朗読と十字架の意義の導入
それでは、朗読します。
ヨハネの福音書19章28節。
28と小さい数字が頭に降ってあるところですね。
そこからお読みします。
19章28節から37節。
それからイエスは、すべてのことが完了したのを知ると、
聖書が成就するために、私は渇くと言われた。
水ぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、
兵士たちは、水ぶどう酒を含んだ海綿を、
祖父の枝につけて、イエスの口元に差し出した。
イエスは、水ぶどう酒を受けると、完了したと言われた。
そして、頭を垂れて、礼をお渡しになった。
その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、
ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、
その足を追って取り下ろしてほしいとピラトに願い入れた。
そこで兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者ともう一人の者の足を追った。
イエスのところに来ると、すでに死んでいるのがわかったので、その足を追らなかった。
しかし、兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、すぐに血と水が出てきた。
これを目撃した者が、証している。
それは、あなた方も信じるようになるためである。
その証は真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。
これらのことが起こったのは、彼の骨は一つも折られることはないとある聖書が成就するためであり、
また、聖書の別のところで、彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見ると言われているからである。
以上です。
今日は、今朗読した箇所から十字架の三つの意義と題して、聖書をもとにお話しいたします。
みなさん、おはようございます。
昨晩、2時ごろに急に携帯が鳴り、私は枕元に置いていますが、
飛び起きて急いで机の下に潜り込みました。
そんなことがあって驚く夜でしたが、
こうやって共に礼拝が守れることを感謝しています。
さて、今日の聖書の箇所は、イエスが十字架の上でいのちを断たれたというところです。
今年は西暦2026年ですから、
諸説はありますが、おそらくイエスは西暦紀元前7年頃に来たのではないかと言われていますが、
イエスが西暦00年にこの世を歩んだということが基になって、
今は西暦2026年と言われています。
ですから、今から約2000年前にエルサレンのゴルゴタの丘の上で起こったイエス様の十字架、
しかもそのクライマックスであるイエス様が息を引き取る、その場面を少し見ていきましょう。
少し専門的な話になりますが、新約聖書には福音書といって、
イエスの生涯を書いた書物が4種類あります。
そのうちの3つはほぼ同じような書き方をしていますが、
今取り上げているヨハネの福音書だけ、少し変わった視点で書かれています。
そのヨハネの福音書にだけ書いてあることを基に、3つの点から見ていきましょう。
もしイエス様を信じている人であれば、今日見る3つのところから、
何か生活の糧とか信仰の糧になればと願ってお話をいたします。
第一の意義:聖書の成就と完全な贖いの子羊
まず最初の点です。
最初の点は少し難しいですが、
聖書の成就、完全な贖いの子羊というテーマです。
少し長いですが、19章28から29節を読んでいます。
その後イエスは全てのことが完了したのを知って、
聖書が成就するために、私は渇くと言われた。
そこには水分同士のいっぱい入った入れ物が置いてあった。
読める方は、ここの最後の部分だけ一緒に読んでみましょうか。
そこで彼らは水分同士を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、
それをイエスの口元に差し出した。
今日の箇所、また今日の最初の点の大事なことは、
この聖書が成就するという言葉なんですね。
実は、成就という言葉は今日の箇所2回出てきますが、
それも含めて、この福音書を書いたと言われているヨハネは、
4回も今日の出来事で、聖書の言葉が成就したと書いてあります。
これは専門的なことを言いますと、
イエスがいた当時の聖書というのは、旧約聖書です。
旧約聖書の中には、救い主はこういう方ですよ、こういう人が来ますよという預言といいますか、
それを指し示す言葉がたくさんあるのですが、
それがイエスの十字架の上でこうやって実現したのです。
だからイエスは救い主ですよということをヨハネは証言しているわけです。
少し難しいのですが、聖書の箇所をあちこち紹介しますが、
そんなもんだと思って聴いてください。
実はこの場面、イエス様が十字架の上で安い葡萄酒を飲んだというところ、
そこはですね、この言葉は、
4編の22編と69編の2つの旧約聖書の箇所に見ることができるのです。
こうやってですね、ローマの兵隊が、
イエス様が私は化学と言ったので、
この葦の棒の先に海綿をつけて、
そこに浸した安い葡萄酒、
兵隊が飲む安い葡萄酒を飲ませたという出来事です。
そしてですね、それはちょっと4編は後で詳しく見ますけども、
もう一つですね、槍で突き刺したというところが出てきます。
今日の箇所に。
それはですね、こんな場面なんですけども、
それは旧約聖書のゼカリア書というのがあるんですね。
そこの12章10節の言葉が、
その通り実現したというんですね。
そのイエス様が生まれる数百年前に書かれた言葉を読んでいますね。
彼は、自分たちが突き刺したもの、
私を仰ぎに、独り子を失って嘆くように、
その者のために嘆き、
老い子を失って激しく泣くように、
その者のために激しく泣く。
ここで、自分たちが突き刺したもの、
その私、神を仰ぎ見る、
そして独り子、神の拳に乗って嘆くと言っているんですけども、
この上司だという、そんなことが言われています。
参考までにずっと聞いてください。
その次にですね、
失礼しました。
今日の19章36節のところには、
イエス様の住めがおられなかったという部分が出てきます。
これはですね、実は旧約聖書の出エジプト記の
12章46節の言葉の実現だというんですね。
こんなこと書いてあります。
これは一つの家の中で食べなければならない。
あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。
またその骨を追ってはならない。
ちょっと難しいので簡単に解説しますが、
出エジプトというね、
エジプトから紀元前約4000年頃に、
イスラエルの民が脱出しました。
モモ世の話が有名ですよね。
その時に行った過越の祭りというのがあるんですけれども、
その時にですね、
罪を贖うための子羊を一犬一犬ほふりなさい。
そしてその羊をほふった時に、
いくつか決まりがあって、
その骨を追ってはいけませんよ。
それが罪の贖いの子羊なんですよ。
そしてあなた方は、
エジプトに下った災いから免れますよ、
ということがあります。
で、実はそれは、
イエス様が十字架の上で死ぬということは、
この子羊以上に、
完全に私たちの罪を神の前で償う、
羊よりも完全な生贄だということが示されている。
そのことを指すために、
エジプト紀の子羊とイエス様の出来事が、
骨が折られないところで結び合わされて、
語られているんですね。
イエス様が完全な過越の、
罪を贖う神の子羊だ、
ヨハネの1章36節には、
ヨハネとかバブテスマのヨハネが、
イエス様が来た時に見よ、
世の罪を取り除く神の子羊だ、
その言葉がここで実現したということですね。
そしてですね、
このようにですね、
繰り返しこの聖書を書いた、
イエスの弟子ヨハネは、
こうやってイエスの十字架の時にですね、
旧約聖書の救い主を指し示す言葉が、
常々実現したんですよ、
ということを書いているわけです。
そして、この前に出しませんでしたけども、
あ、そっか、ここに出すか。
今日読んだ箇所の19章35節でですね、
著者ヨハネは自分のことをこう書いているんですね。
ヨハネはこんな人だろうといろんなイメージなんですけども、
ヨハネは自分が書いたことについてこう書いているんですね。
それを目撃した者が、
このイエスを証しているのである。
その証は真実であるその人が、
あなた方も信じさせるために、
真実を話すということをよく知っているのであるといって、
この福音書を書いたヨハネは、
自分のことをこうやって推薦しているんですね。
見たから私の書いていることは、
信頼に値するよと言っています。
そしてそれに加えてヨハネは、
こうやって旧約聖書の救い主の預言が実現しているから、
イエス様は本当の救い主だということを、
聖書の言葉を根拠にですね、
こうやってとうとうと語っているわけです。
イエス様の十字架は呪いの十字架ではなく、
また敵にはめられた失敗ではなくて、
天地万物を創造された、
まことの神が計画した救いの計画が、
こうやって実現しているんですよということを、
聖書をもとにヨハネは語っているんですね。
ちょっと私たちと関係あることに触れます。
特にクリスチャンな方、知ってほしいんですけども、
私たちの信仰生活もですね、
聖書の言葉を根拠にするときに、
さらに確かなものになりますね。
私たちの信仰の拠り所は聖書なんです。
聖書の言葉を土台とするならば、
私たちの気持ちが揺らいだりですね、
あるいは人から疑いの根を抱くような働きかけがあっても、
私たちはイエス様の弟子としてしっかり立つことができて、
生きる聖人となります。
聖書の言葉ってね、よく食べ物に例えられるわけですよね。
私、学生時代に日系ハワイ人のですね、
女性の専教師の知り合いがいたんですね。
細身の片手ですね、少しモデルみたいな感じで、
今でいうとGoogleピクセルとかですね、
AmazonのCMに出てきそうな、
ちょっとハワイの人で日焼けした小柄な女性がいたんですけど、
彼女が面白いのはですね、
当時、もう今から40年前から、
食べ物にサプリをとってたんです、サプリ。
で、サプリばっかりとって、
他はですね、お豆腐。
お豆腐とサプリとしか食べないんです。
それで多分3食持ってる。
だからスマートだったんですけど、
ちょっとね、考えてほしいのは、
私たちもサプリと豆腐だけでも生きていけますよね。
でも、ちゃんとご飯を食べないと、
楽しいこともないし、新鮮味もないです。
同じようにですね、聖書の言葉っていうのは、
似たようなことが書いてあります。
簡単に言うと、イエス様は神ですよ、
イエス様はあなたを助けてくれますよ、
ってことが書いてありますけど、
サプリメントのように同じことじゃなくてですね、
手を変え、品を変え、そういう神様の救いが書いてありますから、
私たちは聖書を読む時にですね、
なんかおいしい食べ物を食べて栄養を取るように、
心の糧をですね、新鮮な気持ちで得ることができる。
そのようにも覚えておいてください。
これが最初の点です。
第二の意義:人となられた神としての苦痛
2番目、イエス様の十字架にどんな意義があるのか。
それは、人となられた神としての苦痛を、
イエス様の十字架で味わわれたってことなんですね。
今日の読んだ28、29節でこう書いてあります。
この後、イエスは全てのことが完了したのを知って、
聖書が行受するために、私は渇くと言われた。
そこには水分同士のいっぱい入った入れ物が置いてあった。
じゃあ、ここだけもう一回読んでみましょうか、そこでから3。
そこで彼らは水分同士を含んだ海綿を、
秘俗の枝につけて、それをイエスの口元に差し出した。
実は先ほど少し触れませんでしたけど、
この出来事は旧約聖書の四篇の中に予兆されていると言われているんですね。
その中に、これを見るとあることがわかります。
私は教会に行き始めて40年くらいになりますけど、
イエスの十字架の救いなんて慣れっ子になってしまうんですよね。
イエス様ありがとう。
でも今日のその四篇のことを少し詳しく見ると、
イエス様がどれだけ十字架の上で苦しい思いをしたかということがわかっているんですね。
簡単に言うと尊さがわかるわけです。
この箇所はそれに反映して、
2つの聖書の四篇の言葉を映し出しています。
一つは四篇の二十二篇の十五節という言葉ですね。
ちょっと難しいんですが、読める方だけ読んでみましょうか。
私の力は土器の欠片のように乾ききり、
私の舌は上顎にくっついています。
あなたは私を死の塵の上に置かれます。
これは読んで察しがついた方もいらっしゃると思いますけど、
あまりの苦痛のように喉が渇いているということを指しています。
長島和重さんは今有名ですよね。
あの方は立教高校の野球部でしたね。
彼は今立教高校のラクロス部か何かで、
藤見グランドなのかな?
長島和重さんの時代、私も同じ年なので、
あの時代は運動中水飲んじゃいけないんですね。
今は甲子園とかワールドカップでも飲料タイムがあるじゃないですか。
あの頃は私は水飲んで卓球部だったんですけど、
汗だらだらかいたら顧問の先生にビンタされたんです。
そういう時代に長島和重さんはどうしてたかというと、
グランドの中にヘッドボトルを埋めて、
そこからストローを出して、こうやって地面に這いつくばって、
ストローで水を飲んでいたと話してたんですね。
何かと言いますと、
喉の渇きというのはそれほど辛いわけです。
イエスが十字架に架けられたのは、
今の3月、4月頃、時間帯は大体12時から30時頃と言われています。
ああいう乾燥地帯のエルサレムで、
そういう何の日焼けもない中で十字架に架けられた。
そして後で説明しますが、
呼吸が苦しくなりますから、
まさに上顎に舌がくっつくような激しい渇きを、
イエスが十字架の上で感じていたわけなんですね。
それで、このことで私は渇くという言葉が、
ここに予兆されていると言われているわけなんですね。
そして、その様子をある学者は、
敵に攻め込まれた、
惨めな、
瀕死の状態、
自分の力で自分を救えない、
惨めな姿をこの言葉が表していると言っています。
そしてもう一つの詩編は、
69編の21節だって言うんですね。
読める方だけでいいので、読んでみましょう。
彼らは私の食物の代わりに苦みを与え、
私が渇いた時には酢を飲ませました。
おそらくこのような十字架の下に、
ローマの兵隊が飲む安い葡萄酒があって、
こういうのをつけて飲ませた。
この詩編の元々の意味は、
この詩編を読んだ人は、
神を信じているという上に、
友達から馬鹿にされたというんです。
そしてその馬鹿にされた上に、
食卓、食事というのは最も親しい間柄です。
その食事の楽しい席でさえ、
私を馬鹿にする者は、
ワインの代わりに酢を飲ませた。
二重酔を飲ませるという言葉もありますけど、
そうやって私を侮って酢を飲ませて、
酸っぱい酒を飲ませて、安い酒を飲ませて、
私をさらに苦しめたというのが、
この詩編の元々の意味です。
このところがイエス様の十字架の渇きと、
酢のような安い葡萄酒を飲んだということに
重ね合わされて、
聖書の言葉が実現したと言われているんですね。
十字架はいつも言っていますが、
当時のローマ市の死刑でしたけど、
ローマ市民は十字架で殺してはいけないということを
残酷な刑でした。
実はこれは絵ですけれども、
両腕を固定されて十字架に吊るされると、
胸が圧迫されて息ができなくなるんですね。
そうすると、その苦しみを和らげるために
どうするかというと、足で体を持ち上げて
胸を膨らませて呼吸をするわけなんです。
実は十字架刑というのは、
なかなか死ぬことができなくて、
ある場合は何日も十字架の上で生き延びてしまう。
だけども、ユダヤ人たちは
次の日まで死体を残しておきたくないので、
すねを折って死期を早めてほしいと言ったんですね。
なぜか、このすねを折ると、
このすねで足でこうやってですね、
体を持ち上げて息ができるようにしていましたから、
すねを折ると息ができなくなって窒息死する。
このマレットという大きな金槌で
葦の骨を砕くそうなんですけども、
そうやって足で踏ん張れなくして、
この胸が本当に締め付けられて
死期を早める、とどめをさそうとしたわけです。
イエス様は両脇に犯罪のとめ十字架に付けられましたから、
両脇の犯罪人はまだ生きていたので、
足を折ったけれども、
今日の箇所にあるように、
イエスはもうすでに死んでいたので、
足を折らなかった、
その骨が一つも折られなかった、
ということが書かれているわけです。
イエス様は完了したといって、
自分のいのちというか霊を
父なる神様に差し出した犠牲者として、
みじめに死んだのではなくて、
救い主なる神として、
自らの意思を持って、
自分のいのちを神に差し出して、
救い主としての罪の危ないを
全うしたわけなんですね。
だから、完了したといったわけです。
ちょっと長い話になってしまいましたけども、
先ほども言いましたが、
教会に長く通っていると、
私たちはイエス様の十字架の危ないに
慣れっこになってしまいますよね。
でも、今話したように、
イエス様がどれほど体に、
そして心に苦痛を味わわれたのか、
そのことが詩篇の描写、
そして当時の十字架の様子を
丁寧に見ることによって
わかってくるわけです。
そこに私たちの免れた罪の重さ、
そしてイエス様が私たちのために
いのちを投げ出してくださった
愛の尊さということを
改めて知ることができるのではないでしょうか。
そして、イエス様に感謝の念を
お捧げすることができるのではないかと思います。
第三の意義:私たちの苦しみへの共感
では最後。
三番目、イエス様の十字架の域には
私たちの苦しみへの共感ということがあります。
先ほど読んだ詩篇二十二辺、
これは救い主の苦しみを歌った詩篇と
言われていますけども、
その最後の部分にこんな言葉があるんですね。
主よ、あなたは遠く離れないでください。
私の力よ、急いで私を助けてください。
私は御名を私の兄弟たちに語り継げ、
海主の中であなたを賛美しましょう。
最後に、助けを求める祈りと
救いを確信する祈りが
記されているわけです。
この詩篇の二十二辺と六十九辺に関してですね、
ある学者はこのような解説をしているんですね。
そこにはですね、
心身の苦難にあえぎ、
救いを願う信仰者の
祈りの模範が書かれているんですね。
そしてその学者はですね、
この詩篇の中で祈っている人を
彼と表現して、
こう解説しているんですね。
信仰は、
信仰生活を送っていると
思いがけない災いや
避けられない苦しみの中で
試される。
理由もわからないまま敵に囲まれ、
無力で惨めに見える自分は、
自分を彼、
その祈り手は見つめる。
その現実を生まれた時から
自分を思ってくださった
我が神に静かに訴え、
ただ救いを切に求め続けている。
そういう姿がこの二つの詩篇、
特に二十二辺に書かれているんですね。
まあ、
敵に囲まれているという
敵という言葉をですね、
私たちの試練とか苦難と
言い換えることができるんじゃないかと思います。
まさにですね、この詩篇の言葉は
十字架のイエス様のお姿なんですね。
まあ、
ここから私たちはですね、
まあ実は、
幸い神様について
さらに知ることができる
良い知らせがあります。
イエス様はですね、
神が人となられたお方なんですね。
皆さん神様というと
いろんなイメージがあると思いますけど、
神様というとですね、
全知全能ですから、
人間の苦しみなんか知らない、
たっかんしている、
そういうふうに思うかもしれません。
でもイエス様は
人としてこの地に
神でありながら下ってこられたので、
人間の苦しみを
たっかんしたわけではないんですね。
むしろ人として
私たちと同じ苦しみを味わわれた。
そしてその究極の極みが
十字架の苦しみだった。
心においても
体においてもですね、
痛みを覚えたのが
イエス様の十字架だったんですね。
そしてその極限状態まで
追い込まれましたけれども、
それを受け止めて
苦しみの極地の中で
父なる神様に
助けの祈りを
祈りの声を上げたわけなんですね。
そのような人としても
苦しみを味わわれた神であるからこそ
私たちにですね、
救いの手を差し伸べることができる方です。
よく言われているのはですね、
病気をした人と
友になるなんていう
言われ方をしています。
それは病気を経験した人はですね、
その人の痛みが分かるから
一般的に言われていますけれども、
イエス様はですね、
人として私たちの苦しみ
そしてそれ以上の
極限の苦しみを十字架で
味わわれたからこそですね、
一言ではない。
我がこととして
親身になって
助けの祈りを捧げる
今は見えませんけれども
助けの祈りを捧げる私たちにですね、
親身になって
我がこととして
救いの手を差し伸べてください。
それがですね、
救い主イエス様
人として苦しみを味わわれた
イエス様、神なるイエス様だ
ということなんですね。
イエス様はですね、
十字架の上で
これも紫辺の言葉を引用してですね、
究極の苦しみを
こう表現して祈りました。
我が神、我が神、
どうして私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて、
私をお救いにならないのですか。
と、この紫辺の言葉を挙げてですね、
苦しみの祈りを捧げたわけです。
私たちもこのような
神様って本当に私のことを
作ってくださるのかな。
神がいるのに
何でこんな苦しみに遭うんだろうか。
そんな思いを抱くとき、
こう叫んでみたいときにですね、
この十字架のイエス様を
思い出してはいかがでしょうかね。
そして、
そのイエス様が
復活されましたけども、
十字架の上から
私たちに救いの手を
差し伸べてくださる。
そんなことをですね、
信じて歩んでいければと思います。
この繰り返し
引用してきた
紫辺二十二篇。
イエス様の十字架で関わりがある
紫辺二十二篇から最後にですね、
救いの希望となる
言葉を紹介して
終わりたいと思います。
紫辺の二十二篇の二十四節ですね。
ちょっと難しいですけど、
読める方は読んでみましょうか。
まことに主は
悩む者の悩みを
下げすむことなく
厭うことなく
見顔を隠されもしなかった。
むしろ彼が
助けを叫び求めたとき
聞いてくださった。
このように
福祉の中であってもですね、
主なる神様は
イエス様は
助けの手を差し伸べてくださる。
そのことを信じて歩んでいくお互いであり、
教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの
救い主なるイエス様、
あなたのお名前を
褒めたたいます。
あなたは神であられましたけれども、
私たちと同じ
体をもってこの地を歩まれました。
そして十字架の上で
心においても
体においても
苦しみを味わわれました。
それゆえ私たちの苦しみを知り、
我がこととして
私たちに救いの手を
差し伸べてくださる。
そのような救い主であることを
信じて感謝いたします。
どうぞ私たちが
日々の生活の中で
助けを必要とするときに
イエス様を助けてくださいと
祈りながらまた
イエス様が私を助けてくださったと知り
感謝と
また喜びの中を歩んでいくことが
できるように導いてください。
この願いと感謝を
私たちの救い主イエス様の
お名前によって祈ります。
アーメン