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#319 心に響く3つの約束 26/3/29
2026-03-29 30:37

#319 心に響く3つの約束 26/3/29

ヨハネ-31からの礼拝メッセージ。2026年3月29日録音。

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サマリー

本メッセージは、ヨハネ14章25-31節に基づき、「心に響く3つの約束」としてイエス様が弟子たちに残された約束を解説しています。まず、父によって遣わされる助け主、聖霊が常に共にいて教え、導いてくださるという約束。次に、イエス様が父のもとへ帰ることを弟子たちも喜ぶべきであり、それは神の御心を悟り受け入れる愛の表れであるという教え。最後に、世の与えるものとは異なる、イエス様ご自身の平安が与えられるという約束について語られています。これらの約束を通して、私たち一人ひとりが神との平和を体験し、聖霊の助けを味わいながら歩むことの重要性が強調されています。

はじめに:心に響く3つの約束
それでは、朗読いたします。 ヨハネ14章25節から31節。
これらのことを私はあなた方と一緒にいる間に話しました。 しかし助け主、すなわち父が私の名によってお使わしになる聖霊は、
あなた方にすべてのことを教え、私があなた方に話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
私はあなた方に平安を残します。 私の平安を与えます。
私は世が与えるのと同じようには与えません。 あなた方は心を騒がせてはなりません。
ひるんではなりません。 私は去って行くがあなた方のところに戻ってくると私が言ったのをあなた方は聞きました。
私を愛しているなら私が父のもとに行くことをあなた方は喜ぶはずです。 父は私よりも偉大な方だからです。
今私はそれが起こる前にあなた方に話しました。 それが起こったときあなた方が信じるためです。
私はもうあなた方に多くを話しません。 この世を支配する者が来るからです。
彼は私に対して何もすることができません。 それは私が父を愛していて父がいのちじられた通りに行っていることを
私が知るためです。立ちなさい。さあここから行くのです。 以上です。今日はこのところから
心に響く3つの約束と題して御言葉からお話をいたします。 皆さんおはようございます。
今日は3月29日、日本で言えば25年度最後の日曜日となりました。
先週の金曜日、東京の桜が満開という宣言が出されました。
しかし花火という言葉がある通り、寒い日、雨の日があって、体重を崩された方もいらっしゃるかと思いますが、
今日はこうやって共に礼拝に集えることを感謝しております。 さて今週は受難集ですけれども、それと少し関わりがある
イエス様の十字架に伴う約束の御言葉を見てまいります。 いつも繰り返しておりますが、今日取り上げているところ
13章からイエス様がおそらく最後の晩餐の席で、 特別説教として語られた御言葉です。
17章まで続いています。 ある学者は、イエス様が十字架にかかる前の言い言だと、
言い言のような言葉だという言い方をしているんですね。 そして今日のことを読んだ方も
繰り返し、あの気づいたと思いますけれども、繰り返しが今日もなされていますね。 13章の頭からとか、ヨハネの1章からずっと見てきた
教えや今しめ、約束が繰り返されているわけですね。 繰り返されている中で、その意味が深まっていく。
それはあたかも繰り返しによって、イエス様が私たちの心の奥深くに大事な言葉を 届けているような感じがするんですね。
皆さん、小さい子供に何か大事なことを伝えたことありますか? お子さんでもお孫さんでも、近所の子でもいいんですけど、どう触れます?
上からこうやって言います? おそらく、よく言うのは、同じ目線に下がって、そして目を見て、そして
相手の心に届くように言葉を言う。 大丈夫だからね、とか。 そのようにイエス様は繰り返しながらですね、
私たちの心に届くような、そんな今しめとか約束を語っておられます。 今日はその中で3つの約束というか、言葉を取り上げていきたいと思います。
約束1:遣わされる助け主(聖霊)
まず最初ですね、1番、使わされる助け主という約束を見ていきましょう。 今日の14、25から26の言葉をもう一度引用いたします。
これらのことを私は、あなた方と一緒にいる間に話しました。 読める方は、ここから読んでみましょうか。
しかし、助け主、すなわち父が私の名によってお使わしになる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、私があなた方に話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
実はですね、先週取り上げなかったんですが、今日のところも同じようなことが繰り返されていて、
聖霊について2つのですね、2つの約束が語られている。
1つは、共におられる神だ、聖霊は。 そして私たちにイエス様の御言葉の意味を教えてくださる、そういう約束です。
まずその、聖霊が共におられる神というところを見ていきたいんですけども、最初のポイントの第一番目としてですね。
イエス様はですね、約束してくださいました。
その先週見た箇所にも同じ約束が書かれていますね。 14章の16から17節、繰り返しますが読んでいますね。
私が父にお願いすると父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでもあなた方と共にいるようにしてくださいます。
この方はあなた方と共におられ、またあなた方のうちにおられるようになるのです。
このイエス様が去った後、イエス様の代わりにもう一人の助け主として、私たちと共に聖霊が来てくださる。
もう一人というのはどういうことですか。 最初の一人はイエス様ですよね。
もう一人私の代わりに助け主として聖霊が使わされる、父によって使わされるということですね。
で、弟子たちと共にいてくださる。 そしてそれはですね、今イエス様を私たちは目に見ることができませんが、聖霊は私たちにとってはイエス様のように共におられる神様だということです。
神が共におられるとはどういうことですか。それは聖霊が共におられる神として、助け主として私たちを助けてください。
ギリシャ語でパラクレートスって言うんですね。助け主。パラクレートス。
第一義的な意味は法廷で弁護士なんです。弁護人。
そして友達の弁護人で、友達としてその法廷で被告を弁護してくださるというニュアンスがあるんですね。
パラクレートスというのはね、パラというのは傍らにという意味なんです。
だから傍らにいてくださる。私たちを弁護したり助けてくださるというのが、助け主聖霊という意味なんですね。
イエス様は先週の歌唱ですよね。こういう約束してましたよね、先週。
私はあなた方を捨てて、孤児にはしません。という言葉。
孤児はね、あの英語でオルファンっていうんですけど、その元となるようなギリシャ語を使われているんですけども、
ここにもですね、聖霊が共におられる神として与えられる幸いが、孤児にはしないよ、見捨てないよという言葉で強調されているんですね。
なぜこんなことが言われているか。
人間の姿をとった神様としてイエス様がおられましたが、人間の姿をとったか故に限界がありますね。
それはいつでも、どこでも、誰とでも一緒にいられるわけではないわけですよね。肉体という制限があるから。
しかし聖霊なる神様というのはですね、難しい言葉で神の偏在というね、偏在、オムニプレゼンスという言葉なんですけど、
神の偏在という語性質からですね、聖霊なる神はいつでも、どこでも、誰とでも一緒にいることができます。
皆さんこの後家帰るじゃないですか。じゃあ今日はあなたの家に行きますよ。
あなたの家に行きませんよというのはないじゃないですかね。私たちが家に帰っても、私たちと共に神がいてくださる、イエスがいてくださるなぜか、聖霊なる神として共にいてくださるからな、という
肉体としての制約を持たないということなんですね。
そして助けなし。
はい、そういうことを聖霊というのは何が幸いかというと、霊なる神としていつでもどこにでもおられる。
また後でもちょっと出てきますけれども、信じる私たちと共に私たちの心の中に住まわれる神、それが聖霊だ。
その幸いをですね、今日の御言葉を通して新たに心に留めていただければと思います。
そしてこの約束の2番目、聖霊の約束の2番目は、聖霊はイエス様の言葉を私たちに教え、その言葉が私たちにとって意味のあるものにしてくださる、という言葉ですね。
このイエス様は聖霊のことを先週見ましたが、真理の御霊、真理の霊と表現しています。
なぜ真理の霊と御霊と表現しているか、それは、今日のところ出てきますが、
あなた方に全てのことを教え、私があなた方に話した全てのことを思い起こさせてくださいます。
簡単に言うと、イエス様の言葉、その真実さとか、自分にとってどんな意味があるかということを、私たちが悟ることができるのは、それは聖霊の働きだということです。
今日取り上げませんけど、今日読んだ箇所にも、何度もですね、やはり、例えば、後で見ていただきたいのですが、29節にもですね、
それが起こった時に、あなた方が信じるためです、とかですね、
後でイエス様が天に帰られた後、この世がまたあなた方が知るためです、ということが繰り返されているわけです。
皆さんね、聖書を読んでいると、聖書の言葉が心の糧として届いてくることがありますよね。
なぜそれが起こるか、それはですね、聖書の言葉が私たちの心に響いてくる、心の糧となるのは、聖霊が働いている証拠なんです。
聖霊がその真理を解き証してくださり、私たちにとって、あなたにとって、意味のあるものとしてくださる。
そのことをですね、今週、聖書に触れるときに思い出しながら、御言葉を読んでみる、そんな週になれば。
そして、ジュラン集が意義深いイエス様の十字架、ジュランの意味を聖霊によって御言葉を通して、さらに知る週になれば幸いだと思います。
約束2:イエス様が去っても弟子たちが喜ぶべき理由
2番目、2番目はイエス様が去ってもということを見ていきましょう。
ちょっと約束とは微妙に違うんですけれども、イエス様が去ってもということを注目していきます。
14章28節でイエス様はこのように言っています。
私は去っていくが、あなた方のところに戻ってくると、私が言ったのを、あなた方は聞きました。
じゃあ、国連で言いましょうか。3、私を愛しているなら、私が父のもとに行くことを、あなた方は喜ぶはずです。
父は私よりも偉大な方だからです。
実はですね、この間から言ってますが、ここで少し難解な言葉を取り上げていきます。
前に言いましたが、なんとなく表面的な意味はわかるけれども、それが一体どういう出来事、何を意図しているんだろうかということを理解するのが難しいというのがですね、リオハネンの福音書の言葉の難しさですね。
この最後の部分。どうしてイエス様を愛する人は、イエス様が父のもとに行くことを喜ぶのだろうか。
それをちょっと考えていきたいと思います。
その意味はですね、
失礼しました。
どういう意味かというとですね、そこではですね、見方をちょっと変えて考えなきゃいけない。
見方を変えて。
弟子たちの見方を取り上げていくと。
ここはですね、いわゆるイエス様の視点で考えると、当然イエス様が父なる神様のもとに行くことは喜ばしいことなんです。
イエス様は後でも言いますけど、父のもとに帰れるんだ。
でも弟子の視点から考えるとですね、一緒にいるイエス様がもう自分たちのもとからいなくなってしまう。
それは悲しいことですよね。
そういう意味で、実はですね、イエス様に対する弟子たちの愛がここでは全うされていないというふうに理解できるんですね。
どういうことか。
実はですね、イエス様がこの地上にいるんだけれども、イエス様がこの地上で父なる神様の御心を行いました。
そしてその御心を教えました。
そしてその後どうするかというと、十字架の上で救いを成し遂げて復活して、すべてを終えて、イエス様はご自分を使わせてくださった父なる神様のもとに帰っていく。
ずっとそれを教えてきましたよね、イエス様は弟子たちに。
ずっと弟子たちはそのことを群衆にも言ったこと、自分たちにも語られたことを聞いてきたけれども、簡単に言うとそれを悟っていなかった。
その意味を悟らないで、イエス様は行かないでくださいということばっかり考えていたわけですよね。
別の言い方をしますと、神様を愛する人というのは、神の御心を悟ってそれを受け入れる人ですよね。
神様を愛する人、イエス様を愛する人は、イエス様がこの地上で成し遂げたことの意味とか、イエス様が本当に何をしようとしているか、天に帰っていくということを悟って、それを受け入れている人。
そういう人が神を愛し、イエス様を愛する人だとすると、イエス様が父なる神様のもとに行くことを喜んでいないということは、その人の中に神の愛が全うされていないということになりますよね。
そのことを実はイエス様は言っているんですね。
つまり、もし弟子たちが、イエス様のことを愛して、神の御心を受け入れているのであれば、天地万物が創造される前から、イエス様と父なる神様が共におられたという、その親密な交え合いの中に、イエス様が戻っていくことを喜ぶはずでしょう。
そのことをイエス様は意図しているんですね。
この言葉にはそういう意味があります。
そして、もう一つの点があります。
Cといえばですね、愛とは相手の最善を願うことですよね。
ここで2番目はですね、ここに書いてないんですけども、こういうことに似ていると思うんですね。
皆さん最近あるかな、行き別れになった親子が再会するテレビ番組とかよくあるじゃないですか。
昔ね、戦時中に大陸に置き去りにされた子どもが、日本なり現地なりで実の親と会うと涙ながらにそれを喜ぶわけでしょ。
それをテレビで見て私たちも感動するわけじゃないですか。
そういう親子の感動、再会を感動するように、イエス様が親密なる父なる元に帰っていくことを、イエス様を愛している人も共に喜ぶ。
そういう感覚を言っているんじゃないかと思うわけなんですね。
イエス様が地上の障害を得て、父なる神の元に帰っていく。本当に良かったと思える。
ちょっとレジュメとか原稿にないんですけども、さらにそうしたら今度イエス様の代わりに聖霊が贈られてくるんだ。
そのことを悟って喜ぶはずだとイエス様が言ってるんですね。
このような2番目のイエス様が愛する父の元に帰っていくことを、イエスを愛する弟子たちも喜ぶべきだということを、この言葉で意味していると覚えておいてください。
ここから何が学べるかなって私考えました。これはもしかしたら私の試験かもしれませんが、
時として私たちは信仰とかイエス様が自分にとってどれだけ役に立つのか、ご利益があるのかということだけで、もしかしたら信仰生活を考えてしまうことがいつの間にかないのかなと思うんですね。
そういうことはなかなか皆さんないかもしれませんが、そういう視点だけで私たちが信仰生活を送っていたら、やはり健全な信者としての愛みを送ることは難しいと思うんですね。
ですから私たちはイエス様の言葉の意味を知って、神様の御心を悟って、受け入れることが必要だ。
あえて言えば先週言ったように、ただ何か良くしてもらうだけじゃなくて、イエス様の忌ましめに従っていく。
御心を悟って、その御心の道に自ら身を捧げていったり受け入れていく。
自分を捧げたり、神の御心を受け入れるという、そういう信仰的な態度も必要なのではないかと、試験かもしれませんが思いました。
ここでやはり大事なのは、私たちがそのように神の御心を悟って受け入れるという信仰の態度を持つことができる。
それはやはり聖霊の働きだ。
肉の重いに囚われずに神の御心に生きようと私たちを戒心させる、決心させるのも助け主、聖霊の働きだということをこの機会に覚えておきたいと思います。
約束3:イエス様の平安
3番目、最後、イエス様の平安ですね。
ちょっと長いんですが素晴らしい約束なので読んでみましょうか。
14章の27節、私はから読んでみましょう。
私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私は世が与えるのと同じようには与えません。
あなた方は心を騒がせてはなりません。
ひるんではなりません。
これも大変有名と言いますかね、よく知られた約束の御言葉だと思いますが、ここから少し見ていきたいと思います。
ここではですね、お気づきかと思いますが、14章の冒頭の言葉が繰り返されていますよね。
あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさいという。
心を騒がせるなという言葉が繰り返されていると気づいたと思いますね。
ここでですね、ちょっと難しいです。出しますけどね。
このあなた方は心を騒がせてはなりませんって繰り返されている心なんですけど、実はですね、この歌詞を読むと非常に興味深いことがわかるんですね。
まずここでですね、あなた方の心っていうのがヒュモンヘイカルディアって言うんです。
カルディアって心。心軽やかなカルディアって覚えてください。
何が興味深いかというと、このあなた方という言葉はですね、複数形なんです。
あなた方弟子達11人の心。だけども心って言う言葉はね、関数形なんですよ。
つまり何を言っているかというと、弟子達1人1人、私達に向かって語っていますけど、1人1人の心について語っているんです。
つまり私達1人1人の心を指してイエス様が言っているんです。
あなたの心を騒がせないようにしなさい。
イエス様が心を騒がせている私達1人1人に向けて、また心配している弟子達、私達1人1人の心に向かってイエス様が語りかけていると受け止めることができるんですね。
じゅっぱ人から言うのじゃダメ。
そしてその上でイエス様はそういう1人1人の心に向かって語りかけている。
心配している私達1人1人の心に向かって語りかけているんですけども、
もう1つの違いは、ここではその後いのち令していますよね。
信じなさいっていのち令。
でも今日の箇所では約束なんです。
平安を残すから心を騒がせなくていいんだよって約束になっている。
それが素晴らしいんですね。
さらにこの文をよく見ていくとさらに面白いこと、興味深いことがあるんですね。
何が言いたいかというと、私があなた方に与えるよという、イエス様が平安を与えてくださるから確かなんだということが強調されているんです。
どういう風になっているかというと、私の与える平安という、
まず平安という言葉が、エイリエネのテキストにあるんですけど、2回繰り返されています。
与えるという、リドミーという言葉が3回繰り返されているんです。
前も言いましたが、繰り返しは大事な意味ですよね。
与えるよ、私が与えるよ、与えるのと私が与えるのは違うんだよ。
そしてさらに、私はあなた方に私の平安を与えるという、
この私の与える平安というのはですね、エイリエネテンエメエというのはですね、
オメエじゃなくてエメエというのはね、私。他でもない。
私の平安をあなたに与えるよと言っている。
そして、私は与が与えるようにと同じようには与えません。
前の訳ではですね、私が与える平安は与が与える平安と違いますと訳されていますけれども、
ここでもですね、言葉が対比されてイエス様の素晴らしさが強調されています。
この私は与が与えるのと同じようには与えませんというのは、
原作では必要がない主格代名詞の前にも言っていますね。
私。エゴイズムのエゴ。エゴという言葉が加えられているんですね。
私こそがあなた方に平安を与えますよ。
この与が与えるものじゃなくて、私こそが本当の平安を与える。
その平安が偽物ではなくて本物である、その確証としてイエス様の存在が強調されているんですね。
ですから、ちょっとわざと難しいこと言いましたけど、
後でまたこの純容書27節の言葉を味わってみていただきたいんです。
私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。
私は与が与えるのと同じようには与えません。
私こそが本物の平安を与えますという言い方になっているんですね。
すみません、ちょっと熱く語りすぎてしまいましたけどね。
そのようにですね、私の平安を与えます。
私が与える平安はこの与が与える平安とは違いますという言い方でですね、
念を押すように大事なこととしてイエス様が本当の平安を弟子たちに与えてくださるという約束だということなんですね。
その平安の根拠としてイエス様の存在が繰り返されている。
弟子たちにとってはですね、前も言いましたが、仲間の一人のユダがイエス様を裏切っていく。
そして弟子の筆頭とも言えるペテロでさえつまづくと言われる。
そしてイエス様もついに十字架にかけられていなくなってしまう。不安になる。
まあ今日解説しませんでしたけど、いわゆるね、サタンなり敵対者が近づいてくるけど、
私が十字架にかかるのは敵に負けるんじゃなくて、この三十一節にあるように父がいのちじられたことを行うに過ぎないんですよ。
だから十字架が来て私がいなくなっても、心騒がせてもいけないし恐れてもいけませんよ。
そして私はあなた方に平安を残すからだと言っているんですね。
まあなぜこの世の平安とイエス様の平安が違うのか。
私の平安を与えます。私は世が与えるのと同じようには与えません。
いろんな意味があると言われているんですね。
平たく言えばこの世の平安は偽りものだと学者は言いますけれども、
中でもイエス様の平安が本物である一つの証拠というか意味はですね、
十字架によって私たちの罪をイエス様が贖ってくださった。
そしてその結果何が起こったというと、
罪ゆえに敵対していた神様と私たちの関係の中に平安、平和をもたらしてくださった。
全知全能の神様、イエス様と親密な関わりを持っておられた、
天地万物を作られた父なる神様と私たちの間に罪が取り去られてですね、平安、平和が訪れた。
その受難衆からイエス様に向かう今ですね、
私たち一人一人がイエス様の十字架によって神との間に平和、平安が与えられたということを改めて知るときとなれば幸いです。
まさにこのイエス様が平安を与えてくださる。
本当の平安をイエス様が与えてくださる。
平安は平和とも言えるんですけどね。
まさにね、今私たちが聞くべきメッセージじゃないかと思うわけですね。
結び:祈り
どうぞこの受難衆の一週間、このイエス様の与える平安とは何なのかなということを考える一週としていただきたいと思います。
最後にこのことをですね、パウロが言い換えて言っているローマ五章一節の言葉を引用して終わりにしたいと思います。
こうして私たちは信仰によって人を認められたので、私たちの主イエスキリストによって神との平和を持っています。
お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様は勇敢に十字架に向かって行かれました。
それは敵の手に落ちた悪魔に負けた技ではなく、至なる神様の御心を全うする、そのような勇敢な出来事であったことを覚えて感謝いたします。
十字架の贖いによって、私たちは神様との間に平和を与えられました。
また、聖霊を与えていただき、共におられる神様、またあなたの御言葉に生きる幸いを知ることができました。
牢蔵寿難宗の今週一週間、復活に向かうこの一週間、この世が様々な波風があたって不安を私たちにもたらすような一週間、その世の中でイエス様にある平安、御霊の、共におられる御霊の助けを味わいながら、知りながら歩んでいく、そのような衆となしてくださるようにお願いいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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