頼む!来てくれ!!徳島の医師爆増予定ラジオ。
こんにちは、頼む!来てくれ!!徳島の医師爆増予定ラジオパーソナリティ、 徳島県病院局の井内修介です。
この番組では、徳島で働く医師や看護師のリアルな声を通じて、 徳島という土地の魅力と、そこで医療に携わることのやりがいを掘り下げていきます。
地域に根差した医療の現場で感じる手応えや、働く人たちの思いに触れることで、 自分もこんな場所で医療をしてみたいと感じてもらえるきっかけをお届けしていきます。
それでは本日のゲストをご紹介します。
徳島大学病院卒後臨床研修センター長で、 救急集中治療医学教授の大棟淳先生。
そして、卒後臨床研修センター副センター長特任講師で、 循環器内科医師の門田宗幸先生です。
本日はよろしくお願いいたします。
大棟です。よろしくお願いします。
はい、門田です。よろしくお願いします。
ありがとうございます。よろしくお願いします。
お二人は現在、徳島大学病院で若手医師の育成に携わりながら、 それぞれ救急集中治療と循環器内科の分野で診療や教育に取り組まれています。
今回はお二人が医師を目指したきっかけや、学生時代のお話、 そして現在の専門分野を選ばれた経緯について伺っていきます。
それでは本編スタートです。
それではまず、お二人が医師を目指したきっかけから伺っていきたいと思います。
大棟先生、門田先生は、それぞれどのようなきっかけで医師になろうと思われたのでしょうか。
はい、私の場合はですね、兄が外科医をやっているんですけれども、
学生、高校生の時かな、兄がずっと医学を目指して勉強しているのを見ていましたので、
自分もそうするのかなというところがきっかけでしたね。
あと、うちは全然病院関連じゃなくて、親は普通に商売をやっていたんですけどね。
やっぱり商売をやっていると、いいのは自分の好きなようにできるというところがいいところなんですけども、
一方でね、やっぱり商売って結構大変じゃないですか。
うまくいってても、大きな資本というか会社が近くにポンとお店を出したりしたら、かなり一気に窮地に陥るし、
商売ってお客さんの心が離れたら終わりでしょう。
ああいったところで、やっぱり常にありがとうございましたという形でね、
頭を下げて、とにかくそれをずっと続けなきゃいけないというところがあって、非常に苦労が多かったんですよね。
うちの両親は、やっぱりお医者さんというのは人から尊敬されたり感謝されたり、生活面でもある程度安定したというところもあるので、
うちの兄がお医者さんを目指したいと言った時はすごくバックアップしていて、
当然私もそれに従って追いかけていく分に関してはすごく親も応援してくださったので、そこはすごく感謝しています。
なるほど。ありがとうございます。
勝田先生はいかがでしょうか。
僕はですね、初めからあまり医学したいみたいな思ってはなかったんですけど、
実家がですね、薬局をやっていて、薬はとても馴染みが深かったんですね。
実家の作りがですね、1階が薬局で、2階と3階が居住スペースみたいな感じなので、
うちのじいちゃんとかに会いに行こうと思ったら、1階に行ったら遊んでもらえたんですね、お客さんいないときと。
なので、幼稚園とか物心ついた時から結構薬というか、薬局ってこういうもんなんかなっていうのがあって、実際多分違うんでしょうけど。
そういうイメージで、じゃあこれを家業にするんだったら仕事もこれがいいんじゃないのかなと思ってたんですね。
で、中学高校になって受験になるってなった時に、中学校ぐらいかな、いろいろ両親から進路について相談をすることがあってですね、両親の方は医者になれって言ってくるんですね。
なんでやねんと思ったんですね。そもそも家業を継ぐのが親孝行やろと、僕はちょっと押しつけかもしれんけど思ってたんですけど。
でも話聞いてみると、やっぱりお薬は市販薬とか医薬品とかいっぱいあって、市販薬はお客さんが来て、自分の思うようにお勧めすることはできるんだけど、
でも医薬品は処方箋があって、ドクターの先生が決めたものしかやっぱり出しちゃいけないっていう決まりにどうしてもなってますんで。
だからそこが少し早がゆい部分もあったらしいんですね。正解不正解はわからないけれども、でもやっぱり僕だったらこうしたいのにみたいなのが両親の中であったらしく。
だからお前はそれを支持できる側になれみたいなことを言われ、多少ぶつかりましたけど、最終的に。
だって医学部の方が偏差値高いじゃないですか。受験しんどいじゃないですか。
医学部の方が絶対判定いいのに面白い。行きたかったんですけど、いやなんでそんな厳しい道をとか言って、いろいろこうあったんですけど、でも最終的に医学部を目指すようになって、無事になんとかこっちの道に行った
っていう感じですね。
ちなみにうちは姉が一人いるんですけど、姉も同じような感じで、今医師として働いてますね。
ご兄弟でもう医師に無事なれたと言いますか。
そうですね。
ご実家継ぐよりも医者になって親孝行できるっていうのは結果的にそういうふうになったんですね。
ありがとうございます。
ちなみになんですけども、医師目指されたのは中学生、高校生ぐらいの話だと思うんですけども、その時は具体的にこういう専門に進みたいとか、こういうお医者さんになりたいとかがあったわけではなかったですかね。
大人先生いかがですか。
そうですね。まだそんなに医学のことを医療とか医学に詳しくない段階で、なんとなく医学部を目指してましたからね。
もう本当に正直言うと。だから、内科とか外科とか、そんなの全然僕は分からなかった。
ただ、こっちの兄がね、兄は外科医って言ってたんですよ。
そうなんですか。
なんで外科医なのか、ちょっとよく分からないんですけど、すごく理科でね、魚とかカエルとか解剖するでしょ。
ああいうのを見て、うちの兄はね、すごく臓器に興味があったらしいですね。
だから僕は全然分かんなくて、ただ、お医者さんになるのかなっていう感じだった。
あんまり具体的な診療科っていうのは分からなかった。
そうなんですね。ありがとうございます。
長谷先生は。
僕もですね、あんまり、でも外科とかの方がやっぱりドラマとか、あと漫画とかで取り立たされることが多いので、
そういうイメージみたいなところしかなくてですね。
そういう意味では今はですね、オープンキャンパスのやることもすごく充実したりとか、
僕らが学生だった時代よりかは本当に医療が身近に感じられるようなイベントをしてくれてるんじゃないかなとは思いますけど、
スーパードクターKっていう漫画があるんですけどね、ムッキムキのマッチョみたいな。
スーパードクターが難病を治しまくるっていうのがあるんですけど、
あれを暗示か何か知りませんけど、突然買ってこられてですね、ハマって。
それをずっと読んでましたね。
そういうことをするものが医者なんだなっていう漠然と、そんな感じでした。
内科に入るとあの時はもう全然想定はしてなかったですね。
なるほど、ありがとうございます。
では続いて、学生時代について伺っていきたいと思います。
お二人が徳島大学の医学部、医学科出身ということだと思うんですけども、
徳島大学を選ばれた理由とか、その学生時代の思い出があったらお聞かせ願いたいんですけども、いかがでしょうか。
じゃあ応答ですけども、私はね、もともと広島県出身だったんですよね。
広島県の福山市っていうところ。
兄弟の兄はそこから一番近い医学部、国公立大学の医学部で岡山大学に進学して、
私も岡山大学って考えたんですけどね、ちょっと成績が微妙だったんですね。
だからもうちょっと違うところを受けようかなと思って、その時にいろいろ考えたんですけど、
私は温暖な気候が好きだったのと、あと当時瀬戸橋あるじゃないですか。
あれがちょうど開通したぐらいの時期だったんですよね。
もう一気にその時に四国の方に意識が向いて、あともう一つ自分の中でこだわりがあったのは総合大学。
いろんな学部の人と知り合いたいなっていうのがなんとなく漠然とした思いがあって、
一番近いのはおそらく当時香川医科大学っていうのがあったんですけど、そこだと本当に医学部の人たちだけだなと思って、
もう一歩進んで徳島大学だったら総合大学だったということで、徳島大学を目指そうかなっていう形で、
徳島大学に行きました。
ありがとうございます。
加達先生はいかがでしょうか。
僕はあんまりこれといったエピソードは別にない。
徳島出身だったんで、そのまま地元に、外に出て行かないでくれって親も言ってましたし、建前かわかんないですけど、
僕もそんな出る気なかったので、あんまり県外に行ってみたいとか意識を向けること自体がそんなになかったので、
なんで徳島でこのまま生きていくんだなっていうふわっとした意識の下、徳島大学に入ったっていう感じですね。
小中高大とそのまま就職も徳島大学の方にということで。
そうですね。その頃は太刀先生じゃないですけども、赤城大橋も開通してましたし、瀬戸大橋もあったんで。
全然ほんと陸路で出ようと思って寝たんですけど。
ちなみに瀬戸大橋開通する前って船で全部船だったんですか。
そうですね。兵庫とかあっちの方で部活で行くときもまだタコフェリーだったかな。
フェリーだったですよ。
船。
ちょっと逆にフェリーがなくなって橋だけになりつつあるので、徳島に来やすくなったっていうのもきっかけの一つで、ありがとうございます。
学生時代のお話を伺えたらと思うんですけども、
角田先生は大学時代公式野球部所属してらっしゃったと伺ったんですけども。
下手でしたよ。
上手くもなかったです。
野球イコールめちゃくちゃ上手いやつみたいな。ちゃんと下手な人いますからね。
私はソフトボールをやらせてもらっていて、中学高校と。
中学校が野球がなかったんですね、確か。
それでソフトボール部に入って、そのままソフトボールを高校までやって。
ソフトボールに慣れてるので、ボールの大きさとかが全然違うので、
だから大学もソフトボールがあるんだったらソフトボールに入りたいなっていう話をしたら、
その時の勧誘してくださった二校上の当時のキャプテンの方がですね、
倉本にはソフトボールはないって言われて、だから野球に入れって言われて。
そうなんですか。
分かりましたっつって。野球に入って、最初球の大きさが全然違うし、当たったら痛いし。
公式ですね。
だから慣れないことばっかりで最後まで慣れませんでしたけど、それまでも楽しかったですね。
それは良かったですね。
医学部だけのリーグみたいなのがなくてみたいなお話も。
公式野球部と純公式野球部っていうのがあるんですけど、
医学部はなぜか純公式野球部がすごくメジャーなんですよね。
芯は一緒で、表面が革かゴムかの違いで、革が公式野球で、ゴムが純公式野球って言うんですけど、
純公式野球はもう医学部系の大学大体あってですね、純公式野球部が。
なんでいわゆる2C体っていう年1回の医学部系の大学が競い合う大会にも出れるんですけど、
公式野球はものすごく数が少なくて、2C体がないんですよね。
なので工学部とかのリーグ戦ですね、総当たり戦みたいなのが春と秋にあったりするんですけど、
そういうのに無理やり混ぜてもらってですね、ボコボコにされるっていうのは、
だって工学部ですからね、講師・研究児とか混じってるわけなんですよ。
すごいですねそれは。
体格違うし、グラウンドも違う。専用のグラウンドがあるんですね。
設備も、学生室も。
すごいから、そうそうそう。
合同練習した時とかこんな練習メニューいつもやってるのかと思って、
もうついていくのはやっと、1日だけでもうヘトヘトでしたけど。
大学時代野球漬けと言いますか、ずっと野球。
それなりに他のこともしました。
ありがとうございます。大人先生は何か大学時代の思い出とか。
大人 私はね、部活は軟式テニスをやってました。
中高は陸上部だったんですよ。
高校1年生の夏過ぎたあたりからちょっと幽霊部員化はしてましたけどね。
一応運動はしてきてて、大学に入った時ちょうど入学式の土作さんに紛れてね、
最初は僕身長高かったんでバレエ部の方に結構誘われて、
とにかく食事に行こうって言われて、
ただ土作さんだったんで、ついて行ったらバレエ部じゃなかった。
軟式テニス部だ。
大人 全然違うじゃんと思いながら行って、
同じようにもう3人ぐらいかな、4人ぐらい拉致される感じでそのまま連れて行かれて、
当時はね、覚えてるんですけど、倉本のキャンパスの近くにうなぎ屋さんがあったんですよ。
今もあるのかな、うなぎの山口屋っていうのがあって、
そこでうなぎをご馳走になって、なんかちょっと断れるなって。
そういうやり口だったかもしれない。
大人 初心者ですけど大丈夫ですかって言って、
球技の経験はないですよと。
小学校の頃ソフトボール僕もやってたんですけど、それぐらいしかないですよって言ったけど、
全然寒帯寒ゲーだよって言われたんで、
入学式終わった次の週ぐらいに、まだユニフォームは何もなかったけどね、
普通のジャージ着て、練習に行きましたね。
もう適当にラケット買って、もう行ってました。
そうなんですね。
大人 で、6年間ちゃんと続けて、卒業して30年ぐらいやってなかったんですけど、
今、ここ2年前だったかな、医学部の軟式テニス部の顧問やってくださいって。
30年ぶりぐらいで、僕でいいのかって言って。
今、そのご縁で顧問もさせてもらって、
この2年ぐらいかな、ちょっと軟式テニスも年に数回はやるようになりました。
週1では公式の黄色い方のボール打ってますけど、
軟式の方も少し関わりができるようになって、これもご縁だなと思って大事にしてます。
すごいですね。最初の始めたきっかけから、すごい数期な運命というか。
それぞれもいい加減なものなんですけど、勢いだけで。
でも今の顧問まですごいつながってきてるというかね、面白いお話ですね。
仕事する上でも役に立ってますよ。
いろんな方が軟式テニス部出身でね、
仕事する上でも非常に、やっぱりいまだに部活つながりっていうのは大事にしてます。
ありがとうございます。お二人は医学生として勉強する一方で、それぞれ学生生活も楽しんでこられたということがわかりました。
ありがとうございます。
ではここから、現在の専門分野に進んだ経緯について伺います。
お二人とも学生時代から救急集中治療や循環器内科を目指していたわけではなかったと伺っていますが、
現在の専門分野を選ぶことになったきっかけにはどのような経験や出会いがあったのでしょうか。
私はですね、西さん言ってるんですけど、うちの兄は外科に進んだと。希望通り。
で、外科で研修を進めて、岡山大学でしたですけどね。
非常にやっぱり岡山大学の外科っていうのは、今もそうかもしれないけど非常に大きな組織なんです。
同級生ももう十何人とかいて、研修が始まった時からもう本当に競争がすごく厳しいところで、
非常にうちの兄は体力もあるし、気持ちも強い人間なんですけど、
さすがに研修医の時はちょっと初めてですけどね、疲れてるなって僕は思ったんですよね。
で、どう?って聞いたら、外科は本当に花形でね、やりがいのある仕事なんだけど正直きついと。
で、その時に兄が言うにはですね、同じ手術室で麻酔科ですよね。
麻酔科の先生とも当然手術って一緒に仕事するわけですけど、
麻酔科の先生はまだね、手術が終わったら一旦休めると、お家帰れるというのを聞いて、
麻酔科の先生っていうのは、軌道とか呼吸や循環を扱う、わりと旧世紀にそれなりに強くてね、
それで外科よりは仕事が楽そうやと。
だからお前もね、必ずしも外科を目指すのが正解じゃないかもしれないよって。
で、僕なんかは麻酔科も悪くないと思うよって言われたのがもうそれだけですね。
もうそれで麻酔科っていう選択肢がちょうど頭に浮かんで、
で、大学の臨床実証なんかを通じて、いろんな診療科見てきましたけど、
なんとなく麻酔科が一番僕の中でしっくりきたというかね。
で、ちなみに当時、救急科というのはなかったです、診療科として。
だから、私のキャリアのスタートは麻酔科から始まったというところですね。
なるほど、ありがとうございます。
では、門津先生もすみません、お伺いできますか。
もうだいたいぷわっとしてるので、僕の場合はあんまりこれからこうっていうプロセスはなくてですね、
ほぼ行き当たりばったりみたいな感じですね。
3年か4年ぐらいの頃ですかね、きっかけは研究室配属っていうのがあって、
そこで旧第一内科っていうですね、循環器内科の方の全身のなる教室に配属されたんですね。
で、配属されたって言っても希望性なんで僕が行ったんですけど、
でも何も知らずに行ったんですね。
その第一内科っていうのは、いわゆるすごい頭のいい人たちが行くみたいな、そういうイメージのところだったらしく、
なんでお前そんなとこ行ったみたいな、周りに言われましたけど、でも秋があったからとか言って、
何にも情報を仕入れてなかったんですよ。
で、行ったら大変な目に遭いましたけど、
でもそこがきっかけですね、基礎研究っていうですね、
細胞を育てて、そこに薬液とかを使ったりとかしてっていう、いわゆる試験管とかを使った研究を少し触らせてもらったりしてたんですけど、
でもそれはそれとしてやっぱり、現役で医師をやってる人たちがこういうことをやっていて、その人が僕に構ってくれたっていうのが初めてのことだったんですよ。
それまでは講義とそれから実習はありますけれども、
でも日常の勉学の延長で、みんなと一緒に先生方と接するみたいな機会しかなかったもので、
実際にその診療の現場に出てる先生がこういう生活をしていて、こういう考え方をしてるっていうのがほんの触りだけでもわかったんで、
それがすごく印象深くてですね。
それが忘れられなくて、そこの先生ともっかい会って、いろいろ候補の話聞きたいなっていうのがあって、実習の選択とかも循環器を選んだんですね。
循環器に興味があったわけではなくて、興味を持った上の先生がたまたま循環器だったっていう、そんな感じで。
後付けなんですけれども、当然心臓勉強しなきゃいけないですけど、心臓の勉強したらこれ面白いじゃんってなって、ちょうど何か上手いことフィットした感じですね。
それで循環器に乗りました。
なるほど。きっかけはすごいひょんな感じで入っていったかもしれないんですけども。
そうですね。どういうことかわかったことないですね。
最終的に今の循環器ないかっていう専門に進まれて、なるほど。ありがとうございます。
大人先生は、最初の専門は麻酔科医ということだったと思うんですけども、その後は救急集中治療の方に携わるようになったきっかけというのは何かございましたでしょうか。
そうですね。まず麻酔科としてスタートして、私の場合、お医者さんって診療頑張る人とすぐ研究を頑張って、それで評価を上げる人っているじゃないですか。
僕どちらかというと診療したいと思ったんですね。
当時の考えとしては早く診療というか臨床の技術を身につけて、まず一生食っていける技術を身につけたいなと思って、大学院の進学を希望しなくてすぐに市中病院で勤務をしたいと思ったんです。
すぐに外に出たいですってお話をして、当時は医師国家試験の実は試験結果が4月の終わりに発表なんですよ。
僕の時代は5月の連休明けから仕事だったと思えています。そこで医師国家試験合格して、5月1ヶ月未たないくらいの期間を徳島大学病院で仕事した後も、
6月から高松石十字病院というところにすぐに出港に出て、そこで麻酔会としてのキャリアを本格的に始まったのはそこ。そこでは麻酔の手技とあと全身管理のやり方ですかね、その知識をすごく勉強して。
2年間そこにいた後、今度は静岡県の精霊浜松病院っていうところ。そこも麻酔会として出港したんですけど、そこがものすごいたくさん手術をするとこで、ある程度麻酔を専門にする、いわゆる使える人間が4人ぐらい
しかいないのに、年間6,000件とか7,000件ぐらい手術してたんですよ。
一番上の先生、担当に入らなかったので、3人の麻酔会で毎日当番。夜中の休館とか全部やる当番っていうのを3人の先生で回していて、すごく死ぬような思いをしました。
その精霊浜松病院に行ってたときに一番上の部長の先生、国防先生という方なんですけど、その先生に会うとき、やっぱり麻酔会の仕事はすごくやりがいがあっていいんだけど、ただ手術室の中だけの仕事で終わっちゃダ
メだと。
手術室に入る前、それから手術室を出た後、患者さんがどうなってるのかっていうのを勉強して、もっと病院全体を見る視点をつけなさいと。
どうしても麻酔会っていうのは手術室の中だけで終わる人が多いので、君はもうちょっと広い視点を持つために救急外来にもうどっぷりハマってこいっていうか、もう専属で行ってこいってある日突然言われて、もう分か
りましたというしかないですよね。
これで救急外来に行くことになって、そこで半年以上かな、ずっと救急外来でいろんな経験させていただいて、ちょうど救急の研修が終わった頃に、スウェーデン・ハマって3年おったんですけど、もうそろそろ大学に帰
ろうかっていう時期だったんですよね。
それで救急研修終わって、またしばらくちょっと麻酔した後に今度大学病院にまた帰る。一極人事でね。その時に当然麻酔会に帰るもんだと思ったら、ここなんですよ。大学のいわゆる集中治療室、救急集中治療部という
ところに行きなさい。
はあ?ですよね。なんで?って言うけど、当時今の1個前の教授の先生だと大下教授が麻酔科の教授だったんですけど、その教授がおっしゃられたこともまったく一緒です。やっぱり麻酔会っていうのは救世記全般のエ
キスパートになるべきであると。
だから、まあ、手術室の麻酔も大事だけど、やっぱり救急とか集中治療の重症の患者さんの救世記を見れるようになりなさい。で、実際に私はそういう麻酔会を今後育てたいっていうことをおっしゃられてですね。
特にもうこちらの意見がどうのじゃなくて、そのまま救急集中治療部に配属ということになったんですね。そこから2年ぐらいして、初めて教室になったんです。
で、そのときに徳島大学に初めて救急科っていうかね、救急集中治療科というのができて、で、初代の教授の先生が大阪大学から来られた。で、大阪大学が来られたんで、他の麻酔科のICUの先生というか集中治療の
先生がとは、それをきり、護衛店されたというか、市中病院に出て行かれたんですけど、
まあ僕もそろそろ麻酔科かなと思ってたら、君は残りなさい。君は残りなさい。もう君はまだ何も成し遂げてないというかね。やっぱり救急と集中治療の専門医をとること、あと学位をとること、この3つをクリアしたら
君の希望を聞いてあげる。
何でも言いなさい、そのときは。って言われて、私1人残ることになって。で、まあもう1人麻酔科から1人出してくれて、麻酔科から2人。で、当時は呼吸器内科の先生と脳下科の先生と、あと来られた教授の先生だけで
スタートした。
で、それ以来お世話になったというか、抜けることができなくてですね、今に至るという感じです。
はい、もう麻酔科に戻ることはなく。
もう戻ることなく、自分の意思かどうか分かりませんが、もうというような形になりました。
ありがとうございます。
結構麻酔科と救急集中治療とのハイブリッドのモデルケースみたいな感じってことですか、大人先生。
そうですね。やっぱり集中治療専門医の3割ぐらいかな、今だったら3割から4割ぐらいがやっぱり麻酔科の専門医を持っている方、麻酔ベースの方。
で、あと50%ぐらいは救急の専門医を持っている方がベースになっていて、当時で言えばモデルケースと言えばモデルケースだったかもしれないですね。
ありがとうございます。
お二人とも最初から現在の専門分野を目指していたわけではなくて、実際に医療の現場を経験したことや先生との出会いがあったことで、その後の進路につながっていったということがよくわかりました。
ありがとうございます。
大人先生、門田先生、本日はありがとうございました。
今回はお二人が意思を志したきっかけや学生時代の経験、そして現在の専門分野へ進むことになった経緯について伺いました。
では最後に、これから初期研修先を選ぶ医学生の皆さんに向けて、大人先生からは救急集中治療、門田先生からは循環器内科、それぞれの専門分野の魅力を一言ずつお願いいたします。
医学生の皆さんがこれから専門分野を選んでいくときの参考になるようなイメージをいただければと思うんですけれども。
じゃあ私からいきましょうか。
救急集中治療というところですけどね。
最近よく耳にするのは、救急医というのは非常に役に立つとか、頼りになるとか、そういうことをよく言われます。
どうしても救急医がいないところというのは、救急車が来るんですけど、やっぱりどうしても専門性が今高いじゃないですか、医療でね。
内科の先生も外科の先生ももっと細分化していて、専門分野以外の患者さんが来たときにやっぱり診療が苦しかったり、あと断ってよその病院にね、見てくださいというような形で。
とある病院はね、例えば救急車の応受率が50%ぐらいだったところがね、やっぱりうちの医局の先生が行くようになって、それがもう80%90%ってどーんと上がったところもあります。
そうするとやっぱり病院全体が活性化するし、そこに勤めている先生の意識も変わってくると。
やっぱり今の医療って何かと大変というかね、やっぱり苦しい中で、たくさんやっぱり患者さんに来ていただいて、できる限り入院もしていただいて治療を受けてもらって、
社会に医療を届けて初めて役に立つというところがあるんですけど、それの一番の入り口のところをまず見てくれるというところですごく感謝されることが多いなと思います。
で、あともう一つは救急の専門性というところで言うと、重症の患者さんを扱うというところね。
救急というのは臓器を超えて非常に横断的というかね、体全体をザーッと見れるような。
プラスアルファはやっぱりちょっと重症の患者さんにまず最初に触れるというか、タッチすることができて、そういった人たちの対応というところね。
やっぱり救急医がいると病院内で何か重症化した患者さんが出た時に、やっぱりすごく頼りになる。
救急の先生にまず相談してみようという形で、とっても頼りになるし、医療安全的にも本当に助かっているんだよということを、
よくその病院の病院長の先生とかにもね、よくお声掛けいただくことが最近増えたので、救急医療に貢献できるというところが一番の魅力かなと思っています。
ありがとうございます。
加瀬先生お願いします。
この大棟先生のくだりの後でものすごくしゃべりやすいんですけどね。
やっぱり救急機っていう言葉を使っていただいたんですごくしゃべりやすいんですよ。
急病の方が来た時に救命できる術を持っているのは、僕は圧倒的に救急集中治療科と循環機内科だと思っているんですね。
急性期治療でダイナミックにですね、患者さんがほのよくなっていく過程っていうのを実感してみてくれることができるんじゃないかなというふうには、
そういう意味ではやりがいっていうのはすごく肌に感じられる、ビッシビシ感じられるんじゃないかというふうには思いますね。
あと僕、心不全も一応専門分野でやってるんですけれども、やっぱりこの全身、急病人が助かりましたってなった後に、
じゃあ5年50年後を見据えてどういうふうな人生設計を立てていくのかっていうのも内科医としてすごく大事なところではあって、
で、慢性期の5年10年先を見据えた上でも循環機内科の治療ってものすごく大事になってくるんですね。
なのでそういう急病になった方の急性期をなんとか救命するっていうところと、
あとは慢性期の人生を見る、両方できるのが循環機内科のいいところじゃないかなというふうに思います。
あと手に触付きますから、超音波検査とかカーテーテル検査とか、一般の処方箋とかのお薬治療も当然大事なんですけれども、
いざという時にいろんな検査のノウハウを知って自分で実践することができるっていうのは結構大きいことだとは思いますよ。
ありがとうございます。