面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず最初にいただいた感想、コメント等々を紹介したいと思います。
はい、よろしくお願いします。 前回、芥川賞の話をしたら、
何年ぶりなんでしたっけ? 20何年ぶりって書いてあったかな?
我々の生涯で2回目ってことかな。 芥川賞、直木賞、共に該当策なしっていう。
芥川賞は、ぽちぽち抜けてるの知ってたんですけど、両方ないって珍しいですよね。
直木賞は見たら、選びがたいから選べなかったみたいに言っているのを見たような気もするんだけど。
ああ、だからどれもが良くてみたいな感じ? うーん、まあ良く言えばそうだろうし、悪く言えばやっぱりその抜けたものがなかったなんだろうし。
まあ結果的に話題になったみたいだっていうのは面白かったですね。 そうですね。
はい、というので、なんかやはり文芸というのは意外と皆さん反応しやすいというか、
いろいろみんな言いたいことがあるみたいで。 ジンさんが、自分も大学生の頃に芥川賞を読むことにハマった時期があったことを思い出しました。
っていう話だとか。 カオさん、今あえて芥川賞を読むを聞きました。
ゴリゴさんの紹介された作品がどれも面白そうで読んでみたくなりました。 芥川賞は1作品が短く、
作品数も半期に1、2つ以上は増えないので、コンプリートが強い人にもお勧めという指摘に納得しました。
今回増えていませんからね、本で。 うん、そうですね。増えてない。
苦労の技師、しんさん、2人の文学に対する、文学小説に対する認識が比較されて話されるのとても面白い。
たかぴさん、私はSNSでの読書会で3年前から芥川賞を読んでますが、あの凶暴たちに立ち向かう武器を少し分けてもらった気がする。
おいしいご飯がにしろデートピアにしろみんなで文句を言ってるのが楽しかった。あれこれ言えるくらいに尖っているのが。
っていう感じで。 読んでいる人もいるし、読んでいない人もいるし、いろいろなんだなっていう感じなのかな。
そうですね。でも小説を読んでいる人は、チェックはされていることが多いのかなというところと、
たかぴさんのご意見の、やっぱりちょっと尖ってて何か言えるぐらいの作品の方が面白いというか、読書会で扱う価値があるという話は、僕は非常に面白いなと思いますね。
そうですね。おいしいご飯もデートピアも尖っていましたね。一番尖ってたぐらいの2つかな、最近読んだ中では。
それが文学の文学たるゆえで、尖っていると拒絶反応も当然生まれるわけですけど、そういうのを内容にやんわりと書いてしまうと、誰にとっても無難な作品ということになってしまうんで、
この辺の文学は尖っていることをちょっと期待しますね。
その観点でいうと、芥川賞の方がやっぱり尖りますよね。
多分そうでしょうね。
当たり前っちゃ当たり前なのか。
だからやっぱり論評とかしやすいのは、読書会とかで取り上げて面白いのは芥川賞じゃないかなとは思います。
そうですね。直木賞は感想会になってしまうみたいな、そういうのはあるかもしれないですね。
あそこ面白かったねー、で盛り上がるタイプの読書家やったらそれはそれでいいと思うんですけどね、もちろん。
まあね、ぽい感じの、知的な感じのお話をするんだったら芥川賞の方が向いているという感じか。
確かに。
ということで、今回第119回、ゼロからの読書教室から考える本の読み方。
今回は倉下のターンということで、本の紹介を半分ぐらいしつつ、すごい基本的な読書とは何かみたいなところを改めて確認していけたら面白いんじゃないかなと思います。
トリガーとなる本が、苦手な読書が好きになるゼロからの読書教室という本で、結構新しめの本でして、
2025年の5月からNHK出版がある程度出る本で、著者がドッグショザルさんということで、本も紹介したことあるんですけれども、
読学大全がおそらく一番ヒットした本で、それ以外にもアイディア大全とか問題解決大全とか大全もの、いわゆるドンキ本と呼ばれている、
人を殴れるような分厚さの本という意味でのドンキ本という本を書かれておられるのですが、その読書ザルさんの今までの著作に比べるとだいぶ薄い。
だいぶ薄いって言って普通の本ですよね。
200ページぐらいの本でして、字の組み方も字のサイズも大きいし、一応お客中に大きいスペースを取っているので、
文字数で言うと相当少ないと思います。
本の内容なんですけど、基礎英語レベル1というNHKの本ですね。
すごい薄いブックレットみたいな、中学生向けの基本英語を教えるブックレットの中で、読書ザルさんが連載を毎週毎回書かれていて、
その連載を一冊にまとめたのがこの本ということですね。
まず、突っ込みどころというか意外と面白いのが、英語のテキストの中にあるコラムをまとめたもの。
はい。だからちょっと縁があったんでしょうけども、国語のテキストとか多分ないかな。僕見たことないですけど。
NHKに国語はないね、確かに。
ない気がするけど、言葉に関わる学習ということもありますし、基礎英語レベル1というものが本なわけですから、本を読んで学ぶという意味では一応カテゴリーかなと思うんですけども。
ポイントは中学生向けのテキストなので、当然その連載も中学生向けに書かれているので、非常に読みやすい、わかりやすい形で書かれていますし、形式としては鳥、フクロウかな。
フクロウと女の子の2人が会話しながら進んでいくタイプの本でして、独学大全の章ごとの扉に2人の会話が挿入されていた。あれが全面に展開されている本です。
ああいうフォーマットがあの方は好きなのかな。やっぱり一番言いやすいのかな。
書きやすいところもあるでしょうし、この方式は例えばプラトンの対話編みたいな感じで、古来から受け継がれてきた方式であり、ある種の特徴を持っていて、特に中学生が読む本としてあんまり読書とは何かというのを議論論説していくよりは会話形式でほうが読みやすいというところもあると思います。
なので中学生向けではありますが、別に高校生でも大学生でも僕たち大人でも広く読める本ですし、読みやすい本だと思います。
読みやすいことがおそらく一番の目的ではある本ですね。タイプでいうと。
なんせ読書が苦手な人に向けの読書の本なので、それが読みにくかったら話になるわけですから、その辺いろんな工夫があると思うんですけども。
大きく2部立てになってまして、第1部が本と仲良くなるためにしなくてもいいこと、してもいいことというところと、第2部が出会いたい本に出会うためにしてみるといいことと知っておくといいことという2つの構成になってまして、
第1部が読書について本を読むとはどういうことかみたいな話で、第2部が本を探し方という話で、今回取り上げたいのはその一部の方ですね。本を読むとはどういうことかっていうところを中心に紹介していきたいと思います。
第2部は実際に本を探す、図書館とかよく使われる方で単にそこにある本を借りて読むんじゃなくて、こういう本を、テーマの本を探したいなというときに非常に便利な内容になっております。
興味があったらその両方読んでいただくとして、今回考えたいのはその第1部で展開されている本を読むとはどういうことかとか、本の読み方ってどんな考え方があるのかなっていうことをちょっと通して考えたいと思うんですけど、
内容的には僕の前回かな、読書効果の科学という本を紹介した回があったと思いますけど、合わせて読まれると良いと思います。
こっちは入門しやすいやつで、読書効果はもうちょっと専門的。
学術的な感じで、合わせて読むと効能が高いかなと思います。
一番最初に自分語りをさせていただくと、僕にとっての読書というのを改めて振り返って考えてみたときに、
梅沢法式と勝手に名付けてますが、知的生産の技術という本の中で、梅沢太郎さんは本に関わる述語を2種類用意されていると。
1つが読んだという言い方、もう1つが見たという言い方。
あの本は読んだという言い方もするし、あの本は見たという言い方もする。2つを区別している。
どう違うかというと、少なくとも読んだと言えるためには、冒頭の1ページから最後の1ページまでひとまず通して読む。
そのような営みをしたものは、その本は読んだと自分に言うことを許す。
それが達成されていないものは、基本的に見たとしか言わない。
もし何かある本について言及しよう、論評しようと言うのであれば、少なくとも読んだと言える本だけにすると心がけると梅沢さんはおっしゃっていた。
基本的に僕はそれをインストールしているので、僕は基本的に本を読むというのは、最初の1ページから始まり、最後の1ページまで読み進めていく。
順々に読み進めていくというのが僕の中でもイコール読書みたいな定義として、青年時代を送ってきたわけですが。
ちなみに、いくつぐらいの時ですか?その経験は。
梅沢の本を読んだのは20代半ばぐらいかな。
何かきっかけとか、出会ったタイミングとか。
梅沢のその本を読んだのは、これ因縁がありまして、僕のノウハウ本の興味は野口幸男さんから始まっているのですが。
超整理法とかですかね。
野口さんがカード法なんて馬鹿げてるみたいなことをおっしゃるんですね。
本の中でね、喧嘩を振っている。
例えば知的生産の技術とかで紹介されているカードを作るなんていうのは、頭が悪いやつがやることだみたいなことを言われていて、僕の中でそれがインプリントされていたんですよね。
一回批判されているのを読んだろうという気持ちで読み始めたんですよ。知的生産の技術を。
つまり僕の中では、現代のノウハウ家がすでに超越してしまった過去の思想を読むぐらいのつもりで読んだら、全然現役に通じる思想をやったということで。
ギャップでより強く自分の中で啓蒙されたということがあって、僕の中で梅澤の位置づけが普通に読んだ時よりはちょっと高かったというのはありますね。
最初は疑って読み始めたってことなんですよね。
古い人の考えが書いてあるんだろうみたいなことがあったら、むしろ全然現代的だろうということで、リスペクトの気持ちが普通より高まって、その本に触れた。
だから20代半ばで読んだんで、10代の序盤に読んだほど深くないように思いますけど、その印象のギャップによって結構僕の中では強い印象を覚えた感じがありますね。
それによって野口さんのカード法をバカにするなんてけしからんみたいに思ったりはしたんですか?
そこが面白いところで、野口さんの言いたいこともわかるとは思ったんですよ。
多分そこには埋められてない議論の前提とかギャップっていうのがあるんだろうなと思って、それ以降ずっとカードについて考え続けてますね、結局。
あー、結局そのギャップをずっと考えている20年の中。
そうそうそうそう。結局カードってなんやろうということをずっと考え続けている半世紀を送ってきた感じはしますが、そういう前の自分の前ストーリーだったんですけど、
とりあえず僕の中で本を読むというのは基本的に僕の中で、僕の定義、クラシタドットドメインの中の定義では本を読むっていうのは頭から最後まで通して読むことっていうことは持ってたんですけど、
でもいろんな知的精査の技術の本を漁っていくうちにその読書感というのがちょっと広がってきた歴史がありまして、一番よく言われているのが読んでいない本について堂々と語る本という本がありまして、
これは本は別に読まなくても語れるよということを、つまり本を読むってみんな言ってるけどそれどういうことなのと、読んだって言えるのかっていうことを哲学的に挑発的に知っている本なんですけど、
この本でも僕の読書感は結構変わりましたし、もっとポップな感じで言うと松岡誠吾さんの多読術という本がありまして、
本の読み方っていろいろあるよなということを言っている本なんですけど、冒頭の方で松岡さんは読書っていうのは例えばファッションのように考えたらいいんではないかと。
服を着るって言ってもシチュエーションで違うじゃないですか。お出かけする用の服を着ることもあれば部屋着もあるしパジャマもあるし。
同じ服を着るって言ってもいろいろそのケースバイケースで引き出しがあると。だから本を読むっていうのもそんな風にもっと軽やかにケースバイケースで読むの読み方って変えていけばいいんじゃないかなっていうことを述べている本。
さらに寸読こそは完全な読書術ってある。これは結構近年の本ですけど、これも別に本をタイトルだけ本棚に飾ってタイトルだけ見ているような寸読の状態でもそれはもう広い意味で言えば本を読んでいると言えるという話で、
これはもう梅沢の定義で言うと、見るよりももっと手前のところすらも読むとか読んだっていう風に言うということで、結構僕の中で思想的にいろいろ書き回されてきた人生だったんですけど、
この読書者さんの本もどっちかというとその広い方。最初から最後まで読むだけを読書と言うんじゃなくて、もっとその読書の観点は広く捉えられるし、広く捉えた方が自由なんじゃないかということを言っている本です。
今見ると梅沢さんの考え方は割とマッチョな言い方なのかもしれないなっていう感じがしますね。
昔のインテリっぽい、教養人っぽい感じの読書の定義だね。僕は、例えば梅沢さんは、自分がある本について論評しようというときに、少なくとも通読は最低限しといた方がいいよねということなんですね。
だから、そういう本の読み方をしていない奴はくだらないとかいうことではなく、自分の知的誠実さを維持するためのプリンシパルみたいなものですね。
だから別に見た本もいっぱいあると思うんですよ、梅沢さんは。それも別に読書の内やけど、そういう本について論評、自分が読んだから論評するっていうのは、いましめようという心構えだったんで。
僕が多分狭く受け取りすぎてただけで、梅沢さんはもうちょっと広い気持ちでこれは言ってたと思いますが、僕は少なくともそのときに、僕の読書感が最初から最後まで読むのとして固まったというところはありました。
そうか、その辺は難しいところですね。やっぱりそうやって言ってしまうと、そう受け取ってしまう人がいる。
っていうのは避けがたいと思うんですけど、いろいろな複数の本を読んでいるうちに、ちょっと柔らかくなってきて、今につながっているというところですね。
今回のこの回も、これを聞いている方に、最初から最後まで読むという形の読書だけが読書じゃないということを共感してもらえたらいいなと思って進めるんですけど。
基本的に回で分かれてまして、第1回から第12回までが第1部なんですけど、話しながら区切りは途切れていくんで、全部つながっているものとして話を進めますが、
まずはじめのあたりに第1回で非常に重要なことがあって、福郎さんですね。福郎さんがどっちかというとメンター側ですね。女の子が教えをこう側で、福郎がメンター側なんですけど。
福郎さんがセリフとして、本の読み方などというものは何のために読むかで変わるとおっしゃっていると。
本の読み方というのは世界にたった一つしかないという観点ではなくて、むしろいろんな方法があるというのがまず提示されると。
さっきから僕がずっと言っていた最初から最後まで読むのが通読という一つの読書の形である。
女の子がなぜ福郎と出会ったかというと、読書感想文を書かなければならないと。でも締め切りがすごい近いと。
でもこの一冊の書説を読み終えて書く時間はないと困ったというところに福郎の助けが来るんですけど。
この面白いのは通読、最初から最後まで読むのは読書感想文のために向いた読み方とは言えないということが書かれています。
人によってはかなりガツンとやられる発言じゃないかなと思うんですけど。
少なくとも僕の中で読書感想文というのは最初から最後まで読んで、その本について書くもんやとずっとこの本を読むまで思ってたんで。
それはあまり向いた読み方ではないということが規定になっては異界、時効の話に繋がっていくんですけども。
通読以外にどんな本の読み方があるのかっていくつか列挙されまして。これは読学大全でも本の読み方として列挙されている方法で。
まず予読と読む。あらかじめ読むと。これは点検読書ということですね。
例えば目次を見たりして、この本がどういう内容が書かれているのか、どんな向けレベルの本なのかということを確認して、これ自分が読むに値するかどうかチェックするというのが予読。
点読、転がる読書っていうのは、最初から最後までパラパラめくっていくってやつですね。
パラパラめくるだけでも分かることってあるんですね、本体。
例えば紙面のデザインだとか、文字の大きさだとか、さっきの中が客中でついているのかとか、最後にまとまっているのかっていうこともパラパラと見るだけでも分かることがある。
次にすくうという字で聞く読と読むらしいですが、すくう読書とは自分が必要だと感じている部分だけをすくい上げて読むという読み方で、実用性がよくあると思うんですよね。
JavaScriptで関数の書き方だけを知りたかったら、目次から関数のところを見て、そこだけ読んで、はい終わりっていうような読み方。
これ通読の反対側に位置する部分的に読むというやつ。
時を刻むっていう字の刻と読み合わせた刻読、これは要するに自分が気になった箇所を印していく読み方、マーキングしていく読み方。
人によっては付箋ですし、人によってはペンを引く、みたいな感じで印をつけながら読んでいく読み方。
これ当然、収録と併用できる技だし、引く読とも併用できる、全部と併用できる技ってことですかね。
これはできるし、でも併用、予読と添読では難しいかもしれませんが、読む時にそうやって刻んでいって後で処理するというような読み方ですね。
この刻読の場合は、ハイライトをつける勉強法は意味がないという言説があるじゃないですか。
線を引いておくだけでは何も覚えられないってやつ。
実際その通りなんですけど、これは線を引いて後から処理するためのマーキングなので、
ハイライトして終わりじゃなくて、もちろんハイライトから始まる読書と認識しておくと取り違いがないかなと思います。
いろんな読み方のパターン、通読以外にもこんな読み方があるよということが紹介されて、
先ほどのセリフに出てきた、何のために読むかで変わる。
これね、僕はちょっと面白いなと思ったんですけど、何を読むかではないんですね。
何のために読むかで変わるという話なんですね。
読書感想文のために読むのと楽しみに読むのは違う。
違うし、もっと言うと、例えば辞書あるじゃないですか。
辞書をね、あれ最初から最後まで読む人がいるんですよ。
たまにいるみたいですね。そういうすごい人。サーまで行ったとかですよね。
辞書は基本的にスクで読む。聞く読で読むものだと思うんですが、通読することもできる。
だから媒体、書かれている内容が決定的というよりも、書かれたものを僕たち読む方が、
どんなふうに、どんな目的で読むかによって適切な読み方が変わってくるという話ですね。
だから、つまりビジネス書はこう読むっていう。
その媒体があって読み方を決めるんじゃなくて、僕がその本をどう読むか。
だからビジネス書を実用書的に読むこともできれば、語学書的に読むこともできるしっていうふうに主体はこっちなんですね。
こっちが100%とは言いませんが、本だけで決まるものではない。
むしろ比重で言うと、自分がどう読むかの方で読み方っていうのは変えられるし、変えた方がいいというところが、
冒頭の方で1回と2回で提示されるんですけど。
この感覚は僕はこの本を読むまで持ってなくて、ずっと媒体が決めると思ったんですよね。
小説は小説の読み方があるし、実用書は実用書の読み方があるとずっと思ったんですよ。
媒体が決まれば読み方が決まると思ったんですよね。
でもよくよく考えたら自分はそんなことはしてないんですよ。
あれですね。思い込みなんですね。やっぱりそこは。
思い込みやったっていうこともここで、この本で読書初心者向けに非常に丁寧に解像度を上げてくれてるおかげで、
僕自身が読書に対して思い込んでた本の読み方ってこういうもんだろうというのの解像度が上がるところがありまして、
その意味でも、日常的に読書をしている人もこの本を読むと新しい知識が得られるというよりも、
自分が何をしているのかの解像度が上がるという意味で、実は結構優樹功じゃないかなと読みながら思ってました。
そうね。言われて、確かにそうだと思うけど意識をあまり明確にしていなかったわ。
同じく言われるとそんな感じがする。
だからね、これ結構無意識でやってることなんですけど、特に小説が多いかな。
小説を読み始めて15ページ、20ページぐらいまでって結構モタモタするんですよ。
僕本読むの早い方ですけど、その辺まではちょっと時間がかかるんですね。
ある時からギュンって読む速度が上がるんですよ。
これ何だろうなと思ってたら、チューニングを合わせてるんですね。
例えばある本を読んでて、これは前衛的な実験小説だなって分かった瞬間から読みやすくなるんですよ。
それは僕がその本をどう読むかのチャンネルが変わるからなんですね。本自体は何も変わってない。
僕自身がこの前衛小説を読むっていう読み方のモードに入ったら読めるんですよ。
それが合わない。この本ってどう読んだらいいのかが分からんままやとやっぱり読みづらいんですね。
だから本の内容によって僕は読み進めながらどう読むかのノズルを合わせてて、ピチッとはまったら読み進められるってことを無意識のレベルでやってたんですけど、
結局このどう読むかで変わるっていう話を説明されると非常に納得できている。
ミステリー小説として読むとかエンタメとして読むっていう風に無意識に決めてそれに沿って読んでたんですね。読んでたことに気がついた。
だからこれ言われるまで分からなかったから、僕の中で全部本を読むという熟語で統一されてたことが実はもっと繊細なチャンネル合わせで行われてたんだなってことが分かった。
これだけでもちょっと大きい発見でしたね。
チャンネルを合わせる。なので例えばラスターさんの場合村上春樹であれば最初から早く読める。
だいたいの場合は。
彼が今までの意図と違う小説を書いたらまたそのチャンネル合わせ時間が変わりますけど、
だからなじみの作家が読みやすいのは初めからチャンネルが合ってるからでしょうねきっと。
違う分野だといわゆるテンプレとかフォーマットももちろん分からないので、
どう読んでいく。スキーマが働かない的な方向でもあるのかな。
読み方っていうのがスキーマと言い換えたら、コンテンツと自分が持っているスキーマが合致したらサッと読めますし、
なるほどね。読書感想文も同じで、書きましょうって言われても書けないし、結局そのあらすじプラス面白かったですみたいなテンプレになってしまうと。
仮にその本を読んで、自分が面白かったという感想を確かに抱いたとしても、さっきのようなあらすじプラス面白かったですという感想文を提出して、それを先生が読んだとしても、自分がその読んだ面白さはまあ伝わらないよねと。
少なくとも説得力はないだろうと。そんなあらすじプラス面白かったですで締めくくられているような感想文は基本的な説得力はないと。
で、もし自分がその場にいて、例えば僕とゴルゴさんのこんな感じで、あの本面白かったんですって言ったときに、ゴルゴさんがどこが面白かったんですって突っ込んでくれたら、もうちょっと話が進みますよね。
一歩まず深くなる。
でも読書感想文は書いた人がそこにいい品という体で書かれるわけですね。先生が読書感想文を読むときはその読んだ子どもがそこにいない、学生がいないと。
だから面白かったですって書かれたときにどう面白かったんですって突っ込めないと。だから逆に言うと、そう突っ込まれたときに答えの内容を文章に書いていけばいいと。
良い文章というものは読み手が感じる疑問にちゃんと答えてくれるという話がありまして、読書教室半分本の読み方の話ですけど、もうすでに本の書き方の話になってますよね。
自分が文章、良い文章を書こうとしたときには読み手が感じる疑問に答えていこうとすると良い文章になると。なぜこれ話が書くことにはみ出ていくかっていうと、女の子が読書感想文の話をしてるからなんですね。
多分わざとだと思いますこれ。本の読み方だけの話じゃなくて、読み方と書き方を接合するために読書感想文って非常に良い題材なんですよ。
読んだ人は何かを書かなければならないから。読み手が良いと感じる文章には必ずその疑問に答えてくれる。だから文章の背後には問答がありと。
そこから問いながら読むっていう読書法に進んでいくんですけど、そもそもこの文章の背後に問答ありということ自体が、実はこれ本書で体現されてまして。
というのも、女の子が疑問を持つ、袋がそれに答える、女の子が疑問に持つ、袋がそれに答えるって形で話が進んでいくんですよね。
この女の子が疑問に持つのはおそらくこの学生ぐらいが読書がめっちゃ得意とは思ってない子供が抱きそうなことを口にするわけですよね。それを袋が答えていくと。だから語られていることがちゃんと内容にも反映されている。
それがしかも読書感想文という媒体を使って書くことと読むことをつなげているという意味で、一見簡単そうに書いてますけど、これ実は高度な構造を持っているというふうに僕は読みました。
多重複雑細記的な構造がある。
だから読んでても2段階でふーんと納得するような、本の内容レベルと本の構造レベルで2段階で納得するような感じ。そこまで深く読めとは考えてませんけど、そういうふうに読むこともできる本ですね。
そういうふうに読めとは基本的には考えてないと思う。
次に問いを持ちながら読むということで、問読というものかな。問うと読むという漢字の組み合わせで問読という方法が書かれてまして、これが特に読書感想文について、読書感想文を書くときに役立つ読み方として紹介されますが、
これは基本的にありとあらゆる表現活動、論評活動、別に読書感想文じゃなくて何かについて語ろうと思うときにこの読み方は普通に使えると思うんですけど、
一番わかりやすいとして辞書を引くときはこの言葉の意味って何だろうという問いを持ちながら引くわけですね。明確に問いがあると。
じゃあその明確な問いがない小説はどうなんだろうと女の子は疑問に思うわけですが、ここで例としてわかりやすいのがミステリーだと。
ミステリーは基本的に謎を解くために読むと。まず冒頭あたりで謎っぽいのが提示されて、それがどういうふうに解決されるんだろうというクエッショントリガーの力で読者をドライブさせていくという問いの力で読ませるタイプの小説だという話。
それはミステリーだからでしょうと。そうじゃない小説はどうかというと少なくとも探偵が出てきて謎を解くようなわかりやすい謎解きの構造はないけども、でもやっぱりその謎と呼べるものはあり、しかもそれをどこをフォーカスするのかを読者自身が選ぶことができると。
ミステリーは基本的に一つの問いしかないけども、それ以外の小説は基本的に読者が選べるから自由があるから難しいんだけど、でもだからこそいろんな読み方ができるという説明をされてまして、ここで思い出すのがミステリーと読書メモの話ですね。
僕が語りするある回で読書メモを取るのにミステリーがいいんじゃないかという話が話題が出まして、これはまさにだから問いが一つやからなんですよね。要するに。読むべき問いが明確やから共通の土台で話ができる。これは僕はミステリーだけに通用する一つのフレームだと思ってましたけど、例えば小説を読むときに何か共通の謎を設定すれば似たようなことができるだろうなと思ったんですね。
じゃあ謎を作ってそのことについて語りましょうと。
似たような読書メモを取ってきて持ち寄るっていうのであれば同じフレームがまず使えるでしょうし、そうやって練習を積んだ後にそれぞれの人が自分の謎を持って読みましょうというようにステップを踏んでいけますよね。
一段階ステップが緩くなるというか間に入ってくれる。
これは結構重要なことじゃないかなと思うんですけど、例えばこの本の中に出てくると夏目漱石の心という小説。先生からの手紙が送られてくるような話。
ここの教科書には大体載ってるんで知ってると思うんですけど、私と先生とKっていう人がいて、そこでややこしい考えながらざっとした説明を。
Kに悪いことをしましたとか言って死ぬ音するっていう。
例えば先生が自主を選んだらなぜだろうという問いを持ったとしますよね。たてだとします。
それを中心にその本を読んでいく。その際にはいきなりその問いに答えるのは難しいのでミステリーと同じように複数の異なる小さい問いに分割してそれに答えていこうとする。
ミステリーでも犯人は誰かっていきなり読むの無理じゃないですか。なのであの時間にあの部屋に入れたのは誰かみたいなそういう感じで問いを分割して。
どういう風に部屋をロックできたのかとか。
細かい問いを複数集めてから大きな問いに取り掛かるんですけど。
この小説を読むときでもそんな風に自分が持った先生の自身の謎について細かい問いを考えてそれについてそれを意識して本を読んでいくと。
そうするとそれ以外の部分はさっと読みますよね基本的に。
その真に関わりなさそうな先生の例えば感情に関わりなさそうなところはさっと読みますしそうじゃないところは深く読むことになるんで。
問いを持つことによって初めて緩急がつけられるようになると。
例えばブックカタリストをやっている時でもじゃないな。
やっている僕らは本を読むときにブックカタリストでこれをどう紹介するかを意識しながら読んでいる気がするんですけど。
大抵の本はそうなりました。
もちろん全ての本がそうなるわけじゃないですけどこれ紹介できるかなというのを思いながら読んで紹介できたらなと思ったらこれをどう説明するかっていうのを考えながら読むと思うんですけど。
これは問いのバリエーションが増えることで本の読み方の角度がつくというか何か読み方に変化が起きていると思うんですけど。
これもだから問いを持ちながら読むの一つのバリエーションだなということで。
やっぱりその読書感想文だけじゃなくてそれに対して語るときに問いを持ちながら読むっていうことと、
あとその問いの立て方がわからないとか捉え方がわからないときの一つのアプローチとして、
自分でもそれはないという仮の答えを作って自分でそれに反論してみるという有益なアプローチが紹介されているんですけど。
例えば先生が辞書したのは貧困のせいだってまず言うわけですよね自分で。
そうするといやいやそれはないだろうって自分で突っ込むわけですよ。
で、いやいやそれはないだろうってなったときになぜならばが続くわけですね。
ここを埋められた問いに答えになるんですよ。
だから問いを立てるって結構難しいんですけど、明らかにない答えを提出すると人間の心ってついそれに反論したくなるんですね。
そうすると理論、言われの流れみたいなものがそこからトリガーして生まれてくるっていうのがあって、
この自分でもないという仮の答えを分かっててあえて作るっていうのは問いの進め方として非常に有益だと思います。
これだけで1年分ぐらいの修行の価値があるというか、1年ぐらい修行が必要そうな難しい内容ですね。
そうですね。だから普通にパッと頭から読んで終わりじゃなくて、こういうことを意識しながら読むと、
確かに読書感想はテンプレみたいなのとは違うものが書けるようになるかなと。
さっきのネタ何でもいいですけど、その小説に対して問いを持って、その必要な部分だけ取り込んで感想を書くっていうのは、
現代で言うとコスパがいいやり方だったら思うんですよ。
そうなのかな。若者想像目線なんですけど。
それって読書感想文を出せばいいという目的に対して過剰な手間がかかっていませんかっていう。
だから一番コスパがいいのはGPTにまとめてもらうことですけども、
さすがにそういうことはしたくないと思ってて、
でもかつ読書感想文に身構えて、ちゃんと書かなければってなって、
1回通読しても書けないからって言って3回通読してっていうことに比べれば、
よりエフォートに努力を使えてるかな、エフォータブルに努力を使えてるかなっていう気がしますけど。
あれかな、一番誠実に向き合う時に最も早い時間でできる方法のような気がする。
一番誠実に向き合うのは書けるまで何回も読み返すことだと思うんですけど、時間の制約がどうしてもあるんで。
成果に対して誠実にっていうのかな。
世界を見る解像度が上がるみたいな感じですよね、イメージとして。
仮にそうやとしても、描写があるだけではダメで、読み手がなんとかそれをイメージしようとすることが必要なんですね。
特に自分が知らないこと、例えばファンタジーとかを読むと、わからないわけじゃないですか、異世界の感じは。
最近のファンタジーは中世ヨーロッパ風が多いんですけど、
例えば生まれて初めてユービア物語を読んだとしたら、そこの世界は全然イメージできないわけですけど、
イメージできないなりにその描写の助けを借りて、頭の中でこういうものかなって想像する努力があって、初めてその世界から描写することができる。
ここも本の読み方じゃなくて書き方の話なんですけど、文章っていうのは書き手が思った通りに書くだけでは基本的に伝わらない。
要するに着者が書いた言葉と読み手がそれを理解するために自分の持ち出す知識とかイメージが相同に指して生成されるイメージが、
その2つが協力して初めてその本を読むという行為が成り立つのだと。
だから読み手としてはできるだけ書かれている内容に近づく必要があるし、書き手としては読み手が近づけるように文章を書く必要があるということで、
ここで読むと書くが合一になるわけですけど、そもそも本を読むっていう行為は読むだけでは成立しないですね。
というか誰かが書いたから読めるんですよね。
そういう意味のね。
誰かが書いたから読める。だから書くがないと読むは成立しない。
書くのも人なわけですよ。
言ったら認知的に有限な短期記憶もそう強くない人間が不完全、情報を伝える上で不完全な文字というものを使って書いた。
それを読み手がまた不完全な文字というものを読解し、イマジネーションを立ち上げて読む。
この両方が歩み寄らない限り基本的に読むということは成立しないということは、読む上でも書く上でも知っておいた方がいいことで、
書き手が完全である読み手はそれをただハーって受け取るというものではないし、
それはだから読み手の方から近づく必要があるということと書き手も甘んじてはいけないわけですね。
書き手である、世界の作り手である自分の造形の塔に籠っていてはいけなくて、
いかにイメージしてもらいやすいようにするかっていう、イメージできないことをイメージできるようにする。
知ってることを再確認するんじゃなくて、分かるのが難しいことを何とか理解してもらおうとするっていうことを文章を使ってするっていう、
その両方があって成立するっていうことは読む時でも書く時でも意識した方がいいし、
これは変なこと言うと、文章を読んでて分からない時に自分の歩み寄りが足りない場合もあるし、書き手の歩み寄りが足りない場合もあるんですよね。
そのどっちもあるっていうことを踏まえておくと、読書が嫌いになったりとか、あるいは自分の読書能力の無さっていうのを別に詐欺する必要はない。
いろんなパターンがあるっていうことは、この2つのイメージの重なりっていうのを持っておくといいんじゃないかなという感じですね。
みんながこういう風に読むようになったら、Amazonのクソレビューはもうちょっと減りそうですね。
そうですね。これもやっぱり教えてもらわない。
から書いてしまうんだね。
だから読書についてのイメージがやっぱりちょっとまだ解像度が低いのが現代。
また、市民が目読で本を読むっていう文化がまだそんなに長いわけではないですから、それ仕方がないんですけど。
書の歴史に対して市民が目読をする歴史が圧倒的に短いですもんね。
だから当然こういうのもまだそこまで文化レベルで浸透してないと思うんで、今後の展開を期待したいわけですけど。
この後半あたりに結局その良い本とか正しい本みたいな言い方がインテリ界ではあるわけですけど、
良い本だとかこんなものは読書とは呼べないみたいなそんなことは気にせずに、好きな時に好きなものを好きなように読むっていうのが今一番だよと書かれているわけですが、
これがその冒頭に挙げた読書効果の科学と通じる話で、
いろんな形でいろんなタイプの文字に触れるから僕たちは語彙とか言葉を学習して習得していくわけで、
PTA的に正しい小説みたいなものを厳選してそれ以外を読ませないっていう。
PTA期厳選した本がその人、学生が読んで面白いと思えるんであればもちろんいいんですけど、
でも例えば現実的に親の本棚からこっそり何やろう、
ダザイオ様は禁止されると思うけど、ダザイオ様を読んでた中学生が面白いと思って読んでたらそれでいいじゃないかっていう捉え方をしないと、
その人親から見てこれは良くないとかっていう観点で文字と接触する機会を減らすとやっぱり総合的に語彙の学習とか概念の学習が減ってしまうんで、
この本全般に言えることですけど、もっと読書の形は自由なんだと、ある種の規範性にとらわれる必要はないと。
ある目的において、例えば読書感想を書かなければならないということをクリアするときに、
ある限定的な方法を使って読むのは別によろしいと。でもそれだけが読書ではないと。
好きな自分の趣味を何の技法も気にせずに読むこともできるし、実用された別の読み方もできるでしょうけども、
そんなふうにいろんなパターンでいろんなふうに読んでいけばいいんじゃないかなというところで、
この第一部のタイトルなんですけど、本と仲良くとあるためにしなくてもいいこととしてもいいことっていうタイトルなんですね。
これ面白いなと思うのが、しなければならないことが含まれてないんですよね。
基本的にノウハウって、こうしなさい、すべきじゃないですか。
でもね、これはまずしなくてもいい、してもいい。つまり、ゆるい、広い。
マグチが広い、土俵が大きいんですね。
別に、まあ、してもいいし、しなくてもいい。
全部読んでもいいし、読まなくてもいいし。
そう、なくてもいいっていう、こうすべきというところから開放された上で、
自分の目的を見据えて、じゃあこの読み方をしましょうっていうふうに読み方を選べるようになること。
これは僕は自分の概念でいうと、方法的価値観とか方法観っていうんで、
方法っていうのがあるっていう、方法っていうのが選べるっていう考え方を示す、僕の中の定義なんですけど。
で、やっぱ独書ザルさんの本って、アイディア大全から独学大全までに通じることなんですけど、
やっぱり方法を選べるようになることを目指してると思うんですよ。
地の巨人が教えるたった一つの本の読み方とかではないわけですよね、基本的には。
それは結局、ある固定的な方法が規範性を呼び、その規範性が知的行為をする人を不自由に教え込めてしまうということをやっぱり避けようとされている。
で、社会のノウハウ書の流れとしては、正しい方法を教えてくださいっていうニーズみたいなのが多分あるとは思うんですけど、
本書ではそういうニーズよりもより広いところにおいて、もちろんその方法もあるけどねという感じで、
間口を開いてくれているというところで、少なくともこのノウハウに対するスタンスは僕とかなり近いというか、
僕が目指している方法でもあるかなと、全体を通して読みながら思っていたというところですね。
で、一番最後おまけの話なんですけど、小説を読む効能というところがありまして、小説というジャンルについてなんですけど、
これは読んでて確かにそうだなと思ったところでした。
型がないか、そうだな。
こう書いたら小説ですと言える型はないですよね。
小説の書き方はたくさんそういうものはある気はするけど、
そういうことか。ノベルの訳語でしかないから余計日本語だとわからんのかな。
だから明日突然僕たちがこれまで思ってもいなかったような小説が出てきても、それはやっぱり小説なんですね。
この言葉自体が訂正可能性に開かれているという言い方もできるでしょうけども。
初めから回路が開かれた言葉なんだなというのはちょっと面白かったですね。
だからある意味誰でも小説を書けるわけですね。
なんせ定義がないから。
咳をしても一人は死なのか、あれはダメなのか。
だからある一つね、今まで誰も読んだことのないものを書いたときに、これは小説ですって開き直って言えるわけですね。
それが小説というものの懐の広さなんだなと思って改めて漢字入りました。
辞書的な定義を見て色々書かれてはいるけど、
3文体ぐらいかな、一応どの辞書にも共通して書かれているのは。
でも3文体じゃない、例えば論文の風に書かれた小説も小説として言えるわけですね、結局。
そういうもんだって言えるわけですよ。
ってなりそうですね。
あと小ネタだけど、
すごい辞書用がノベルにあてた訳語だって書いてありますね。
すごいよね、小さいはどうできたんだろうね。
この時代の人たちの英語の翻訳力はすごいですからね、社会とかもそうでしょ、確か。
どう捻ってもソーシャルから社会という漢字が二次で当てはめる発想が出てこないと思う。
日本語に対する解像度が我々とはやっぱり段違いに優れていたんだろうなっていう。
漢文とかやってるからね。
でもその教養はやっぱり違うんだろうなって。
全然違うでしょうね。
というところで、読書とは何かみたいな。
もちろん読書の方法、読書というのは本を読むという行為であり方法なわけですけど、
本書は特にある行を読まなければならないと思って、
読書っていうのは書くあるべきだっていう風に苦しんでる方ほど開かれるものがあるでしょうし、
若いうちからこういうふうに開かれた本の読み方に触れておくと、
押し付けられる規範性を跳ね返す筋力が身につくんじゃないかと思うんで、
読書家の方もそうでない方も一家に一冊置いておくと、
良いお守りになるんではないかなと思います。
あれですね、物理の本を置いておいてあげれば、子供が読む可能性がちょっと出てくる。
それは結構重要だ。まさに紙の本の功用だと思います。
電子ではなかなかそれは起こり得ないですからね。
その辺はやはり今の時代の紙のメリットの大きなところとしてアピールできるところですからね。
勝手に置いといたらいいとか、読んでる様を見せられるとか。
Kindleのライブラリーを親子で共有しててアカウントを引き継ぐとかってあるでしょうけども、
やっぱりちょっとニュアンスが変わってくるんでね。
紙の本、一冊も置きたくもないっていうミニマリストの方は別にして、
家に本棚がある方はこういう本は紙の本で持っておくと良いんじゃないかなと思います。