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📝 今回のあらすじ・ハイライト
マイホーム計画を阻む世界規模の暴風雨 / 脳内で鳴り止まないミルクボーイ / 引っ越しは「尻から糸を出して心を育て直す」作業 / 錬金術で生み出された「ぼくのかんがえた、さいきょうのアドラー」 / 名刀『嫌われる勇気』をブンブン振り回す無敵の人たち / 日銀の為替介入と「課題の分離」する男 / NVIDIAの株価暴落にドヤ顔で答える哲人 / 幻の「勇気づけ大人のサービス」 / 小保方晴子「課題の分離も、ありません!」 / アドラー本来の「暑苦しくて泥臭い」哲学とは / 次回、いよいよ本丸『哲学編』へ突入
■ パーソナリティ:あつくてゆるい(あつゆる)
アドラーを実践して10年以上。教育現場に身を置きつつ、アカデミックな哲学研究とカウンセリングの修行を重ねてきました。
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感想
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アドラー心理学ラジオ。この番組では、お手軽な自己啓発として消失されがちなアドラー心理学を、哲学、カウンセリング、そして、科学の視点から深掘りし、本物の知性として語り直していきます。
お聞きいただきありがとうございます。お相手のあつくてゆるいです。 皆さんがアドラー心理学に関心を持ったきっかけって何でしょうか。
きっと多くの方が課題の分離とか嫌われる勇気を知って、これで周りに振り回されず自分らしく生きられると救われたんじゃないかと思います。
世間でのアドラーの代名詞といえば、やっぱり課題の分離、承認欲求を否定するちょっとドライでクールな個人主義、そんなイメージですよね。
でも実はそれ、アドラーの根っこにある哲学からするととんでもない誤解なんです。
というわけで今回も前回に引き続き、いつもより少し肩の力を抜いた雑談会として2つのテーマでお届けします。
前半のテーマは家探しと街に漏れ出した心。
私が今直面しているリアルな家探しのドタバタを交えながら、アドラー哲学にもつながっていく拡張された心についておさらいしつつ、
後半はSNSにはびこる勘違いアドラーと題しまして、もはや知味猛量と化している世間の謎アドラー心理学に突っ込みを入れながら、
じゃあ本当のアドラーって何なんだという、いよいよ次回からスタートする哲学編へのイントロダクションへと駆け抜けていきます。
それでは今日もゆるりとお付き合いください。
私第18回の科学編のラストのところで、認知科学とアドラー哲学がめっちゃ綺麗につながったやん!
って一人で興奮して、皆さんを置いてけぼりにしてしまったかもしれないんですが、
その科学と哲学のつながりポイントこそが、アンディ・クラークの拡張された心だったんです。
私たちのマインド、つまり心の働きって頭蓋骨の中の脳みそだけで自己完結しているわけじゃない。
スマートフォンを記憶の延長として使ったり、周りの環境と相互作用しながら考えたり成長したりする。
そしてそのつながり先、心の拡張先には当然のごとく他の人間もいるわけです。
私という存在を考える上で、実はそういった皮膚の外側にあるものをあえて切り分けて考える必要ってないんじゃないのか。
全部セットで私自身だと捉える方が自然なんじゃないか。
認知科学の考え方を突き詰めていくと、そういう結論に至ってしまうという話でした。
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で、クラークはこれを心が拡張される、心が漏れ出しているなんて表現しているわけですが、
実は最近この自分の心が漏れ出しているという感覚が自分の生活の中でめちゃくちゃ腹落ちする発見があったんです。
それが家探しの話なんですけど、私十数年ずっと名古屋市内の団地に住んでいてですね。
同じ団地内で何度か部屋を移ったりしながらのらりくらりやってきたんですが、流石に娘も大きくなって手狭になってきまして、
今なんてウォークインクローゼットみたいに使っている小さな部屋に無理やり机をねじ込んで服に囲まれながらこのラジオを収録しているんです。
でも別に私だけの書斎というわけでもないので、録音してても妻が自分の服を取りに来たりしますし、
パパーって娘もしょっちゅう乱入してきて、その度に作業が中断してしまう。
まあそんなこんなでもうちょっと広いところに引っ越したいなという思いがフツフツと湧いてくるようになりまして、
私元々素敵なお家を設計される建築士の知人がいるんですが、人生一度きりだしどうせならその方に建ててもらおうと去年ふと一年発起したんです。
ところがそう決意した瞬間に建築費は爆上がりするわ、金利も上がるわ、挙句の果てには戦争の影響で資材が全然入ってこなくて工事は止まるわで、
まるで世界全体が私のマイホーム計画を阻止しようとしているかのような信じられないレベルの暴風雨が吹き荒れております。
ああこれ少なくとも新築は無理ゲーだなと、とりあえず病でリノベに方針を変更したんですが、とはいえやっぱり人生で一番でかい買い物ですから脳内でいろんな比較検討が巻き起こるわけです。
まず迷うのが家を買うエリアです。それこそ都市部にするか、それとも郊外でもいいのかというところから。
もちろん便利なのは都市部ですよね。でも当然コスト的に高くなるのと、以前ライフスタイル診断をやった時に自分の原風景は奈良にあると気づいてから、
自然のある場所に住んだ方がもっとエネルギーが湧いてくるのかもとか思うようになって、ぶっちゃけそこまで都会に執着がないんです。
それにこの異常な温暖化ですよ。名古屋の夏なんて控えめに言って熱した鉄板の上のスチームサウナじゃないですか。
この先も暑くなるのが確定しているなら、いっそ標高が高くて自然が多くて涼しくて、しかもリノベーションに適したお手頃な物件がゴロゴロしている場所がいいんちゃうか。
郊外やないかい。その特徴は完全に郊外の物件やがな。すぐにわかったわ。って思うじゃないですか。
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でもふと脳内のオカンが言うわけですよ。でもな、郊外の物件やと将来もし言うろうとすると、なかなか買い手がつかへんかもしれへんよ。
ああ、ほな、郊外とちゃうか。確かにな、資産価値重シビアな目で見たら圧倒的に都会に軍配が上がるもんな。ほなやっぱり都会か。
でもな、オカンが言うにはやな、都会で探すと今度は広さと値段の条件が全然見合わへんらしいんよ。高くて狭いやて、やっぱり郊外やないかい。
せっかく高い金出して家買うのに、狭かったら引っ越しする意味ないのよ。しかも郊外の広い家やったら子供とのびのび最高の思い出作れるやん。もう絶対に郊外に決まりや。
でもな、オカンが言うにはやな、ってもう脳内のミルクボーイが止まらないわけです。
そうやって完全に家探し迷子になっていた時にですね、ちょうどこの番組で拡張された心を扱っていたんです。
その時に、あれ?自分が今住んでいるこの街って完全に拡張された心かも?と、はっと気づいたんです。
第18回でアンディ・クラークの雲と雲の巣のメタファーをお話ししましたが、まさにそんなイメージで、
一つの街に長く住んでいると、自分でも気づかないうちに街全体に勝手に心の雲の巣を張っちゃっている。
例えば毎週のように家族で行くスーパー。あそこに行けばあれがあるってもう我が家の巨大な外部冷蔵庫みたいな感覚です。
で、顔なじみの店員さんと挨拶して、買ってきた美味しい食材で家族断乱のひとときを過ごすとか。
他にも今ちょうど娘は夏休みなんですが、この灼熱の名古屋で溶けそうになりながら、ママチャリを爆漕ぎして近所の市民プールに連れて行って、帰りにお決まりのセブンティーンアイスを買って食べる。
あとは小さい頃から足しげく通って本を借りている図書館。そして娘が赤ちゃんの頃からずっと可愛がってくれている街の本屋さんとそこに集まる常連さん達。
実家が近いというのも大きいです。当然そこには自分の思い出が残っているし、娘とおじいちゃんおばあちゃんとの関係性だってある。
こういうのって今までは便利な場所に住んでいるな、くらいにしか捉えてなかったんです。
でもそうじゃなくて、その場所に住んで、その街にあるシステムの中で自分自身を成り立たせて、そこに自分自身の生きた記憶が残されていく。
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街に住んでいるうちに、街の至るところへとそれこそ雲が糸を張るかのように心が拡張されていって、知らず知らずのうちに自分のアイデンティティなりライフスタイルなりがその街と共にある、みたいな。
うーん、言いたいことはわかるけど、それって結局地元への愛着とかマイルドヤンキー的な地元愛みたいな話なんじゃないの?って思いますよね。
でもそれとは少し違くてですね、やっぱ地元って最高だよね!ずっとも!みたいな、そういうエモい感じではないんです。
私自身引っ越ししまくっている人間ですし、今の名古屋だって元々は親の都合で来た場所で、どちらかといえば10歳まで育った奈良の方が鹿もいるし愛着があるくらいです。
今住んでいるのも、結局名古屋で就職しちゃったからなんとなく居座っているという感じでして。
あとは地域のコミュニティみたいなヒューマンドラマでしょ?とも思われそうですが、この拡張された心の感覚は必ずしも人と人との深い繋がりを指しているわけでもない。
ただそこにあった場所とか機能に知らず知らず自分の心が勝手に漏れ出していたという、もっとドライだけど実存的な発見なんです。
でですね、この街に心が拡張されるという視点で捉え直すといろんなことが腑に落ちます。
例えば街の古い建物が取り壊されたり、よく行ってたお店が閉店したりするとなんだかぽっかり穴が開いたような寂しさを感じることってあるじゃないですか。
あれもまさに自分の心が失われたってことなんじゃないのかとか、違う街に引っ越すのも自分の心をそこに置き去りにしてまた新しい土地で尻から糸出して心を育て直す作業なんだなぁとか新しい解釈ができるようになってくるわけです。
で、先ほどの脳内ミルクボーイに戻るわけですが、都心か郊外かとか資産価値がどうとかって、要は全部スペックとか機能の話なんですよね。
で、こういうドライな機能の話と対比して、私たちはつい地元への愛とかコミュニティみたいな極端な感情論を持ち出してしまい、いやそういうことでもないんだよなぁと自分で自分を否定しがちです。
でもそういう極端に触れなくても、もっと冷静な事実として、人って知らないうちに住んでいる場所に自分の心が漏れ出してしまうんだなという実存的な気づきがあったという話。
皆さんはどうでしょうか。自分が今住んでいる街に対して心が拡張されている感覚ってありますかね。
私がどこに家を構えるのか暗中模索のループはまだ続きそうですが、これからは単なる条件やスペックの比較じゃなくて、既に漏れ出しているこの心をどうするか。そんな新しい問いを抱えながらマイホーム探しを楽しんでいこうと思います。
12:25
ここから後半のSNSにはびこる勘違いアドラーの話に行くわけですが、私さっきの拡張された心の話がアドラー哲学と綺麗に繋がると言いましたよね。
今後の哲学編のネタバレにもなっちゃうのであえて簡潔に言いますが、要はアドラーが見ていた人間像も皮膚の内側だけで自己完結するわけではないんです。
人間って弱さゆえに他者と繋がって生きていくことが運命づけられた社会的な生き物です。
一人じゃ生きていけないからこそ家族とか社会というシステムの中で他者に生かしてもらい、同時に他者を生かしていく。
まさにアドラー哲学も拡張された心みたいな自分と他者の境界線が解けていくような世界観なんですが、
これを聞いてえ?そうなの?と思ったリスナーさんいらっしゃるんじゃないでしょうか。
だって世間一般のアドラー心理学のイメージってそれとは真逆じゃないですか。
SNSとか見てみてももう猫も爵士も課題の分離と嫌われる勇気。
他者と溶け合うどころかむしろ自分と他人は別と境界線をがっつり引いて人間関係を切り離すためのドライな個人主義として消費されている。
その結果どうなっているかというと皆さんご自身で都合よく解釈。
いやーもはや錬金術のように錬成した僕の考えた最強のアドラーみたいなものを名刀正宗のごとくぶんぶん振り回して日々いろんなものをスパスパと切り捨てている光景がボンボン目に飛び込んできます。
まず一番よく見る王道が人間関係を都合よくぶった切って自分らしく生きる系のこんな投稿です。
アドラー心理学にもある通り他人は変えられないということがしっかりとわかっている。
だから他人には無関心。他人は変えられない。うんまあそれはわかります。
いやあのアドラー心理学で特筆してそれを言っていた印象はあまりないですけどあくまで事実として。
でもだから他人には無関心って論理が飛躍しすぎていませんかね。
アドラー哲学の最重要ワードに共同体感覚ってのがあるんですけどそれって英語でソーシャルインタレストつまり他者への関心って言うんですけどね。
15:04
はてさてアドラー心理学はいつからそんな他者への興味を完全に失ったサイボーグ妖精講座になったのでしょうか。
続いて嫌われる勇気という最強の盾を手に入れた無敵の人たち。
誰かに嫌われることは自由に生きている証。だから嫌われることも悪くないなって。
ハートハートポジティブハート。
おおまあある意味そこまで開き直れたら自由ではありますよね。
でも自分の好き勝手に振る舞って周りに迷惑かけまくって結果的に嫌われているだけだとしてそれでもいい。
ポジティブハートってことだとしたらそんな人生で本当にいいのでしょうか。
心配で夜しか眠れそうにありません。
さらにこれもよく見るのは人間関係をバッサリ切るための免罪符に使われているケースですね。
頭のおかしい人はおかしさを自覚できないからおかしいのです。関わらない努力をしましょう。
あなたを不快な気分にさせる人とは縁を切ってください。家族であろうと幼馴染であろうと我慢しなくていい。
えーっとなんだか私自分で読み上げててだんだん息苦しくなってきました。
いやもちろん世の中には本当に逃げた方がいいブラックな環境とか心身を削られるようなやばい人間関係だってありますよ。
そういう場所から全力で逃げるべき時があるのはわかっています。
ただ課題の分離って日常のちょっとした摩擦から逃げるための都合のいい縁切りツールなわけないですよね。
ちょっと暗い気持ちになってきましたのでここらで端休め的に紹介したいのが、適応範囲バグってる系アドラです。
なぜかカブとかカワセンの相場の動きに対してアドラを召喚する人がめっちゃ多いんです。
例えばこんな投稿。
昨夜のカワセ市場は大きく動きましたね。カワセ介入かな?
急激な市場の動きでは相場がどう動くか自分でコントロールできない相手の課題です。
いやさすがにスケールデカすぎませんか。カワセ介入を相手の課題って、それ相手って誰?
日銀?
私日銀と課題の分離をしている人初めて見ました。
介入するかどうかは日銀の課題だから私は踏み込まないって、もうそれ国家規模の悟りじゃないですか。
というか逆に聞きたいんですけど、仮にこの方が課題を分離せずに日銀の領域にズカズカ踏み込んだとしたら、日銀はカワセ介入をやめてくれる可能性があるんでしょうか。
18:03
そこちょっと気になるところです。
さらにはエヌビリアの株価急落に悩む青年と鉄人の対話みたいなノートの記事までありまして、青年が株価が暴落して将来が不安ですって泣きついたら鉄人がドヤ顔でこう答えるんです。
青年よ、半導体市場の株価、これらはあなたの課題でしょうか。それとも市場の課題でしょうか。
いやいや鉄人さん、それ単なる投資は自己責任でって話ですから。
アドラ先生もまさか100年後に自分の名前が株価暴落のメンタルケアに使われるなんて天国でひっくり返ってますよ。
でね、もう何でもありの無法地帯だなとお腹いっぱいになっていたんですが、実は過去にその斜め上を行く極めつけの強者を目撃したことがあるんです。
それがそのなんとも言いにくいんですが、アドラ心理学の勇気づけを取り入れたいかがわしい大人のサービスです。
いや、大人のサービスで勇気づけって一体何をどのように勇気づけてもらえるんでしょうか。
いやすみません失礼しました。
でもですねこれ発見した時面白すぎて、これは絶対にラジオのネタにするしかないと思って後日ウキウキで見に行ったんですよ。
そしたら見事にアカウントがバンされて消滅していました。
今思うと最初に見つけた時にちゃんとスクショをとっておくべきだったと猛烈に後悔しております。
そんな感じで本当になんでもあり、日銀の河瀬介入からエヌビリアの株価、そして大人のサービスまで全てを包み込むアドラ心理学。
やはや懐が深すぎます。
ここまではまだツッコミを入れて笑えるんですが、一番見ていて苦しいのが見ず知らずの人にアドバイスという名のクソリプ送る系アドラです。
例えば日々の子育てとか家族のことで本当に疲弊してギリギリの精神状態でSNSに弱音を吐き出しているお母さんがいたとします。
そこに匿名のアカウントが上から目線でシュパッと現れて、
他人の人生を生きてたらやみますよ。あなたと家族の課題は別。課題の分離をしてみては、アドラ心理学を武器にすると人生楽になりますよ。と切りつける。
もうね、これはさすがにアドラさん草場のおかげで泣いていると思います。
そしてこういう光景を見るたびに、ああまたアドラ心理学のイメージが悪くなると一人で勝手に胃を痛めています。
21:02
実際SNSを見ているとアドラ心理学って冷たいから嫌いとかアドラ好きっていう人なんか苦手みたいな投稿も結構見かけるんですよね。
こんな風に世間に広まっているアドラ心理学って面倒な他者を切り捨てたいとか、自分らしさという仮面をかぶった単なるわがままを通したい欲求を正当化してくれるツールとしていいように使われているところがあります。
でもこの番組を聞いてくださっている皆さんにははっきりとお伝えしたい。
アドラ心理学は他者を切り捨てる個人主義ではありません。
おぼがたはるこさんのスタップ細胞はありますみたいなトーンを意識してみたんですが、うまくできていますかね。
あの時は結局スタップ細胞があるのかないのかよくわからなかったんですけど、私はここではっきりと断言しておきます。
それどころか世間でのアドラの代名詞になっちゃっている課題の分離、これすらも実はアドラ本人の思想や理論には一切出てきません。
課題の分離もありません。
要するにアドラの哲学は他者と自分を切り離して自由に生きろという世間のイメージとはむしろ真逆なんです。
じゃあアドラは本当は何を一番大切にしていたのか。
ここで出てくるのが先ほども少し触れたアドラ心理学の最重要キーワード共同体感覚です。
共同体感覚はアドラ心理学全体を貫く価値観でして、それが一番大事ってダイジマンブラザーズバンドが乗り込んでくるレベルで、ここがぶれたらアドラでもなんでもなくなる奴と言っても過言ではない奴なんです。
次回からの哲学編ではこの共同体感覚って結局何なのということを一つずつ丁寧に積み上げて解き明かしていくんですが、
今日はその障りとしてアドラ本人が使った言葉そのものを紹介して終わろうと思います。
オーストリア生まれのアドラの母語はドイツ語なんですが、彼は共同体感覚を意味する言葉としてドイツ語でミットメンシュリヒカイトという言葉を使いました。
ちょっと舌を噛みそうなハリーポッターの呪文みたいな言葉ですけど、これ語源を分解してみると、
ミットは共に、メンシェンは複数の人間、リヒはなんとか的な、カイトはなんとかであること。
これらを繋げて直訳すると、人と人とが共にあることという感じですね。
さらにアドラはこの言葉をアメリカなどの英語圏で伝える際にソーシャルインタレストという訳語を好んで使ったんです。
24:07
直訳すると社会的な関心、つまり他者への関心となる。
つまりアドラの大事にした共同体感覚とは、人と人とが共にいて、その共にいる他者へと関心を持つ感覚だということ。
たったこれだけでも他人をガンガン切り捨てて無関心でいようとか、他者に嫌われてもいいから自分らしく生きようという世間のイメージとは全然違うことがお分かりいただけると思います。
今日このラジオをここまで聞いてくださった皆さんは、え?じゃあ課題の分離って結局なんなの?ダメなの?とモヤモヤが残るかもしれません。
もちろんそれについても次回以降バッチリと回収していくつもりなんですが、ただ今日のところはまず一つだけ。
アドラ心理学において課題の分離が一番最初に来るわけじゃないんだよ。一番大事なのは共同体感覚なんだよという優先順位、これだけでもいいのでぜひ持ち帰っていってください。
ということで今回は科学から哲学への橋渡しとして、少し肩の力抜いた雑談会をお届けしました。
特に後半はかなり好き放題言いましたし異様なテンションだったので、厚ゆるなんか怒ってるって思われた方もいるかもしれません。
いや全然怒ってはないんですよ。ただアドラの名前を使って本人の真意とは真逆の他者を切り捨てる思想や分断を煽るような思想が広まってしまうのは残念ですし、明確に良くないことだとは思っています。
アドラ心理学ってもっと暖かいというか、むしろ厚苦しくて泥臭いくらいのものなんです。
人と人とが一緒に生きていくのってそれはめんどくさい。気を使うし不自由だし摩擦だって起きる。
でもだからって一人で生きていけるわけないんだから、じゃあどうやって一緒に生きていくという切実だけど前向きな問いが本来そこにはあるんです。
課題の分離も他者と生きていくことがまず大前提にあって、その先に出てくる論点だと思っていただけたら大きくは間違いないんじゃないかと思います。
この番組を通してアドラーが伝えたかったのはそういうことだったのかと、あなたにも掴み取っていただきたい。
そんな願いを込めつつ次回からは本格的に哲学編へと突入していきます。
アドラーはそもそも人間をいかなる存在として捉えていたのか、その人間感を起点にして彼がなぜ劣等感を語り、なぜ共同体感覚へとたどり着いたのか。
27:09
次回から一つずつ丁寧に紐解いていきますので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。
この番組では皆さんからのお便りを募集しております。
概要欄のリンクからご感想やご質問などどしどし送ってください。
皆さんの幼少期の一度きりの記憶早期回想も募集しております。
そしてこの番組が少しでも面白いと思ったら番組の高評価やフォローなどで応援していただけると励みになります。
アドラー心理学ラジオ第20回お聞きいただきありがとうございました。
お相手は熱くてゆるいでした。
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