アドラー心理学ラジオ。この番組では、お手軽な自己啓発として消費されがちなアドラー心理学を、
哲学、カウンセリング、そして科学の視点から深掘りし、本物の姿勢として語り直していきます。
お相手のあつくてゆるいです。 皆さんは、成長したいって大人になった今でも素直に思えますか?
何歳になっても夢中になれることを見つけて、高みを目指して頑張れてるっていう人もいれば、
一方でそこそこ仕事も回せているし、平和なんだけど、なんだか逃げ切らない。 心の中の熱いものが失われて、何とも言えない
停滞感を抱えている人もいるんじゃないでしょうか。 ここまで目的論や相手役の話をしてきましたが、目的を追求しながら絶えず高みを目指していく
人間の性質が見えてきました。 私たちが生まれながらに持っている上へ向かおうとする根源的な衝動、
アドラーのいう優越性の追求について学びつつ、 人間が常に高みを目指す生き物だとしたら、
じゃあなんで私たちは停滞しちゃうんだろうという謎について考えてみましょう。 ちょっと前に編集者のミノワコウスケさんがXに投稿した
ミドルエイジクライシスに関するポストがバズっていたのをご存知でしょうか。 ある程度仕事で成功した人たちが陥る虚無感について書かれていて、
ミノワさんの周りには事業も順調でお金にも全く困っていないのに、 あれ?このまま稼ぎ続けてその先どこ行くの?って心にぽっかりと大きな穴が開いちゃっている人が多いそうなんです。
生活が安定して自由も手に入れた。 普通なら人生上がりですよね。ハワイのビーチで一生トロピカルジュースでもすすってればいいのに、
彼らはなぜかモヤモヤし始める。 しかも現代ってSNSで若いうちからお手軽に承認されたり、成功する感覚を味わえちゃいますよね。
そこにAIまで出てきて仕事のスピードが爆上がりした結果、 本来なら40代や50代で来るはずのこの虚無が20代や30代にまで前倒しでやってきていると言うんです。
第27回の相手役のところで、私たちは社会から薄い欲望をインストールされて踊らされがちだという話をしました。
虚無っている人たちって、年収うんぜん満、役職たままんみたいな社会が用意してくれた薄い欲望のゲームをサクッとクリアしちゃったか、あるいはこれクソゲーだなと見切っちゃった人たち。
つまり、人生のマップ上で立てていたわかりやすい赤いピンが全部消滅してしまった状態なんじゃないでしょうか。
この感覚って、別に極端な成功者に限らず、ごくごく普通の私たちにも思い当たる節があるはずです。
仕事がこなせるようになって、ああ、これ以上頑張っても自分の人生、劇的に変わるわけじゃないなと、自分の天井に頭をぶつけた瞬間、ふと訪れるあの虚無感。
ここで不思議なのが、赤いピンが消えた後の私たちの行動なんです。
普通ゲームをクリアしたら、コントローラーを置いてゆっくり寝るじゃないですか。目標がなくなったんだから休めばいい。
でも人間は違うんです。心の中のカーナビが、目的地が消滅しました。音声案内を終了しますって言っているのに、なぜかゆっくり休めない。
この現象について、アドラーのレンズを借りるとクリアに説明できると思っています。
アドラーは、もっと高みを目指したい、もっと成長したいと上へ向かおうとするのは、スイッチでオンオフを切り替えられるモチベーションなんかじゃない、
人間という生き物に初期設定でぶち込まれている、逃れられない性質だと考えました。
アドラーは、私たちが生まれながらにして持つこの決して終わることのない上昇の動きのことを、優越性の追求と呼びます。
優越性の追求という動きがある以上、カーナビの赤いピンが消えたからといって、はい、じゃあ成長をストップします、とはならないわけです。
上へ向かう動き自体は止まらない、ただ向かう先を失ってしまっている。
いわばギアが抜けているのにアクセルだけを踏み込んでいる空吹かしみたいな状態です。
で、その時に手近な刺激や目標に満足できず、行き先を見失ってそのまま迷子になって停滞しちゃう人もいれば、
より強い刺激的な体験を求めて、無理やり前に進んでいる感覚を得ようと、じたばたもがく人もいる。
つまり、この高みを目指すエネルギーは全く消えていないが、行き場を失って空回りしている状態こそ、
ミドルエイジクライシスという言葉に代表される虚無っている状況のからくりなんじゃないかと思うんです。
人間が生まれながらにして持っていて決して終わることのない優越性の追求。
アドラーはこんな風に書いています。
私は全ての心理的現象の中に、優越性の追求をはっきりと見出すようになった。
それは身体の成長と並行して進み、生命そのものに内在する必然性である。
マイナスからプラスへの勢いは決して終わらないし、下から上への衝動は決して止まない。
身体の成長と同じように進む、生命に組み込まれた必然。
生々しくて生き物の根っこにある動きとして語られていますよね。
そしてアドラーはこれが特別な誰かだけの話じゃないとはっきり言い切ります。
私たちは皆、困難を乗り越えたいと願っている。
劣等の位置から優越した位置へ、敗北から勝利へ、下から上へと上昇する戦いを人間の中に必ず見出すだろう。
それは子供時代から始まり、人生の最後まで続く。
つまり優越性の追求はスタバでMacBookを開いてドヤ顔でタイピングしている意識高い系の人だけの特別な才能なんかじゃないんです。
休日に布団から一歩も出たくない私のような人間の奥底にも等しく組み込まれている標準装備だということ。
日常を振り返ってもきっと思い当たるはずです。
テストで少しでもいい点を取りたいとか、昨日より上手く目玉焼きを焼きたいとか、
誰かに強制されなくても私たちは常に今よりちょっと上を目指してしまう。
アドラーからすれば、これは意志が強いとか弱いとかの問題ではなくて、人間の初期設定。
いやもっと言うと、優越性の追求は生命そのものに内在する必然性であるとアドラーは言い切っていました。
実はこれ、アドラーの完全なオリジナルというわけではなくて、
ショーペンハウアーのただ生きようとする生命の力、
生への意志とかニーチェの己を乗り越えてもっと強くなろうとする力、
力への意志、こうした哲学の巨人たちからのバトンを受け取ってアドラーが心理学の言葉に落とし込んだものなんです。
ただ、こんな小難しい哲学を挟まなくても、この上へ向かおうとするエネルギーが生命そのものに備わっている力なんだってことは、
シンプルに納得できる話なんじゃないでしょうか。
で、あともう一つ、優越性の追求って言葉を聞いたときに、
めちゃくちゃ誤解されやすいポイントが一つあります。
優越性って聞くと、なんとなく他人を蹴落としてタワマンの最上階に住み、
バスローブ姿でペルシャ猫を撫でながら、
フッ、下界の愚民どもめ、
と、ホクソMみたいな、鼻持ちならない姿を想像しがちです。
もちろん、そういう競争で他人に勝とうとするのも、優越性の追求の一つの形ではあります。
でも、決してそれだけじゃないんです。
シンプルに今の自分は足りてない、だからもっと上を目指そうという、
自分自身の目の前にあるハードルを超えようとする。
誰かとの勝ち負けに関係ない成長、これも立派な優越性の追求なんですよね。
次回以降の話にも直結していくんですが、
ここで一番大事なのが、その止まらないエネルギーをどっちの方向に向けるかなんです。
前回、人間を行動へと駆り立てる引力には、他者への貢献に向かう共同体感覚と、
名声や手軽な承認を求めるプレステージの2種類があるというお話をしました。
本来なら他者と協力して、本当に意味のある人生の課題に取り組んでいく。
これをアドラは人生の有用な側と呼びます。
一方で、手軽な承認欲求を満たすために、
SNSでドヤ顔でクソリプを飛ばしてマウントを取ったり、
飲み会で謎の俺様ルールを振りかざして後輩を詰めたりする。
これはせっかくの膨大なエネルギーが無用な側へと向かってしまっている非常に残念な状態です。
高みを目指していくという運動そのものは誰にでも備わっている。
でもそれを有用な側に向けるか、無用な側に向けるかで、
人生の景色は天国と地獄ほど変わってくるんです。
というわけで、優越性の追求は死ぬまで止まらない運動だという話なんですが、
だとすると、じゃあなんで途中でピタッと足が止まって停滞してしまう人がいるんだろう、という疑問が湧いてきます。
冒頭では行き先を失った空吹かしの話をしましたが、
アドラの枠組みで直接その理由を探るともう一つのパターンが見えてきます。
それはズバリ、劣等感のお化けにビビリ散らかしてしまうから。
劣等感そのものは本来なら成長に向かうための大切な刺激です。
でもそれがデカくなりすぎて自分を飲み込んでしまうと、人は勇気をくじかれて全力で守りに入ってしまう。
過去の放送でも出てきた劣等コンプレックスという状態です。
傷つきたくないし恥もかきたくない。
だから時間がないとか環境さえ良ければと、
自家製の言い訳バリアを張り巡らせて新しい挑戦を全力で回避するようになるわけです。
で、興味深いのがこの劣等感が巨大化しやすい時期として、アドラが老年期を挙げていることなんです。
アドラはこんな風に語ります。
多くの人は年を取ると変わってしまったように見える。
これは主に自分が無益で役に立たないと感じるようになるからである。
さらにアドラは世の中の残酷な現実にも鋭く切り込んでいまして、
今の社会って仕事でどれだけ役に立っているかがそのまま人間の価値みたいに勘違いされているから、
第一線を退くお年寄りは居場所がなくて本当にしんどいんだよと嘆いているんです。
これアドラはお年寄りの話として書いているんですが、
私にはこれまさに40代や50代のミドルエイジクライシスでぶち当たる壁と同じ構造に見えるんです。
体力の衰えを感じ始めたり、あんなに懐いていた子供に反抗されたり冷たくあしらわれたり、
あるいはバリバリ出世していく動機と比べて自分を比喩したり、ふと自分の限界を悟ってしまったり、
年齢を重ねる中で自分の老いや限界に直面して構造的に劣等感を抱きやすくなる。
これすごくよくわかります。
つまり、昔の熱を失ったような感覚は意欲が枯れ果てたからじゃないんです。
今までドヤ顔で乗っかっていた自分の価値のジェンガが年齢とともに少しずつ引っこ抜かれてぐらついていくことで、
劣等感がじわじわと大きくなっている。
そしてその肥大化した劣等感に知らず知らずのうちに毒されてしまっているからなんです。
じゃあこの停滞という名の空回りから抜け出すにはどうすればいいのか。
アドラーの答えは、やっぱりここでも他者に貢献して自分には価値があると感じることが大事だと言うんです。
つまりルールの変更です。
オレすげーだろ選手権からあなた助かるわー選手権への電撃遺跡。
特に自分の価値を支える足場がぐらついた時期には、この貢献へのシフトチェンジがとんでもない威力を発揮します。
アドラーはこの貢献へと向かうことが、老いや死という全人類がビビる最大の恐怖に対する答えになるとまで言っているんです。
次の世代とか共同体にわしちゃんと貢献できとるわって胸張れる人間には、老いも死もなんも怖ないんや。
やっぱりこういうセリフは関西弁のオッチャンアドラーに限ります。
死ぬのが怖いのは自分がこの世界からきれいさっぱり消去されてしまう気がするから。
でももし自分の言葉や仕事が誰かの記憶や文化の中で生き続けるとしたら、
後世とか共同体のつながりの中に自分が残っていく確信があれば、たとえ肉体が滅んだとしても何も恐れることはないと言っているわけです。
さらにアドラーのおっちゃんは社会のあり方にも鋭いツッコミを入れています。
人間ちゅうのはな、歳とったらもっと業産仕事とか関心事を持たなあかんねん。
せやのに今の社会は全く逆のことをしとる。
まだまだやれる余地がある60歳70歳、いや80歳のシニアにもう引退しなあれなんて言うたら、
絶対にあかんねん。アドラー先生一生休ませてくれないの?
頼むから老後は縁側でゆっくりお茶すすらせてや。
って言いたくもなりますが、これぞアドラー節。
私たちに生まれつきインストールされている優越性の追求というそこしれないエネルギーを他者への貢献という有用な方向へと振り続ける。
なかなかスパルタで賛否両論ありそうな結論ですが、笑っちゃうくらいぶれないアドラらしいアンサーでした。