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#360 助け主と共に〜 私への評価と私の証し、私の助け 26/8/16
2026-08-16 30:16

#360 助け主と共に〜 私への評価と私の証し、私の助け 26/8/16

ヨハネ-からの礼拝メッセージ。2926年8月16日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()からです)これまでの人生を歩んでこられた皆さんには、嬉しかったことだけでなく、悲しみや試練もあったことと思います。信仰生活においても、いつも周りの人に理解してもらえたわけではないでしょう。しかしイエス様は、弟子たちに厳しい現実を語られると同時に、その歩みを支える大きな約束を与えられました。

それは、私たちが一人で信仰を守るのではなく、聖霊がともにいてくださるという約束です。信仰の歩みをしてこられた皆さんとともに、これからの人生を聖霊に支えられて歩むために、次の三つのことを覚えたいと思います。(1.人にではなく主に喜ばれる歩みをする()、2.聖霊により証しする()、3.助け主により支えられて歩む())

原稿を読む:助け主と共に:ヨハネの福音書15:26—16:11|Kishio

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サマリー

本メッセージは、ヨハネ15章26節から16章11節に基づき、「助け主と共に」というテーマで語られています。イエス様が去った後、弟子たちに助け主(聖霊)が遣わされること、そして聖霊が罪、義、裁きについて世の誤りを明らかにし、私たちを導くことが強調されています。また、人に認められることよりも主に喜ばれる歩みをすること、自分の経験を通して証をすること、そして助け主(聖霊)に支えられて歩むことの大切さが説かれています。弱さの中にある時こそ、キリストの力が現れるという希望が語られ、聖霊と共に歩むことの励ましと慰めが示されています。

はじめに:助け主の約束
新百聖書、ヨハネノ福音書15章26節から16章11節をお読みします。
私が父のもとから使わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、その方が私について証してくださいます。
あなた方も証します。 始めから私と一緒にいたからです。
私がこれらのことをあなた方に話したのは、あなた方が躓くことのないためです。
人々はあなた方を街道から追放するでしょう。
実際、あなた方を殺す者が御名、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。
彼らがそういうことを行うのは、父も私も知らないからです。
これらのことをあなた方に話したのは、その時が来た時、私がそれについて話したことをあなた方が思い出すためです。
私は始めからこれらのことを話すことはしませんでした。
それはあなた方が共にいたからです。
しかし今、私は私を使わされた方のもとに行こうとしています。
けれどもあなた方の地、誰も、「どこに行くのですか?」と尋ねません。
むしろ、私がこれらのことを話したため、あなた方の心は悲しみでいっぱいになっています。
しかし、私は真実を言います。
私が去って行くことは、あなた方の益になるのです。
去って行かなければ、あなた方のところに助け主はおいでになりません。
でも行けば、私はあなた方のところに助け主を使わせます。
その方が来ると、罪について、義について、裁きについて世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。
義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。
裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。
以上です。
現代の災害とメッセージの導入
今日はこのところから、助け主と共にと題して御言葉からお話しいたします。
みなさん、おはようございます。
先日の木曜日ですね。
令和8年千葉県豪雨災害。
しばらく前は熊本で大地震があって、今度は千葉で大雨になりました。
後でもちょっと報告しますけど、私たちの連合の教会でも、街道が水浸しになった教会なんかもあったようで、
みなさんのお知り合いとかで、そういうことがあったら大変かと思いますけども、
そういうことも覚えながら、できることをさせていただければと思います。
さて、今日はですね。
以前、このヨハネの15章の17節から16章11節の間、2回に分けてお伝えしたんですけども、
今日はですね、その時少し難しい話でもあったので、
今日はもう一度そこのところからですね、視点を変えて、私たちが直接知ることができるような、
神様の恵みについて、祝福について見ていければと思います。
3つの点から話しますが、特に聖霊と私たちの関わりということから見ていきます。
第一の点:主に喜ばれる歩み
これはですね、この15章16章はですね、以前もお話ししましたが、
これは、いわゆる最後の晩餐、過越の食事の時にイエス様が弟子たちに語られた、国別説教のところです。
そして、ここはですね、特に弟子たちの証、聖霊が、助け主が与えられるという、そのようなことが主題となっています。
まず一番最初はですね、一人ではなく、主に喜ばれる、愛にをするということを考えてみたいと思います。
15章の18節の部分を一緒に読んでみましょうか。
私たちはですね、人というのは、誰でも人によく思われたい、あるいは認められたいという、承認欲求というのがあるんですね。
それ以上にクリスチャンであるならば、イエス様の愛に倣って、教会の中でも、そして教会以外の関わりの中でも、
イエス様に従う愛を実践するということで、人に仕えていくかと思います。
そんな中でですね、人を傷つけないようにしようとか、少しでも喜んでもらえたらと思って、心を込めてですね、誰かに何かをするわけですよね。
でもね、そんな時に、私も時々あるんですけども、相手が自分を本当はどう思っているのかな、
本当はどう思っているのかなとか、その人を含めいろんな人が自分をどう見ているのかという人の目がですね、気になる。
そしてそれがもしかしたら、不安につながることがあるかもしれません。
でも、そんな時こそですね、私たちはこのイエス様の言葉に耳を傾ける必要があるのではないかと思うわけですね。
この冒頭に掲げた御言葉、これはですね、後でも見ますけど、証の中の教えが直接の文脈なんですけども、
広く解釈すると、こういうことがわかるんですね。
私たちが何かをする時、しなくてもですね、このイエス様に従って人に仕えている行為、その行為がですね、
必ず人から理解されたり、あるいは評価されたり、共感されるものではないということですよね。
そういうことを、広くこの御言葉から私たちが汲み取ることができるわけです。
これはね、証をする人の話ですけども、
この間何回かここで紹介しているですね、クリスチャンの証を一般のライターがまとめた本、証という本がありますけど、
その中にですね、ある熊本の牧師の証が出ています。
その方はですね、今だと66歳くらいなのかな、もともと警察官だったんですね。
警察官になったんですけども、いろいろ心で思うところがあって、入院中にですね、ぼーっとしてた時に、
今でいうとこの神様の証明、牧師になりなさいという証明を自分なりに感じ取ったわけです。
そして8年間勤めたその警察官を辞める時にですね、迷っていた時に電動車になろうと決心して、
この辞表をですね、自分の部署に出したんですね。その時の様子を読んでみますね。
通信司令室、通信司令室というところに彼は警察署内で勤めてたんですけども、牧師になりたいということもあって、
通信司令室に辞表を出すと周囲に大反対されました。
県警本部から刑事本部長と刑事課長が来られて、考え直せと言われました。
親も呼ばれて、親戚まで集まってきました。高校の恩師も止めに来ました。
誰にも相談せずに決めたので、頭がおかしくなったと思われたのです。
イエス様も家族が気が触れたと思って呼びに来たなんてことはありますけども、
このようにですね、特に顕著な例で、献身を考えた時に、イエス様に従っていくことをする時に、
人が必ずしも賛同しない、あるいはこの世に頭がおかしくなったと思われることがあることがあったということですね。
これは極端な例なんですけども、この私たちの良き歩み、良きことが必ずしも人から評価される、認められる、
それがそのまま私たちの行為が相手に伝わるとは限らないということなんですね。
それだけじゃなくて、私たちは性格的な弱さとか、年とともにだんだん体力的な弱さを感じて、
思ったように奉仕ができないとか、自分は人の役に立てないんじゃないかという不安が生じることがあるかもしれません。
でも大事なことは、神様が私たちを見る目というのは、人が私たちを評価する、その評価とは違うということなんですね。
大事なことは、たくさん働けるかどうかとか、何人の人から感謝されるかということじゃないわけです。
大事なことは、イエス様を愛して、イエス様を信頼して、今生きている、今日も生きているということそのものが神様の前で大切なんですね。
繰り返しになりますけれども、こんなことですね。
大事なことは、イエス様を愛し、イエス様を信頼して、今日生きていることそのものが神様の前で尊いんだということを、この機会に思い起こすことが大事だと思います。
例えば、皆さんそうしています、ここにもいらっしゃいますし、オンラインでもそうですが、礼拝に集う。
礼拝に集うという、そのこと自体も尊いことですし、聖書を読む。
あるいは、自分のために、誰かのために心を込めて祈る。
そんなことでも、神様の前で尊い方針、そして誰かの話に耳を傾ける。
そんなこともですね、神の目には尊いことであって、その一つ一つを神様はご覧になって、あなたは効果でたっといと言ってくださるんですね。
ですから、万が一、極端に言うと私は役に立たないんじゃないかなと思う時、感じる時でもですね、イエス様は私についてきなさい、私に従って歩みなさいと言ってくださいます。
ですから私たちは、人に認められることも大事ですけども、そればかりを追求する人生ではなくて、
イエス様に知られて、イエス様に喜ばれる道をこれからも歩んでいく。そんなことが大事なんじゃないかと思うわけですね。
そのような、パウロが伝道者として人々から足を引っ張られた時にですね、あんな奴はイエスの人じゃないということで批判を受けた時に、自分で生きるモットーとして掲げた御言葉をちょっと見ていきましょう。
コリントビトの手紙第2の10章18節ですね。ちょっと難しいかもしれません。読める人読んでみましょうか。誇る者は主を誇れ、自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。
私たちは神様に認められている。そこによりどころがあると捉えてもいいかもしれません。一番最初は、一人ではなく主に喜ばれる歩みをする。それが主の前で尊いということですね。
第二の点:定例により明かしをする
二番目、定例により証しをする。ヨハネの15章の26、27節のところ、読める方もう一回読んでみましょうか。
私が父のもとから使わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、その方が私について証しして下さいます。あなた方も証しします。
この特別説教でイエス様が語られた言葉です。先ほども申し上げましたが、今日の歌詞は証しという文脈で語られています。イエス様のことを弟子たちが証しするという文脈で語られています。
それだけじゃなくて、聖霊が証ししてくださるということをこの文脈の中で語られています。ですから少し私たちの証しということを考えてみたいと思うんですね。
証しと考えるとき、私は人に対して上手に信仰の話ができないと思う方がいらっしゃるかもしれません。しかしイエス様は証しする力というのは私たちの能力によらないとおっしゃっています。
私たちが証しする力というのは、聖霊によるんですけれども、私たちができることがあります。それは今まで信仰生活を歩んできたならば、それこそが生きた証しであるということなんですね。
例えば皆さんこんなことを言うじゃないですか。私もこんな時イエス様が私を助けてくださいました。祈っていたら神様がこんな道を開いてくださったとかですね。
あるいはこんなことを言うかもわからないですよね。これまでいろんなことがありましたが、神様はイエス様は私を見捨てませんでした。このような経験は誰かから教わった伝道の知識じゃないですよね。
皆さんの生きた証し、経験です。このような日々の生活や長い人生を通して経験したことこそ真実な証しだと言えるのではないでしょうか。
ですからこの証しについて考える時に、誰かに何かしなければいけない、立派な言葉を語らなければいけないと考える必要はないんですね。
私はイエス様を信じてきました。それが本当に良かったです。その単純な一言だけで十分な証し、誰かの心を支える、あるいはクリスチャンの仲間を励ますことになるのではないでしょうか。
なぜなら証しする力、証しの力は私たちの中にあるわけじゃないんですよね。それは、聖霊の力こそが私たちの証しの力の良い所だということなんですね。
私はイエス様を信じてきて本当に良かった。こういう単純な言葉が誰かの心の支えになることがあるわけですよね。
ですから私たちはイエス様の弟子たちのように立派に証しできないかもしれませんが、私たちが祈る姿、礼拝を大事にする姿、苦しい時にもイエス様を信頼する姿、こういう私たちの生活や人生そのものを通してイエス様が伝えられていくということなんですよね。
これまで過ごしてきた年月、それから染み出てくるものが誰かを励ますことがあるわけです。
ですから私の証しは役に立たないとか、私には証しの役割がないなんて思わなくていいわけなんですね。
日々これまで歩んできた年月そのものが誰かの心に届く証しとして聖霊が用いてくださるわけなんです。
先ほど紹介した本の中に言葉ではない証しということがありました。
教会の証しなので、私たちに直接関わりあるかどうか、難しいところもあるかもしれませんが、参考になるんじゃないかなと思ってご紹介します。
ある沖縄で牧師をやっている方が牧師の見習いの時に東日本大震災が起こりまして、
その時に仙台にある教会から一緒に派遣されてある宮城県の町に助けに行ったんですね。
実は、東日本大震災の時にたくさんの宗教団体がいて、宛城という名を元に布教したんですね。
彼が書いているのは、こういう時って宗教の勧誘がたくさん来るようですけれど、教会から派遣されて行ったんですよ。
でも、伝道はしないようにという意識がみんなの中にあって、御言葉を書いたカードや証冊紙を配ることもありませんでした。
教会は全くない地域だったんですけどねって書いてあるんですね。
続けて彼はこう書いています。詳しく言いませんけど、ここは非常に伝道熱心な団体なんですね。
でも、あえてそうしなかった。
続けて彼はこう書いています。
イエス様を信じましょうというのも大事かもしれませんが、
それ以上に行動をもって愛を示していくことはすごく重要なんだなと思いました。
その後、コンビニが開いたところ、地域の教会になったらしいんですけども、彼はこのように語っているわけです。
これは実際にボランティアとしてアクションを起こしましたけれども、
私たちがする本当に些細な行為、この愛の手を差し伸べる小さな行為がある人にとって、
キリストさんというキリストを代表する行為になる。
そして他でもない、聖霊が私たちを用いてくださるということを覚えることができればと思います。
ですから私たちが地上を歩んでいる限り、私たちの存在そのものが教会の存在そのものも証であるということを覚えておきましょう。
私たちが一人前になってから聖霊が用いてくださるのではなくて、弱さを抱えた今の私たちを聖霊はそのまま用いてくださる。
そのことを証として考える。
第三の点:助け主により支えられて歩む
最後3番目、助け主により支えられて歩むということを見ていきましょう。
ヨハレの16章の6節から7節を読んでいますね。
私がこれらのことを話したため、あなた方の心は悲しみでいっぱいになっています。しかし私は真実を言います。
ここから読んでみましょうか。
私が去っていくことはあなた方の益になるのです。去っていかなければあなた方のところに助け主はおいでになりません。
この助け主という言葉に最後注目しながら見ていきましょう。
この言葉をイエス様が語られた時に弟子たちに最大のピンチが訪れていたんですね。
イエス様がいなくなって迫害が起こる。そんなことを聞いて彼らは大きな不安を心に抱えていました。
しかしそんな状況の中でイエス様は私がいなくなることは帰っていいんだよと言ったんですね。
なぜかそれは私の代わりに助け主を私は使わすからだと言ったんです。
実はこの助け主を使わす、助け主が使わされているということは私たちにとっても励ましや慰め、希望なんですね。
私たちは弟子たちのようにこれから先のことを考えて不安になることがあるかもしれませんね。
自分の健康のこと、この間お話しましたけど足が痛くなって高田政権に行ったら放っておいたら手術するよと言われて怖くなりましたけどね。
彼と共にいろんな衰えが出てきて、健康のこととか家族のこと、一人で過ごす時間のこと、あるいはもっと極端に言うと人生の終わりについて考えるときに不安になるかもしれません。
でもイエス様は心配しなくてよいと言われたんですね。なぜなら助け主である聖霊を使わすと約束してくださったからです。
この助け主、聖霊を言い換えた助け主という言葉は元のギリシャ語でパラクレートスという意味があるんです。
あんまり関係ないですけどパラというのは傍らに、クレートスというのは慰める人、直訳すると傍らにいて慰める、励ます人という意味なんですね。
実はよくあるようにあまりにも広く豊かな言葉なので、一つの言葉に日本語でも英語でも訳すことが難しい。
どんな言葉に訳すのがいいかって英語の言葉の何がいいかって学者の中で議論しているんですね。
そんな中である学者は言葉の豊かさを表現してこのようにパラクレートスについて解説しているんですね。
それは慰め主、教える者、導き手、最善の友である。
私たちの祝福や私たちの善となることを推し進めるために必要なことなら何でもしてくれる友である。
私たちの祝福や善となることを推し進めるために必要なことなら何でもしてくれる友がパラクレートス、助け主、聖霊ですよということなんですね。
このように聖霊は私たちが困った時に助けてくださるお方です。
そして聖霊は私たちのこれまでの人生を通して御言葉を与えることによって、祈りを支えることによって、
そして悲しみの中で慰めることによって今日まで私たちを導いてくださったんじゃないでしょうかね。
そして同じようにこれからも聖霊は私たちを導いてくださるわけですね。
繰り返しになりますが、私たちは自分の限界をいろんなところで知りますね。
今夏の甲子園大会をやってますけど、一回戦の注目のカードの一つに横浜高校と沖縄小学がありましたね。
どっちもおそらく1年以内に優勝していて、沖縄の高校は優勝した時のエースが投げていました。
それでも負けちゃうんです。
砂集めている姿とか、心痛みますよね。
どれだけ県で一番になって強くても、やっぱり負けちゃうわけなんですよね。
そういうスポーツ選手は去ることながら、私たちも一生懸いのち何か励んでもできない自分の弱さということを実感するかもしれません。
繰り返し申し上げますが、年齢を重ねるごとにかつてできなかったことができなかったり、走ろうと思ったら走れなかったりですね。
いろんなできなくなっていることに気が付くかもしれませんね。
でも先ほども言いましたが、神様から見て私たちの価値が下がったわけではないわけですね。
そういう時こそ自分の力ではなくて、神様の力によって頼って生きていくということを学ぶ機会じゃないでしょうかね。
そんな話をしてきましたけれども、私たちは自分の弱さを感じるときに、私は弱くなりました。
でもこんな時こそイエス様、私を助けてくださいと祈ることができるわけです。
そういう意味で私たちは、たった一人で人生を歩み終えていくわけではなくて、もちろん教会の友も家族もいますが、
聖霊がですね、パラクレート片側にいて、私たちと共に人生を歩んでくださる。
そして、あえて言えばクリスチャン人生の醍醐味の一つはですね、
聖霊が共にいて助けてくださった、慰めてくださったということを経験することじゃないかと私は思うわけですね。
先ほど引用したパウロの言葉がありましたが、パウロはですね、あんなに立派な大伝道者にもかかわらず、自分の弱さを告白しているんですね。
他の人が強くて、誰かが弱くて私が強いということがあるでしょうか、ということを言っています。
そして彼が珍しく自分の弱さを討論する手紙の中でですね、
彼は聖霊によって強くあえむということを証ししているんですね。
その見事を最後に読んで終わりにしたいと思います。
第2コリントの12章の9節から10節を書き抜いてみました。
こうパウロは告白しています。
主は、私の恵みはあなたに十分である。
私の力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われました。
ここから読んでみましょうか。
ですから私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを起こりましょう。
ここまででいいです。ここで読んでみますね。
ですから私は、キリストのゆえに弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
最後だけ読んでみましょう。
というのは、私が弱い時にこそ私は強いからです。
この聖霊によって弱さの中で強められたパウロの言葉に思いを馳せながら、
そして、助け主なる聖霊が共におられるという、その希望を覚えながら歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
結び:祈り
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様は、国別説教の中で弟子たちに危機的な状況についてお話ししました。
しかし、その中でも、助け主なる聖霊が来て弟子たちが支えられ、証のために用いられ、その慰めと励ましにより導き続けられる。
そういう良き御言葉を与えてくださったことを感謝いたします。
どうぞ私たちが日々の生活の中で、助け主なる聖霊に頼ることをますます知ることができますように。
助け主聖霊に文字通り助けていただいた、そのような経験や実感を得ることができるように。
そして、あなたの生きる証人として、その道を歩んでいくお互いであり、教会でありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主シュウイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは御言葉に応えて一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
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