おしゃべりな理科。
おしゃべりな理科。
この番組は本来小学校理科の授業や教科書についておしゃべりしていくラジオなんですけれども、
今回は休み時間という箸休め的な回になります。
休み時間では理科や授業をちょっと離れて、学校生活や教員生活についてテーマを設定しておしゃべりしていきます。
今回はゲスト回になります。
ゲスト回。
今日は?
今日はですね。
ゲストは誰だ?
筑波大学附属小学校で国語を教えている弥延先生です。
どうも。こんにちは。よろしくお願いします。
弥延先生は東京書籍の国語の編集をお願いしております。
辻先生の同僚ですね。
今日も辻先生の教室からお届けしているんですけれども、
じゃあ簡単に自己紹介お願いしてもいいですか?
皆さんこんにちは。
筑波大学附属小学校で国語科を担当しています弥延浩史といいます。
担任は6年生のクラスを担任しているんですけれども、
専科として1年生と5年生の担当もしています。
最初は青森県で14年間学校の先生をやって、その後筑波の方に赴任しました。よろしくお願いします。
僕とも一緒に学年を6年組んだんですか?
1から6までだよ。
赴任して最初に隣のクラスでずっと6年間。
しかもそこから離れて、弥延学級の理科を私持ってます。
9年間。僕は学年一緒に組んだとクラス持ってるから、
全く弥延さんと触れてない年はない。
ずっと一緒って感じですね。
弥延先生の方が先に筑波?
うちんさんの方が先だったんだけど、
9年間ですね。
何年目だっけ?
今9年目。
ずっと一緒。
本当に本当に。
仲いいですね、お二人だからね。
隣のクラス。タイプがまた違うから面白い。
学年一緒だとやっぱり近くなりますよね。
そうですね。めちゃくちゃお世話になったしね。今もですけど。
ということで、今日はですね、弥延先生をお迎えして、国語について。
これをお聞きのリスナーの先生方も、
国語を教えてる先生っていうのはやっぱり結構多いんじゃないかなと思います。
担任持ってたらね、ほとんど持ってるかもしれない。
全く教えない先生ってたくさんはいないよね。
そうですよね。
週の持ち時数が多いから。
そうですね。
だからこれはゲスト回、休み時間を何回かで挟んでいくんですけれども、
前回の休み時間は横山先生で、今回は弥延先生と、筑附シリーズと一緒に。
よろしくお願いします。
なんと豪華なタイプですね。
なんと豪華なという感じですが、
じゃあ国語について話していきたいんですけれども、どうですか?木月先生。
私に聞く?
何でもいいですよ。何でも教えてください。
国語って何を教えたらいいんですか?って。
国語ってね、国って何?っていうのは、言葉化じゃないんだよ。
そうだよね。そんなこと考えたことなかったんだけど。
僕もあんま考えたことないけど。
国って何?って。日本国語。
そういうこと?
この国の言語ってことですよね。
そう、だからラングエッジだね。
ジャパニーズ?
英語と国語なんだけど。
そういう難しいことじゃない。
外国語じゃない。
木月先生苦手意識ありますか?
苦手です。一番苦手かも。国語社会すごい苦手です。
本読むのとか好きでした?
本読むのは昔は嫌いでした。
活字が読めない。
今は好きですか?
今はそう、だんだん。やっぱりそこそこ漫画とかが好きだったんですけど、
大人になって本もちょっと読めるようになりたいなっていうのもあって、
なんかもっと難しい。文学みたいなイメージだったんです、本って。
だけどそれこそなんかサスペンスみたいなのとか、これなら読める。
っていう感じで今は通勤で読める。
何読むんだっけ?今は。
東の敬語。
負けがちゃいましたけど、全然。
そう、なくなってしまったんですけど。
でもまあ、それもあってかやっぱり今すごくクローズアップされてるので、
いっぱい、まだこんなに読んでないシリーズがいっぱいあると思うから。
なんかそういうふうに、国語の世界を通して本と出会ったりとか、
言葉の響きとかね、こういうの好きだなとかに、
なんか子供たちが出会っていけたらいいなって思って自分はずっとやってるんですよね。
僕も子供の頃から漫画も好きだし、本も好きだし、
だけどなんかこう、教えるのと自分が好きなのってやっぱ違うじゃないですか。
その難しさって絶対あると思うんだけど、
でもやっぱ最終的には目の前の子供たちがその言葉を豊かに使いこなすとか、
その言葉をきっかけに何かいろいろ、それこそ人と関わるのもそうだし、
本と出会っていくのもそうだし、
なんか自分自身の人生を豊かにしていくその基礎みたいなものって絶対国語にあるんじゃないかなって思ってやってはいますよね。
そこにはどうやって気づかせたらいいのか。
どういうところが苦手なのか。
指導書とかまずいっぱい、それこそ物語でも説明文でも、
いっぱい書いてあるじゃないですか。
文章の横に。
理科も書いてありますよね。
これ全部教えるの?みたいな。
同じ悩みなんじゃない?理科で困ってる人と。
ここに気づかせるみたいな。
ここにはこういう気持ちが現れてるとか。
やることがたくさんあるって感じだね。
これは教えるべきものなのか、子供から気がつかせるものなのか。
でも気持ちだけじゃなくて、いろんな倒置法じゃないけど、教科書とかも書いてあったり。
技術的なことも。
これは何をどこまで教えたらいいのかなっていうのとか。
導入とかどうですか?
導入はいっぺんとですけど、読んで何感じたかとかどう思ったかってやりますよね。
国語の場合は授業ってまず読む?
まず読みますね。
僕の場合もまず読むんだけど、その最初の感想を僕は今一言で書くっていうのをやってるんですよ。
一言で書くんだけど、自分の気持ちを表した言葉にする。
例えば楽しいとか面白いとか。
でも例えばゴンギツネ、僕クラスでやったときに、
あれって最後ゴンが標準に撃たれちゃって死んじゃうじゃないですか。
だから悲しいとか寂しいとか切ないとか、四名詞だけどそういう言葉を言う子どもたちもいる中で、
例えば他にも美しいとか良かったっていう子もいるんですよ。
良かった。
なんで良かったかっていうと、最後標準がお前だったのかって言ってくれたところで、
自分の償い分かってもらえたから良かったって言ってるんですよ。
でも撃たれちゃったから、償い人に撃たれちゃったから悲しいって言ってる子もいるし、
美しいって言った子は償うゴンの心が美しいって言ったんですよ。
だから同じ感想でも一言にすると絶対にずれるから。
一言ってそんなに短い一言なんですね。
その一言、本当に一言。
なんかそれってちょっとパッと聞いた感じ単純化しすぎなんじゃないのとか、
もっと難しく考えなきゃいけないんじゃないかなとか。
一言っていうこと自体が?
うんと、そう。だけどすごい面白いですね。
そうするとほら、なかなか最初って読むのが難しいって子も、
なんとなくその一言って決められるじゃないですか。
しかも正解は不正解はないですよね。
ないから。だけどそれぞれがずれるから、
なんで君はそう思った?なんで俺はこう思ったけどあなたはなんでそう思ったの?
っていうところとかずれる部分が、
じゃあ本当に作品を焦点化して読んでいこうってところに持ってきやすいっていうのかな。
その中で注目はしたりはするんですか?
例えばクラスの中で償いにみんな目向けてるねとか、
標準の行動にここの言葉は目向けてるところだねとかっていう風に、
そこはこっちが見せて焦点化していくっていうのもあるけど、
子どもたちがそうやっていろいろ言った一言から授業が始まっていくみたいなことをやってる。
どうですか先生、それは発散しすぎてあれなんじゃないですか。
そうなんです。まさにそう。だから感想書くじゃない?いろいろ言うじゃない?
そうやって一言で書くとまた違うのかもしれないけど、
やっぱり書ける子はもうこれで授業やらなくてよくないっていうぐらい考えて書いてて、
だから僕一言いいなと思った。
で、これしか書けてなくてどうしようみたいなことになるんじゃない?
優劣になっちゃうじゃん。
正解不正解じゃないけど出来がいい悪いみたいな風になっちゃいますよね。
でも書きたくて書いちゃうんじゃん。
何を持ったかまず書いてご覧で言うと書ける子はバンバン書いてあって、
この子に授業する必要あるのかと思ったこともあるし、
でもまあそんなのは最初だからどっちでもいいやと思ってて、
でもいろいろ出てきました。で?
そっからね。
そっからどうする?
これはだから理科が苦手な先生は、
予想が出すぎちゃって困る的なね。
問題発見の時にいろいろやらせて、
発散しすぎちゃってどうしていいか分からないの5番。
だからそういう意味ではさっきの一言で書くっていうのはすごい。
一言いいね。
しかも相手のことがずれを、
ほら先生がずれを感じちゃうとどうしていいか分かんないけど、
子供自身がずれを感じるから相手に聞きたくなるね。
何でそう思ったの?
そうですよね。
その発散しちゃうっていうか、
いろいろ出てきて困っちゃうのはやっぱり、
どの方向に行けば分かんないって感じ。
処理するとかね。
何に注目をこの後させていったらいいのかが見つけられないから、
結局また1の場面みたいな感じになっちゃう。
結局1だよって。
でもできれば本当のことを言うと、
理科でよく言ってるけど、
子供の言葉を起点に授業を作っていきたいんですよね。
その場の雰囲気とかノリとか、
子供自身がこういう方向で考えていきたい、
みたいな方向でやりたいわけじゃないですか。
やっぱり問いを持たせようとするじゃないですか。
じゃあどんなことこれから考えていきたいとか、
どんなことを注目しながら読んでいきたいとか、
それがまたバラバラになるじゃないですか。
じゃあどうやって授業をしたら、
この子の問題もこの子の問題も解決していくんだっていうのが、
僕は問題を作るときに、
グループで練り上げるようにしてるんですよ。
つまり全体で話し合う価値があると思うものを、
作っていくって今はやってるんですよね。
最初は先生と一緒に問いを作るってところからスタートして、
特に3年生以降かな、
は1年間かけてですけど、
最後は自分たちで問いを持って授業が進められるように、
委ねられるようにはしたいなと思ってて、
だから問いの作り方であるとか、
どういうところに目をつけて問いを作っていけば、
自分たちの学びがより良くなるじゃないけどさ。
そこが知りたいですよね。
問いって例えばどういう、
それは題材とか物語か説明文かによっても色々違いますよね。
文学の話で言うと、
基本的にはやっぱり人物変容、
人物の変容、気持ちが変わるとか、
そういうところに目を向けるとか、
あとはそれが何で変わったの、
なぜ変わったのかっていうのと、
いつ変わったのかっていうのと、
どのように変わったのかっていうところは、
やっぱり子どもたちが自分たちでそこは見つけて欲しいし、
目を向けて欲しいところなんですよね。
あとは表現技法の面白さであったり、
例えば比喩表現、
例えが使われているとか、
情景描写とかね。
どのタイミングで扱っていいのかが分からないですよね。
物語って必ず、小学校の国語の作品って、
最初と最後で何かが大きく変わっている。
それって大体人物の気持ちであることが多いんだけど、
東京書籍で言うとかさこじぞうなんかは、
気持ちっていうよりも人物を取り巻く環境そのものが変わるみたいな話もあるけど、
大体最初と最後で何かが大きく変わっている、変化が起きるっていう。
そのきっかけっていうのは必ず間にあって、
その全体像として変わった部分と、
そのきっかけなんだったかっていう部分は、
やっぱり授業の中でしっかり扱う必要があるかなって。
その作品をより面白くとか、
魅力的にしている表現技法とかも、
最後は追っていきたいなって思うから、
自分の授業の作り方っていうと、
内容面の今の大きく変わったところを見ていくっていうパターンを最初にやって、
最後によりよくこの作品を見せている、
何かそういった表現技法って何なんだろうっていうところとかに
入っていくことが多いかなって。
じゃあ何回も読んでいく感じですか?
全体を読んでいくっていうか。
全体を読みますよね。
だからその中でも問いに関係する部分って、
大体最後の山場から結末にかけてが多いんだけど、
そこは本当に焦点化してギュッて読むんだけどさ、
場面ごとに物銀にするってことは基本的にはしないっていう。
ほら、ほらしてるしてる。
めっちゃしてる。
いろんな見方があるんだろうなと思ったんですけど、
何でこれが面白いのかみたいなことを考えていくのか、
あるいは自分がどう感じたっていうことを突き詰めていくのか、
それって国語の場合はどうだったんでしたっけ?
主観と客観の問題がない。
あると思う。
主観、どうしても子どもが主観で感じてるじゃない。
特に理科の場合は主観も大事にするけど、最後は客観にいく。
だから結構シンプルですよね。
その辺りはどうですか?
主観と客観みたいな話があったけど、
多分国語の難しいところってそれぞれの解釈が変わってくるとかね、
だと思うんだけど、
でも何だろう、妥当性みたいなものは文章を根拠にしているかどうか
っていうところがあるじゃないですか。
主観であったとしても。
でも自分の場合思うのは、やっぱり最終的にはその作品から
自分が最も強く受け取ったことって何なんだろうっていう
その作品のテーマみたいなものっていうのが
6年間かけてそういうのが分かるように育てていきたいから、
例えば1年生2年生だったら感想を書くとかなんだけど、
6年ぐらいになると作品のテーマって何だったと思うっていうようなことが最後に
この作品のテーマって。
でもそれはあくまで読者側にある。
だけどそれやっていくと必ず作者の方に入るんですよね、子供たちが。
例えばなんで宮沢賢治さんってこういう表現技法を使うんだろうとか、
宮沢賢治さんってなんでこういう作品を書いたんだろうっていうのとか、
出てくるんですよ。
楽しいですよね。
そうすると同じ作家さんの他の作品を読んだりとか、
同じテーマ、例えばファンタジーだったらファンタジーとかって読んでくると、
多読に最後、たくさん読むっていう方向に。
読書に繋がる。
多く読む。
多読。
そっちの方に目が行くような単元構成はちょっと自分はしてる。
いいね。
だから豊かになりますよね。
なんかすごいシンプルに豊か。
そっちの方が豊かになっていくなって思ったんですけど。
そこから何か主体的になっていく感じがしますよね。
学び終えてからがさらに。
また面白いみたいな。
自分で学びを広げていくとか深めていくとか。
そうですよね。とはいえやっぱり自分の中に国語ってテスト的な発想があるのかな。
そこは難しくて。
いや、今主観って言ったのは理由は結局、
柳瀬先生が最後言った豊かさ。
結局教えてることは豊かになっていくことを
彼らに伝えていってるような教科だなっていう部分もある。
もう一つは、それも豊かさなのかもしれないけど、
俺の読み方と違う読み方があっていいんだっていう。
それがみんなで読む意味でしょ。
例えば、同じ言葉に悲しいって書いたけど、
俺の悲しいとあいつの悲しいは違ったっていう。
でもそれもちゃんと基づいてる言葉が違ったから、
あいつはあの悲しいは最後兵十が本当は友達になりたかったかもしれないっていう場面もあれば、
いや兵十って最初本当に辛いものになったから悲しい。
じゃあ全然悲しい。同じ兵十から読み取った悲しいも、
その悲しいの種類って違うって。
でもこれも豊かになってるけど、
今度は相手の立場とか考えとかを共感するっていう方向にも行くわけじゃん。
自分を知ることになるし、他人を知ることになるし、
国語ってこうグッて掴めない。
こんな声強化ですって言えないけど、豊かにしていく流れ。
もちろんテクニカリーな部分もあるよね、当然ね。
しかしを使った時はこの後にどうのこうのっていうこともあるから。
攻めてる範囲が大きい。
だから難しいっていう風に感じる部分もあるんですかね。
そう、だから正解がわからないから。
これはよくあるパターン。正解はない。
そうだったよね。だからそれがまたさ、理科だったら結論ここみたいなのがあるじゃないですか。
なんかボヤーって終わるじゃん。
そこが、だから最初さ、中村先生が始まった時にすぐさ、響きっていう言葉を言ったよね。
響き。
響きっていう言葉自体がすごいよね。
なぜかっていうと、自分の中に響くものもあるでしょ。
この間に響くものもあるでしょ。
なんか響くっていう言葉だけで、いろんな国語を捉える言葉になってるっていうのが、
響き、なるほどっていう。そこはすごい面白い。
あとは、
話変わっちゃうからいいですか。
一方で説明文とかは、
同じこと言おうと思ってた。
本当ですか。
説明文だったらどうする?
説明文は、
どうですか。
説明文は、僕どっちかというと文学の方が個人的には好きなんだけど、
説明文の場合ってなんかこう、やっぱり筆者の主張がしっかり、
その結論っていうか、いろんなパターンの説明文ってあるんですよね。
例えば観察した、記録したような説明文もあれば、
何かのテーマについて、環境とかについて述べられたような説明文とかもあって。
ただそれも結局は、筆者が伝えたいことを最後まとめてるとか、
最初に言ってくる場合もあるけどまとめてる。
その上で読者に向けて、何かこうしてみたらとかこうしてみませんかって
いざなったりするものもあるんだけど、
そこがしっかり読めてるかどうかっていうところだとは思うんですよね、最後。
ただそこに至るための事例をどう扱ってるかとか、
どういう順序で述べてるかとか、
そのために読者に納得してもらうためにどういうふうな表現技法、
手法を使って述べてるかとかっていうところに、
子どもたちがしっかり目を向けてほしいっていうのがあるから、
文学以上に説明文のほうが、ここはちゃんと読み取ってほしいよなっていうのが、
私個人的には強い気がします。テクニカル的なもの。
それをちゃんと教えてくれたら理科にもめっちゃ行かせるよね。
説明が書ける子にしたい。
だから理科とのつながりって考えると、そういうところはすごくあると思う。
事実とかあるよね。
もちろん。だから例えばさ、先に事実を述べるパターンも説明文もあるじゃない。
逆に徐々に埋めていく説明文もあるじゃない。
一つ、二つ、三つの証拠を得て四つ目に言いたいことがドンってくるような。
だからそこで学んだことを考察とか、
あとは自分が最後振り返るときの文章とかに息づいてくるようなことってあるなと思う。
読むのと書くのまた違うしね。読めるけど書けない。
だから説明文はやっぱり書き方レクチャーみたいになっちゃうんですから。
自分が授業をすると。
それはどういう感じですか。
だから事例を挙げて説明してる。どんな事例かなみたいな。
なんて言うんですか。子どもたちが自分からの結果で学びを深めていく感じじゃなくて。
事例何?みたいな。
どうですか。
子どもたちとどう授業をするかだけど、
例えば前4年生の時にヤドカリとイソギンチャクっていう説明文があるんだけど、
あれちょうどNHKフォースクールに、それこそヤドカリとイソギンチャクの行政のやつが動画であるんですよ。
で、ヤドカリとイソギンチャクの筆者が伝えたかったことであるとか述べ方とかを学んだ後に、
子どもたちに映像を見せて、そうすると新しい情報があるじゃないですか。
あるんですよね。入ってくる。
その新しい情報を、例えば自分たちで、自分だったらどんな風に書くかっていう。
取捨選択して、段落の最後に事例として付け足すっていうのをやるんですよ。
4年生の時にね。
そういうのとかって。
今やろうと思った。
動画から探さなきゃいけない。
結構子どもって視覚で見るのってすごく見たがるとか面白がる。
動画好きな子もいるしね。
映像として見たりとか。で、そういうのとかを文章化するならっていうのと連動させてやったりとか。
今思ったのはそれこそ今学びポケットっていうので、天気予報、うちのクラスはすごく。
柳部学級の天気予報は僕の理科でやってるから、毎回めっちゃちゃんと説明してくる。
子どもたちの事例を。
でもああいうのとかを、例えば自分たちで晴れの日はどうなるとか曇りの日はどうなるとか雨の日はどうなるとかって
天気分けてみて、その説明文ぽく書く。あれって結局学びポケットってインターネットの中で投稿してる文章だから
取捨選択っていうか書き方とかを本当に書き言葉に書き直してリライトしてやってみるとかっていうのは
子どもたちにとって、それを他のクラスに紹介してみようとか他の学年に紹介してみようとかってすると
必然性みたいなもの。学んでみたいので必要感って言ったらいいのかな。
必要感いるね。
説明文はすごく出さなきゃいけないなって思って。
図書室とか行って本とかでもみんな借りるのって文学ばっかりじゃないですか。
図鑑とかがちょっと説明文っぽいなって気がしないでもないけど、本当に手にするのは一部の子たち。
数は少ないよね。
数は少ないんですよね。
だからより学習していくときに子どもたちが自分たちでこれ学んでみたいなとかって
文学だったら読書とか普通の文学作品があるから割とやりやすかったりするけど
説明文は本当にこっちがいろいろ教材これだったらいけるんじゃないかなとか
こっから先発展できるかなってものを考えたり
より必要感子どもたちが出るように仕向けたりとかっていうのがすごく大事になってくるかなって。
物語はそれ自体に前に進めさせる駆動力みたいなものがありますもんね。
読み進めたいね。
だけど説明文はね。面白い説明文っていうのもあるから。
説明文ってだいたい説明文学習した後に書いてみようみたいなのが入ってる。
読む書くセットみたいなやつね。
自分たちで題材決めてとか。
そうするとその説明文で学んだことと離れちゃってることが結構。
子どもによってね。
もういいかみたいになっちゃうんですけど。
離れちゃってるのどういうこと?
離れちゃってると事例を挙げて書き方みたいなのを説明文で学習したけど、例は挙げてますけど。
自分流になっちゃってる。
結局あの学びが生きてるのかっていうと、結局自分が説明したいことを今までと同じような説明の仕方でしてるんじゃないかなって思っちゃうから。
でもさっきみたいな。
足し算。
ここにもう一つ事例を付け足すとしたらみたいな。
乗っかるって感じですよね。
乗っかった方が僕は最初やりやすい気がする。
真似しやすい。
真似しながら。
真似ですよね。
真似して欲しいわけですよ。
その次書いてみようのやつが。
そういうことですよね。
学んだことを。
生かした方が絶対にいいからね。
それが本的にあるんだと思うんですけど。
面白い。
著者になって。
なりきらなきゃいけない。
そうですよね。
自分が著者が自分に変わっちゃったら自分流になっちゃう子にとっては。
いやいやそうですよね。
そうだね。
でもそれをつなげられないのは自分のせいだと思ってるから。
やっぱり指導のせいだと思ってるから。
山下さんが言ってる。
視覚情報から入るって面白いね。
なぜかというと文章は読んで入ってるから。
今度ヤドカリの映像を見たときに。
これ足せるっていうのはそれぞれ違うわけじゃん。
ある意味取材っぽい感じ。
そうそうそうそう。
だからそこ面白いなと思って。
やっぱり動画から読み取る子のポイントがみんな違えばさ。
一段落だけ足してっていうときに全員違うじゃん。
たぶんそうすると。
そう。
そこがだからそれもまたズレだから面白かったり。
同じもの見てる。
同じもの見てるけどやっぱりいろんな読み方があるんだねってなるし。
でさっきおっしゃってたところでいくと
なんか子供同士が自分のノートだったり成果物だったりっていうのを見合えるようにしとくと
常に私はそれやるんですけど
それやっとくとこういう書き方いいよなとか
こういうまとめ方とかこういう観点って面白いなっていうのを
自分にどんどん取り入れるようになってくるっていうのかな。
相互評価のシステムっていうか
それは授業の中でやっておいたほうがいいんじゃないかなって。
どうやって見合えるように工夫されてるんですか?
僕はギャラリーワークって言ってるんだけど
美術館のあれみたいな。
教室のこの机をこの字の形にして
例えば単元の最後まとめのノートだったりとかしますよね。
それを机の上に置いてそれをみんなでギャラリーみたいな感じで
見合うって言ってそれに対して付箋にコメント書いて貼っていくっていう
そのコメントは自分との共通点。面白いなっていうか共通点だとか
あとその子のノートとかリーフレットだったらリーフレットとかだけど
新たな気づき。知らなかったことに気づけた部分。
そこの2つを基本見るんだけど
そこで何か思いつかなかったら感想。
基本的にはプラスの感想を送るっていう
アドバイスとかは特にしなさいってことはほとんど言わないし
あとはもちろんもらって嫌だなって気持ちになったら
それはもう活動としてはできなくなっちゃうから
相手がもらってなんか嬉しいなと思ったり
次のまたノート作り頑張っていこうと思ったりするような
コメントを書けるといいよねって言って
それをお互いにやってるんですよね。
そうするとある例えば10分だったら10分でやると
自分のところに付箋に付箋が5枚とか6枚とか貼られてるんだけど
それを最後ノートにまたまとめて貼っといて
それを見るとこういうところが自分のまとめ良かったんだなとか
こういうところは友達がまだ気づいてないところに
僕は気づけて学ぶことができたんだなとかってなったり
逆に他のところも見ていくから
あの子のこういうノートを真似してみようとか
このまとめ方いいなとか色の分け方とかいいな
記号の使い方矢印の使い方いいなとか
そうすると今度また自分のノートに取り入れるから
先生がこうしなさいあしなさいって言わなくても
子供同士でお互いにそうやって見合っていくっていうのは
子供たちの学びの質をちょっと高くするんじゃないかなって思ってて
なるほどギャラリーウォーク
僕も最近真似してるの
中学年の理科で
僕は全くちょっとこう
矢印さんと全く一緒ではないんだけど
予想とか考察って書き終わるの早い子いるじゃん
いるいる
書き終わるの遅い子というかじっくり時間くださいの子いるじゃん
だから遅い子はちょっと頑張ってほしいんだけど
でも早い子待たしとくのもったいないので
そのギャラリーウォークを僕も最近やってますよ
3,4年だけね
そうすると見に行って
また自分のとこに帰って書き足してもいいよって言っとけば
見る目的もできる
もうちょっと言うと行って見るだけじゃなくて
見終わって戻ってきた子に後で発言してもらう
そうすると
どこが良かったのって言ったら
何々ちゃんの子が良かったって言ってくれるから
なんか見られても嫌な気にならない
盗むとかパクるとかっていう言葉になっちゃうと
それはもうマイナスでしかないけど
なんかさっきの豊かじゃないけど
見たことでお互い豊かな気持ちになるっていうのは
最低限守りながらね
なんかそうやって
柳瀬先生の校内研究でギャラリーウォーク見たときに
子供の感じがとってもいいなと思うんです
だから誰からも学べる状況にすることも大事だし
考察予想のところは時間がそれぞれ特徴的に違うので
それぞれの
だからそこをやってるかも
めっちゃいいですよね
その教室でしかできないことって感じがして
個人だけだと学びって
個人でも今成立するような時代に
これからなっていくのかもしれないけど
ギャラリーウォークなんか本当に他者と関わったりとかね
他のところを見ていかないと
自分でこの子のノート見てみたいって決めていく子もいるし
逆にそういったところで自分が学んだことっての
次の学びに生かそうって子もいるから
そうすると何となく一つは学び方を学ぶっていうのと
あとはこういう観点
こういう目の付けどころで学習していくと
いいんだなっていうのが何となくでも分かっていくと
1年かけてだんだん学びが変わっていくんじゃないかなって思って
これねギャラリーもいいんですけど
いいのはウォークなんですよ
歩く
歩く
歩かないじゃないですか
歩くのがいいな
自分の体を動かしてそこに行って
その人に近づくっていう行為
見られる見るっていう行為が大事
この体温が大事なのよ
もちろんICTがダメって言ってる意味じゃなくて
そのことにも意味がある
そうですよね
効率だけね求めたら
絶対共有がいい
共有ボタンを押してみんな見やすい方がいい
だけど多分違うんですよね
行くっていうことが大事で
見られる見るが大事で
抵抗感のある子供がいたりはしないんですか
それは最初の時に
見られるって悪いことじゃないし
真似されるって悪いことじゃないし
上手い下手じゃないからさって
恥ずかしいことじゃないからっていうのは
そこはやっぱり丁寧に伝えるかな
解消が重要そうですよね
子供にもね
学級経営なのかもしれないけど
子供も分かるんだよね
嫌な子には行かない
あんまり
嫌な子には行かない
嫌な子っていうのは
見られたら嫌だろうなと思う子には
あんまり行かない
その辺のことも大事じゃない
実際
恥ずかしがり屋だから
見せてって言って
嫌だって言われたらすぐ離れようとか
逆に最初から違う子から見ようとかね
子供が分かることも大事かもしれない
機微ですね
どうですか今の話聞いて
いやいや
やっぱりその共有の仕方みたいなのっていうのは
どうやって工夫したらいいのかなっていうのが
日々悩むところもあり
うちも早く書き終わった子同士で
交換してみたりとか
いろいろあるけど
さっき教えてもらった中では
コメントするときに
どの視点でコメント書いたらいいかっていうのは
すごい学びになったというか
そこが結構
コメント書き合うんだけど
どうでもいいコメントって言ってるけど
わかるわかる
よかったよぐらい
イケてるぐらい書いてる
コメント力ってありますか
あるある
それも国語だよね実際
そこにやっぱり視点を与えた方がいいなって思いつつも
こっちもどの視点で書いたらいいのかなと
そのコメントも最初からコメント書けるのって
難しい気もするし
自分が担任してるクラスとか
普段から結構関わりが長いクラスは
そこって教えやすいけど
専科で入ってるクラスなんかは
一番最初はもうコメントじゃなくて
見たらサインだけ
特に低学年がそうだし
サインだったりとかから始めて
だんだんちょっとずつハードルじゃないけどね
次は良かったところを一個選んで書く
まだそのレベル
でもいいと思う
最初本当にそれで
次は観点もう一個増やすとか
それも最終的には3つぐらい観点あるんだけど
もうその順番優先順位をつけたり
例えば私なんかは一番最初は共通点を見つける
2つ目はなんか新たな気づきを探す
3つ目はもうね
なんかその他感想みたいな風に
一括りにしちゃうことも割とあって
1番2番の観点で見つからなかったら
3番でいいよって
つまりお友達のノートのところに行ったけど
なんか1番2番ないから書かないじゃなくて
その中でも自分の中で
そのノートに対して
その学んだ友達に対して
何か一言でもいいから
気持ちを送れるようにしておきたいなってのがあるから
そういう風に最後は
選択子どもたちができるようにしておくっていう風にして
1年かけてなんかやっていく
1年生とか2年生とかは
もう本当に一言でいいから
時間もかかっちゃうから
そうですよね
いいね
一言でいいよって
短くていいよって
ここが良かったようで全然大丈夫
でもそれを段階的にやって
6年生ぐらいになったら
もうそういった観点で
しっかり書けるようにしていくっていう風に
そこの傾聴はあるんですか
1番で書けてるといいなとか
2番のことが書けてるといいなっていう
見とるときに
見とるとき
あんまり
基本的にはいろんなところに行って
書いてるかどうかっていう数で
見とってることの方が多いかも。内容っていうよりも
だから自分から積極的に動くときには
ギャラリーウォークのときには
動いてほしいんですよね
僕の場合は辻さんと違って
一斉にお挑んだから
全員立つの
そう
だけど単元とか授業の途中
単元の最後にやることが多いけど
途中でやるときに
今みたいにするときは
子供に動く子も書く子も
両方あっていいと思うから
そうするとまた多分書かせたいことっていうか
それはもうちょっとシンプルっていうか
楽にしてあげないと
自分でもっとまとめたいって子も
多分いるだろうし
動いてって
その子たちは情報が欲しくて言ってるから
だからやる内容がちょっと違ってくる
最後に評価するのは単元の最後だけど
途中で入れるのは
お互いに情報が知りたくていくっていうのと
もっと自分で書き足したい
書き早いから残ってるし
座ってやってるだから
そうするとまた
動く子たちの観点は
情報を得るためにいきなさいですよね
自分のところに少しプラスになったら
共通点と相違点を探しに動くんだよって
多分なると思うから
目的によっていろいろ変わってくるかな