はい、ということで今回123回、書くことの哲学。
はい、今回は倉下のターンということで、書くことの哲学という高断者現代新書。
今年の6月から出ている高断者現代新書の本を紹介したいんですけども。
書紙情報としては佐々木篤さんという方が書かれておりまして、
Wikipediaからそのまま引っ張ってきますけども、日本の映画評論家、音楽評論家、文芸評論家、地理評論家、小説家、雑誌編集者ということで、
文学雑誌MOOCなのかな、言葉とという雑誌の編集長でもあられる方で、
肩書きはいろいろあるんですけども、文章で食ってこられた方と。
しかもいわゆる文筆に限らない、もうちょっと文章全般、小説家ではないってことですよね。
一応小説も書かれているけど、肩書きとして一つ小説家で生きているというよりは、いろんなことを書かれている中で小説も書いているということだと思います。
本の帯の後ろに、37年間書くことで生きてきた著者が明かす書くための理論と実践ということで、大いに煽ってくるわけですが、
一応僕も物書きでして、15年くらいかな、この職業してますんで、僕自身もちょっと書くことについて考えていることもありますし、
当然大先輩である佐々木さんが書かれていることも踏まえて、書くことの哲学というタイトルなので、書くこととは何かということを踏まえた上で、
僕たちがどう書くという行為をしていったらいいのかということを今回ちょっと考えてみたいなということで。
内緒は言葉で書くっていうことを問い直すというのが本書で、書くことについて従来とは異なる観点からあれこれ考え直してみることを提案するという本なんですけど、
執筆技術のノウハウ本ではないんですね。文章作法とか文章の細かいテクニックについて語る本ではないんですけども、
一応ほにゃらの哲学と書いてますが、若干至難書的な位置づけもあるんで、ノウハウ書プラス哲学書割る2ぐらいの感じで読み始めると大きなズレは少ないかなと思います。
一応哲学という言葉があるんで、哲学という概念で書くことということを考えてみると、文字を書くことっていうことのその辺りを省略してるってことですよね。
これは言葉を書くということですね、もちろん。
図を書くとか、例えば絵を書くとか、そういうことを対象にはしていないっていうことなんですよね。
一応副題で言葉の再履修というのがついてますんで、対象が言葉にはなっていることはここで限定されますけど、一般的に漢字で書く書物の書を当てた場合は、言葉を対象にしていることが多いんじゃないかなと思うんですけども。
問い直すっていう言葉もある通り、哲学っていうこともある。つまりそもそもを問うということですね。それとは何かということを考え直す本。
考え直すことによって、執筆のマインドセットを変えていくっていうことを一つ目標としてるんで、書くこととは何かを考えると同時に書くことをサポートする、書くという営みをサポートするための本でもあります。
結局書くということについて考えていくと、書くということがちょっと上手になるかもしれない。
知れないぐらいの感じで受け取ってもらえばいいです。最初に断っておきたいのは、本書は端的でわかりやすい本ではないです。残念ながら。
太字の部分をつまみ食いして読めば読めるタイプの本ではないので、じっくり読んでいく必要があるわけですが。
そもそも僕この本ね、発売を知る前にこの佐々木さんの本を一冊だけ読んでまして、日本の思想情報改訂版という、もともとダンコバンで出たのがちくま文庫で出た本がありまして、
カタカナで日本となっているんですけども、いわゆるニューアカデミー、ニューアカの時代から現代の東さんに至るまでの日本の思想的な流れを解説した本だったんですけど、
当然それぞれの思想とか哲学の話も面白かったんですけど、文章が非常に面白いというか魅力的だったので、
おそらくこの本が単なる解説書で終わってたら、僕はこの日本の思想が面白くなかったら多分この書くことに哲学は呼んでなかったと思うんですけども、
ああいう本を書かれた方がどういうスタンスで文章を書いてきたのかが気になったので、ちょっと興味を持って手に取ったという経緯がありまして、
これはたぶん後々この話を聞いてくるんですけども、最初にまず大きな構成がありまして、2部立てになっておって、1部が理論編、第2部が実践編でして、
小立てはどこかのAmazonページから確認していただきたいんですけど、今回は第1部の方だけをフォーカスしますので、第2部が気になる方は実際に手に取って読んでください。
まずこの本についてどう紹介するかなというところで、どんな本ではないのかと否定の方から定義してみると、先ほども言ったように書くためのメソッドとかテクニックを支難する本ではないので、
ライティングハックとか作文技術の本ではないです。それで関係することですけども、上手な文章を書けるようになるとか、伝わる文章を書けるようになるということを目指している本でもないんですね。
テクニックが教える本でもなくて、上手な文章を書けることを目指す本でもない。
つまり、巷に並んでいる文章系の本とはかなり姿勢が違うし、アプローチも違うというタイプの本で、書くためのマインドセットの再構築ということなんですけど、本性が一番効くタイプの人は書きたいという気持ちがあるとか、書かなければならない状況があるのにも書けない。
あるいは書いたんだけど、どうも違うという感じになっている状態の人に、そのような状態を打破するためのマインドセットの再構築を教えるという本なので、期限が迫っている卒論を短期間で仕上げるタイプの本ではないです。
書くという行為を考えることによって、僕たちが書くに向かう姿勢を変えていくことで、結果的に書けるようになるかもしれない。
めちゃくちゃ乱暴な言い方をすれば、書く気になる本っていうことなんですかね。
もうちょっと言うと、いつの間にか書けている本というのを目指すタイプの本ということで、ノウハウ書とか指南書の性格を持ちながら、内容と文体を含めて全然違う。
これまでのタイプの本とは全く違うし、全く新しいアカデミックライティングの教科書とも違う。
あれは厄介に立つ本でしたね。
そういうのとは違うけど、書くに困っている人が陥っている状況をアシストするための内容としては非常に優れた本かなと思うんですけども。
早速内容に入っていきますが、第1項が日本語を書きかっこつきの外国語として学び直すことということで、本書の副題もあるんですけど、言葉の再履修ということで。
僕たち日本語、こうやって母国語というのは、よし、勉強しようと思って学得しているものじゃなくて、もちろんもう自我が芽生えたというか、自己意識がある段階でもすでに言葉というのが使えるようになっていると。
特に話し言葉は。
だから、学ぶことをせずに習得している。
これは第2言語を学ぶのとは全然違う言葉のあるようで、もういつの間にか持っているものだと。
その持っているものをもう1回確認しようというのが、再履修の再という言葉の意味ですね。
本書のスタートとして、著者自身が自分に自問しているんですね。
自分がこれまでやってきたとか、それは今はもう現時点でやっていることは結局のところなんだろうかっていうことを考えたときに、言葉というもので何かをすると。
言葉というものを使って本書で言語表現の可能性を探求してきたと。
他の人が書いた文章を読むのも好きだし、自分が書く文章で様々な喜びが生み出されてきたと。
そういうことを好んでいるから自分も物書きをやっていると。
つまり、著者の観点でいうところの、言葉を使って何かをすると言語表現であるということがまず1つポイントとして抑えておく必要がありますね。
単に命じられたマス名を埋めるための書くという行為じゃなくて、言語表現として言葉を使って何かをしている人であるし、本書で学ばされるのも基本的にはそういった行為です。
そこでポイントとなっていくのが、言葉は道具なんだけども道具だけでもないと。
ここで道具というのはコミュニケーションのための道具ということですね。コミュニケーションのための道具やけど、それには終わっていないと。
言葉は道具だけではないし道具以上の意味とか意義とか機能とか価値とか可能性があると。
芸術的な側面とか文化としての次元があるという表現があるんですけど、
ここの部分を僕が読んでいて、さっき思い出したのが勉強の哲学の千葉さんの本に出てくる、
普段使わない難しい言葉をちょっと使ってみるっていうハックというかテクニックが出てくるんですね。
話すを、会話だともうちょっと簡単やけど、ちょっと小難しい熟語で言ってみるっていうレッスンがありましたよ。
これ実はかなり効果的なんですね。
小難しい言葉を変えると、そこから展開される理論とか思考とかロジックが変わってくるんですね。
そうやって変わってくるってことは、コミュニケーションのためにつまり僕が思っていることを目の前の人に伝えるっていうための道具以上の効果がそこにあるという感じがしますね。
むしろ言葉そのものによって思考が促されるような側面がある。
言葉のありようが変わることによってその展開する思考とか理論とかが変わってくるとしたら、
やっぱりこれは言葉が単にコミュニケーションの道具以上のものであるという感じが僕はするんですけども。
この2つの本が僕はちょっと好していると感じるんですが、基本的に言葉はコミュニケーションのための道具ではない道具以上の別面の価値があると。
もう1個面白いのが、文章は技術もあるがそれだけではないという話で。
もしも上手い文章とか良い文章っていうのが一通りしかなかったら、世の中の文章は全部同じになってしまいますということが書かれてまして、これはそうだなと思うんですけど。
本文の中には書かれてませんが、これはちょっと安倫、生成AIに対する謙遜みたいなことも感じられるわけですね。
めっちゃそれを意識した言葉だろうなというのは聞いた瞬間に思った。
もし言葉が道具であり、道具の上手い使い方という基準があるとしたら、正解っていうのは1つしかないわけですね。
その正解の1つっていうのは別に僕らがいちいち想像することなくて、ある統計的パターンから必ず導き出されるものになってしまうと。
でも、著者の考えではそうではないと。
そもそも上手い文章や良い文章っていうものの利用は1つではおそらくないだろうと。
その1つではないからこそ僕たちが文章を書く価値というか意義があるし、それから言語的な表現に繋がってくると。
だから本書において、この現代において言葉の使い方とか書くことを改めに人間が学ぶ。
それは言語表現ということの技術を身につけることの目的として、究極的には自分が自分だからこそ書ける言葉。
ある意味では自分にしか書けない文章を書けるようになることだと思いますとあって。
ここが一番最初に言った分かりやすい文章テクニックとかを目指すものとは違う本のスタイル。
私が私だからこそ書ける言葉を書けるようになるために、僕らが当たり前のように使えてこの母国語を再履修していこうということが第1項で最初に宣言されるという感じです。
さっきの道具が言葉は道具でうんうんっていう話を聞いたときに、最近哲学で学んだ用語で、心理には道具的価値だけでなく、それ自体に内在的な価値があるのだみたいなフレーズを思い出したんですよね。
今の話で言うと、内在的価値という言い方ではなかったですよね。
別の側面の役立ち方があるという言い方になりますね。僕の場合だったら。
それってどういう表現ができるんだろうかっていうことをちょっと思って。
これ難しいですよね。
例えば、芸術的側面で言うならば、その現れ方によって印象が違うということもありますけど。
例えば、同じ情報伝達でも漢字で書かれたものとひらがなで書かれたものは、僕らの印象が違うっていうのはコミュニケーション以上のことだと思いますが。
それでも全然言葉の持てる価値を汲み尽くせてないというか、ある意味ですら言葉にできないわけですけども、それは逃げですが。
内在的価値というものとは、やっぱり本質的にはまず違いますよね。その価値というのは。
価値ではないと思うね。言葉そのものに内在的価値があるとは僕は思わないけども。
同じくそういう感じはする。
ただ道具的価値っていうのは、ある目的に適合する役割だけではないということは言えるし、別の言い方したら複数の役立ち方があるし、もっと言うと道具が自分のために役立つわけだけど、
さっきも言ったように言葉によって自分の思考が変わるっていうのは道具に導かれているわけで、
主体性を超えている側面があるから、道具以上っていうのは多分そういう意味でも取れるかな。
使う人使われる道具という構図が崩れてしまう。
自律的に駆動するようなニュアンスがある?
使う人の方が引っ張られてしまうようなことすらも道具にはあるという、言葉にはあるという感じがするね。
ああ、あれかな。音楽に合わせてギターを弾いていたら思いもつかんかったフレーズが生まれてしまったみたいなニュアンスと近いものかな。
道具性をはみ出た部分がある。もちろん道具としての役割もあるけども、そこ以上のいろんな側面の価値があるということが確認されるし、
日常的に、特に僕ら二人は言葉を使って日常的に仕事をしていますけど、確かにそういう面はあるよなとは思いますね。
自分だから書ける文章とか、あるいは個性とか魅力という表現じゃなくて、著者は必然性という言葉を使っているんですけど、
自分が必然性を持った言葉を書くっていうことは、
これはやっぱりこの生成エア時代に、なぜ我々が面倒くさく文章を書くのかということの意味を再提起するとしたら、おそらくそこにあるということだと思いますね。
成果物自体に価値があるんじゃなくて、過程に意味と価値があるみたいなニュアンスは確かにありますよね。
もちろんでも、それは成果物が全くなくていいとか、成果物が没個性でプロセスが個性的だからいいという話ではなくて、
おそらくそれは付随する。プロセスが仮にその人らしいものであれば、出てくるものもその人の必然性を持った言葉になっていくはず。
だからプロセスとプロダクトの両方を必然性を持って考えるということにおいて、
そういうものが生まれるとしたら、わざわざ自分が手を動かして、頭を動かして文章を書く価値というのが、たぶん新たに見出せるのではないかなと思います。
逆に言うと、生成AIによって作られる文章には道具的価値しかないのかもしれない。
少なくとも普通のプロンポットで生成されたものは、ある程度ランダムなノイズがあるにしても、統計的に改革付きの正しい文章になってしまうわけで、
それはその人が生成する必然性というのは伴わないわけですね。むしろそれを切断する。その人の人らしさを切断することで生まれる正しさなわけだから、
おそらく方向性は逆で、もし僕らがそのような言語表現としての価値を言葉に見出さなかったら、それはもう本当に人間が書く必要はなくなるでしょうけど、
もし見出すとしたら改めて、この書くという知的な営みを引き戻す必要があるんだろうなということが第一項で、
全然生成愛という言葉は第一項には出てこないわけですけど、これを読んだ人は多分それを感じることになると思います。
たぶん強烈に意識して書いているでしょうしね。言わんだけで。
この段階ではちょっとあんまり、後半の方で生成愛の話は出てくるんだけど、ここでは意識されていない。
本章全体を通して出てくる話なんですけど、日本語も外国語のように読むという話がいくつか出てくるんですが、
これいろいろポイントがあって、当然日本語を読むときにあたかも知らない言語で読むという方法もありますし、
あるいは単純に同じ日本語を外国語に翻訳したときにどう読めるかというふうに、別の言語を通して自分の言語を見るということもできますし、
もっと言うと、単に日本語というよりは、自分の言葉、自分が書いた文章っていうのをあたかも他人が読むかのように読むということも含まれていて、
これは結構、執筆している人はある程度意識していると思うんですけど、自分の書いた文章っていうのは自分の当たり前でできてるわけですね。
それを一旦当たり前じゃない視点で見ることによって、自分の文章を簡単に分析していくっていうようなアプローチがこの章で引き続き出てきますし、
僕が日常的にやってますし、たぶんもの書きの人は頻繁にやってると思うんですけど、
辞書を引くと、日本語の知ってる言葉の、これも僕の中で日本語も外国語のように捉える一つの方策だと思うんですけど、
知らないことは引くんじゃないですね。知ってることは引くんですね。知ってると思っていることは引くなんですよ、実際は。
その言葉の意味を確認することで語彙が豊かになるとか、言葉の感覚が磨かれるとか、もっとダイレクトな表現ができると思うんですけど、
こういうことを日常的にやることが、変な言い方すると文章力の向上のためで、
やっぱり辞書を引くか引かないかっていう、自分の当たり前に使える言語を知ってるものとして捉えるのか、
未知の部分があるものとして捉えるのかっていうことの違いは、ものを書く行為において結構重要だなっていうことをちょっとここを読んで思いました。
信じて疑わない人が上手になるとは思えないですからね。
そうですね。だから自分の書いた文章も荒探しじゃないけど、突っ込みどころを入れながら見ていくとか、
知ってると思っていることはとか、ことわざとかかな。
たまに意味が反対で受け取られることもあるんで、それをいちいち確認していくこと。
いちいち確認していくってことは、僕らが知らん言語を読んでいる時には普通に起きていることですよね。
知らん単語が出てきたら辞書を引くっていうのは普通にやるわけですけど、
それを日本語のレベルでやってみるっていう。
それはやっぱり意識しないと多分できない。
つまり当たり前に使えるわけだから母語っていうのは。
そこを意識的にやっていくっていうのが一つの訓練としてあるんじゃないかなと。
これは逆に言えばやっぱりどれだけ読めるかが大事だっていうことですよね。
そうですね。読んだ上に読めてないことも自分が読めてないこともちゃんと分かれる読み力っていうのがやっぱり必要。
読みの解像度を高めて自分の文章をその目線で読めるように。
文章はやっぱり一番練習しやすいですからね。そういう意味で言うと。
固定されてるし何回もやり直せるしコストも小さいから。
残ったものが勝手に残るんですからね。
いろんなものの中でもそれが一人でやらなあかんからフィードバックが歪むっていうことはあるにせよ、
ある一定の姿勢を身に付けたら向上しやすいものではありますね。
書いたものが勝手にで、さらに何度でも繰り返せる。
そんな時間はコストも大きくはないですからね。
やり直したりとか見直したりとか。
何かの用具とかフィールドを揃えなあかん技能に比べると練習しやすいでしょうね、これはね。
第2項なんですけど、よくある悩みに対する話で、タイトルが言葉にできないものはどこにあるかなんですけど、
文章を書こうとしているけど…のタイプの悩みっていうのが書けなさと。書けなさにある。
書けなさっていうのは書きたいことっていうのがあるけども、それがうまく言葉にできない状態であるっていうのを、
ここは理論編ですからかなり分析的に見てるわけですけども、
2つあると。書けなさ、あるいは言葉にできなさっていうものの配別すれば2つに分かれると。
で、それは言葉未満と言葉の明。明っていうのは入る方の明ですね。植物の方の明の2つに分けていると。
で、言葉未満っていうのはどういうことだというと、イメージとか感触はある。
心象に何かはあるけども、それがまだ言葉にはなっていない。言葉の状態にはできていないものが言葉未満。
で、言葉の明っていうのはフレーズとかはある。つまり言葉の一部分はある。
ただそれが文章としてまだ展開できていない状態と。
この2つの言葉にできないがあるっていうところは実感としてもよく分かるんですけど、実用的な指摘なんですけども、
まず言葉未満の状態だから言葉にしたいという動機が生まれるという指摘がありまして、これはそうなんですよね。
そのもやもやしていると。もやもやしているから書きたいという気持ちがあるわけですね。
逆に言葉の明あるフレーズになっているからこそ続きが書けないっていうことがあるんですね。
たぶん、誤った方向で固められてしまった言葉があるがゆえに、その次がうまくつながらないっていうことがある。
こういう時は言葉の目にこだわらずに、一回言葉未満に戻した方が良いだろうという実用的なアドバイスがありまして、
これは結構有効というか、一般的に言葉未満の状態から言葉の目にしましょう、言葉の目から文にしましょうみたいな一方通行のフローが文章作法ではよく示されるんですけど、
それは指摘のステップが間違ってないっていう前提で作られるステップなんですけど、確かにあるんですよ。
概念、言葉にしてしまったがゆえに次に進めないとか、ある文を書いてしまった上に次に進めないっていうことがあって、
調査としては言葉未満と言葉の目の状態を行き来できた方がいいと。
だから言葉未満の状態を一旦言葉の目にしてみるのはもちろん有効やけど、
それで多分うまくご展開がなかったら一回リセットして言葉未満のそのモヤモヤした状態に戻してから、
もう一回言葉の目になるのを待つみたいな状態にした方がいいという話がありまして、
もうこれだけでも値千切ったアドバイスだと思います。
こっちはだから、さっきの自分のモヤモヤというよりは、
例えば非常に雑に言うと、愛について語りたい。
愛について直接語ることはできないけど、
どうにかしてそれについて語るっていう道を歩くことができるわけですね。
そのように語り得なさから書けないというよりは、
もちろん語り得なさに向かって書いていこうとする。
それもやっぱり一直線のステップじゃなくて、
行きつつ戻りつつ進んでいくという方法が紹介されまして、
そこで語り得なさとか語り得なさが出てくるんですけど、
語り得なさがエンジンになることもあるというので、
第3項につながるわけですけど、
第3項でいろんな人の話が出てくるんですが、
主だったりすると高橋源一郎さんの話がいっぱい出てきて、
その語り得なさについて出てくるんですけど、
人間のややこしい心理でして、
書けないことだから書きたい、
あるいは書きたくないのに書きたいこと、
みたいなアンビバレントな心理について分析されるんですけど、
これも結構僕はよくわからなくなって、
やっぱりある時点で、
それのサブジェクトについての答えとかが分かっていない、
あるいは表現しきれていないから書きたい、
あるいは書くことを通して考えたいということが
よく行われるわけですね、僕の中で。
だからある段階で書けないってことは全然ネガティブだ、
全然ネガティブじゃないと言うとさすがに大げさですが、
ネガティブばっかりでもなくて、
むしろそういうのがあるから人は書くということをするし、
書くことの精度とかを高めていこうという動きも起こるんで、
だから書けなさを、あるいは書けないことっていうのを
単に遠ざけるというよりは、
それをどう付き合うのかが文章においては多分非常に重要で、
当たり前に書けてしまうことって、
概ねもう書かなくていいことなんですよね。
もう結論がわかっていることで、
もっと言うとそれは多分常識的な結論で、
書かなくても生成できるものだと思うんですよ。
自分の中でも明瞭にわかっているものって。
だから僕の中で書くべきことは書けないことではないかという
そういうアンチテンスが思い浮かぶんですけど、
この3項は私たちが何について、あるいはなぜ書くのかについての
哲学的な思考がここで明らかになりますが、
これは人によるとは思うんですけど、
現代で文章を書くことにおいてこの書けなさをどう付き合うのかというのは
結構大きな問題だと思います。
第4項が上手な文章と下手な文章なんですけど、
上手な文章の上手さとは何かということで、
10人集まって上手な文章ってどんな文章ですかって聞いたら、
みんな違う文の形を多分上げると思うんですね。
小説に限ってても名文って呼ばれるものは、
たぶん列挙したら文体がそれぞれ違うと思うんですね。
人それぞれではあると。
それについてもうちょっと考えていこうということがこの4項なんですけど、
まずその現代的な風潮として偏りがあると。
どんな偏りかというと、文章の金に2大ファンクション、
2大機能っていうのを上げるとしたら、
伝達と表現であろうと。
伝達って何ですかね?
コミュニケーションですね。
Aという主体からBという主体に意味ない用語を伝達するという。
当然この1つのメッセージは両方含まれていることが大抵多くて、
その成分がどっちが多いか少ないかっていうことが大半なんですけど、
法律的な文章でいうとほぼ伝達に置かれていて、
前衛的な小説の場合はほぼ表現に置かれているわけですけど、
両方必要なんですね。
何書いてるかわからない小説は小説の機能を全うしませんが、
事実だけしか書いている小説は小説と呼べないみたいな感じかな。
両方の成分が必要だけども偏りがあるって言ったのは、
伝達の方があまりにも重視されていると。
伝達が重視された場合、
基本的には伝わりやすさ、分かりやすさが文章の価値を測るものさしになって、
そういう文が上手な文であるという風潮が生まれていると。
これは実際そうだと思いますし、
現代のビジネス書、実用書の表現は基本的に表現的な良さとかは、
基本的には無視されるかむしろ剥奪される形で伝達性の高さが重視されていると。
だからといって、文章全体を眺めてみた時に、
冗長的な文章とかノイズの多い文章とか長ったらしい文章には、
その価値、バリオみたいなのが全然ないのかっていうと、
おそらくはそうではないと。
おそらくはそうではないっていうのは、
長ったらしい文章を好む人もいるよね、という話ではないということなんですね。
好む、好まないだけの話で言ったらあかん。
そう、そういうことではなくて、
当然、長い文章でも価値がある文章があるし、
短くて分かりやすい文章でも価値がない文章があるということだから、
独立的なんですね、基本的には。
そこだけで見りゃはいけない。
文章のバリューと長さっていうのは、
もちろん短い方が読みやすいっていう価値はあるものの、
そうじゃない価値の測り方があって、
そうじゃない価値の測り方において長い文章が使われることは当然あるだろうと。
これはさっき出てきた、いわゆる道具的価値ではない価値みたいなものだということですよね。
そういう価値、道具的ではない価値も文章の魅力につながっているし、
そういうことを考えた時に、一般的な文章読本とかで勉強して、
短い文章を書きましょうって言われて、文章を書くと。
もちろんでもあるんですけど、そういう短い文章は確かに練習したら誰でも身につけられるスキルなんですね。
それは、訓練とともに道具的価値の高い文章は書けるようになると。
実際、日本のそういうノウハウが溢れたこの界隈では、
そういう上手い文章っていうのは基本的にたくさん見られると。
しかし、それは伝達を役割とする文章であればそれでいいけど、
そうじゃない役割を期待する時に、
世の中にいっぱいある、つまり誰でも作れる文章は、
つまりその人の必然性を持った文章の真逆なわけですから、
そうじゃないところでいきたいと。本書では。
それはどうやって差別化・再化するかっていうと、
特殊なことは必要ではないと、著者が言うには。
いわゆる個性、個性と呼ぶとしたら、個性の種みたいなものはもう皆が持っていると。
あとはそれは育てていけばいいんだよという話がありまして。
とにかく短くて分かりやすくすればいいという、
常識から一旦距離を置くという話がありまして。
常識を捨てろとは書いてないんですね。当たり前ですけど。
短くして分かりやすいっていうのは確かに一つの真理、
真理っていう全体の一部を構成しているんです。
それは間違いない話ですね。
でもそうじゃない書き方もあるというふうに、
一回考えてみるっていう視点の持ち方で、
文章とか文章の価値っていうのを考えると、
もうちょっと視野が広がるんじゃないかなという話で。
この辺の後半では、悪文は癖になるという話があって、
日本の国内に限っても、
ひたすら長い一文を書く人って思い浮かびますよね。
いろいろ有名な方で。
全然短文志向じゃないわけですよ。
その人たちの書いている文章が、例えば売れてないとか人気がないとかっていうと、
そんなことはないわけですね。
むしろその文の長さがその人の個性になってたりするわけですよ。
1ページ丸々、丸がない文が続いていくみたいな、
ちょっと具体的な名前はあげませんが、
人がいたりとか、
吉田健一っていう人の名前も、
文系評論家なんかもあげられてるんですけど、
決して流暢というか、
わかりやすい、スラスラ読める文章ではない。
かといって、
アクロ的にわざと長い文を作ってるような、
技巧的なものでもないけど、
その、
自然な下手さっていう表現が出てきましたけど、
でもね、やっぱりね、
僕も吉田健一の文章を読んだことありますけど、
確かにね、
噛み応えがあるというか、
読んでる特性になるんですね。
そこにある文章を、
また読みたくなる感じがある。
ここがポイントで、
精々栄やかに書いた文章を、
時間を経ってもう1回読みたくなったことがあるかというと、
これは皆無なわけなんですね。
基本的には。
その端的な事実を認めよるって話なんですけど、
これは結構受け取るのが難しい場合があるんじゃないかな
と思うんですけど。
なぜならば、僕とゴリゴさんは日本語という
同じ言葉で喋っている気がしますよね。
同じと言われる言語を使っている。
使ってますよね。
でも例えば何でもいいんですけど、
例えば計画っていう言葉を
僕たち2人が耳にした時に
思い描くイメージがピタリ重なるかっていうと、
実はそんなことはないわけですね。
それは印象が違う。
好きとか嫌いとかが違うよりもっと手前に
そのイメージ。
その言葉から想像する何かですよね。
何かが一つではないとしたら、
そこはもう違うわけですね。
だから世界中に多様な言語がある。
一つの言語の中に方言があるっていう多様性もありますが、
実は少なくともこの同じような言語を喋っている2人でも違うし、
言ってみれたら、もっとそれを深めたら、
自分っていう一つの主体が
一つの人生の中で使っている言葉すらも
多分そんなに同じではない。
そういう言葉の多様性とか複雑性を
まず認めた上で、
自分の使っている言葉に
どんな固有性があるのかを確認することが
スタートだとここはレッスンされるわけですね。
これは前段の話と通じるんですけど、
まず文章を自分が書くとありのままに書くと。
そうした時に正しい文章の書き方から
採点されて添削される。
より短く冗長性を区切って
ねじれのない話・理論が整った文章に
直すというやり方をして、
人は文章が上手くなっていくというステップがあるわけですけども、
その前にやっておいた方が良いことがあるのではないかという話なんですけども、
自分がどんな風な言葉遣いをしているのか、
どんな風なロジックを展開しているのか、
標準的な正しい文章からどう外れているのかを
まずそれがあるのだと認めましょう。
正しい、間違った文章の書き方をしているというよりは、
自分はこう書いてしまっていると。
そこに、まずそういうのがあるのが
言葉の多様性ですし、
他とは違う曲がり方・尖り方・へこみ方をした文章を
個性の種として見ようではないかと提案されるわけですね。
一般的にそのようなものが正しい文章からしたときに
マイナスである。だから削ろうといった先に待っているのが
没個性の文章で、非常にまずいことに
その没個性の文章は生成AIの正しい文章に100%負けるんですね。
介護官にしか絶対にならない。
それはもう明確だと思う。
なので、そのとは違う回路を繋ぎたいと。
そうとは違う回路をどう繋げるかというと、
自分がありのままに書いたときに出てくる
尖り方とか曲がり方とか方向性であろうと
それをまず確認しようと。
どういうふうに自分が文章を書いちゃってるのか
うっかり書いちゃってるのかを確認しようと。
問題は、そうやってうっかり書いた文章を
自分の個性だと主張しようと言っているのではないですね。
そこにある個性、尖り方っていうのを
個性に添加できないかを考えましょうと。
そこにあるものを武器として使えないかを考えましょうということですね。
ここのステップが非常に大切で
ありのままの文章イコール個性っていうのは
基本的に品質の低い文章より何だっけ?
あれですね。
何だったっけ?
ナンバーワンになれなくていいのやつ。
何だったっけ?
花。
世界で花やられたやつ。
もちろんありようとして文章が劣ってるとか間違ってるとかは言いませんけど
その文章が誰かに読まれて機能を発揮する以上
ある程度の読みやすさとか論理の担保性っていうのは絶対必要なわけですね。
ただしそれを始めから決まっている正しい方向に向けて削除していくよりも
盆栽と同じでどこか伸ばしていきゃいいんじゃないか
良いと思えるんじゃないかっていうポイントを探って
それを育てていくっていう視点を取るのが良いのではないかと。
これは僕は別に意識してないんですけど
多分自分も似たようなことをやってきたんじゃないかなと
ちょっと振り返ると思いますね。
自分も意識していたかっていうと
そういうやり方を意識した気はしないけど
少なくともやっぱ俺の書き方みたいなプライドがあって書いているっていうのはある。
プライドを構成する何かの中で
これは削ったらとかこれをやめたら
俺の文章じゃなくなるという何かが多分あると思うんですけど
チャットGPTとかあいつらに修正されると
見事なまでに全部それをやってきて
逆に天才だなとも思えるんだけど
でもやっぱりそれがゴリゴさん見た時に
その文章A B見た時に削られていると判断できるわけですよね
判断できるセンスが
本当やめてくださいっていうことをピンポイントにやってくる
それがでも判断できるセンスがない文章を見る目がない場合
上手くなったで終わってしまうと思うんですよ
上手い文章になったで終わってしまう
だからやっぱそこの見る目ですよね
自分の文章を見る目っていうのがちゃんと育まれてるからこそできる判断っていうのがあって
だから先生AIを使う使わないの話もやっぱその文章を見る目が
その人にあるかどうかによって多分180度変わってくる気がしますね
結局読む力に変えてくる感じですねそれでいうと
そうですねで結局その次の話もじゃあどうしたらいいのかっていうと
自分の言葉をより通過するためにたくさん読みましょう
同じ結論になろうとしている
でその自分以外のつまり他人の言葉を読もうとでできるだけたくさん読むことで
いろんなその多分さっき言ったそのいろんな個性があるわけで文章に個性があって
こういうのも面白いなとか自分はこういう文章に良さを感じるなっていうことを磨いていけば
自分の文章のそのありのままの文章が持っている尖り方でも
ここは活かせるなっていうような判断が多分ついていくようになるんで
読むことを鍛えてで自分の書いた文章も他人のように読んで
でそこから進む方向を決めていく進む方向を決めるというとかなり主体的なので
種っていうのはやっぱり勝手に育つんである程度その自主主体性から外れたところにはあるんですけど
こういうふうに成長していってくれたらいいなという願いを込めてそこを見守る
あまり削らないようにするっていうスタンスを取れればいいんじゃないかなというところが
個性を伸ばすというところの前半部分ですかね
でもだいぶ長くなってしまったのでちょっとかなり端折らせていただくんですけども
第6個がロジックとレトリックという話が出てきましてこれも非常に面白いんですが
これも基本的にその個性をどう伸ばすかっていう文脈で受け取ってもらったらいいんですけど
著者が2つ提示するまずロジックとレトリックなんですけど
僕らが一般的に理解するロジックよりはかなり広い意味で使われてます
ロジックとレトリックは全然別のものではなくてむしろ関係しているもの
一つの表現に対してロジックもレトリックも効いていることがまずあると
これもロジックとレトリックつまり文章を書くときにロジカルに書きましょうという話ではないと
ある人が文章を書いたときにその文章にもう既に雇っているものがあって
それをロジックと呼んでるんですけど
それはだいぶ聞いたことない概念かもしれない
一番ロジックは複数の意味で使われてるんですけど
例えば例がありまして私は犬を好きだっていうのと犬を私は好きだっていうのは
分位的には同じですよね
形成される心象のイメージは多分一緒だと思うんですね
主体がいて犬がいて主体が犬を好んでいるっていう図ができると
で著者から言うロジックはこのように文型が違っても
同じ心象を受け取れることを担保しているものとしてまずロジックっていうのが使われます
それがないとそもそもその分位が確定しないわけですから
だからそれがまず第一弾のロジックなんですけども
かといって私は犬を好きだと犬を私は好きだっていう文の印象は違いますよね
受け取る感じその印象はエフェクトと本社が言うんですけど
でこのエフェクトの違いはおそらくですけど
この文を書いている著者が次に紡ぐ文を書いてくると思うんですよ
うん明確にそうだと思う
でそのようなある文が次の文を呼び出す
でその文が次の文を呼び出すっていうその偏りによって生まれる文が生成されていくその流れ
あるいはそれを読んだ読者がその受け取る何か
その文の中で受け取る何かもロジックだと言われます
だから一層のロジックと文の流れによって形成されるものもロジック
でこのロジックはさっきも言ったように論理的という単純なロジカルという意味じゃなくて
このような文の展開を規定位置するかその文の展開が生み出す何か
でこれ読んでて論理的思考は何かっていう岩波新書の本を思い出したんですけど
この本ではその論理的と呼ばれるものは文化によって違うという大胆な提言がされてまして
アメリカは経済フランスは政治イランは法技術で日本は社会っていう四つの領域において構成される論理っていうのがあって
その種類の文化に所属する人が文章を読んだ時にいかにナチュラルにそれを受け取れるか
を受け取れる具合を担保するものを論理と呼んでるわけですね
だから論理学の論理よりもはるかに広い意味で使われてるんですけど
多分この二階層目のロジックはこの意味のロジックだと思います
ある文が全体を読んだ時にこういう流れになってこうなっていくなっていうことを感受しているもの
感受させているもの内観させているものがロジックであると
もう一個最後全部を読み終えた後に読み終えると全体像みたいなのが頭の中に思い浮かぶ形成されるわけですけど
そうなると第2章は全体から言ってこういう役割を持っているみたいな把握の仕方もできるわけですよね
これは理論を順に積み上げていったリニアな流れのロジックじゃなくて
まず全体があって部分っていう全体論ホリズム的な感じのロジックなんですね
全体の中でこれはこう位置付けられるっていう全体から派生するロジックもこれもロジックで
リニアなロジックではないっていうことか
そういうふうに複数の階層僕は層って感じましたけど複数の層のロジックっていうのが文にあって
僕たちは基本的に文章を書く時に収まりのように書いてると思うんですね
ただ適当に段落をつなげてるというよりは自分の中にあるしっくりくる文の流れで書いてると思うんですよ
リニアなロジックかな
こう来たらこうでこうなるだろうっていう頭の中の展開に応じて書いてるし
その展開を意識すらしてなくてもなんかしっくりくる文章にはそういう流れ一本の軸みたいのがあって
これがつまり著者が言うロジックは花からあるという話だよね
人が言葉を学ぶ話す時に何か既定ある基準既定に沿って書いてるはずで
日本の場合はよく作文で言うと何々ありました私はこう感じましたこれからこうしたいと思いますっていう
その作文を書かされるわけですけどそれもあるロジックに沿って書いてるわけですね
日本の作文はロジックだねっていうのはわかる気がするすごく
そういう風な展開の相対僕はこういうもの文脈と読みますけどに沿って人はまず書くと
そういうものは学習するわけですね
言葉を学ぶ時にセットでついてくるという感じが僕はするんですけど
ロジックを単独で学ぶというよりは僕らが読んできた文章に宿っているロジック性っていうのが
自分の中に基本性としてあって自分が出す文章の中にそのロジック自然についていく
それなしで紡ぐのは多分難しいぐらいのことだと思うんですけど
それをまず見極めようとつまり自分がどんなロジックを展開しているのかをまず見極めて
個性化につなげることができるという話と
レトリックについては要するにレトリックですね
良い言い回し非常に効果的な言い回しの話で
これも基本的にはロジックって開発されまくってるんで新しいロジックってなかなかないんですけども
文章を読む時に単に内容に感動するだけじゃなくて
そこで働いているロジックっていうのを他人の文章を読む時でもそうですし
自分はこういうロジック使ってるなっていうのを観察する
その観察からまた新しい展開していくと
レトリックってうまい表現
つまり読み手に感動とか共感を与える表現だけじゃなくて
もっと総合的に言うと違和感をもたらす表現だと
つまりその表現であった時に読者が目を止めるというか手を止めるというか頭を止めるというか
その表現にちょっと浸るスラスラした流れを一旦そこで遮断してしまうような力を持つものがレトリックと呼ばれてるんですけど
これもまた千葉先生の勉強の哲学を思い出すんですけど
勉強の哲学って優しく読めるんですけどスラスラは読めないんですよあれ
ところどころツッツって詰まるところがあるんですね
僕の中ではその本を読むまでは文章っていうのはスラスラ読まれるべきものだというスラスラ思常主義だったんですけど
ああやって止まってしまうスラスラ読めないことで何が起こるかというと
小林さんがさっき言ってくださったちょっと考えるんですね
読み手に負荷を与えることで思考がそこについてちょっと対流する感じがあって
これ歌舞伎のあれと一緒やなと思ったんですよね
見栄を張る
よーって言ってさゆっくり顔を動かす表現があるじゃないですか
あれと一緒で一旦注目をそこに集める効果があるなと
だからレトリックとかを最小限にしてきれいなロジックだけでスラスラ読める文章ってさっきも言ったように目が止まらないので
だから注意を置いてほしいときに違和感をもたらすようなレトリックをバーンってもし出せたとしたら非常に効果的な
人が読んだときに効果がある
性性愛に渡して要約されたときにはなくなってるかもしれんけど
人がリニアに読むっていう体験をしたときにそこで目括弧スラッシュ
頭を止めてしまうような表現っていうのを持ち出すことができれば
非常にその人の個性化につながる話になってくるんじゃないかなと思うんで
ロジックとレトリックを意識して読むっていうことと意識して書くっていう2つのことをやると個性化の訓練につながっていくんじゃないかなと思います