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『入れること』に必死だったあの頃/ 保育のとなり
2026-10-14 15:36

『入れること』に必死だったあの頃/ 保育のとなり

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こんばんは。入れることに必死だったあの頃、子がい遊びの片隅で残った問いと、今の私の眼差し。保育のとなりです。
この時間は、保育の出来事を綺麗な結末に並べ直すための時間ではありません。
子供と過ごす中で、大人の側に残った小さな引っかかりや、言葉になりきらない迷いに少しだけ座ってみる時間です。
今日お話しするのは、ある保育士の創作上の記録です。
ここに出てくる子供も、大人も、場所も、実在の誰かではありません。
けれどもし、似たような夕方や、似たような迷いを知っている方がいたら、その記憶を無理に結論へ運ばず、隣に置くように聞いていただけたらと思います。
語り手の私は仮に、私とだけ名乗ります。
夕方の保育室。外の景色が次第に、薄紫色の暗がりへ落ちていき、一日の終わりが静かに近づいてくる時間帯。
子供たちを一人また一人とお見送りし、すっかり静かになった部屋で片付けをしている時や、帰り道の電車に揺られている時、ふとある光景や言葉が胸の奥にポツンと残り続けていることありませんか。
今日のあの太陽、本当にあれでよかったんだろうか。
あの子が言おうとしていたことは、本当は何だったんだろう。
正面上は、なんとかそのスケジュールを消化でき、大きな軸もなく無事に一日を終えられたはずなのに、なぜか自分の手元には消化しきれない小さなざらつきや問いだけが残っている。
今日は、こうすれば手際よく収まりますというノウハウや模範回答をお話しすることはありません。
また、もっと頑張ろうとか、子供を救おうといった一方向的な励ましをお届けするわけでもありません。
胸に残ったその小さな問いをうやむやにせず、
あの子のあの涙には何が含まれていたんだろう。
私の焦りはどこから来たんだろうと静かに抱え直すこと。
その迷いや揺れこそが、一人の子供をどこまでも大切に見ようとする保育の探求の始まりなのだと私は思っています。
答えを急がずに問いを抱えるプロセスと、子供という存在から新しい視点をもらう感覚を皆さんと分かち合っていけたら嬉しいです。
今日皆さんにお話ししたいのは、私が保育士になってからまだ日が浅い頃、2歳児クラスを担当していたときのお話です。
当時の私は、とにかく1日の保育を予定通りに滞りなく回すことに必死でした。
何時に部屋に入って、何時に排説と着替えを済ませて昼食の準備をするか、
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特に午前中の子がい遊びから室内に戻る時間帯は大人にとっても最も慌ただしく時間に追われる場面の一つでした。
そのクラスにまだ発語がゆっくりで、いわゆる言い合いや気のまっただ中にいる男の子がいました。
仮にT君と呼びますね。
T君は、自分のやりたい、もっとこうしたいという強い思いを言葉にするのがまだ難しく、
思い通りにいかないと体全体で泣いて抵抗することが多い子でした。
ある晴れた日の午前中、宴廷での子がい遊びが終わり、みんなで部屋に入る時間になりました。
子供たちに、お部屋に入ろうねと声をかけるとT君は、
いやだと言わんばかりに宴廷の隅っこに座り込んでしまったんです。
もっと遊びたい、T君の全身からそんな叫びが伝わってきました。
でも当時の私の頭の中を閉めていたのはこの後のスケジュールでした。
早くお部屋に入らないと着替えが遅れて給食の時間が押してしまう。
他の子たちの排泄の誘導も始めなきゃいけない。
焦った私はあの手この手でT君を部屋に入れようとしました。
T君、お腹すいたんじゃない?お部屋に入ったらおいしい給食だよ。
ほら、お友達も入るよ。一緒に行こう。
じゃあ手をつなごうか。
笑顔で声をかけながらも、心の中ではどうやったらこの場を早く動かせるかばかりを考えていました。
場所を変えようとしたり、言葉で誘導しようとしたり、あの手この手で抱きかかえようとしましたが、
T君はますます固くなり、地面に突っ伏して大声で泣き出してしまったんです。
私が途方に暮れていたその時、一緒に組んでいた先輩保育士が静かに歩み寄ってきてくれました。
先生、他のお部屋に入る子たちの誘導、頼んでいい?
先輩はそう言うと、地面に突っ伏して泣いているT君の横にそっと腰を下ろしました。
無理に起こそうともせず、言葉で説得しようともせず、ただT君が見ている土の地面と同じ目線で静かに隣に座ったんです。
私は指示された通り、他の子供たちを引き連れて室内に戻りました。
拝設や着替えの手順を進めながら、ふと窓の外を見ると、園庭の隅で先輩が佇んでいる姿が見えました。
T君は相変わらず泣いていましたが、先輩はただ隣で静かに時間を共有していました。
それから数分後、部屋に戻ってきたT君は、まだ涙の跡を残しながらも、自分の足でゆっくりと歩いて室内に入ってきたんです。
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その姿を見たとき、私の胸の中に、言葉にならない衝動がこみ上げてきました。
私は一体何をしていたんだろう。
片付けを終え、子供たちが全員お昼寝に入った後も、その光景が農林から離れませんでした。
その日の帰り道、夕暮れ時の街を歩きながら、私はずっと自分の手元に残った小さな問いと向き合っていました。
私はどうしてあんなに焦ってT君を動かそうとしたんだろう。
先輩と私の対応の違いは一体何だったんだろう。
自分の内側を静かに紐解いていきました。
あの時、私はT君のために声をかけているつもりでした。
給食に遅れないように、早く落ち着けるようにと、必死に言葉を投げていた。
でも思考をもう一段深く進めてみたとき、見たくない自分の一面が見えてきたんです。
早く部屋に入れなきゃ、保育の流れを止めたくない。
それは子どもも思う気持ちというよりも、私自身がスケジュールを滞りなく回すことに囚われていた焦りでした。
私はT君という一人の人間の思いを見ていたのではなく、予定通りに進めるための課題としてT君を扱ってしまっていたのではないかと思いました。
発語がゆっくりで、自分の気持ちを言葉にできないT君。
もっと遊びたいという気持ちと、大人からはい終わりと区切られたことへの悔しさ、
言葉にならない巨大な感情の波と幼い心で必死に戦っていたはずでした。
それなのに私は、給食だよ、みんな入るよと大人の都合の正解を次々と押し当てて、
彼の葛藤する時間を早く終わらせようとしてしまった。
一方、先輩の対応はどうだったでしょうか。
先輩は、すぐにT君に動かすことをしませんでした。
もっと遊びたかったね、という言葉すらすぐにはかけなかったかもしれません。
ただ、彼の悔しさや固まった心が解けるまでの時間を焦らずに隣で一緒に待っていたんです。
子供の隣に寄り添うとは、大人が思う正しい方向へ手際よく導くことではないのでしょうか。
言葉にならない感情を抱えてうずくまっている子供のその時間を大人の都合で奪わず、静かに共有することなのではないのでしょうか。
T君の涙と先輩の佇まい、その二つの姿を思い返しながら、私は保育士として、何のためにここにいるんだろうという大きな問いが胸の深くに刻まれました。
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自分の関わりを思い返して、うまくできなかったと落ち込む夜。
でも、その迷いや胸の痛みが生まれたこと自体が、私が子供という存在の深さに気づき、向き合うとし始めた証だったのかもしれません。
胸に残ったザラザラとした問いは、私に、目の前の子供をどう見るかという新しい眼差しを教えてくれるかけがえのない道標に変わっていきました。
あれから月日が経ち、経験を重ねる中で、私自身の保育士としての佇まいや子供への眼差しは少しずつでも確実に変化していきました。
かつて私のように、一日をスケジュール通りに回すことや、トラブルを手際よく処理することを最優先にすることをやめました。
その代わりに、今の私の中に根付いた大切な視点、それは、何よりもまず、待つということです。
子供が強い感情をあらわにしたり、動けなくなったりしたとき、自分の中に湧き上がる、早くなんとかしなきゃという焦りの衝動を一度お腹に収め、深く息を吐く。
そして、その子が今、どんな世界を生きているのか、どんな感情の波と戦っているかを焦らずに観察するようになりました。
子供の涙や、嫌だという拒絶を困った行動として一義的に決めつけない。
もっとやりたがったのかな。自分の思いが伝わらなくて悔しいのかな。
言葉を探している最中なのかもしれない、と複数の可能性を開いたまま、静かにその場の空気を共有する練習です。
今でも、あの頃のティークのような二歳児クラスの子供たちと過ごす場面があります。
子がい遊びから戻る時間、やっぱりもっと遊びたいと地面に座り込んでしまう子がいます。
昔の私なら、焦って部屋に入れようとしたり、別の言葉で誘導をしようとしたりしていたのでしょう。
でも今の私は、その子の邪魔にならない少し離れた場所にそっとしゃがみ込み、目線を低くして同じ景色を見ながら静かに身を置きます。
大人の感覚からすると、何も言わずにただ待つ数分間というのは、とても長く、時に不安に感じる時間でもあります。
でも子供にとっては、自分の内側で暴れている強い感情と一人で向き合い、折り合いをつけるための、とても濃密で大切な時間なんです。
やがてその子の呼吸が少しずつ落ち着き、涙を拭いて自分の足で立ち上がる瞬間が訪れます。
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大人が急いで言葉や指示を置きに行くのではなく、子供自身が自らの感情と出会い、それを咀嚼するための時間と空間の余白として大人がそこに佇むこと。
そして今の私にもう一つ身につけた大切な変化があります。
それは、1日の保育が終わった後、あの時あの子はこうだったのかな、と静かに振り返り、自分の見立てを更新できるようになったことです。
現場にいるその瞬間は、今でも完璧な対応なんてできません。
焦ってしまうこともあるし、言葉選びを間違えることだってあります。
でも、待機の電車の中や夜の静かな部屋で、あの時の泣き顔は、もしかしたらもっと見て欲しかったという合図だったのかな。
私のあの声かけ、少し自分のペースを押し付けていたな、と振り返り、精査する。
その問い出す時間を持つことこそが、保育士としての専門性であり、子供に寄り添い続けるための確かな土台なのだと気づいたんです。
入院時期という人生の中で最も尊く、二度と戻らない大切な時期。
このかけがえのない時間を一緒に過ごさせてもらっているからこそ、私はただ効率よく時間をこなす大人ではなく、
彼らの感情の揺れや成長のプロセスに誠実に寄り添える存在でありたいと思います。
保育を回すことに必死だったあの頃、子供の隣に佇み振り返る今の自分へ、
子供との時間によって変えられていったのは他の誰でもない私自身でした。
今日のお話が皆さんの忙しい毎日の隙間にほんの少しの静かな風を届けることができていたら幸いです。
もし今、これをお聞きの保育に関わる方の中で、
今日はうまく保育を回せなかったな、子供の気持ちを受け止めきれなかったかもしれない、
と帰り道に一人で落ち込んでいる方がいたら、どうぞそのご自分を責めないでくださいね。
あの時あの子は本当はどうしたかったんだろう、私のあの関わりはどうだったのかな、
そうやって思い返し、胸を射止めているその姿こそが、
あなたが子供一人一人を心から一人の人間として尊重し、大切に思っている何よりの証拠なのではないでしょうか。
その胸の中にある小さな問いは、
明日、あなたがその子をもっと深く愛おしく見るための優しい光になってくれるのではないでしょうか。
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すぐに一発の答えが出なくても大丈夫、
明日もまた目の前の子供たちの声や言葉にならない思いにそっと耳を澄ませながら、
自分のペースで子供たちの隣に佇んでいきましょう。
あなたの今日が静かに満たされ、
明日もまた子供たちの時間に優しい光が差し込みますように。
今日の保育の隣はここまでです。
今夜も答えではなく、一つの問いを傍に置いて終わります。
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