はじめに:イエス様の祈りとその意義
ヨハネの福音書十七章六節から十一節をお読みします。
あなたが世から選び出して与えて下さった人たちに、私はあなたの御名をあらわしました。
彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に委ねて下さいました。
そして彼らはあなたの御言葉を守りました。
あなたが私に下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。
あなたが私に下さった御言葉を、私が彼らに与えたからです。
彼らはそれを受け入れ、私があなたのもとから出てきたことを本当に知り、あなたが私を使わされたことを信じました。
私は彼らのためにお願いします。
世のためにではなく、あなたが私に下さった人たちのためにお願いします。
彼らはあなたのものですから。
私のものはすべてあなたのもの。
あなたのものは私のものです。
私は彼らによって栄光を受けました。
私はもう世にいなくなります。
彼らは世にいますが、私はあなたのもとに参ります。
聖なる父よ、私に下さったあなたの御名によって彼らをお守りください。
私たちと同じように彼らが一つになるためです。
以上です。
第一の点:不十分に見える信仰でも
今日はこのところから、イエスの祈りに守られてと題して、御言葉からお話しいたします。
皆さんおはようございます。
梅雨入りして2週目の日曜日となりました。
先週体調崩される方々がいらっしゃいましたけれども、無事にですね、
共に礼拝できることをありがたく思います。
金曜日はですね、急に午後からライブになりましてね、皆さんも大変だったんじゃないかと思いますけれども、
繰り返しますが、守られて共に礼拝できることを感謝しています。
さて、今日もですね、先週から見ているイエス様の祈りの続きの部分からお話ししていきます。
イエス様はですね、この祈り、
国別説教を、おそらく最後の晩餐、逮捕される直前の席で、愛を込めた教えを弟子たちに飾られた後、
いよいよ十字架逮捕を前にしてですね、祈った場面が今のところです。
このイエス様の祈りですね、私たちの弟子たちのために祈った祈りです。
その祈りを見るとですね、イエス様の弟子に対するこの眼差しが伝わってきます。
それを詳しく見ますとですね、実は私たちの信仰の拠り所、
神によって私たちの信仰、あるいは私たち自身が確かにされているという、
そういうことを知ることができ、信仰の支えとなりますので、
3つのことを学んでいきましょう。
まず最初ですね、不十分に見える信仰でもということです。
ちょっと17章6節の言葉を読める方、イエス様の祈りの言葉を読んでみましょう。
あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、私はあなたの御名をあらわしました。
彼らはあなたの御言葉を守りました。
実はですね、この祈りは以前イエス様が弟子たちに語った言葉と一見矛盾しているように思えるんですね。
実は以前イエス様は弟子たちの不信仰を指摘した。
弟子たちはイエス様に、今あなたが神から使わせられたお方であることを信じますと、
国別説教の最後で言った時にですね、それを受けてイエス様は弟子たちにこう言ったんですね。
16章の31、32節、ちょっとこれを読んでみましょうか。
あなた方は今信じているのですか?あなた方は散らされ、私を一人に残します。
この彼らが信じていると言いながらも、彼らは本当は信じていないんじゃないかと思わせるような言葉をイエス様は弟子たちに残したんですね。
ここで言われているように、イエス様の弟子たちはイエス様が逮捕されると逃げ去ってしまいますね。
ここで言われていますように。
でも、このイエス様が逮捕されて逃げ去っていくということ、その弟子の姿をですね、イエス様は知っていたにもかかわらず、
彼らの信仰の弱さや足りなさを知っていたにもかかわらず、実は彼らの信仰そのものを否定しているわけではないんですね。
この違いわかりますよね。
私を見捨てで離れ去ってしまいますと言いながらも、彼らの信仰自体は実は、この祈りを見ればなおさらですが、
弱い信仰かもしれませんけども、彼らの信仰そのものを否定していないわけですね。
むしろ彼らがイエス様の言葉を受け入れたことをですね、知って、
ごめんなさい。
それでもですね、そのことを知って、イエス様はこの祈りの中でさらに続けて弟子たちを認めるようなことをですね、神様に祈りの中で続けてるんですね。
こう祈っています。
私があなたのもとから出てきたことを彼らは本当に知り、信じましたって言ってるんです。
繰り返しますが、その前はあなた方は信じてるんですか?
私を一人残して散っていきますよということを残しながらですね、繰り返し申し訳ないんですけども、
彼らはあなたの御言葉を守りましたって、その後の祈りで父なる神様に言ってるし、
本当に信じましたとさえ、父なる神様に向けて告げて、彼らの信仰を認めている。
よく見るとそういう矛盾じゃないけども、この点が浮き彫りになるんですね。
何がここから私たち分かるかというと、実は弟子たちに対するイエス様の眼差しがそうであったように、私たちもですね、試練の中で信仰が揺らぐことがありますよね。
私も詳しく言いませんけど、心配するわけですね。不安になるわけです。
ちゃんとできるだろうかとかですね。ちっちゃいことから大きいことまで。
そういうので、ある面は不信仰で揺れることがあるかもしれません。
でも、もっと皆さんも厳しい試練の中で信仰が揺らいでしまう。
あるいは、そんな中で自分は理想的な信仰者じゃないんじゃないかな。
そんな姿を見せてしまったり、感じてしまうことがあるかもしれませんね。すぐ揺れるわけでしょう。
でも、この弟子たちに対するイエス様の眼差し、祈りから見えてくることは、そんな弱い私たちを見てもイエス様は、
あなたは不信仰だねって言って、失格者というレッテルを貼ったりしないんですね。
良くも悪くも、この世はちょっとした失敗で、人を失敗者として抹殺するような空気が最近特にあるかもしれません。
でもイエス様はそういう方じゃない。
それら私たちの弱さを理由に、もう面倒見てられないよと言って、私たちを見捨てることは決してなさらないわけです。
それどころか、私たちの弱さを知った上で、この弟子たちのように、今の私たちが、この弟子たちみたいに精一杯イエス様に信じ従おうとしている。
弱さや足りなさがありながらも、精一杯イエス様に信じ従おうとしている私たちに目を止めてくださる。
そんな私たちのことを知ってくださる。それがイエス様の眼差しである。
その眼差しこそ、私たちの信仰を支える根拠となるわけですね。
自分の強さじゃなくて、そんな私に目を止めてくださるイエス様の眼差しが、私たちの信仰生活や祈りの支えになっている。
そんなことを最初に取り上げてみたいと思いました。
第二の点:今も続くイエス様の祈り
2番目、さらにその信仰の拠り所となるところを深めていきましょう。
イエス様の祈りの中身を見ていきましょう。
2番目、今も続くイエス様の祈り。
イエス様はこう祈っています。
17章11節の前半で、
私はもう世にいなくなります。
彼らは世にいますが、私はあなたのもとに参ります。
ここから読めるか、読んでみましょうか。
聖なる父よ、私にくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。
ここはイエス様がなぜ弟子たちのために祈っているかという理由。
イエス様が取りなしている祈りの姿であり、その祈る理由が書かれているわけです。
どんな理由か。
それは、イエス様が間もなく弟子たちのもとを離れてしまう。
そうすると、これまで目に見えるような形で側にいて、弟子たちをイエス様は助けることができないわけですよね。
ある意味、弟子たちに対して信仰の危機が訪れるわけです。
あなた方には世にあって困難があります、苦難がありますと言いました。
そういう苦難の中にいる弟子たちからイエス様は、目に見える姿ではなくて離れ去ってしまう。
そういう弟子たちの苦難を前に祈っている。
世にいなくなる。彼らはこの世に敵対する世にいているんだ。
だから彼らのために私は祈るんだということですよね。
信仰のつまづきを経験する悲しみや苦難に直面する弟子たちのことを知って、イエス様は真剣に祈っているんですね。
その真剣さや厳粛さがこの言葉からわかるんですね。
ここの赤字の聖なる父よという言葉。
実はですね、清い父よという祈りの呼びかけは4つの福音書の中で、ただここにしか書いてないんです。
聖なる父よ、それぐらい厳粛な響きです。
そしてあなたの御名によって、御名というのはですね、その人のそのものを表しています。
だから、父なる神様、あなたご自身によって彼らを守ってください。
神様に当ててこの言葉を使うのがふさわしいかわかりませんが、よく言う全身全霊でというじゃないですか。
力を尽くして、その御名によってというのは、その父なる神様、あなたの全存在によって、力を尽くして彼らを守ってください。
そういう、なんでしょうね。力強い思い込められて。
このイエス様の力強く、この厳粛な祈りからですね、この鳥梨の祈りの深さや重さということが、真剣さが伝わってくるわけですね。
ここからもわかることは、私たちの信仰を支えているのは、弟子たちの信仰を支えているのは、やはり弟子たちの強さではなくて、イエス様の祈りである。
そして、これは今の私たちにも当てはまるわけですよね。
ちょっと先に出してしまいましたけど。
イエス様の鳥梨について、こういう御言葉がありますね。ヘブル7章25節、読んでみましょうか。
イエスはいつも生きていて、彼らのために鳥梨をしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
弟子たちや私たちのものから立ち去ったイエス様は何をしているかというと、今道の前で、今も祈っておられる。
お祈りメールってわかります?最近、就職活動している人とか、断りのメールや手紙にこれからのご活躍をお祈りしています。
断りのお手紙に書いてあるのがお祈り、最近メールなのでお祈りメールって言って、不幸の手紙じゃないですけど、悪い知らせなんです。
私たち日本人は、相手の幸いを願って祈ってますって挨拶で結びで使いますよね、手紙。
別に悪いことじゃなくて、相手の幸せや幸いを願うことですから、心こもっているけれども、本当に祈ってはいないですよね。
でも皆さんクリスチャンですから、祈ってますって言ったら、その方のために本当に祈ってあげるじゃないですか。
逆に皆さんが祈ってもらえているって知ると、すごく心強いですよね。
ましてや、他でもないイエス様が今、自分のために祈ってくれているんだっていうことを知ると、私はすごく心強いんですね。
私、皆さんのためにも祈るんですけど、どこで何されているのかなと、言って助けてあげられないなと思いますけど、
今日もこの見事場に取り組んでいる中で、あ、そっか、その方のためにイエス様が祈っているから大丈夫なんだっていう。
そういう、あえて僕会社として皆さんのことを祈りながら考えたときに、イエス様の祈りが皆さんを支えているってことが、
私の一つ安心の材料理もなっているんだなってことを今日もこの見事場から気がつきました。
そんな中で、とにかく自分がイエス様に祈られているってことが、この信仰の確かさだってことを一つ覚えてください。
さらにですね、イエス様の祈りは私たちの祈りをも励ますんですね。
ある信学者、ある牧師がこんなこと言ってるんですね。
私たちの神への祈りはイエス様の祈りによって包まれている。
それを知るときに私たちはもっと祈りたくなるはずであるって言ってるんです。
この歌詞を解説したある信学者が。
あのね、プレゼントを包みますよね。
そして、包んで相手にあげたりもらうと嬉しくて受けてるじゃないですか。
私たちが実は神様に祈るときに、イエス様自身の祈りによってこうやって包まれている。
もしかしたら私たちの祈りは不十分かもしれませんけれども、
このように素晴らしい贈り物としてイエス様によって私たちの祈りが包まれていますから、
そんな祈りをですね、父なる神様は必ず受け取ってくださるんだ。
それも何でしょうね、イエスの御名によって祈りますって意味じゃないかと思うんですね。
今思い出しているので言いますけどね、あんまり自分のこと言いたくないんですけど言います。
今、コロナの前にですね、月に1回練馬教会に集まって牧師会っていうのをやってたんですね。
今オンラインが多くてオンラインでも出れますけど、
そうすると大体、前も言ったかな、終わった後に2人3人でね、隣の人と一緒に祈るんですよ。
で、ある時ね、ある女性のですね、非常にこう上品で霊的に熱心な大先輩の先生と一緒に祈る機会になったんです。
で、祈ると、皆さん誰かと祈った時に相手の祈りに反応して、アーメンっていうことあるじゃないですか。
私祈ってもですね、私にすれば大先輩の先生がね、私たどたしく祈っても、
まあ人間的ですけど、全然アーメンって言ってくれないんですよね。
だからまあ、いっか、私真面目に祈ってるけど、上手に祈れないからなと思ったんですけど、
その時にこれ思い出したんです。
あ、ね、この先生がたとえね、私の祈りに同意してくれてなくても、そして言葉がうまく言えなくても、
私の祈りをイエス様が取り出してくださってるから、だから大丈夫なんだ。
それからですね、私は人の前で、まあ上手い下手ないんですけど、上手に祈れなくてもあんま気にしないんですね。
まあ下手、上手、下手って言ってあれですけど、上手い言葉が浮かばなくても気持ち込めて祈れば、
イエス様がその土に持ってってくださって完璧してくださるから、思うままを祈ろうというふうに思えるようになった次第ですね。
はい、まあいろんな話が入ってしまいましたけども、私たちの信仰の拠り所としてイエス様の取り出しということがあります。
そしてもう一つ、私たちの祈りの拠り所自体もですね、イエス様の御名にあるイエス様が私たちの祈りをきれいにラッピングして、
父なる神への捧げ物としてくださる。それがですね、私たちの祈りの励ましとなってですね、
もしかしたら、僕子が言うにはもっと祈りたくなるのではないかな。
奥の辺もなく、自由に祈れるのではないかな、そのところを分かち合ってみました。
第三の点:「私たちは神のものである」という確かなよりどころ
最後、3番目、私たちは神のものであるという確かな拠り所ですね。
17章9節のイエス様の言葉、ちょっと長いですが、読んでみましょうか、この祈りの言葉3。
私は彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたが私にくださった人たちのためにお願いします。
彼らはあなたのものですから。
ここのですね、鍵は、弟子たちは神のものだということなんですね。
ここで、彼らはあなたのものですからとイエス様は、父なる神に祈られたわけです。
この祈りを受けてよく考えてみてほしいのは、じゃあ私たちは一体誰のものか。
私たちは神様のものである。それが私たちの拠り所なんですね。
イエス様はですね、さらにこう祈っておりますね。
彼らはあなた、御父のものでしたが、あなたは私に委ねてくださいました。
今日の箇所の難しいところはですね、いろんな言葉が行ったり来たりするんです。
そのうちの一つは、弟子たちが誰のものかというのが、父のものと言われたり、イエス様のものと言われたりということが行き消している。
そういう点がちょっと難しいんですけど、簡単に言うと、父なる神のものであり、イエス様のものであるということがね、
この短いセリフの中に7回も言われているんです。
まとめて言えば、弟子たちは神のものであるということが7回もですね、繰り返されている。
それほど今日の箇所で、これ大事な点なんですね。
で、とにかく弟子たちが神のものであるということが、イエス様の祈りの中でとても大事なことだということが伝わってくる。
それは私たちの信仰生活にとっても深い意味があるんですね。
弟子たちに、イエス様に弟子たちが委ねられる前から、もともとは弟子たちは神様の、父なる神様のものだということに、ちょっとさらに注目したいんですけども。
使徒パウロはですね、エピソードの手紙の中でこんなことを言っているんですね。
彼が知っているクリスチャーに対して、読んでみましょうか。
神は世界のもといが据えられる前から、この方にあって私たちを選び。
この世界が始まる前から神様は信じているあなた方を私たちを選んだと言っているんです。
そしてこの間見た17章5節でイエス様はご自分の栄光についてこう言ってますよね。
世界が始まる前にあなたの御前で一緒に持っていたあの栄光を私に与えてください。
これらの文脈から考えると、私たちは永遠の昔から父なる神様の御心の内にあって、
その世界が始まる前から神様のものとしてすでに選ばれていた、捉えられていたということがわかるわけですよね。
この私たちが創造主なる神のものであるということはどれだけ大きなよりどころかということでですね、
少しだけちょっとかすったお話がありますのでお話しますけど、
前もよく引用したクリスチャンの証がいっぱい書いてある本の中にこんなのがあるんですね。
ある山陰地方で牧師をやっている方の証です。
6、7年前に書かれたものですけれども、
彼は子供3人抱える中で、関西の一流の科学メーカーを勤めていたんですね、研究者として。
そこに勤めていると、いわゆる旧邸大というエリートの科学者がいっぱい集まってくるんです。
一緒に研究しているんですけれども、彼が言うにはエリートなんですけれども、
仕事が終わると、一般の社会で飲みに行ってですね、何言っているかというと、愚痴ばっかり言っているって言うんですよ。
彼から言えばあんなバリバリのエリート集団なのに、それなのに仕事が終わると飲みに行っていろいろ愚痴っている。
関西の人だからこう言っているんです。これって何なんやって。
彼らにこういう世界がある、いわゆるクリスチャンの世界があるって伝えたいけど伝えられない。
口もないし知識もないからね。幸せそうじゃない人たちの中にいて、彼らに伝えられないもどかしさもありました。
そしたら彼は思ったんです。それなら牧師になればいいじゃないか。牧師なら伝えられると思ったんです。
単純、むっちゃ単純ですよ。それが動機で。
その頃は子どもたちの教会学をデザインしていたので、これが仕事になったらいいなと牧師の姿をそばで見ていていいなと思ったんです。
そしてこう言ってですね、私が牧師になりたいと思った理由、あとはやはり想像無しということやと思います。
どういうことかって、この世界を作った神が私を受け入れて支えているということやと思います。
絶対変わらない価値観土台です。この方がいるから大丈夫なんだという土台。これをみんなも知ったらいいのにと思うようになりました。
この方は奥さんに連れられて教会に行くようになったんですけれども、信じる前は科学者としてよく言われる、科学的な法則というのが本当にぴったり合うんですね。
科学というのは原因は追求しなくて、何が起こっているかを見ていくけれども、あまりにもそれがぴったりしていたので、なんだということを考えたときに、想像無しだということに、おそらく信じた後に思い立ったというんです。
そしてこの想像無し、この世界を作った神が私を受け入れて支えているということだと思います。
絶対変わらない価値観土台です。この方がいるから大丈夫なんだという土台。これもみんな知ったらいいのにと思うようになりました。
このようにですね、私たちは世界の始まる前から神様のうちに神のものとして選ばれていた。
それがですね、私たちの弱さにあっても、私たちの信仰を支える土台になっているんだ。そのことをですね、もう一度思い起こしていただければと思います。
結論と祈り
この確かさ、これを知っている確かさのゆえにですね、私たちは安心して祈ることができますし、そして足りないところがあるかもしれませんが、この確かさのゆえにですね、私たちはイエス様に従って進んでいくことができる。
そのことをもう一度思い起こしましょう。最後にこのヨハネの福音書の中でイエス様がやはり同じような真理を伝えた言葉を引用して終わりにしたいと思います。ヨハネの10章の29節ですね。
私の父が私に与えてくださったものは全てに勝って大切です。誰も彼らを父の手から奪い去ることはできません。
私たちの救い主なるイエス様、あなたの名前を賛美いたします。あなたは弟子たちのために祈られました。と同時に今も私たちのために祈り、私たちを導き、私たちをあなたの見姿へと形作ってくださっていることを感謝いたします。
聖なる神に選ばれ、確かな土台が与えられている私たち、どうかそのあなたに守られている、そのことを心に留めながら、あなたに従い、また祈り、あなたに使え、他人に使い合っていくお互いであり、教会でありますよう、どうか導いてください。
願うがこの尊い真理を一人でも多くの方々が知ることができますように、私たちをも用いてください。
これを願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは御言葉に応えて1分ほど黙祷する時間を持ちましょう。