祈りと導入:山の登頂に例えられる信仰の歩み
それでは、短くお祈りをいたします。
恵み深い愛する天の父なる神様、
父の御前へと私たちをまた集わせてくださり、感謝をいたします。
台風が通り過ぎ、また祈られたように各地で地震があり、
本当に様々なことが起きる中で、
主よ、あなたが私たちを支えて、永遠の身腕をもって私たちを守っていてくださり、
今日も私の御前へと集うことができたことを感謝をいたします。
あなたの守りは確かです。
そしてまた、主よ、あなたは私たちをあなた御自身のことしてくださいました。
そのために、御子イエスキリストを十字架に捧げ、
流された血潮におり、私たちを清め、神のことし、
永遠なる人と共に生きる永遠の命を与えてくださったことを覚えて感謝をいたします。
あなたはもはや一人ではない、私があなたを担っている、
私の恵みのうちに歩みなさいと、そのような人生を開いてくださいました。
だからこそ、祈られたように、本当にただ主に安心しながら私たちは歩んでいきます。
様々な嵐があろうとも、あなたは担っておられます。
どうか主よ、今日も御言葉を開き、私たちにあなたの恵みを教えてください。
そして本当に主を仰いで、この世界を生きていく勇気を得ることができるよう、
帰りにいてください。
この世界においては様々な争いが起きていますし、
異様のないうめきが私たちのうちにあります。
様々な理由でここに来たくても来れない方々もいます。
どうかお一人一人のうめきに主が伴ってくださり、
あなたを仰ぐことができるよう、そこに主の御臨在が現されるように守ってください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を開き、あなたが私たちを導いてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン
私ごとで恐縮なのですが、
最近、体力維持のためも兼ねまして、
少し山登りを…
あります。
まあ、そんなの言うても大した山じゃないんですけど。
でも、横尾さんももう登りましたし、
坂鳥さんも、その前のスマの峰の山も登ってきました。
馬の背も越えました。
最近始めたばっかりなので、まだ何も勝手がわかんないんですが、
ただ、ふと、私にとっては初めて歩く道ばかりです。
時に天候が悪くなってですね、ちょっと曇り道になると、
山道って本当にこれ道かなと思うようなところを歩く時がある。
知らない道で、暗めの道を歩いていく時、ものすごく不安になるわけですね。
本当にこの道で合っているのかとか、
この先どこに続くんだろうみたいなことを不安に思う時に、
とても安心するのは、向かいから人が歩いてきたら、ものすごく安心するんですね。
ああ、そっか、向こうには人が歩ける道があるんですかね。
そこで本当に、こんにちはって山では大体挨拶したら返してくれるんですが、
この道でよかったんだということであったり、
この道を歩いてたどり着いた人がいる、
じゃあこの先にはきっと山頂があるんだということを思って、すごく安心をします。
そういう実感を抱いた時に、私はふと思った時、
これはイエス様が、私たちがイエス様を信じて歩んでいく歩みに似ているなと思ったんですね。
私たちも道がわからなくなる時があります。
この道でいいのかなという時があります。
そして、これで正しかったのかという後悔もありますし、
先週お話をいたしましたが、
それこそ死という場所は私たちにとっては未知の場所です。
しかし、恐れる私たち、道がわからなくなる、
あっているのかと思う私たち、
しかし、イエス様がその道を先に歩いていてくださる。
山で例えるならば、イエス様が先に山頂に上がっていてですね、
山登りするとそういう人もいるんですが、
山頂の近くで息切れ切れしていると、
あともうちょっとだから大丈夫ですよって言ってくれる人がいる。
でもイエス様ってそういう方なのかなということを少し思いました。
山頂も知っておられるし、
そして時には山から降りてきて、
もうちょっとだよ、もうちょっとで山頂に着くよと言って、
道を指し示してくださる。
そのようなある種、伴奏者というか同伴者であるイエス様の存在というのは、
今朝お読みしましたこの使徒信条の告白とも無関係ではありません。
イエス・キリスト:天の聖所に入られた大祭司
今朝目をとめますのは、
三日目によみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右にざしたまえりという告白に目をとめます。
三日目によみがえりというのは、復活についてで、
毎年イースターで語りますから、
ちょっと今日はそこは飛ばしますが、
しかし続きのイエス様がそのよみがえられただけではなくて、
天にのぼられたこと、
そして神の右にざされたことに注目をしたい。
それは、単にイエス様だけがこのような特別の道を歩いたんですよ、
ということを言っているわけではないんです。
そうではない。
聖書が語ることは、
このイエスキリスト、よみがえられたイエスキリストは、
眠った者の初歩として死者の中からよみがえられたと語ります。
初歩というのは、先陣を切ってということです。
いわば私たちの歩くべき道を、
先んじて主が道を開いてくださって、
そしてその道筋の後を私たちは歩いていく。
この地上でイエス様が苦しまれたその歩みも、
そしてよみがえられた歩みも、
天にのぼられた歩み、
そして聖書は意外と思われるかもしれませんが、
私たちがよみがえった後は天国でただ過ごすじゃない。
死とともに新天新地を治めるのだということを言われる。
そのようなことにも私たちは導かれている。
そうであるならば、天にのぼられたイエス様は、
まさに山頂にのぼり、
なおのぼる人のところで並走する人に似ているのかもしれません。
大丈夫だ。道は開いているし、
あなたのその道は間違っていないと、
私たちに語ってくださる。
今朝はそのイエス様が山頂ならぬ天上、天の溝において、
私たちに今どのようにその身業をなし続けてくださっているのか、
三つのポイントで少し見ていきたいと思いますが、
今朝目を止めますのはヘブル人への手紙です。
難しい手紙です。
ただヘブル人への手紙をちょっといろんなところを見ながら、
一つの筋で見ていきたいと思っております。
一つ目のポイントです。
このお方は天の始成所に進まれた大祭司であるということです。
天の始成所に進まれた大祭司である。
先ほども首都心上を見ました天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえりと告白をいたします。
それはヘブル人への手紙の中にも書かれていますし、
神の右の座につくという、右というのは権威の象徴ですから、
いわば右の座につかれるというのは、
あたかも王様がその王座にどしっと腰を下したような、
そのようなイメージですね。
しかしヘブル人への手紙はそれに加えてもう一つのイメージを描いています。
それは、この着座されたお方は大祭司であるということです。
大祭司であるということです。
そのことを関係して語るのは今日の14節です。
読みますと、
さて、私たちには諸々の天を通られた神の子イエスという
偉大な大祭司がおられるのですから、
信仰の告白を固く保とうではありませんかと言われます。
大祭司がおられる、イエス・キリストのことを指すわけですが、
しかしここでこのお方は諸々の天を通られたということが言われます。
不思議な言葉です。
しかしこれは我が旧約聖書の大祭司の話を理解するとちょっと分かりやすいんですね。
ちょっとだけ大祭司って何だったかということを確認しますが、
旧約聖書のレビキに特に書かれてあります。
レビキにおいては、レビキは開きませんが、
しかし古代イスラエルにおいてこの大祭司というのは、
神様と人間の間に立つ存在です。
祭司一般がそうなんですが、そのトップが大祭司です。
そしてこの大祭司にとって、この大祭司しかできない唯一の方式がありました。
それは年に一度大食財備、ヨムキプルと言いますが、
その大食財備に年に一度だけ幕屋と呼ばれる聖女の一番奥、
幕屋の中で分厚い布で仕切られている神様がそこにおられると呼ばれる死聖女というところに、
年に一回だけ大祭司は身を清めて、犠牲の血を携えて、
その死聖女の中に入っていくという大切な役目がありました。
それによってイスラエルの民のその罪をすべて清めるという大切な日なのですが、
大祭司というのはそのように、この日にだけ一人だけこの血を携えて死聖女に入らなければならない。
その時に分厚い布幕を越えていくんですよ。
そしてこの大祭司だけがいわば、生ける神様の御前に進み出ていくわけです。
これが大祭司の奉仕ですね。
しかしヘブルビタへの手紙は、読んでいただいたらわかりますが、
この旧約聖書に記されている大祭司や幕屋というのは、
いわば本物の形の影ですよということをよく言うんです。
これまであるものが、いわば本当の聖女、本当の大祭司のレプリカとは言いませんが、
その影として、形としてやっているんですよということを言っている。
では、この本当の大祭司というのは一体誰なんでしょうか。
それがヘブル書の言いたいことなんです。
それはイエス・キリストなんですよということです。
本当の大祭司はイエス・キリスト。
人間の大祭司は命に寿命があって死んでしまうけれども、
しかしこの方は死から蘇られた永遠なる大祭司である。
本当の大祭司。
そしてこの本当の大祭司は、
あの大祭司が大食材尾に神聖女に入っていったように、
大祭司の役割として大事な血を携えて、
天の神聖女に上がっていかなければならない。
その携える血はイエス・キリスト御自身の血であるということも他でも書かれますが、
その血を携えて天の神聖女、いわば神様が本当におられる主の臨在の前に、
神の御前にイエス・キリストは上がっていくんですよということを描く。
そのためには宇宙の全ての次元、まさに諸々の天を越えていく。
それはあたかの死聖女と聖女を隔てていた幕のように、
諸々の天を越えてこの方は神の聖女の御前に、神の御前に出ていく。
犠牲の血は動物の血ではありません。
誠の犠牲として御自身の血を天に携え上げられました。
それによって全ての人の罪の贖いを完成されたのだというのを語るのがヘブル書なんです。
ちょっと一箇所だけお開きしますが、
九章の十二節というところを読みますと、そういうことが書いてあります。
九章の十二節です。
九章の十二節。
また、親戚と孔子の血によってではなく、
御自分の血によって、ただ一度だけ聖女に入り、
永遠の贖いを成し遂げられましたと書かれます。
これも細かい話かもしれませんが、
私たちは食材ということ、
罪が贖われるというときに、
動物が殺されたタイミング、
それはイエス・キリストが十字架で殺されたタイミングに
完成したと思いがちです。
そういう理解もあるでしょう。
しかし、旧約聖書の文脈でもっと丁寧に見ていくならば、
大食材の話というのは何かというと、
動物犠牲の血が注がれて、
それを聖女に携え上げていったときに
贖いが完成するんです。
それに則って、ヘブル書はまさに、
このイエス・キリストが御自身の血を携えて、
死聖女に入ったときに贖いが完成したということを描くのですね。
そしてその後に、イエス様は神様の右の座に着座されたということが語られる。
もうパラパラ開いて申し訳ないんですが、
そのちょっと後ろに、
十章の十二節から十四節というところを読みしますと、
十章の十二節から十四節、
十章の十二節から十四節を読みしますと、
こういう言葉です。
キリストは罪のために一つの生贄を捧げた後、
永遠に神の右の座に着き、
あとは敵が御自分の足台とされるのを待っておられます。
なぜなら、キリストは聖なる者とされる人々を
一つの捧げ物によって、
永遠に完成されたからですと言われるのですね。
そのように神の右の座に着座されたイエス様、
贖えを成し遂げられて天の聖女に行かれて、
神の右の座に今主は着座されたのだと語る。
じゃあその方はそこに座って、
イエス・キリスト:私たちのために取り成す生ける大祭司
着座してそのまましているだけなのでしょうか。
そうではないのです。
七章の二十五節、いろいろ開きますが、
七章の二十五節というところに、
こういう言葉がございます。
七章の二十五節を読みしますと、こういう言葉です。
従ってイエスはいつも生きていて、
彼らのために取りなしをしておられるので、
御自分によって神に近づく人々を
完全に救うことがおできになりますと語るのです。
ここでイエス様はいつも生きていて、
取りなしておられるということが描かれるのです。
イエス様はいつも生きておられる。
確かにと思います。
旧約聖書において、
このイエス様生きておられる言葉を書いたならば、
主が御自身を指すときに、
私は生きている、私は生きている。
そのことはエゼケエル書が特によく語ります。
私は生きている、私は生きている。
しかしエゼケエル書を見ていただいたらわかりますが、
私は生きていると主が語るとき、
おおよそそれは、目の前の人々が
主は生きてはいないということを
信じている人たちに対して語る。
神はいるのだけれども、遠くにいる。
神は存在するのだけれども、生きてはいない。
力などない。
生きているのにまるでいないかのように
扱っている人々に対する警告の言葉は、
私は生きているという言葉なのです。
しかしここでもヘブル書でも語られます。
主はいつも生きておられる。
今朝私たちが改めて言われることは、
私はいつも生きている。
いや、それだけではない。
天において、今生きておられるイエス様が
私たちのために取りなしてくださっている事実、
そのことをリアルに受け止めますかという問いかけです。
生きておられる。
あなたのために取りなしている。
その事実を受け止めますか。
取りなしという言葉は、
これは元の言葉で前回も説明いたしました。
これは代わりに単願をするという言葉です。
私たちが主に祈る。
でも祈れない。
その代わりに主は私たちのために単願してくださっている。
神の右の座に挫しておられるお方、
隣には神様がいるわけです。
しかしそのお方に対して天において取りなして単願してくださっている
イエス様がおられると御言葉を語ります。
そして何よりも驚くべきことは、
その単願、その取りなしは、
実にまとえた単願であるということです。
それが二つ目のポイントです。
なぜ主は私たちのために取りなすことができるのか、
それは大祭司イエス様は、
私たちの弱さにどこまでも同情をされるお方であるからです。
それが今朝の四章の十五節の御言葉です。
ちょっとお読みします。こういう言葉です。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情をできない方ではありません。
罪は犯しませんでしたが、
全ての点において私たちと同じように
試みに遭われたのですというのです。
この大祭司は私たちに同情をできないお方ではないと語る。
この同情するという言葉、元のギリシャ語は
sympatheoという言葉でして、
これは英語のsympathyの元の言葉です。
sympathy、いわば同情や共感という言葉ですね。
ただ、ギリシャ語はこのsympatheoというのは
二つの言葉が仮定している言葉です。
symというのは共にという言葉、
patheoというのは苦しむという動詞です。
sympatheoというのは共に苦しむという言葉なんです。
同情をするというのは、いわば共に苦しむことを意味します。
離れた安全な場所から、それこそ天の神の右の座から
堂々と座りながら、えらい大変そうですなということを
言っているのではない。
相手の苦しみと全く同じ苦しみを
自分自身もその身に引き受けて
共に苦しむという意味です。
同情をするというのはそういうことです。
しかもこの歌詞は
同情をできない方ではないという
二重否定の言葉が使われています。
日本語で見ると、これはできない感じじゃないという風に
曖昧なニュアンスがありますが、
ギリシャ語の元の言葉は強い確定の言葉です。
同情できないわけがないということです。
同情できないなんていうことは絶対にない。
このお方は間違いなく
誰よりも深く同情、深く共に
苦しんでくださるお方であるという
これは強い確信の言葉なんです。
このお方は同情できないお方ではない。
私たちは思います。
イエス様と私たちは違うでしょう。
そしてイエス様は天にまで昇られたお方で
今は遠くにおられて、別次元におられて
私たちの一体何がわかるんですか。
しかしなぜここまでヘブル書の著者が
このお方は私たちに同情できないはずがないんです
ということを言うのか。
それはここに書かれているように
イエス様は全ての天において
私たちと同じ人間になられたということ
これはヘブル人への手紙の中で
何度も繰り返し書かれることです。
このお方は人となられた。
2章の11節というところには
パラッと見ていただいてもわかりますが
このお方は人になられた
それはイエスは彼らを兄弟と呼ぶことを
恥とせずとも書かれます。
イエス様は神であることを捨てて
人間となられて
人間となられたということは
人間のことを私の兄弟と呼ぶ
だって同じでしょう私たちということを
言うようなところにまで
主は降りてきてくださった
そこまで低くなられた
そしてそのところで
人間の試みや苦しみを経験なさった
その最たる極みというのは
十字架という場面であったでしょう
私たちは十字架を見つめなければなりません
十字架には
人に裏切られる痛みを通った主がいます
人に裏切られ
人から侮辱され
人から不当で理不尽な扱いをされ
肉体の種々の痛みを受け
人々から拒絶され
その存在を根本から否定される
あんな奴十字架につけろ
そして何よりも十字架の上で
一番痛かったことそれは
愛する父なる神様から
捨てられるという経験です
父なる神よ
我が神、我が神
どうして私をお見せになられたのですか
私たちの人生で負う痛みではないでしょうか
人から否定される
理不尽な扱いを受ける
侮辱された傷というのは忘れません
病の痛みの中で
誰にも分かってもらえない
孤独の痛みがある
しかし私たちの人生で負う痛みの
いわゆるその極致を
イエス様は味わわれたお方なのです
だからイエス様は
私たちの苦しみがわかるというのです
共に苦しむことができる
あなたのことはよくわかる
神であるのに
天の右の座に座されるほどのお方なのに
小さな人間である私の
その痛みを
ご自身の痛みとすることができると
この歌詞は語っているんですよ
これは本当に驚くべきことです
本当に驚くべきことですね
私たちは思います
もう痛くて耐えられないと
涙する時があります
イエス様はでもそこで
私もその痛みの感覚を知っているよ
と言ってくださる
私たちは時に誰も
自分のこの苦しみを
わかってくれないという孤独に出会います
しかしイエス様は言われます
あなたの孤独も私はわかるよ
私もあのゲステマネのその出
誰にも理解されずにただ一人
血の汗を流しながら
父に祈るしかなかった
でもあなたのその孤独は私はわかるよと
そう私たちの手を握ってくださる
そして隣におられる
父なる神様に探願してくださるのです
父よどうか彼を憐れんでください
父よどうか彼女を憐れんでください
父よどうか全能の御手をもって
彼女を守ってくださいと
イエス様がそこで探願してくださる
取り成してくださっている
主が取り成してくださっているという
慰めは一体どういうところにあるんでしょう
それは私たちが祈れないときです
私たちは祈れなくなることがよくあります
神様に心が向かない
いろいろな苦難があっても
結局私がどうにかするしかないんだと
腹くくる大事かもしれません
でも私たちがそのように
手を挙げられなくなったその最中で
主は手を挙げ続けてくださっている
彼女の痛みを私はよくわかっているんです
父よどうか彼女を憐れんでください
そういう祈りの声は尽きない
そのような主の祈りと励ましと守りがあるからこそ
三つ目のポイントです
私たちは今
恵みの御座に大胆に近づこうと
招かれるのですね
大胆に恵みの御座に近づく
いわばイエスキリストは
イエス様は神の右の座に座され
そこで大太子として
私たちの弱さに同情をして
取りなしてくださっている
だから十六節ですね
ですから私たちは
憐れみを受け
また恵みをいただいて
おりにかなった助けを受けるために
大胆に恵みの御座に近づこうではありませんかと
ヘブル書の著者は語ります
私いいなあと思います
頑張ってとかね
強く信仰を持ってじゃなくて
神の憐れみを受け
恵みをいただいて近づこうというのです
私の力は弱くて尽きるかもしれない
しかしあなたに注がれている
私たちに注がれている
憐れみと恵みを確かに受け止めながら
主に近づいていこうということを
著者は語ります
そしてここで言われることは
御座に近づこうという招きです
御座に近づこう
御座というのは先ほど申し上げました
いわば始成所です
神がおられるところに近づいていこうと
言われるのです
最初にお話をいたしたように
大祭主は始成所には年に一度だけ入ります
そしてそのためには
まず自分自身を全く清めてからでなければ
この始成所に入ることはできませんでした
でなければ
神様の聖なる聖なる主の清さの御前に
罪は隠しをおせません
そして主の清さの前にその罪が打たれて
人は死んでしまうんです
罪ある人間が始成所の神様に近づくことは
危険なことなのです
神に近づくことは本来危険なことです
罪は隠されることがありません
そしてヘブル書の9章というところには
私たちはいつか
誰しも必ず聖なる主の御前に
立たされる時がありますよとも語ります
私たちは罪を悔い改めて主を信じるということが
必ず必要であるということは確かなことでしょう
しかし主を仰ぎながらも
私たち自身も思うかもしれません
罪深い私は聖なる主の御前に近づくこと
ということが果たしてできるのだろうか
自分の罪深さを思うと
とても聖なる神様の御前には立てない
むしろ私のような罪人の祈りを
神様は聞かれないのではないか
主が私の祈りを聞かれるときは
私が全ての罪を悔い改めて
全く清くなってからでなければ
この祈りは聞かれない
そうなのではないか
しかしヘブル書のこの言葉に注目をするならば
ヘブル書の著者は
大胆に恵みの溝に近づこうと語っている
恵みの溝に近づこう
本来それは
聖なる神の御前に
罪あるものが出ていくならば
裁かれる裁きの溝です
しかしそれは今や恵みの溝に変わったと
ヘブル書の著者は語るのです
恵みの溝なのです
なぜそういうことができるのでしょうか
それは今やイエス・キリストによって
贖いが完成したからです
あの大祭司イエス様が
御自身の十字架の血を完全に清める血を
もっと言うならば
九章の十四節です
もうペラペラ開いてあるんですが
九章の十四節にその力が書かれています
九章の十四節
お読みいたします
九章の十四節
ましてキリストが傷のない御自分を
常しえの御霊によって神にお捧げになったその血は
どれだけ私たちの良心を清めて
死んだ行いから離れさせ
生ける神に仕えるものにすることでしょうか
主イエス・キリストの血
すべての罪から私たちを清めると
第一ヨハネは語りますが
それと同じように
イエス・キリストの十字架の血というのは
罪ある私を神の子としただけではない
それにおいてもなお弱さが残る私たちを
完全に清め切ることができるほどまでに
すべての必要を満たして捧げ切ってしまわれたものである
完全な犠牲である
だからこれがあるから
私たちは主に近づこうと言われるのです
主イエス・キリスト様に
聖なる恵みの溝に近づくことができるのは
私たちが何かちゃんとしているからではないのです
救いは私の信仰の確かさにありません
私たちの信仰は揺れます
しかし救いの根拠は
溝に近づける根拠は
清い清い神の御子イエス・キリストの父をのみです
それに根拠の100%があります
そしてそれを受ける私たちは
恵みと憐れみをいただいて
近づいていこうということを言われる
ここへ大胆に近づけと著者は語ります
大胆にという言葉は元の意味では
素直に遠慮なくという言葉です
遠慮なく近づけです
神様の御前に信仰に満ちあふれ
きれいに整えられた祈りで
祈りなさいということを言われているわけではないのです
そうではない
むしろ私たちの弱さのある現実の中で
ありのままで祈るのですよ
主よ今日も私はしんどいです
いいんですよ
主よただただ私は痛いのです
今私の心は押しつぶされそうなのです
そのありのままのうめき
涙を遠慮なく死の御前に大胆に携え上げると
ここは招くんですよ
それが大胆に近づくということです
そしてそのように祈るときに私たちは
九六節にありますが
おりにかなった助けを受けることができると語る
おりにかなったという言葉は
これはジャストタイミングでという言葉です
最高のタイミングでそのとき
主の最高のタイミングで
私たちは助けを受けることができる
私たちはそのときに改めて思うわけではないですか
ああ主は本当に生きておられる
それは主の警告ではなくて
主の恵みによって大胆に近づいていくときに
ああ本当に主は生きて身業をなされるお方なんだということを
経験しながら確信が深まっていく
その通りだということを私たちは信じるわけではないですか
もう終わりますが
天に登られて神の右の座についておられるお方は
大祭司であるお方
そのお方は私たちの痛みを知っています
そして共に苦しんでおられます
誰にも分からないその痛みを知っておられます
病のとこにあって痛みの夜であっても
言葉にならない祈りであっても
いや祈ることすら心が向かなかったとしても
あなたのその姿を見ながら主は取りなしておられます
私たちはありのままの弱さを携えながら生きていきます
しかし忘れてはなりません
私たちは神の父親によって贖われたお互いなんです
そしてだからこそそのように受け止められながら
私たちは恐れず大胆に
恵みの溝へ近づきなさいと招かれる
主は生きておられるということをそこで経験しながら
私たちは山頂に向かっていくんですよ
私たちの人生はどこに向かっているのか
分からないところに向かっているわけではない
私たちは主と共によみがえり
天に登り
そして主と共にこの世界を治めるものとなる
その主の支えとこの世における支えと
そして主がその道を開いてくださっている事実を
確かに覚えながら安心しながら
私たちは互いに主に従っていきたいと願います
一言お祈りをいたします