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ただいまから、軍先生より、「わたしはあなたを孤児にはしない。」と題しまして、メッセージをしていただきます。
みなさん、おはようございます。
先週一週間は金曜日まででしたけれども、昨日、特別記者会が6回目になったんですが、「あなたは信仰によって歩んでいますか?」という御言葉、
ヘブルビデオの手紙、11章、また、葬石、出入りの時、あるいは民俗、あるいは優勝というところを通して御行動をいただきました。
いろいろと集まって、これらの方々もおられるかと思いますけれども、
信仰によって歩む、真としとりとし、また、名谷教会であり大道、説に求めて、ともに祈ることができたことを、すべて神様の恵みでした。
本当にありがとうございました。
また、そのうち、台風も見て、火曜日は争点だけありまして、午後と夜は中止になって、
そのうちに、札幌の頃、北海道には大きな地震があって、米がなかったり水がなかったり、大変なことにはありますけれども、
また、そのために平井賭けではありませんでしたけれども、また、この国のためにも祈れたことを、本当に感謝いたします。
それで、あなた方もお知らせしますが、このような時代に、やはり私たちクリスチャンは、
まず、神様に国のために、あるいは、いろいろ災害に遭われた方のために、あるいは、救いのために、この時こそ、祈るべき時ではないでしょうか、という、私自身、神様から強く激しく示されまして、
金曜日でしたけれども、それで、きょう、突然ではありますが、礼拝の後、皆さん、残していただいて、あるいは、一緒に、つるひ込みをしていますので、
その後、1時間、2時間になるか分かりませんけれども、この国のための特別記者会を開きたいと決めましたので、
いろいろ、苦痛があったり、忙しいことがあったりするかもしれませんが、本当にね、メヘネアのように、あるいはエレメアのように、国のために、祈り呼ばわりありはなく、
そういうものを、神様が、今、日本に向かって求めておられると、私は信じておりますので、どうか、居残ってくださって、
ともに、ひたすら、この日本のために、皆さんの母国、皆さんの同胞のために、祈らないと、誰が祈るんでしょうか、アメリカ人が祈るんでしょうか、中国人が祈るんでしょうか、あるいは韓国人が祈るんでしょうか、
03:05
祈ってもらうこともありがたいことですけれども、皆さん、自分自身が祈るべきではないでしょうか、ぜひ、残っていただいて、心を合わせて、
今日会こそ、祈りの家ですから、祈る時を持ちたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。
それでは、メッセージが入る前に、隣の方と挨拶しましょうか。お願いいたします。
それでは一言、祈りとします。私は、あなた方を捨てて、故人はしません。主よ、いつも、どんな時代であっても、私たちとともにいてくださり、
助けてくださり、弁護してくださり、あるいは、間違った道を正しい道に導いてくださる神様、本当に感謝いたします。
今日も、主よ、本当に、こんな中で、私では主を覚え、また、主の宮に集まって、ともに礼拝できる、この恵み誇りから感謝いたします。
聞く耳を与えてください。悟る心を与えてください。いただいた御言葉を実行する力も与えてくださいますように、お願いいたします。
見ていただいて、信じて、期待して、神様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい、ヨハネノ福音書の公開説教に書いてきました40回目になりますけれども、今日は14章、16節から21節のところから、
私はあなた方を捨てて、故地にはしません、というところから、私はあなたを故地にはしない、というタイトルにしまして御言葉をいただきたいと思います。
この14章もですね、いわゆる最後の晩餐のあの席で、イエス様が弟子たちにお話しされた、そのイエス様のお話、その間にあったことを、この御羽根は細かくそれを記しています。
06:02
それほどイエス様はおそらく弟子たちに話したいことがたくさんあったのではないかなと思います。
彼らの信仰を心配して指導してくださったり、あるいは恩師のイエス様が神の御元に帰られるという話を聞いて、弟子たちは残されるね、弟子たちは不安を感じていたかもしれないでしょう。
だからその不安を感じている弟子たちを慰めてくださり、励ましてくださったと思います。あるいは神の国に対してもイエス様はお話をされました。
その中で今日はそのイエス様が神の御元に帰られる。それで残されるその弟子たちはイエス様がいらっしゃらなくてどうしようと不安に思ったりしている彼らを慰めたり、
あるいは本当に彼らに信仰を持って確信を持って進んでほしいというところからイエス様の今日のお言葉が語られたのではないかと思います。
まずその中で最も大事な話をイエス様がお話をされました。それが十六節なんですね。十六節をもう一度一緒に読みたいと思います。
私は父にお願いします。そうすれば父はもう一人の助け主をあなた方にお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方と共におられるためにです。
イエス様が神様にお願いをする。何をお願いするのでしょうか。助け主をこの弟子たちに送ってくださるためにお願いをするということです。
この助け主は誰のことでしょうか。それは聖霊様のことです。
イエス様は愛する弟子たちをご自身の死を前にして語ってくださったメッセージの中でこの助け主を神様にお願いしてあなた方のためにあなた方と一緒に共におられるために私はお願いをする。
そしたら神様は助け主、聖霊様を送ってくださるんですよという話です。
その前にイエス様は弟子たちに大きく二つのメッセージを、この十四章の教十六節にくるまでたくさん語られましたけれども、それを二つのところに絞って話をすると、
09:14
まず第一目はあなた方は心を騒がせてはいけない。神を信じて私を信じなさいと。確かに弟子たちは心を騒がせていました。
そして彼らに天国へのメッセージも語ってくださいました。
そして大きく二つのメッセージは、イエス様が私が道であり真理であり命である。道は方向と目的でしょう。真理は神様からの聖霊の証明でしょう。
あるいは命はもう命そのものであります。それが私なんだから。そして私を見た者は神を見た者であり、私を信じる者は神を信じる者なんだから大丈夫と。私が教えたこの真理、道、命に従ってほしいと語る。
そして大きく三番目のメッセージとして、今日助け主を神様が使わせてくださるように私がお願いしますよという話。
なぜイエス様は神様にお願いして助け主を送ってくださるようにお願いするのでしょうか。
その目的を今日詳しく見ていきまして、そこから御言葉の慰めあるいは希望を見出してほしいとそういうふうに願っております。
十七節ももう一度一緒に読みたいと思います。十七節。
その方は真理の御霊です。与はその方を受け入れることができません。与はその方を見もせず知りもしないからです。しかしあなた方はその方を知っています。その方はあなた方と共に住み、あなた方のうちにおられるからです。
十六節と十七節から知ることができることは、その助け主なる聖霊様、御霊様が残される弟子たち、いや私たちと共におられるために聖霊様を神様が使わせてくださるようにお願いするということであります。
神様を唯一なる主として信じて、イエスを救い主として信じて救われる者には御霊を贈り物として、賜物として贈ってくださるのです。そしてその助け主なる聖霊様が私たちといつも共にいてくださるということであります。
12:19
この残されるペテロたち、ヨハネ、ピリッポ、アンデレ、彼らのこともそうですし、また私たちのことも考えて振り返ってみると一緒かなと思います。
弟子たちもよくよく本当に弱い者たちで、私たちも心細い者であって弱い者たちであります。
弟子たちのように私たちもイエス様のお話を、神の御言葉を聞いて分かるとき、悟るときもありますけれども、分からないとき、理解しないとき、あるいは知ろうとしないときさえもあるのではないでしょうか。
あるいは悔い改めて清く生きるときもありますけれども、そうでないときもあるのではないでしょうか。
神様にすごく感謝して喜んでいるときもありますけれども、感謝せずつぶやいているときもあるのではないでしょうか。
祈るときもありますけれども、祈れないとき、あるいは祈らないときもあるのではないでしょうか。
このように私たちは本当に弱い者であります。
ところが、弱いのだからもう仕方がないのですか。このままで何度かして天国に行けばよかろうと思ってほしくないのです。
そしてそのまま何も変われないのか、仕方がないのか、そうではありません。
そのために助け主なる御霊様を送ってくださって、共におらせてくださるのです。
それは私たちがこれ以上弱い者ではなく強い者として生きるために、
私たちがこれ以上罪の沼に溺れて、あるいは過労して生きるのではなく、
イエス様のように清く生きるために、あるいは肉の誘惑やあるいはサタンの誘惑に負けてばかりいるのではなく、
あるいは過労して過労して歩むのではなく、どんな誘惑が来ても試練が来ても負けることなく勝たせるために、
神様が私たちに助け主なる聖霊様を使わせてくださるということであります。
15:11
そのために御霊様が私たちに、そしてイエス様がこの弟子たちに助け主を神様が使わせてくださるんですよ、というこの約束は果たして皆さん守られたのでしょうか。
守られました。
イエス様は神様にお願いして、そしてイエス様が救いのために十字架に死んでくださって、
三日目に甦えられて、この地上に四十日間おられて、そして天に引き上げられましたね。
そして十日が経って、この約束された助け主なる聖霊様がこの地上に来てくださった。
その日が何の日ですか。五寸節、ペンテコステの日なんです。
ちょっとテープを開きましょう。
まず、「使徒の働き一章八節」を開きたいと思います。
使徒の働き一章八節、227ページです。
新約聖書の227ページ。
使徒の働き第一章八節です。
それを一緒に読みたいと思います。
「しかし聖霊があなた方のお家に臨まれる時、あなた方は力を受けます。
そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの前路及び死の果てにまで、私の証人となります。」
この使徒の働きを記した著者ルカは、
イエス様が天に引き上げられる直前に弟子たちに語られたこの御言葉を、
この使徒の働きの最初のところに書き記しました。
それは、神のイエスの言葉がどういうふうに成就されるのか、皆さんご覧ください、という話なんですね。
それで二章に行きましょう。
使徒の働き第二章、ご覧ください。
一節から四節まで一緒に読みたいと思います。
二章の一節から四節までこれを合わせて読みましょう。
読みましょう。
18:10
みなさん、神にお願いして助け主を神様が送ってくださるんですよとおっしゃった、あの最後の晩餐十字架の前で弟子たちに約束されたイエス様のお言葉は守られましたか?
守られました。その通りに成就されました。弟子たちのためです。私たちのためなんです。
そして、そこにいた弟子たちのほかに百二十人ほどの人々が集まっていました。一章十五節を見ると。
そして、彼らだけではなくイエスを信じる者には、精霊を使わせてくださった。
そして、この時にイエス様の時代、そしてこの人の時代に、このペンテコステの日に精霊を満たされた弟子たちは、彼らはどういうふうに変えられたのでしょうか。
以前の彼、イエス様が今日の夜晩のこの十四章、十五章、十三章、十二章の話をしておられた時の弟子たちは、彼らの様子は臆病なんです。
怖い。イエス様がいなくなったらどうしよう。
あのパリサイビット、あの弟子たち、もう怖いと感じていて、不安に思って、心を騒がして気を落としていた彼らでした。
だから、みんな逃げていないでしょうか。イエス様が審判をされている時に、十字架にかかれる時にみんな逃げました。
ある弟子は、もう裸になるほど、もう捕まえられて、着物全部脱いで逃げるほどでした。
イエス様を信じていると。でも、いざとして自分の命が、自分の未来が、都合が悪くなりそうになったら、逃げる者なしでした。
ある意味では、私たちと似ているかもしれない。
ところが、聖霊に満たされたこの御殉節の日の以来、彼らはもう百八十度、全く変わっていない。
ペテロやヨハネ、ピリポ、あるいは彼らはですね、聖霊様と共に弁道しました。聖霊様と共に歩みました。
以前は、もう心配も恐れも疑いもたくさん抱えていた彼らですけれども、
イエス様の話を直立として聞いていても例外、閉ざされていたからわからなかった彼らでしたけれども、
聖霊に満たされた後からは、恐れも消え去りました。心配ももう吹っ飛ばされました。疑いなんてもう持っていません。
21:10
イエス様の御言葉を理解する程度ではなく、イエス様のように御言葉を語る。
殺されても、木切りで切られても、獣の皮を着て歩き回っても、彼らは妥協しない、逃げない、疑わない。
何ででしょうか。イエス様が約束された。イエス様が与えられていたから。
使徒パウロもそうでした。使徒ヤクブンもそうでした。使徒ヨハネもそうでした。
その他に名前も知らない多くの信仰の人々は、聖霊様と共にいたから、
聖霊によって、信仰によって歩み通しました。
だから、彼らは神とその国のために歩む者たちでした。
どんな試練が来ても、決して妥協しない、屈服しない。ただ神のために生きる。
自分の未来なんて都合なんて、自分の健康なんて、いや構わない。
この世を勝つ信仰の人たちでした。
だからこの世が彼らには相応しくなかったのです。
ちょっとヘブル・ヴィトリの手紙を開きたいと思います。
今回の基督会に開いた御言葉ではありますけれども、ヘブル・ヴィトリの手紙11章を開いてください。
ヘブル・ヴィトリの手紙11章、36節、37節、38節読みたいと思います。
140ページです。
このヘブル・ヴィトリの手紙に書かれた著者、あるいは時代はわからないのですが、
エイリー1世紀であることは間違いないと言われています。
ですからこの時代は、エイリー60年、70年、あるいは80年、90年、その頃だろうと言われています。
その時の神を、イエス様を信じるクリスチャンたちは、どういうふうに信仰をまとしたのでしょうか。
24:05
あるいは自分たちのこの暮らしはどんな模様だったのでしょうか。
36、37、38節を、ちょっと長いですけれども、小山先生に一緒に読みたいと思います。
また他の人たちは、
皆さん、初代教会のクリスチャンの信仰のために生きる様子はこういうものだったのです。
なぜでしょうか。
彼らはあざけられても、鞭で撃たれても、鎖に繋がれても、石で撃たれても、それは苦しみと損と被害と思わない。
むしろそれを光栄だと思っていたから、喜んでいたんですね。喜んでいました。
あの1世紀、2世紀、ローマ帝国の時代に、クリスチャンたちを捕まえて、
この羊、ヤギ、あるいは獣の皮を、地石ですね、競技場に置いておいて、人間なのに彼らをまるで牛みたいに、獅子みたいに、猟するように殺してしまった。
それでも彼らは屈服しなかった。それでも逃げなかった。信仰を持ち通せない。
だから38説に、この世は彼らにふさわしいところではありませんでした。
なぜでしょうか。強く生きるから、この世とは妥協しないから、信仰によって歩むんだから、当然この世とは合わないんですよ。ふさわしくないんですよ。
もしもですね、私たちの生き方が、人生がこの世にふさわしいものである、この世の調子と合っているならば、それは本当に間違っていることであります。
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私個人的に、神の恵みを受け、2005年だと思いますけれども、トルコに聖地巡礼で行ったことがあります。
その時にトルコに、あるいはローマの、初代このようなクリジャナ地が地下にアリの巣みたいにホラーの、ここにありますよね、ホラーのね。
ホラーの掘って住んでいたところが、今は観光地みたいになっていますけれども、そこに行って見たことがある。さっきも何枚かお見せしたい。
こういうふうにね、階段はコンクリートになっていましたから、後から保守したと思いますけれども、壁とか他は全部一緒なんです。
それから左の方に見る、ちょっと丸くなっている大きな石が見えるでしょう。それがドアみたいなものなんです。
もしつかめに来た人が来るならば、それを転がして入って来れないようにするところであります。とても深いんです。
はい、次。こういうふうにね、それが全部、あそこは本当に岩なんですよ。あるいはどういうふうに掘ったのかとね、本当に不思議と思えるほど深い。
また傾斜もとても急なんですけれども、深く地下まで入るんです。
そして地下に入ると、190センチくらいの高さですけれども、最初は立てるほどの高さでした。
ああいうふうに柱があって、本当にアリノスのように深いところがある。あるところにはお墓がある。
そして今も自害骨がずっとたくさん、この壁にたくさんある。あるいは広い教室みたいになっているんですね。地面に座ったらテーブルみたいにできるようにデコボコがあって、そこに座って、そこはあの時代の神学校だった。
そこで礼拝していた、そういうところもたくさんある。
こういうふうに岩を掘って、そこで彼らは何十年も信仰を守っていたんですね。はい、ここまでです。
私がお話したいことは、初代教会の信徒さんたちの精霊と共に歩む彼の信仰を継承しましょうということなんです。
みなさん、神様の御言葉に、神様のメッセージに、みなさんはどれだけ従っているんでしょうか。
あるいは言葉をちょっと変えて、神にみなさん負けていますか。神の御言葉に負けていますか。
あるいはいつも神に勝っているんでしょうか。神様が祈りなさい。いや、祈りませんよ。勝ってはないでしょうか。
神を信じながら、神に従うということは、喜んで負けてあげることだと。
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精霊と共に歩む信仰というものは、ただいいよ、いいよ、いいよね、あでなで。
どんなあしれが来ても、揺さぶられない信仰。どんな誘惑があっても、負けない信仰。
いや、負けないぐらいじゃなくて、勝利をする信仰。そして神の御言葉であれば、はい、従いますと応答する信仰。
これこそ神様と共に歩むものになされることであって、できることである。
だから皆さん、私たちはこの精霊様と共に歩む、その歩み方、生き方を訓練してもらわなければならないんですよ。
神と共に歩む、精霊様と共に歩む訓練をしなければならない。なぜでしょうか。
それは、私たちは従いにくい固くない心を持っているからです。
神のことを優先するより、自分のことを優先したがるこの本性を持っているから。
精霊様に従うよりは、自分の思う通りに歩みたいという、この欲が強いからです。
だからそのままでは、精霊様と共に歩むことが難しい。できないんです。
だから、精霊様と共に歩む生き方を習って下さい。訓練を受けて下さい。
時にはこの固い自我を打ち砕く訓練。自分を喜ばせるより神を喜ばせる訓練。
死のために生きる訓練をしなければならない。
神の愛をもって皆さんにお願いします。皆さんのこの罪の深い自我を打ち砕いて、殺して、
助け主なる精霊様と共に歩んで下さい。助け主の力によって昇竜する人生であっていただきたい。
助け主なる見た目の力によっていつも乏しくて貧しくて弱くてそればかりの人生ではなく、
豊かに差し上げ豊かに巻くものとなるように、そういう良い信仰による経験をなさって下さい。
33:06
2番目、助け主なる精霊様を使わせて下さる目的は、私たちを捨てて孤児にはしないという目的があるんですね。
今日の十四日の十八節を読みたいと思います。
ヨハネ、十四の十八節。
私はあなた方を捨てて孤児にはしません。私はあなた方のところに戻ってくるのです。アーメン。
私はあなた方を捨てて孤児にはしません。
つまりイエス様の話はこういう話ですね。
私の体はあなた方と離れてはいるんだけれども、あなたの最後の最後まで私は面倒をびるよ、責任を負うよ、守るよ、助けるよという最後の最後までということなんです。
確かにそうです。
神を人を信じる者は、イエスを救い主として信じる者は、私たちが神様を捨てない限り神様だけを捨てられません。孤児にはしません。信じますか皆さん。アーメン。
ユダヤ人のイスラエ人の子孫から見ると、孤児とヤモメ、カフはその社会において最も癒やし者であり、最も哀れみを必要としている人たちの代名詞のようなものなんですね。
だから旧約の、特に諸誌へ自仏記とか宣明記とか読みますと、特に孤児とヤモメに対する施し、哀れみを豊かにするように語られている。
つまりこの旧約制度から見ると、哀れみの人、どこか誰かを頼りにするその相手がいない人、誰も守ってくれない、面倒見てくれない、助けてくれない、そういう人が誰もいない、そういう人々のことを孤児あるいはヤモメとして使う。
面倒見てくれる人がいない、頼りにするところがない、弁護してくれる人がいない、私の味方になってくれる人がいない、そういう代名詞が孤児ということです。
だからここに孤児には来ませんという言葉は、彼らのイスラエル人の手をすごくリアルに心にやってくる見言葉である。
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つまりイエス様がもう面倒見てくださる、頼りにしてくださる、弁護してくださる、味方になってくださるんだという見言葉である。そしてそれを最後の最後までやってくださるということである。
皆さん、イエスをキリストとして信じて生きる人には、試練があってもなくても、どんな時であっても、決して私のことを放っておかれる神様ではない。
信仰によって歩もうがどうが構わない。成長しようがどうが構わない。もうほったらかすという神ではない。
捨てて孤児にはしないということは、時には慰めてくださるでしょう。時には励ましてくださるでしょう。時には助けてくださるでしょう。
しかし時には、もしも私たちが一時間違った道を歩んでいたならば、勲解して正しい道に指導してくださるという見言葉でもあります。
孤児にはしないんだから。まるで親のように主が責任を負うということなんです。
父として、母として、皆さんここに親の方々が大勢おられますけれども、親として自分の子供のことを責任を持つわけなんですよね。
良いことをしたら子供にも親にも光栄なことになるでしょうけれども、子供が何か本当に悪いことをしたとしたら、親はその責任を負うわけなんです。
孤児にはしないということは、神様が私たちの父として全ての責任を負ってくださる。
だから、私たちが何を求めても何をしても、神様がただいいよ、いいよ、いいよ、いいよ、何でもOK、OK、そういう意味ではないんです。
共にいてくださるということは、孤児にはしないということは、まるで親と一緒です。
本当の親ならば、子供がいいことをしたならば、正しいことをしたならば励まして、あるいは褒めて、さらに白鮎に生きるように励ましてあげるでしょう。
あるいは気をつけているときには慰めてあげるでしょう。
ところが本当に強い悪いことをしたとしたら、本当の親ならばどうするんでしょうか。
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仕方でも正しく指導するんじゃないでしょうか。そうでしょう皆さん。
それが本当の親なんですよ。本当に子供を愛する親なんですよ。
そのやり方は別途ですね。私はあなた方を捨てて孤児にはしない。
ということは、神を信じて一度神のことされた者には、その私の子供であるということをずっと最後までしか責任を持って、守って、助けて、ときには懇介して、導いてくださるということである。
そして今日のこの十八節のこの御言葉は、イエス様のある御言葉に対する宣言の約束の御言葉であります。
ヨハネの一章十二節を開きましょう。ヨハネの国書一章十二節。
ヨハネの国書一章十二節一章には見たいと思います。
百七十二ページです。
しかしこの方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。
ここに神の子供とされる特権をお与えになった。
イエスを受け入れた人々。
この御言葉に対する神様のそのような約束のような御言葉が、今日のこの十四章の十八節、私はあなた方を捨てて漕ぎにはしませんという御言葉ではないでしょうか。
皆さん感謝しましょう。
神様あたたちを御自身の子供としてくださいました。
これは取り戻すことのできない神の計りしない恵みであります。
それからあたたちは神様を捨てない限り、神様は一度子供に来たならば、最後までその約束を破らない、守り続ける、守り通す、漕ぎにはしない、捨てない、最後まで責任を負ってくださる。
見守ってくださる。
憐れんでくださる。
制御してくださる。
正しい道に導いてくださる。
親のようなものに。
そうと思いませんでしょうか。
その神様が私たちの父なる神様。
感謝しようではないでしょうか。
神様は徹底信じるものを捨てて、個人にすることはなさらないだけではなく、
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私たちは神の子供なんだから、
助け主を使わせてでも、私たちを神の子らしく生きるようにしてくださるんです。
不安を取り除いてくださるんです。
励ましてくださる。
正しい道に生きるように訓誡してくださる。
時には神に叱られることもあるかもしれません。
時には神に恐ろしいほど叱られることもあるかもしれません。
あるいは時には本当に慰められて、言いようがない恵みに満たされる時もあるでしょう。
そういった御霊様、助け主と共に歩む信仰の素晴らしい経験をたくさんやりたい。
やってほしいんです。
そういう人生を歩んでいただきたいです。
皆さんいかがでしょうか。
この頃、最近、何かのことの上に不安や心配を抱えてはいないでしょうか。
それが何であろうが、神様を信じる者は、信じて求めている者は、決して捨ててこじにはしない。
この約束の御言葉を固く握りしめて、信じてください。
そして最後のゴールまで、天に行くまで、
神様の前に立たされるその時まで、この助け主と共に歩む我らの人生がなりますように。
そういう風な歩み方となりますように、心からお祈り申し上げます。
お祈りします。