これ多分逆にいうと、学生とか体が固まってない人ほど正しい動作でゆっくりやるっていうことは多分重要でしょうね、きっと。
たぶん、確かこの本に書いてあったかどうかちょっとわかんないんですけど、筋肉ってまず男性ホルモンがめちゃめちゃ重要なんですよね。
テストステロンが分泌されるようにならないと一般的に筋肉ついていかない。
女性でムキムキな人って一般的にいないじゃないですか。もう完全にホルモンの作用で、
さらに言うと、確かちょっと根拠なくの思い出しなんですけど、テストステロンとか分泌されるのって20過ぎてからとかなんですよ。
そうなんや。なるほど。
その分泌量が増えてくるっていうのかな。
はいはいはいはいはい。
そういう意味で、だから、ある意味確かに、なんて言うんだろう、筋トレマスターみたいな人ってやっぱ20代にはあんまりいないような印象はあります。
確かにそうやな。確かにそうやな。
で、子供の場合、だからあんま先に進めないし進まない方がいいんじゃないかとも思うし。
筋肉をつけるというよりは、どう自分の筋肉動いてるのかを確認するっていうような感じで扱った方がいいって感じやな。
じゃないかな。あと子供に関してはね、わからんことが多いからあんま不要意にその手放しでおすすめはできないかなとも思います。
まあね、大人の筋トレとして理解された方が安全か。
そうですね。まあそこは各自やっぱ自分なりに色々調べて考えてやっていただくといいんじゃないかなと思います。
あの確か、ヒゲが生えるぐらいが多分なので筋肉がつき始めるタイミングって考えていいんじゃないかな。
ヒゲの伸び具合が多分筋肉のつきやすさと連動している。
まあだからテストストロンの、テストストロンと相関関係があるってことやな。
多分なんですけどね、そこはちょっと自分の今までの知識を踏まえた予測が多いにある部分。
まあそういうことで、実用性でしたが結構影響。実用性だから影響を与えたのかどうか知らないのか回やったみたいですね。
はい。
というわけで102回今回暮らしたのターンなんですけども、前回のアフタートークで聞いてない方はわからないのですが、
ゴリラさんがちょっと本屋さんに行って、その本棚がすごく良かったという話をされまして、
で僕今引っ越して新しい本棚を構築しているところでして、ちょっと本棚についていろいろ考えてみたいなというところで。
本棚について考える?本ではなく?
本棚について考えるということで、ちょうどたまたま発売されたツンドクの本という本がありまして、
いろんな本愛読書家の方とかいろいろな方の本棚事情とかツンドク事情っていうのを垣間見える本でして、
それを読みながらちょっといろいろ考えたんで、今回は本の紹介を兼ねつつ、
ツンドクについてあるいはその本棚に本を並べるということについてちょっと考えてみようかなと思っております。
はい、あれですねやっぱ読書の回だけど、読書ではなく本棚っていうちょっと外しているっていうところがいいですね。
きっとそこはどこかで接続してくると思うんですけども。
もちろんもちろん。
そもそもそのツンドクっていう、こうやって日常的に使っているんですけど、ツンドクとは何かと。
で、ツンドクの本の冒頭に面白いことが書いてあるんですけど、これは多分インタビューをされた方じゃなくてされた方、
石井さんの多分冒頭書かれたところに、韓国にはツンドクに相当することがないらしいんですよね。
日本でもこれって新しい言葉、単語として一般に認知されたのって新しいですよね。
そうですね、ここ最近ある種のリバイバルみたいな、結構昔からインテリ界隈で言われてきた言葉ではあったけど、結構人口に解釈したのがここ最近だと思うんですけども。
ツンドクって、それぞれのインタビューされている方にツンドクとは何ですか、それぞれの人にとってのツンドクとは何ですかっていうのがあって、
それを今回まず最初に拾っていきたいなとは思うんですけども。
この一番最初に出てくる、柳下喜一郎さんがツンドクするわけではない本や使用になる本はツンドクとは言わないと。
イメージとしては、辞書をツンドクとは言わないですよね。
あとは写真集みたいなのを買って、パラパラ見たからってそれをツンドクしてるとは言わないと。
買ったはいいけども、バッファーとして積まれている本という言い方をされてるんですけど、バッファーというのは、つまり読もうと思ってるけどまだ読めていないという中間地点にあるというようなニファンスだと思います。
柳下さんの中では本棚にしまわれているとツンドクという感じはあまりしないらしいですね。
本棚に入っていない状態のものがツンドク感があると。つまりツンドクとは何かというか、それぞれの人にとってのツンドク感というのは何かという話なんですけど。
柳下喜智子さんという方にとっては、ツンドクというのは読まない本を買ってるんじゃなくて、自分の図書館を建てていると。
このニファンス、これはハットリさんのツイートから来てるんですけど、未読の本がたまっているというよりは、自分専用の図書館を作っている感覚であると。
池澤春菜さんは、これも非常にわかりやすくて、ツンドクとはこれから読む本っていう、これもさっきと一緒なんですけど、読まないツンドクはないということで、基本的に読もうとしている本は全部読む本らしいですね。
家に来て、例えば書評とか書いてくださいとか適当に買った本で家に来たけど、そのまま家のどこの本棚にも行かずにそのまま古本屋に行く本もあるみたいですね。
それはだから読まない本なんですけど、読むと決めて家にある本は全部読むことになっていて、その中で読んでない本がツンドクと呼ばれると。
ほうほうほうほう。
書評館の角田さんは、これも全く同じで、読む前提だけど時間がなかったりタイミングが合わなかったりして、その少しの間まだ置いてある本っていうのがツンドクの定義。
山本さんはゲームクリエイターと言っていいか、どう語りかわからないですけど、山本さんは、むしろ定義はないんですけど、ツンドクが増えても気にしないし、
つまらなくてどうするという。本をどんどん積んでいくことをむしろ目的として買っておられると。
これは後々増えるんですけど、そもそも本を買って置いておく、並べていくことに意義があるというような考え方をされて、これは後半でもうちょっと深掘りするんですけども。
その他いろいろあるんですが、基本的に読者側の方がツンドクと呼んでるものは、先ほど言ったように辞書とかそういう買っても読むための本について言うんじゃなくて、
読もうと思っている本がまだ読めていないという状況がオーソドックスにツンドクと呼ばれていると。
ツンドクの最大公約数的な定義。
特にその実践的な観点から、実証的というよりは実際に本を買っている人にそのツンドク感というのを確かめて共通項を見つけてみると、大体そういうものが出てくると。
で、ツンドクこそが完全な読書術であるは、多分本編でどこか紹介した回があってますね。
その冒頭では、ツンドクは買ったのに読めていない本という定義がまず簡単に触れられてまして、ツンドクを2種類に定義してたんですね、その本では。
覚えてます?
ツンドクの定義、ビオトープを作るっていう言葉は覚えてるんだけど。
それが2つ目の定義ですね。
で、すごく雑に言うと、受動的なツンドクと能動的なツンドクっていう風に分け張ったんですね、著者の中田さんは。
ほうほうほう、忘れてたな。
受動的なツンドクっていうのは、現代の情報社会によって本だけに限らず様々なメディア情報が僕たちの元に流れ込んでくると。
で、あれも見たい、これも見たいっていう気持ち、欲望が喚起される。
でも現実はそれに実行がいつまで経っても追いつかない。
その差のことを1つ目のツンドクの定義。
で、僕が定義し直す、それは受動的なツンドク。
で、そのツンドクはあんまり良くないよとネガティブに言われてるんですけど、著者はそこにポジティブな、能動的なツンドクっていうものを定義したっていうこの2つがあるんですけど。
だからツンドクこそが完全な読書図であるは、基本的に前者の意味を踏まえながらも、前者っていうか先ほど言った実践的なやってる人のツンドクの定義を踏まえながらももう1個新しい意味を作り出してるっていう関係がまずあるっていうことを一応ここで確認しておきます。
そもそもなぜツンドクが生まれるのかということなんですけども、これも先ほど確認しましたが、基本的に読むスピードよりも買う本の量が増えたらツンドクが生まれると。
おー、実に学問的な、数学的な。
はい。僕はツンドク不凍式と勝手に呼びましたけど。
あー、定理とか考慮とか作りやすいですね。
逆に言うと、そのツンドク不凍式がなぜ生まれてしまうのか。
つまり、読むスピードに合わせて買う本の量を調節したらこの不凍式はイコールか不凍式が逆向くわけですけど、でも現実的にやっぱりそうはならないんですね。
で、これもツンドクの本のあちこちに出てくるはずなんですけど、ある時から加速度的に読みたい本が増えていく現象があるみたいですね。
学生の頃とかはまだそうじゃないんですけど、ある程度本を読み続ける期間が増えてくると。
例えばある小説で小説を書く作家を知ると、その作家の他の作品が知りたくなると。
あるいはその作家と似ている別の作家が知りたくなる。あるいはその作家と同じジャンルの本が知りたくなるということで、小説だけでも結構な広がりがありますが。
一旦その例えば人文的な本を読むと、これまたこう再現がないというか。
例えば誰でもいいんですけど、ハイデガーを読もうってなった時に、じゃあハイデガー以前の哲学者を無視できるかというとむしろ全く逆で。
その後ろを読まないとわからない。サイエンス系の本でも何かあるテーマ、音でも控えてもいいですけど、
それについて知るとそこと関連している何かの分野が必ず出てくる。結局それについても、
分野の名前とかキーワードは知ることはできるけど、その中身がわからないのでそれについて知りたくなる。だから最初
ある本、一冊の本から伸びている濃度の数は少ないんですけど、数が読んだ本、数が増えていくうちにその濃度が
比、投票数的あるいは乗算的にグワッと増えてきて、結局読みたい本と読める本の差が広がる。
もう一個は僕らが単純に大人になるということなんですね。大学生の頃までは読書に従前の時間を使えたけど、大人になって
他にすることが増えてくると当然本を読む時間は減る。 金はあるけど時間はなくなるっていうのになってくる。
そうすると当然、積読が増える。
イーマヒロアキさん。実証を編集しているイーマヒロアキさんに言わせると、積読しているっていうのは毎日ご飯を食べていますくらい自然なことだと。
積読しているのは毎日ご飯を食べていますくらい自然なことだと。
ある人が読書的人生を送っていったら必然的に積読っていうのが生まれるもんだと。
だからもう毎日ご飯を食べていることに罪悪感を感じないであれば積読になっている本があることも別にごく自然なこと。
というか、よほど限定されたジャンルの本しか読まないという人以外であれば別に積読になるのは自然なことで別に
人文的な思想の転換をしなくてもそれは普通にあってもいいよなと思えるし、この本を全体的に読むと全然自分の積読なんて弱っちいなというふうに感じる話が1個ありまして。
僕、引っ越したって言ったじゃないですか。本だけで延べ、段ボールを25から30箱に運んだんですよね。延べですけど。でもそれも相当な労働やったわけですよ。
まあ30ですからね、段ボール箱。1部屋はいかんけど積み上げても畳1畳では少なくても足りないですよね。
でもね、柴崎さんという方が同時期に引っ越してて、本だけで200箱段ボールがあった。普通の荷物は70個だったんですよ。
その他全ての人生の生活における必要なものは70だった。
で、本だけで200箱あったということで。段ボール30でヒーヒー言うてるなんていうのは本当に大したことはないなと。
全体的に普通に、つまりこういう物書きとかに特化して資料を集めているような生活をしていない人がこの本を読んだら、自分の積読なんていうのは本当に些細な問題なんだよっていうことを感じる本です。
もうそれだけで結構価値がある本だと思います。
救われる感じなんですか?感覚としては。
救われるし、やっぱり後半に行くに下がってもっと積もうと。
積みたくなるんだ。
積読を解消するというよりも積読に積極的な意味付けを見出したくなるような本というところで。
積読が好ましい状態なのか好ましくないかっていうのは目的によると。
その人がつまり本を買うとか読むことを通して何をしたいと欲しているのかということなんですけども。
基本的にここで語られているのは積読ということなんで、全部紙の本ですね。伝書籍ではないと。
5名ぐらいかな。だいたい似たようなことをおっしゃられてるんですね。
で、本がそこの目の前にない、つまり目の入るとこにないと、その本の存在を忘れるという話がたびたび出てくるんですね。
いろんな人が話を、手を変えて。
割と真理な感じはする。
例えば背拍子に書かれた情報がわからないと、持っていてもその本を持っていることがもうわからなくなってしまうとか。
僕はやってるんですけど、三段ボックスとかで本を詰めると前後2列にスペースがあるんですね。奥行きが結構あるんで。
でもね、それをすると結局後ろの本は目に入らないわけです。その後ろの本の背拍子は目に入らないわけですね。
それを絶対しないっていう方もいらっしゃいます。
なぜしないかというと、やっぱり背拍子が見えなくなると、その本の存在がわからなくなるから。
なんならそれはあれですよね。その人にとっては持っている意味がなくなってしまうってことですよね。
ってしまう。だからそう。
じゃあ、つまり本をただ所有するという、つまり自分の造書リストにその名前が入っていることが本を買うことではなくて、
本棚にその本があって背拍子が目に入るということが、実はその本を買うことの意義の一つであるというふうに、おそらくは言えるんですね。そういう人たちにとっては。
うんうんうん。
で、その究極が山本さんですね。
うん。
山本さん曰く、本は1年間に2000冊から2500冊ほど買っていると。
おお、すごいな。1日10ではないけどか。
で、一応僕、山本さんのブルースカイフォローしてるんですけど、毎日のように本を買った写真が載せられていて、1日10冊とか20冊の木があるわけですね、当然のように。
で、年間2500冊。2500冊だから僕の全造書に近いぐらいの数を1年間に買っておられて、でも通読しているのはそのうち2割ほど。
2割でも相当多いですけど。
2割通読はスルーやん。
うん。
え、4,500、1日1より多いか。
うん。で、でも残りも全く読まないわけじゃなくて、ざっと目を通して内容をつかむと。
だから例えば目次だけ読むとか、はじめだけ読むとか、そういうことして、おおむねどんな本が書いているのかはわかっているけど、通読したとは言えない状態。
だから、1年間買っている本の8割は、いわゆる積読状態。
うん。
でも、それでいいと。で、本というのは知識のインデックスみたいなものだと山本さんはおっしゃられるんですね。
で、必要になったら読めばいいと。まあ当たり前なんですけど、必要になったら読めばいいなんですけども、必要になる、あの本が必要だと思えるたびには、あの本が脳内にないとなれないですね。あの本の情報が。
うん。
で、例えば例で言うと、例で挙げられているのは本棚にフランスの翻訳の本が並んでいると。
で、それはだから通読したから、表紙とか見たら、背拍子を見たら、その本が翻訳について書かれた本ということはわかると。
で、自分がその本棚を見るたびにその本がそこにあるということを覚えると。
そうしたときに、あるとき何かでふっと文章を書くときとか、別の本を読んだときに、あ、翻訳の本を読もうかなって、読む必要があるなって感じたら、あそこに並んでいる本やと思い出すことができる。
これがだから脳にインデックス、本のインデックスを作ったということですね。
で、そのインデックスを作るためには、本棚という場所に配置されていて、背拍子が目に入るようになっていて、
自分がその本棚の前を通るたびに目に入るようにしなければならないということを含めて本棚に本が並んでいる状況があるということを考えておられると。
で、そこまで考えてなかったなというのがちょっと僕が思っているところなんですけど、
でも実際そのコーナーって確かにあって、今日この話しようかなと思って、
あ、そういえばつんどこの本を読み返さなあかんなと思って、長田さん、つんどこの本を本棚から持ってきたんですけど、
この本が必要だなと思った瞬間に、この本の近くに並んでいる本も一緒に思い出したんですよね。
物理的に近くに並んでいる本。
そうそう。並べた本というべきなんですけど、僕がそこのコーナーは、読書に関する自分的な本を並べとこうと思って、いくつかチョイスを置いたんですね。
栄光の本とか、長田さんのもう一個の本とか、いくつかの本が並んでいて、
僕がこの本を思い出した時に、まるでリンクを開いたかのように、関連するあの辺の本があるなって思い出せたんですよね。
で、このコーナーって、普通に生きていく上ではあんまり必要ないかもしれませんけど、
ある種の知的活動をする上では、おそらく大変役に立つというか、ないと困るというような雰囲気も得て、
だから、今まで僕結構そんなに深く考えずに本棚を使ってたんですけど、本書を読んで、つんどくすることの意義を再確認した上で、
じゃあ、その知のインデックス、あるいは自分の知の編集の一つの媒体として本棚を捉えられるんじゃないかなということを、
この山田さんの項目を読んで、結構考えた次第なのです。
例えば、本を意識的に定期的に並べ替えるというのは、プラスの作用があるみたいな感じなんですかね、それで言うと。
おそらく意識的に操作するということに意義があって、毎回並べ替えてもいいですけど、とりあえず梅澤が情報カードを送るというような言い方をしてましたけども、
それに近いことを本という素材を使って行うという。だからリアルの本がそこに並んでいることが重要で、山田さんはさすがに増収が多かった1万冊ぐらいを一回デジタル化したけども、
さっき言った本棚が目に入ること、本の背拍子が日常生活の中で目に入ることがなくなってしまったと。
当然デジタル端末を開けて、アプリとかを起動したらあるけど、つまり意識的にしたら目に入るけども、意識的にしない限りは目に入らない。
でも、部屋とか生活拠点の中にある本棚は日常生活の意識しないタイミングでそこが目に入ってくる。
でも違うか、スキャンしたらばらけてるから。
まあ、ばらけてるものが置いてある場所かもしれないけど、でもジャンルの可能性もある。
まあ、とりあえずファイル名にいろいろな情報を入れることで、検索で見つけやすいようにするというのが法則が一つ。
で、辞書を作られてるんで、辞書を作るときって、その言葉の用例というのが必要で、
そこで特定の書籍から文を引いてくるんですけど、それを自分が持っている本全体から串刺し検索ができるから便利という。
で、ここのね、2つが非常に山本さんの本棚の使い方と、このイーマーさんの電子ファイルの使い方が非常に対照的、つまり全く逆のことをされてるわけですけど、
それは結局、本の情報をどう使うかが、レイヤーが違うからなんですよね。
で、辞書を作るときに必要なのは文のレベルなんですよね。
だから文が見つかればいい。
で、逆に山本さんがやろうとしてるのは、ここの文の話じゃないんですね。
ある本が何を言っているかなんて。
で、ある本が何を言っているのかっていうのは基本的に別の本との関係性が絶対にあるわけなんですよね。
で、本について論じるっていうのは、本本について、だから、
ブックについて論じるっていうのは、ブックスについて論じるっていうこととほとんど等しいんですよ。
だから本について何かを語ろうと思ったら、単独で何かを言うってことはほとんど無意味で、
ある群、マップみたいなものについて、少なくとも背景を知っておかなければならない。
だからそういうレイヤーで本を利用しようと思ったら、
まさに山本さんのような本棚を使った地のマップっていう表現かな、が必要で、
文レベルでの解析が必要だったら、むしろある文が見つかればそれでいいっていう電子化の作業でいい。
だから、本を読むとか本を利用するとか本を知的に生かすっていう大雑把な言い方でも、
これぐらい実践の実装が違うっていうのが非常に面白くて、
で、ちょっと心脱なこと言いますけど、いわゆるナレッジマネジメントの方法論があまりにも単一なのはどうなのかなとちょっと思うんですけど、
本をどう使うか電子化をどう扱うかもやっぱりその人が地の作業をどうしているのかのレイヤーに合わせて変わっていくものだなっていうのは、
この2人の対比を見込んでかなり強く思ったとこですね。
あの1個思うのが、そこに至るためには本をわからないなりに整理するしかないっていうのがあって、
別にナレッジマネジメントの人、擁護も批判もしないんですけど、やっぱりまだそこに至れていない人たちなのではないかなっていう。
つまりトレーニングでいうと、また負荷の低いところで練習している。
トレーニングの段階で使うの段階ではない。
そういう提供者も実践者もそれを分かって手当て貼るんやったら僕は全然何も思わないですけど。
それはおっしゃる通りだと思います。
それが最終形だ、ソリューションだという理解だと、やっぱりその人なりの知的生産の形っていうのが生まれてこないんじゃないかなっていう危惧みたいなのがちょっと、
やっぱりこういう実際にやっている人を見ると余計に強く感じますね。
うん。まあそうだな、自分なりの試行錯誤がなくなってしまったら多分ほぼ意味はなくて、
言われたものを言われたままに集めていたらそれは知的な何かではないんですよね。
そうですね。山本さんは地のインデックスを作るというようなことをおっしゃられてるんですけど、地のインデックスがどこに作られてるかってことなんですね。
本棚に作られてるわけじゃないんですね。本棚は表現されてるだけなんですね、基本的に。
その地のインデックスは山本さんの頭の中にあるはずなんですよ。
頭の中にあるから思い出せるんですね。思い出せるから文章に役立てられると。
だからナレッジマネジメントの文脈でいうと、ファーストブレインの中にあるんですね、基本的に。
で、セカンドブレインはあくまでそれの表現手段でしかないという割り切り。
ここを、この地のインデックスを作るっていう時にどこに作るのか。
で、自分の頭の中に作るとしたら、それを自分が表現したものを自分が見返して、
より強く覚えるっていう循環構造において本棚っていうのは記憶の役に立つという話が生きてくるんですね。
だから本棚は本を収納する場所であり、僕の言い方したら自分のノートでもあるわけですね、そこは。
っていう感覚で本を編集するっていう使い方は、僕は非常にやってみたいなと。
で、これ全然答えはないんですけど、読んでて思ったのは、仮にこれ似たようなコンセプト、地のインデックス作りを
自分の脳内と相互作用させるような地のインデックスを仮にデジタルでやろうと思ったら、どんな形が適切だろうかというのが一つ問題提起というか。
答えじゃなくて、この本を読みながら自分なりに考えた問題ですけど。
だから、もちろん紙の本で本棚でやるのは結構ですけど、まあそれ難しい場合もあるじゃないですか。
あの、ほとんどの人は山本さんみたいに、さっきね、ざっと計算したんですけど、2000冊買うとね、あの年間300万予算がいるんですよね。
それはほとんどの人にとって現実的ではないので。
そうですね。まあその山本さんが向けてる知的分野の興味が、本には学術史って言われてましたけど、要するに学問に関するほとんど広くあらゆることをフォローしようとしてあるんで、
この冊数になるわけですが。まあでも例えば、現代音楽史とかに限定しても結構な数。
まあ変わんないんじゃないのかな、むしろ。
まあとりあえず、本を仮に買えたとしても、置くのが難しいんですよね。
そう、なので、毎年1000万円くらいを本のために使えるつもりじゃないと、現実的には難しい。
そういう本をリアルで配置してっていうのは難しいというときに、たとえその功能が半分とかになったとしても、デジタルでできることがあったらおそらく嬉しいだろうなというのはちょっと思ったんですよ。
で、現状の電子書籍販売ストア、KindleとかBookWalkerとかAppleのBooksとかは、結局本は買えるけど、このリアルの本棚のような本の編集というのはかなり難しいんですよね。
うん、並ばないですね。全く並ばないですね。
コレクションとかできますけど、結局それは相当の範囲を変えているだけの話で、一応BookWalkerも自分の本棚みたいなのが作れるんですが、あれ多分順番が相当だったような気がするんで。
本棚が作れない、仮に作れたとしても、そのアプリを立ち上げない限りは目に入らないわけで、これはリアルの本棚に比べるとかなり力が弱いと。
一方で、例えば僕らが言っているナレッジウォーカー、ナレッジ系のモロモロ、知的生産の技術でやっているようなことで、デジタルノートを使って読書ノートを取ろうみたいな話をしているわけですけど、
それは一応、毎日使うツールの前提なわけじゃないですか。特にデイリーノート方式の人は。そうすると、毎日目に入る環境に本に関するノートが並んでいるというところまで行けそうな感じがしますよね。
あとはこれをどう配置するかなんですよ。ここが問題で、例えばObsidianでDataViewを使えばソートはできますよね、読書ノートの。でも配置ができないじゃないですか、あれは。
並べるっていう。だからここを、例えばそのObsidian Canvasとかで、買った本をちゃんとそのマップに置いていく、一個一個みたいなことをしたら、多少近いこと、完全に同じじゃないしろ、何か自分にとっての地のマップ作りの役に立つ表現がそこでできるんじゃないかな。
だからやっぱり電子書籍をそこで読んでるだけじゃなくて、自分で操作できるデジタルノートにその情報を一回引き込む必要はあるだろうなというのはちょっと本田との対比で考えましたね。
これ、それね、答えではないんですけど、思っているところで、自然に、ちょっと自然にできている、違う、可能性があるのではないかっていうものの、やばいこれダメだ、許可が、Zoomを閉じないといけないので、ちょっとあれなんですが、グラフビューを使う。
で、ノート同士をリンクしておくと、例えば特定のフォルダに入っているノートだけ表示するとかできるんですよね。
めちゃくちゃ見やすいと言えるものではないけれども、デジタルならではの本棚みたいな並べ方は、グラフビューに近いものはあるのではないか。
グラフビューはあれ、動かせましたっけ、ノートを自分の指にまいりますか。
あのね、繋がりがあって、なんて表現をしたらいいんだろう。引っ張れるっていうのか。
あー、逆にあれ、固定場所にはならないんですよね。移動はできるけど。
そうです。だから、かなり概念は違う。
うん。やっぱり置くことが僕は必要じゃないかなと思うんで、配置することっていうことの意義。その関係性をリンクで繋ぐことはやっぱり、あの、価値があると思うんですよ、それは全然。
言ったら本棚のスペースにある本とある本を並べることに近いと思う。でも、ここに置くっていう人間が持っている空間的能力をより強く発揮させるには、
例えばマップとかに、自分でここに置くと。で、新しい本が入ってきたときに、その本との距離関係で別の本の置き方、場所を決めるっていうことをした方が、よりマップ力が上がる。
マップが鮮明になる、クリアになるみたいな印象がありますね。
たとえばキャンバスとか、その話しているトピックノートみたいなやつとかで、同じことではないけれども、似たようなことが不可能ではないんじゃないかなとは思いますね。
うん、思いますね。で、おそらくゴリラさんはトピックノートを作られてると思うんですけど、トピックノートって当たり前にトピックが並んでますよね、基本的には。
それはつまり、本の中に入っているより細かいサブジェクトが切り出されて、それが並んでるわけですけど、本のレベルで並べたりしてます?
えっとね、今のところあんまやったことないですね。そこに、自分の場合でいうと、そこにさほど魅力を感じない。
そうそうそう。今回の話を聞いていて思ったところで言うと、なんかね、自分が今やりたいことは、あの、勉強することなんだなっていうのをすごく思って。
知的云々ではなく、本に書いてあったことを自分なりにまとめて理解して整理できることが楽しい。
それも知的云々だと思いますが、言いたいことばかりです。
クリエイティブでは今のところないんですよね。
どっちかって言うと、インプット方向で研究発表みたいなことが主力にはなってないってことかな。
ああ、そういうイメージかな。結果的にそうなったなんですよ。さらに言うと自分の場合。
わからずに、やっぱそのPKMというものがかっこいいと思ってやってみて、今自分が面白いのは、やっぱその書いてあったことを理解して自分なりに整理していくこと。
だから、細かいレベルの方が興味があるっていうのかな。
っていうので、本の単位で何かまとめるっていうのは今のところやったことはないですね。
別にさっきも言ったように、その人のやりたい知的作業に含まれていないであれば別にそのレイヤーのことをする必要ないんですけど、
もしそういうことをやってみたいなということ、個々の本を踏まえて、一つ高い視点であの本とかこの本について言及しながら何か言うみたいなことをしたい場合は、
一回その本のレベルのマップ作りっていうのをやった方が良くて、しかもそれは多分リストに並べるだけじゃ足りなくて、空間に置いてみるってことをしてみた方がより思考が立ち上がりやすいんじゃないかなと。
その手の話がちょっとデジタルではあんまりされてこなかったんじゃないかなというのを、そのアナログの本棚を通してより強く考えた次第ですね。
まあやっぱね、直感度が足りないんですよね。どう頑張ってもデジタルの操作っていうのが紙を持ってくるみたいな、その身体性があまりに低いので。
だからあのビジョンプロとかそういう世界なのかもしれない。
デジタルの応用はそうとして、結局クラシタの本棚をどうするのかという、つんどくの本を大量読んでどうするのかというところなんですけど、やっぱりそのただ並べているだけでは面白くないというのはまずあるんですね。
本の並べ方って無限に考えられるわけなんですけど、僕が語ると100回でヒストリーの話、自分たちの読書歴の話をしたじゃないですか。
で、変な話、読書に歴史があったなってことを思い出したわけですけど。だから本棚でそれを表現したら面白いんではないかと。
時系列?読んだ順で並べて。
小学校とか中学校とか高校くらいまでに興味があったジャンルの本をまず並べ。
小学校関連だな。
で、次に20代くらいに興味があった本のジャンルを並べっていうふうにして、自分のジャンルの推移を本棚の意向で表現するみたいな。
はいはい。例えばそのミケネコホームズを今でも読んでいたら、今読んでも小学校のところに入っていく。
そうそうそう、そういうこと。かつてそれが一番好きだった頃。
始まりがどこだったか。
コミットしてた。逆に言うと今はそこまでコミットしてないってものが、これの本棚にはあるわけですけど。
でも確かにコミットしてた時間、自分っていうのがいて、そこを集めてたっていうものを、だから関心ごとの推移を本棚の並べによって表していく。
逆に言うと一番こっち側は今の一番興味が高いものが並んでいる。
つまり買ったばかりの本とか読み返そうと思っている本が一番こっち側にホットに並んでいるっていうふうに並べると、
ある程度奥に行くほど静的ですけど、こっちに行くほど動的な感じの本棚になるんじゃないかなっていうマルチプルな感じを読みながら実際に並べながら感じてたところですね。
結構自分の中で新しい本棚作りがそれでできるんじゃないかなと。
そしてそれはやっぱ紙でやりたいですよね。それはデジタルでやっててもやっぱり満足感がないもんな。うまく言えないんだけど。
ないなー。代わりに一冊一冊を写真で撮って、例えば写真アプリとかで並べたとしても多分…
なんかね、イラン疲れ方をする感じがするんだよね。
本棚で本を動かすと多少肉体労働ではありますけど、あの辺にある本をこっちに移動させてきて、こっちの本を向こうに移動させてくるっていう非常に単純な肉体労働をする喜びみたいなのが結構ありますし、
今回一回全部出して戻したことをしたってやっぱり、ああこんな本持ってたなっていうのが出てきたんですけど、
これやっぱりさっき僕が言ったように本棚は前後列で並べてるんで、後ろの本がほぼ僕のインデックスから消えてたんですよね。
それってやっぱ空間だけを占有していて一番もったいないってことですもんね。
そうやな。だから今本棚のスペースがかなり余裕があるから、その三段ボックスももう前の列しか置かない。後ろ空白のままにしているような置き方をしてますね。
これはもうこの本を読んで結構強く意識したことです。だから逆でも、自分の知能インデックスにいらんと思った本は後ろに並べて、
で、時間が経ったら処分するみたいな、そういうサイクルを考えてもいいのかなというところですね。
うーん。今のところラシュタさんは上限みたいなのを設ける気は全然ない。
そうやな。また本が増えたら本棚を増やしたいとは思ってるけど、でも、
今40半分ぐらいで、そこまでメモが衰えてきたら本も読めなくなるわけで、体力が衰えてきたら本も読めなくなるわけで、
必然的に買う本は減っていくだろうし、最近、さっき言ったように、これは人文的な読書に関して論じた本のコーナーとかいろいろいくつかコーナー作ってるんですよ。
行動経済化関係のコーナーとか作ってるようにしたらね、本屋に行ったときに、この本どのコーナーに並ぶか、自分の本棚のどのコーナーに並ぶかなって考えるようになったんですよ。
おー。
今まで面白そうかどうかだけで買う話したのを、自分の図書館にふさわしい本かみたいなことをちょっと考えるようになって、
それでちょっと買う頻度が落ちるんですよね。
あ、下がるんだ。
下がる下がる。
これは置き場所がねえなってなるのか。
そうそうそうそう。
わざわざこのために一つのコーナーを作るほどでも、今自分の関心は高まってないなみたいな感じになって、
逆に自分の関心に敏感になって本を買うようになってるんで、もちろんこれからもどんどんフォームは増えていくでしょうけども、
むしろもう少し緩やかになる気が今のとこはしてますね、印象として。
で、例えば単純に100まで生きると仮定して収まりきるんじゃないかという目星がついた?
まあまあ収まりきったらいいなという感じ。
でももう本当にだから、思いでもなくて地のインデックスから消えて、つまり取り出すまで忘れてた本は多分処分しても一緒って多分言えると思うんで。
つまりコンマ理由で言うと、もう時見えてないわけですね、その本には。
だからそこはもう処分してもいいかなと。
もっと前より、前はもう絶対捨ててなるものかで生きてましたけど、今はもうちょっと自分のコミットメントの強さとか、
かつてあった思い出とかと比べた時にその本があまりに魅力がない場合は、別に処分してもいいかなという感じにはなりましたね。
まあ年に1回ぐらいはやってみてもいいかもですよね、そういう処分するならすると決めるターン。
だから今まで絶対処分するものかっていう貧乏人根性でいたために、本を処分するために本棚をチェックするということがなく、
結局地の停留みたいな、滞留か、え、違う、地の停滞みたいなことが起こってて、やっぱり本棚を循環させることで自分の地のインデックスをさらに動かして、
より動かしていくみたいなことをしていった方がいいし、そういうことするためには本棚にある程度スペース、バージンがないと移動させにくいんで、
急遽に詰めてると本当に動かす気にならないので。だからある程度広い本棚でちょっと余裕を持って隙間を作りつつ、本棚を自分の関心ごとで配置していく。
あるいは自分の歴史に合わせて置いていくみたいなことをしていくっていう。だからもう置き場所というよりは表現メディアとして、
自分のノートとノートの一部として考えていけるようになってきたかなという感じ。結構大きな変化ですね、個人的には。
それはほぼその本からの影響?
だからね、本棚の運用に思想があるんだなっていうことを初めてわかった。
まあね、本棚って確かにあんま語られないとも言えるのか、そういう言い方で言うと。
本すごい持ってますよって話は聞くけど、どう考えてその本棚と付き合っているのかっていうような、運用レベルの思想ってあんまり語られなくて。
やっぱり背拍子が見えないと本が存在しなくなると等しいですよって話は言われたら当たり前かもしれないですけど、
でも本を2列に置いてた僕にとってはその当たり前はなかったに等しい当たり前だったんで。
だから再確認して、その上でやっぱり、じゃあこういういろんな人がいろんな本棚の使い方をしていると。
じゃああなたはどうしますかっていう問いが自分自身に返ってくる。そういう感じの本ですね。
自分の本棚論をどうしていくのか。
そうそう、いっていくかなっていうことを考えざるを得ない。
なんせ本棚の使い方、本棚みんなバラバラなんで、これが答えだっていうのはないですけど、自分の感性に近いなっていうのは多分見つかると思うんで。
そこはヒントになるんじゃないかなと。
そういうのはあるかもですね。
やっぱりこういう知的なノウハウは、いろんな人が並んでいるのを見るのが一番面白いと思う。
それはね、自分がインターネット霊命期の頃にすげえ思い出して、みんながどういうソフトウェアを使っているのかシューみたいなやつ。
ああいうのもクッソ面白かったし、それはまだブログの頃はよく見ていた。
そうだよね。
が、なくなってしまって、思ったら自分でやれってことなので、やるのが一番いいと思うんですけど。
そうだよね。ここで話されている話はつんどくなんで、インテリの自慢ではないわけですね。
インテリの自慢は全部読んだわけですけど、それは本当のインテリじゃないとしても。
結構コッパ恥ずかしい話がいっぱい出てくるんですよ。
コッパ恥ずかしい話ってライフハックと同じ精神性なんですけど、そこにやっぱりリアルがあるという感じがするので、
かっこいい本棚を作りたかったけども、本が多すぎて諦めて適当に突っ込んでるみたいな話もあって、それは勇気がもらえる話だと思いますよ。
そこは時代とかが変わってきたとかもあるかもですよね。そういう嘘のヒーローとは違う。
等身大の存在と意見が一番参考になって、憧れベースのものとは違うみたいな。
特に小説家の岡本さんって本を書くときに当然大量の資料を参考にして本を書かれるわけですけど、
それは執筆期間ある場所に集まってたらよくて、仕事が終わったらそれはいらんわけですし、
仕事に使わない本が雑に並んでても仕事には支障がないわけですよね。
これも知能仕方によって、仕事の仕方によって本棚が適当でもいいっていうことはあり得るわけですから、全然。
書くときの探す資料がどの程度快適に見つけられるか、それを維持管理する手間と考えたら、そこで苦労してもいいと言えるのか。
内緒は持ってても本屋に行ってそれが必要だと思ったら買うとかでも別にいいわけじゃないですか。
あと全部処分してしまえばいい。
仕事用に本屋に行って、歴史的に必要だったら歴史書のところに行って、ガーッて買って、仕事を使って終わったらどうか適当に書くとかっていうことも、
一つの知能運用として、だから知能インデックスを作ることが答えじゃなくて、
俺がやりたかったのは知能インデックス作りみたいなもんだなっていうのをちょっと感じたっていうことだけ。
何をやりたかったかか。
ということがある比較対象で、これは近いな、これは遠いなっていうのを距離感を測りながら読めたんで、
こういう様々な人が本棚について語っている本が、そういう意味で自分のポジションを比較によって見定めるという意味では非常に効果的な感じでしたね。
良いですね。
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