十字架のそばに立つ人々:女性たちの献身と兵士たちの行為
さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣をとって、四つに分け、各地に一つずつ渡るようにした。また、下着もとったが、それは上から全部一つに折った。縫い目のないものであった。 そのため彼らは互いに言った。
これは裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう。 これは、彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします、とある聖書が成就するためであった。 それで兵士たちはそのように行った。
イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。 イエスは母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に、
女の方、ご覧なさい、あなたの息子です、と言われた。 それからその弟子に、ご覧なさい、あなたの母です、と言われた。 その時からこの弟子は彼女を自分のところに引き取った。
以上です。今日はこのところから十字架と家族、十字架と家族と題して聖書からお話をします。
皆さんおはようございます。8月の第2週で少し、まあ、暦の上ではもうね、秋なんですよね。 秋とは名ばかりで、と皆さんいつも言いますけども、この暑い日がついておりますが。
今日はですね、初めての方もいらっしゃいますけれども、聖書からともにイエス様について、私たちはまたその信仰について考えることができればと思います。
今日の箇所にはですね、今読んだ箇所には、4人の兵士と4人の女の人が出てきます。
で、兵士たちとこの4人の女の人たちはですね、十字架にかけられたイエス様に対して、全く正反対の態度を示すんですね。
後でも詳しく説明しますが、この兵士たち、ローマの兵隊たちはですね、このイエス様をもてあそんで、その着物を奪ったんですね。
そして一方ですね、4人の女の人たちはイエス様を慕って十字架の側にまでついてきたわけです。
で、この二組のありようから、姿から、私たちの特にクリスチャンの方であれば、クリスチャンの信仰や生活の糧となることを取り上げたいと思います。
3つの点からお話しします。最初はですね、この女性の観点からイエス様に従っていく、信頼していくということ。
2番目はですね、この4人の兵士たちが行ったことからですね、こういう嫌なことを通しても働く神様の計画、救いということですね。
最後はイエス様の言葉から見る、新しい神の家族ということを話しますので、一緒に考えていきましょう。
一番最初は十字架の下に集う4人の女性ということから考えていきましょう。
ちょっと難しいんですが、読んだ19章25節、読める方は声に出して読んでみましょう。
イエスの十字架の傍にはイエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマクダラのマリアが立っていた。
4人の女性がいたんですね。ここで問題です。イエス様のお母さんの名前はなんて言うでしょうか?
イエス様のお母さんは花子ですか?
イエス様の母親はマリアと言いますね。
当時は普通の名前だったので、イエス様の母マリア以外にも3人のマリアがいた。
そしてイエス様の母親のマリアのお姉さんか妹の女の人もいて、これで4人の女の人がいたということがわかるわけですね。
この4人の人たちはイエス様をすごい大事に思っていた。
そしてイエス様を神様と信じてずっとついていきたい、従っていきたいという思いがあったんですね。
先ほど後でも見ますが、一方兵隊たちは死刑囚のイエス様を侮辱していたわけですよね。
その兵隊の侮辱に比較して、この4人の女の人たちの難しい言葉で言うと、献身とかイエス様への愛母の念ということが際立って美しく描かれているわけですね。
実はイエス様の母親は他の3人の女の人たちはイエス様の女弟子のような人だったんですね。
実は、自分が死と仰いでいたイエス様、神と信じていたイエス様が先週話した十字架という無言らしい死刑に遭う。
先週も言いましたが、当時のローマ市民には禁止されていたほど残酷な十字架でしたね。
生きたまま釘付けにされて、横棒と一緒に吊り上げられて、背中が鞭打たれて、皮が剥がれ肉が見え、時には骨が見えている。
そういう生き恥を晒された、そして苦しみながら、なかなか死ねない中で体が軽燃して死んでいくという、ローマの中では最も恐ろしい死刑と言われていた十字架だったわけです。
そういう姿を愛し慰う先生、神と信じているイエス様がそんな姿になって、
ましてや、ここに母親の方がいらっしゃいますが、自分の息子がそういう姿を晒しているということを目の当たりにして、
どれほど心を痛めたのか、そういうことが察するにあまりあると思うわけですよね。
ある学者は、彼女たちは人生最大のピンチだった、人生最大の試練に遭っていたとも言うんですよね。
ただ、こういうふうにも考えられるんです。
この4人の女の人たちは、そんなに心が痛むような苦しい状況の中にあっても、十字架から逃げてしまった弟子たちと違ってですね、
なおもこのイエス様について行こう、そういう人たちだったんですね。
最も大きな試練に直面して、心を痛めていても、なおイエス様の側を離れなかったということがわかるんですね。
難しい言葉で言うと、献身、心を捧げていた。
そして、もしかしたら逆に、こういうピンチ、危機的な状況であったからこそ、イエス様の側にいたいと思ったのかもしれません。
イエス様も救われてほしいけど、こういう苦しい中で私も救ってくださいと思ったかもしれません。
そこからですね、もし私たちが何か教訓を得られるとすれば、こういうことが考えられるんですね。
私たちもですね、もし苦しい状況に陥った時、ある程度言うと、試練に直面した時にですね、この十字架の下にですね、自分の居場所を求めていく。
そういう、特にクリスチャンであれば、自分が苦しい時にこそ、十字架の下に居場所を見つけていきたいと思うんですね。
そして、心を痛めるような試練にあっている時こそ、イエス様が共におられるんだということを信じていく。
そして、どこまでもイエス様の十字架の下までも従っていたこの女の人たちのように、私たちは試練の中にあっても、このイエス様についていく。
特にクリスチャンであれば、その試練の中でイエス様を拠り所として、どんな状況でもですね、イエス様についていこう。
そのように考えていったら、よろしいんじゃないかと思うんです。
これが一つ目ですね。
神の計画と希望:残酷な行為の中にも働く救いの道
二番目、今度は別の四人組です。
十字架の下で着物を分かち合った四人の兵士。
十九章二十三須を読んでいますね。
こう書いてありました。
さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣をとって四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。
ここから読んでみましょうか。
また下着もとったが、それは上から全部一つに折った、縫い目のないものであった。
ここでですね、四つに分けたということから、兵士が四人いたんじゃないかと言われています。
一つの着物が、こういう一つの着物というよりも、
頭にかぶせるものと、いわゆる上から羽織るものですね、
そしておそらくベルト、そして靴ですね、昔の革のサンダル、
それを四つで一つの着物と考えて、四人が分けたと考えられています。
実はですね、なぜそういうことをするかというと、
あまり良いことじゃないんですけど、戦争に行って勝つと略奪するじゃないですか、戦利品というんです。
だからこの兵隊にとって、死刑囚の洋服というのは、当時高価なものもあったので、自分たちの戦利品だったんですね。
そしてもう一つはですね、
余興、いわゆるエンターテイントして、この死刑囚をもてあそぶ、退屈しのぎに死刑囚をもてあそぶ、
からかったり殴ったり、そういうこともローマの兵隊たちは常日頃からしていたようなんですね。
先ほど見た四人の女性と比べて、この人たちの残酷な姿が浮かび上がってくるわけですね。
しかしですね、このような暗闇の中にあっても、神様の光が輝いているんです。
なぜそれがわかるかというと、これを書いたヨハネが旧約聖書の言葉を引用しているんですね。
同じ19章24節で、これを書いたヨハネが引用しています。
彼ら兵隊たちは互いに行った。これは魚居で、誰のものになるか口を引こう。
ちょっと読める方だけでいいので、読んでみましょう。
これは彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします、とある聖書が常日するためであった。
それで兵士たちはそのように行った。
今は詳しく言いませんけど、イエス様より前に書かれた旧約聖書には、救い主がこういう人が現れるという、
簡単に言うと、預言みたいなことが書いてあるんですね。
その中で救い主はこういう目に合うよ、というのが旧約聖書の詞編に書かれているんです。
簡単に言うと、彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします、という詞編の22編の18節の言葉がここに引用されていて、
その聖書の言葉、神様の言葉が実はここで実現したんだと、ヨハネという人は書いているんですね。
これから何が分かるかというと、このイエス様を持って遊んで、
戦利品として盗み取ったこの着物を分け合う行為、
その着物をくじ引きにして奪う、こういう残酷でひどい行為さえ、
実は神様の言葉が実現した結果であると、ヨハネは解説しているわけなんですね。
なぜそんなことが起こるか、簡単に言うと、
それは救い主イエス様が十字架で死んで、人の罪をあがない人を救う上で、こういうことが起こるんですよ。
簡単に言うと、このことを通して神様の救いの計画が実現するために、
聖書が書かれて、そしてそれが今まさに実現していますよ。
こういう捕虜として、死刑囚として、イエスから洋服を奪うという、
この残酷な出来事の背景にも神様の言葉が実現して、
神様の救いの計画が実現しているんですよということが、
福音書を書いたヨハネによって解説されているんですね。
そしたらですね、このことから私たちは何が分かるか、
それはですね、
それはこういうことが分かるんですね。
もし私たちが、このマリアや女の人たちのように、先ほども言いましたけど、
目を覆いたくなるような悲惨な状況、あるいは本当に心が痛むような状況を体験する。
でもそんな状況さえもですね、その背後に神様の救いの計画が確かにある。
そういう神様の…本当は怒ってほしくないけど、
神様の救いの計画の中でこの辛いことも起こっている。
そして実はこの状況を支配しているのは他でもない兵隊でもないんだ。
そうじゃなくて、この状況を支配してコントロールしているのは他でもない、
全知全能の神様なんですよということが読み取れるわけです。
繰り返しますが、私たちが嫌なこと、辛いことがあった時にですね、
こう信じることができるんですね。
この状況を支配してコントロールしているのは、悪しき者たちじゃないんだ。
そこの背後にあってこの状況をコントロールしているのは、
全知全能の神様なんだ。
その神様はどんな人ですか?
それは私たちを救おうとしている神様なんだ。
そういうことが分かると思います。
そしてこの神様が救いの計画を、この辛いことを通しても実現してくださる。
私を救ってくださると信じることができるんですね。
そして実は幸いなのは、そういう神様を信頼するときにですね、
聖書がこう言っているから大丈夫なんだ、そういう確信が持てればなおいいんですね。
実はですね、ちょっと違うんですけど、
似たような経験を私はしたことがあります。
こんなにひどい経験じゃないんですけども、
私はですね、大学受験をしました。
で、大学受験をしたときにですね、
私の頃はですね、栄養入手とかなかったので、
勉強して撮るしかなかったんですね。
で、落ちればどうなるか。
侍じゃなくて落ちてたら浪人になるわけですよね。
それで浪人になるのが本当にですね、
嫌でですね、勉強してても落ち着かないんですね。
特に2月頃。
で、私が行ってた学校はですね、私立の高校だったので、
もう受験シーズン、学校行かなくていいんです。
家にずっといて、勉強しなさいという学校だったんですね。
でも朝から晩まで勉強してもですね、私の中には、
大学に入れるのかな、浪人したらどうなるのかなっていうね、
そういう不安がいっぱいあったんですね。
勉強も手につかない。
そんなときにですね、こんなことが起こったんです。
実はですね、私の父が大学受験で使った参考書をくれたんですね。
世界古事成語辞典といって、
日本や世界の名言が載っている辞典をくれたんです。
今日探したら無かったので持って来れなかったんですけど、
それを見てたらいろんなですね、有名人の言葉が載っているんですね。
最初に宗教はアヘンである、マルクスの言葉が出てたり、
そんなこと書いてありながらも、
パッと見たらやっぱり聖書の言葉が出てるんですよ。
そこでこういう言葉があって、
明日のことを思い患ってはいけません。
明日が思い患います。
ろうくはその日その日に十分です。
って言葉があったんですね。
で、私その言葉にね、
初めて聖書の言葉をまともに読んだのがそのときだと思います。
なぜかそのときに、まだ私はその頃教会なんか行ったことなかったんですけど、
心にフッと入ってきてですね、
あ、そっか、そうだ明日のことを心配しないで、
一日一日勉強すればいいなっていう、
なんかそういう踏ん切りがついたんですね。
簡単に言うと、私は大学ミッション系の学校を希望していたので、
大学に入ったらちょっと聖書とか、
勉強したり教会に行きたいなと思っていたらですね、
まあ簡単に言うと、皆さん知っているから端折りますけどね、
大学の入学式のときに感動してですね、
賛美歌や聖書に触れて感動していたときに、
大学で宣教師になってですね、
その人に誘われて、簡単に言うと、
キリスト信仰を持つようになったわけなんです。
まあ何が言いたいかというと、
私はそのティーンエイジャー、今からしたら本当にもう、
なんでしょうね、どうってことなかったんですけども、
ティーンエイジャーの私はですね、
自分としては部活で頑張って自分自身があったんですけども、
悩みの中で自分って本当に弱いんだなってことが分かる中でね、
聖書の言葉であって、こうやって生きていけばいいんだってことにですね、
心がのもらえて、そして今に至りました。
まあそれから約40年経つんですけども、
もっと辛いこともありますけれどもね、
その都度神様が一緒にいるから大丈夫だ、
そして聖書の言葉を通して神様が助けてくれるから大丈夫だといって、
今に至っているわけなんですね。
まあそんな中なんですけども、
実はこの先ほど引用した四編の言葉なんですけども、
実はですね、この四編の言葉は、
子供を分かち合ったっていうことだけじゃなくて、
神様が救ってくださるっていう言葉が最後に出てくるんですね。
そういう希望の言葉をですね、ちょっと読んで、
2番目のセクションを終わりにしたいと思います。
四編の22編の24節、着物を分かち合うっていう悲惨な状況の後に、
こういう希望の言葉があります。
読んでみましょう。
聖書の神様、イエス様っていうのはどんな神様ですか?
それは苦しい人を下げすまないで助けてほしいといった時に、
耳を傾けて助けてくださる神様なんだ、
そういうことも分かるわけです。
新しい家族の誕生:血縁を超えた神の家族
では最後、ちょっと違う視点から考えていきましょう。
3番目、十字架の下で生まれた新しい家族です。
19章の今日見たとこの最後の単元に、
こういう言葉がありましたね。
ここからだけ読んでみましょうか。読んでください。
その時からこの弟子は彼女を自分のところに引き取った。
実はですね、前にも話したように、
このイエス様が話しかけた愛する弟子は誰かというと、
ヨハネの福音書を書いたヨハネです。
十二弟子の一人。
ヨハネの福音書で愛する弟子と出てきたら、
ヨハネだって覚えておいてくださいね。
そしてそのヨハネに対して、
イエス様がこの言葉をかけたわけです。
当時十字架にかかった死刑囚に許されたことがあったんです。
それは遺言のような言葉を残していいんだ。
そして諸説ありますけれども、
死刑囚の家族は十字架のそばまで来ていいんだ。
そんなことがあったので、
マリアたちがイエス様のそばにいたんじゃないかと、
ヨハネの教学者にも言っているんです。
そしてそこでイエス様はおそらく当時、
養子縁組を結ぶような言葉を使って、
御覧のように弟子のヨハネと自分の母を親子として結び合わせたわけです。
実はこのヨハネという人は、
三年ほど前にイエス様についていくにあたって、
ペテロのように養子を捨ててイエス様に従いました。
その時に今は触れませんが、
聖書にはヨハネは父と養子の網を残してイエスに従ったと書いてあるんです。
だからおそらく母親ともその時から、
ヨハネは離れ離れになっているわけですね。
だからそんなヨハネに対して新しい母親として、
イエス様はマリアを紹介したわけです。
一方、イエス様は宣教の始めの時、
やはり三年ほど前に、
ヨハネはかつて父と母の元を離れていた。
そして今イエス様と旅をしてきたわけです。
そして一方、イエス様は宣教活動の始めに、
母マリアに対してこう告げたんですね。
女の方、あなたは私と何の関係がありますか?
私の時はまだ来ていません。
冷たい言葉に聞こえるんですけども、
実は日本語にない表現で、
女の方というのは女性に対して尊敬の念を込めた呼びかけなんです。
これは簡単に言うと、
イエス様は人間的な親子の関わりよりも、
父なる神様から委ねられた救いの使いのちを優先して、
十字架への道を歩み始めるんだ、
そういう意思表示でもあったんですね。
その時から約3年間、
イエス様と母マリアはある程度離れ離れにいたわけなんです。
しかしイエス様は、いよいよその救いの使いのちが完成する。
十字架の上で死のうとする時に、
ついに自分の母親に対して最大の配慮を示したわけですね。
それは、自分がいなくなった後に自分に代わって、
弟子が母親であるマリアを面倒を見ることができるように、
二人を結び合わせたわけなんですね。
実はですね、皆さん知ってますか、
マリアにはイエス様の下に、
夫ヨセフとの間で子供が生まれたんですね、弟が。
あとでも出てきますが、
ヤコブという名前の弟をはじめ何人か出てきますが、
弟たちには委ねなかった。
何でかというと、この時まだ簡単に言うと、
イエスを信じる信仰に入ってなかったわけです。
後々イエス様を信じて、
そういうふうにイエス様の弟たちも信じるんですけどもね。
だからそういうこともあって、
まずイエス様を信じる新しいコミュニティに、
親子として二人を結び合わせたわけなんですね。
そしてこの時にマリアとヨハネを結び合わせて、
いわゆる新しい家族、
聖書でいうと神の家族、もっと言うと今で言う教会を作り上げたわけなんです。
このようにですね、神様の家族、新しい家族について、
イエス様の言葉がですね、聖書の別の箇所に記録しているんですね。
どんなものか。
それはですね、イエス様の兄弟姉妹母とはどういう人ですか?
と言ってですね、それは神の言葉を聞いて行う人たち、
天におられる私、イエス様の父なる神様の御心を行う人たちこそ、
イエスの家族、新しい家族、神の家族ですよと、
イエス様はこれらの文章の中で語っているわけなんですね。
ただね、ここで誤解していただきたくないのは、
クリスチャン信仰を持ったからといって、
憎しんをないがしろにしていいということじゃないんですね。
理想は、やはり憎しんである家族ともうまくいって、
そして、後でも出てきますけど、神の家族である教会、
クリスチャンとの関わりもうまくいけば一番いいわけなんです。
それが維持できることには越したことないんですね。
でもその上で、私たち、イエス様を信じる人たちには、
新しい家族として、神の家族が与えられているわけなんですね。
その新しい家族の中に、イエス様を信じた人は招き入れられている。
そしてその一つの形として、教会があるわけです。
それがまた今このように、世界中に広がっているわけなんです。
このようにですね、神様の言葉、聖書の言葉に聞き従って、
神様の御心を行って、前もイエス様が言った、
互いに愛し合い、使い合う。
そのような神の家族として、私たちお互いもですね、
そして教会もこれから歩んでいければと願っております。
それでは最後に、イエス様が新しい家族について言及した言葉を引用して終わりにしましょう。
ルカ8章21ですね。
イエスに母上と兄弟方がお会いしたいと、外に立っておられますという答えが、お知らせがあった。
これはイエス様が十字架にかかる数年前の出来事ですね。
イエス様の家族が、母マリアや兄弟が面会に来たという知らせがあった。
しかしイエスは、その人たちにこう言われた。
ここからだけ読んでみましょう。
私の母、私の兄弟たちは、神の言葉を聞いて行う人たちのことです。
このように、神を信頼し、神の言葉に従い、神の家族として使い合い成長していくお互いであればと思います。
お祈りします。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様が十字架の上で苦しみを受けられました。
その時に、四人の女性たちがイエス様に従い、またイエス様の御言葉をいただきました。
どうぞ私たちが心を痛める時、辛い思いをする時に、イエス様の側に行くことができますように。
また、目には見えませんが、神なるイエス様が共にいて、私たちを助けてくださる、そう信じることができるように導いてください。
その中でどうか、神様の言葉、聖書の言葉を通して、私たちを励ましてください。
私たちには、神の家族という新しい家族も与えられました。
どうぞ私たちが互いに使い合い、また愛し合いながら、神の家族として成長し、
また人々に、神様に使えていくお互いでありますよう、どうか導いてください。
お願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは一分だけその場で黙祷して、神様の言葉を考える時間としましょう。