こんにちは、小説家の岩井啓也です。 News Connect 文化欄のお時間です。
本日は、先週に引き続き麻布競馬場さんをゲストにお迎えしています。
麻布さんは、デビューから今まで会社員を続けながら、複面作家として活動されています。
そんな麻布さんと一緒に、マーケティング的な視点から離れた小説の良さ、言語化の限界などをテーマにお話ししています。
さらに、ジャンルをまたいだ中間小説についても語り合っています。
それでは、本編をどうぞ。
先週に引き続きゲストは、麻布競馬場さんです。よろしくお願いします。
麻布競馬場さん よろしくお願いします。
盛り上がりましたね。
麻布競馬場さん 楽しい。
さっき収録の合間の休み時間があったんですけど、結局そこでも本来撮るべき話をしてしまったので。
めちゃくちゃ喋ってましたね。
麻布競馬場さん 危なかった。
さっき話してるうちに、もう次これ話そうか決まってるから。
そうなんですよ。
次の話題はですね、会社員ならではの問題ということで、決済の話です。
麻布競馬場さん 決済。決済がね、一番いいですよ。
麻布競馬場さん 決済って僕マジで、何やってんだろうこれって思うときがあって。
麻布競馬場さん 僕は結構そういう仕事やってたんですよ。
麻布競馬場さん 研究所があったんですけど、半分研究じゃないみたいな新規事業の開発とかもやってたりもしたんで、
結構社内決済取ったりとか契約書やったりとか、結構やってたんですけど、
麻布競馬場さん 決済書、しかもね結構最近まで僕がいた会社って紙だったんですよ。
反抗してくタイプ。
麻布競馬場さん コロナ禍ぐらいまで多分そうだったかなと思うんですけど、
結構あの文章に一筆入魂みたいな感じで書いてたんですよ。
万が一帰ってきたらもう1回社内便で送って1日かけてとかあったりするんで、
まず僕下っ端が書いて、で管理職がチェックして、
部長はここを気にするから声かけた方がいいよってわかりましたって書いて、
よしこれで部長も本部長も取締役もオッケーの文章書けたぞみたいな。
でもう今日の3時に社内便が出ますとか言ってうわーって走って、
ああ社内便行っちゃったからバイク便を呼びますとか言って言って、
バイク便で渡してみたいなことをやって、
でバイク便が行ってふーって言って帰ってデスクし終わった瞬間に、
俺は何をやってるんだろうって。
その後に小説を書いてたんですかね。
麻布競馬場さん その後に小説を書いてたんですけど。
あれだけ研ぎ澄まされた文章ってやっぱ後にも先にもないなと思って、
その決済の話なんですけど。
麻布競馬場さん 決済のね倫義の。
そうまず一つはやっぱこれからやろうとしてることのファクトを書かなくちゃいけないってこともあるし、
で明確に読者がいるわけじゃないですか。
もうこの人に届くって決まってるから、
でその人の読む癖とか考える癖を意識して書くこともあるし、
で一方でもうちょっと線上的にした方がいいかみたいな欲望出るじゃないですか。
企画書とかだとねもうちょっと豊かに膨らんでくるから、
あれだけなんか何かの目的を持った手紙を書くっていうのは、
ラブレター以外なかったなと思ったんですよね。
あれってなんか確かにそのいやあの人はもっと期待を持たせた方がいいから、
ここはちょっとあえて書かない方がいい。
で今後のあの時の会議で言った方がいいとか。
収支予算をちょっと膨らましとくかみたいな。
ここあんま突っ込まれたくないから3行ぐらいにしておいた方がいいとか。
だからラブレターですよね。
そうやっぱあれだけなんか目的性がある文章を人間書かないし、
小学校の時のテスト由来だなと思ってたんですよ。
国語の自由記述とかで、
作者の気持ちを答えるって、
あれも結局この問題を作った人はどういう風に読んだんだとかに近いので、
逆算型のコミュニケーションだなと思ったんですよね。
小説書く時ってどうです?そこ似てたりします?全然違うんか。
結構似てた時期と似てなかった時期が自分の中で明確にあって、
1作目を書いたものって当時SNSに向けて書いていたし、
最初は別に誰かに届けようと思って書いたわけではなかったんですよ。
自分も日記帳だと思って書いたものをまず20ペン書いた後に、
本が出ますから宣伝してくださいって言われて、
宣伝かと思った時に、
そんな堂々と言われるんだ。
結構自分の中でスイッチがパチッと変わっちゃったんですよね。
これまで書いてきた中で、おそらくこれを書けばSNSでバズるっていう体感があったんですよ。
どうせっていう感じだったんですよ。結構狭ちなんですよ今思うと。
これ書けばどうせみんなバズるんだろみたいな感じで書いたものが案の定バズっていく中で、
疲れちゃったんですよね。SNSで書くって行為が。
その時に自分を日記帳に戻ろうと思った時に声をかけてくれたのが、
あの2作目の令和元年の人生ゲームの担当編集の黒岩さんが声をかけてくれて、
アザムさんもたまむかくやめましょうって明確に言われて、
2人が分かるものを作りましょうって。
黒岩さん自身も女子五三家から東大に行って出版社みたいな、結構ヒカリの人生を。
ちなみに僕も2、3回お会いしたことがあります。
連載媒体が同じということが共通にあるんですけど、
もうみんなに届けるのはやめて、自分の当事者性で、
僕の当事者性は黒岩さんの当事者性と共通しているので、
2人でキャッキャ言えるものを書きましょうって言って書いたのが2作目だったので、
結構そこで自分の中で解読ができたというか、
自分の中で書いたんでいいんだって風に、
初めて目的性のない文章を多分3、400枚書くっていう経験がそこであったので、
でも一方でサラリーマンもやってるし、
僕企画書でもパワポが一番好きなんですけど。
僕もパワポ好きなんですよ。
パワポがやっぱいいっすよね。
僕未だに公演とかあると張り切ってパワポ作っちゃうんですよ。
やだ、これ良くない作家なんだ。
パワポに時間かけちゃダメなんだけどな。
やっぱワードよりもエクセルよりも、パワポってやっぱ映画的だと思ってて、
文字が当然中心ツールではあるんだけど、
埋め込みでエクセルも使えるし、
写真も貼れるってことで、
僕やっぱマイクロソフトが生み出した総合芸術がパワポだと思ってるんですけど。
総合芸術。
総合芸術ですよ、パワポには。
おもろ。
パワポ作ってる時、脳から本当に汁が出るんですよ。
パワポを操作してる時しか出ない興奮がありますよね。
あるよね。完璧なエクサイが今できた。
そうそうそう。
あれがやっぱ気持ちいいし。
あれもマジ冷静に考えたら何やってんだって時ありますよね。
本当にそうなんですよね。
カラートーンとか何でやってんだろう。
なんでこんなヘッダーつけてんだろうと思うんですけど、
やっぱパワポが僕はビジネスだと思ってるんですよね。
情報は当然多い方がいいんですよ、伝わりやすい。
当然研ぎ澄ますコミュニケーションもあるけれども、
例えば消費者に届けるとか、
会社の倫理を通すとかっていう目的性があるところに、
でも情報をたくさん持っていくっていう、
すごく矛盾がないんですよね、パワポにとって。
あの研ぎ澄まされたものを昼間作った後に、
家で小説書いてると真逆だなとは思うんですよ。
特に今書いてる小説って、
自分の通り差性の中で書いてる。
別に誰かに届けばいいっていうよりも、
自分の中の下読みに近いというか、
普段持ってるものをどうにか言葉にすることで、
腹打ちしようっていう感覚で結構今小説書いてるので。
それはでもそうかもしれないですね。
逆に僕最近パワポ作るのが大好きなのは、
逆かもしれない。
いつも答えのないことを考えて目的のないことを書いてるから、
たまには目的あるもん作りてーと思って。
どっち持った方がいいかな確かに。
パワポが来ると張り切って作るみたいな。
新規授業とかって僕どっちの属性もあるんだろうなと思って、
会社の人がむしろ分かんないものの方が正しいと思うんですよ。
確かに。
当然会社が持ってるアセットを使って、
技術アセットを使っていくとかありつつも、
多分よその掛け算とか今リーチできてない、
顧客層に届けなくちゃいけないってことを考えると、
むしろこの手があったんだって風に驚き、
新規性を与えることが新規授業だと思うと、
たぶんビジネスでも小説的なものがあるんだろうなと思うんですよね。
めっちゃ思います。
でもそれって本当矛盾をはらんでて、
大企業で新規授業やろうとすると、
分かるものじゃないとそれこそ倫理通らないんですよ。
分かってくれないと倫理が通らないんですよね。
でも分かってくれるものはそもそも新規授業なのか、
それみたいなことがあるから、
そこのジレンマはもうたぶん、
大企業で新規授業やってる人はみんな抱えてると思います。
なるほどなー。
というか新規授業じゃなくても、
たとえばちょっと新商品とか、
ちょっと今までと違うことやるとか、
僕だけちょっと海外留学させてくださいとか、
なんでもそうだと思うんですけど、
分かってもらえなきゃできないんだけど、
そもそもそれは分かるものではないという、
そのジレンマは絶対あって、
そこは小説の領域っていう感じがしますよね。
なるほどなー。
新規授業と比べたときも小説のいいとこって、
僕実は性があることなんじゃないかと思ってて、
新規授業を含めて全てのビジネスって、
突き詰めれば株主にため利益を稼ぐっていうのが、
あらゆる株式会社なり組織体の目的なので、
ゴールがもう決まっちゃってる。
当然CSR的なものだとか、
社会に対する責任って話はありながらも、
ビジネスとして目指すべきところが決まってしまってるっていうのは、
一ついいところでもあるし、
縛られているところでもあるなと思う一方で、
小説って別に売り上げだけやりたいわけじゃないし、
別に業界批判のつもりで言うわけじゃないんですけど、
文芸編集者のいいところって、
諦めてるところだと思うんですよ。
なるほど。
例えば、小集、大きい出版社って、
なんで大きいかっていうと、
必ず漫画とかっていうお金稼げるIPがあるからこそ、
部数を小説で稼ごうとしないというか、
むしろ俺たちはいいものを作ることに役割があるんだみたいな風に、
ちょっと資本主義から距離を取れるっていうのが、
僕は小説もいいところだし、
現にそれを裏支えするように、
文学賞ってものがあって、
だからこそ売れなくてもいいものがあるんだっていうのを、
むしろ小説を書き始めて初めて理解したなと。
なるほどね。
体で理解したなと思って。
ちゃんと売上げ以外の軸があるよっていう、
そう、これでいいんだって。
よくはないです、当然。
ビジネスとして実装しないといけないし、
漫画にいつもありがとうございますって生きてはいるんですけど、
そこで自分の中に一つ、
価値判断基準が増えたっていうのは、
小説書いてよかったなと思うんですよね。
読んでる時が見えなかったっていうか。
なんかこれは特定のあれじゃないですけど、
割と歴史長い会社ってその、
創業があるじゃないですか、
今もうそんなに売上げ立ってないんだけど、
創業だからやっぱ頑張って続けてますみたいなところもあって、
それに近いかもしれない。
そうかもしれないですね。
ここでも大きく売上げが立たなくても、
もういいんですとか、
これを続けてることに我が社のアイデンティティがあるんですみたいな、
ところに近いかもしれない。
でもその創業が昔は稼げる商売だったわけですね。
昔はそうです。
でも、やっぱり無理くり価値を見出すみたいな行為自体が、
そもそも滑稽なのかもしれない。
移り変わっていくんだよな。
それこそ今TOTOみたいなふうに、
全然違うものを作ってる会社が、
AIのバブルの中で、
素材が作れるんだみたいなところで、
兼ねたりとか考えると、
創業と今の稼ぎってやっぱり、
移り変わっていくんだなすごい感じますよね。
でもなんか一方で東芝みたいに、
売っちゃったら実はね、
記憶シェアがめちゃくちゃ上がっちゃったみたいなこともあったりとか、
いや売らなきゃよかったのにとか、
それは後からなら誰でも言えるんですけど、
やっぱそこを持ち続けることの大事さみたいなことも、
あるはあるし、
だから結構維持で続けてますみたいなことって、
僕最近大事なのかなと思ってて、
最近僕対談で読んで感動したのは、
オンダリックさんと大森時代さんの対談があって、
大森時代さんがどうやったら創作続けていけますかねって聞いたら、
オンダさんが私はほとんど維持で続けてますって言ってて、
すごい救いだったんですよ。
僕はやっぱ小説書くの結構好きなタイプなんで、
好きじゃなくなったら書けなくなっちゃうのかなみたいな不安も結構あったんですよ。
でもそれ聞いた時に、
維持で続けても全然いいんだみたいな、
好きじゃなくても続けていいんだっていうのもすごいあって、
だから維持で続ける、
創業とかもそうですけど、
維持で続けるって結構大事なことなのかなと思ったんですよ。
そうですよね、多分好きで書くって、
作手だなと思うんですよ。
やりがい作手でしかないなと思うから、
たくさん書けてる先輩に一回、
僕はどうしたら書けますかって、
同じ質問したら同じようなこと言ってて、
その人はトムヨークが好きなので、
トムヨークの話を急にし始めたんですけど、
トムヨークは多分もう疲れてるんだと。
でもトムヨークは疲れてても、
ずっとアルバムを出せるのは、
体重の書け方がわかってるからってその人は言ってて、
彼のトムヨークの作家性と、
大きいジャンルだったりだとか、
技法に寄りかかることで、
無限にトムヨークが再生されるから、
好きで書かなくてもいいよって言われて、
でも書いてるうちに多分好きなものが書けるっていうのは、
今いいこと聞いたなと思ってその人に言って書いたんですよね。
僕大好きなエピソード、
コン・ノビンさんですごい好きなエピソードがあって、
旅先で全然家から離れたところで書こうと思ったら、
ノートパソコンが完全に壊れちゃって、
書けなくなって、
でも締め切りはもうすぐそこに迫って、
どうしようっていうので、
旅先でパソコンを買って、
1300万とかのパソコンを買って、
全部初期設定やって書き始めたっていう話は、
めちゃめちゃ好きなんですけど、
だからもうこれとかって、
好き嫌いで書いてないんですよね。
間に合わせなくちゃっていう、
商売じゃないですからね。
意地なんですよ本当に。
僕なんでこの話好きなんだろうって思ったんですけど、
やっぱそこなんですよね。
もう矜持とか意地で書いてるっていうのは、
それでもいいんだっていうのは、
結構励ましだったんですよね。
就活してる時に、
まさしく好き問題って直面しまして、
みんな当時って、
自分のやりたいことを掘り下げようっていうのが、
僕らの就活の、
結構オーソドックスなスタイルじゃないですか。
学生時代頑張ったこととか、
自分が昔頑張ってきたこととかを、
とにかく紙とかに書き出して、
何か共通する自分の現体験とか、
自分これだったら一生やれるなってものを探して、
そこにフィットする会社を探そうっていうのが、
結構僕らの自分の就活をやってっていう。
自己分析とその企業分析を擦り合わせようみたいなことが、
当時当たり前に言われたし、
僕自身もやってたんですけど、
あれ嘘ですよね。
あれはね、嘘なんですよ。
あれ、僕、別にだから何かその、
何かこう言うわけじゃないですけど、
優越感を持って言うわけではないですけど、
僕は正直あれを全く信用してなくて、
一回も実は自己分析したことなくて、
やってました。
こんなもん数打って出したら当たるんだ、
って思って。
そうなんですよね。
絶対就活ってそういうもんだと思ってて、
むしろ会社に入れてもらうもんだと結構思ってるんですよね。
僕らより明らかに会社側の方が仕事も分かってるし、
社会のことも分かってるから、
とにかくこんにちはって挨拶しに行って、
こいつはうちで使えるなと思ってもらった方が、
むしろ健康で、
好きなことは仕事にするのは半分嘘で半分本当だと思ってるんですよね。
ずっと好きでいられるならいいし、
入り口としてはいいんだけど、
ずっと好きで仕事になると思うのはサラリーマンだと思うんですよね。
それこそ意地だと思うんですよね。
そう意地でいいなと思うんですよ。
これまで積み重ねてきたものを一番使える場所が今の会社だとか、
これまで頑張ってきたからもう俺はこれでやり切るんだとか、
当然転職も意地だと思ってるし、
自分を通すためには会社を変えた方がいい。
また一つの意地だとすれば、
意地が一番健康だなって思うんですよね。
確かにそうですね。
意地って結局その奥底に自分の本心が大体ある場合があるから、
意地って結構僕はいい言葉だな。
意地で続けるっていうのは思ってて。
あと何かその自己分析みたいなのは、
何かちょっとイマイチだなと思ってたのは、
僕そもそも多分言葉をそこまで信用してなくて、
自己分析って何かこういうチャートみたいなのを書かされたりとか、
自分の人生のプラスマイナスを波にして書きましょうみたいな。
ありますね、モチベーショングラフとかって。
そうそうそう。
全部嘘でしょ。半端嘘だからもう。
だから要は言葉じゃないですか。
言葉でわかることって限界があるなっていう認識が結構僕そもそもあるんですよ。
本当にそうだ。
今言葉を扱う仕事やってるからよく思うんですけど、
言葉で書けることなんかマジで本当にほんの一部とかだし、
何かわかんない、場合によってはダンスとか、
何かそういうのの方が表現できる場合もあるかもしれないし、
何かそもそもそこまで言葉を全力で信頼してないっていうのがあって。
いやもう本当に同意見で、
僕今一番ダサいと思う言葉は言語化なんですよ。
もうね、もうね。
あれ最悪で、まず第一弾の悪は言葉を信頼しすぎてる。
ワードだけで仕事してる人間ですよ、言語化ってつまりは。
言葉にすれば対決するはずがなくて、
パワーポイントの方が絶対自分は表現できるんですよ。
全く今同じこと思った。
だし、そこで言う言語化で言語化されるものって、
結局短い文章に過ぎないなと思ってて、
僕一番嫌いな言葉が言語化の次に、
頭がいい人は複雑なことを簡単な言葉で表現する。
あれも嘘なんですよ。
本来、筆説に尽くしがたいものこそが僕は本当だと思うし、
筆だけで表現できるものは嘘だと思ってるから、
最近ちょっと言葉を信じすぎてるし、
みんなが言う言葉がショートセンテンスすぎるなと思ってるんですよね。
言葉の切れっぱしに本当が宿ることは当然あるんですけどし、
結構ドラマとかで描かれる哲学者って言葉が少ないじゃないですか。
僕いっぱい喋るやつの方が本物のことを言うと思ってるので、
なんか楽してるなと思う。言語化って風潮自体が。
あれに憧れすぎですよね。
クラスの端っこにいて、たまに短い言葉で真理を掘ろうと言うやつに、
胸がしんどくなってきた。
みんな憧れすぎですよね。
本質日記みたいなやつに憧れすぎで、
あれ嘘なんですよ。
あれはね、あんなやついないんですから。
本当にそうで、
作家になってびっくりしたのが、
いい作家ってめっちゃ明るいんですよ。
あとね、みんなめっちゃ喋るんですよ。
ずっと喋ってる。本当に。
お喋り多いんですよ。
お喋り多すぎるんですよね。
飲み会で言葉が切れない。
あの人はあんまりお喋りじゃないのかなと思って、
対マンで話すと今度めっちゃ喋る。
結局めっちゃ喋る。
逆にゴールデン界とかで、
気悪い人と会うと、
喋んないんですよ。
喋ってるようで自分の話しかしてない。
喋ることないですからね。
まず自分の中にどれだけ言葉があるかとか、
本来言葉にできないものの原液をどれだけ持っていて、
それを人に伝わる言葉に変えるスキルがあるってことが、
僕は小説家なんだろうと思ってて。
なので、文振り的なものとか、
ポッドキャスト的なものの僕、
弊害ってそこだなと思うんですよ。
喋ることがない人も、
なんか形にできちゃうし、
で、同じような人が集まってる、
会に集まって、
みんななんか、
物々交換的に商品を交換できて、
自分の生活物に経済価値があると思ってしまうことは、
結構自分がやりたいことの入り口で止まっちゃうなと思ってて、
まずは自分のやりたいことが先にあって、
それがプロダクトになるって方が、
僕はすごく健全だと思うので、
ちょっと良くない趣味だなと思うんですけど、
僕の好きな小説を批判してるポッドキャストとか、
すごい探すんですよ、最近。
どんな言葉で批判してるんだろうって。
で、あっせーなーってめっちゃ思うんですよ。
結構良くない楽しみ方だと思うんですけど、
でも大体そういうポッドキャストって、
一人語りが多いんですよね。
対談じゃないんですね、対話じゃない。
バカ薄い対談も当然あるんですけど、
とにかく形にしちゃったってことが、
多分その人の小説を読む深さを浅くしちゃってるなっていうのは、
すごくもったいないなと思っていて、
なのですぐ言葉にしなくていいし、
発信しなくていいってことを、
もっと一定化なくちゃなって思うんですよね。
言語化しない勇気みたいなものが今求められている。
言語化本当に、
僕も結構ケースバイケースだと思ってて、
小説って書いて初めて気づくみたいなこともあるじゃないですか。
そういう効果もあるから、
こういうことを思ってたんだ自分みたいな。
分かんないなりに書くっていうことも大事だなと思いつつ、
僕それでいうと、
小説家になろうとかってあるじゃないですか。
あれはちょっと感じることがあって、
要はあれって型があるじゃないですか。
この異世界転生なり、
悪役霊女なりの型に流し込めば小説を書けます。
しかもある程度場合によっては結構評価を得ることができます。
でも、それってある型をなぞっているだけだから、
本当にそれって書きたいことなのかという、
書きたいことがなくても、
その型を使えば書けちゃうという仕組みがあって、
なおかつある程度評価が得られちゃうみたいなことまであるから、
コミュニティーがありますからね。
それって一番偉いのは、
多分最初に悪役霊女を書いた人。
確かに、形を作った人が発明者ですからね。
あるぐらいの段階からは、
本当にその型のまま書いているだけ。
型の中で今までやっていないことを
マーケティング的に選んできて、
当てはめているだけみたいなケースがあって、
それで当たっているのは、
マーケティングが当たったのであって、
あなたが当たったんじゃないんですよ、
ということはすごく思います。
めちゃくちゃメタで言うと、
マーケティングをしたその人が当たっているという言い方もできるんですけど、
それがやりたくて書いているのか?みたいなことはすごく思います。
そう考えると皮肉なサービス名ですよね。
小説を書こうじゃなくて、小説家になろう。
なろうなんですよ、そうなんですよ。
うわー厳しい。
でも本当にそうかもしれない。
そこ難しいですよね。
でも一方で、やっぱり僕はそれを否定したくない気持ちもあって、
僕自身もやっぱりアサイ・リョウのフォロワーとして生まれているので、
型から入るは多分いい入り口なんだけど、
確かに、全員ある程度は型から入ってますからね。
その先どうやって小説家になろうから、
小説を書こうにシフトするかっていうのが、
結構難しいなと思ってて、
多分ね、出てくると思うんですよ、
小説家になろうから、
直樹翔作品が数年のうちに。
もう結構本格的な人はいるんですよ。
デビューがやっぱりそこで、
そこから大エンタメとか大純文にいく人もいるので、
なんかそこがすごい大きい入り口になったら嬉しいなと思う。
多分これは、ポッドキャストとか文振りもそうなんですよ。
文振りからやっぱり出て、
本当にすごいエッセイスになった人もいるから、
広材なんでしょうね。
だからどこに目を向けるか次第。
そうなんだよな。
友達で、本人は情報商材屋さんって言ってるんですけど、
ノートのコミュニティを作って、
月に900円払えば、
自分の週に1回書いたブログが読めるっていうので、
月に100万ぐらい稼いでる友達がいるんですよ。
本人は自分で会社もやってて、
ちょっと片手間的に書いてたものが、
思わぬふうに終了になったので、
特に会社も辞めることなくずっと経営しながら、
お小遣いとしてその月100万を稼ぎ続けてるんですけど、
最近は自分で書いてないんですって。
どういうことですか?
AIに書かせてる。
うわ、出た!出ました。
で、読者は気づいてるか気づいてないか分かんないんだけど、
とにかく毎月900円払って、
読み続けているんだと。
本人も疲れてるんですよ、書くことに対して。
でもそれはそれで多分すごいことだなと思ったら、
900円って文庫分1冊ですよ。
なかなかですよ。
だから月に文庫分1冊のお金を払う人間が、
この国は100万円払うぐらいいるわけで、
彼は作家とかなればいいじゃんって僕は言うんですよ。
めっちゃ文章面白い、自分で書いた頃は。
でもいや俺はいいんだと。
俺は別に作家になりたいわけじゃなくて、
読者が欲しかったから書いてるんだって言ってて、
怖いなと思ったけど、
でも多分これからそういう小さい村がいっぱいできるんだろうなと思って、
売り上げを追うでもなく、
当然文学賞とか文学史に名を刻みたいっていうモチベーションでもなく、
自分のリーチできる範囲に自分のファンがいて、
ファンがずっと読んでくれるってことを喜び。
多分書く喜びとして今増えているし、
それはどう評価していいか僕は分かんないんですよね。
僕自身は結構出身は順文切って、
最高の小説家も大井健三郎だと思っているタイプ。
小さい頃はずっと本読んできましたみたいなタイプなので、
物を書くことの一番いいゴールは、
未だにいい筆際書を作るか、
いい小説を書くかだと結構素直に思っているタイプなので、
書く人はみんなそっちに行けばいいと思ったんだけど、
そうじゃないゴールもこれから出てくるんだろうなと思ったんですよね。
それはすごい怖い話で、
同時に僕は、もし自分がそっちが最初だとしたら、
そこから抜け出すことを考えただろうかと思いましたね。
小説が無いところで儲かんないところからスタートするから。
次100万出ちゃって、読者がいて、
AIでもよくて、何が悪いのっていう、
自分にならなかった保証はどこにもないなって思いました。
我々も行った道なんですよねあれは。
全然生きうるなと思ったし、
経済合理性に価値を見出すと、もはや小説の価値筋が無いなって思っちゃいますね。
良い小説家が現在においてもいる理由って、
僕ノートをやらないからだと思ってるんですよ。儲からないから。
儲からないからこそ小説は多分文学省的なものができるというか、
経済価値を負わない創造活動が、
多分生育として残ってほしいなと思う。
今も現代アートの話を前に聞いたんですけど、
ハックはできるんだと。それこそこれも良くない話だなと思ったんですけど、
すごい可愛い女の子で、ちょっと絵描きさんがいるおじさんに、
ちょっと東大卒でもビジネスバンバンやってるみたいなおじさんが、
プロデュースをしたんだよ。その子を。
いろんなやり方があるらしいです。どこのギャラリーで貢献させるとか、
誰だとコラボさせるとか。結果として、
なんか分かんないけど売れる芸術家ができた。
みたいな話を聞いて、怖い話と思ったけど、
でも昔からそれはあるんだ。ギャラリーが戦略的に、
ベンチャーキャピタル的に、まず売れる前の作品をいっぱい買う。
で、その作家を売れさせる。プロデュースによって。
で、売れた後で初期の作品をどんどん売っていく。
っていう話はどこにもあるので、
小説家がいいとこはまだVCがいないとこだなって思うんですよね。
全部が等しく1000円とか500円とかで売られてるっていう。
それはありますね。だからプロデューサーがいないんですよね。
小説家には。それこそ1冊目の本出したときって、
そのちょっとうさん臭い界隈の人がすごい読んでもらって、
あえて名前出さないですけど、お前は1冊100万で売れって言われたんですよ。
ビジネスって結局根付けだから、
あなたのためだけに書いた。
10万で売れみたいな。
それは僕が思う小説の形じゃないなって思うし、
でも他の業界から見たら、小説すごい非合理だなって思いました。
これを合理的にやっていくっていうことを、
僕も考えたこともあるけど、
それちょっともう無理かもね。
無理じゃないけど残っていく。
そういう芸術的な方向に行くしかないなって。
意地だなって思って結局女さんの話に入ってきたんですけど、
意地なんですよ。
いかに合理性から逃げるかなんだよな。
マーケティング持ち込んだら終わるなっていうのが結構思ってて、
僕もマーケティング的な視点なしで書いたことがないかって言われたら、
それは正直否定できない。
やったこともあるし、こんなの書いちゃおうって言ってやって、
それがある程度思い通りに行ったことも正直あるし、
シリーズ化も映像化も大変ためさっかりしてしまったから。
でもやっぱりマーケティングの限界みたいなのを
すごいそれ一回やって感じちゃいましたね。
突き抜けられないなってすごい感じて、
思ってる以上のとこまでは行かないっていうのはすごいあって、
本当の本気でこの世を接近したいんだったら
マーケティングやっちゃダメだみたいなことは
一周回って最近思いますね。
一回やってみたから分かったっていう感じがあって。
行って帰ってきてくださった。
良かった良かった。
闇の人間になる可能性があったりして。
諸説なんてマーケティングですよって言い出してた可能性が
言い出した。
僕も本当にあり得たと思います。
周りの編集者からずっと言われてるのが、
編集ってビジネスだと思っていて、
私が言い始めたら殺してくださいってずっと言われてて、
それだけはみんなの自意識警察をやろうと思ってるんですけど、
そうなんですよね、ハックは多分できるんですよ。
特に最近本屋大将的な価値観が我々の中にも
すごく浸透していて、
編集者の人の口説き文句でギュッとしたのが、
私はあなたに本屋大将を取らせられますよ。
うわすげーなこの人と思って。
そいつはヤバい。
ヤバすぎる。
聞くとあるんですって。ちゃんと型はあるんだって。
研究してる人はもうそれ分かってるから。
今年の本屋大将、僕すごいつくいって言ったらあれですけど、
本当に僕は素晴らしいことだと思いましたよ。
インザメガチャーチで熟試でっていうのは、
僕は本当に素晴らしいことだと思いました。
あの2つって良かったですよね。
これは批判ではないんですけど、
ちゃんとインザメガチャーチの熟試の感想を語られてる人を
僕は見たことないんですよ。
僕それ良いことだなと思ってて、
あの2つって1個のゴールに向けた小説家は全くないと思うんですよね。
元々2人も作家生がそうだし、
一方で佐藤さんはグルーヴ感というか、
重点音が気持ちいい作家さん。
それこそずっと読んでたい。
終わらないでほしいなって思う作家さん。
浅井さんはどこ食べても美味しい。
あれもともと日経新聞も新聞連載。
おそらく本人も毎回山場が来るように
意識されて書いてるのかなと思ったから、
浅井さんの小説読んでここがリアルだったとか、
ここ共感したはあっても、小説全体を語れてる
感想も書評も僕はないなと思ってて、
でもすごい、でも面白いと思わせたことが
僕はすごく希望だったんですよ。
ハックしなかった。安易な悲しいものバトルにしなかった。
優しいものバトルにしなかった。
2つが取ったことは、
まだ小説は読まれるのはすごく感動したんですよね。
今の時代に押し勝つを書くっていうのは
相当に難しいことだと思ってて、
おそらく1つのある方に収束しかねないテーマだと思っていて、
はっきり言うと、
ある種悲惨というか悲しさみたいなところに
落ち着けるしかないんだろうな。
という状況の中であれが書かれたっていうのは
めちゃくちゃ意義深いことだと思っていて、
ほぼほぼその描写で読ませるっていうことをやっぱりしていて、
あれも答えないじゃないですか。
塾誌も答えがない。その答えのない小説2つが
今年の本屋大賞の1位と2位だったっていうのは
すごい象徴的で、確かに今後
この波来るかもなっていうのはすごく感じました。
優しさ疲れみたいなものは最近すごく感じるところで、
ここ何年かの本屋大賞ってすごく優しかったなって思うし、
僕自身全然優しい人間ではないし、書くものも優しくないので、
優しいものが評価される時代に対して
ちょっと鬱となることがあったんですよ。
みんな疲れ果ててるから優しいものしか求めてない。
風邪ひいた時にお粥食べるみたいなことになってしまったらば、
これは全然小説書いてる人間も
ナロウ系を笑えないなと思って、
1つのフォーマットにたどり着く。
例えばさっき言った激ヤバ編集者が仕事をしてる時に、
アタマさんここでシスターフット売れましょうみたいな。
そんな使い方すんなよって思って。
でもやっぱりそういう時代が明確にあったと思うんですよね。
それは多分、
世界的な風潮でもあると思うんですよ。
一時期リベラル、いい風が吹いた後にちょっと疲れて、
ウォークに対してちょっと石を投げるみたいな流れが来て、
ちょっと反動的な、右翼的な流れが日本でも海外でも
来てるなぁと感じるんですけど、
疲れると人間帰ってくるし、
帰ってきたら帰ったら疲れるから、
いつか待ってれば自分の場所にまたスポットライトが戻ってくるんだなって希望が
結構今年のインザメガチャに直しなんですよね。
僕もなんかずっとしつこく絶対小説の時代が来るみたいな、
何の根拠もなく結構言い続けてたんですけど、
今年結構本当にもしかしたらちょっと
小説の時代が来た。
そうかもって思いましたね。
今それこそ賞があることは確かに救いなんだけど、
でも結局売り上げと賞しかないっていうのもまたシーンだと思うので、
やっぱそこじゃないところでもうやっていくしかないよなと思います。
中間小説の時代が来ると僕は思ってるんですよ。
いろんな中間なんですけど、
結構いわゆる中間の人だなと思ってるんですよ。
僕も結構そこは意識してて、
それこそデビューの時は俺が中間小説書くんやっていうの書いて、
これが全く売れなかったんですけど、
やっぱりマーケティングだぜ。
半分冗談ですけど。
でもやっぱり結局そうかもっていうのに
最近戻ってきていて、
もともと僕いろんなジャンル書く人ではあって、
でもやっぱりそもそもジャンルって後付けの概念で、
そのジャンルにむしろ順次る必要って全然ないですよ。
そうなんですよ。本当にそうだと思います。
だからそこってあんまり意味ないよなって思うので、
それこそ尾田さんとかもそういう人なんですし、
だからジャンルがどうこうっていうよりは、
どちらかというとその中間的な読み味なのか、
ある程度マーケティングをうまく使っていくのかのノードみたいなところを
もっと考えた方がいいのかなと思ってます。
ジャンル決めた瞬間にポジションが決まっちゃうじゃないですか。
あれが僕すごく嫌で。
僕ジャンルに順次るんだったらマジで相当な愛がないと、
例えば米澤さんとかミステリって結構講演されてて、
ものすごいミステリ愛。
僕が知ってる方は厚川達美さんとかもそうなんですけど、
もう考えられないぐらいミステリ接触してる方なんですよ。
僕そういう人がジャンルに順次るのはすごい綺麗だったと思うんですけど、
でもそこまでの覚悟がないんだったら、
なんかそこまでこだわる理由ってあんまりないのかなって。
ミステリがやっぱ独特ですよね、そう考えると。
ミステリ系の編集者の人がすごい読者の信頼が厚くて、
話聞いてるとやっぱ、
その人が作者がミステリだと思って出したものも、
いやこれはミステリじゃないとかいう風に、
結構悲劇で払いのけられるし、
全然売れなかったりもするから、
まずは村のお作法がちゃんとあって、
そこに順次た上でいかに新しいものを出せるかっていう、
読者の目が一番濃いって怖いですよ。
怖い、マジで怖い。
あそこは伝統芸能っていうか、肩が明確に歌舞伎街みたいだなと思ってて、
でもそこにはまると読者層も手厚いから、
10万本とか20万本バーンといくという中で、
中間でいる勇気が僕らはいるなと思ってて、
そうですね、だからアザプさんとかまさにジャンルできないと思うんですよ。
Cといえばタワマン文学なんですけど、
そこに名前を与えたことは僕はすごくある種正しかった。
戦略的にすごく正しかったと思うんですけど、
でも正直今タワマン文学書いてないじゃないですか。
でもやっぱオビにはちゃんとタワマン文学って書くんですよね。
書いたほうがわかりやすいですよって話になって。
でもそれは一つので、ある種だって今ね、
この間大島裕さんとの対談の中で、
魂の実家の話があって。
今魂の実家問われてるなと思ってて、
魂の実家で僕が言ってるのは、
あなたは自分のことをなんて自己紹介しますかっていう問いと同じなんですけど、
例えばある人は小説家ですというだろうし、
文筆家ですという表現もあるし、
僕の場合だとタワマン文学屋さんですって毎回言ってるんですけど、
屋さん全部ひらがなですね。
そう、屋さんです。
会社では普通に社会人ですって言ってるし、
社会人の中でも会社名を言う人もいれば、部長ですって言う人もいたりするときに、
自分を一番簡単に自己紹介するのは何ですかっていうのは、
結構その人のポジション、考え方のポジションに影響するなと思ってるので、
めちゃくちゃいいなと思うのは、
タワマン文学屋さんって言った瞬間に、
小説家がよくされる質問がされないじゃないですか。
これがめちゃくちゃいいんですよ。
だからそれこそ、岩井さんはいろんなジャンルを書かれてて、
小説家ですという受け入れ、
その質問ないじゃないですか。タワマン文学屋さんなんだから。
小説家って言った瞬間に、
岩井さんの中のいくつかの部分が切り取られちゃうなと思うんですよね。
目の前にいる人じゃなくて、
小説家なんだと思ったときに、
普段どうやって小説を書かれてるんですかとか、
どんな風に創作のアイディアは、
デビューのきっかけはとかあるじゃないですか。
それが僕、良くないなと思うし、
自分の思考もそこに刈り取られちゃう部分があるので、
自分だけの名前がずっと欲しいなと思ったから、
元のタワマン文学って自分が言い始めたわけではなくて、
若干野油的に言われたんですけど、
今タワマン文学を書いてるのは自分だけだから、
自分だけの言葉だなと思うし、
自分でその輪郭を定めることができるから、
結構楽なんですよ。
そうしないと良くないし、ジャンルに切り取られちゃうのが怖いんです。
僕は今。
タワマン文学って新しいジャンルのようでいて、そんなジャンルないから。
一人だけしか出て書いてないから。
厳密に言うとジャンルじゃないから、
めちゃくちゃ上手いポジションだなと思いましたね。
自分の固有名詞も大事だなと思ってて、
部長とかって一般名詞でもなく、
誰かの固有名詞でもなく、
自分を表現する言葉をちゃんと見つけるってことが、
自分自身を一番適正に表現することであり、
社会の流れとしても、
それって押し掛けだよね、それってセルフケアだよね、
今結構逃げ道があるんですけど、
そうじゃない自分なりの言葉をやらない。
それが真なる言語化だと思うんですけど、
他人の持ってきた言葉で何か語れちゃうことは良くない?
本当にそうだなと思って、
押し勝つとかで一番イラっときたのは、
子育てをしているお父さんにインタビューしたときに、
僕の押しは娘ですって言ってて、
すっごいムカついた。
押し?子供が?
って思って。言わんとしてることはわかるよ。
言わんとしてることはわかるけど、
押しという経済性を前提とした語義の中に、
自分の子供を入れますか?っていう、
そこがすごい自分の中で引っかかっちゃうんですよ。
他人との関係をどういう風に理解して表現するか。
押しなんだ、母っていうことのためだけに言ってるんですよ。
あれが良くないですね。
世に言う言語化って結局思考のサボりなので、
自分だけの言葉で、これは我々がやってる小説とか、
自己紹介じゃなくて、社会の事象もそうですよね。
そうだと思いますね。だからこそ具体的に書くっていうことがすごく大事で、
具体的にしか書けないんですよ。
具体的に、例えばブランドの名前とか、
今日は南青山で飲みましたとか、
そういう具体名をどんどん連ねていって、
輪郭を作っていくことでしか、
本当は書けないんですよね。
言葉の数が多くないとダメですね。
そういう意味ではそうなんですよね。
物を知っているっていうことがすごく重要なのはそういうところだと思うし、
物を知らないと輪郭も書けない。
具体的に書いていくっていうことはすごく大事なのかなと思う。
確かにな。
学生時代に広告代理店のインターンに行った時に、
これすごく自分の中でやって良かったなと思う経験がある。
あの業界100本ノックとか1000本ノックとかになって、
キャッチコピーを考えようとした時に、
とにかく1000個書いて、
1000個書いてから考えようって話があって、
その人がすごいのは、1000個書いた中で選ぼうとはしないんですよ。
1000個書いた結果、お前の中でいくつか路線が見えてきたはずだから、
それを教えろって言われて、
いい思考方法と思って、
その人は多分言語家じゃないんですよ。
とにかく言葉を吐き出すっていう試みの中で、
あるべき形を探っていこうって、
大きい彫刻を掘るみたいな、
石の塊をとにかく叩いていく中で、
仏が出てきたみたいなことが、多分そういう人だった、言語家で。
僕だからちょっと違うかもしれないですけど、
セルフプロデュースっていうのはあんまり、
信用してなくて、セルフプロデュースっていうもの。
僕は苦手というか、苦手というか分からないんですよ。
セルフプロデュースって。
めちゃくちゃいっぱい書いて、
結果そこで出てきたものが自分ですって言うしかないのかなと思ってて、
結局他人じゃないですか、評価するのって。
僕がここを見てくれって言っても、
みんなそこ見ずに全然違うとこ見て評価してくれたりするわけで、
だったら最初からもうとにかく書くしかないというか、
とにかく書いて出すしかないって思ってて、
中にはすごい小説家の方の中には、
狙って自分の作風としてこう見てほしいからって出される方もいて、
それでうまくいってらっしゃる方もいて、
それはすごいなと思うんですけど、僕には絶対に無理だなと思ってて。
セルフプロデュース的なことを、
基本的にあんまり信じてないから、
とにかく書いて出して、あとは自然と生まれるものが、
自分の輪郭になっていくんだみたいな感じなんですよね。
確かになんとなく自分分かったところからスタートしますもんね、
セルフプロデュースって。嘘なのでやっぱり、
書いたものから自分理解していくっていうのが本体のあり姿なんだろうな。
何か考えます?セルフプロデュースとかって。
当時は周りがタワーマン文学かっていうものに対して、
分かりやすいイメージを持ったんですよ。
パソコンで書かないとか、
毎日港区で飲み歩いてるでしょみたいな。
僕自身楽なのが顔を出さないし、
名前も出さないので、もう透明なんですよ。
もやがかかってるので自己像自体に。
むしろ周りが言葉をつけてくれるものに自分が入り込んでたって感じだったし、
多分ナオキ賞候補ってものもそれ一つなんですけど、
でもそれもそれで心地よくて、やってると結構近いんですよ。
書いたものか他人が思ったものっていう、
演劇的に自分の形が決まっていくっていう方が、
多分本物に近づく感覚もあるので、
確かにそうだね。
安易に自分から言語化しないってことは入り口なんだなっていうのは、
改めて思いましたね。
タワーマン文学屋さんが自分で言った言葉ではないっていうのはめちゃくちゃ重要なことだと思いましたね。
確かに。他人プロデュースだから。
結局顔と名前を出さないということも、
必要に迫られて的な側面も、
昼食をやってらっしゃるからっていう。
結果としてそうなってるっていうのが実は、
アザブさんって人から見るとすごいセルフプロデュース上手い人に多分見えるんですよ。
でも実はそうじゃないんだっていうことが、
すごく大事なことだと言われて、
そうじゃないからいいんだっていうことがすごく大事なんだなと思いました。
セルフプロデュースするなって話ですね。
本当そうですよ。これからの時代の大きい流れだと思います。
安易に言葉にしないとか自分を決めないっていう。
セルフプロデュースしない自分をプロデュースするなよと思うんですよ。
私ってセルフプロデュースしない人だからとかも言うなよって。
それは思考の宝器ですよね。
それもダメなんですけど、