1. 牧師のバイブルメッセージ
  2. #329 勇気を持て 26/5/31
#329 勇気を持て 26/5/31
2026-05-31 27:16

#329 勇気を持て 26/5/31

ヨハネー33からの礼拝メッセージ。2026年5月31日録音。

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

このメッセージは、ヨハネ16章31-33節に基づき、信仰者が困難に直面した際の「勇気」について語っています。イエスは弟子たちが散り散りになることを予言し、世には苦難があるものの、イエス自身が世に勝利したことを宣言しました。メッセージでは、信仰者のつまずき、勇気を出すことの重要性、そしてイエスがすでに世に勝利したという約束に基づき、困難に立ち向かうための信仰の視点が3つのポイントで解説されています。最後に、語り手の個人的な体験談を交えながら、弱くてもイエス様が共にいることによる勝利と勇気について語り、聴衆に共に歩むことを促しています。

はじめに:メッセージのテーマと背景
ヨハネンノフクインショー16章31節から33節
イエスは彼らに答えられた。あなた方は今信じているのですか?
みなさい、その時が来ます。いや、すでに来ています。あなた方はそれぞれ散らされて、自分のところに帰り、私を一人残します。
しかし、父が私と共におられるので、私は一人ではありません。 これらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私にあって平安を得るためです。
世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。 私はすでに世に勝ちました。
以上です。今日はこのところから、勇気を持って登山して、御言葉からお話いたします。
みなさん、おはようございます。今日は5月最後の日曜日ですが、もう初夏の陽気です。
31度になるという7月頃の天気。そして、台風も接近して、水曜日には関東にも近づくんじゃないか。
そんな中で暑い日ですが、共に御言葉から学べることを感謝します。
もし暑かったら、エアコンの温度を下げてください。席に立って手を挙げていただければ、どなたか対応していただけますと思いますので、ご自由にお話ください。
さて、今日の最後の箇所、16章33節のこの言葉から話します。
もう一度読みますね。これらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私に会って平安を得るためです。
世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。
とても有名な御言葉をもとに、信仰者の勇気について、3つのことを話します。
ちなみに、しばらく前に見たのは、悲しみがあると、だけど喜びが訪れる。
そして、少しおそらくそれよりも、もうちょっと深刻になって、悲しみよりも深い苦難ということです。
そして、その中で勇気を出せということで、3つのこと。最初はですね、信仰者のつまずきということ。
2番目は、勇気を出しなさいという言葉から、3番目は、すでに世に勝ったという言葉をもとに学んでいきます。
第一のポイント:苦難と信仰のつまずき
1番目、苦難と信仰のつまずきです。33節の前半部分短いですが、読んでみましょうか。
世にあっては苦難があります。
イエス様はですね、この33節でこういうことを言っているんですね。
この世に生きている限り、弟子たちも、そして今の私たちも、苦難は避けられないよと。
クリスチャン生活は楽な道ではないよと告げているようですね。
ここで言う苦難とは、ギリシャ語トリプシスって言うんですけども、迫害などに見られるですね、信仰者に対する外からの敵に関わる苦難を言います。
イエス様はこの直前にですね、今日読んだところですけども、弟子たちにこう告げましたね。
これも読んでみましょうか。
イエス様がこう言ったのはですね、またそのさらに直前のところで弟子たちが、
今私はあなたが、イエス様に対してですね、今私たちはあなたが神から使わされたお方であることを信じますと言った。
その信仰告白を受けてイエス様は弟子たちの離散ということをですね、予告しています。
簡単に言うと、そういう勇ましいことを言っても彼らの信仰は心もとないものなんだということを指摘しているんですね。
この直後に起こる苦難、イエス様の逮捕に直面して、まさに蜘蛛の子を散らすように弟子たちはイエス様を見捨てで逃げ去ってしまう。
そのことをここで予告しているわけです。
そしてその後も弟子たちは繰り返し、その信仰の上に苦難、迫害にありますよとここで伝えているんですね。
先ほども申し上げましたが、ここでいう苦難とは迫害に代表される信仰者に対する敵意ですね。
これは世界遺産にしばらく前登録された、ちょっとしるし刷が良くないですけれども、
潜伏キリシタンの遺産、日本でも有名なキリシタンに対する迫害、それが信仰の遺産として世界遺産に登録されました。
こちらご存知のようにイエス様が逮捕されて弟子たちが逃げる場面の絵ですね。
ある英語の訳では、この苦難がはっきりと迫害、パーセキューションと訳されているんですね。
そのような意味がありますので繰り返しになりますが、
この苦難は迫害をはじめとするクリスチャンたちに向けられる敵意、故に起こる苦しみのことなんですね。
イエス様は別の聖書の箇所で、例えばマルコンの福音書やマタリの福音書でね、弟子たちにこう言ってますよね。
あなた方は私の名のために、私の名のためにあなた方は全ての人に憎まれます。
何を言うかというと、他の聖書の箇所にもあるように、彼らはゆえもなく私を憎んだ。
つまり、キリスト者は何の理由がなくて、ただイエスさんを信じているという理由だけで、
人から辛い目に遭わされたり迫害をされる、そのようにイエス様が語っておられるわけですね。
私たちがもしそんな目に遭ったときに、どうでしょうかね。
イエス様を見捨てた弟子たちのように、そのときに自分の信仰の弱さが露呈してしまうということがあるかもしれません。
あるいは、そういうことが自分の身に降りかかるということを予想したり考えるときに、怖くなってしまうことがないでしょうかね。
臆病になってしまう。
しかしイエス様は、恐れずに帰って勇気を持ちなさいと教えているんですね。
それが2番目です。
第二のポイント:勇気を出しなさい
2番目、勇気を出しなさい。
もう読んでみましょうか。
世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。
信仰の試練を前にですね、怖がる私たちに、あるいはまさにイエス様の逮捕の中で、逮捕と共にですね、
つまずいてしまう弟子たちに、怖くなって逃げてしまう弟子たちにですね、イエス様は勇気を出しなさいといのち令しているんですね。
このね、勇気を出しなさい。私ちょっと考えたんですけども、恐怖心というのはですね、無意識のうちに湧いてくるものですよね。
考えもしないで怖い。
だからイエス様はあえて、勇気を出しなさいといのちじているんじゃないかなと、私は考えるわけですね。
無意識のうちに恐怖心というのは湧いてきてしまう。
実はこの勇気を出しなさいという言葉は、これまでの聖書の中でいろんな役が役出されてきました。
この前の、今日の新改訳聖書2017年版ですけども、前の役では勇敢でありなさいという役なんですね。
あなた方は世にあっては艱難があります。しかし勇敢でありなさい。私はね、その方が好きなんですけども、でもとにかく勇敢でありなさい。
こういう役の幅を見ると、この力強いイエス様の言葉の響きがね、伝わってきますよね。
実はですね、この言葉は勇敢でありなさいというのは、皆さんもしかしたら思い出すかもしれませんが、旧約聖書のある言葉を反映しています。
モーセの後の指導者は誰でした?
ヨシワ。そのヨシワ記の1章9節で言われている、神様がモーセの後継者ヨシワに対して伝えた言葉が反映されているんじゃないかと言われているんですね。
読んでみましょうか。私はあなたにいのちじたではないか。強くあれ、大しくあれ。この大しくあれという言葉ですね。
ちなみにですね、皆さんの好きな文学聖書、文学聖書拡張高くね、訳されていますね。この16章33節の前半、こう訳されています。読める方がんばって読んでみましょうか。
なんじだ世にありては観難あれ。されど大しくあれ。
やっぱりなかなかいい響きですよね。この大しくあれという言葉です。
これはですね、まあ男らしくあれっていう響き以上に、ある改革取れてしまいましたけど、日本で一番売れている国語辞典で調べるとですね、こう定義されているんですね。
OCとはですね、普通なら避けたいと思う危険や困難に勇気を持って立ち向かう様子。
普通なら避けたいと思う困難や危険に勇気を持って立ち向かう様子をOCですね。
その中でイエス様は勇気を出しなさい。まさにヨッシーですね。石森正太郎風のヨッシアですけどもね。
ヨルダンが渡ったヨッシーはイエス様が語っている。
繰り返しますが私たちは信仰の故に試練に直面すると、無意識のうちにですね、恐怖心が湧いてきてしまうかもしれません。
そんな事態を想像するだけで不安になってしまうかもしれないですね。
しかしその時こそイエス様のこの言葉、勇気を出しなさい。勇敢でありなさい。応しかれ。
そんな言葉を思い出す必要があるんじゃないでしょうかね。
最後、私たちを助けるというか、私たちを勇敢にするイエス様の約束を最後見てみましょう。
第三のポイント:勝利の臨在信仰
3番目は勝利の臨在信仰という視点ですね。
じゃあ16章33節最後まで読んでみましょうか。
世にあっては艱難があります。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。
すでに世に勝ちましたということですね。
実はこの33節で2回ですね、世という言葉が出てきますね。
これまでお話ししましたが、ヨハネの福音書では、この世というのはイエス様に敵対するこの世界を言いますよね。
1章11節のところでは出てきますけどね。
この方は自分の国に来たのに、世はこの方を受け入れなかったというところから始まって、ずっとですね、ヨハネの福音書の中では徹頭徹尾、この世はイエス様を受け入れない。
そしてついには十字架につけるところまで行くということを表しています。
実はこの世の背後に支配者がいるとヨハネは言っているわけですよね。この世の支配者、悪魔的存在と言えるでしょう。
この実は敗北に見えた十字架ですね。イエス様の十字架が敗北に一瞬見えるかもしれません。
しかしこの敗北に見えた十字架によってイエス様はビクトリーですね。勝利をもたらした。この世の支配者にイエス様は負けたと思ったけれども勝利をもたらした。
負けるが勝ち、逃げるが恥だがなんていうドラマがありましたけれども、負けるが恥。負けるが勝ちと言われていますが、悪の勢力に打ち負けたと思える十字架が実は勝利の十字架だったということなんですね。
イエス様も私たちもですね、ともすると誤解する人がいるんですが、当時の弟子たちはイエス様の時代の人たちがそうだったんですけど、政治的な力とか武力を用いて神の民を救う、そういうメシアとしてのイエス様を期待して、あるいはクリスチャンもそういう世界を目指さなきゃいけないという誤解がありました。
あるかもしれません。
でもそれはイエス様のあり方とは違います。違いますよね。イエス様は正反対で繰り返しますが、敗北者にさえ見えたわけです。
イエス様は、ヨハネの文章の中でおっしゃいましたね。
読んでみましょうか。
今、この世に対する裁きが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
これはご自分の十字架のことを指して、まさにもうこの世を支配する、世を支配する悪しき者が追い出されるんだという十字架の勝利をここで宣言しているんですね。
そしてイエス様の十字架の死、身体をもって死んで犠牲を捧げることによってイエス様が勝利した。
悪しき勢力に勝利したということを、新約聖書のヘブル人の手紙の12章の14、15節でこう言っているんですね。
ちょっと長いんですけど読んでみましょうか。
それは死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷として繋がれていた人々を解放するためでした。
はっきりですね。悪魔をご自分の死によって滅ぼし。
ですから敗北に見えた十字架の死は、実は悪魔への完全な勝利だったということが御言葉からもわかるわけですね。
さらに素晴らしいことは、その勝利者イエス様を信じている私たちも同じ勝利者になるんだということ。
それをですね、この福音書を書いた同じヨハネが当時の教会にあてて書いていますね。
ちょっと長いです。読んでみましょうか。
私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
シンプルな言葉ですけれども、まさに真理ですね。この御言葉をかみしめて、私たちは自分の恐怖と向き合っていくことが必要なんじゃないでしょうか。
こういうわけでですね、私たちの信仰心がイエス様を見せた弟子たちのように、たとえ心もとないと思ったとしてもですね、
この勝利を既にしてくださったイエス様に信頼して、私たちは恐れることなく勇気を持つことができるんですね。
イエス様が共におられて慰められるね、臨済信仰と言っていいでしょうか。
それは慰めという部分があると思うんですけれども、やはりこれを機会にですね、この臨済信仰には勝利という部分もあるんだ。
私たちが共におられるイエス様は、聖霊と同じパラクレートス、慰め主でもあるけれども、同時に慰めるだけじゃなくて、勝利者イエス様が共におられるという、そういう健全な勝利者としての臨済信仰を養うことも必要なのではないでしょうかね。
共におられるイエス様が、世に打ち勝ったお方であるがゆえに、そのイエス様が共におられるがゆえに、私たちは恐れず勇気を持つことができる、そういう臨済信仰ですね。
個人的な体験談:ソ連での伝道と挫折
で、このことを歌った有名な賛美歌ありますよね。
主我を愛す。主が強ければ、我弱くとも恐れはあらじ。
これ、意訳ですけど、英語の歌詞のですね、後半の部分、我弱くとも恐れはあらじというのはですね、
小さな者たち、私たちは主に属している。
だから、小さな者たち彼らは弱いが、主は強い。
こういう深い意味があるんですね。主我を愛す。
よく有名な詩はね、イエス様アイスクリームなの?なんてね、教会学部の子供が言うかもしれませんが、
ここには深い信仰の真髄があってですね。
小さな私たちは主に属していれば故に、私たちは弱いけども、主は強いということですね。
あんまり私ね、自分の話、礼拝でしないんですけども、ちょうどね、ちょっと似た話があってですね。
今、ウクライナとロシアが戦争していますが、かつては一つの国だったわけですよね。
で、実は今からちょうど40年前にですね、私はソ連に行ったことがあるんです。
で、アメリカの団体にですね、クリスチャンの学生と一緒に、まさに選挙旅行に行ったんですね。
今のサンクトペテルブルグ、当時ゲニングラード。
そこから入って、電車でヘルシンキから入って、そしてそこでしばらく過ごした後、
オデッサですね。今、何か名前忘れました。オデッサに行って。
そしてその後、ケイフに行って、スクワに行くという4週間の行程です。
で、当時、いわゆる鉄のカーテンを後ろにあってですね、旧共産圏と言ってましたから、キリスト教は禁止されてたんです。
一応ロシア政権はありましたけどね。
だから、みんなツーリストのふりをして行くんです。聖書隠して、ロシア軍の一人一つ。
それで、聖書隠してツーリストのふりして行って、向こうで、そういうツーリスト担当の人が、私たちの前、女の子だったかな、アンニャさんって女の子がついて、旅したんですね。
だけど私たちは、その現地で、外国人、当時はですね、物がないから、外国人来ると、いろんな物と交換してくれるって言ってね、寄ってくるんですよ。
時計と交換しましょうって言ってですね、ウサギの帽子を持ってきたり。
で、私も交換した、ロシアの旗、家にまだありますけど。
そして交換した友達になって、そこで秘密裏に伝導するんですね。
で、やり方は、友達になったらまた会いましょうって言って、アポイント取って、どっかで会って、そこで密かに冊子を持って行ってね、こうやって伝導するんですけど。
一番最初に行ったレニングラードでですね、そんなことができたんです。
あっ、機会がありました。私と誰かと二人でね、ある男性と知り合って、待ち合わせしたんですね。
で、夏だったから、夜1時でも明るいんですよ。
で、その人に、後で昼間だったかな、会いに行くので、地下鉄乗ろうとしたんです。
そして後ろ見たら、人がついてくるんですよ。パッて見たら隠れる。
だからそれを見て私はですね、非常に怖くなりました。
あの、本当、あの、投獄されたりしてましたからね、当時クリスチャン。
でも本当に、旅の頭でそれに会ってですね、もう私怖くて怖くて、たまらなくなってしまったんですよね。
今でも取り戻されていますけど。
それでまあ、その伝道はあまりうまくいかなかったんですけども、その次にオデッサという町に入って人と仲良くなってとかあったんですけども、
結論から言うとですね、もう何人かと知り合ったんですけども、全部で10人ぐらいのグループで行ったかな、私だけ日本人。
もう怖くて、本当伝道どころじゃなかったですね。
オデッサも海岸にいたらやっぱり、英語の流暢な上品そうなロシア人が寄ってきて話したんですけども、
よく知っている人に言えば、あれだけ英語が流暢な奴はKGBだって言ってですね、襲うのと、みたいなことがあったんですけど。
とにかく、あまり公けできなかったんですけども、当時はどこ行ったかも言えなかったんですね。
で、とにかく怖くなって帰国しました。
で、私はですね、行く前に学生だったから、潔気盛んまで行かなかったけどね、
イエスさんも知らない人たちに福音を伝えに行こう、みたいな感じで、潔気盛んのところもありましたし、
将来牧師になるかどうかっていうそういうね、自分の献身の道を確かめにも行ったんですけど、それどころじゃなかったわけなんですよ。
で、帰ってきてですね、アメリカに行くのに、たくさんのお金を教会からサポートしてもらって行ったんですけども、ほとんど何もできなくて、本当に意気消沈して帰ってきたんです。
で、そんな時にですね、ある話を短くしますと、その後にあったキリスト教の集会に行ってですね、
あの、支援23編の御言葉からね、説教者が、主は私の羊飼い、私は乏しい子ではありません。
あなたは乏しいかもしれませんけど、あなたは乏しくても、イエス様が共にいるから豊かになれますし、そのイエス様から水をもらって、心安らぐことができるんですよ、って御言葉を聞いてですね、
まあ、その後ですね、こんな役立たないクリスチャンだから消えてしまえばいいなって思ってたんですけども、そういうメッセージを聞いたりして、
あ、こんな消えてしまいたいと思うような、私のためにイエス様が十字架に死んでくださったんだなっていうことを洗礼を受けてですね、3年にして、
まあ、初めてっていうのかな、イエス様の十字架の開かないの意味がその時にわかったんですよね。
まあ、そういうことで、まさにこの潔気盛んに信仰遺産だかしにいった私でしたけども、ある面挫折を経験して帰ってきました。
でもそこで、自分が弱くてもイエス様が強いし、そんな私のためにイエス様が十字架にかかったっていう福音がある面、初めてわかりました。
で、まあそんな中だったんですけどもね、実は、オデッサという町で救われたご夫妻がいたりとかですね、その後、
KFでですね、知り合った当時10代の男の子も、まあその時はたまたま私おっかなびっくりでしたけど、イエス様信じませんかと言って一緒に祈る歌ができたんですけども、
そういう全部で、私が直接じゃないんですけども、4人ぐらい救われたんですね。
今になってみると、もしかしたらその人たちは戦争でいのちを亡くしているかもしれないけれども、会っちゃいけませんけども、
あの時福音に触れててよかったんじゃないかなと、40年近く経った今ですね、思い返すことができます。
まあそんな中ですね、本当に自分が弱くても、イエス様が強くて、イエス様が主の御業をなしてくださる、本当の勇気を与えてくださるということを、この御言葉を通してもう一度思い出しました。
結び:勝利のイエスと共に歩む
はい。先ほど引用したヨシアキの言葉ですね、この臨済の勝利の信仰ということが、神様によって告げられていますから、その御言葉を読んで、今日終わりにしたいと思います。
ちょっと長いから途中まで読んでみますね。
私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
告げてみましょうか。
私はあなたにいのちじたではないか。強くあれ、大しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたと共におられるものだから。
共におられる勝利のイエス様を信じてですね、勇ましく歩んでいくお互いでありたいと思います。
天の神様、御名を賛美いたします。イエス様の逮捕を前に、あっけなく離散してしまった弟子たち、その弟子たちに対してイエス様は、本当の勇気の御言葉を語ってくださいました。
私たちは勝利したイエス様が共におられるがゆえに、私たちは弱くても勇気をもって歩むことができる、そのような信仰を授かっていることを感謝いたします。
どうか私たちが信仰の試練の中で、敵意の中で、病の中で、思い患いの中で、不安を抱き恐れるときに、勝利したイエス様が共におられる、そのことを思い出して、勇気をもって歩んでいくことができますよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて、祈る時間を持ちましょう。
27:16

コメント

スクロール