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ワーク・ライフ・ランこんにちは、株式会社 アクテナブルの宮崎晃です。
今年の正月休みですが、暦通りだと12月27日が仕事収めで、1月6日が仕事始めの方が多いのではないでしょうか。
いつもより少し長めの休みの中、皆さんはどのように過ごされますでしょうか。
地元に帰省したり、普段会えない親戚や友人と集まったり、温泉でくつろいだり、観光に出かけたり、
この時期が繁忙期でお仕事をされていたり、箱根駅伝を見て自分もランニングをしてみたり、いろいろな過ごし方があると思います。
普段は忙しくなかなか本を読む時間を作れない方もいると思いますが、正月休暇を読書の時間に当てるのも良いですよね。
そこで今回は私の人生に影響を与えた一冊をご紹介したいと思います。
私の人生に影響を与えている本はたくさんありますので、折りを見ていくつかご紹介できればと思っています。
さて、皆様にとって本を読む理由は何でしょうか。
知識の獲得、本の物語への没入、著者の経験の理事体験などいろいろあると思います。
私が本を読む理由ですが、本の中から自分の人生観を変えるような視差や新たな視点を受け取ったり、新たな行動へのきっかけを与えてくれることが今までにあったので、
そういった自分の人生に影響を与えてくれる経験や出会いが読書の醍醐味であり、それを楽しみに読んでいたりします。
ただ、そのような本に巡り会える機会は滅多にないので、巡り会えた時はすごく心が弾み、アドレナリンが出ます。
今日紹介するのは、不老体験・喜びの減少学です。
著者はミハイ・チクセントミハイという心理学者です。
チクセントミハイは1934年にハンガリー外交官を父としてイタリアで生まれ、1956年22歳でアメリカに渡り、その後はシカゴ大学やクレアモント大学で教鞭をとっていた心理学者です。
2021年に87歳で生涯を閉じます。
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不老という概念を提唱した人物で、不老について説明した本が不老体験・喜びの減少学です。
それで先に申し上げておきますと、この本はご紹介はするのですが、もしご興味を持っていただけたら、正確な内容については実際に読んでいただければと思います。
私がこの名著の全体像を正しくお伝えするのは難しすぎるのと、著者の解釈を曲げてしまうのは良くないので、今回はこの本に関心を持って読み進めた理由や、私の思考と行動の変化、特に心に残る一節などをお話したいと思います。
まず、なぜこの本を知ったのかですが、きっかけは超相対性理論というポッドキャスト番組を聞いていたときに、タクラムというデザインイノベーションファームの渡辺幸太郎さんが楽しむとは何かについての話をされているとき、不老状態という概念とこの本で書かれていることを引用されていました。
不老状態、不老体験って何だろうと思い、実際に本を読んでみました。
本を読む前は不老状態っていわゆるスポーツのゾーン状態なのかなと思っていたのですが、本に書かれていたのは、人が人生の中で経験するいくたの意識や感情についての研究結果と深い洞察でした。
そして、不老体験が人の喜びであるという説明です。
人の意識や感情は主観的なもので、生まれる意識や感情は、その人が生きている時代の社会システムや社会規範、ルール、価値観がベースになっています。
また欲求についても、自分が欲しているものが実は社会から規定されている価値観によって決まっていることもありますよね。
そのような時代時代の社会システムや社会規範とは関係なく、どの時代も人間関係や働くこと、労働、仕事には普遍の葛藤薬の楽しさがあり、人の楽しさや喜びについて語られているのだと、私はこの本を読んだ結果、そう受け取っています。
私はこの本を読んで、私自身が感じていた身体的な感覚と意識や感情が原稿化されていることに、簡単と大きな共感を覚えました。
そして、生きることとは何なのか、どのような目的や目標を持つことが人生の意味のあるものにできるのか、そのコンパスを与えてもらったような気がしました。
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少し大げさかもしれませんが、私はそう感じました。
ただ、本を読んでの感じ方や捉え方は人それぞれですので、これからの話は気軽に個人的見解として聞いていただければと思います。
まず不老状態とは何かですが、没入している状態という表現だとイメージしやすいでしょうか。
でもそれだとゾーンと同じなのかなと思いますよね。
なので違う表現をすると、意識が目的に対して集中して流れている状態です。
これは畜生と未配が調査面接をしてきた人たち、非調査者の人たちが、人生で最高の状態の時にどのように感じていたのかを説明する際に流れているような感じだった。
私は流れに運ばれたのですという表現をしていたためです。
ただ、これは人間の生理的欲求を満たしている状態や快楽とは異なります。
人間の生理的欲求を満たしている状態や快楽を受け取っている状態は、苦痛、恐れ、怒り、不安、嫉妬などから、自分の意識を秩序のある状態に戻す均衡回復、褒めをスタシス的な働きと説明しています。
そして、心理的エントロピーの反対の状態として不老状態を説明しています。
心理的エントロピーとは、現在の意図と葛藤しあう状態、または意図の遂行から我々を反らしてしまう状態であると書かれています。
つまり、苦痛、恐れ、怒り、不安、嫉妬などの感情により、心が無秩序になっているため、やるべきことに意識が集中できていない状態ということです。
この心理的エントロピーと反対にある不老状態は、意識が個人の目標達成のために投射されている状態です。
不老状態では、心理的なエネルギーは統制され、行うことや意識に秩序を与えている状態でもあります。
この不老に入っている状態が楽しさという感情でもあるわけです。
そうなのかなと思うかもしれません。
では、楽しさや楽しい状態とは何か。
この本では楽しさの構成要素が定義されているのですが、いくつか紹介すると、
自分のしていることに集中している。
意識から日々の気苦労や欲求不満が取り除かれ、不快系でも無理のない没入状態にある。
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自分の行為を統制している感覚。
時間経過の感覚が変わる、などがあり、どれか一つでも当てはまれば楽しい状態といえます。
スポーツ、芸術表現、読書、映像や音楽の鑑賞、ゲームを行っている時などで、
皆様が楽しいと感じている時、このような状態になっているのではないでしょうか。
ただ、過去に楽しいと感じた試みを改めて行っている時、毎回不労になれるわけではありません。
不労になるには条件があります。
畜生とミハイは不労状態をX軸とY軸を使って説明しています。
X軸が自分の能力、Y軸が挑戦の難易度。
そのバランスが釣り合っているXイコールYに近い状態が不労状態です。
今の能力ではあまりにも難易度が高い挑戦を行っている状態だと、不安の感情が高まりすぎて不労状態にはなれません。
逆に、今の能力で簡単に達成できる目標に取り込んでいる状態だと退屈になり、これも不労状態にはなりません。
そのため一生達成した目標を何回も達成しても毎回不労状態にはなれないのです。
ロールプレイングゲームで例えると、主人公のレベルが低すぎる状態でボスキャラのダンジョンに突入してもハラハラドキドキや不安が強くなりあまり面白くない。
ただ、レベルを上げすぎて簡単にクリアできる状態でダンジョンに突入してもハラハラドキドキがなく面白くない。
これはスポーツでも同様ですよね。
マラソンに例えて恐縮なのですが、サブ3.5でフルマラソンを完走したばかりの走力でサブ3に挑戦しても面白くないし、
サブ3のランナーがサブ3.5目標に走っても面白くないわけです。
プレイヤーの能力と技術で達成できる可能性のある状態で目標に向かって挑戦すると不労になれる可能性が高いです。
しかし一度不労状態に入ったとしても、残念ながら人は同じことを同じ水準で楽しむことはできないのです。
私で言えば2時間57分でフルマラソンを走れる安定感がある状態でサブ3を何回達成しても初めてサブ3を達成したときの達成感や楽しさは得られない。
何かの試験でも同じ試験に何回も合格しても最初に合格したときの達成感や楽しさは得られない。
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自分の能力が上がった後、不労になるためには自分の能力より高い目標ではあるが、努力や試行錯誤により達成する可能性を感じられることと、それに向けて努力する必要があります。
この努力するという行為自体が楽しさには必要不可欠なのです。
そして人の人生において大きな影響を占める働くこと。
ここで言う働くということは経済活動だけではなく、家事や育児、社会奉仕、コミュニティへの貢献、自然や環境の保護・保全など社会活動全般を含みますが、
その働くこと自体が不労状態になれることを人は望む生き物であり、そうならないことが人の苦悩や不満の種でもあると私は思っています。
人類は戦争や社会的な混乱を繰り返しながらも、過去と比べて物質的な豊かさやテクノロジーの発展により個人差や地域差があるにせよ、過処分時間が絶対値ではリニアに増しています。
それでも人々が苦悩したり不安や不満を抱えるのはなぜか。欲望や欲求のコントロールに苦労するのはなぜか。
金銭や名誉、権力を欲して格闘したり、安住やコンフォータブルゾーンに居続けることに執着して生きるが、それが叶ったとしても満たせない意識が生まれるのはなぜか。
これらに一つの示唆を与えてくれるのが、この不老体験・喜びの減少学という本だと私は思います。
この本では目標の設定についても書かれていて、多くの人の目標は生物学的な欲求や社会的な習慣によって形作られ、その起源は事故の外にあると言っています。
生物学的な欲求というのは、異色住の確保や安全や雇用の確保、他者からの愛情や友情、人間関係の構築などだと思います。
社会的習慣とは、自分のファミリーやコミュニティからの期待に応えること、社会のヒエアルキーでの地位や富や権力の獲得なのだと思います。
ただ、これらの目標を達成するためだけに努力しても不老体験に変えることは難しいです。
また、これらの目標を達成だけでは、結果として幸福にはなれないと思います。
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本の中では、夜と霧の著者であるビクトール・フランクルの言葉を引用していますので、ご紹介します。
成功を目指してはならない。成功とは、それを目指し、目標にすればするほど遠ざかる。
幸福と同じ成功は追求できるものではない。
それは、自分自身より重要な何者かへの個人の貢献の果てに生じた、予期しない副産物のように、結果として生じるものだからである。
祝禅と密拝は、自分の追求する目標は自分の内側から発生したもので、目標決定の主体者が自分自身であることが重要だと言っています。
自分の内側から起こる目標は、一貫しながらも柔軟性を持たせることができます。
自分が決めた目標なので、目標自体の修正も行えるのです。
そして一番重要なことなのですが、自分の目標や目的を見つけるだけでは不十分で、最後までやり通し、その挑戦に応じなければならない。
目的は動力に寄着せねばならず、意図は行為に転換されなければならないということです。
言い換えると、やり始めたことを実際に達成したかどうかはさして重要ではありません。
努力が分散されたり浪費されたりすることなく、目標を達成するために費やされたかがむしろ問題であるとこの本では書かれています。
ある重要な目標を強い意志を持って追求し、様々な活動のすべてが統一されたフロー活動に統合されたとき、意識に調和が生じます。
この状態にある人は、心理的なエネルギーが疑問・後悔・罪悪感・恐れによって浪費されることなく、常に有効に働いているのです。
そして、本の中で畜生富肺は障害学習についても触れており、障害学習への挑戦としてこのようなことを言っています。
開発的に動機づけられた学校教育は未だ不愉快な記憶の源になっているので、多くの人々は学校から離れると学習を投げ出してしまう。
彼らは卒業を自由の第一日と考えてきた。
しかし、抽象的能力の使用を諦めた人は決して真に自由とは言えない。
彼らは専門家の成すがままである。
理想的には、開発的に課せられる教育の割は、内発的に動機づけられる教育の出発点であるべきである。
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その時、学習の目的や、もはや求大する卒業証書を獲得する、良い職業を見つけることではなくなる。
それはむしろ、身の回りに生じることを理解すること、自分の経験するすべてについて個人的に意味のある感覚を発達させることである。
私はアクテナブルという会社の経営を始めて2期目の終わりに差し掛かっているのですが、
アクテナブルのフィロソフィー、大切にしている価値観として社会貢献と人間形成を挙げています。
アクテナブルにとっての社会貢献とは、今起きている社会の課題、これから起きるであろう社会の課題を解決するための活動を主体的に考え行うこと、
そして顧客や関わる人々の成功を支援し、その貢献により表出した価値や大化を社会に還元していくことです。
アクテナブルにとっての人間形成とは、事故を知るための努力を怠らず、
似たの精神を育むための努力を怠らず、事故の矛盾、他者の矛盾、万物は流転することを知覚し、事故の中に統合していくことです。
これらの価値観の形成にこの不老体験が多分に影響を与えていると改めて思いました。
皆様もこの正月休暇の期間中に、自分に影響を与えた本を読み直してみるのも良いのではないでしょうか。
またおすすめの本をご紹介できればと思います。
それでは良いお年をお迎えください。また来年お会いしましょう。