008なぜ私たちは馬の前に立つと「肩書き」を忘れてしまうのか?:人間社会の外側にある、言葉のない世界への入り口
2026-06-21 42:26

008なぜ私たちは馬の前に立つと「肩書き」を忘れてしまうのか?:人間社会の外側にある、言葉のない世界への入り口

なぜ私たちは馬を必要とするのでしょうか。第7回に続き、大堀貴士と黍原豊が「なぜ馬がいいんだろう」という本質的な問いをさらに深掘りします。今回は、宮台真司氏の「社会」と「世界」の対比をヒントに、言葉や法、損得勘定に縛られた人間社会の外側へと私たちを連れ出す馬の存在意義を構造的に紐解きます。

対話は、東日本大震災の仮設住宅に馬を連れて行った原点から、障害というラベリングが自然と外れていくホースセラピーの現場、そして私立学校の子どもたちと障害のある子が馬を介してフラットに関わり合うキャンプでの具体的なエピソードへと展開します。大人が「子ども真ん中」になりすぎることで奪われてしまう子どもの余白や、馬が真ん中にあるからこそ生まれる「自然な調和」について語り合います。

リスナーの皆様にとっては、日々生きづらさを感じがちな人間社会の枠組みを一度リセットし、言葉を超えた「関係性の教育」や「自然の中の学び」の本質に立ち返るきっかけとなるはずです。私たちが本当に生きていきたい世界とは何か、馬という鏡を通してぜひ最後までお聴きください。

馬と人の関係から生まれる「場を変える力」
人と自然の間に立つ、馬という稀有な存在
子どもの成長に必要な余白と「馬が真ん中にある環境」
非言語コミュニケーションがもたらす本物のつながり
教育の本質を問い直す:人間社会と自然界を繋ぐ里山的な役割
ホースセラピーの現場で障害というラベリングが外れる瞬間
関係が人を育てる:正しさや損得ではない「調和」の現れ

 

▼配信

毎月 第1・第3日曜 朝

▼パーソナリティ

大堀 貴士(認定NPO法人ハーモニィカレッジ)
https://www.harmony-college.or.jp/

黍原 豊(一般社団法人三陸駒舎)
https://kamakoma.org/

▼コメントや感想、質問はこちらから

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#馬 #ホースセラピー #自然体験 #子ども #教育 #馬と人の関係 #関係性の教育 #馬との対話 #動物と人 #人と自然 #森のようちえん #野外教育 #自然教育 #体験教育 #非認知能力 #発達支援 #療育 #感覚統合 #身体感覚 #非言語コミュニケーション

社会の外、世界のまんなか〜馬がつなぐ関係〜

[Verse]
プレハブの影に響く足音
無機質な四角い部屋を飛び出して
言葉のルールも 損得の勘定も
届かない場所へ 君を連れ出す

[Chorus]
答えは馬が知っている
人間(ひと)と自然の 境界線に立ち
飾らない瞳で 見つめる本当の自分
僕らはここで 生きる意味を学ぶ

[Verse]
名刺の肩書きも ラベルの歪みも
大きな背中が すべてを溶かしていく
正しいか間違いか 誰が決めるのだろう
ただそこに吹く風と 呼吸を合わせる

[Chorus]
答えは馬が知っている
人間(ひと)と自然の 境界線に立ち
言葉なき理(ことわり)で つなぐ確かな関係
僕らはここで 生きる力を学ぶ

[Bridge]
犬のように懐かず 厳しい自然とも違う
ちょうどいい距離で 待っていてくれる
手綱を握りしめ 心が通いあう瞬間(とき)
僕らは「世界」の扉を開ける

[Outro]
子供まんなかじゃなくて 馬がまんなかにある牧場(ばしょ)
余白のなかに 生まれる調和
忖度のない日々へ 歩き出す
答えはいつでも 馬が知っている

感想

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サマリー

本エピソードでは、馬が人間社会と自然界の間に立つユニークな存在として、言葉や損得勘定を超えた関係性を築く力について探求しています。東日本大震災の仮設住宅での馬との触れ合いが、無機質な空間に変化をもたらし、人々の心を繋いだ経験から、馬が「場を変える力」を持つことが語られます。また、馬が中心にある環境が、子どもたちの成長に必要な「余白」を生み出し、大人が「子ども真ん中」になりすぎる弊害を指摘します。 さらに、ホースセラピーの現場では、馬との関わりを通じて障害というラベリングが自然と外れる様子が描かれます。宮台真司氏の「社会」と「世界」の対比を参考に、人間社会のルールや損得勘定から離れた「世界」への入り口として馬の存在意義が語られ、言葉を超えた非言語コミュニケーションが真の繋がりを生むことが強調されます。馬は、人間と自然のちょうど良い距離感を保ち、理屈や損得ではなく「調和」を生み出す存在として、私たちが本当に生きたい世界を考えるきっかけを与えてくれます。

馬がもたらす「場を変える力」と人間・自然の架け橋
答えは馬が知っている。馬という鏡が見つめる本当の自分。この番組はハーモニーカレッジの主人と三陸駒舎のきびはらが鳥取と岩手の牧場で馬と子供たちに向き合いながら現場での出来事やこれからの生きる力について語り合う対話番組です。
はい、ということで第7回目はなぜ馬がいいんだろうっていう話をしておりまして。
ちょっとだけ振り返ると、大堀さんから思い通りにならないところがいいよねみたいな話があって。
あと最後、馬が中心にあるっていう。僕もなんかこう、子供中心ってなんかちょっといかがわしいというか、ちょっとなんか嘘くさいというか、それにあっている弊害があるなって話があって。
牧場は馬が中心にあるよねって話があって、今日もなんかこういろんな世代の方がハーモニーカレッジに集まっているようですけど。
僕もね、馬中心っていうか馬がいることで思い出したのがその話聞いてて、場がすごく変わるっていうかポンとくるだけで。
僕最初に、この今サーニーコンシャル始める前に行ったイベントというか、きっかけになったのが、仮設に馬を連れて行って、そこでこう触れ合いというか、乗馬の、
触れ合いと乗馬のイベントをやったのが最初だったんですよ。で、その時に仮設ってすごくこう無機質というか、こっちの人たちって、地元の人って畑があったりとか、いわゆるアッパーハートマンションぐらいの方で少なくって、
それでも何かこう、仮設結構長く、もう僕行ったのは2014年なので、震災から3年とか経ってる時だったので、そこそこプランターで花やったりとか、蜂植えしたりとか、皆さん結構こう植物に触れることも多くて、そういうのもね、やってたんですけども。
まあでもやっぱりこう、いわゆるプレハブで音も響くし、環境的にはすごく生活しにくいというか、ちょっとこう息苦しい感じがあったんだけど、そこに馬を連れて行ったら、普段子供たちの居場所作りもやってたんですけど、なかなか子供たちが解放される感覚がなくて、
行ってもなんかちょっと僕もなんかこう居心地があまり良くないみたいな感じがあったんですけど、馬が行ったらなんかね、場がパッと変わって、あ、すげーなーみたいな、そうそうそう。で、あと地元のやっぱり他の住民の方も出てきて、馬のとこに来てくれたりとか、子供たちもすごいこの馬が来ただけで、こんなに変わるんだみたいな、なんか場を変える力はすごい持ってるなーっていうのを、そう存在感もだし、
で、あとそのうちの3人組まして、その後1年後に立ち上げて活動を始めるんですけども、最初、当初、今はちょっと来てもらう子たちが多くなったので、あまり出張多くないんですけど、最初の1年目、2年目ぐらいまでは結構何ていうのかな、仮設まだあったし、
あといろんなこのコミュニティの集まれる場所作りしてるとこに出張で行ったりとかすると、やっぱりいろんな人が集まってくるというか、その馬がいるということで、なのでいろんな人がつなぐ力というか、そのなんか存在感たるやみたいなところはやっぱりすごく大きい動物だからなのか、
物理的にも大きいけど、でも本当なんかそういう部分では、なんかこう、なんかいろんなものをつなぐ役割を担ってくれるなーっていうのがあって、今はその人だけじゃなくて、最初のいろんな前半、7回目で話した中で思ったのが、思い通りにならないけど、人間とは一緒に過ごせるというか微妙な、
いわゆる完全に自然側の存在じゃなくて、人間とともに暮らす動物じゃないですか、数千年と一緒に人と一緒に暮らしてきているので、なのでいわゆるその自然側の全く原生的な自然とも違うし、かといって完全に人間側でもなくて、そのちょうど間に立ってる存在だよねっていうところがすごくなんかちょうどいいところにいてくれて、
何かって言うと、なぜ馬かって言うと、そのいわゆるこう、人間と自然の間にいるってところがすごくいいなーっていうふうに思っている。
なるほどね。
ちょうど、7回目の最初のところにも話してた、馬と身体合宿の対談の中で、馬と古武術の共通点について話をしてたんですよね。
来てくれてる工場さんの古武術の教室っていうのが、すごくこう、よく彼自身も話してる原理というか、みたいなものがそこにあって、それを伝えるようにしてるって話をするんですよ。
馬も言葉じゃないけども、すごく大事なものを僕たちに伝えてくれてる感じがあって、あそこは共通してるんだなーみたいな。
武術的な、こういうふうに突きをすれば相手が倒れるとか、そういう小手先の話じゃなくて、もっと原理原則のところを伝えようとしてるので、だから馬と一緒にやってもできるし、すごく大事な僕たちの生き方とか、人との関係性の作り方とか、そういったものを馬は原理原則を伝えてくれてて、
またそれが、自然かいって、そういう原理原則で動いてるというか、何も、人間みたいにいろいろあれやこれや考えなくても、循環して調和した状態であるじゃないですか、自然って。
そんたくがないよね。
もうそう、それもないし、そもそも別になんかお互い分かり合おうとか、なんか争おうとかそういうのなく、でも自然ってそこにちゃんと循環して繋がって存在できてて、
ほうじょうさんの言葉から言うと、その自然の理がそこにあるっていう風に言ってたんですけど。
まさにでも馬って、馬同士の関係性っていうか群れみたいなところを見ても、いわゆる人間みたいに指示命令みたいなのがなくても、馬の群れって成立してるし、そこに調和があって、何かあれば動くけど、普段何もなければ静寂があって、平和な感じがあってっていう。
そういう部分では、なんかこうその人間界と自然界の間にあるところっていうのがすごく僕の中では大きいというのがちょっと前半聞いてて思っていたところでした。
確かに、本当やね。人間界と自然界をつないでくれるかなり軽な存在かもしれないなってすごい思った。
確かに遠い厳しい自然っていうものもあるけど、完全に人間本位になりやすい。
例えば、小動物とかって、かわいいとかって言って抱っこしたりとかしやすいけど、本当にその小動物は抱っこされたいのかとか、全然人間本位になっちゃうよね。
でも、馬やとかわいいって言っても、ボーンって首で鼻でビョーンってこつかれたりとか、なんかいろんなことがもう人では対応しきれないっていうか、人間本位ではうまくいかないってことが多いなって思うから、
確かに人間界と自然界の間にあるちょうどいい加減のところにおるっていうのは、だからすごい歴史的にも人との歴史が長い動物なんかもしれないね。
本当に長いよね、歴史的に見ても。
そう、長いですよね。
何千年とか、余裕で人とおるもんね。
そうそうそうそう。
そうか、時には農業とかする時に使われることもあれば、そういう戦争とかいうものに使われた時もあるし、でもスポーツみたいなところにもなり、今はセラピーとか、いろんな教育とかいろんなところで埋まって、
だから完全に人間界でもないし、完全に遠い自然界でもないから、ちょうど人間界のちょっと外側におって、いろんな自然とつないでくれてるっていうのはしっくりきたな。
「子ども真ん中」から「馬が真ん中」へ:余白と調和の重要性
さっきの秋原くんの話で、子ども真ん中っていうお話ちょっとあったやんか、あれって俺も少しそういうふうに感じてるとこあって、確かに子どもって俺は大切というか未来やと思うし、
その子どもたちの未来のために今自分たちができることとかって考えたいし、なんかそう思うけど、子ども真ん中にしすぎると意識が子どもに集中すると一挙手一投足が気になったりとか、
あ、違う違う違うとか、もっとこうしてみたいな感じになったりとかして、子どもがその中で余白とか隙間ができなくなっちゃって、大人が周りでずっと観客で見られてて、スタジアムの中で子どもがおるみたいな、そういう子ども真ん中ではないほうがいいなと思って、
そこに対象として見ちゃうと、そうそうそうなっちゃうっていうか、子どもって関わってなんかしてあげないといけないみたいな、ある意味どうかちょっと上から目線的なとこがあって、それはちょっと違うなと思って。
だから大人の意識とかが、例えば自分が生まれた頃よりももう少し前の母とかの話とか父の話聞くと、やっぱり日々の暮らしで精一杯なんやっていう、だから大人が一生懸命、今みたいに時短の過程もなければ、
いっぱい暮らしの中で過処分時間がかかることが多くて、そしたらそれどころじゃなかったりすることが多くて、だから子どもの中で隙間時間がいっぱいできて、こっそり隠れて秘密基地作るとか、秘密基地ってもう誰からも見られなくて、
自分たちだけの世界を作れるからワクワクするわけで、そこの秘密基地も大人に管理されるとかしたら絶対面白くないと思うから、そういう馬がいると馬の方に人の目が行ったり集中行くから、結構子どもの中にも時間的にも気持ち的にもなんか隙間がいい感じでできるのかなっていうのは思った。
だからそういう風な場の方が子どもは生き生きとしたりとか、大人もなんか馬と向き合ってんのを子どもが見たりするから、さっきの冒頭の近況の話でもあったけど、大人がめっちゃ馬やりたくなって、馬と必死に向き合って、できなかったことができたりして喜んでて、
終わった後馬にありがとうって言って、終わった後シャワーしてる姿とか見たら、子どもらも馬やりたくてやりたくて仕方がないっていう。だからなんか子どもに願う姿に大人がなっていけば、自然と子どもが後からそうなってくるんやなって思うから、
あんまり子どもを真ん中に置いてっていう、そのマインドとしてはいいと思うんだけど、あんまりそれの環境とかそういうことに集中しすぎなくても、子どもに関わってなかったとしても存在を大切に思ってたりできればいいかなっていうのはすごく今の渋原くんの話聞いて、馬を真ん中は意外と良かったなって。
そうですよね。馬がいることでその場が変わるってことと、馬は自然と人間の間にあるっていうか、その後半のその間にあるっていうところで言うと、よく何で他の動物じゃダメなんですかって質問。
ある。それすごくある。
いけますよね。
ある。めちゃくちゃある。
犬はだから、なんていう、なついちゃう、変に。良くも悪くも。それはそれで犬の特性だからいいんだけど、その馬ってなつかないじゃないですか。いわゆるしっぽ振って腹出してとかなくって、そういう部分でちょうどよい距離感っていうか。
犬だと遊びで人間と戯れちゃうから、ちゃんとこっちはしてなくても一緒に遊べたりとかするんだけど、馬の場合はちゃんとやらないと馬ってやってくれなかったりするじゃないですか。
前回の7回目の時に、タズナの操作で馬が曲がるとかっていう時も適当にやったら馬ってやらなかったりとか。本当にできたって感覚が訪れるときって本当にちゃんとできたときしかならないっていうか、また繋がったなみたいな。これは今できたぞみたいなときって本当に。
ジンバ一体って言葉があるけど、そういう感覚って本当に繋がった感覚があるときしか訪れないので、なんとなく曲がったときはあるけど、そうじゃなくて、本当にちゃんとやれたぞみたいな感覚っていうのは馬特有なのがあるなと思ってました。
その間に立ってるってとこで、僕が何年前だったかな。3、4年前に森の幼稚園のテーマで、社会学者の宮台真嗣さんと本を書いた太田俊真さんが対談したお話があって、それ聞いたときに宮台さんは、いわゆる社会、人間が作って社会と世界っていうのを分けてますって話で。
社会の方は言語、こうやって人間社会なので、言葉とか法とかルールを決めて社会を作ってる人はないので。あと得か損かみたいなものが存在してて、得だからやるとか損だからやるとか。
そこが大きくなりすぎて、すごく生きづらいんだっていう。本当はその外に言葉もないし法もないし損得とかも関係なく存在してる世界っていうのがあって、世界って世界旅行の世界じゃなくて、社会と対比した上での世界なんですけど。
そこには言語的なものがなくて、法もないし。それって馬の世界だなって聞いてもらったんですよ。
言葉に定義することで、これは良いって言うからダメなものが出てくるし、良いも悪いも混ぜこぜじゃないですか。いろんなものが、本来は。
法律もない、ルールもない中で、でも応答関係があって、やりとりができてっていう。
そういうところの、いわゆる社会が大きくなりすぎて、すごく生きづらく僕たちはなってるよねみたいな。本当はもっとその外側に、社会の外に世界があったはずなのに、それをどんどん忘れてるみたいな話があって。
森内さんの本を書かれた応答さんは、社会がいわゆる里、里山って言葉ありますよね。社会側が里で、里山って中辺領域があって、山があってみたいな。
森内さんは里山とか日本的なものは、その辺りで子どもたちと遊んでるよねみたいな話があった。
確かに埋まってたが、里と山をつなぐちょうど里山的な生き物かもしれんと思って。
人間ともアクセスできるけど、その先は自然側につながっててっていうところで、僕たちはその生き苦しい社会から世界に連れ出してくれる存在なんだなっていうふうにその時思って。
まさにそうだよねっていう。感覚ってそうじゃないですか。なんか説明、感覚って言葉でまるっとまとめてますけど、なんか説明できないって言葉で切り分けられない感覚があって。
すごい。その理屈、納得感すごいね。
ですよね。僕もこうやって説明できるんだと思って、びっくりしちゃいました。
確かに。だからか。ちょっとなんか自分、なぜ馬なのかの納得感がさらに1個増えたような気が。今木川君から話してもらったことで、さらに納得感が増えたな。
確かに。
まさにハーモニーカレッジの原点になってる不登校とかって学校行きなさいみたいな、そういう社会側の要請っていうかから縛られてるものじゃないですか、すべて。
決めたのも別に学校行く行かないんだけど、本当は学校すぐは制度もなかったし、昔は。人間がこういうふうに作って社会制度として構築したところから、そこにはまんないから気苦しくてみたいな。
でもそもそも社会できる前ってそんなのもなかったし、勉強できることは何なのみたいな感じじゃないですか。
確かに。つながるのかちょっと分からないけど、馬の社会って人の、もしかしたら世界っていうふうに言った方がいいのかなと思ったりするんですけど、
例えば群れで生きる、自然界では群れで生きる動物やけど、そういう自然界で群れで生きてる動物ってリーダーがいたりとか、でもそのリーダーも入れ替わりもあるし、そのリーダーの見える行動とか判断力によってその群れが生き残れるかどうかの生存率に関わってくる。
だからリーダー選びって結構厳しいと思うけど、でも人間社会でいくと、あんまりリーダーとか上下関係とか、あんまり良しとされないし、でもそれは偉いからとか、こういう肩書があるからとかじゃなくて、
馬の場合、自然とそういうリスペクトがあって、自然とその人がリーダーになって、自然とその群れを守っていくっていう、そこに理屈とか法律とか尊徳とかじゃないけど、自然とそうなっていく世界が馬の中にはあるなーっていうのはすごい思ってて。
だから馬と関わるときに、自分がそういった馬から一目を置かれるような存在になれたらいいなっていうのはちょっといつも意識しながらやるけど、
人の社会だとなかなか効率化と効率的にとか組織的にコストパフォーマンスとかいろいろ求めていくようになると、そういう序列をつけたりとか、法律というかそういう制度、ルールを作っていく。
そうすると価値観が生まれてきて、価値観から外れると良くなかったり、生きづらさを抱えたりっていうことが起きてくるなーっていうのは思って。
別にだからといって社会を否定するわけではないけど、社会の中に生きてるからこそ、時折そういう理屈抜きに解放されたりとかする世界に連れてってくれる馬の存在っていうのは本当に魅力やなーって改めてちょっと思ったねー。
すごい納得感ある。
人間だとなんかどっかの社長さんが来たら、なんかちょっとちゃんと挨拶してこうとかなんか、なっちゃうじゃないですか、どうしてもなんかその人は偉くないみたいな、つけられてるラベルに合わせてみたいな。
もっとなんかこう、本当にその人が尊敬できる人なんかっていうか、別に方々は関係なく、その人を見れるかどうかっていうところが多分その世界側の目線だと思うんですよ。
どうしてもなんかね、お金持ってる人が来て牧場支援してくれるかもしれないって、ちゃんとちょっと対応しようってなっちゃう。
なんかそういう尊敬感情、働いたりとか。
そうそうそう、働きますよね、どうしてもなんかね。
確かにあの、すごいこの前面白いなって思ったのは、大人ってさ、よく名刺交換とかするやんか。
でパッと肩書見て、この会社知ってるとか、そこの部長さんなんやとか。
パッて見て、なんとかCEOって書いてるとか。
とかってなったりする、自分がいる、大人の社会の中でいるんやけど。
この前、子供たちが、うち合宿みたいなのやってるんやけど、キャンプっていうのでね。
何泊か一緒に過ごすよね。
で、最終日帰る直前に、めっちゃ子供同士がそのキャンプで初めて出会って仲良くなったんよね。
で、すっごい遊んでたんやけど、帰る時にうわーって遊んで、またおいでやーとかって言ってお互いがさ、また会おうぜみたいな言ってて。
で、ほんで名前なんて読む?最後の最後で。
えーっと思って、名前なんて読むって。
多分呼び名は読んでたんかもしれんけど、名前は知らんかったのかな。
肩書とか名前とか、一切いらん関係が子供たち。
で、もしかしたらすごい社会、世界側っていうか、そんな中にいるんやなって思って。
で、なんかまず挨拶して名前を言って、こういうものですって、なんていうかな。
お互いが自己紹介したりして、初めて関係性作っていく大人と、とりあえず面白そうやから遊んでて。
別になんか言葉交わさないけど、一緒に遊んで楽しかった。
で、帰る間際に、ほんで名前なんて言う?っていうのがもうめっちゃ笑ってて。
あー、こういう世界いいなぁと思って。
そう。
非言語コミュニケーションと「障害」のラベリングが外れる瞬間
いや、でもほんとそうですよね。
だからその時って別に良くも悪くも、例えばうちもいろんな子来てて、
例えばこう、心体的な障害を持った子が来ると、なんか助けてあげたいみたいななんかね。
そういう目線で見ちゃうし。
逆になんかちょっと嫌だなって思う時もあるし。
人によっては。
先入観で見ちゃうっていうのはあるなっていうのは。
でもなんか、今の話聞いて思い出したのが、一番、あのうちそのセラピの事業を始めて、
第1号で利用してくれた子はもう後頭部も卒業して就職しましたけど、最初来た時小4だったかな。
彼最初スタート1人で、診断として自閉スペクトラム症がついてたりとかしてて、
言葉で会話できるけどちょっと苦手みたいな感じだったんですよ。
で、だんだん利用者増えてきて、最初に来てた子がいろいろ他の子、
最初に来てたから馬のこととかね、他の子にこうやって準備するとか一緒にやってとか教えてくれたりとかしてて、
で、ある時なんか鬼ごっこしたりとか、今みんな遊んでたんですよ、わーってね。
で、なんかそういう様子とかもお母さんに伝えたりとかしてて、
で、ある時ちょっとその子の話になって家で、IAの方とお母さんとしてたら、
三駒さんに行くとうちの子の障害あることを忘れさせてくれますって言ったんですよ。
別に何も気にせずただ活動してただけだけど、
馬がいることで、いわゆる社会側のそういうカテゴリー、言葉をラベリングして分けるとか、
そういうことが外れていった場に自然となってたんだなと思って。
いわゆる普段の生活だと支援学校に行くとか、障害だとかっていろいろあるけども、
三駒さんに来ると、そういううちの子が障害あるのを忘れさせてくれますって言われたことは、
すごくやっててよかったなって本当に思った瞬間でした。
いや、それ素敵やね。そういう素敵な場面いっぱいあるんやろうな、そういうの。
本当だから、馬が行ってくれたから自然とそういう場になったんだろうなっていうのは僕は思って。
意図して別にそういうのをカテゴリーを超えて何かしようとか、そんなしたわけでもなくて。
馬はそういうふうに別にその子が障害あるとかないとか関係なく付き合ってくれるじゃないですか。
確かに本当にうちでも同じようなことが起きたことが起きてて、
左側にちょっと麻痺があって、自閉もあって、一緒にこう合宿の中に暮らすと、
いろんなことがうまくできなかったり時間がかかったり、ご飯食べてもボロボロって出て、
よだれが出たりとかする姿を見て、子供たちは最初びっくりしたりちょっと引いてしまったり、
心ない感じの気持ち悪いみたいな感じで離れようとしたりとかする場面があったよね。
でもそういうのをしてはいけないとかって僕が言っても、
その子たちがそう感じてしまったことはあって、
それをダメって価値観で言っても違うなって思ってたら、
ずっと長く来てくれている当時の中学生の女の子が、
小学生たちが肝とか言って離れていくのね、ご飯食べてる時に。
中学生の女の子がさーっと来て、一緒に食べようって言って、
その子の横に座って食べてくれたよね。
よだれが出たりしてるのをみんながちょっと見てたんやけど、
その中学生の女の子は、こういうの吹いたら大丈夫やからとかって言って、
あえてその子たちに聞こえるように言ってるように、
普通に一緒に楽しく食べてくれたんよ。
それを見て、また他の子たちも一緒に食べたいって言って来て、
離れていった気持ち悪いって言ってた子たちは、
なんか罰が悪くなるというか、
ちょっとまずかった、変なこと言ったかなみたいな場面があったよ。
俺すごいそれを気づきいいなと思って、
俺がそういう差別とか、人が嫌がることを言ったらダメだよって言うよりも、
そんなことなくても、自然と関わっていく子たちがいて、
みんなが気持ちよくいれる場がもう作れるんやっていうのを、
その時に子どもたち同士が作ってくれて、
それを見た子どもが、なんかちょっと自分よくなかったなって、
自分で気づいた場面があったよね。
その次から、その子たちがめっちゃ言葉かけとか変わってきて、
一緒に食べようって、その子たちもなんか言い出して、
なんかすごいなって、なんか思ったりしたことがあって、
牧場行って馬乗る時間になったよね。
そしたら、その子、障がいのある子は馬に乗れないってみんな思ってたけど、
実は乗馬やってたよ。
で、ちょっと避けてた子たちは初心者やから、
馬に乗るところから支えてもらったりするところを、
その障がいのある子は馬に乗って早足して、軽早足したりしてるんよ。
半身麻痺があるけど。
もうそれ見た瞬間、もう子どもらめいてんになって、
え?みたいな。
そんなのをわざわざと見て、
そういう子、決めつけたりとかっていうものじゃなくて、
本当にフラットな世界ができたのも、
本当に長年、いろんな多様な子たちと関わる馬がいるキャンプで育った子たちが、
またそういう障がいのある子たちと出会ったことがない、
私立の学校に行ってる子たちやったから、
学校の中に特別支援学級とかないんよ。
私立の学校で。
だから日常的にも会うことがなくて、
だからちょっと戸惑ってびっくりしちゃった子たちが集団でおったんやけど、
その子たちも変わっていったっていう場面があって、
それは馬がつないでくれたし、
店長の子が言い悪いっていう価値観じゃなくて、
私はあなたと一緒に食べたいよって、
で、よだれが出ても拭けばいいだけやからねっていうような関わりをしてくれたことによって、
こうとか正しさとか尊徳感情とかじゃないもので、
新たな秩序ができたというか、
その瞬間はすごい価値観で言い悪いじゃなくて、
これが調和っていう感じなんかなっていうのをね、
すごい感じた場面があって、
馬がいるところってそういうことが起きやすいよね。
だから、よだれを垂らしちゃいけませんとか、
そういうのが汚いとか、
全部やっぱり鍵かっこつきの社会で植え付けられた価値観なのが、
馬はそういうの関係なく存在しているので、
それって頭だけでわかったところで、
そうならなかったりとかするっていうか、
さっき大森さんが言うこともできたけどっていう、
自分で本当にわかるとか気づくとか、
そう思うっていうことが大事じゃないですか。
その存在として馬はそういうふうにいてくれてるところは、
すごく大きいんじゃないかなって思ってて、
さっきうちの子で障害あるの忘れさせてくれますっていうのも、
大冗談に、例えばうちはインクルーシブを目指してみたいな言えるけど、
行ったとてみたいな話じゃないですか。
本当にそういう感覚が僕たちの中にあるかどうかっていうところが、
すごく大きいじゃないですか、そういうこと。
でも馬は本当にそういうふうにいてくれてるところがあるから、
そこから僕たちとか子どもたちも影響を受けて、
そういうふうに思える体になってるというか、
そういうとこは大事じゃないかなっていう。
その子の中の振る舞い、さっき言った振りてあげればいいって振る舞いも、
頭で考えてやることもできるけども、
たぶん自然とできるのは馬がいてくれて、
一緒にそういう生活をしてるから、
そういうことも立ち振る舞いとして現れてくるところも
つながってるんじゃないかっていうふうに、
僕はすごく馬と言って感じていたところでした。
馬との関わりから見出す「生きる力」と「主体性」
そうだね。
インクルーシブを目指すために馬がいるわけじゃないんやけど、
発信としてはそういうふうに言ったほうが分かりやすかったりするやんか。
でも、たとえば生きる力を育てるためにとか、
非言語能力を高めるためにとか、
いろんなことの理屈付けで馬はいいよっていうことは言えるけど、
でもやってる側としては、
やった経験値の中からそういうふうになってたなっていう、
結果論を逆転させて言ってるだけの気がして、
さっきの清原君のところも、
インクルーシブとかって目指してますとかって言わなくても、
馬と一緒に暮らして一緒のことをみんなでやってると、
気づいたらこれがインクルーシブなんやみたいな、
後からそれがつながっていくから、
たぶんスタートとして馬と一緒にいろんなことをやってたら、
感じる力が育ったり、人と人がつながってたり、
後付けでできてきたことを逆転させて説明してるのが、
文章とかにするとそっちが先になっちゃうからさ。
でもこういうふうに今なぜ馬なのかっていうテーマで話すと、
経験とか今までのものを話した上で、
だからやっぱり馬良かったなって、
後から答え合わせが来るみたいな、
そういうのを改めて今日もまた感じさせてもらって、
今日の社会と世界の話、
良かったら里と山をつなぐ里山みたいな、
その存在が馬っていうふうに、
そんな表現聞いたのは初めてだったんで、
勉強になりました。
ちゃんと学校行かなくなったりすると、
よく聞く言葉が、
それだとそんなんじゃ社会でやっていけないぞとか、
社会で困るぞとかって言うけども、
社会そんなに生きやすいっけかみたいなところもあって、
だから今本当に分断も進んで、
いろんな世界、
世界って本当に普通の世界ですけど、
戦争もあったりとかして、
あんまり良い状況じゃないなみたいな感じてるところもあるので、
本当に僕たちが生きていきたい世界ってどうなんだろうっていうのを、
考えさせ、
捉え直すというか考えさせ直す、
すごくいいきっかけを与えてくれているのが馬だなって思ったりしてました。
ということで、
その部分で話したいこといっぱいあるんですけど、
また今の出てきたもん。
出てきた。
また次回に。
じゃあ次回に。
この後問いだけ残しておいて、
次回に回そうと思います。
ということで、
7回8回と今日収録しましたけど、
振り返りをしてから終わりにしたいと思いますけど、
どうでしたでしょうか。
改めてスタートの時に、
なぜ馬なのかっていう理屈から話そうとすると、
何話そうかなっていうところから始まったけど、
実際話し始めてるってこうやって聞いてもらったりすると、
そうそうって、
今までの経験してきたことを、
たくさんこう、
自分でも忘れてたようなことが掘り起こされて、
あふれるように出てくる次回だったなと思って、
次回ね、
ちょっと今、
全世界とか、
時代的に起こっているようなことを、
というふうに、
どんな世界を望んでいくのかみたいな、
さっきのお話があったんで、
僕はなんか、
やっぱりこう、
主体的に生きたりとか、
主体的とかっていう、
ちょっと抽象度の高いことを、
ちょっと馬とかけて話せたらいいなと思ったり、
僕はなんかしました。
あのちょっと、
結構主体性を持つって、
すごい重要やなって思って、
自分で感じて考えて、
やってみてとかっていう、
そことかってすごい、
これから答えが、
絶対的答えがない、
社会とかライフスタイルもそうだと思うんだけど、
その中で自分がどう考えて、
どう行動していくのかっていうのが、
すごい大切やなって思うから、
馬と掛け合わせて、
そんな話ができたらなって、
僕は思いました。
はい、ありがとうございました。
経験からの学びと次回のテーマ予告
はい、ありがとうございます。
そうですね、僕は、
最後のなんか大森さん話されてた、
気づいたら、
馬と暮らしてて、
一緒にやってたらそうなってたって、
本当にたくさんあるなっていうか、
僕自身も今日ちょっとお話しした、
その仮説に馬を連れて行ったとこが、
馬と一緒にやろうって思った、
最初のきっかけで、
なんでいいのかっていうのは、
なんかやってるといろいろ、
なんていうの、
エピソードというか、
経験をさせてもらって、
あ、そういうことだっていうか、
やりながらなんか、
教えてもらってるって感覚があって、
だなって思いました。
なので、
今日もちょっと全然、
セラピー・リオーの第一号車の、
この話するつもりもなかったし、
世界と社会の話もするつもりなかったけど、
なんかね、話す中でそういうのが出てきて、
非常に、はい、
面白い時間でした。
まだまだ深掘れるお話でしたが、
時間も限られているので、
今回ここまでと、
そして次回また、
どんな話が出るか楽しみにしてます。
はい、
ということで、
お聞きいただきありがとうございました。
本番組は、
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それでは良い一日を。
お過ごしください。
ありがとうございました。
本当の自分
僕ら
名刺の肩書きもラベルの歪みも
大きな背中が全てを溶かしていく
正しいか間違いか誰が決める
そこに吹く風と呼吸を合わせる
答えは馬が知っている
人と自然の境地で繋ぐ確かな関係
僕ら
力を
自然とも違うちょうどいい距離で
世界の扉を開ける
子供
馬が
余白の
ルチョーは
忖度のない
42:26

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