答えは馬が知っている。馬という鏡が見つめる本当の自分。 この番組はハーモニーカレッジの大堀と三陸駒舎の黍原が鳥取と岩手の牧場で馬と子供たちに向き合いながら現場での出来事やこれからの生きる力について語り合う対応番組です。
はい、ということで第14回と13回目からちょっと続きで、馬と平和について話をしていました。 ちょっとなぜそこの話になってるかっていうのは前の回を聞いていただいて、最初にちょっとこの馬と平和の後半のところで、
平和学っていうのがあって、そこで何か言われている概念というかで、積極的平和っていうのと消極的平和っていうのがあるよねっていうのがあって、いわゆる消極的平和から言った方が多分わかりやすいかな。
いわゆるこう直接的な暴力がない状態、いわゆる戦争がないとか紛争とかそういったこう目に見えるような暴力がないような状態。
もうちょっと短いところ、世界的な大きな国同士でないと殺人とかテロとか暴力とかがないような状態が消極的平和で、もう一方こう積極的平和っていうのはもうちょっと広い概念というか、構造的とか文化的な暴力もないよっていうことで、
例えば貧困とか飢餓とか差別とか抑圧とか、もうちょっと簡単な言い方する、いじめがないとかですね。そういったこう、あと格差みたいなもそうですね、制度的に格差が生まれているとか。
日本だとジェンダーギャップ質が高くて、女性の色々抑圧されてるんじゃないかみたいなことは言われたりしますけど、いわゆるちょっと目に見えにくい暴力も存在しないような状態が積極的な平和。
より平和の状態を目指すみたいなところがあるんじゃないかなっていうのがあって、もちろん積極的平和って言ったらちょっと戦争とかがかなり大きいけども、積極的平和っていうもののところだと身近な、さっき言った差別とか抑圧とか格差みたいなものがないっていうのは、結構もうちょっと生活寄りのところでも捉えやすいんじゃないかなというふうに思ってて。
そういった結構馬と一緒にいろんな活動できることっていうか、あるよなっていうふうにちょっと思ったりしてました。
っていうのは、さっき言った個人の中の、さっき言った、前回ですね、自分の中の平和っていう中に、例えばこう東日本大震災があって、トラウマを抱えたりとかして、生きることに困難さがあったりとかするのは、
それはちょっと災害によって抑圧されている状態だったりとかするとは思うんですけど、人為的なものじゃなくて、自然災害なんで。
そういったところでのケアみたいなところに、トラウマケアみたいなものが馬でやれたりとかするし、馬を通して子ども同士が繋がるようなこともあるよねっていうのが前回で、前半でもちょっと話をしてましたけど。
結構そういったところで、積極的平和っていう概念から見ていくと、いろんなところで馬と一緒にやれることはあるよなっていうふうに思ったっていうのが最初のところでした。
で、もう少し三陸コマーシャのうちの取り組みの話をしていくと、最初にちょっと話したところで言うと、さっきのトラウマケアみたいなところは、個人の内面の平和みたいなものが一つあるし、
あとは普段の子どもたちの放課後の活動みたいなものは、コミュニティー、もうちょっと広い意味での個人じゃなくて、いろんな多数の人間とともに作っていくコミュニティーの平和みたいなものだったりするし、
もうちょっとこう、うちだといろんな障害を持っている、発達障害とかいろんな障害を持っている子たちも来てて、そういった部分ではそういう多様な人たちを包摂していくような、
なんかそういう、名前なんともつけがたいですけど、そういういろんな多様性をインクルーシブだったりとかインクルージョンとかって言ったりとかするかもしれませんけど、
そういった多様性をつなぐような、そんな平和のあり方みたいなものがあるんじゃないかなって思ったりしていたところでした。
なるほど。そのね、消極的平和と積極的平和っていう、両方とも平和やけど、消極的平和でいうと本当に戦わないとか争わないとかっていうことやけど、それだけが平和じゃなくて、
馬を作っていく時に、外部で決められたルールでやっていくというより、そのメンバー、その季節、その状況によって、
ルールじゃなくて、話し合って今日はこうしようとか、さっきの境界線嫌な部分とか、ルールやからやらないとかじゃなくて、僕らのところでよくあるテーマであげるのは自由っていうことを一つテーマにとって、
そのルールっていうことをみんなで深めるんやけど、そのルールは例えば他人に迷惑をかけないとか、靴は揃えて脱ぐとか、扉を開けたら閉めるとかってルールとしてあるからやるっていうこともあるんやけど、
これが子供のやりたいことを尊重してあげたいって思う場では、自由っていうことを深めないと、一人の自由が誰かの自由を奪ってしまうということが起きるから、やりたいことをやってほしいんやけど、やりたい放題とは違うっていうか、
共同生活をしてるから、要は一緒に暮らしてるから、あなたがやりたいことだけをしてたら、他の人が苦しい思いをしたりする。で、この場は、暮らしの場は、みんなにとっての自由の場にしたいんやっていう話を例えばする。
その時によく読み物というか、一つのテーマとして取り上げさせてもらうのが、自由学園っていう学園が東京にあるんやけど、そこの自由学園を立ち上げられたハニモト子さんっていう方。キリスト教のことをベースに教育をされている歴史の長い学校やねんけど、
そこであの生活即教育って言って、暮らしの中に必要な育ちの教育は詰まってるんやみたいなことですごい暮らしを大切にされてて、そのハニモト子さんが書いてる靴を揃えて脱ぐ自由っていう短いエッセイがあるんやけど、それを結構子供たちと読んで読むことが多いです。
それは全部正しく言えるわけじゃないねんけど、例えば一人で暮らしてて、一人暮らしで帰ってきて靴を適当に脱いでも、出る時にまたそれを自分で履けばいいだけやねんけど、これを共同生活で、例えば30人とかで、共同生活を2泊3日とか4泊5日します。
で、玄関もそんな全員が一気に入れないようなところで、みんなが帰ってきて靴を好き放題脱いだとしたら、次に外に出る時に自分の靴が外に飛び出してたりとか、誰かの靴に踏まれてたりとか、片方なくなってたりとかっていうことが起きるから、なんか共同生活の中ではみんなが自由にやりたい放題脱いだりとかすると、
他の人の不自由になるっていうようなことを、その靴を揃えて脱ぐ自由。靴を揃えて脱ぐって不自由やんって思ったり、最初は子供たちするんやけど、そのエッセイを読んだ後に、自由を子供たちと対話すると、めっちゃいいこといっぱい、で、いいことっていうか、本当に深まっていくんよね。
で、このサマーキャンプはみんなにとっての自由を目指したいんやっていう話をすると、すごいその後が整うんよね。うちで言ったボランティアのメンバーが、子供たちがやりたい放題やったのを片付けるとか、
ボランティアもまだ育ってない時とかは、もう奴隷のように、召使いのように子供たちの言いなりになってるみたいな時はあんねんけど、でも本当はみんなのお手伝いさんでもなければ、知ったさんでもないから、ボランティアの学生ボランティアたちもみんなと楽しく過ごしたいし、みんなのやりたいを応援したいのがボランティアのメンバーで、別にみんなの食べたり片付け、ほったらかした食協とか、
片付ける人でもないし、適当に脱ぎ散らされた靴を並べる人でもないし、一緒に共同生活をする仲間やって、子供にとっても学生ボランティアにとってもみんなでが自由になる時間を過ごそうっていうことを話すと、そこでいろんなルールが、ルールっていうか、じゃあ俺こうするとか、じゃあこうしてみたらどうとかって提案が出てくるんよね。
それが一律に、例えば拘束とか、ルールとして決められたものじゃなくて、その場に状況で生まれてくるルールがみんなが納得やし、そうすると自然とみんな優しくなるっていうか、優しくしましょうとか思いやりを持ちましょうとかしなくても、
ちょっと子供たちにそういうふうに、一人の自由が他の人の自由を奪ってないかとか、できることならみんなが自由な時間を過ごしたいっていう思いさえ伝われば、結構子供たち十分考えれて、自分たちでいろんなルールを決めて、また変更していけるっていう、なんかそれがすごい俺はいいなって思ったとこなんで、
こういう場作りをしたりするとこ、あと馬と暮らす暮らしの中では、そういったことでこうやって欲しくないこととか、っていうことになんか自然と線引きができるみたいなことはよく起きるかなぁ、ちょっとあのさっきの桐原くんのあれと少し離れちゃったかもしれないけど、はい、そんなふうに思います。