1. 全国の保育士の物語|ほいくPLUS公式ポッドキャスト
  2. 「問いの残る一言、子どものと..
「問いの残る一言、子どものとなりにたたずむ時間 /保育のとなり
2026-10-10 16:56

「問いの残る一言、子どものとなりにたたずむ時間 /保育のとなり

おたよりを送る

子どもと向き合う時間が保育士をどう揺らし、どう育ててきたかを、静かな専門性として届けます。

【ほいくプラスについて】

ほいくプラスは、保育に関わる人が、自分らしい保育を続け、互いに学び合えるつながりを広げるための場です。

このポッドキャストでは、保育士の等身大の声を届けることで、保育者同士の縁を育み、保育に関心を持つ人との新しい接点をつくります。

現場で頑張る保育士の魅力と、実践に込められた思いを、より多くの方へ届けていきます。

全国の保育士が運営するこの番組を聴いて共感したこと、考えたこと、もっと聴いてみたいテーマがあれば、ぜひほいくプラス公式LINEへお寄せください。

配信のお知らせ、最新の活動情報、保育に役立つ情報も公式LINEでご案内します。

▼ほいくプラス公式LINE https://utage-system.com/line/open/aRJZDaNGgpeM?mtid=fqKzB9YnhJTP

保育士の経験は、誰かの明日を支える言葉になる 。ほいくプラスのポッドキャストとともに、一人ひとりの保育の物語に耳を傾けてみませんか。

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:00
こんばんは。問いの残る一言、子どものとなりにたたずむ時間、保育のとなり、です。
この時間は、保育の出来事をきれいな結末に並べ直すための時間ではありません。
子どもと過ごす中で、大人の側に残った小さな引っかかりや、言葉になりきらない迷いに、少しだけ座ってみる時間です。
今日お話しするのは、ある保育士の創作上の記録です。
ここに出てくる子どもも、大人も、場所も、実在の誰かではありません。
けれど、もし似たような夕方や、似たような迷いを知っている方がいたら、その記憶を無理に結論へ運ばず、隣に置くよう聞いていただけたらと思います。
語り手の私は、仮に私とだけ名乗ります。
夕方の保育室、外の景色が次第に薄紫色の暗がりへ落ちていき、一日の終わりが静かに近づいてくる時間帯。
子どもたちを一人また一人とお見送りし、すっかり静かになった部屋で片付けをしている時や、帰り道の電車に揺られている時、ふとある言葉や表情が胸の奥にポツンと残り続けていることありませんか。
今日のあの対応、本当にあれでよかったんだろうか。
あの子が言ったあの言葉は、本当は何を伝えたかったんだろう。
表面上は何とかその場を収めることができて、無事に一日を終えられたはずなのに、なぜか自分の手元には、しょうがしきれない小さなざらつきや問いだけが残っている。
今日は、こうすれば解決しますというノウハウや模範回答をお話しすることはありません。
また、もっと頑張ろうとか、子どもを救おうといった一方向的な励ましをお届けするわけでもありません。
胸に残ったその小さな問いをうやむやにせず、
あの子の嫌だには何が含まれていたんだろう。私の焦りはどこから来たんだろうと静かに抱え直すこと。
その迷いや揺れこそが一人の子どもをどこまでも大切に見ようとする保育の探求の始まりなのだと私は思っています。
答えを急かさずに問いを抱えるプロセスと、子どもという存在から新しい視点をもらう感覚を皆さんと分かち合っていけたら嬉しいです。
今日皆さんにお話ししたいのは、ある日の夕方、自由遊びの時間に起きた出来事と、その後に私の胸の中にずっと残り続けた一つの言葉についてです。
その日の夕方、保育室では子どもたちがそれぞれ重い重いの遊びを楽しんでいました。私は全体を見守りながら、片付けや講演準備の段取りを頭の中で描いていました。
03:01
そんな中、自分の思うようにいかないことがあって、感情が溢れ出して泣き出してしまった子がいました。仮にA君と呼びますね。
A君は、積み木やブロックで作っていたものが崩れてしまったようで、床につっぷして声を上げて泣いていました。
夕方という時間帯、お迎えがいつ来てもおかしくない状況や、一日の疲れからA君自身の気持ちが過敏になっているかもしれないという背景、
そうした様々な状況が重なる中で、私の中に早く落ち着かせてあげなきゃ、この強い葛藤から少し気持ちをそらしてあげた方がいいのかな、という焦りが生まれたんです。
私はA君の横にしゃがみ込み、背中に手を当てながら言葉をかけました。
A君、悔しかったね。一回お外の空気を吸いに行こうか。あっちの絵本コーナーでちょっと休憩してみる?
場所を変えたり、窓の外の景色を見たり、少し気分転換になるようなきっかけを次々と提案しました。
なんとかこの強い感情の波から救い出してあげたい。場所を落ち着かせたい。一心だったんです。
職場の同僚たちも、それぞれ目の前の子どもたちに寄り添って過ごしている中で、私も保育士として目の前の子を支えようと必死でした。
でも、A君の涙はすぐには収まりませんでした。
私の提案に対して、A君は首を大きく横に振り、涙でぐちゃぐちゃになった顔を私に向けて、絞り出すような声でこう言ったんです。
先生、もう嫌だ。その言葉を聞いた瞬間、胸の真ん中をぎゅっと掴まれたような感覚がありました。
その後、時間をかけながら静かなスペースへ移動して一緒に座ったり、少し距離を置いたりしていく中で、A君はゆっくりと呼吸を整え、最終的には気持ちを切り替えて遊びに戻ることができました。
講演の時には、保護者の方と笑顔で、「さようなら。」と言って帰っていきました。
現場の対応としては、何とか気持ちを立て直して無事に引き渡すことができたと言えるのかもしれません。
でも、片付けを終えて退勤のタイムカードをした時、私の胸の中に残っていたのは、無事に終わったという安堵感ではなく、A君が言ったあの言葉の手触りでした。
先生もう嫌だ。その一言が静かな部屋にいつまでも響いているように感じられたんです。
その日の帰り道、バスの窓から流れる街灯の光を眺めながら、私はずっとその胸に残った問いと向き合っていました。
私はどうしてあんなに急いで場所を変えたり、気分転換をさせようとしたんだろう。
06:03
A君の先生もう嫌だは本当は何を伝えたかったんだろう。
暗い窓に映る自分の顔を見つめながら、自分の内側を静かに紐解いていきました。
あの時私はA君のために行動していたつもりでした。
激しくなく彼の負担を減らしたくて、早く穏やかな状況に戻してあげたくて、必死に言葉を投げていた。
でも思考をもう一度深く進めてみた時、見たくない自分の一面が見えてきたんです。
早く泣き止ませたい。この激しい感情の場を早くコントロールしたい。
それは子供も思う気持ちであると同時に、夕方の忙しい時間帯にトラブルや激しい感情を長引かせたくないという私自身の焦りや不安から来ていたのではないか。
私が次々と場所を変えよう、気分転換しようと提案したことは、A君にとっては、今自分が感じている悔しさや葛藤を大人の都合で早く終わらせようとされていると感じられたのではないか。
A君が放った、「先生もう嫌だ。」という言葉、当時の私は一瞬、先生のことが嫌い、関わらないでほしいというストレートな拒絶として受け止め、うまく関わってあげられなかったと落ち込みました。
でも、バスに揺らねながら慎重に思い返してみると、あの言葉にはもっと多層的で切実なメッセージが含まれていたのではないかと思ってきたのです。
先生が嫌いなのではなく、今自分の気持ちを急かして変えようとしてくる介入が嫌だということだったのではないか。
悲しくて悔しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになっている今の自分の状態そのものが嫌で苦しいということだったのではないか。
あるいは、言葉にならない葛藤のピークにおいて、目の前にいる大人に向けて自分の限界を必死に吐き出したかったのではないか。
A君の行動や言葉を先生への拒絶という単一の意味に決めつけているのは私の方でした。
あの子には、自分の作ったものが崩れた悲しさや悔しさを誰にも邪魔されずに、自分自身のペースでじっくりと噛みしめ、味わう時間が必要だったのかもしれない。
そこに私が急いで割り込み、切り替えさせようとする正解を押し当ててしまった。
私のあの関わりは失敗だったんだろうかと胸がキュッとなりました。
09:00
でも夜の静けさの中で深呼吸をしながら捉え直したんです。
これを失敗だった、自分はダメな保育士だと断じてしまっては、自分を責めて終わりになってしまう。
この後悔や揺れは決して自分の未熟さの証明ではなく、目の前のA君の本当の声をもっと丁寧に聞きたいと強く願っているからこそ生まれた大切な問いなのだと。
思いに寄り添うとは、早く感情を切り替えさせてあげることではないと私は思う。
相手が抱えてくる苦しさや葛藤の中に大人が慌てずに、ただ寄り添って共に佇むことなのではないか。
胸に残った先生もう嫌だという言葉は、私にその大切な視点を教えてくれるかけがえのない問いに変わっていきました。
それからの日々、私は子どもたちが強い感情をあらわにしたり、泣き叫んだりした時の自分の立ち振る舞いを少しずつ重ね直していきました。
早く気持ちを立て直してあげようとする人になろうとするのをやめ、
まずは子どもが今どんな感情の渦の中にいるかを慎重に観察し、その場の余白として佇む存在であろうとしたんです。
もちろん、危険が及ぶ時や子ども自身がパニックになってサポートを求めていると判断した時は抱きしめたり、場所を移動したりします。
でもそうでない限り、自分の中に湧き上がる早く何とかしなきゃという衝動を一度お腹に収め、深く息を吐いて、
まず数秒間、その子の表情や呼吸、体の生き身具合をじっと観察することにしました。
子どもの言葉や涙を、悲しいんだな、怒っているんだな、と安易に一つのラベルで決めつけないで、
悔しいのかもしれないし、自分の不甲斐なさをかみしめているのかもしれない、あるいは言葉を探している最中なのかもしれない、と複数の可能性を開いたまま、静かにその場の空気を共有する練習です。
数日後の夕方、また似たような場面がありました。
A君がお道具箱から出したカードがうまく並べられず、パシャンと床に叩きつけて、顔を真っ赤にして泣き出したんです。
以前の私ならすぐに、A君どうしたの?やり直そうか?お外見に行く?と声をかけていたかもしれません。
でもその日は、彼の邪魔にならない少し離れた場所にそっとしゃがみ込み、何も言わずに身を置きました。
A君は床に伏せたまま足をバタバタさせて泣いている。
12:01
私はここにいるよ、という佇まいだけを保ちながら、彼の呼吸の波を観察していました。
部屋の中に泣き声と静かな時間が流れます。
大人の感覚からすると、泣いている子を目の前にして何も言わずに待つ秒数、数分というのはとても長く不安に感じる時間です。
でもA君にとっては、自分の内側で暴れている強い感情と一人で必死に向き合っている、とても濃密な時間でした。
やがてA君の泣き声が少しずつ小さくなり、ひっくひっくとしゃくり上げる呼吸に変わっていきました。
自分で自分の感情の波を乗り越えようとしているサインでした。
そのタイミングで私は低い静かな声で短く声をかけました。
悔しかったね。
A君は顔を上げず、小さくくくりとうなずきました。
私はそれ以上、切り替えるための提案もしませんでした。
あっち行こうかとも言いませんでした。
ただ彼が自分で顔を上げるまで隣で静かに待っていたんです。
しばらくしてA君は自分の袖で涙をごしごしと拭き、床に散らばったカードにゆっくり手を伸ばしました。
自分の力で感情の波をくぐり抜け、自分の手で次の行動を選び取った瞬間でした。
大人が急いで言葉や解決策を置きに行くのではなく、子供自身が自らの感情と出会い、それを咀嚼するための時間と空間の余白として大人がそこに佇むこと、
A君の嫌だという言葉も安易に決めつけず、観察を重ねていく中で、私の中にある言葉のかけ方や寄り添い方のグラデーションが少しずつ深まっていたように思います。
保育の現場にいると、私たちはつい目に見える成果や手際の良い対応を求めがちになります。
トラブルがすぐに収まったとか、子供がすぐに笑顔になったとか、そうしたわかりやすい変化があると、自分の関わりがうまくいったような安心感を覚えてしまうことがあります。
でも、保育士としての専門生徒はいつも正しい答えを知っていて、トラブルを完璧に処理できることではないのかもしれません。
むしろ、自分の関わりを振り返り、
あの対応は誰のためのものだったんだろう、あの言葉の裏にはどんな思いが隠れていたんだろう、と自分の見立てを疑い、売れることができる力、
子供の沈黙や激しい感情の中に含まれる多様な可能性を安易に決めつけずに観察し続ける力、
15:06
そして、すぐに答えを出そうとせず、子供自身が育っていくプロセスを信じて待ち続ける力、
それこそが私たちがプロフェッショナルとして胸の中に抱えていたい小札という営みなのだと思います。
自分の関わりに迷ったり、うまく関われなかったと胸を痛めたりすることは、決して失敗でも未熟さでもありません。
それは、あなたが目の前のその子を、一人の独立した心を持つ存在としてどこまでも大切に見ようとしているからこそ生まれる尊い問いなのです。
大人が子供を思い通りに指導するのではなく、子供の佇まいや言葉によって大人側の見方や心の在り方が深められていく、
その静かな相互の関わりの中にこそ、保育という仕事の一番の愛おしさがあり、志の深みがあるのだと私は感じました。
もし今、これをお聞きの保育に関わる方の中で、
今日の関わりを思い返して、あの子に悪いことしちゃったな、うまく関われなかったな、と一人静かに悩んでいる方がいたら、ぜひその迷いを優しく抱きしめてあげてください。
すぐに答えが出なくても大丈夫。その胸の痛み問いこそが、明日、あなたがその子をもっと深く愛おしく見るための温かな光になるのではないでしょうか。
今日の保育のたなりはここまでです。今夜も答えではなく、一つの問いをそばに置いて終わります。
16:56

コメント

スクロール