今回のテーマは学びのセンスは磨けるのかっていうテーマですね。
これは難しい。
学びのセンスは磨けるのか。
はい。
超むずいね、このテーマ。
センスっていう言葉自体が結構いろんな使い方があるから、
ただセンスからには能力ではないというか、
学びのセンスっていうところをちょっと切り口に喋っていきたいなみたいなふうに思ってますけど、どうでしょう?
センス。
センスね。
ちょっと待って、これ学びのセンスよね。
だから、学ぶという行為においてセンスあるよねとか、センス鍛えられるのかって話よね。
センスもいろいろあるやん。
洋服のセンスとか、インテリアのセンスとかさ。
まずそこでいくとさ、
この人センスあるなみたいな、別に何かは問わず思った人とか、
場所とかってある?
この人センスあるなぁ。
家具屋さんとか。
家具屋さんね。
家具屋さんとか行って、
なんか狭いのにこういう家具、絶対に選ばへんなっていう家具がバーっと並んでるとかっていう時に、
すごいセンスに溢れた店やったとか、センスな店やなみたいなことは言ったりするから、
比較的ポジティブなイメージで、
人とか場とかに使ってるなっていうのはあるけどね。
これ選べへんなって言ったよ今。
割とレセプター側というか、見る側とのズレみたいなのが、
そのセンスを表してるみたいな。
センスって一方的に来ている人だったりとか、その家具を買い揃えてる人が走ってるのか、
受け手側との関係性の中で立ち上がってんのかっていうと。
めっちゃ関係性の中で立ち上がってんねんけど、
俺の中で立ち上がっただけだと、
多分センスあるって言われへんと思うねんか。
だから間に立ち上がってて、なんとなくしたかい的にも、
センスあるっていう合意があるコミュニティ、もしくはどっかで取れるものじゃないと、
センスあるっていう言葉自体がちゃんといきないから、
だから完全に俺の中で立ち上がるものなのか、向こうの場側が持ってるものなのかというか、ちょうど間なんだけど、
でもこれはもう明らかに誰かが走ってるっていうふうにしないと、
センスあるんだよねっていう俺らの使い方のところがずれちゃうなっていうふうに思うよね。
確かに。誰でもセンスあれちゃうよねではないってことね、受け方によっては。
どのサイズか分からへんけど、何らかの集団内は共同体の中であるよねって、
うんって確かめ合えるものじゃないと、センスあるっていう言葉が成り立てへんなと思うよね。
なるほど。
これ英語でセンスって日本語の使い方やな、多分これ英語で、
テイストとかって言うよね。
いやそういう使い方は使わない。テイストとかって言うよね。
テイストって言うやん。
でも好みとかっていう意味でも使われたりするからね、テイストって。
テイストはね。
英語でセンスってさ、感覚じゃないセンスって。
センスオブワンダーのセンスなんだ。
そう、なんか本能的な感覚みたいな意味で使うとしたら、なんかイントゥイッションとかそういう言葉もありそうだし、
でもそれを今から俺ら日本語で説明しようとしてるわけやから、英語で何て言うねんはちょっともう、
質問として難しすぎるんだけど。
でもこれだから向こう側で使われてた言葉、俺らが日本側であいつセンスあるよねっていう言葉で使ってるってことやもんな。
いやどうかわからん。ちょっとそこの語源は調べてない。
そう、ちなみにこれリスナーの皆さんに言っとくと、どこまで下調べするかって結構僕らの中でテーマにあってですね。
テーマは一応提示されるんですけど、あんまり勉強しちゃってね、なんかあの人によるとセンスってのはこうでとか、
センスの語源ってそもそもみたいなことを語ってもしゃあないので、なんか本当僕らが雑談というか、
ほんまそうですね。
その場で思うことを話せればっていうのが前提にあるんですけど、
僕なんかそのセンスだけで言うと、僕らの友達じゃないですけど、
南先生ね。
四季市女学院大学の今学長している南先生。僕らはみーさんって呼んでるんですけど、
いろいろ仕事とかでご一緒してるんですが、
家に行った時、結構山奥にある家に行った時に、
センスの塊というか、センスあるなーみたいなインテリア。
重機、家具の置き方、選び方みたいな。
山小屋みたいな崖っぷちに建った木造なのかな、木造ではないか。
家に通されて、奥の書斎に通されて、
本だらけ囲まれた部屋の椅子に座ってコーヒー出されて、
インタビューするみたいな時間があって、
この時間センスあるなーみたいな感じが。
時間、体験、時間。
体験もね。
本だったり、椅子の古びた感じだったりとか、コーヒーのマグだったりとか、
全部重なり合って、ちょうどいい感じになってて。
なるほどね。
めちゃくちゃおしゃれな照明とかもちろんあったりするんだけど、
センスあるなーみたいな。
そこでいうと、なんていうのかな。
南先生自身の味が出てるというか、
いわゆるその一流のセレクト格屋とかで、
そんなものがあるかどうか知らないですけど、買い揃えたものではなく、
社会的に当たり前に認知されたおしゃれな家具を集めてるんじゃなくて、
そこはあまり気にせずにというか、
自分の感性と好きを中心に集めていってるっていう感じがあって、
だから世間一般の認知とのズレがあって、
かつその人の人間性みたいなのが滲み出てて、
それがうまく混ざり合っていて、
センスあるなって感じるっていう感じかな。
体験でいうと。
面白い。だから売れてたらあかんねんな。
売れてたらというか、ズレがないとあかんってことやろ。
だから世間一般で一番今流行っているものが、
南先生が全部買い揃えていてそこにあったら、
君はるはセンスあるなと思わなかっただろうって感じな。
だからその人は独自性みたいな、ユニークに確実に出ている。
とかでいうと、学びのセンスっていうところに戻ってくると、
何を学ぶか選ぶみたいなセンスもありそうよね。
確かに。だから今一番流行っているランキング1位のことを、
みんながやってるからっていう理由で学んでたら、
あんまり学びのセンスがあるって感じないだろうっていう感じ。
感じないからダメとは言ってないんだけど、
それは多分センスがあるなっていう状態にはならない。
カウンターだったりオルタナティブだったり、
メインストリームからズレてるところにその人らしさとか、
独自性みたいなところがつながってるときに、
あ、なんかセンスあるな。
しかもそこがあれだよね、さっき俺の話じゃないけど、
他の人がある程度何人か、10人ぐらいが見たとしても、
センスあるなっていう合意が取れるところがあるってことだよな、ポイントが。
そうだと思う。
これむずいな、学びのセンス。
だからこれ学んでおいたら間違いないみたいな、
一般的に認知されているようなテーマはもちろんありつつも、
個人のやっぱり探求の分野、テーマ、領域が明確にあったりとか、
自分の中で人生のアジェンダがしっかりと設定されてるとか、
そういうのが原生になって、何を学ぶかみたいなところに、
自分なりのオリジナリティが生まれてる。
そこはズレとして現れてくるみたいなのがあるかもなって、
今ちょっと話しながら思ってた感じですね。
で、センスがある学び方って何かみたいな、
学びをまずちょっと一回こういうものだよねって置いとかないといけないんだけど、
一旦この会話の中での学びの定義は、
あれにしとこうか。
最近僕が読んでいる、
ティム・インゴルドの教育とは何かっていう本の中から、
ジョン・デュイとかから経負が来ている学びの定義として、
もちろんインプットはありますと。
その上で自分なりに世界と交換、交わって感じるっていう交換をして、
要は世界に働きかけて、
で、世界からもちろんフィードバックがあるので、
それをまた自分の中に取り入れて、
自分が変容していくみたいなのが学びなんだっていう、ざっくり言うと。
だからもちろんいろんな勉強もするし、
本を読んだりとか資料を読んだりして、
自分なりに咀嚼をして、それをベースにして働きかけ、
で、またその結果から学んでいく、
学んでいく、変容を遂げていくみたいなのが一連の学びのプロセス。
だとすると、それをセンスよくやるってどういうこと?みたいな。
学びのセンスで思い浮かぶのは、
今ずっと僕がお手伝いさせてもらっている東京の学堂、
クレイマーキッズっていう学堂のカリキュラムな監修をさせてもらってるんですけど、
そこの学校の校長、学長か、
僕よりも一回り、
一応年齢的には年下の男性の校長なんですけど、
センスあるなって最初からすごく思ったんですよね。
学び方が?
学び方が、要は毎週のように壁打ちしながら、
彼がカリキュラムの原案とかアシリテーションの台本みたいなのを作ってくるのに対して、
僕と壁打ちしながら修正していくっていうのが結構しばらく続いてたんだけど、
一言で言うと吸収が早いというか、
理解が早い、全体像をつかむのが早いみたいなのもあるし、
これ多分思うと、学びのセンスがある人って、
これいろんな要素があると思うけど、
演劇的に考えるのか機能的に考えるのかで言うと、
機能的に考える能力に圧倒的に長けてる人の方が多い気がしてて、
一定の定理を学んでさ、方式みたいなのを学んで、
それを応用していくという行為ももちろんあるし、
でも枝端のいろんな出来事から、
これひょっとしたらこういうことなの?とかさ、
ここで起こったということは、
前に起こったあれもそうだったんだ、みたいな感じで繋がったりとかさ、
とかしながら自分の中で一定の共通の法則みたいなものを見出していくみたいな、
機能的な発想だとすると、
センスあるなって思った理由は、
多分機能的な考え方が強いから?みたいなことをちょっと思ったりして、
だから僕がその1カリキュラムに対してめちゃくちゃ格論で渡したフィードバックみたいなのが、
全然違うカリキュラムでも同じような法則で応用して、
そこがもう最初から手当てされた上でカリキュラムが出来上がってきたりするわけ。
そこをさ、なぜならばこうだから、こうだから、こうだから、こうだから、みたいな感じで持っていくっていうのって、
あんま俺のイメージのセンスと、
それをもう純粋にセンスというか頭がいい、能力が高いみたいな風に思っちゃうんだけど、
センスってもうちょっと感覚的なものっていう風に捉えてるから、
それをその人のフィルター通すとここからこう飛べるとか、
こう応用できるみたいな感じで跳躍しちゃうみたいな、
そういうアナロジーを効かすみたいなところの柔らかさが、
学び方のセンスっていうところと繋がるみたいな感じ。
だからきっちりここでやったことが絶対他にも当てはまるはずだって言ってやってるというよりは、
なんとなくぼんやりここでも使えるんじゃないかっていう、
柔らかく発想飛ばしていけるっていうそんな感覚かな。
なんなんやろな、それってよくそれは見てるからかな?
見てるからだと思う。
なんかその一個一個、
俺が渡すフィードバックとかに、
背景にどういう理念だったりとか、
バックボーンになってる概念があるのかみたいなことまで多分聞こうとしてるんじゃないかなっていうのがあって、
なので少ない材料でなんとなく柔らかく全体像発想できるとか、
転換できるみたいな感じなのかな。
例えばスポーツとかさ、
サーフィンとかさ、
なんかこう学ぶセンスあるよなみたいな、
使い方するやん、あいつなんかこうすぐ掴むなみたいな。
それってやっぱ観察力なんかな?
ああ、そうね。
学ぶ、真似る?
模倣するみたいな。
結ぶのが上手っていうのは結構センスがあるにつながってる感じがあって、
それはやっぱり目がいい、耳がいいみたいなのはめっちゃ影響してそうだよね。
だから目が良くて、観察したものを自分の体と同期させるっていうところがあるやん。
例えばスイングの仕方とかっていうのも見て、
ここがポイントなんだっていうふうにどれぐらいロジカルに分かってるかちょっと置いといて、
多分体重を何パーセントとかっていう感覚じゃないやん、多分。
なんとなく掴んだものを自分の体で再現するみたいなのはセンスあるよなっていう話をしたりもするし、
完全に再現するっていうことを少し超えたところにセンスみたいなのが立ち上がる感じもあって、
教えられたとおりに、見たとおりに再現するみたいなものももちろん出発点として主張りの種があり、
でもちょっとずつやっぱ自分のさっきのあれやけど独自性みたいなものが学び方にも表現の仕方にも出てくるから、
そのさっきの校長も、かといって僕がやってるファシリテーションのやり方って全然違うはずで、
かなりオリジナリティ高く現場での走りをしてるはず。
なので消化を徹底的にするが、そこに自分なりの現場との相互作用で、相互感で、
表現するものを変えられるみたいな柔軟性もあるって感じ。
それはセンスあるな。
あと分かった感出さないよね、センスある人ってさ、学びにおいて。
それこそ市川力さんとか絶対そうやん、あの人めっちゃ学びのセンスあるやんって、
多分国交の2人ではコンセンサス絶対あると思うんやけど、
分かった感絶対出さない。
それがまたいいよなっていう。
いわゆるダニング・クルーガー効果みたいなさ。
何ですかそれは。
あんまり知らない人ほど自分が知ってる気になっちゃう現象みたいな。
あんまり知らない。
平たく言うと、実際に知識度少ない人ほどそれについて知っているって自分で誤認しちゃうみたいな。
やればやるほど知らないことが多いっていうのが自覚してくるから、
知的に健康になっていくみたいなことだと思うんですけど。
それは何かありますよね、学びのセンスの要素として、個人的に思ったりする。
前回の面白がり力っていうものとここら辺で繋がっていくんですかね。
分からなさ自体のところを分かった感じにしないっていうのも本当にセンスと繋がっていると。
あとはインプットの話今してるけど、最初に言った学びの定義で言った、
アウトプットからどうやってフィードバックを得ていくかみたいな話が最後学びの閉じるサイクルとしてあるやん。
これはどうやってセンスというものがそこに現れるんだろうみたいな。
閉じるっていうのは学びを閉じているっていうのは、最後言葉に落ち着けるっていうこと?
とか実践に移して、実践に移した結果からまたフィードバックとして受け取って、
閉じるとかまた戻ってくる。そして無限に循環していくはずなんだけど。
実際に行為する、そして結果を受け取るみたいなところ。
俺そもそも受け取る準備をできてるかみたいなセンスに直結するんじゃないかというか。
話してすごい思い出したのは、外務省時代いろんな仕事やってて、
ある課が提案したものっていろんな決裁書ね、制作決定みたいな。
結構他の部署とかに回されるわけ。これ合議って言うんやけど。
合議って言うんや。
合議っていうのは決裁に回されるの。で、合議して、
他の課の担当官がバーって赤入れたりして、また戻ってくるわけ。
元の課が最後それを最終文書にして上に上げていくみたいなことをするんだけど、
ある日、俺が書いていろいろ合議に回したのが返ってきて最後それを精錬していって文書にしていく中で、
全然違う課合議に出した課の担当が、あれどうなりました僕コメントしたやつ結局って何週間後かに言ってきたのね。
それを聞いた俺のその時の上司が、すげえ優秀な外交官がいるなって言ったの、その人のこと。
それは自分がアウトプットした内容が最後どういうふうに生成されていったのかっていうことを
しっかりフィードバックとして受け取りに行ってるって言ってた。
コメントしたより別に関係ない話なんだけど最後どうなったか。自分のコメントさえ反映されてばいいんだけど。
すごい能動的にその最後のフィードバックを受け取りに来てるっていう行為に対して、すごい優秀だっていう。
それはねちょっと今思いついたのは、ファカルティがさセッション終わった後にさ、ミネルバのね。
ファカルティがセッション終わった後に今日のセッションどうやったかっていうのを振り返って、スラックに投げるじゃん。
そこでフィードバックをちゃんと求めに行くのもそうやし、振り返りの、これは人のスタイルがあると思うんだけど、
その行為自体が自分の学びにもなるし、それを見る人たちにも何らか届いたらいいなっていうふうに明らかに込めながら書いてるなっていうふうに読め取りたりするわけ。
あっこらへんはなんかちょっとセンスっていうとあんまり頑張らない感覚みたいな俺はイメージしちゃうんだけど、
ではなくてそれをこうちゃんと愚直に自分の使った時間を丁寧に言葉にして振り返って場に持ち出していくっていうのは、
これはもう学びのセンスっていうふうにいわゆる閉じるというか受け取るセンスかなっていうふうに思うよね。
こうへいさんとかの、片田こうへいさんとかの振り返りとかすごい特徴あるやん。
あー確かにね。
めちゃくちゃ細かく。
すごく丁寧に振り返るよね。
そのシーンにいたかのように振り返りを僕らも味わえるっていう。
確かに確かに。
ここらへんはなんか本人は無意識的にやってんのか意識的にやってんのかでも、
だいぶ気をつけてやらないとあんなふうな振り返りにならんから一個からの吸収力が違うやろうなとかって思ったりするよね。
確かに。自分がどういうふうに挙動できたかっていう自分への振り返りとそれに対して受講者たちがどんな反応でとか、
この自分以外の状態の振り返りとそれを全体のストーリーとして伝えることで、
見た俺らがどう感じるかみたいなことまで意識してないと、
あの、書き方にならん。
確かに。
そんな感じはしますが、これもだいぶ学びのセンスという。