をどうスムーズに収めるかという効率や成果に心が引っ張られそうになる瞬間があります。
でも子供という存在や人と人との心の通い合いはマニュアルは一発の正解で割り切れるものではありません。
今回の出来事を通して私は深く感じました。
保育士としての専門生徒はいつも正しい答えを知っていてトラブルを鮮やかに解決できることではないのかもしれない。
むしろ自分の関わりを振り返り、あの問いかけは誰のためのものだったんだろう。
子供は本当は何を感じていたんだろうと自分の見立てを疑い揺れることができる力。
子供の沈黙や涙の中に隠された多様な可能性をあいに決めつけずに観察し続ける力。
そしてすぐに答えを出そうとせず子供自身が育っていく時間を信じて待ち続ける力。
それこそが私たちがプロフェッショナルとして胸の中に抱えていた小札という営みなのだと思います。
自分の関わりに迷ったり、これで良かったのかなと胸を痛めたりすることは決して失敗でも未熟さでもありません。
それはあなたが目の前のその子を一つの独立した心を持つ存在としてどこまでも大切に見ようとしているからこそ生まれる尊い問いなのではないでしょうか。
大人が子供を思い通りに指導するのではなく、子供によって大人側の見方や心のありさまが深められていく、
その静かな相互の関わりの中にこそ、保育という仕事の一番の愛おしさがあり深みがあるのだと感じます。
あの夕方、私は子供に教えてもらったのだと思います。
子供の一つの小さな仕草から自分が焦っていたことを教わりました。
それは分かりやすい学びではありませんでした。
次から必ず上手くできるという種類の学びでもありません。
今でも私は声をかけるべき時と言葉を置かずに近くにいる時を迷います。
助けることと思いに寄り添い見守ることの境目は毎回同じ場所にはありません。
だから私はあの子たちのことを思いに寄り添う教えてくれた子と呼び切ることにも少しためらいがあります。
その子は私を成長させるためにそこにいたのではないからです。
ただ、私が受け取った問いは今も保育の時間の中に残っています。
15:03
この子の今、何をしているのだろう。
私は今、何を焦っているのだろう。
その二つを同時に見ようとしているだろうか。
答えが出ないまま終わる日もあります。
記録に書いた言葉が次の日には少し違って見えることもあります。
関わりを振り返って、あれでよかったのかと思う夜もあります。
けれど、その問いを持つこと自体がすぐには役に立たないようでいて、
次に子どもの前に立つ時の姿勢をほんの少し変えてくれることがあります。
大きく変わる必要はないのかもしれない。
すぐに正しい言葉を見つけなくていいのかもしれない。
声をかける前に一呼吸、見る。
自分の不安に気づいたら一呼吸、待つ。
そして、必要な時には子どもが一人にならないよう手を伸ばす。
その繰り返しの中で子どもと向き合う時間は保育士の側にも
まだ知らない問いを残していくのだと思います。
今日の保育の種類はここまでです。
今夜は答えではなく、一つの問いを側に置いて終わります。
16:17

コメント

スクロール