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2026-10-20 1:09:49

BC150 楽しくない読書を愉しむ

面白かった本について語るPodcast、ブックカタリスト。今回は、第150回特別回として、「そもそも本を読むことってどういうこと?」に関する話題でトークしました。

基本的にアフタートークはいつもこのノリでしゃべっておりますので、楽屋裏を覗く感じでお楽しみください。

本に期待し過ぎない

読書という行為は持ち上げられることが多いわけですが(「本を読むのはいいことだ」)、それを見かけるとアンビバレントな気持ちになります。たしかに本を読むことで何かしら良いことはあるのかもしれない。でも、そんなに持ち上げるものだろうかとも思ってしまうのです。

たしかに読んで面白い本はあります。しかしそれを至上価値にしてしまえば、「面白くない本は読まない」という行為が導かれるでしょう。同様に、役立つ本はたしかにありますが、それにこだわり過ぎると「役に立たない本は要らない」となってしまいます。

それって文化的な活動の逆を行くマインドセットです。いやいや、そうじゃないだろう、と。

倉下流読書理論では、「読書とは、本々(books)を読むこと」です。どうしたって、本の中には面白いものとそうでないものが出てきます。そういうデコボコした本たちを読んでいくのが読書という活動だと私は考えます。「読書が面白い」というのは、そのような総合的な意味においてです。

読書活動のすべてが「面白い」で満たされているのではなく、デコボコでジグザグの道のりを歩んでいく全体が面白い、あるいは愉しい。

この考え方は、再帰的に展開すれば、一冊の本にも適用できます。一冊の本の中にも面白い部分とそうでない部分があり、それらを統合して「その本が面白い」と言える。あるいはそういうデコボコでジグザグの道のりを進んでいく全体が面白いと言える。

もちろん、読書活動以外に適用することもできるでしょう。個々の出来事や瞬間だけで断じるのではなく、トータルの歩みとして判断すること。

これは視点を少し引くということですし、時間軸を長く取るということでもあります。それこそが瞬間化しつつある社会へのカウンターとなるのではないか、というとちょっと大げさですが、近年失われつつある視点であることは間違いないでしょう。

読んだ本が面白いことにこしたことはありませんし、私もできるだけ面白い本を読みたいとは思っています。でも、その判断を短期的に、あるいは先回りしてやろうとはしていません。すべては「振り返ってから」考えるものだと思っています。



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感想

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サマリー

第150回では、読書記録表を使い、複数の本を毎日1ページ以上読むことで読書量が大きく増えた体験を起点に、「読書は常に楽しくなくてよい」という考えを語ります。読書の目的を面白さや実用性だけに限定せず、文字を読む行為そのもの、生活の一部として捉えることで、難しい本や面白くない本にも手を伸ばせると説明します。複数冊を並行して読み、つまらない部分は読み飛ばす方法は、読書をタスク化することで自然に生まれた実践として紹介されます。『チャーハンという迷宮』の序盤は退屈だったものの、読み進めるうちに面白くなった例も挙げられました。さらに、読んだ内容を覚えていないことや本について語れないことも読書の失敗ではなく、読書ごとの凸凹や個性の一部だと話します。読書を筋トレや音楽練習になぞらえ、瞬間的な楽しさではなく長い時間軸で振り返ることの重要性を論じます。読書術が「全部理解する」「読み飛ばしてはいけない」といった規範を強めると、かえって読書文化を狭めるため、読む・飛ばす・やめる自由が必要だと結論づけます。未読の本を読むことは賭けだが、数年後に「つまらなかった」と語れればそれも成功であり、読書には無駄も含めた価値があると締めくくります。

150回記念と読書記録表
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まずは今回いただいたコメント、お便り等を紹介したいと思います。
お願いします。
本屋ぽんぽん堂さん、すべてはノートから始まるクラシタあたたどり超世界写真賞、すごくおすすめです。
ちなみに、著者のクラシタさんと相方のゴリゴさんがされているポッドキャスト、ブックカタリストも最高だよっていう、褒めていただく言葉しかないコメントをいただいております。
大変ありがたいですね。何がすごいって、すべてはノートから始まる、だいぶ昔の本なんですけど。
いまだにちょいちょいタイムラインでお褒めの言葉をいただくんですよね。
代表書籍じゃないですかね、現在クラシタさんの。
首長っていう。
首長に何々があるっていう。
本を書いていることの嬉しさでもあるんですけど、本屋さんがやっぱり褒めていただけるっていうのは何ですか?
売ってくれるってことですもんね。
それは嬉しいですし、本屋ぽんぽん堂さんが那覇芸にあるということなので、ちょっと気軽に行ってみようという話にはならないんですけども、機会があったら行ってみたいですね。
沖縄に旅行しに行きましょう。沖縄でセミナーをしに行きましょう。
俺ら沖縄で聞いてるよみたいな声がもしあれば、沖縄に限りませんけどね。
5人集まるなら行く。
全然行きますけどね、その辺は。その辺はまたお便り等々コメントいただければと思います。
沖縄行きたいですね。海外とかが高すぎて行く気にならないから、国内で沖縄北海道は一番良い旅行の選択肢ではないかっていうのも思いますね。
今回、実は150回、ブックカタリストは2週間に1回なので、50回サイクルですら2年に1回しか現れないという記念すべきサイクルでもある。
いや、結構要するに昔の言い方でキリバンに近い感じだと思いますが、150って相当ですよね。このインターネットは出ては消え、出ては消えが起こる中で相当続いているというのはすごいと思います。
2週間に1回だから25回と単純計算したら6年ですからね。たぶんまだ6年、まもなく6年なのかな。
1年BC001ダーウィンエコノミーが僕の記録だと2020年の12月11日となってますね。
うん、そんなもんですよ。年末だったことは覚えているので。
もう一つは偶然なんですけど、150回何回やろうって言っていた前のアフタートークで、ゴレゴにとってひょっとしたらブックカタリストを始めて以来かもしれない読書感をアップデートする大きな話題が出てきまして、
その話を改めてというか、改めてでいいのかな、振り返って、これからの新しい読書のやり方として提案というか考えてみたいなという特別回のテーマです。
ブックカタリストは本を読むポッドキャストなので、本を読むとはどういうことかという話題についてですね。
大雑把な流れをちょっと簡単に説明させていただくと、読書会によく参加していただいているジンさんという方が読書記録表というものをつけるようになったら、非常に読書がはかどるようになった。
ちなみにここでいう読書会というのは、メンバーシップに参加されている方と月1回行っている読書会のことですね。
そうですね。収録日的には、配信日的にはちょっと過ぎるんですが、毎月に1回土曜日にやっているやつで、そこで余談的に話してくれた話だったと思うんですけど、
ぜひそれは面白いから、記事とかを書いてくれって言ったら、note.comにその読書記録表みたいなのを見せてくれて、本数字とは関係ないんですけど、このめっちゃ細かくて丁寧な字っていうのがポイなって
いうことを思ったりとか。
確かに。
俺こんな綺麗にジグマック書けないんですよね。
自分もこれに影響を受けて、全く同じやり方ではないんですけど、
オブシディアにチェックリストを作ったと言えばいいのかな、デイリーノートに。
でもそのジーンさんが教えてくれたのは、アナログのノートに自分で線を引いて手書きで書いていくというタイプでしたが、
ゴリゴさんはオブシディアンアレンジでということですね。
そうですね。そのLLRを使ってルーチンに読書を組み込む。本のノートをルーチンに入れることで毎日出てきて、
ジーンさんは概要を言うと、今読んでいる本を1日1ページより多く読み進めて、ノートに何ページまで読んだかを記録する。
しかも本が複数あるという感じですよね。
そうですね。目標としては全ての本を1ページ以上読み進める。
自分もどういう影響だったかわからないんですけど、真似してみたら思ったよりだいぶ効果があった。
当社費5倍10倍ぐらい読めているんじゃないか。
5倍10倍。仮に5倍としても相当デカい差ですよね。
この時期が減っているというのは明確にあるので、もちろんだからといってラシタさんより読んでいる量は少ないんですけど。
楽しくない読書を続ける発見
とはいえ、まず明確に効果があったということと、
一番の発見だったのが、楽しい読書じゃなくて良かったという結論かな。
そこがやはり一番新しい発見で、
すごく悪い言い方をすると、仕事なんですよ。
持っている本全てのリストがあって、1日1ページ以上読み進めるという仕事で、
もちろんやらないといけないわけじゃないし、やらなかったからといって罰があるわけでもなんでもないんだけど、
ある意味仕事のようにして本を読むことで、
結果的に不快感はなく、投写費5倍ぐらい本が読めるようになっており、
その不快感が普段はあったってことですかね?
逆に言うと、非常に難しいのが、読書は楽しくなければいけないと思っていたんですよ。
1日1ページ以上読むというルーティンは、
100%楽しいことを保証はしていないんですよ。
読んでいて楽しいかと言われると、
ファンという意味の楽しいことは少なくとも期待していないし、できていない。
インタレスティングというのも常にインタレスティングと言えるわけでもない。
ただ俺は1日1ページ以上読むんだというセルフルールがあって、
1日1ページ以上できるだけ全ての本を読み進めるということをしてみる。
楽しいとは言えないけど満足感はある。
楽しいと感じていなくても行為が続けられているし、
いわゆる実績もちゃんと出ているというところがポイントなんですね。
もう1つ言えば、読まないより読んだほうがいいのは、
自分にとってほぼ100%真なんですよね。
政権一般の真というよりもゴリゴさんの世界観で真ということですね。
そうですね。読まないより読んだほうが頭に良いという言い方になるのかな。
そうですね。
のはほぼ間違いなくて、そして全部を読もうということで投写費5倍で読めて、
さらに楽しいとは言えないけど少なくとも苦痛ではない。
仕事のように本を読むみたいな言い方になるのかな。
もうちょっとそこが広い意味で、楽しくなくて良かったということが革命だった。
そこが革命だったという話が僕には革命なんだけど。
そうなんですよね。
読書が楽しいものでなければならないという規範性みたいなのが、
僕のイマジネーションのかなり外側にありまして。
もちろん本を読んで楽しいのは楽しいんですけど、
楽しいかもしれないぐらいの。
つまり読書とはほかほかであるべきだみたいな規範性が全くなかったので。
おそらく僕の読書量が多いのはそれが影響しているからでしょうね。
それが影響しているのかやはり。
だからあんまり期待してないんですよね。
期待してないってちょっと言い過ぎやけど。
面白いかどうか。その本が面白いかどうかは
プライオリティとしては2番手以下っていう感じがするんですよね。
僕の中で言うと。
文字を読む根源的な欲求
じゃあプライオリティは何かっていうと文字を読むということですね。
だいぶ旧同社のめっちゃ極めている印象じゃないですかそれは。
でもこれは旧同社的でもありますけど、
僕のイメージの話をしますとですよ。
駅で電車を待たなければならないとしますよね。
5分10分あるとしましょう。
古びれた駅で電波がないと。
ど田舎なんで周りも何もないと。
ベンチに座ったら隣に旅行のパンフレットが並んでいたと。
でも明らかに田舎なんでもう終わってる旅行のツアーとかが書いてあるだろうと。
そういうのであっても、僕はたぶんその時にそのパンフレットを手に取って読むんですよ。
そこはね俺もそうだな。
他の、例えばその待つ時間の潰し方として、
別の人は歌を歌って時間を潰すかもしれないし、
別の人は踊りを踊って時間を潰すかもしれないけど、
僕の場合はとりあえず読むものがあったら読むということなんですね。
これはだから非常に何もねば。
読むものがあったら読む。
今、生きる上での暇つぶしとしての読書っていうのが一番最低ラインにあって、
その時に読んだ本が面白かったらそれは嬉しいじゃないですか。
でもそもそも僕は暇つぶしなので、
一応かぎかっこつきで暇つぶしと言いますけど、
面白くなくても少なくとも文字を読むということをしている段階で、
僕の中でもそれが達成されているわけですよ。
何を達成されているという言い方になるんですか?
暇つぶし。
暇つぶしができているか。
できた。
文字を読むことで暇つぶしをするということをしている。
で、文字を読むこと、
これは僕が文字を読むのが好きだからということですけど、
それをもっと言うと、
文字を読むための脳のネットワークが、
そうじゃない人よりも発達していてて、
活動したがっていると。
そのネットワークが動きたがっていると。
その動きたがっているのを満たすためには、
文字を読むしかないという感じ。
多分違うじゃないな、
ラスタさんには感覚はないと思うんですけど、
体を動かしたくてしょうがないと、
同じような感覚。
同じ。
その領域としては同じことで、
その行為そのものがそういう人とは違っていて、
でもこの場合はとりあえず、
なんであれ文字っぽいものがあれば、
文字を読んで過ごしたいという欲望が、
まず1回にあって、
その2回に例えば面白い本を読むとか、
役に立つ本を読むとか、
何か考えるきっかけになるっていう、
グリコでいうとおまけみたいなところは、
そこに効果としてありますけど、
そもそもとして本を読むということ、
文字を読むということを根源的に求めてて、
読めさえすればいいという感じなので、
読めさえすればいいか。
グリコさんの場合は、
読むか読まへんかったら、
読んだほうが頭に良いという、
ちょっと合理的な感じで、
実力的な感じですけど、
僕はもっと、もっと、
根源的な欲求。
文字中毒。
読むということに対して、
中毒状態にあるに近い状況で、
言ったら、
僕の制御下にないという感じで、
僕っての自意識の制御下にないという感じ。
僕が本を読もうと思って、
よし本を読むというよりは、
読まざるを得ないという感じがしているので、
だからそもそも面白い本を読みたいと思いつつ、
面白くなくても、
そのゲームは別に僕は負けてないという感じが、
ずっとするんで、
だから本を選ぶときに、
そこまで面白いかどうかは悩まないというのはありますね。
ちなみに今の話で言うと、
やっぱり暇つぶしという次元の行為ではないですよね。
どう言ったらいいのかわからない。
神を信仰している人を暇つぶしというのは、
さすがにあれですけど、
自分の人生を何かで満たす必要があるときに、
選ぶものということですね。
さっきの運動の話を例えると、
例えばずっと家の中にこもっていると、
体がうずうずして耐えられなくなって、
外に出かけたくなるとか、運動をしたくなるとか、
俺はないんだけど、
その例えをするならば、
文字を読まないと、文字が読みたくてしたかったがなくなる?
そうが近いかな、おそらくは。
もちろん文字が読みたいって、
言語化できているわけではないけど、
この落ち着かなさを沈めるには、
本を読むしかないというような感覚があるし、
僕は日常的に本を読んでいるから、
あまりそういう上は感じないですけど、
どうしても動機的なものを探ったら、
おそらくそうなんだろうなという気がしますね。
話がずれるかもだけど、
ラシタさんが旅行とか行きたがらんのは、
それとつながっているかもしれない?
ライブとかに行かないのも多分そうだと思う。
本を読む時間がなくなるから?
というか、読むという行為と距離がありすぎる?
例えば旅行だったり、
映画は行為としては読むにちょっと近い?
だからちょっと許せる?
許してるわけではないけども、
あれは読むという消費行為の仲間に、
値打ちする感じがしますね。
電車に乗っていて車窓を楽しむは、
そんな概念が今時あるかわからないけど、
読むとはやっぱり遠い?近い?
気分によるけど、風景を読んでいるときはある。
確かに。
看板を読んでいるとかじゃなくて、
そこを意味を汲み取っているということかな。
読むというのは記号を介して意味を解釈するということだと思うけど、
それをしている時もあるし、できない時もあるし、
風景によってはほぼ不可能なこともあると思うし、
でも普段見慣れない風景とか、
例えば僕は山の中に住んでますけど、
海のある風景に出会うと意味の解釈みたいなのが発生すると思うので、
そういうときは読む的なことをしているとは思いますね。
ちなみにさらに言うと、
いつの間にかそうなった?
少なくとも小中はそうではなかったと思います。
もっとゲーム型人間だった。
普通にテレビゲームをしていた?
ギリ漫画ぐらいで、
漫画はちょっと読むの練習になっていたかもしれないですけど、
高校生以降じゃないですかね、ここまで文字病になったのは。
今はあんまりゲームとかはしない?
昔に比べればね、全然。
自分も大きな意味での、
その話を聞くに想像するになんですけど、
小中とかは近いような気がするんですよ。
別に外で遊ぶのとか好きじゃないし、
小学校低学年の頃は、
よくわからないから、
隣の友達の家に行って遊ぶとか、
その友達が外に行きたがるから、
あんまり好きではないけど付き合っているみたいな感じだったけど、
高学年ぐらいになると、
基本的に外で遊ぶという行為は絶無になって、
あんまり運動部にはいたか、中学高校とか。
人並みよりはたくさん本を読んでいたと思うし、
たぶん同じく、特に小学校時代って、
時代的にも娯楽がなかったじゃないですか。
そうですね、確かに。
娯楽として残る読むものが、
例えば教科書だったり、
地図帳だったり、資料集だったりとか、
授業中にそういうものを読んでいたりとか、
その家にパンフレットがあれば、
それこそ読んでいたような気もするし。
現代で言えば、
過剰なドーパミンをかき立てる物質が、
あふれまくっている物質に限らずか。
中でも、ラスタさんはまず読むという中毒から、
中毒でい続けられている。
そうですね。
昔に比べると、
集中度はたぶん絶対的に下がっていますけども、
これは治る治らないものではないんじゃないですかね、
結局。
その他の機能よりも、
読むという機能のニューロンネットワークが、
かなり強化されている。
そこだけムキムキな感じ、イメージとしては。
そうですね。
たぶん平均より他のことは相当やってないだろうな、
って感じがするもんね。
そこのネットワークの強化がほどけない限りは、
なかなか治るというか、
違う状態にはいたれないような気がしますね。
概念として、
楽しいとか楽しくないでは、
そもそもないんですよね。
それが主の目的ではない、
重たる目的ではないというところはそうですね。
もちろん楽しい方がいいけどね。
自分の場合。
趣味は常に楽しくなくていい
確かアフタートークでも話していたんですけど、
読書に関しては、
プロではないので、
趣味でしかないと思っていた。
趣味である読書であるならば、
趣味というものは楽しくなければいけない、
という規範があった。
なんとなくわかります。
当然なんだけど人生には波があって、
本を読んだ瞬間常に楽しいと感じられるなんて、
今振り返ればなんですけど、
原理的にそんなことは起こり得ないんですよね。
つまらなくても読むし、
読んでいたら面白くなったりするし、
気分が合わないときは合わないし、
やってみるとはかどる法則?
みたいなやつで2分くらい読んでみると、
そのまま10ページ20ページを見進められたりもするし、
結果的には、
例えばスマホを見てダラダラしていたよりも、
圧倒的に人生の満足度が高い。
1つわかったのは、
趣味というものは楽しくなくていいんだ、
読書というものはその瞬間で楽しくなくていいんだ、
というのが発見だったんですよね。
僕の読書癖から離れて、
趣味論に入ってくると思うんですけど、
趣味として、
仕事と対比されて述べられる趣味は、
基本的には楽しみのためのものだとは思うんですけど、
趣味を構成している全ての時間が、
楽しいで満たされている保証はないどころか、
ギターが趣味な人が、
例えばギター始めた頃って、
指の押さえ方の練習とかしてたはずですけど、
最初はちょっと楽しいかもしれませんけど、
慣れてきたら、
仕事感というか、
作業感が出てきますよね、
訓練というのは。
そこをくごり抜けた後に、
指が使えるようになって、
楽しいみたいなところがあって、
でもまた上達していくために、
スランプみたいなのがあって、
そこでまた楽しくない期間があって、
またレベルが上がって、
例えばごく単純に、
マクロで見た時でも、
面白い期間と面白くない期間って、
普通に行ったり来たりすると思うんですよね。
だから、趣味イコール、楽しい、
全楽しい、楽しい、
充実っていう感じで言うと、
多分、
趣味という意味が成立しなくなる、
気がしますね、なんとなく。
そう、そこもやっぱり発見で、
自分の趣味感が、
言ってみれば、
あえて過激な言い方をするならば、
熱中すること、
熱中になることこそが至上であり、
趣味とはその状態を目指すものだ、
みたいな規範があったかもしれないと、
気づいたんですよね。
逆説的な話で、
今の読書論を応用してみたら、
音楽も全部同じこと言えるわと思って、
最初期はやっぱり楽しくないと続かないから、
楽しくする工夫はあるべきだし、
楽しくするべきだと思うんですけど、
ある段階に至って、
もはや楽しいとかじゃねえんだっていうことに気がついて、
俺はただ毎日練習すればいいんだっていう、
悟りに至ることができた。
楽しいとか楽しくないじゃなくて、
やるんだよっていう、
すごい根性論めいた言い方になるんだけど。
そこは非常に重要だと思いますけどね。
たぶん毎日朝起きたらCMの練習してると思いますけど、
楽しいからしてるわけじゃないですよね。
その言い方で言うと仕事ですからね。
でもそうすることによって、
その後自分の仕事を充実させること?
この仕事ができてよかったね、
に接続するための行為じゃないですか。
その行為を単独で評価してはいけないということかな。
アフタートークで喋ってた時に、
同じく発見だったのが、
読書を筋トレとして捉える
読書は筋トレと同じなんやっていう考え方で、
筋トレをしている最中が楽しいとは
ほぼ間違っても言えない。
でも筋トレをした方が、
5年10年先を見た時に、
ほぼ確実にいいであろうと
確信をすることができたからこそ、
続けることができるようになっている。
そのマインドで、
読書をすればいいんやっていう。
読書の最中が楽しくなくてもよくって、
ただ読めばよい。
善の境地みたいな感じなんですけど。
僕は善読書やなと思いながら、
ただ読むということをすればいい。
それが読書のスタートラインで。
それができると、
難しい本とかを読みやすくなると思いますね。
読みやすくなる?
正確に言うと、
詰まりにくくなるかな。
ただ読めばいいから。
分かろうとしないとか、
共感しようとしないっていうのが
非常に大切なんですね。
楽しいイコール読書としてしまうと、
まずそのような読書を一切受け付けなくなる。
分かれる本なんて絶対ありえないですね。
しかも多分、自分が共感できる内容の本ばっかり選んでしまいますよね。
それは多分、知的な向上において
あんまりよろしくない態度なので。
非常に限定された意味での趣味。
趣味は読書ですっていう人の
読書はもしかしたら、
非常に楽しいしかない。
その場合でいうと、
僕は趣味が読書ですとは
その人たちと同じ語彙では
表現できないなという感じが
ありまして。
そこと区別するために
さっき暇つぶしって言いましたけど、
趣味じゃないんだよと言いたいわけです。
そういう意味での趣味ではないんだよという感じが
僕の中で強いです。
まず趣味と仕事の
二分論っていうのが間違っている
というのはありますよね?
そうだね。
じゃあご飯を食べるのは趣味なのか仕事なのか?
生活の一部ですよね。
その場合は。
衣食術っていう生活の3要素がありますけど
僕の場合は
食べると
胃の方かな?
に読むっていうのが
ちょっと侵食している。
胃と食の興味度
胃の興味度が低そうだもんな。
そうそう。
それに興味が低いというよりも
読むことの興味があると
人間の100%の
リスクが限られているから
何かが増えたら何かが減るわけですね。
だから僕は
生活を構成する要素に読むがあるおかげで
他がちょっと低くなっている。
だから趣味というよりは
生活なんだ。
生きるための様子がとしての
読書という。
生き延びるではなくて
生きる方のやつ。
僕にとっては
そのことをしていた結果
生き延びるために役立つものも
確かに手に入っていますし
そもそも職業が読むことが
読むことなので
生き延びるの
生きるを追求していたら
並行して追求しているとは思いますけど
生き延びると生き延びるが
両方の本を読む、読書するということで
賄われているという感じが
僕の中ではありますね。
なので結局
例えばそのもう一個の
発見で
例えばよくあるので
読んで
何も覚えていないとか
自分の場合で読んだ本について
語れないとか
そんでええやということも
気がついて
僕もそう思います。
極論なんですけど
読んだ本について語れないという
経験をしたおかげで
それを
バネとして
読んだ本について語れるようにしようと
思って
ブックカタリストによって
人並み以上には語れるようになった
と思っているんですけど
ということは
読んだ本について語れないことは
何も悪くないどころか
むしろスタートラインに立つためには
重要なことではないかとも思ったし
そうですね
そこから始まりますし
おそらくその経験を
してきたから
語れなくてもいいと今言えるんだ
と思いますよ
そうですね
そういうことなんだと思う
語れるようになったからこそそれを手放せるようになった
という感じがしますね
だから何にも覚えてなくていい
もう
何にも覚えていないこと
本を何十冊と
あったおかげで
それは嫌だなと思って
記録の仕方なり
というものを勉強して
できる
かなり覚えていられるようになったけど
でも逆説的に
やっぱそんなものを覚えて
なくても
気にしなくていい人は気にしなくていいんだし
そうですね
それでも全然趣味は読書が好きですと
言えると思います
だから
自分自身のもったいない気持ちで
そのように
読書術のノウハウに
立ち向かうのはいいんですけど
それが読書であると
読んだことが
飲んだものを得ることが読書であるという定義
あるいはイコール批判
ということから
自分のノウハウを買わせようとするのは
ちょっと
それを受け取った人の
読書感を歪めてしまうかなという気はしますね
その観点で言うと
世間が書を高く置きすぎているような
気もしますよね
そうですね
あるいは書から高揚を求めすぎているかな
あーうん
そうかもしれない
もっと暇つぶしでいいんや
ってことなのか
僕はその感じがある
ただ読めたらいい
というのがベースにあって
もちろん面白い本がいいとは思うから
本の情報は探しますけども
それは本当に2回立ての
話であって
さっき熱中するって
おっしゃいましたけど
熱中っていうのは多分情熱に
パラフレーズできると思うんですけど
情熱って英語で言うと
パッションなんですね
パッションって
パスっていう名前から分かりますけど
受動的な感じの言葉なんですよ
受ける方
苦難っていう意味もあるんですね
どっちかというとキリスト教的な
聖書の言葉っぽい
ニュアンスですね
苦労に耐えるという感じ
パッションっていうのは
よしパッションを持つぞ
あれを好きにならずにはいられない
みたいな
あそこに向かわざる得ない
というような
自意識のコントロール外のことを
情熱あるいはパッション
感情の高ぶりを
意味するんですけど
そのような
感情にあるときには
本が読めたら
それでいいわけですよ
そこから何かを得るかどうか
ということは全くなくて
砂漠で水に
植えている人のように
文字がある
読もうって読んで
それでいいというところを
それをベースにした方が
実は読書感は
豊かになる気がします
さっき言ったように
自分が面白いと思う本以外も
手を伸ばせるという意味で
そっちの方が
懐が
広い読書感になると思いますけど
今度それ言うとそれが非常に
効率的に聞こえるので
あんまり言い過ぎるのは何なんですけど
でもまあ
読書っていうものの
真に高揚を
真なるコスパを求める場合は
むしろ読めばいいの方が
逆説的に
読書が広いんじゃないかなとは思いますね
俺その話で言うと
やっぱ
自分はもう
ファンを捨てて
氷で生きようと思って
なるほど
だからファンを求めたから
うまくいかんかった
っていうのかな
なのでもう氷に割り切ってしまった方が
自分は読めるなと思ったんですよね
でも思うんですけど
確かにその通りなんですが
ファン
読書においてファンを求めると
なぜ挫折するか問題なんですけど
ファンかどうかは
読んでみないとわからないじゃないですか
そこがポイントなんです
読書は未知のものに立ち向かう
行為ですから
自分は微分的感情
しかないのに
積分が見渡せないんですよね
なるほど
ということは結局
積分というか時間軸を取らないと
それがファンであったかどうかも
わからないっていう
振り返った時に面白かった方がいいねとは言えますけど
読書
今取り組むこの1ページが
面白いかどうかにこだわると
多分そもそも本を読まなくなっていく
ということはあるでしょうね
きっと
多分そういう風になっていた気がする
なるほど
面白くないから読むのをやめよう
という
そうだな
そういう言い方になるのかな
今この瞬間面白いと思わないから
読まない
旅行とか
言ってみれば今この瞬間
他のことをしていた方が面白いと
感じてしまうから
他のことをしよう
特に現在
ドーパミン中毒症状で
あらゆるコンテンツが
今面白いですよをアピールしてくる以上
本は非常に弱い立場に
置かれますよね
相当アピール力
弱いですからね
光ったり動いたりせんし
そうですね
読み飛ばしと複数冊並行読書
結果的に言えば
ドーパ中に
抗う
訓練にもなるとも言えるし
面白いのは
例えばジンさんの場合でも
最低1ページで
複数の本を渡り歩くわけですけど
ゴリラさんも似たような感じでしょうね
今の今で言うと
6冊ありますね
今日読もうと思っているの
これっていわゆる
テレビでいうとザッピングに近いと思うんですけど
昔の読書館でいうと
手に取った本を
集中して読めっていうスタイルですけど
非常にこれザッピングって
現代的な読書で
僕らの移り気な性格に合わせた
しかし読書術という感じがしますね
今言われて思い出したけど
主観的に面白くないと思っているやつから
選んでいます
それは多分
嫌なことをさっさと片付けようの前に
この本を早く読み終えたい
なんだと思う
それはなんかね
偶然なんだけど非常に良いような
気がして
それは良いと思います
結果的にね
面白いと思っている本が後回しになってしまったり
するんだけど
それはやっぱりライフハック的な要素
ではあるんだけど
あんま面白いと思わないやつを
読み進めていったら意外と面白くなった
というのをしかも2回ぐらい体験している
あると思うなそれは
そういう観点でも
良いと思ったし
そっちの方が進むっていうのも
あるんかな
こいつを1ページか
あわよくば2ページか
気がついたら5ページか10ページ進めて
次にしようって
どうせ3分ぐらいで終わるから
っていう
そういうマインドを
今初めて言語化したんですけど
そういう感覚で
読み進めることが
できるようになっていて
例えば
今まさに
街の本屋はいかにして潰れてきたかとかを
挫折したやつを読んでいるんですけど
パラメーター多くって
大半に興味がないんですよね
そうだと思いますそれは
それはまた別の種類の割り切りで
全部読まんくっていいし
つまらんと思った部分は
読み飛ばして
次のページに進んで
1ページ読んだことにすればいいや
っていうぐらいのイメージで
言われてみれば
そういえばジーンさんのやり方に
習って
最初だけは
1ページ真面目に読もう
はい
そこの1ページだけは真面目に読んで
あともうつまらんところとか
マジ流し読みとか数字飛ばしてとか
見出し出し系とか
そういうので
結果論で言えば
だからやっぱ
返して覚えてないんですよね
損でいいんやって思えるようになった
損でいいと思いますね
それが読書だと
言う気がするんですよね
だから
やっぱり
よく話を聞くと読めない人は
細かいところにこだわりすぎているなと
僕はずっと感じてたんですけど
わからんかったらパッと飛ばしたらいいやと
ずっと思ってたんですけど
僕の中には積分の感覚が
それを可能にしてたんだろうなと
今は思いますね
例えばそこにバックグラウンドに千冊があれば
それを経験にして
ここはどうせ読み飛ばしても
読んでも変わらないみたいなのを
言語化せずに判断すらできている
そういうことだと思いますね
そこを読み飛ばしても
損したことにもならないし
何かのゲームに負けるということも
ないという感じ
そこにこだわってしまう人は
何か別のゲームを
自分とは別のゲームをしてるんだろうなという感じがありますね
本に書いてあることを全て受け止めようかな
イメージで
受け止めないと
失礼にあたるのか
それが本を読むことだと認識しているのか
何かわかりませんけども
多分そういうことではないんですよね
本を読むということはきっと
例えばあれなんですよね
この町の本屋はいかにして潰れてきたかを
逆説的に
思ったのが
いろんな資料があたって引用してきていて
その時に
著者はその本を読んだかといったら
厳密な意味での
誠読をしてなんて絶対ないはずで
抜き出すために必要なものだけを
持ってきていて
私は研究者ではないので
その数字が合ってるとか
合ってないとか
細かい数字なんて
俺にとって追っかける必要がない数字で
ニュアンスとしてこういうことが書いてあったんだな
へーでいいんだなっていう
その潔い読み飛ばし
それも
1ページ以上読むのを
意識したら
今まで以上に
ついにようやく
堂々と読み飛ばせるようになった
そこが
面白いですよね
多分ですけど
そういうの読み飛ばせばいいんじゃないですか
っていうアドバイスは
多分何の役にも立たないんだろうなというのは
思うんですけど
この方式をすることで
その得人が
そんなこと言われなくても
自発的にその読み方を開発するというところが
改めてすごいなとは
ちょっと思いますけど
やっぱ1ページ読めばいいという
一つの教えが
意外と偉大なんじゃないのか
そこがだから
すごいよね
なぜそんなことが起こるのだろうかの
興味が
理論というか基礎か
に興味があるんですけど
俺の心の変化?
それが他の人にも起こるとしたら
何が働いてそう
アドバイスと言われたことは
おそらく実践されへんのに
1ページ読めばいいという方式やと
その読み方が
発見されるのはなぜか
まず単純に
相性が良かったはあるとして
自分と
逆説的なルールだったからかな
その1ページだけは
ちゃんと読むようにしています
っていう言い方をしていて
そうか
だから
今日はめっちゃ運動したから
夜ビール飲んでもいいよ
みたいな感じなのかな
長尻があるというか
自分の中である程度
やったって言える何かがもう
確立されてるからってことかな
ちょっと近いけどちょっと違うような気もする
宿題1ページやったら
あとは全部答え移してもいい
とニュアンスは近いんだけど
それでそうすると
やったって自分で言える
ということなのかな
その先宿題パターンで言うと
なんで最初から移すのと
どう違うのかって言われたらどう答えるの
なんて言うんだろうやっぱ結局
入れるかどうか
進められるかどうかみたいな感覚も
あるような気がして
なんて言うんだろうな
1ページ読みましょう
1ページ読むと
例えば最初の方に選択する本は
あんまり読みたいと思っている本でもないので
一応終わらせたいとは思っているんですよ
読んだ満足感を得たいと思っているんですよ
なるほど
でも全部読むのはめんどくさいんですよ
だから飛ばせばいいやっていう
理論になっていった気がする
それを普通に
公式を持たなくても
一応原理的にはできる
細かく刻んで
行為そのものが発生しやすくなっているから
ということなのかな
複数あることは一つのポイントな気がします
それはそう思います
こいつを倒して早く次に行こう
さらに言えばもっと広い意味での
この本を倒して
次の本にしよう
本を片付けなければならないから
飛ばし読みの
コマンドが増えるけど
つまらないから読んでいない本というのは
終わらせるタスクになっていないから
読まずに
返却なり読まないなりしてしまう
攻略法が発見されないまま
RPGで言うと逃げる?逃げる?
を選択して
どうする
弱点を
見つけて倒すみたいなコンセプトが
生まれにくいということなのかな
とりあえず読むとして
仕事か作業か
タスク化されているからこそ
読み飛ばしという
技法が磨かれたということなのかな
結果的に
短期間ではあるけど
いろいろな独自手法を
開発はしたのかな
と思うんですが
言えるのは
読まんかったと思うより
読んだと思いたい
ならば一通り目通して
読んだことにしようぐらいに
上っているのかもしれない
それを
実現しやすいメソッドが
開発されたということか
そうですね1ページ読んで
まず目次とかは
逆に言うとなんですけど
丁寧に読むようになった
ような気もする
この技法を
聞く前に
1日本を1ページ読むは
多分読書という行為に
多分カテゴライズされなかったんじゃないかなと
予想するんですけど
本を読んだって多分自分に言えなかった
ような気がしますがどうですかね
多分すると思いますね
あとさらに言えばそれは
1冊ではダメだ気がする
なるほど
そういうことか
1冊1ページやったら
自己肯定するにも材料が弱すぎるけど
小さすぎる
複数冊したら
これで本を読んだと言えるかという
流度になったということか
イメージですけど
3位より多い方がいいんじゃないのか
だからやっぱり
行為を進めやすくするために
ある程度細分化するのはいいけど
小さすぎると今度は自分の中で
何もやっていない
小さくしたものを
複数セットでやるという
これやっぱり筋トレと
かなり似てますよね
筋トレも自分の場合は
週に1回3種目をやるより
週に3日間
3種目やった方が
上手くいったんだけど
腕立てしかしないとかだったら
多分
ダメなんだと思う
なるほどね
そうか
実際たくさん本読んでる人は
平行で読んでることが多いと聞くから
それはあるんでしょうね
そういう人たちも多分1日にそれらをバッと読んでるんじゃなくて
ちょこっと読んでっていうのを繰り返している気が
しますね
なんとなく
おそらく長期記憶的な観点で言えば
1週間で読むより
1ヶ月で読んだ方が
長期記憶には残りやすいとは思うんですよね
何回もその内容を
思い出すわけで
早期の回数が増えれば増えるほど
良いはずで
逆にテクニックで言えば
つまらん方は逆に少ない回数で読み終わるので
記憶に残らなくてもいいやとも言えるし
そうですね
その中でも意外と面白かった
ところとかはやっぱり出てきたりとか
はい
それももう1冊最近で言うと
チャーハンという迷宮っていう本があって
はいはい最近で言うと思うよね
チャーハンが発明というか
起源はどこにあって
現代までどういう変化をしてきているかっていう話なんですけど
最初期が
自分にとってつまらなさすぎたんですよね
はいはいはい
一番初めのチャーハンはどこか明治時代の
なんかその雷雷拳みたいな
うんぬんみたいなやつとか
あまりにもつまらなくて
はい
でもその1日1ページ論で読み進めていって
はい
確か電子レンジぐらいのところから
おう
自分的にはその面白く読めるようになって
はいはいはい
結果で言えば別にこれは
人にお勧めしようとは思わんけど
あの
良かったなって覚えてはいるんですよね
はいはいはい
どころか最初期がこんなつまらんけど
後の方面白くなるとかはなんでなんだろう
っていう
メタ的な面白さとかもあった
確かに
っていう観点で言うと
えーと
なんだったっけもともと
最初は筋トレの話でしたけど
筋トレと複数した方がいいという話ですね
あー
そうですねやっぱそれも複数同時に
読んでいて
こいつは一応ちゃんと進めようと
思えたからというのかな
例えば
6冊平行で読んでて
全部均等に面白くなかったら
ちょっと続かない可能性は
ありますかね
ありますね
だからある種その
プレーターの作り方が結構大切という
感じはしますね
ひょっとしたらだから
例えば1冊ラノベを入れておくとか
はいはいはい
なんかすごく簡単な
漫画すらなんなら許容してもいいかもしれないし
はいはい
自分の場合
そうですねいわゆるメモを書いて
読んでいる本は1冊しかない
はい
あとはそれはやっぱ重くてなかなか進まない
うんうん
他は読めばいいただ
っていうバランスで
うまくいくようになったと
言えるのかな
うーんまあそうでしょうね
定食頼んだら
単品では頼まないサラダがついてきたし
まあついてきたから食べようか
みたいな感じで
食が進むという形の読書の進み方
っていうのは多分ありますねこれは
うんでねひょっとしたら
物理的満足とかでね
3,4冊を積んでね
1個ずつその
倒していく感覚っていうの
なるほど
そういうのもひょっとしたらあるかもしれないんですよ
まあ確かにその
手で何かが進んでいる感じ
自分で片付けている感じ
倒している感じっていうのは
実感としてフィードバックは
強いでしょうね
これ仮に電子書籍でやったら
むしろ面倒の方が多くて
マイナスにしか作用しないと思う
1カウントだけ
それにするならありかもしれないんですけど
そうですねだから僕の場合は
僕はものすごい平行読書してますけど
やっぱり
ブックウォーカーと
Kindleは別の本読んでますね
あとiPadのKindleも別の本読んでますね
うん
っていうやり方ならできるけど
でもあれかもな
物理とかも効果あるかもな
3、4冊積んで
それを順番にっていうのは
ひょっとしたらなんだけど
今まで体験したことがない行為として
物理的な
だから多分
Obsidianに何かを書くだけだと
やっぱちょっと物理的なフィードバックが弱いですけど
ジンさんのは紙
ノートに広げて自分で数字埋めていくんで
かなり充実感があるだろうなと思いましたけど
本の物理性によって
実感を
添加しているというか
増やしている感じがちょっとあるかもしれないですね
うん
チェックリストは
ほんとただのチェックリストでしかないから
その
Obsidianはテクニックとしては
大して重要ではない
という
何よりはあった方が絶対いいとは思いますけど
うん
やっぱこう進んでいる感じ
っていうのをいかに持てるのかは
結構大きいでしょうね
3冊4冊積んで
これを読んでこれは倒した
これは倒したって
この行為っていうのかな
はい
やっぱ結構
メタ的に読めているのかもしれない
こいつつまらんけどもうちょっとだけ読み進めて
そろそろ次に行こうかみたいな
それまではそう読めていなかったということですよね
複数を平行して読もうという意識が
存在していなかった
複数の本は手元にあるんですよ
もちろんもちろん
そこのほんのわずかな違いなんだと思う
複数の本を平行で読もうとしている段階で
すでにメタ的な認識があるということなのかな
多分よく
よかったのは
全部1ページ以上だと思うな
自分の場合は
そうすると進捗があった
あまりはまりきることがないまま
次に行くわけで
それはやっぱ
没頭とは逆の観点で
没頭というのはメタ的な感覚が不足している
という状況の表れでもあり
そうですね
本を渡り歩いて読むこと自体が
本をメタ的に見る観点を育てる可能性がある
だいぶメタ的に
ひょっとしたらなんだけど
熱中して読んだりとかは
ほとんどないのかもしれない
だから熱中する本があってもいいと思うんで
このルーティンとは別に
好きな作家さんの本は
集中して読むというのは
僕はありだと思いますけど
そこを全く否定しない行為かな
それとは別に
ある種
生きるための様子とか仕事とか
義務ではないけど
ルーティンとして本を読むというのは
読書が好きという人からすると
あまりにも即物的に
聞こえるかもしれないけど
多分他読の人は
この表枠作ってない人も
多分似たように読んでおられるんじゃないかな
と思うけどね
結局多分ね
期間をかけた方が記憶に残るは
ほぼ間違いないから
そっちの方が
他読しながら
やっぱり言い方で言うと
効率の良い読み方になると思う
長期的に見た時に効率の良いのは
そうで
面白くない本は
素早く飛ばして早く読み終わり
そうじゃない本は
ゆっくり読むか早く読んで
2週目入るかのどっちかで
時間をかけて読むというのは
人間の脳の性質から言って
欠かせないことだと思うんですけどね
だからあれかな
基本自分は1冊を順番に読む
いつからか基本にしていて
基準がなかったとかなのかな
どの本を読もうと
選ぶみたいなのも
選べないもんね
その本を読み切るまで次に行けない場合
選択っていう行為がないもんね
とか複数あって
今日はどれを読もうかなみたいな
行為っていうのかな
それもやっぱ難しい苦労する
それは難しいね
だから今日は全部読もうかな
何すればいいっていう
全部の中で
無理やり1個選べというなら
それはやっぱできた
7個以下の選択肢から
順番を決めて1個ずつ
人間の脳でも全然可能ですよね
例えば今日読む1冊を決めるは
行為として非常に厳しいんだと思う
それはその通りやね実際
例えばこう
新幹線乗って東京行くときに
カバーにあんまり本を積みたくないから
想像できる
1冊選ばなあかんときめちゃくちゃ難しい
そういうのは趣味の行為として
楽しかったりはするんだけど
毎日だったらやっぱ苦痛だと思うんですよね
僕は読みたい本を
その時読みたい本を読めばいいという
乱暴なアドバイスをしていましたから
それは本当に乱暴すぎる
家にある本を全て読めですね
机の近くに置いている本を
適当に1冊
順番に取っていくという方式
は多分言われている方式と
ほとんど一緒だと思いますけど
こっちの方が進捗はしやすいでしょうね
家庭の環境が許すなら
家の自分が定住する
ありとあらゆる場所に
3冊以上の本を置くことを
何か手に取るということを
すべて手に取るですね
選ぼうとしないということじゃないか
ラシタさんは多分
もうできているんですよね
選ぼうとは
選ぼうとすると
選べないのは間違いなくて
その時の手癖に任せる
みたいな感じ
お風呂で本を読む時だけは
一冊しか持っていけないので
一冊決めて
読んでますけど
それ以外はこれを読むとは
あんまり決めないですが
一応僕の中で
他人にどうやったら
本を読み進められますかって
聞かれたらどう答えるかを
考えたんですけど
面白く
なりそうなところまで読もう
っていうのが
コツなんですよ
面白くなるところまで読んだら
一切の外的な要因っていらなくて
むしろ
夜更かししてしまうまで読むとか
時間を過ぎてまで読むっていうことが
起こるんですよ
ライフハック的な外部補助は
必要なくて
むしろ気になったから
自分で本を手に取るという動きになるんですが
そうじゃない本の時って
面白いとこどこやろーって
探してる間に読み終わるんですよね
最後まで
面白くない
面白いとこが見つからないまま
最終ページにたどり着いて
終わったっていう感じで
読み終わるんですよ
だから面白いことを期待するというよりは
いつ面白いとこが出てくるやろうな
と期待しながら読むというのが
多分ね
倉下式読書術のポイントですね
これは
メタ的に眺めてるんですよね
それも言ってみればなんだけど
そうやと思います
メタ的に眺めてると思います
そこ
自分もそれによって
投写費5倍とかになったと思うので
ある時期から比べて
結局
だから
熱中しない読書なのか
そうだね
熱中してしまうこともあるから
しようとしないというのか
そうそう熱中
熱中ってしようとするもんじゃないからあれって
さっき言ったようにパッションやからさ
やってくるのを待つ
熱中を待つタイプの
熱中を寄給するタイプの
読書とか行為なので
雨漕いのように
熱中を
いつ熱中できるかなっていうのを
パラパラ期待しながら
読んでいくということだけで
熱中はおまけとしてやってくるという感じで
捉えたほうがいいと思うんですけど
やっぱり僕も含めて
この本面白いですよって
言っちゃうんで
その言葉を聞いた人が
この本の1から10まで面白いんだと
っていう感じになってしまった時に
最初の方が
あんまり面白くなかったら
ポイッと捨てられてしまうこともあると思うんで
これ表現はちょっと難しいなとは
ちょっと思いますね
うん
なんか
多ければ多いぐらいのほうが
ひょっとしたらいいんじゃないかとか
物理的に
今もなんですけど
やっぱ
生成AIを使っているとですね
待ち時間が発生しがちなので
もう割とね
そこで読みやすくなって
なるほど
さらにそれを読んだ判定すればいいっていう
そのネクストライフハックとかも手に入れてきて
なるほど
読書の成果と記憶の凸凹
生成AI中に
2ページ読んだら読んだになるやんっていう
これなら
その10冊ぐらいやっぱ同時に
読み進められるかもしれないし
やっぱ思うのは
1ページとか2ページ読んだ行為を
読書と認定できない
その規範性
結局例えば
3回腕立て伏せやった
丁寧に腕立て伏せやっただけでは
筋トレとは言えないとか
筋トレハマっている人ほど
そんなん筋トレじゃねーよって言うんですよ
多分
近所15分散歩してきたのを
それを運動とは言えないとか
色々あると思うんです
これと同じ規範性は色々あると思うんですけど
結果的にそれはその行為そのものを
狭めてるんですよね
その規範は
自分はねやっぱりやらんよりやった方が
Aに決まっているっていうのは
すごい思って
確かに
最近ね息子がね
ブロスター
っていうゲームがデュオリンゴと
コラボしていて
ゲームの影響で息子は
コラボが終わってからもデュオリンゴをやっていて
でもね
ズルしまくっているんですよ
なんでやるか知らないけど
翻訳ツールとか使って翻訳させたりとか
なんかスピーキングのやつをやらんとか
でもやっぱ思うのが
やらんよりやった方がAに決まってるんですよね
どんだけズルをしようが
間違いなくそうですね
でねちょうどなんか
昨日おとといなんか友達が来ていて
その友達が来ているときに
デュオリンゴをやっていたらしくて
その
めっちゃズルしとるやんみたいなことを
言っていたらしいんだけど
でたまたまそこにその場に合わせて
どんなズルしようがやらんよりやった方がAや
っていう話をしていて
そうですね
英語に触れる機会
英語かどうか知りませんけど英語に触れる機会が
増えているのは間違いないですからね
想像なんですけど
あれを毎日やっていたら
少なくとも学校でトップクラスぐらいの英語の成績は
取れると思いました
なるほど
で読書もやっぱ同じなんだよなっていう
どんだけ読み飛ばしてもいいと思うし
そうですよもちろんそうやと思います
何にも何にも内容を覚えてなくても
何なら本のタイトルを覚えとったら
もういいわけで
十分な成果なわけで
あるいはそういう作者がいるぐらいの
とこでも全然いいし
覚えているの輪郭性も色々あって
本の存在を覚えているから
用紙ぐらいは覚えているから
特徴ある表現を覚えているとか
色々覚えているの
形はあると思うんですけど
結局ある一冊の本を読んで
面白いと思うか
つまらないと思うか
あるいはどこを覚えているのか
っていうのが多分個性なんですね基本的には
だからその均一な成果を求めなくても良くて
その人が例えば
1回読んだだけだけどすごく覚えている本が
あり
あるいは2回読んだけど全く覚えてない本が
あるっていうその凸凹があった方が
良いというか
あって当然のことなので
そこをね
均一にならそうとする
読書術は
多分誤った方向に
進んでいるんですよ
例えば
一冊本に対してのリアクションが違うから
例えば僕とゴルフさんが話した時に面白くなるわけですね
だって同じ感想しか
なかったらそれは全然面白くないわけですから
他人の価値がないからね
だからやっぱり
覚えてる覚えてないとか印象に残っている
残ってないも含めての
その個性なので
覚えてなくても良いっていうのは当然で
例えば忘れようとしても
覚えてしまっている本も逆にあるわけで
それを含めた
やっぱり読書っていう行為だと思いますけどね
例えばあれですよね
150回分のタイトルを言えるかって言ったら
10冊ぐらいなら
言えると思うけど
30言えるか自信がない
僕はさっきリスト作ったから覚えてるけど
それが無かったら覚えてないだろうね
言われたら
言ったか言ってないかは思い出せると思うけど
本として
取り上げてないけど
曖昧に
名前が出てくる本があって
あれ紹介したかなみたいなことは
頻繁にありますね
暇と退屈の倫理学って紹介してました?
紹介したような気はする
強烈な印象は残っているけど
紹介したような気がするけど
そんなもんですよ
10万字あるようなものを
読んで
それをきっちり覚えてるなんてことはないわけ
書き手もそんなことは期待しておらず
何か持って帰ってもらったらいいし
小説の前の読んでる時間が楽しかったらそれでいい
トータルとしての読んでる時間が楽しかったら
それでいいという
もっと言うとページを最後
閉じた時に
良かったなって思ったら
勝ちか負けかという価値なので
その後
何かあるかないかは
別の方法ですし
効果を増やすために
読書術的なことをするのは全然いいと思いますけど
読めてない本は
読んだことにならないとか
読み飛ばした本には
価値がないみたいなとこの規範性は
読書文化を
貧しくしますし
面白くない本を
読むということに
価値を見出さないというか
それができなくなってしまうのは
ちょっと寂しいことだなとは
思いますね
長い時間軸で読書を振り返る
結果的に
やっぱ思ったのが
面白い
ですからね
大体
絶対全部とは言わんけど
言ってみれば
とりあえず最後まで読んでみたら
案外面白いというか
何か引っかかるところは
多分あると思う
100人の人間に会って
喋ったらその人なりの面白さが
どこかには見つかるのと
100人に2,3人くらい
こいつはマジでってやつはいるけど
だから最後まで
おはようございますの挨拶よりも
ちょっと言って
何か世間版的なところとか
身の内話をした時に
この人面白いなって思うのが
1個くらいは見つかるのと同じで
本も最初から最後まで読んで
何か得るところというと
面白いと思えるところは多分あると思うんで
だから読み終えた方が
いいとは思いますけど
同時に読み終えなくてもいい
あるいは読み飛ばしてもいいという権利と
セットになって初めて
成立する行為で
読み終えなければならないとか
読み飛ばしてはならないという
規範性やと逆に本を
読むのは面白くないということに
逆戦的になってしまうんですよね
ここはね
結構マインドセット的な要素が多いから
ライフハック的な
ノウハウだけではないんだけど
やっぱりその
技巧から
マインドセットが変わったという話が
今回出てきたので
そこがやっぱすごいなぁとは思いましたね
おそらくライフハックの凄さというのは
そこですよねさらに言えば
そのちょっとした習慣を
変えることでその人の
習慣が変わる
物の見方が変わるという感じ
行動とか見え方が変わる
という意味では
なので当面
どのぐらい続くか
保証はせんけど多分3ヶ月ぐらい
なら続くと思う
多分続かなくなっても
読書館そのものが変わっちゃってるから
アップデートされているので
講義では続くになり続けるんだと思う
っていう意味で
どういう悩みを持たれている
方にオススメの方法と言われると
難しいんですが
本を
読めないという方
読めていないと感じている人かな
それはやっぱりある種実利を求め
すぎている瞬間的な実利を求めて
すぎているがゆえに
ということだとは思うんで
さっきも言ったように本って読まないと
わからないのでその実利がそこにあるのか
とかはだからある種
賭けなんですね絶対に本っていう
未読の本を読むというのは賭けなので
だからそこに保証というのが
あんまりないいくら
経緯者が保証してくれても
あなたが本を読んでどう感じるのかは
常に未解の地なので
だからあんまり期待しすぎずに
読む
出版社が編集者が出している本
判断の上で出ている本
なんだから何かしら面白いとこ
あるだろうという期待ぐらいは多分
持ってもよくてあとはそれぐらいの観点で
読んでいけばいいんじゃないかな
全ての読書は無駄ではない
みたいなことは流石に言えないですけど
オッズは悪くない
この本を読むという行為の
極論
人生は無駄でしかないがゆえに
人生に無駄はないというか
なるほど確かにそう
みたいなことは思うので読書も同じなんじゃないのかな
読書も趣味でしかないがゆえに
無駄でしかないがゆえに
無駄はない
失敗体験すらも
多分3年経った時に
いやあの本マジつまらんかったって
1回でも言えたら大成功ですからね
しかもその感覚が変わることすらあるからね
ひょっとしたら面白かったのかもしれないって
あり得ますからね
全然あり得ると思うなそれは
ということで
150回
これは
タイトルとしては
楽しくない本を楽しむ
ちょっと難しいな
総括して考え直した方がいいかもしれないけど
という感じで
もし
同じような読み方をされている方とか
もっとさらに応用したテクニックを
お持ちの方とか
ぜひそのコメントお便り
等々でご紹介いただければと思います
あとは
サポータープランというのもやっていますので
その読書会
そうですねよく考えたら
この話は全部読書会由来だし
テーマ自体も
アフタートーク由来だったりもするので
気になる方はぜひ
サポータープラン等もご検討いただければと思います
それでは今回も
お聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
01:09:49

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