014 平和って、争わないことだけ?〜馬と紐解く「消極的平和」と「積極的平和」
2026-09-20 31:23

014 平和って、争わないことだけ?〜馬と紐解く「消極的平和」と「積極的平和」

戦争のない状態と、心の中まで満たされた状態は、同じ「平和」でもまるで違う。今回は前回からの続きで、平和学が語る「消極的平和」と「積極的平和」という二つの概念を軸に、馬と暮らす現場で起きていることを見つめ直していく。

放牧場に草が足りないとき、馬たちの間には争いが生まれる。逆に草が青々としているときは、争いそのものが起きない。そんな観察から、消極的平和のかたちが浮かび上がってくる。一方で、重たい水桶をどう運ぶかという日常のひとコマからは、身体的な違いを前提にした関わり合いが自然と生まれ、それがもう一つの平和、積極的平和につながっていく。羽仁もと子の「靴を揃えて脱ぐ自由」という短いエッセイを手がかりに、ルールで縛るのではなく、その場のメンバーで話し合いながらつくる暮らしの話も出てくる。

平等でも公平でもない、「調和」というもう一つの物差し。頭で考える正しさと、体で感じる心地よさの間にあるもの。馬という生きものと日々向き合う二人の対話から、そのヒントを探っていく回。ぜひ最後までお聴きください。

馬と平和、消極的平和と積極的平和とは
消極的平和と積極的平和の違い
放牧場での争いに見る馬の本能
水桶運びに生まれるインクルーシブな関わり
障害がある子と乗馬、体の違いを前提にした関わり
靴を揃える自由、共同生活とルールのかたち
平等・公平・調和、野球観戦のたとえ話

▼配信

毎月 第1・第3日曜 朝

▼パーソナリティ

大堀 貴士(認定NPO法人ハーモニィカレッジ)
https://www.harmony-college.or.jp/

黍原 豊(一般社団法人三陸駒舎)
https://kamakoma.org/

▼コメントや感想、質問はこちらから

https://forms.gle/DXXT9babMNjbaaZq5

■ 関連エピソード

013 馬と暮らすと、なぜ争いは消えるのか?〜力づくを手放す関係性の教育〜

今回が続きとする回。終戦記念日収録、消極的・積極的平和の視点から馬の生態と教育を掘り下げる。

https://listen.style/p/kotauma/gfiazrbo

008 なぜ私たちは馬の前に立つと「肩書き」を忘れてしまうのか?

障害というラベリングが外れる現場や、馬が真ん中にあることで生まれる自然な調和について語る回。

https://listen.style/p/kotauma/nx5xebn4

007 なぜ私たちは「馬」と向き合うのか? ——思い通りにならない他者との調和がもたらす身体感覚

指示や命令ではなくすり合わせる関係性、中動態的な調和のあり方を掘り下げる回。

https://listen.style/p/kotauma/tzjsoywx

#不登校 #馬 #ハーモニィカレッジ #三陸駒舎 #ホースセラピー #オルタナティブスクール #フリースクール #非認知能力 #森のようちえん #放課後等デイサービス #児童発達支援 #アニマルセラピー #療育 #野外教育 #自然体験 #自己有用感 #発達支援 #積極的平和 #消極的平和 #調和

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

平和学における「消極的平和」と「積極的平和」の違いを、馬との暮らしから考える。草が不足すると馬同士の争いが起きる一方、十分に草があると争いが起きないという放牧場の観察から、争いを避けるだけではない平和の条件を語る。重い水桶を運ぶ場面では、子どもたちが量を減らしたり助けを求めたりしながら、身体の違いを前提に協力するインクルーシブな関係が生まれる。障害のある子どもの乗馬でも、方法を最初から固定せず、どうすれば乗れるかを試行錯誤することが重視される。共同生活では、羽仁もと子の「靴を揃えて脱ぐ自由」を手がかりに、一律の規則ではなく、皆の自由を守るために話し合ってルールをつくり、変えていくあり方が紹介される。最後に、平等や公平を超え、身体感覚や関係性、一体感を含む「調和」を目指す平和の姿を、野球観戦のたとえで考える。

消極的平和と積極的平和
答えは馬が知っている。馬という鏡が見つめる本当の自分。 この番組はハーモニーカレッジの大堀と三陸駒舎の黍原が鳥取と岩手の牧場で馬と子供たちに向き合いながら現場での出来事やこれからの生きる力について語り合う対応番組です。
はい、ということで第14回と13回目からちょっと続きで、馬と平和について話をしていました。 ちょっとなぜそこの話になってるかっていうのは前の回を聞いていただいて、最初にちょっとこの馬と平和の後半のところで、
平和学っていうのがあって、そこで何か言われている概念というかで、積極的平和っていうのと消極的平和っていうのがあるよねっていうのがあって、いわゆる消極的平和から言った方が多分わかりやすいかな。
いわゆるこう直接的な暴力がない状態、いわゆる戦争がないとか紛争とかそういったこう目に見えるような暴力がないような状態。
もうちょっと短いところ、世界的な大きな国同士でないと殺人とかテロとか暴力とかがないような状態が消極的平和で、もう一方こう積極的平和っていうのはもうちょっと広い概念というか、構造的とか文化的な暴力もないよっていうことで、
例えば貧困とか飢餓とか差別とか抑圧とか、もうちょっと簡単な言い方する、いじめがないとかですね。そういったこう、あと格差みたいなもそうですね、制度的に格差が生まれているとか。
日本だとジェンダーギャップ質が高くて、女性の色々抑圧されてるんじゃないかみたいなことは言われたりしますけど、いわゆるちょっと目に見えにくい暴力も存在しないような状態が積極的な平和。
より平和の状態を目指すみたいなところがあるんじゃないかなっていうのがあって、もちろん積極的平和って言ったらちょっと戦争とかがかなり大きいけども、積極的平和っていうもののところだと身近な、さっき言った差別とか抑圧とか格差みたいなものがないっていうのは、結構もうちょっと生活寄りのところでも捉えやすいんじゃないかなというふうに思ってて。
そういった結構馬と一緒にいろんな活動できることっていうか、あるよなっていうふうにちょっと思ったりしてました。
っていうのは、さっき言った個人の中の、さっき言った、前回ですね、自分の中の平和っていう中に、例えばこう東日本大震災があって、トラウマを抱えたりとかして、生きることに困難さがあったりとかするのは、
それはちょっと災害によって抑圧されている状態だったりとかするとは思うんですけど、人為的なものじゃなくて、自然災害なんで。
そういったところでのケアみたいなところに、トラウマケアみたいなものが馬でやれたりとかするし、馬を通して子ども同士が繋がるようなこともあるよねっていうのが前回で、前半でもちょっと話をしてましたけど。
結構そういったところで、積極的平和っていう概念から見ていくと、いろんなところで馬と一緒にやれることはあるよなっていうふうに思ったっていうのが最初のところでした。
で、もう少し三陸コマーシャのうちの取り組みの話をしていくと、最初にちょっと話したところで言うと、さっきのトラウマケアみたいなところは、個人の内面の平和みたいなものが一つあるし、
あとは普段の子どもたちの放課後の活動みたいなものは、コミュニティー、もうちょっと広い意味での個人じゃなくて、いろんな多数の人間とともに作っていくコミュニティーの平和みたいなものだったりするし、
もうちょっとこう、うちだといろんな障害を持っている、発達障害とかいろんな障害を持っている子たちも来てて、そういった部分ではそういう多様な人たちを包摂していくような、
なんかそういう、名前なんともつけがたいですけど、そういういろんな多様性をインクルーシブだったりとかインクルージョンとかって言ったりとかするかもしれませんけど、
そういった多様性をつなぐような、そんな平和のあり方みたいなものがあるんじゃないかなって思ったりしていたところでした。
なるほど。そのね、消極的平和と積極的平和っていう、両方とも平和やけど、消極的平和でいうと本当に戦わないとか争わないとかっていうことやけど、それだけが平和じゃなくて、
放牧場の草不足と馬の争い
実は戦ってないけど、心の中は全然平和じゃないというか、っていう状態はね、さらに進めたいから、だから積極的平和っていうことがあるんやと思うんだけど、
まずはその消極的平和っていう部分だけでも上手から学べるよね。基本的には争わないっていう、争うこと、争うんであればもう逃げるっていうことを本能的にする動物やし、
あとなんか逆に、物事が取り合う、例えば足りなくなる場合、例えばうちで言うと放牧場とかに草とかが十分にない場合、餌をプラスであげたりするんやけど、その時に餌を持っていくと、
要は馬たちの中で、今十分にその放牧場の中で草がない状態、足りてない状態やと、餌をまず一個、順番に置くんやけど、一個置くと争いが起きるんよ、馬同士。近くにいる馬が食べ始めるんやけど、遠くから来た馬が蹴り合ったりとかして、
最初に食べてた馬が逃げていくっていう、それも例えば食べ物もお金も足りてない不足感があると、そこに争ってでも取りに行くみたいなことが、実は馬社会でもあるなとは思って、でも放牧場に草が十分あって、あおあおとしてる、こういうシーズンやと、そもそも馬たち喧嘩することないっていうか、
消極的平和で言うと、基本的に本能としては馬は争わないんやろうな、争う危険って思うことからは、本能的に逃げるっていうことをまず選ぶけど、生存するために足りてなかったら、馬たちもまあまあ激しく蹴り合ったりとかするから、不足するとこんな感じになるんやなっていうのは、
重い水桶から生まれる協力
この馬が今は強いなとか、そういうのは見えるから、消極的平和っていうところもすごい馬から実際学べるし、積極的平和の部分は、戦わないとか衝突しないところから次、共に調和して生きるみたいな、積極的平和も馬感じさせてくれるから、
さっき前回の放送で話した、共にやる、共同することとか、共に作っていく、競争することとかが自然とあるから、なんか調和が生まれるというか、さっきインクルーシブとかっていうワードが出たけど、牧場の中でインクルーシブの在り方がなんかちょっと違う、
違うっていうか、例えばどんな身体的な、それぞれの特徴があったとしても、誰でも使いやすくするとか、バリアフリーみたいなこととかっていうふうに作っていくこともできるけど、うちの牧場の中では不便なことが結構多くて、
あえてそこ重要、大切やなって思って、例えば水桶、馬の水桶を自動給水じゃないタイプなんやけど、自動給水は絶対したくないなっていうので、うちは自分らでバケツに水を入れて、この時間どれぐらい減ったかをチェックしたり、水桶を毎日洗って、また新しい水を入れて馬にあげるっていうことを人の手でやるっていうことをやりたいなと思ってるんやけど、
その水桶がまた重いんよ。夏場とかたっぷり馬は水飲むから、途中でなくならないように結構デカめのバケツ、しかもこれかなりいい値段してたけど、これご寄付してもらったんやけど、それを使うようになると、ほんまに重くて、で、その時に結構いろんな、その1個馬に水をあげるっていうことだけでもいっぱいいろんなことが起きるんやけど、
たとえば満タンに入れてから、やばい運べないっていうことに子供らが気づいて、そしてそこから考えるんよ。ある子はもう1回水を水桶に戻、あの水タンクで溜めてるから、そこに戻せば捨てることなくいけるから、もう1回そこに戻すっていう子もいれば、これ1人で運ばれへんと思ったら手伝ってーとかいう子もいるし、
何々運んでとかって言ってお願いする子もいるし、なんかそうやって、結果馬のところに水を持っていくために、誰かと協力して持っていったりとか、誰かの力に委ねるとか、あと実際自分で行くんやったら量を減らして何回かに分けていくとか、結果馬のところに水があればいい状態やから、そこのプロセス設計が面白いよね。
いろんなことが起きて。で、これがこういうことが起きて、結果どんな子であっても、誰であっても馬のところに水を供給するってセットすることができる状態やから、ある意味インクルーシブな状態ができてるんかなーって、これがなんか重さ重くても誰でもいけるようにキャリアがあって、そこまでいったら自動でこう設置できるとかってすると、
確かにバリアフリーな感じにはなんねんけど、あえてなんか人の手を介したインクルーシブを作るみたいに、不便なことをそういう意味付けにして何とかやってるっていう感じやけど、でもそれが結局共に共同して、結果的に終わった後にありがとうとか、
何々くんすごい力すげーなーとかって言われるとか、なんかそうやってコミュニケーションが生まれて、結果なんか仲が良くなったり雰囲気が良くなるみたいな、そういうのも結局積極的平和に繋がってるんかなーって思ったりするんで、馬がいる場で消極的平和と積極的平和あるなーってさっきの話聞きながら、
ちょっと何とか結びつけようと思うと、そんな事例が出てきた、そんな感じです。
馬との暮らしで境界線をすり合わせる
でもなんかね、今どうしたらそれが達成できるかって目的はあるけども、やり方は何か委ねられてるというか開かれてて、それによってこういろんな人が関われる可能性があるっていうのはあるなーって、例えばなんかうちだと体に小障害がある子が、ハンディキャップがある子が来たときに、どうしたら乗れるかっていうのを考えるっていうか、
なんかね、例えば体に小障害があるからできないとかじゃなくて、あってもどうやったらできるかっていうことね、馬から、馬の目線から乗れればいい、例えば乗馬するときに乗れればいい話なので、そこだけ抑えておいて、あとやり方は試行錯誤するっていう風にしていけば、
本当にいろんな人といろんな関わりができたりとかするし、そこに共同、今誰か手伝っていいみたいなことが起こるかもしれないし、そういうことが自然ともたらされるというか、生じるんだろうなっていうふうにちょっと聞いてて思いましたね。
あとは、ちょっと視点変わるかもしれないんですけど、積極的平和のほうで、例えば馬と共に暮らすってなったら、こっちの仲良くやってほしくないこととかもちゃんと伝えなくちゃいけないじゃないですか、ただただ馬と一緒に生きてるっていうか、別々生きてるっていうか、馬は馬で生きてて、ずっと放牧しててみたいな、こっちの人間は人間で勝手に里のほうで生きてたら、別に何も接点がないんだけど、
例えば一緒に何か生きるっていうか暮らすってなると、なんかこうちょっとやってほしくない、例えば一緒に歩いてて、馬のリードをつけて、馬だけ勝手に行っちゃうとか、そしたら一緒に歩けないじゃないですか、なんかこっちのペースに合わせてちょっと歩いてほしいとかっていうふうにちゃんと要求を伝えて、で、それをやってもらったりとかっていうことも必要だったりとかすると思うんですよ。
で、その時にちゃんとこう、人間がもうここまでできるけど、ここから先はちょっとできないよとか、やめてほしいよっていうようなやり取りを、馬もあるかもしれない、その要求がね、あるかもあるし、こっちの要求もちゃんと伝えつつ、そこをなんかすり合わせていくっていう、そういうなんかやり取りというか、行き来みたいなものがすごく大事だし、ちゃんとこう枠組みを示してあげるっていうか、曖昧だとわかんないので、ここまでOKですけど、これ以上はちょっと無理ですとか、そういったところをこう示しながら、
お互いの折り合いをつけていくっていうようなことは、馬とやってるとそういうことが多々あるというか、日常のちょっとした関わりからあるなあっていうのがあって、そういうのがちゃんと伝えられないと人間社会でも、自分だけ我慢して身を削っていって、自分の中の心の平和がない箇所にされながら生きていくっていうふうになると、またそれが別の形で暴力性になったりとかすると思うし、
そういったところを馬とのやり取りを通じて、ちゃんと伝えるとか聞くとかっていうことのなんかやり取りがはっきりしてくるんじゃないかなっていうふうにちょっと思いました。
「靴を揃えて脱ぐ自由」と共同生活
馬を作っていく時に、外部で決められたルールでやっていくというより、そのメンバー、その季節、その状況によって、
ルールじゃなくて、話し合って今日はこうしようとか、さっきの境界線嫌な部分とか、ルールやからやらないとかじゃなくて、僕らのところでよくあるテーマであげるのは自由っていうことを一つテーマにとって、
そのルールっていうことをみんなで深めるんやけど、そのルールは例えば他人に迷惑をかけないとか、靴は揃えて脱ぐとか、扉を開けたら閉めるとかってルールとしてあるからやるっていうこともあるんやけど、
これが子供のやりたいことを尊重してあげたいって思う場では、自由っていうことを深めないと、一人の自由が誰かの自由を奪ってしまうということが起きるから、やりたいことをやってほしいんやけど、やりたい放題とは違うっていうか、
共同生活をしてるから、要は一緒に暮らしてるから、あなたがやりたいことだけをしてたら、他の人が苦しい思いをしたりする。で、この場は、暮らしの場は、みんなにとっての自由の場にしたいんやっていう話を例えばする。
その時によく読み物というか、一つのテーマとして取り上げさせてもらうのが、自由学園っていう学園が東京にあるんやけど、そこの自由学園を立ち上げられたハニモト子さんっていう方。キリスト教のことをベースに教育をされている歴史の長い学校やねんけど、
そこであの生活即教育って言って、暮らしの中に必要な育ちの教育は詰まってるんやみたいなことですごい暮らしを大切にされてて、そのハニモト子さんが書いてる靴を揃えて脱ぐ自由っていう短いエッセイがあるんやけど、それを結構子供たちと読んで読むことが多いです。
それは全部正しく言えるわけじゃないねんけど、例えば一人で暮らしてて、一人暮らしで帰ってきて靴を適当に脱いでも、出る時にまたそれを自分で履けばいいだけやねんけど、これを共同生活で、例えば30人とかで、共同生活を2泊3日とか4泊5日します。
で、玄関もそんな全員が一気に入れないようなところで、みんなが帰ってきて靴を好き放題脱いだとしたら、次に外に出る時に自分の靴が外に飛び出してたりとか、誰かの靴に踏まれてたりとか、片方なくなってたりとかっていうことが起きるから、なんか共同生活の中ではみんなが自由にやりたい放題脱いだりとかすると、
他の人の不自由になるっていうようなことを、その靴を揃えて脱ぐ自由。靴を揃えて脱ぐって不自由やんって思ったり、最初は子供たちするんやけど、そのエッセイを読んだ後に、自由を子供たちと対話すると、めっちゃいいこといっぱい、で、いいことっていうか、本当に深まっていくんよね。
で、このサマーキャンプはみんなにとっての自由を目指したいんやっていう話をすると、すごいその後が整うんよね。うちで言ったボランティアのメンバーが、子供たちがやりたい放題やったのを片付けるとか、
ボランティアもまだ育ってない時とかは、もう奴隷のように、召使いのように子供たちの言いなりになってるみたいな時はあんねんけど、でも本当はみんなのお手伝いさんでもなければ、知ったさんでもないから、ボランティアの学生ボランティアたちもみんなと楽しく過ごしたいし、みんなのやりたいを応援したいのがボランティアのメンバーで、別にみんなの食べたり片付け、ほったらかした食協とか、
片付ける人でもないし、適当に脱ぎ散らされた靴を並べる人でもないし、一緒に共同生活をする仲間やって、子供にとっても学生ボランティアにとってもみんなでが自由になる時間を過ごそうっていうことを話すと、そこでいろんなルールが、ルールっていうか、じゃあ俺こうするとか、じゃあこうしてみたらどうとかって提案が出てくるんよね。
それが一律に、例えば拘束とか、ルールとして決められたものじゃなくて、その場に状況で生まれてくるルールがみんなが納得やし、そうすると自然とみんな優しくなるっていうか、優しくしましょうとか思いやりを持ちましょうとかしなくても、
ちょっと子供たちにそういうふうに、一人の自由が他の人の自由を奪ってないかとか、できることならみんなが自由な時間を過ごしたいっていう思いさえ伝われば、結構子供たち十分考えれて、自分たちでいろんなルールを決めて、また変更していけるっていう、なんかそれがすごい俺はいいなって思ったとこなんで、
こういう場作りをしたりするとこ、あと馬と暮らす暮らしの中では、そういったことでこうやって欲しくないこととか、っていうことになんか自然と線引きができるみたいなことはよく起きるかなぁ、ちょっとあのさっきの桐原くんのあれと少し離れちゃったかもしれないけど、はい、そんなふうに思います。
身体感覚を通じて調和を目指す
でもなんか今の話からっていうか、予感でくるのは、自分の僕が話したところにもつながるんですけど、体に障害がある子だったらどうやったら上に上がれるんだろうとかって、ルールとかこういうふうに上がりますっていうふうに、もうやり方まで決め、最初から決められたら、ちょっと体の特徴が地迫をきたらできないわけじゃないですか。
みんなその人一人一人、これは不快っていうか、あることがあってもすごく心地よく感じる人もいれば、ちょっと不快に感じる人もいたりとか、あと身体的なこう体の違いによって、ある人は簡単にできるけど、他の子にとってはすごく難しかったりとかすることもあるし、多分その人によってその同じことでも受け取り方は全然違うっていうことが起こる可能性はすごくあって、
全然一緒の場合もあるかもしれないけど、そう考えると、ルールで最初から縛るっていうのは、なんかすごくみんなにとっていいことではない可能性がとてもあるんじゃないかなっていうふうに思って、なのでその人のこう体とか感覚とかがそもそも違うよねっていう前提に立って関わるっていうかやり取りするっていうのは大事かなというふうに思うんですよ。
馬も、馬なんかは結構感覚、もちろんこういうふうにするといいですよみたいなやり方もいくつかはあるけども、それは基本的な型であって、馬によっても全然反応が違ったり、ちょっと鈍感だったりとか、すごく敏感だったりとかするから、基本はあるけども、基本の型はあるけども、それを馬と自分のやりやすさもあるからに合わせてその型をうまく自分のものにしたりとか、
馬に合わせてその型の使い方を変えたりとかしないとうまくいかないよなっていうのがあるなっていうふうに思ってね。しかもそれはなんか言葉じゃなくて、体の感覚っていうか、体を使って馬とやり取りするので、いわゆる身体的な部分から生まれてくるし、
今のやり方はすごくしっくりきたぞとか、感覚的なところも入ってくるので、そういったことを身体的感覚的なものを養う上で、そのさっき言った靴を揃える揃えないとかっていうこともルールとかじゃなくて、感覚だったり自分の体の感じとか、そういったところから捉えて作っていくっていうことがなんかあるんじゃないかなっていうふうに思いました。
というか、そこからみんなで話してこうしようとか、とりあえずこの子はちょっとそういうの難しいから、じゃあ手伝ってあげようとか。例えば靴揃えない子もいたりとかするじゃないですか、例えば全然。そういうのが分からない。じゃあ代わりにやってあげるよとかってすればよかったりするわけだし、そういったみんなが気持ちよくいられるっていうのが、それは馬のやり取りの中でもすごく学べるし、
ちょっと前回の最初のなぜ馬と平和かっていうとき話したときに、調和っていうのがあって、その調和の状態って多分これが調和している状態ですよって言えなくって、調和した状態を目指していくっていうようなところで、さっき言ったルールじゃなくて、こういうことを大事にしようよとか、そういうのを目指しながらみんなで作っていくっていうところに積極的平和。
だから常にそれを追い求めていくっていうか、メンバーが一人でも変わればまた全然違う形になるかもしれないし、今日と昨日じゃ変わるかもしれないし、感覚が。そういうこともあるので、それも馬とやってても、今日はこのやり方でうまくいったぞっていうのがあっても、翌日になったら全然うまくいかんやんとかっていうのもあったり、馬の状態も変わると全然変わってくるので。
そういった部分で何て言うんだろうな、そういう調和を取っていくというか、その調和を目指す上で、体とか感覚っていうところをベースにしながらやっていくっていうのは、非常に平和のあり方の道を見つけていく一つの鍵になるんじゃないかなっていうふうに思った次第です。
平等・公平を超える調和
本当にそうだと思う。頭で考えて、例えば平等と公平ってあって、平等と公平を言い表せる、野球観戦の壁から野球を観戦するイラストとか多分皆さん見たことあると思うんやけど、
平等だと背の高い人低い人関係なく見れる箱を1個ずつ配っているみたいな、もう全員が1個やから平等ですよねっていうのと、背が低い人には2つ、背が高い人には1つとか、なんかそんな風に全員が見れるようにする公平っていう、その比喩を表しているイラスト見たことあるんやけど、
なんかそれは公平がすごくいいって思うけど、さっき木原くんが言ってた調和はさらにもう一つ向こう側っていうか、頭で考える正しさと体で感じる心地良さの違いで言うと調和やなって思って、
例えば野球観戦する時にみんなが見れるように公平で台をっていうことを調和で考えたら、おそらく背が高い人が1つ1個台に乗れば見れて、でちっちゃい子をおんぶしてあげるとか、なんかそんな風に自分も見れたけど、ちっちゃい子も見れて、しかもそこに関係性ができて感謝も生まれて一体感ができて、
ただ野球が見れたっていうことじゃなくて、心身の一致がその場に起きて、野球を見ているけど、スポーツカフェとかスポーツバーみたいな感じで、そこに居る場の一体感が生まれるみたいなのが調和なんかなって思うから、あくまでなんか平等か公平かで言ったら公平がいいんやけど、でもそれをさらに超越した先には調和っていうのがあるんかなって思うから、
なんかそこは条件がなんか全員が配られる台が同じっていう平等と全員が見れるっていう条件が整う公平と、なんか調和の場合はまたちょっと違うその生物で、なんかそこに深いつながりとか安心感とか一体感が生まれるから、やっぱり目指したいなって思うのはそっちの方かなって思うので、
そういうことが起こりやすいよね。馬がいる現場、だからこそすごい助かるというか、人が意図的に作るよりも遥かに自然で、そういう場面機会が多いからね。今ちょっと話聞きながら勝手にそういう平等と公平と調和って、横一列並ぶ言葉かどうかわからへんけど、そんな風にちょっと思いました。
森の幼稚園フォーラムに向けて
ありがとうございます。ということで結構いい感じで話をしてきました。時間的に毎回ですけど、まだまだ話せるかもしれませんが、続きは前半で話したように森の幼稚園の全国交流フォーラムで馬と平和っていうテーマで話を、特別プログラムを組もうと思っていて、そこで対話の時間もいっぱい用意しているので、ぜひそこで続きはというふうに思っておりますので、よかったらご参加ください。
ということで、最後ちょっと感想をそれぞれ言って終わりにしましょう。どうぞ。
ありがとうございます。いつもね、楽屋トークで今日はこういうテーマで、っていうテーマしか決めずにいつもフリートークで行くんやけど、今回も改めてテーマを出してもらったことによって深まったり、自分でも自分自身で深まったし、考えとかワードがつながったりもしたんで、本当に自分が一番学ばせてもらってるなっていうのが今日の率直な感想でした。
10月の森の幼稚園フォーラムで直接会えるのも楽しみになったし、馬を通してそういった暮らしを見てる全然違う地域でやってるメンバーが何人か集まるんで、そのメンバーとリアルで対話しながら会場の皆さんとやりとりができるっていうのも楽しみやなって思ったんで、
もしこれのお聞きの皆さん、もしよかったらまたそんな場に来てもらったり、そこにね、森の幼稚園の関係でではないか、いけないとかっていうようなことがあれば、なんかまた別機会を作れたらいいなというふうに思いました。はい、いつもちょっと一歩深いところまでのエスコートありがとうございます。
では、木部原くんいかがでしたか。はい、ありがとうございます。いや、そんなエスコートを全然してるつもりなくて、思ったことをただただ喋ってるだけなんですけど、まあでもなんか話してる中でいろいろ、僕もその前半で最初に、あの今回特別プログラムやる上で、馬と平和っていうテーマでちょっとだけ向上文っていうのはなぜやるのかっていうことを書いたよっていうところからスタートして紹介しましたけど、なんかやっぱこう自分だけのね、中で言葉になってないこともあって、大堀さんといろいろ話し合って、
話を聞きながら、話しながら出てきたこともたくさんあったので、あったんですけど、まだまだなんかね、えっと、まだ言葉になってないものたくさんあるなって感じはあるので。
そう、その10月の森の知恵全国交流フォーラムin長野で、ここはちょっと実は馬も実際現場にもいて、いろいろ体験を共にしながら、また会話もしながら、馬と平和について深めていけたらいいなというふうに思っていて、ちょっとなんかそのきっかけになって今、はい、楽しみが増してるなっていう感じがありましたので。
皆さん聞いて、馬と平和でこんなこと思いついたとかいろいろあれば、逆にお便りとかいただけると嬉しいなというふうに感想などいただけると嬉しいなというふうに思っておりますし、ぜひ時間許す方は10月長野で一緒に馬と平和について探究しましょうというような感じです。
ちょっともしかしたらね、他のその10月のフォーラムで馬連れてくるヨスさんっていう馬屋七福っていうのをやっている、ヤゴでやっている横山さんもいるので、ちょっともう別番組かもしれませんけど、事前にこういう対話もできたら面白いかなというふうに思ってますので、もしそういう番組があったらまた概要欄につけておくので、聞いただければと思います。
ということで、終わりにしたいと思います。今回も聞いただきありがとうございました。本番組は毎月第1、第3日曜日の朝7時に更新されます。チャンネル登録や番組のフォローをお願いします。概要欄にお便りフォームのリンクがありますので、コメントや質問などを寄せてください。それでは良い1日をお過ごしください。ありがとうございます。
31:23

コメント

スクロール