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#324 正される罪と義とさばき 26/5/3
2026-05-03 29:44

#324 正される罪と義とさばき 26/5/3

ヨハネ16:1-11からの礼拝メッセージ。2026年5月3日録音。(聖書朗読は(1;57)まで、導入は()からです)

聖霊はイエス様に代わって、あたかもイエス様が共にいるがごとく弟子たちを助けるお方なのです。その聖霊がどのように弟子たちを、そして私たちを助けるのかをこれから見ていきます。

この箇所をもとに聖霊が世の誤りを明らかにする「罪と義とさばき」について3つの点からお話をします。(1.罪について()、2.義について()、3.さばきについて())

原稿を読む 正される罪と義とさばき:ヨハネの福音書16:1-11節 | 記事編集 | note

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サマリー

本メッセージは、ヨハネ16章1-11節に基づき、イエスが去ることによって助け主(聖霊)が来られ、罪、義、裁きについて世の誤りを明らかにすることを説いています。聖霊は人々の良心に働きかけ、不信仰という根本的な罪や、神の前での自己の義の誤りを悟らせます。さらに、世を支配する者が既に裁かれたことを示し、イエス様による究極的な勝利と解放を信じて歩むことの重要性を強調しています。

イエス様が去ることの益と助け主の約束
ヨハネ十六章一節から十一節
私がこれらのことをあなた方に話したのは、あなた方が躓くことのないためです。人々はあなた方を街道から追放するでしょう。
実際、あなた方を殺す者が御名、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。
彼らがそういうことを行うのは、父も私も知らないからです。
これらのことをあなた方に話したのは、その時が来た時、私がそれについて話したことをあなた方が思い出すためです。
私は初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなた方と共にいたからです。
しかし今、私は私を使わされた方のもとに行こうとしています。けれどもあなた方のうち誰も、「どこに行くのですか?」と尋ねません。むしろ、私がこれらのことを話したため、あなた方の心は悲しみでいっぱいになっています。
しかし、私は真実を言います。私が去って行くことは、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方のところに助け主はおいでになりません。でも行けば、私はあなた方のところに助け主を使わします。
その方が来ると、罪について、義について、裁きについて世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。
あなた方に失礼しました。以上です。
今日はこのところから、正される罪と義と裁きと題して、御言葉からお話を伝えいたします。
皆さん、おはようございます。
ニュースでもよく取り上げられていますが、大型連休の、昨日から後半に入ったということです。
皆さんここにおられて、礼拝できますことを、その中ですけど、幸いに感謝しております。
天気が少し下り坂になるかと思いますけども、今日なんとか守られておりますね。
今まで、ヨハネの副委員長からずっと学んできました。
13章から、おそらく最後の晩餐と言われている、国別選挙の箇所でした。
そして、先週からは、弟子たちが迫害を受けるというところを取り上げました。
実は、今日のところは、16章4節までは、ある学者に言わせれば、先週話したとおり、前半、先週までのところに入るという節があるんです。
というのは、迫害という繋がりから、先週までに入れているという考えがあります。
その中で、イエス様が、昇天後に弟子たちがこれから証ししていく、先週の続きですけど、その中で迫害が起こり、それが激化していく、いのちも狙われるということまで告げられているわけですね。
そして、イエス様が目の前から、やがていなくなる、私が立ち去ります、何度も言っています。
そして、迫害も強まるという中で、弟子たちが不安におそらく苛まれている。
そんな中で、イエス様は、「いや、私が去っていくことは悪いことじゃないんですよ。あなた方は悲しむかもしれませんが、良いことですよ。」ということで、16章7節のことを語っていますね。
しかし、私は真実を言います。私が去っていくことは、あなた方の益になるのです。
ここで読んでみましょうか。
さて、行かなければ、あなた方のところに助け主はおいでになりません。でも行けば、私はあなた方のところに助け主を使わします。
実はこれは、悲しむあるいは恐れる弟子たちに対して平安を与えるような約束です。
イエス様が天に昇られるからこそ、イエス様に代わって、あたかもイエス様がそばにいるように助け主。
ギリシャ語でパラクレートスと訳されておりますね。別の訳では、援助者とか取りなしてなんて欄外に書いてあります。
その聖霊がイエス様に代わって、あなた方を助けるよという約束が語られています。
ところで、今日取り上げていく箇所は、その中でも、聖霊の関わりの中で8節から11節を取り上げます。
聖霊による「世の誤りを明らかにする」働き
なぜか、実は今までお話したように、聖書のあるいはイエス様の言葉の難しさと関わっているからです。
それは日本人ですから、日本語がわかれば言っていることの意味は表面的にわかります。
でも、それが何を具体的に指しているのかとか、なぜそれが言われているのかという深い意味がわかりにくい。
それがイエス様の言葉とか、聖書を読んでもわからないということにつながるんですね。
そして、今日取り上げていく8節から11節は、実は学者の間でもどういう意味かということでわりと議論されていますし、私もどういう意味かということで思い至らないところがあったので、
特に今日はその8節から11節を中心に、しかも助け主、聖霊が何をするかということを中心にですね、3つのことを見ていきます。
まず最初はですね、罪について世に誤りを認めさせるという部分ですよね。
ちょっと長いんですが、読んでみましょう。大事な歌詞なので。
その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。
主に罪について、誤りを明らかにするというところを最初の点として取り上げます。
その上で、実は罪、義、裁きということの誤りと関わるんですが、この世の誤りを明らかにするという言葉が、実はこの3つの点に関わる重要な言葉なので、
まず、世の誤りを明らかにするとはどういうことかということを簡単に取り上げますね。
この世に誤りを明らかにするという言葉は、元の神訳聖書のギリシャ語では、たった一つの単語で、エレンコウという単語なんですね。
それを実は、学者さんたちも言っているんですけど、英語の聖書は日本語の聖書で、一つの言葉でギリシャ語のように訳すのが大変難しい、不可能な言葉だって言うんですね。
外国語を日本語に訳す壁というのは、一つの言葉にいろんな意味があって、それが特に日本語で一個で表せない場合があって、このエレンコウという言葉もそれに回答します。
もともとの意味は、敵対者を納得させたり論破するために尋問するという意味があるんです。
裁判のときに検察官的な役割をするんじゃないかというわけですね。
一つ前の神観訳聖書第三版では、世にその誤りを認めさせますという言い方をしてあります。
皆さんの聖書の欄外にも同じことが書いてありますね。前の翻訳が反映されています。
世に誤りを認めさせるという言葉で、何とかこの言葉を表そうとしています。
ですから、聖霊がこの世に誤りを明らかにするとはどういう意味かというと、これも学者も言ってるんですけど、実はよく皆さんわかると思います。
聖霊が人々の心の良心に働いて、その良心に働くことによって、過ちを認めさせるという意味です。
あとも出てきますが、実はですね、
それを使徒の働きの二章で、その出来事として、ペトロの説教のところでこんなことを語られていますね。
ペトロがイエス様を十字架につけた人々、神の民だと自称する人々を前に、何の罪もない方を十字架につけたのですと、
まさに聖霊を受けて、聖霊によって語った時の人々の反応がそれに該当する。聖霊のこの人々に誤りを認めさせるエレンコーに該当する言葉ですね。
人々はこれを聞いて、心を刺され、ペトロと他の人たちに兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうかと言った。
心を刺されたということが、このエレンコーという言葉に具体例として、使徒の働きで見ることができるわけです。
これがまず今日の大前提として覚えておいてください。
罪についての誤りと不信仰
その上でですね、今日の最初の点の、罪について世に誤りを認めさせる、どういうことかということを見ていきましょう。
ですから、この聖霊が世の誤りを明らかにする中で、どういうことが起こったかというと、
罪についてどんな誤りが明らかにされたのか、心刺されたのかと言いますと、
もう皆さんお察しのように、イエス様の十字架につけた人々は、まさかそれが罪だということに思い至らなかったわけですよね。
そこが一番わかりやすい言い方です。
しかし、そこには根深い罪と言われる不信仰という問題がありました。
ある学者は、そこの聖霊が指摘した罪の過ちについて、こう考えているんですね。
根本的な罪は、事故を物事の中心に置く罪で、従って信じることを拒否するのである。
これが世の罪の特徴であり、神が御子を世に使わせたのに、世は彼を信じることを拒否した。
そのことこそ、その典型的な実例であるということです。
宗教界に長らく通っていらっしゃる方は、これ難しい言い方をしていますけど、よくわかりますよね。
そしてその学者は、続けて聖霊のエレンコー、心を突き刺す働きについて付け加えているんですね。
聖霊は一人一人の良心に訴えて、罪人であることを告発する。
そうでなければ、人は決して自分が罪あるとは認めないということです。
連休中に罪の話になって、ちょっと重いかもしれませんけど。
でも、今日の歌詞はそれを言っていますからお伝えします。
これは第一備的にはイエス様が言っているこの世。
今まで言ってきたように、神もイエス様のことも本当に信じていないこの世、あるいはそのような人々のことを指していて、
それらの人々にその罪の誤りを認めさせる。
イエス様を神と認めないことこそ、罪なんだということを認めさせるということですね。
皆さんもお察しのことと思いますが、私たちもこのような聖霊の働きを体験することによって、自分の罪ということが明らかになりました。
そして、実は感謝なことにと言っていいと思いますけれども、その聖霊の働きは信じた後も続いているわけですね。
私たちは天に行くまでイエス様と同じ姿になれませんから、罪という問題があるので、聖霊が働き続けて私たちの心を平安に導く。
ふさわしい例えかどうか分かりませんが、先週私は健康診断に行ってきました。
健康診断。
イカメラとか飲んで、バリウム検査をやると必ずポリープが見つかって、最初からイカメラを飲むんですね。
慣れたものでごくんごくん飲んできたんですけど、ポリープがあってそれは悪くないですよって言われて、安心して検査に入ってくるんですけども、
体調不良の時にですね、なんとなく体調不良だけども、その根本原因に病気があるという場合がありますよね。
そして何らかのチェックで病がわかって、それを治療して根治した時に体調が回復する。
同じように私たちの罪というものがはっきり明らかになって、聖霊によって明らかになって、そして十字架のイエス様の元に行く時に私たちの心に平安が与えられるということがあります。
ですから聖霊によって罪についての過ちが指摘されてもですね、不信仰が私たちたとえクリスチャンに指摘されてもそれは悪いことではなくて、イエス様の十字架の福音をもう一回体験し平安を得る。
素晴らしい道だということを今ここでもう一度思い起こしていきましょう。
これが最初のポイントです。
義についての誤りと確信犯
2番目、義について世に誤りを認めさせるということについて考えてみましょう。
じゃあ読んでみましょうか。16章10瀬です。
義についてとは私が父の元に行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。
ここで問題です。皆さん確信犯という言葉どういう意味かご存知ですか。
これは確信犯だ。真面目に使う場合とからかって使う場合がありますね。
確信犯。聞いたことあるでしょ。
日本で一番売れているとされている国語辞典。
新明会賛成堂の新明会国語辞典を調べるとここに書いてあるんですね。
確信犯1番。事故の信念に基づき、正当な行為と信じて行う犯罪。
特に宗教的政治的な義務観、使いのち観に基づくものを指す。
これが本来の意味なんです。確信犯というのは。
信念に基づいて確信を持って犯罪を起こすという意味が第一の意味です。
そして2番目。これ恐らく思い浮かんだ人が多いと思いますけど。
2番目に悪いことであると分かっていながらなされる行為犯罪。
で、この2番は近年の予報で本来は誤用です。間違ってます。
さっきの世に謝りを認めさせるじゃないですけども、本当の意味は1番目の意味です。
ちょっと端休めでこんな話をしてみたんですが、
実はこの確信犯の正しい意味に通じるように、
この10節のところではイエス様は神の民が、自分は神の前で正しいと自負してイエス様を十字架につけた。
彼らの義について、神の前で自分が正しいという過ちについて、
聖霊が認めさせるということを言っているんです。
先ほど少し触れましたけども、
イエス様がそのような宗教的確信、神の前で自分は正しいと思っている人々によって、
罪ある者とされて十字架にかけられました。
それだけではなくて、弟子たちもその後殺されるということを言っているわけですよね。
こんなことをイエス様が言ってましたよね、16章2節で。
実際弟子たちがこうやって宣教を始めたときに、
あなた方を殺す者が御名、自分はそれによって神に奉仕していると思う時がきます。
なぜそう思っているか。自分は神の前に正しいから、正しいことをしているということをイエス様は言っているわけですね。
なんとなく義についての誤りを認めさせるということの意味がわかったと思います。
もう一つの謎は、ではどうしてその理由として、
義について、私は父のもとにあなた方がもはや私を見なくなるからです、というのが関わってくるのか。
これはちょっと難しいことを言うと、
義についてとは、という後にギリシャ語でホティという言葉が繋がっています。
英語でザットという意味で、ザットというのはすなわちとか、あるいは理由を言う場合にザットという言葉を使うんですけれども、
義についての誤りを指摘するとは、なぜならイエス様が父のもとに行き、弟子たちこの世がもはやイエス様を見なくなるから、義についての誤りが正されるという。
そこが私も分からなかったし、皆さん分からないかな、分かればいいなと思って、これから続きの話をしますね。
あなた方もはや私を見なくなるからです、ということが、何で義の誤りが指摘される理由になるのでしょうか、ということです。
実は、それはですね、この世の義の誤りが責められ、それによって良心が差し貫かれる理由として、あなた方弟子たちがイエス様を見なくなると、なぜ言えるか、繰り返しになりますけれども、ここの繋がりを見ていくんです。
今まで、ヨハネの福音書を読んだり学んできた人はピンとくるかと思うんですけれども、イエス様の言葉はですね、こう言い換えることができるんですね。
今までですね、昨日もニュースにありましたがね、冤罪事件があって、有罪とされた人が罪がないとされたというニュースがよくありましたね、昨日もありましたね。
で、冤罪が晴れるということと似ているんですけど、それはですね、犯罪者とされた人が、後に犯罪者じゃないということがわかるんですが、そこまでの間に時間が経ってますよね。
同じように実は、イエス様が犯罪者であるということで十字架にかけられたけれども、イエス様は偽人であるということが、時間が経って明らかになるということとこれが似ているんですね。
もうちょっと見ていきますね。
それはですね、イエス様の言葉をですね、こう言い換えることができるんですね。
罪人とされたイエス様が、実は偽人であったということが、後になって証明されるんですよ、という意味なんです。
後になって。
先ほど言ったですね、あなたたちが私を見なくなって、私が父の元に帰るというのは、これまでヨハネの福音書で学んできた人はわかると思うんですけども、
それは、イエス様が十字架にかかって復活して昇天する出来事を言うわけです。
今まで覚えてますよね。
弟子たちの前からいなくなる、私は去っていきますという中には、イエス様はもちろん十字架にかかります。
そしてかかった後復活して、そして天に帰って、文字通り弟子たちの前からいなくなって、見えなくなってしまうということが、この私は父の元に行き、あなた方はもはや私を見なくなるからですということを意味しています。
じゃあどうしてそのことが、義についての正しさ、正しくないことと関係しているかということを見ていくんですけども、
それはですね、いいですか。私も頑張って説明しますけどね。
イエス様は罪人であって、義でないということで訴えられて十字架にかかったんですけど、イエス様の十字架はイエス様の正しさを表している。
なぜか、それはイエス様が死に至るまで神様に従い通したということで、イエス様の十字架はイエス様は義人だということを表してますよね。
そしてイエス様が復活したことも、天に帰ったことも、実は神様がイエス様を認めたことである。
天の座については別のことではですね、イエス様は父が私に栄光を与えたというじゃないですか。
父が私に栄光を与えたイエス様、それはすなわち罪人ではない。まさに正しい人だ、正しいお方だということが、この十字架復活、昇天によって明らかにされました。
つまりイエス様を罪人として告白した人の過ちが明らかにされました。
それどころか、自分を義人とした人々こそ、イエス様の十字架の上がらないよう必要としている罪人なんですよ。
あなた方の義というのは、神の前では全く意味がないんですよ、というそういう過ちが、イエス様を十字架にかけた人々に対して明らかにされるという意味があるんです。
何人と言っちゃうと、今語弊があるから言いませんけど、イエス様を十字架にかけた神の民がいたでしょ。
彼らは確信犯として、自分たちが正しいからイエス様を十字架にかけたけれども、実はあなた方は神の前で正しくないんですよ。
そしてイエス様の十字架によらずして、あなた方は義とされないんですよ。
そういう過ちが、イエス様が天に帰って、聖霊が使わされたときに、彼らに明らかにされる。
そういう意味が、この私が地震の下に行き、あなた方がもはや私を見なくなるからこそ、義についての過ちが、あるいは正しさが、聖霊によって明らかになるという意味がここにあるわけなんですね。
パウロが、まさにパウロこそ、自分が神の前で律法においてなら、落ち度ないほどのパリサイ人だからパリサイ人だと言ったけれども、
人の旗揚げの中でイエス様にまみれて、自分の罪を悔い改めて、神の前で義となった人がパウロですよね。
パウロはそのことを覚えながら、ローマビトの手紙の中で、神の前で義とされることについて語っていますよね。
ちょっと長いですけど、長い経緯で読んでみましょうか。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリストイエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。
これこそ正しい義についての考えであり、その過ちや正しさが、聖霊によってこの世に人々に、私たちに明らかにされるということを覚えておきましょう。
裁きについてと世の支配者の裁き
最後、これ簡単にいきます。
裁きについて世に誤りを認めさせるだということ。
16章11節を読んでみましょうか。
裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。
これ簡単に言いますね。
この世を支配する者というのは、サタンとか悪魔とか言われている、神の敵対者のことを言います。
そして、これ簡単に言うと裁き、誤った裁きは、イエス様を罪人として裁いたということが誤りでしたよね。
それが、聖霊が来たときに明らかにされます。
さらにですね、この理由として、この世を支配する者が裁かれたからですと続くのはなぜかというと、
イエス様を十字架につけた人々は、ちょっと言い方が誤りあるかもしれませんが、
悪魔にそそのかされて、それをした。
そして何よりも、神の敵にある悪魔が、それを願ってイエス様を十字架にかけた。
神の前での裁きとしての十字架を行って、勝利を得たように見えました。
しかし、実際に十字架の上でイエス様を勝利して、本当に裁かれ滅ぼされたのはサタンだった。
そのことが、聖霊が来たときに、この世にも人々にも明らかになるという意味がここにあるわけです。
サタンについて聖書をいっぱい書いてないですから、あまり語れないんですけど、
本当に世の中、悪しき勢力が蠢いているなんて感じることがあるかもしれません。
でも、究極的にはイエス様にあって勝利が始まっている。
そのことを私たちはこの世において信じて歩んでいく。
これまでの三つの点を見て明らかな通り、必ずしも本当の正義、神の前の正義や正しさがまかり通るとは限らないわけですよね。
自分の自戒を込めながら。
そして、神以外の悪しき力が、勢力が支配しているように思えることがあるかもしれません。
でも、究極的な勝利は十字架と復活によってイエス様によってもたらされて、この世を支配する者も既に裁かれている。
私たちはその勝利に預かっているということを信じていくお互いでありたいと思います。
このことと関連する御言葉を二つ開いて終わりしたいと思いますが、少し難しいんですが、
ヘブル2章の14、15節ですね。イエス様の受肉、十字架でイエス様が死なれたことと、このサタンへの勝利ということが書かれた御言葉です。ヘブル12章14、15節ですね。
そういうわけで、子たちが、神の子たちとされた私たちがですね、みんな血と肉を持っているので、イエスもまた同じようにそれらのものをお持ちになりました。
ここから読みましょうか。
それは死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷として繋がれていた人々を解放するためでした。
そして、このヨハネの福音書でイエス様が言われた約束を最後に見ていきましょう。ヨハネ12章31節ですね。
今、この世に対する裁きが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
まあ、聖霊の導きやイエス様にある勝利、また与えられた罪の許しを信じてですね、歩んでいくお互いであり、証をしていく教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
祈り
天の神様、御名を賛美いたします。
あなたの御言葉は、深く広く私たちの知恵では理解し尽くすことができません。
しかし、御聖霊様の働きによって私たちはあなたの御心を知ることができますから感謝いたします。
罪について、義について、裁きについて、この世にあるいは私たちにその誤りを認めさせ、正しい方へと聖霊様によって導かれることを感謝いたします。
どうぞ私たちを日々の歩みの中で、その聖霊様の幸いの導きの中を生きることができますよう導いてください。
また、どうぞ私たちや教会を通してなされる証が、御聖霊の働きによって、力強い者、人々をあなたのもとへと導く者となりますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは御言葉に応えて、1分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
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